長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

名探偵ジョン卿、颯爽登場!!……だれ? ~映画『殺人!』~

2023年11月24日 15時15分10秒 | ミステリーまわり
 どもども、みなさまこんにちは! そうだいでございます。
 今年もいよいよ秋深しとなってまいりまして、そろそろこちら山形でも冬支度を進めなければという時期になってまいりました。
 でも、この冬はなんだか雪が少ないのだそうで、ここ数年はちゃんと雪かきをやらないといけない降雪量になっていただけにありがたい話ではあるのですが、ほんとかなぁ。ただ、朝夕の寒さはかなり厳しくなっているんですけどね。

 さてさて今回は、ぽっと思い出したようにやっている、サスペンス映画の巨匠アルフレッド=ヒッチコック監督の仕事をキャリアの初期から振り返っていく企画の第3弾でございます。まだまだ、長い旅路は始まったばっかりよ!


映画『殺人!』(1930年7月公開 104分 イギリス)
 映画『殺人!』(原題:Murder!)は、監督・アルフレッド=ヒッチコック、脚本・アルマ=レヴィル(ヒッチコック夫人)による作品。クレメンス=デインとヘレン=シンプソンのミステリ小説および舞台『ジョン卿登場』が原作となっている。『ゆすり』(1929年)、『ジュノーと孔雀』(1930年)に続く、ヒッチコックにとって3作目のトーキー映画である。
 本作はトーキー映画初期の作品であるためアフレコの製作方法が確立されておらず、作中の音声は全て撮影現場での同時録音であった。そのためヒッチコックは、ジョン卿が自宅でひげ剃りをするシーンで聞いているラジオ音楽として、スタジオに30人編成のオーケストラを入れて録音した。
 ヒッチコック監督自身は、本編1時間1分42秒頃に、殺人が起こった家の前を横切る通行人として出演している。

あらすじ
 旅回り劇団の女優であるダイアナは、仲間の花形女優エドナが殺害された現場で、暖炉の火かき棒を前に呆然としているところを発見された。彼女は事件当時の記憶がなく、疑わしく思った警察は彼女を逮捕し、裁判は有罪となる。しかし、陪審員のひとりで有名俳優のジョン=メニアー卿は、ダイアナの所属する劇団の舞台監督エドワードとその妻の女優ドゥーシーの手を借りて事件を捜査していくことに決める。果たして3人はダイアナを救うことができるのか?

おもなキャスティング ※年齢は映画公開当時のもの
ジョン=メニアー卿   …… ハーバート=マーシャル(40歳)
ダイアナ=バーリング  …… ノラ=ベアリング(23歳)
エドワード=マーカム  …… エドワード=チャップマン(28歳)
ドゥーシー=マーカム  …… フィリス=コンスタム(23歳)
ハンデル=フェイン   …… エスメ=パーシー(42歳)
ゴードン=ドゥルース  …… マイルズ=マンダー(42歳)
イアン=スチュワート  …… ドナルド=カルスロップ(42歳)
マネージャーのベネット …… スタンリー・ジェイムズ=ウォーミントン(45歳)
大家のミッチャム夫人  …… マリー=ライト(68歳)
巡査の妻        …… ウナ=オコナー(49歳)


 前々回の『下宿人』と、前回の『恐喝(ゆすり)』でも触れたように、ヒッチコック監督がその作風をサスペンス・スリラー系に絞るようになったのは、まだまだ後年のことでありまして、イギリス国内で当時有名だった小説や戯曲の映画化を、ロマンスやコメディ、人情ものなどなどジャンルを問わず手がけるエンタメ職人のような多彩な活躍をしていたのが、1920年代のヒッチコック監督でありました。でも、さすがはサイレント時代からのたたき上げと言いますか、どの作品でも「セリフや役者の演技をなるべく使わずに物語の要点を伝える」という映像テクニックを必ず差しはさんでくるギラギラの映像センスは、その非凡さの片鱗をのぞかせていましたね。

 さて、そんなヒッチコック監督にとってのサスペンス・スリラー系映画の第1弾となった『下宿人』は監督作品としては第3作、お次の『ゆすり』は第10作にあたるものでした。そして今回のお題となる『殺人!』は第12作ということで、『ゆすり』と『殺人!』の間には例によって非サスペンス系となる人間ドラマ『ジュノーと孔雀』(1930年)が入ります。この作品は、アイルランドとイギリスの紛争状態の中で崩壊してゆく家庭のさまを描いた重苦しい悲喜劇なのですが、やはり原作が戯曲というのが徒となっているというか、俳優の演技も主な舞台となっている主人公一家の住まいを切り抜いたセット風景も堅苦しく、ヒッチコック監督が得意とする映像イメージの飛躍が観られなかったのが残念でした。でも、『ゴッドファーザー』とか『北の国から』みたいな、ある一家の栄枯盛衰をつづる大河ドラマが好きな人には水が合うかも……いや、ムリか。スケールが小さすぎるんだよなぁ!

 そんな感じで、まだまだサスペンス系に腰を据えていない時期のヒッチコック作品ではあるのですが、今回の『殺人!』は、後年のヒッチコック作品まで視野を広げてもなかなか類似作品の見つからない、非常に珍しい「ミステリー映画」となっております。
 要するに、私の言いたいミステリー映画というのは、本格もの推理小説のように「犯人が誰か?」という部分に作品の主眼を置いてくる作品のことでありまして、そういう意味では過去の『下宿人』は連続殺人事件の犯人なんかそっちのけで「主人公が犯人なのか?」という疑惑から「犯人に間違われた主人公が助かるのか?」というサスペンスに移行していきます。そして『ゆすり』にいたっては殺人事件の犯人が誰かがしょっぱなからわかっている上で、「犯行を知った恐喝犯にゆすられる犯人はどうなってしまうのか?」という、犯人捜しとは全く方向性の違う内容に面白さを見いだす作品になっているのでした。『下宿人』の原作小説は立派な推理小説と言えるんですけどねぇ。

 つまり、こういう部分を見ていますと、ヒッチコック監督は世間で有名なドイルやクリスティといった推理小説家が世に出すミステリー物にはあまり興味が無く、事件の犯人とかトリックなんかどうでもいいから、その事件が巻き起こす悲喜こもごもによって慌てふためき人間性をさらけ出した登場人物が、運命の魔手から逃げ切れるのかどうか、その緊迫感(まさにサスペンス!)をフィルムにおさめたいんじゃ!という姿勢が見てとれるのではないでしょうか。

 となると、今回の『殺人!』の出来上がりが、殺人事件を扱っているセンセーショナルな内容にもかかわらず、なんとな~く「凡庸……」なものになっている理由も納得がいくのです。そうなの、この『殺人!』、中だるみがひどいのよね!

 本作は、劇団内の三角関係のもつれで起きたと思われる殺人事件が物語の機転となっており、ほぼ密室状態の部屋の中で1人の女優エドナが殺され、その傍らで血まみれの凶器と共に、その女優に恨みを持っていると言われているライバル女優ダイアナが呆然と立ち尽くしているという、圧倒的にダイアナが不利な状況が提示されます。そして大方の予想通りに裁判でダイアナは有罪となり死刑判決が下されるのですが、たまたまこの裁判に陪審員として関わっていた有名俳優のジョン=メニアー卿がダイアナの犯行説に違和感を抱き、ダイアナの同僚だった劇団員のエドワードとドゥーシーのマーカム夫婦をワトスン役に従えて事件の私的な再捜査に乗り出すという筋になっています。
 そしてジョン卿による事件現場の検証や事件の関係者からの聞き込みによって、ついにエドナ殺害の真犯人の存在が明らかとなり、ジョン卿の追求によって逃げ場を失った真犯人の劇的な自決をもって本作は解決となるわけなのですが、この映画、ご覧の通りに教科書通りのミステリー作品となっていながらも、名探偵役のジョン卿(とワトスン役の夫婦)にいま一つ魅力がないために、中盤の再捜査のくだりがかなりつまらないものになっているのです。
 これ、決してジョン卿を演じている俳優さんに問題があるわけじゃなくて、とにかく「貴族で有名俳優」というジョン卿の設定が無敵すぎて、彼をサポートするマーカム夫婦をはじめとする登場人物が軒並み全員「ジョン卿さま、ばんざい!」、「ジョン卿さまがそう言うんなら、そうなんだべ!」な思考停止におちいるため、名探偵役がただ自分の考えた説を語り、真犯人が「その通りです……」というだけの単純きわまりないやり取りを約1時間見せられる苦行になってしまっているのです。名探偵の言うことに誰も反論しないし、警察も「余計なことすんな!」と怒らないし、真犯人さえもがすんなり罪を認めてしまうしで、どこにも緊迫感が無いんですよね。
 わかりやすく言ってしまうと、『水戸黄門』の黄門さまが、「ちりめん問屋の隠居です」とか言って身を隠さずに、最初っから堂々と正体を明かして「お前、やったよな!?」と悪代官を追求するようなものなのです。いや、それはそれで話が早くていいんですが、それ、おもしろいかぁ!?

 具体的にジョン卿のキャラクター設定のどこに問題があるのかは、本記事の後半に羅列した恒例の「気づいたことメモ」で挙げさせていただきますが、大きな問題はまとめて2点あり、1つは先ほど言ったように名探偵の社会的な地位が高すぎて抵抗勢力がいないこと。これ、極端な言い方をすればジョン卿の推理が間違っていても通りかねない危険性もあるわけで、そういう意味でもジョン卿は名探偵にはふさわしくないのかも知れません。冤罪、ダメ、ゼッタイ!!
 そしてもう1つの問題は、結局本作におけるジョン卿が真犯人を見つけるために発見した要素が状況証拠ばかりで、決定的な確証が無いこと。そしてそのために窮したジョン卿が「心理的に真犯人を追い詰める」奇策に出てしまったがために、追い詰められすぎて逆に覚悟がガン決まりになってしまった真犯人が、もはや「トラウマテロ」ともいえる暴発的な最期を迎えてしまったことに尽きます。これ、真犯人の疑いのある人間が死亡するという最悪の結果を招く可能性を察知していながらみすみす泳がせてしまったというジョン卿の責任も重大で、真犯人が映画のように自身の犯行を認める遺書を残していなかったら、ジョン卿はどう言いひらきをするつもりだったのでしょうか。ともかく、本作の事件におけるジョン卿の名探偵としての評価は「0点、というか数百人の関係の無い人々にトラウマを植えつけた責任で-300点!!」くらいなのではないでしょうか。ほんと、金田一耕助先生くらいの見逃しでブーブー言ってられませんよね。シャーロック=ホームズのお膝元イギリスにも、迷探偵はやっぱいるんだなぁ!

 そんなこんなで、この『殺人!』は、ヒッチコック監督とミステリー物が意外にも合わないという結果をもたらすものとなっていたと思います。実際に、ヒッチコック監督が本作の次に本格的なサスペンス・スリラー系に着手するのは、実に4年後の第17作『暗殺者の家』を待たなければならなくなるので、監督自身にとってもあまり手ごたえのある出来ではなかったのでしょうね。
 また、のちにブロンドのヒロインが作品のトレードマークになるほど女優さんへのこだわりを見せるヒッチコック監督ではあるのですが、本作におけるブロンド枠のおしゃべり女優ドゥーシーはまぬけなワトスン役の域を出ない活躍しかしませんし、肝心の囚われのヒロイン・ダイアナも、演じたノラ=ベアリングさんがブルネットだからというわけでもないのでしょうが、なんだか無口でナヨナヨっとしたお人形さんといった感じで、『ゆすり』のアニー=オンドラさんの体当たりの魅力に遠く及ばないものになっていたと思います。演技の拙さをカバーするために寡黙な役になっている、みたいな感じなんですよね。

 ただ、ここで本作の良いところをひとつだけ挙げておくのならば、それはやっぱり後半の真犯人役の追い詰められた演技と、大観衆の面前で華々しく迎える最期の緊迫感だと思います。それを食い止めようとしなかったジョン卿の無能っぷりは際立ってしまいますが、よくそんなシチュエーションを思いつくな、という状況での真犯人の末路は、ちょっと昨今の SNS上での公開中継自殺の闇に通じるリアルな恐ろしさもあり、荒唐無稽だと呆れてばかりもいられない普遍性があると感じました。ヒッチコック監督の、21世紀の現代病理への予言か!?
 にしても、真犯人のキャラクターにあの要素を加えちゃうと、絵的には意外性があって面白いのですが「男女の三角関係の一人」としての姿がぼやけてしまうので、そんなに切った張ったのドロドロ関係におちいるほどの人物なのかな?という違和感は残ってしまいますよね。
 そう言えば、容疑者の一人を演じていた『ゆすり』のドナルド=カルスロップさん、ほんとにちょっとしか出てこなかったよ。もったいないな~!

 あと、最後にひとつだけ、映画を観ていて実は本編内容よりももっと気になってしょうがなかった点について。
 上の Wikipediaを元にした作品の概要説明にもある通り、本作で最も有名と言ってもいい「ラジオから聴こえる BGMを録音するためにスタジオにオーケストラを入れた」というエピソードなのですが、これ、当時アフレコ録音の技術が無かったから、そんな手間のかかる撮影方法にしたっていう話じゃないですか。
 でもこの、ジョン卿がラジオ放送を聴いているシーンって、自室でジョン卿が洗面台の鏡に写った自分の顔を見つめながら、殺人事件について推理を巡らせている場面なのですが、ここ、ジョン卿が口をつぐんで黙っている状態で、思いッきり心中思惟をナレーションで語っているんですよ……

 あれ? これ、完全なるアフレコ処理じゃないの? だって、ジョン卿が口を閉じてるのにしゃべってるのよ?

 どういうこと……? 俳優のセリフに関してはアフレコ技術が導入されてたのか? それとも、このシーンだけジョン卿を演じているハーバート=マーシャルさんの声質に近い別の役者さんが近くでしゃべってたのか? はたまた、ハーバートさんがいっこく堂もかくやという神業レベルの腹話術マスターだったのか?
 いやいや、がっつりアフレコしてんじゃん!?みたいな疑問が湧いて、なんかモヤモヤするんですよね……そこらへんのご事情に詳しい方がいらっしゃってたら、教えてちょ~だいませ!


 さてさてそんな感じで、それなりに観られるエンタメ作には仕上げるものの、まだまだ暗中模索の時期が続くヒッチコック監督なのでありましたが、いよいよ次なるサスペンス・スリラー系の作品で、後のヒッチコック作品の定番となる要素の数々を自家薬籠中の物としていくきっかけを得るのでありました。
 サスペンスの巨匠、ついに覚醒か!? そしてその契機となる作品には、あの伝説的個性派俳優のコワすぎる名演が!

 天才監督ヒッチコックの足跡をたどる長い旅路、どうか次回も乞うご期待~。


≪毎度おなじみ~、視聴メモでございやすっと≫
・開幕早々、深夜に響き渡る女性の絶叫に慌てて起きる、劇団所属のエドワードとドゥーシーのマーカム夫妻。外していた入れ歯をはめるエドワードとネグリジェから着替えるドゥーシー、そして2人が建てつけの悪い窓に四苦八苦しながら外をうかがう様子など、映像的にマーカム夫妻のキャラクターを説明するテクニックが惜しげもなくズビズバ投入される。さすがは、サイレント時代からの職人ヒッチコック。
・劇団女優エドナの死体が転がる現場に押しかける野次馬と、エドナの関係者たち。そこら中の物を触るし椅子に座るし、『科捜研の女』の沢口靖子さんが見たら失禁しかねない、現場保存の鉄則からほど遠い状況なのだが、血まみれの火かき棒の近くでミステリアスな沈黙を守る仲間の女優ダイアナの横顔が、現場に不気味な緊張と静謐をもたらす。まさにサスペンス!
・いかにも世間話好きな舞台女優ドゥーシーが、ダイアナのために紅茶を淹れる大家のミッチャム夫人にまとわりついて、聞いてもいないダイアナとエドナ周辺の人間関係をとうとうと説明するくだりが、約1分50秒にわたるワンカット撮影で展開される。こんな状況説明、ふつうにやったらついていけなくなるのだが、しゃべくるドゥーシーを演じるフィリス=コンスタムさんの達者さと、キッチンとダイニングを行ったり来たりするコミカルな2人を追うカメラのせわしなさで、ちゃんと面白く見られるようになっている。演出がいちいち上手!
・この事件の予備審問が行われる裁判所の受付に「本日ダイアナとエドナは出演しません。」という貼り紙が貼ってあったり、独房のダイアナが舞台開幕の拍手の幻聴を耳にしてほほえむ描写があったりと、本作はまさに「劇場犯罪」というべきか、劇団の架空と現実の殺人事件とがごっちゃになった幻惑的な演出が差しはさまれる。ダイアナの不気味な沈黙も相まって非常に引き込まれますねぇ。
・真面目なはずの警察の聞き込み捜査が、よりにもよって劇団が喜劇を上演している最中に舞台袖で行われてしまうもんだから、証人の劇団員たちがひっきりなしに出たり入ったりするわ、トンマなメイクをしていたり男が女装していたりするわで映像的に相当おかしな光景になっているのが、ヒッチコック監督の底知れないサービス精神とチャレンジ魂を感じさせてくれて素晴らしい。ようやるわ……でも、これも出演者にそれ相応の実力がちゃんとないと実現できない趣向ですよね。この時代の映画俳優って、やっぱり基本的に舞台出身ばかりだから基礎がしっかりしてるのかなぁ。
・ヒッチコック監督のサスペンス系映画の前作『ゆすり』で、警察に追い回されてかなりひどい目に遭う恐喝者トレイシーを演じていたドナルド=カルスロップが、本作では舞台でまぬけな警官を演じる劇団俳優イアン役になっているのが面白い。この人もどんな役でもできて上手なんだよなぁ。そりゃ当時のヒッチコック作品の常連にもなりますわ。ちなみにフィリス=コンスタムさんも、『ゆすり』で本作の役とキャラがほぼ同じの、おしゃべりな主婦を演じている。監督、元気な女性が好きですよね。
・エドナ殺害事件の公判で、11人の陪審員の顔がパパパッと連続で映し出されるのが、だいぶ後年の市川崑監督による「石坂浩二の金田一耕助シリーズ」の撮影手法の原型を見るようで興味深い。その中にしれっと、本作での名探偵役のジョン=メニアー卿がまぎれているのも洒落てますね。
・ただ、この陪審員たちのカット、陪審員たちは「12人」のはずなのに、なぜか11人の顔しか映し出されないんですよね……なんで? ヒッチコック監督、忘れたの? その映されなかった1人は、のちの審議シーンで「深夜なのに白昼夢?」という衝撃の天然ボケ発言を炸裂させるおじさんなのだが、特に本作の中で重要な役割を担っているわけでもない。嫌われたもんですね……これ、ほんと、なんで?
・本作は1930年の映画だが、この時点ですでに法廷弁護士がふつうに女性であるあたり、さすがは近代西洋文明の旗手たる世界帝国イギリス(当時)だなぁとうならされてしまう。ちなみに、日本初の女性弁護士として有名な中田正子女史が弁護士になったのは昭和十五(1940)年でした。戦前日本もやりますね!
・公判の場で検事や裁判長が陪審員たちに対して、「容疑者の美しさに惑わされずに公平に審議してください。」と言っていること自体が、逆の意味でダイアナを差別しているという皮肉が、実にヤな感じ! でも、2020年代になっても解決していない問題ですよね、こういうの。
・公判後の陪審員たちの審議シーンも、さすが演劇化もされた作品と言うべきか、議論を通じて事件の内容と争点が整理される効果があって、観客にとっては非常に親切。見やすいなぁ。
・審議によって「12人中、ダイアナ有罪に11人」という圧倒的な状況になったところで、最後まで無罪を主張するジョン卿がおもむろに発言を始めるという流れが、いかにも名探偵登場といった感じでニクい展開である。ほんとこういうあたり、エンタメの教科書ですよね。
・世界にあまた無数の名探偵おれども、本作のジョン卿のように、登場したのっけから「推理の長ゼリフ」を始めてしまう名探偵はそうそういないのではなかろうか。別に事件の核心をついているわけでもないのに「この事件は難しいね」というだけの内容を長々と語る度胸には驚き入ってしまう。しかもド頭にしたり顔で「おれの話、長いよ~♡」と宣言するあたり、尋常でない鋼鉄の精神力である。イギリスの貴族って、こんな無理も押し通せるのか……身分社会、すげぇ!
・とうとうと語ったはいいものの、特にダイアナ無罪説を裏付ける確証も無かったために、案の定11人からミュージカル張りの「有罪でしょ!」合唱コールを浴びせられ、しぶしぶ有罪に転じてしまうジョン卿。証拠が無いんだから当然ですよね……それにしても、ジョン卿に詰め寄る11人の剣幕に、「早く公判終わらせて帰りましょうよ!!」という無言の同調圧力が潜んでいるのは、演出こそ喜劇的ではあるのだが、非常に恐ろしいものがある。これでダイアナの死刑が決まっちゃうんだからね……裁判って、こわい!!
・ダイアナへの死刑宣告という劇的な場面を、法廷内を撮影せずに、片付けをする用務員さんだけがいるからっぽの審議室に法廷から声が聞こえてくる光景で描写しているのが、「あえて映さない引き算の効果」を最大限に発揮していて素晴らしい。いや~ヒッチコック監督、大事なところは王道で行くけど、スキさえあれば挑戦的な撮り方にいくよね! まさに才能ギラッギラ。
・本作の名探偵ポジションのジョン卿は、貴族ということで物腰は非常に紳士的なのだが、人気舞台俳優ということで会う人会う人に尊敬のまなざしで見られるし、ロンドンの中心地ウェストミンスターのフラットで執事にブランデーグラスを持ってこさせる優雅な暮らしぶりだし、捜査の下準備は全部マネージャーのベネットにさせるしで、苦労らしいことをひとっつもしていないのが非常に鼻につく。しかも捜査のためとは言え、自分の舞台は平気で風邪だとウソをついて代役に任せるし、事件の重要人物である舞台監督エドワードの名前を忘れても全然悪びれないしで、しゃべるたびにイヤな感じのところがボロボロ出てくるのがおもしろすぎる。ベネットに、「事件の重要人物をなるべく多く集めてくれ。」だってさ……それ、範囲がガバガバで部下が一番困るやつ~!! 貴族って、そんなにイライラする存在なのか!? 京極夏彦の榎木津礼二郎とは別のベクトルで、近くにいてほしくない貴族探偵だ。
・かつて無名時代のダイアナが自分に売り込んできたことがあるという事実を、ベネットに言われるまですっかり忘れていた疑惑のあるジョン卿。その後でいくら「彼女には苦労が必要だったから追い返したのだよ……」って言い訳をしてもねぇ……もうお前しゃべるな! 捜査に専念しろ!!
・撮影スタジオにオーケストラを呼んで演奏させたというエピソードが有名らしいのだが、ちょっと音が大きすぎてセリフがよく聞こえません……まだまだ、トーキー映画もよちよち期だったのねぇ。
・ジョン卿から呼び出しの電報が来ただけで舞い上がり、精一杯おめかしして出発するエドワードとドゥーシー。それを見てアパートの大家は滞納していた家賃がもらえると大喜び……もはや本人が何も言わなくても周辺の人々が勝手に持ち上げ続けるジョン卿のスターっぷりに、もうお腹いっぱいです。このいかにも芝居めいて安っぽいくだりをよそに、調子はずれのピアノの練習をし続ける娘をちゃんと不協和音として画面の中に配置しているところに、ただのコメディには絶対にしないゼというヒッチコック監督の意地を見た! さすがです。
・しがない一般人のエドワードから見たジョン卿の威光のものすごさを説明する描写として、「ジョン卿の執務室の床のカーペットが異常にふっかふか」という誇張表現を挿入しているのが、悪ノリのしすぎでおもしろい。そんな布団みたいなカーペット、転ぶわ!
・今日明日にもダイアナの死刑が執行されるかもしれないという状況下で、事件の再捜査のためにエドワードを呼びつけたのに、まず菓子をつまみながら自身の芸術論をとうとうと語るところから始めるジョン卿。もうこれ、わざとやってるでしょ。
・自分の思うように世界が回っていると考えていそうな唯我独尊のジョン卿なのだが、無名の舞台監督エドワードにちゃんと仕事を与えた上で本題の事件の話に入っているあたり、相手の欲しいものをしっかり把握した「交渉」の手順を踏んでいて、そこがリアルに貴族っぽい。ただのおぼっちゃまじゃないんだな……
・ヒッチコック作品の恒例として、本作のワトスン役のドゥーシーを演じるフィリス=コンスタムさんもブロンドの美女なのだが、夫のエドワードとの間にすでに娘もいる無名の舞台女優という設定も相まって、エドワードとの所帯じみた夫婦漫才が堂に入った、生活感たっぷりの魅力的なキャラクターになっている。もう一方のヒロインである容疑者ダイアナのミステリアスな感じと好対照でイイ感じ。
・繰り返しになるが、ダイアナが死刑執行されかねない切羽詰まった状況の中でも、捜査の成功を祈るお酒の乾杯は忘れないジョン卿。う~ん、これは貴族階級にしか許されないペース配分ですね!
・ドゥーシーの何気ない発言に、事件解決の糸口を見つけるジョン卿。つまり、事件のトリックにつながる鍵は本作の冒頭でちゃんと観客に提示されていたのだ。こういう伏線回収、ミステリーではあるあるだけど爽快ですよね~。
・やっと捜査を開始するジョン卿とマーカム夫妻。殺害現場の大家のミッチャム夫人が事件当夜に聞いた声が女性のものとは限らないということを、舞台俳優らしいやり方で証明するジョン卿なのだが、それをまともに映像化されるとコントにしか見えない。いや、男の声だってバレバレでしょ……
・本作では本編開始から1時間以上経ってから、ほんとに一瞬だけ画面を横切るカップルの役で出演するヒッチコック監督なのだが、その一瞬の中でくいっと首をひねるだけで、なんかモテそうな雰囲気を醸し出しているのが小憎ったらしい。うまいな~、監督!
・異様にゴテゴテっとした土壁で作られているミッチャム夫人の宿屋や、遠近や水平バランスが狂っている劇場の楽屋まわりなど、現実的な殺人事件の解決を目指す本作の作風に関わらず、美術に超現実的なドイツ表現主義の雰囲気が継承されているのが興味深い。狭いスタジオ内で舞台を組む時の伝統になっていたのかな?
・登場してからこのかた、なかなか好感度の上がるチャンスの無いジョン卿だったが、捜査中に泊まった巡査の家で5人のガk……お子様方と1匹の黒猫にたたき起こされるという苦難に遭ってもニヒルな笑顔で受け流す余裕で、かろうじて人徳がアップするのであった。手がかりもつかめたし、よかったね!
・刑務所でのダイアナとの面会によって、ついに事件の真犯人を確信するジョン卿。必死に真犯人の行方を追うジョン卿たちのセリフを流しながら、映像では独房のダイアナと、日のめぐりによってじわじわと壁にのぼってくる絞首台のシルエットが映し出される映像のモンタージュが、切迫感をあおって非常にいい感じである。センスが冴える!
・ジョン卿は「自身の新作舞台のオーディション」という名目で真犯人をおびき出し、エドナ殺害事件を再現した戯曲の犯人役を演じさせて心理的動揺を誘うという、意地が悪いにも程のある作戦を発動させる。悪魔か!? でも、見事に引っかかって冷や汗みどろになりながらも、徐々に覚悟を決めて落ち着いてくる真犯人の演技が素晴らしい。特にわなわなと震える手の動きがすごいね!
・ジョン卿の極悪非道な心理作戦によって、その日の夜のサーカス公演で壮烈な最期を遂げる真犯人。その悲壮な表情も、死を選んだ場面設定も非常に映画らしく見映えのするものになっているのだが、結局確定的な証拠を掴めなかったジョン卿のひねり出した苦肉の策によって、真犯人の死亡と、その暴発的な公開自殺によって興行と団の看板に致命的なマイナスイメージを負ったサーカス団、そしてそのエグすぎる死を目の当たりにしてそうとうなトラウマを抱えることになった数百人のサーカス観客といった甚大な犠牲の数々をまねいてしまった。ジョン卿、我が国の金田一耕助などまったく比較にならないほどの大失態を何コもやらかしているのですが……この人、ほんとに名探偵か?
・事件解決後、舞台上で恋人同士の役を演じるジョン卿とダイアナというしゃれた終幕を迎える本作。でも、自身の捜査において状況証拠ばっかで決定打に欠けるというマズさから真犯人の逮捕に失敗し、それなのにご丁寧な真犯人の遺書で推理が正しかったことを認められ、挙句の果てにゃ自分にぞっこんの美女をゲットするという、超絶ラッキーマンなジョン卿……こんな他力本願成分ほぼ100% な人、人気でるかぁ!?
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緊急ごめんなさい企画 映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』は稀代の大傑作です!!

2023年11月19日 19時34分21秒 | ゲゲゲの鬼太郎その愛
 どうも、みなさんこんばんは! そうだいでございまする。

 いや~、まいった! 今回はもう、興奮冷めやらぬうちにさっさと記事にしちゃえという内容でございます。
 あの、私、前回の記事の序盤に『ゲゲゲの鬼太郎』の映画最新作の出来が心配だとかなんとかぬかしていたのですが。

全然、杞憂もいいところ! 驚くほど高い完成度の大傑作でした!!

 これ! これを申したくて、取り急ぎ話題にあげさせていただきました。
 ほんと、すごいぞ、この作品は……


映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』(2023年11月17日公開 105分 東映)
 『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』は、東映アニメーション制作によるアニメーション映画。TVアニメシリーズ『ゲゲゲの鬼太郎』第6期(2018~20年放送)の劇場用作品。水木しげる生誕100年記念作品。PG12指定。
 昭和三十一(1956)年の孤立した村を舞台に、製薬会社一族に起こる凄惨な連続殺人事件からゲゲゲの鬼太郎の誕生へと続く、鬼太郎の父(のちの目玉おやじ)と会社員・水木の運命を描く。
 『ゲゲゲの鬼太郎』第6期の世界観を下敷きに、貸本マンガ版『墓場鬼太郎』シリーズ(1960~64年)から 『幽霊一家』、『墓場の鬼太郎』を元に描かれる新たな物語となっている。

あらすじ
 廃刊間近の雑誌の記者・山田は、廃村となった哭倉村(なぐらむら)へやって来た。山田は、村へやってきた鬼太郎、ねこ娘、目玉おやじに取材しようとつきまとうが、鬼太郎たちを見失い廃屋敷の穴の中へ落ちてしまう。
 時を遡り昭和三十一年。復興を目指す戦後日本の財政界を牛耳っていた龍賀一族の当主・時貞が死去する。東京の血液銀行に勤める水木は、龍賀一族の経営する龍賀製薬ともコネがあり、時貞の訃報を聞いた水木は、龍賀一族が暮らす哭倉村へと向かう。
 哭倉村へ到着した水木は、東京に憧れている龍賀沙代と沙代の甥にあたる長田時弥に出会う。水木が龍賀邸へ向かうと、龍賀製薬社長の龍賀克典やその妻・乙米をはじめ一族が集まる場へ招かれ、時貞の遺言書が読み上げられたのだが……

おもなスタッフ
監督 …… 古賀 豪(?歳)
脚本 …… 吉野 弘幸(53歳)
キャラクターデザイン …… 谷田部 透湖(?歳)
音楽 …… 川井 憲次(66歳)

おもな登場人物
水木 …… 木内 秀信(54歳)
鬼太郎の父(のちの目玉おやじ)…… 関 俊彦(61歳)
龍賀 沙代 …… 種﨑 敦美(?歳)
長田 時弥 …… 小林 由美子(44歳)
龍賀 乙米 …… 沢海 陽子(61歳)
龍賀 克典 …… 山路 和弘(69歳)
長田 庚子 …… 釘宮 理恵(44歳)
長田 幻治 …… 石田 彰(56歳)
龍賀 丙江 …… 皆口 裕子(57歳)
龍賀 孝三 …… 中井 和哉(55歳)
龍賀 時麿 …… 飛田 展男(64歳)
龍賀家の使用人ねずみ …… 古川 登志夫(77歳)
龍賀 時貞 …… 白鳥 哲(51歳)
ゲゲゲの鬼太郎 …… 沢城 みゆき(38歳)
目玉おやじ   …… 野沢 雅子(87歳)
猫娘      …… 庄司 宇芽香(38歳)
山田      …… 松風 雅也(47歳)


 いやもう、あたしゃ実に恥ずかしい! 前回にやたらめったらいらぬ心配ばっかりつぶやいちゃって。

 時系列順に話していきますと、まぁ先週の時点では、記事の文章の通りに「 TVアニメの放送終了から数年経っている」、「全年齢向けアニメの劇場版が PG12指定で大丈夫なのか」、「水木しげる生誕100周年記念作品という割には話題になっていないようなのだが?」といったあたりからくる不安が、勝手に私の中で渦巻いておりました。
 とはいえ、我が『長岡京エイリアン』の諸記事をご覧いただいてもおわかりの通り、「映画を観ない」という選択肢などあろうはずもない妖怪&水木しげるファンの私は、昨夜、土曜日の仕事終わりに映画館にふらっと立ち寄って、その前日17日から封切りになっている『ゲゲゲの謎』の様子を偵察しにいったわけなのです。それで何気なく物販コーナーをのぞいてみたら、どうだいあんた! こんな貼り紙が。

『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』のパンフレットは只今売り切れております。再入荷をお待ちください。

 ええ~!? 昨日封切りでしたよね!? 2日目でパンフ売り切れ!? なんだ、その購入率は!!
 ちょっとこの衝撃によって、自分の中で「あれ? これ、風向きが変わってきたぞ……」といいますか、俄然期待値が『欽ちゃんの仮装大賞』のランプバー状に「プッ、プッ、プププププッ!」と急上昇してきたのでありました。このたとえよ。
 まぁ、わざとパンフレットを少なめに印刷して売り切れを話題にする作戦の可能性もあるのですが、それでもコアなファンであればある程パンフを買うという経験則を鑑みるだに、今回の『ゲゲゲの謎』が、かなり猛烈に観る者の心を揺さぶる作品であろうことがほの見えてきますね。これは姿勢を正して観ねば。

 そんなわけで、内心もうちょっと時間が経ってから観ようかなどと考えていた先週の日和見気分は一瞬で吹き飛び、日曜日の本日朝イチの回で鑑賞してきたわけだったのであります。年取るとガマンがきかなくなってきていけねぇや!
 それで観てきたわけなんですが……

ラストで泣いちゃった。個人的2023年内ベスト1、2を争う大傑作!!

 いや~……ズルい! この映画、クライマックスから終映後に館内の照明がつくまでの流れが感動、感動のつるべ打ち!! 涙腺サンドバッグ状態。
 しかも、私にとって、映画の最後のエンドロールって、どんなに涙を絞る内容の映画だったとしても、その涙をひかせて表情を元に戻すクールダウンの時間だったんですよ。どんなに泣いても、照明がつく頃にはスッキリ落ち着いているようにするための。
 それが一体なんだね、この『ゲゲゲの謎』は! エンドロールの脇に流れる絵の数々もそうとう泣けるのですが、エンドロールの後にいぃ~っちばん泣けちゃう伝説的名場面がきちゃったよ!!
 やめてよ~! 大泣きしてるその瞬間に明るくするんじゃないよ!! 恥ずかしい……

 ほんと、この映画はですね、そういったクライマックスに持ちこむまでの本編のおよそ8割がた、救いが全くない最低最悪の展開のオンパレードであります。公開直後の作品なのでほんとにネタバレは避けたいのですが、まさに主人公・水木の「地獄めぐり」といった様相を呈していて、んまぁ~画的にもストーリー的にも陰惨な悲劇の連打、連打! そりゃ PG12にもなるわな、むしろそれ以上の制限にならなくて良かったなという、あの御茶漬海苔先生もかくやという惨劇描写の数々であります。だからこそ、そのはきだめの中から生まれた「鬼太郎誕生」というまばゆい奇跡や、それに命を懸けて寄り添う目玉おやじの愛に、激しく魂を揺さぶられてしまうのです。

 いったんお話は映画の内容から離れてしまいますが、あと私は、同じ回を観ていた観客のみなさんにも地味に感動してしまいました。
 なにしろ客層が若い! そして女性客が多い! これ、私はなかなか体験したことのない光景でした。私自身そうですが、たいてい一緒に見てるのは中年世代かそれ以上の年齢の男性がほとんどですから。
 これは、1960年いらい半世紀以上続いている「鬼太郎サーガ」のファンが、確実にご新規さんを取り込んで新陳代謝してるってことなんじゃないでしょうか。そして、男性よりも女性の方が人的ネットワークもお財布の中身もおおむね豊か! 活気づいてるんだなぁ。
 たぶんこれ、ご両親がアニメシリーズ第4・5期(松岡鬼太郎&高山バーロー鬼太郎)で好きになった世代で、小学生高学年らしきお子さんがたは第6期(キュアスカーレットふ~じこちゃ~ん鬼太郎)を観てたんだろうなぁ、という鬼太郎サーガならではの感慨も、熱く胸をよぎりました。ちなみに私は言うまでもなく、愛と勇気だけが友達でウッディ大尉が婚約相手の戸田パンマン鬼太郎の第3期ファン……っていうか、第1次青野ぬらりひょん信者!! おのぅれェ鬼太るぉォオ!!

 さぁ、この『ゲゲゲの謎』を観て、第6期からファンになった少年少女達の心に根ざしたものは、これからどういった大樹に育っていくのでしょうか。決して、見た目の残酷さだけに気を取られて嫌いになって欲しくはないです。幸い、私の観た回で途中退席したお客さんはいなかったように見えたのですが、正直言ってこの作品は、昨今なかなか観られなくなった直接的なグロテスク表現が結構じかに描かれており、人によってはかなりダメージの大きい鑑賞体験になってしまうような劇薬であると思います。

 ダメージというのならば、1980年代生まれの私にとりましては、中年になった今もなお忘れられない、いろいろな衝撃的映像体験がありました。記憶している限りで最古のものは1984年版『ゴジラ』の冒頭の巨大怪虫ショッキラス……というかその被害者のミイラ遺体でしたし、アニメ映画『アキラ』もそうとう怖かったし、80年代は TVの世界でも『カメラが捉えた決定的瞬間』とかでリアルな人の死がバンッバン放送されてましたから、いや~な映像がいっぱい心にグサグサ刺さっておりました。週末に家族でホテルに泊まりに行くっていうのに、そのわずか2~3日前の『木曜スペシャル』で、大規模ホテル火災の惨劇を見せられる恐ろしさと言うたら……
 でも、今回の『ゲゲゲの謎』のインパクトに衝撃の性質が最も近い過去作品は何かと思うだに、それはやっぱり、あの「旧エヴァ」こと、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air / まごころを、君に』(1997年)であるような気がします。理由は……まぁ、双方を観ていただいたら、だいたいわかるんじゃないでしょうか。えげつな~!!

 ただし『まごころを、君に』と決定的に違っているのは、『ゲゲゲの謎』には、水木同様に最後まで我慢して地獄の旅を続ければ、ゴールには「鬼太郎誕生」という輝ける希望が待っている点です。そこに至るための長い長い試練の時として、一連の醜悪な人間描写と、これでもかという悲劇の応酬があるわけなので、その負荷が重ければ重いほど、生まれる「奇跡の子」ゲゲゲの鬼太郎の異常なまでの強さと目玉おやじの愛の深さに説得力が備わってくるのです。鬼太郎の強さ……いや、同じ読み方でも「勁さ」と表現した方が当たっているかと思いますが、踏まれても蹴られても、溶かされてもかまぼこにされても、生コン詰めにされてもハゲさせられても全くへこたれない、その生命力!! そりゃそうだ、あんな目に遭っていても決して未来を諦めない父と母の間に生まれた子なんだもの。そのくらいで死ぬわけがないのです。

 ネタバレにならない一線に配慮しながら、この作品の良かった点についてくっちゃべっていきたいのですが、ポイントを絞って、今パッと思いつくところだけ触れておきましょうかい。


〇水木しげる風タッチでないのに水木しげるの画風(特に貸本時代)を心得ている導入のカメラワーク

 これは、特に冒頭から水木の龍賀邸入りまでの、哭倉村周辺の自然描写でつとに感じ入ったのですが、登場するキャラクター自体は明らかに現代アニメ的な谷田部透湖デザインなのですが、「人物と背景」の距離感や遠近関係、そして色彩設計、特に「赤」と「黒」の濃さという点で、本作は明らかに水木しげるの作風を自家薬籠中のものにしているのです。水木しげるの画風を単純にトレースしているという手段を取らなかったのは、すでにその手を使ったアニメ版『墓場鬼太郎』(2008年1~3月放送)という先例があったからだと思うのですが、あくまでアニメ第6期から派生した劇場作品であるという意味もあったのではないでしょうか。そのルールを守りつつも、なおかつ水木しげるの成分を爆上げにするためには、あの「単純な描線の人物と異常に細密な背景画の同居」を成立させている位置関係、コマを占める配分関係、そして彩色に使われたインクの濃さまでも徹底的に分析する必要があったのでしょう。手前に水木のバストショットが小さくあり、その後ろは全部濃緑色の杉の山というカットが、個人的にはいちばん印象的でしたね。
 例えて言うのならば、いくら実相寺アングルが好きだと言っていても、猿真似をするだけでは何の美しさも生まれないのです。間違いを恐れずに、その技法が使われる意味を自分達なりに解釈・咀嚼したうえで使うことが大事なのですね。


〇原典『墓場鬼太郎』の設定との整合性の取り方が、やや強引ながらも筋は通している。

 私が『ゲゲゲの謎』の前情報を見て勝手に危惧していたことの一つには、「水木しげるの創設した『墓場鬼太郎』の設定をどのくらい尊重しているのか?」というものもありました。というのも、本作はあらすじを読むだに「龍賀一族」だとか「哭倉村」だとか、そんなの原作マンガのどこにもなかったゾというオリジナル設定がモリモリに書いてあったからなのです。
 いやいや、「鬼太郎の誕生」で語られるのは廃屋に住む幽霊族の夫婦の怪談であり、片目がつぶれて鼻水を垂らしながらイヒヒと笑う不気味な女と全身包帯でぐるぐる巻きにした腐りかけの肉体を持つ大男が鬼太郎の両親のはず。そこになぜ、「カレーの王子様」程度にホラー風味を足したライトノベルにでも出てきそうなネーミングが割り込んでくるんだ? という反発があったのですが、まさか「『墓場鬼太郎』で語られるエピソードのさらに昔に、もう一つの前日譚があった!」というアクロバティック理論をブチ込んでくるとは……その上でちゃんと、『墓場鬼太郎』で水木が鬼太郎の両親と初対面のようなやり取りをしていた理由も説明されるのですから抜け目がありません。
 本作を観た後に、あらためて貸本版なりアニメ版なりの『墓場鬼太郎』や『鬼太郎夜話』を観てみると、感動もひとしおなのではないでしょうか。そりゃ鬼太郎の父も、猫の目をお土産にあげようとして必死に水木を追いかけますわ。


〇鬼太郎因縁の呪術集団とのまさかのエピソード0

 本作はあくまでも『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』という独立した作品であり、タイトルがもう『ゲゲゲの鬼太郎』の1エピソードではありませんというただし書きになっています。
 とは言えやっぱり、第6期『ゲゲゲの鬼太郎』の唯一の劇場版作品としてのサービスも欲しいというのがファンの人情でして、そういう意味でも、本編が始まってほんとに10秒やそこらの段階で鬼太郎と猫娘の身長差カップルが復活してくれるのも非常にうれしいところです。
 ただ、本作での物語のメイン舞台は昭和三十一年ということで当然ながら鬼太郎の誕生以前の物語ですので、親しみ深い鬼太郎ファミリーはむろんのこと登場せず。ただでさえキツいことこの上ない展開の中で、どうやって精神の均衡を保っていけばよいのかと悩んでいるところに、中盤の鬼太郎パパと「あの呪術集団」との超絶バトルシーンとなるわけです。
 ここの個 VS 集団のアクションの作画がもうとんでもないハイレベルなものでして、そりゃ TVシリーズの放送終了から3年の歳月がかかってもやむなしかというクオリティの、鬼太郎サーガ史上どころか日本アニメ史上に残る名勝負シーンとなっております。ほんと必見!!
 ただそれだけに飽き足らず、鬼太郎パパの戦う相手が、のちのちに鬼太郎にとっても非常に強大な敵となる「あの集団」の一流派にあたるという展開は、非常に熱いものがありました。特にアニメ第3期シリーズや、その頃連載されていた原作マンガ『新編ゲゲゲの鬼太郎』シリーズでファンになった人にはたまらない宿命の構図ですね。にくったらしいぃ~!!


〇ねずみのパートでほんとにホッとしてしまう「緊張と緩和」のギリギリ感

 昭和三十一年の哭倉村に鬼太郎ファミリーは登場しないと言いましたが、厳密にはそれは正しくなく、ただ一人、鬼太郎サーガでしょっちゅう見かける、左右にピンピンとつっ立ったヒゲが特徴のあの男が登場してきます。みんなからは「ねずみ」と言われている龍賀邸の使用人なのですが……う~ん、一体「何み男」なのだろう!? 見当もつきませんね……
 いや~それにしても、原作マンガでもいくたのアニメエピソードでも、「こいつさえちゃんとしていれば事件は起きなかったのに!」とか「クズ中のクズ! 鬼太郎はなぜこの男にいつも手ぬるい!?」などと思われていたあのキャラクターが、この『ゲゲゲの謎』では、どれだけありがた~い一服の清涼剤となっていることか……ほんと、この男の軽快で無責任な声を聴くと安心する! けっこう早めに退場してしまうのが残念ですね。
 とは言いましても、今作では鬼太郎よりもコワい鬼太郎パパの目が光っていますので、この男もそんなにあくどいことは哭倉村ではできなかったようで、よくよく観てみるとかなり有能な水木サイドの便利キャラになっているというか、アニメ版第3期の灰色ローブの富山ねずみに近い人情キャラになっているのが、原作ファンにとってはちと物足りないかも。
 それにしても、ねずみの声を演じておられる古川さん、ほんとに喜寿むかえてるんですか!? 相変わらず軽いな~、声の身のこなしが!! ほんとにもう一度だけでいいから、お元気なうちにルパン三世やってくれませんかね……


〇醜悪、醜悪、また醜悪! 『犬神家』&『八つ墓村』、そしてよもやよもやの『ぬら孫』オマージュ!?

 鬼太郎サーガファンにして横溝正史ファンという私にとりまして、この『ゲゲゲの謎』はそんなに大盤振る舞いしてもらっちゃっていいんですかと言いたくなるほどの血しぶき大サービスの雨あられでございました。龍賀一族の設定も展開も『犬神家の一族』そのまんまだし、哭倉村の閉鎖性は『八つ墓村』そのものですよね。龍賀邸の湖畔コテージも、哭倉村へ続く田園の中の田舎道も、もう幾度となく金田一耕助もの映像作品に登場してきたおなじみの風景です。もう水木しげる生誕100周年記念なんだか、横溝正史生誕120周年記念なんだかわかんなくなるくらいの成分配合率!!
 そして、本作のラスボスは何と言いましても「あいつ」なんですから、ほんとにこの作品は『犬神家の一族』の if みたいなパラレルワールド世界なんでございますよ。もしも犬神一族に名字通りの「犬神の外法」が伝わっていたら~? みたいな。これ以上は言えねぇか。
 さらに我が『長岡京エイリアン』の観点から言わせていただきますと、本作のラスボスの最低過ぎる所業は、あの非水木しげる系妖怪マンガの「惜しい!」一作、『週刊少年ジャンプ』で連載していた『ぬらりひょんの孫』(2008~12年連載)のラスボス「あべちゃん」の自己中心きわまりない論理にも一脈通じるところがあるのです。うをを、ここで鬼太郎と妖怪総大将の物語がリンク!?
 さすがに『ぬらりひょんの孫』は天下のジャンプ作品ですので、『ゲゲゲの謎』のラスボスほど下劣な手段は使っていないのですが(いちおう実在した人物でもありますし)、「自分個人のしあわせのためなら血を分けた肉親でも道具同然に扱う」という、鬼太郎パパ(目玉おやじ)ときれいな対極をなす対立構造は、まさに2作品のラスボスに共通する「醜悪さ」だと思います。
 だからといって、世の中のご老人すべてを目のかたきにするべしというのも極論なのですが……今作のラスボスのキャラクター造形は、そうとうにトンガッたものになっていますよね。こういうヤツにはなりたくないなぁ~!!
 それにしても、ネタバレになるので誰だとは言いませんが、今作のラスボスを演じた声優さんは本当に憎ったらしい超名演だったな……名前、おぼえとこ。


〇『ゴジラ -1.0』では言及されていなかった、見過ごしてはならない「戦争の醜さ」への指弾

 本作で語りつくされる「人間の醜悪さ」について、絶対に軽んじてならないのは、本作が昭和三十一年の哭倉村の連続殺人事件だけでなく、水木が回想するというかたちで同時並行的に「太平洋戦争中の体験」にもしっかり言及していることです。そして、そちらの記憶パートでクローズアップされるのは、凄惨な水木の戦争体験もさることながら、そもそも水木を戦争の最前線に追いやった理不尽きわまりない軍国主義と、「もう玉砕と報告しちゃったし全員に死んでもらおう」とか、「部下だけに特攻させておれは生き残ろう」などという、知性も品性もない上官どもへの強烈な怨嗟の思いなのです。
 これはね……ほんと、実際に体験した水木しげる先生だからこそ告発できる事実ですし、あまりに醜いために生前には鬼太郎サーガのようなご自身の子ども向けフィクションには決して出さず、『総員玉砕せよ!』(1973年)などのごくごく一部の作品に吐露したまま封印していた記憶だったと思うんです。
 しかし、その水木大先生の没後の作品である本作には、生前の禁を犯してでも、鬼太郎誕生につながるマグマのようなエネルギーのひとつとして、なんとしてもこの戦争体験を取り入れてやろうという制作スタッフの強い意志があったのだと思います。この熱さ、この勇気!!
 まず、2023年の秋の時点で「戦争を題材にしたエンタメ作品」と言えば、まず名前があがるのは『ゴジラ -1.0』かと思うのですが、この一点、「誰があの醜い戦争を引き起こしたのか」という非常に難しい問題を指弾しているというアドバンテージがある分、『ゲゲゲの謎』のほうが断然、若い人に観てもらうべき価値があると思います。もちろん『ゴジラ -1.0』なりに、あくまで主人公個人の心の成長の物語にしたかったとか、そこまで語ると「国民一丸となってゴジラを倒す!」というカタルシスがぼやけてしまうのであえて触れなかった、とかいう判断もあったのかも知れませんが、そもそも神木隆之介さん演じる敷島が、どうして零戦に乗せられて特攻に行かされたのか? 敷島たち若者を人間爆弾にしておいて自分は戦後ものうのうと生き伸びているというような最低なやつらは、わだつみ作戦の時にどこで何をしていたのか!? というところにいっさい触れていないのは、やっぱりおかしいと思います。所詮は『ゴジラ -1.0』もきれいごとというか、『ゲゲゲの謎』ほどの気概は無いと言うしかないのではないでしょうか。
 いや、なんだかんだ言っても所詮は娯楽映画なんですから、そこまで『ゴジラ -1.0』を責めることもないとは思うのですが、少なくとも『ゴジラ -1.0』だけを見て「これが戦争の悲惨さか……」と早合点するのは危険ですよね。いちばん醜い部分が描かれてないんですから。
 まずはマンガ『総員玉砕せよ!』と、映画『プライベート・ライアン』からいってみよっかぁ~!


〇関俊彦 VS 石田彰!! 鬼パワハラの仇をゲゲゲで討つ!?

 ここからは軽~い感じの話になるのですが、いや~関さんと石田さんときたら、某鬼退治マンガのアニメ化作品にて目下、因縁のパワハラ上下関係にある間柄ですよね。いや、お話の中で。
 今回、詳しくは申せませんが、そこらへんの力関係がみごとに逆転している配役になっているのが、とっても楽しいですね! 関さんはひょうひょうとしながらも愛する妻の行方を追う鬼太郎パパ。石田さんはゲスいことこの上ない哭倉村村長にして、その正体は……? という感じで、石田さんの演技から、どことなく「演じてて楽しくてしょうがない」みたいなニヤニヤ感が伝わってくるのが面白いですね。
 まぁ、天下の石田彰さまが、単なるド田舎の村長さんであるわけがないんだよなぁ……


〇皆口さん!? 釘宮さん!? そして飛田さん!? ひどい(誉め言葉です)演技のフルコースをどうぞ♡

 私、最初に申しましたように本作はパンフレットのような資料をいっさい読まず予備知識なしで鑑賞したのですが、龍賀一族のそれぞれの声を誰が演じておられるのか、山路さん以外はだぁれもわからなかったんですよ。当然、全員上手だなぁとは思っていたのですが……
 エンドロール見てひっくり返っちゃった! ええ、皆口さんがあんなビッチおばさん!? 釘宮さんがあんなメンヘラ母!? 飛田さんがあんなキ〇ガイ……あ、飛田さんはいつもか。
 ともあれ、龍賀家のキーマンともいえる次男・孝三を演じていたのが中井さんというのもまったく気がつかない程の自然な演技で、全員がアニメっぽくないというか、まるで上質な演劇の舞台を観ているようなレベルの高い競演になっていましたね。一族の中でも最重要ポジションにいる長女役の沢海さんもほんとに上手かったなぁ。水木役の木内さんもそうですが、日本声優界にはまだまだ実力のある才能がわんさといらっしゃる!
 あらためて思います。「アニメらしくない声を」という目的でほとんど声優経験のない有名人を起用するのは、「真のプロ」の声優さんの力をみくびっている全くの悪手なり。


〇川井憲次サウンドは、ゲゲゲの世界でも微動だにせず健在だった!

 いや~、川井憲次さんの音楽は、本作でも川井憲次さんだったねぇ~! 当たり前ですが。
 ふつうゲゲゲの鬼太郎の音楽と言うと、琵琶や太鼓などの和楽器を強調して楽曲に取り入れるのが定石のような気がするのですが、そんなもん川井憲次サウンドは忖度いっさいなし! もともとそういうのは『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』(1995年)の昔からとっくに吸収してるし、今さらゲゲゲによせるなんていう姿勢はまるでなかったです。でも、そこがいい!!
 しんみりする場面も、激しいバトルシーンも、おどろおどろしい妖怪たちが跳梁跋扈する見せ場も、ぜ~んぶ川井憲次サウンドで OK! 静かなようでいてしっかり主張してくる楽曲の力強さは、やっぱり他の作曲家さんがたとは一段違ったところにいると思い知らされました。
 いつもの『ゲゲゲの鬼太郎』主題歌のメロディをアレンジした楽曲は、やっぱり正規の『ゲゲゲの鬼太郎』作品ではないのでほのか~にしか流れなかったものの、特に登場人物たちが疾走したりするシーンで流れる音楽の存在感はみごとなものでありました。思い起こせば、あの『イノセンス』(2004年)のようなエセ禅問答トンチキ映画が、それでもなんとなく最後まで観れちゃう作品になっていたのも、プロの声優陣の声の良さと黄瀬さんの美麗な作画世界、そして川井憲次サウンドがあったればこそでしたもんね。本作のサントラも買おうかな~。
 しかし、『ゴジラ -1.0』と『ゲゲゲの謎』とで、ここまで自分の中での映画音楽の評価に差が出てしまうのは、一体なぜなのだろうか……佐藤直紀さんもそうとうに良い作曲家さんであるはずなのに。それはやっぱり、佐藤さん本人の意志でないにしても、一番良いシーンを故人の遺産に100%頼り切ってしまうという志の低さが、私は嫌いなのだろうなぁ。それが多くのファンが喜ぶサービスなのだとしても、現代を生きるプロの作曲家としてそれは受け入れられることなのか? と思っちゃうんですよね。私は「それじゃ全曲伊福部さんでやれ! 降板する!!」って言ってこそのプロだと思うんですが。その点、『シン・ゴジラ』の鷺巣詩郎さんは、伊福部サウンドを使ってはいつつも放射熱戦シーンとかタバ作戦シーンとかでちゃんと印象的な楽曲を投入してましたからね。


 以上! ざっとこのような感じでございます。ヒエ~、これ PG12という条件付きとはいえ、やっぱ小学生が見ていい密度の内容じゃないよ! 脳みそパンクしちゃうって!!
 まま、そんな感じで『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』は、まさしく水木しげる生誕100周年記念作品にふさわしい、実に志の高い作品であります。単に陰惨な展開でグロテスクな表現が満載のキワモノ作品かと喰わず嫌いすることなかれ! たまには強烈なもんを食べておなかを壊すことも、大切な人生経験よ……

 これが大ヒットして、今度はほんとのほんとに『ゲゲゲの鬼太郎』第6期の正式劇場版作品を作る、なんてことになってくれないかなぁ~!
 そしたらもう、今度こそおぬら様の大復活よ!! 哀しみに沈むチョーさん朱の盤、待ってろよ~い!!
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大魔王カンノさん、大・召・喚!! ~映画『エコエコアザラク WIZARD OF DARKNESS』~

2023年11月16日 21時24分40秒 | ホラー映画関係
 みなさま、どうもこんばんは! そうだいでございます。今日も一日たいへんお疲れ様でございました!

 いや~、世間はもう、明日から公開の映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』の話題でもちきりですねぇ! たのしみだなぁオイ!!
 ……え? あんまりもちきりってほどでもない? うん、実は私の周辺でも、驚くほど静かです……
 『ゴジラ -1.0』とか『オトナプリキュア』は引き続き人気ですし、再来週から公開の北野映画最新作の『首』への、不安もだいぶ入り混じったワクワク感も徐々に高まりつつあるのですが、この『ゲゲゲの謎』だけは、ねぇ……まぁ必ず映画館に観に行くにはしても、なーんか今ひとつ、ピンとこないんですよねぇ。「水木しげる生誕100年記念作品」なのに。あのさまざまな実験精神に満ち溢れていたアニメ第6期『ゲゲゲの鬼太郎』(2018~20年放送)の、満を持しての劇場オリジナル作品だというのに!
 まぁ世間的には、どうしても第6期が終わってから時間がたちすぎてるのが大きいですかね。PG12指定というのも、どの客層を狙っているのかで多少のとっつきにくさが生じているような。
 そして、なにはなくとも私にとってデカいのは、キャスティング表を見るだに「おぬら様」が出なさそうなこと! これはいけません!! え? 鬼舞辻さんは出るらしいって? それじゃあ埋まんねぇよ!!
 いや、なんだかんだ言っても楽しみにしてますけどね……本格的にコワい鬼太郎譚、見せてもらおうじゃありませんか!
 なにげに、音楽が TV版第6期の高梨康治さんじゃなくて、あの川井憲次さんになってるのも気になりますね。個人的には、『墓場鬼太郎』味が強そうなんだから是非とも和田薫先生に復活してほしかったけど。『攻殻機動隊』っぽい鬼太郎かぁ。やっぱ楽しみ!

 余談ですが、私は TV版第6期から『ゲゲゲの謎』までの3年という短くない間隙を埋めんとするせめてものレジスタンス活動として、今年になって彗星の如く登場した「レノア クエン酸 in 超消臭」CM での、第6期バージョンの猫娘を見事に実写映像化した飯尾夢奏(ゆめな 13歳)さんの功績を、この場を借りて大絶賛させていただきたいと思います。『ゲゲゲの謎』が大ヒットしたら、次は実写映像作品を飯尾さん続投でお願い致します! 他のキャスティングは誰でもいい!!
 でも、あながち冗談ばかりでもなく、こういうちょっとした草の根活動で『ゲゲゲの鬼太郎』を思い出してもらうのは、大事よね。タイトルの知名度にあぐらをかいちゃあ、おしめぇよ。

 すみません、またお話がいつまでも本題に入らず失礼をばいたしました。

 今回は、あの現在絶賛大ヒット公開中の映画『ゴジラ -1.0』の山崎貴監督……の奥様の、佐藤嗣麻子監督の伝説の一作についてであります!
 さぁさ、ちゃっちゃと情報、情報っと!!


映画『エコエコアザラク WIZARD OF DARKNESS』(1995年4月 81分 ギャガ・コミュニケーションズ)
 人気ホラーマンガ『エコエコアザラク』シリーズの初映像化作品。ゆうばり国際冒険・ファンタスティック映画祭「ヤング・ファンタスティック・グランプリ部門南俊子賞(批評家賞)」受賞。
 ラブストーリーの監督を希望していた佐藤により、ほのかな恋愛要素が重視された。
 本作において、ミサが持ち物のロケットペンダントに入れた何者かの遺髪に語りかけるシーンがあるが、次回作『エコエコアザラク2 BIRTH OF THE WIZARD』(1996年)で誰の物であるのかが判明する。このミサのロケットの描写は、『エコエコアザラク3 MISA THE DARK ANGEL』(1998年)にも登場する。

あらすじ
 東京都心にある聖華学園高等学校。2年7組の教室では、最近都内で頻繁に起きている不審死事故が話題となっていた。生徒で魔術オタクの水野は、点在する発生現場の中心に聖華学園が位置することから、一連の死が魔王ルシファを召喚するための儀式によるものであると推理する。
 そんなとき、クラスに一人の少女が転校して来た。彼女の名は、黒井ミサ。その真の姿は、絶大な黒魔術の力を秘めた魔女であった。ミサの影をたたえた雰囲気はクラスメイトの新藤を魅了し、またある者には敵意を抱かせた。
 いっぽう、7組の担任教師・白井響子は教え子の田中和美と同性愛の関係にあった。そのうわさをミサに話そうとした7組の学級委員長のみずきが急に苦しみだす。黒魔術の呪いであると看破したミサは学園内の用具置き場にたどり着き、そこでみずきの髪の毛が巻きつけられた呪いの人形を発見する。
 ミサは確信するのだった。「この学園の中に、黒魔術を使う魔術師がいる……」

おもなキャスティング(年齢は劇場公開当時のもの)
黒井 ミサ  …… 吉野 公佳(19歳)
倉橋 みずき …… 菅野 美穂(17歳)
新藤 剣一  …… 周摩(現・大沢一起 22歳)
水野 隆行  …… 高橋 直純(23歳)
白井 響子  …… 高樹 澪(35歳)
田中 和美  …… 角松 かのり(20歳)
渡辺 千絵  …… 柴田 実希(17歳)
高田 圭   …… 南 周平(17歳)
木村 謙吾  …… 須藤 丈士(16歳)
沼田 秀樹  …… 岡村 洋一(38歳)

おもなスタッフ(年齢は劇場公開当時のもの)
監督・ストーリー原案 …… 佐藤 嗣麻子(31歳)
脚本 …… 武上 純希(40歳)
音楽 …… 片倉 三起也( ALI PROJECT)
デジタルビジュアルエフェクト …… 山崎 貴(30歳)
スペシャルエフェクト …… 白組
アクション監督 …… 大滝 明利(31歳)
音響効果 …… 柴崎 憲治(39歳)
製作 …… ギャガ・コミュニケーションズ、円谷映像


おさらい! 『エコエコアザラク』シリーズとは……
 『エコエコアザラク』 は、古賀新一(1936~2018年)による日本のホラーマンガ。これを原作とした映画作品や TVドラマも繰り返し製作されている。
 『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)にて1975年9月~79年4月まで連載するロングヒット作となった。単行本は全19巻(角川書店マンガ文庫版は全10巻)。『ブラック・ジャック』(手塚治虫)、『ドカベン』(水島新司)、『750ライダー』(石井いさみ)、『がきデカ』(山上たつひこ)、『マカロニほうれん荘』(鴨川つばめ)などと並んで、同誌の黄金期を支えた作品の一つである。
 1980年代には『月刊少年チャンピオン』にて『魔女黒井ミサ』、『魔女黒井ミサ2』として「高校生編」を連載。さらに1993年からは同じく秋田書店のホラーマンガ雑誌『サスペリア』に居を移し、『エコエコアザラク2』を連載した。
 1998年10月~99年2月に同じく『サスペリア』にて新シリーズ『真・黒魔術エコエコアザラク』を連載した。
 2009年5月28日発売の『週刊少年チャンピオン』第26号にて、同誌の「創刊40周年記念企画」として、30年ぶりの同誌登場となる読切新作が掲載された。その後、古賀の没後も他作家によるリメイク連載が行われるなど、シリーズの人気は衰えていない。

 黒魔術を駆使する若い魔女・黒井ミサ(くろいミサ)を主人公とし、ミサに関わる奇怪な事件や人々の心の闇を描く。原作マンガの黒井ミサは、善人であれ悪人であれ場合によっては人を平気で惨殺する非情な魔女として登場し、特に自分に対する性犯罪者に対しては容赦なく報復する場面がたびたび描かれた。
 作者の古賀新一へのインタビューによれば、ミサのキャラクターは親近感のある、どこにでもいそうな女の子であることに重点をおいたとしている。
 ミサは、魔女としての残忍さと普通の中学生(シリーズ続編では高校生)としての可愛らしさを併せ持つ得体の知れないキャラクターであるが、回が進むにつれて明るい性格の少女へと変化していった。当初は怪異を起こす加害者としての立場が多かったが、連載後半では怪事件に巻き込まれる被害者になることも多くなった。また、別の悪と対決するスーパーヒロイン的要素も加味されるが、基本的には邪悪さを隠し持つダークヒロインであった。

黒井ミサの基本情報(原作マンガに準拠)
年齢  …… 15歳(中学生だが、続編シリーズおよび映像作品では高校生)
出身地 …… 東京都
家族  …… 父・臣夫、母・奈々子、亡妹・恵理(映像作品ではアンリ)、叔父・サトル、祖母(名前不明)
特技  …… 黒魔術、タロットカード占い、剣道、護身術
アルバイト歴 …… 辻占い師、看護助手、家政婦、古本屋、喫茶店など

ミサの呪文「エコエコアザラク」について
 「 Eko, eko, azarak. Eko, eko, zomelak.」という文言は、イギリスのオカルト作家ジェラルド=ガードナー(1886~1964年)が1949年に著した小説『 High Magic’s Aid』第17章に登場する歌である。発表以後、この歌詞はガードナーの影響を受けた魔女教の典礼書で頻繁に使用されるようになった。 ガードナーと共に典礼書を著した作家のドリーン=ヴァリアンテ(1922~99年)によると、古い歌でありその意味は伝承されていない。古賀新一の『エコエコアザラク』シリーズでは黒魔術の呪文のように扱われているが、ガードナーの流れをくむ魔女教では単なる歌の歌詞である。


 いや~、ついにこの作品にふれる時が来ましたヨ! 自分の中での「満を持して」感がハンパありません!!

 まず、我が『長岡京エイリアン』と『エコエコアザラク』シリーズとの関わり合いを、「そんなんどうでもいいから早く感想言え」という声をガン無視して話させていただきますと、まずやっぱり、この「黒井ミサ」というキャラクターに青春時代からメロメロになっていた私は、同じく現代日本ホラー文化史において「ホラークイーン」の座を争っていた『リング』シリーズの山村貞子さん、『呪怨』シリーズの佐伯伽椰子さん、『富江』シリーズの川上富江さんに、このミサさんをアシスタントに交えましたエセ鼎談企画を、当ブログのかなり初期につづりました。なつかし~! ここで記した情報も、だいぶ古くなり申した……
 そしてこれに飽き足らず、数ある『エコエコアザラク』シリーズの中でも、特に思春期の私を魅了した映画版『エコエコアザラク』3部作のレビューをせんとくわだてた時もあったのですが、今回扱う『1』の後続作となる『2』(ただし内容は前日譚)『3』(ただし監督も主演も交代)の記事こそおっ立てたものの、Wikipedia の情報をのっけただけで当ブログ定番の「塩漬け」となっていたのでありました……うわ~ん、仕事で超忙しかったんだよう! 許してミサ様。

 私に限らず、当時のホラー映画ファンに相当な衝撃を与えたこの『エコエコアザラク』3部作だったのですが、私にとって最も思い入れが深いというか、いちばんガツンときたのは、今回の第1作でした。やっぱりすごいです、この作品。
 オイオイ、じゃあなんで一番好きな第1作をいの一番にブログで扱わなかったんだよ? といぶかる向きもあるかと思われますが、この理由は単純なことで、内容をちゃんと確認するために買おうとした DVDソフトが、この第1作だけ当時めちゃくちゃ高かったからなのでした。びんぼくさ!!

 とまぁ、そんな経緯にもなっていない経緯をへて、この2023年に『エコエコアザラク WIZARD OF DARKNESS』をレビューさせていただきたいと思います。DVDをふんぱつして購入したのは2018年のことだったのですが、買っといてよかったよ! 今もっと高くなってんだもん。

 それはともかく、公開2週目にして興行収入20億円を突破している『ゴジラ -1.0』の感想を先日つづっておいて、その次に記事にしたのがなんでまた四半世紀以上前の美少女ホラー映画なのかといいますと、それは言うまでもなく、このメッセージを満天下に訴えたいからなのであります。

山崎貴監督よりも、奥さんのほうがスゲーんだぞ!!

 ほんと、これだけ。そして、佐藤嗣麻子監督の堅実な映画技術と、その美学を突き通す意志の強さに、なんと「1995年の菅野美穂さん」というニトログリセリン級の起爆剤が投下されたことによって、とんでもない奇跡の超傑作となってしまったのが、この第1作なのであります。
 いやいや、別に私は、当時の菅野美穂さんのアイドル的人気を懐古的にほめたたえたいのではありません!

 映画『富江』と『催眠』(ともに1999年)、そしてこの『エコエコアザラク』の菅野さんは……こわすぎ!!

 いや、今作の菅野さんを怖いというのは完全なるネタバレになってしまうのですが、もうそんなんどうでもいいですよ! とにかく私は、一人でも多くの人に、「1990年代後期の菅野美穂」という、この人ほんとにやばいんじゃないかという顔を時々見せていた天才の狂気を、この『エコエコアザラク』を通して知っていただきたい、そして畏怖していただきたいのです。たんに鼻声で爬虫類っぽい顔立ちで、豪放磊落にガハハと笑う女優さんじゃないってことなのよォ。
 いまや、いいポジションの大物女優さんですけどね……もう、ああいう役はおやりにならないんだろうなぁ。その後も、フジテレビの時代劇『怪奇百物語』中の『四谷怪談』(2002年)とか、TBS の大型時代劇『里見八犬伝』(2006年)とかでたま~に怖い役もやってましたが、すでに何かが「憑いてる」感じは薄れていたような気はします。

 なんか、「悪役の演技がうまい」とかいう範疇じゃないんですよね。「神がかってる」とはよく言いますが、神だかなんだかよくわからない何かと歯車がかみ合っちゃって、得体の知れない存在が写り込んだ鏡のような「媒体」になっちゃってる恐ろしさというか。完全に開けてはいけない扉が開いているというか。
 こういう、本人の計算と実力以上の「なにか」をまとっている女優さんって、まぁ今パッと思い出せる限りだと、『ピクニック at ハンギングロック』(1975年)のアンルイーズ=ランバートさんとか、『ポゼッション』(1980年)のイザベル=アジャーニさんとか、日本でいうと『ツナグ』(2012年)の橋本愛さんがそうだったような気がします。男性俳優さんで言うのならば、『シャイニング』(1980年)のジャック=ニコルソンと『帝都大戦』(1989年〉の嶋田久作さん、『ダークナイト』(2008年)のヒース=レジャーははずせませんよね!

 美貌、迫力、危険性……そういう「域」に入り込んだ人の魅力は作品によってさまざまだと思うのですが、菅野さんについて言うと、その魅力は「無垢な残酷性」! これに尽きると思います。
 あの目! 自分でその命をどうとでもできると踏んだ相手を見る時の、嬉々としてキラキラ光る、あの目!! もう楽しくて楽しくてしょうがないという表情で、「どう苦しませてから殺しちゃおうかな~♡」とつぶやきながら、トンボやカエルを引きちぎったり踏みつぶしたりする子どもの無垢な笑顔……
 まさに、人間の道徳、倫理というせせっこましい重力から「ふわわ~っ♪」と飛び立ってしまっている恐怖の天使こそが、1990年代の菅野さんの正体だったのです。あの目もすごいんだけど、笑った時にズラリと並ぶ白い歯も怖いんだよな……ほんと、文楽人形でいたいけな美少女の顔が一瞬で鬼の形相に変身する「ガブ」っていう頭(かしら)がありますよね? あれ、そのもの! くる、くるとわかっていても見るたびに衝撃を受けちゃう。

 だもんで、はっきり言っちゃうと、この記事で何万字を費やして本作の良さを語りつくしても、「いいから一回観てみて。」に勝る言葉は無いのであります。菅野さん、菅野さん! かの魔王ルシファもビビる菅野さんの狂演を見よ!! いや、ストーリー上はああいう力関係になっちゃってますが、悪魔よりも怖いのは、悪魔を必要とする人間の欲望ですよね。そ~れを17歳の女の子がやっちゃうんだもんなぁ! まいっちゃいますよ。

 いちおう今回の記事は、後半にいつも通りの「映画本編視聴メモ」を羅列しておしまいとしたいと思います。その中で佐藤嗣麻子監督の才能の素晴らしさと、大魔王カンノの恐怖はかいつまんで申していきたいと思うのですが、ここでちょっと、主人公なのに菅野さんのためにそうとうかわいそうな追いやられ方を喫してしまっている映像版初代ミサこと、吉野公佳さんについて。ほんと、『バットマン』(1989年)のマイケル=キートンもかくやというスルーっぷり! でも、ちゃんといい雰囲気は出しているんですよ。陽はまた昇る!!

 私もそうだったのですが、まず映画の良さをうんぬんする前に本作を観始めたお客さんの多くが感じたのは、原作マンガのファンであればある程「これ、黒井ミサかぁ?」と疑問を抱いてしまう違和感だったかと思います。まるで別人!
 まず中学生でなく高校生という時点でだいぶ違いますし、時代設定も原作通りややバイオレンスながらも牧歌的な1970年代ではなくリアルタイムばりばりの1990年代中盤であるというアレンジがあるわけなのですが、とにもかくにもミサがほとんど笑わない鉄面皮のクールビューティになっているのが、かなり面食らう改変になっていたのではないでしょうか。原作マンガの黒井ミサは、確かに魅力的ではあっても、顔だけを見れば特に「美」がつくほどのこともない普通の少女ですし、冗談をとばせばギャグシーンも難なくこなす陽気さも見せることがあったのです。それがどうしてあんな、常に肩を怒らせた寡黙で不機嫌そうなおなごに……現代だったら絶対にビリー=アイリッシュ好きそう。当時はビョークかしら。
 これはやっぱり、原作マンガの設定にそれほど依存せずに、自由に描きたい世界を創造した佐藤嗣麻子監督の意向によるものが大きいのではないでしょうか。『攻殻機動隊』の主人公・草薙素子とか『ゲゲゲの鬼太郎』サーガにおける猫娘とか、原作と派生作品とでキャラクター造形がじぇんじぇん違うというキャラクターは他にもいますが、それに匹敵するレベルで本作での黒井ミサをまったくの「別人」にしてしまったのは、ひとえに「いいから私に任せて!」という確固たる信念を持って挑戦した佐藤嗣麻子監督の勇気の勝利だと思います。いいのいいの、ちゃんと面白いんですから!
 これを「原作テイストの無視」と感じてしまう方もいるかと思いますが、ラストシーンでのミサの哀しみを見るだに、映画をきれいに締めるのは「生き方の不器用なミサ」ですし、無数の表情を見せる原作ミサのある一面だけを抽出したという解釈をすれば、決して無視ではないでしょう。より原作に準拠した映像版ミサは、後年に別作品で出てきますし。

 とかく佐藤嗣麻子監督の作風とアトミック大魔王カンノの存在感にかすんでしまいがちな吉野ミサなのですが、本作の陰性の魅力と哀しみを生み出す上で決して欠かすことのできない最重要パーツであることは間違いないと思います。
 あの狂騒の1990年代の中にあって、ひとり愁いを満々とたたえる、深く刻まれた涙袋よ……だれだ「くま」って言った奴は!? 呪ってやる!!


≪まいどおなじみの~、視聴メモでございやす≫
・冒頭の OL逃走シーンからスピーディなカメラワークでいい感じなのだが、最初の鳥瞰ショットで OLが突き飛ばした2~3人のあんちゃんグループが、次の OLを正面に捉えたショットに切り替わっても後ろの方で怪訝そうに振り返っているのが、地味ながらも誠実な撮り方をしていてすばらしい。ふつうこういう群衆シーンって、時間が経過していくからカットが切り替わると歩いてる人が全然違う顔ぶれになっちゃうじゃない。2台カメラを使っているのか、もしくはちゃんとエキストラを止めて撮り直してるんだろうなぁ。えらい!
・声優を加えたりして、ローブのフードをかぶった「真犯人」の正体はぼかしているが……儀式の現場が比較的明るいので、顔の下半分だけでも誰だかわかるよー! いや、のっけからバレてるとしても、クライマックスの真犯人の演技はすごいんですよ。
・フィルム撮影による曇天のようなもやっとした色調と、アリプロジェクトの片倉さんの陰鬱な中にも気品のある音楽が非常にマッチしていて、オープニングからいやがおうにも期待感が増す。片倉さんこそ、もっといろんな映像作品で音楽を手がけていただきたい! でもあれですね、佐藤嗣麻子監督作品って、4K デジタルリマスターとかしないほうがいい作風なんだろうなぁ。
・風紀指導と称して女子高生をべたべた触る教師の沼田を演じる岡村さんの手つきが笑っちゃうほどいやらしい! 一瞬、実相寺昭雄監督の作品かとみまごうばかりの手指のねちっこさ。いや、こんなの90年代だったとしても「イヤな先生」どまりじゃなくて犯罪者でしょ……
・冒頭で敵役が「とんでもない魔力を持った奴が来る」とふって、歩いてくる主人公の足や後ろ姿でひっぱっていき、満を持して振り向きざまにミサが名乗るところでタイトルがやっと出るという、この一連の流れの美しさ! 決して新味があるわけでもない実にオーソドックスな導入なのだが、これをてらわずにちゃんと正面きってやれるっていうことが、佐藤嗣麻子監督の確かな実力を物語ってるんですよ。漢らしい!
・朝のホームルーム前に教室で2~3人のクラスメイトを集め、東京都の地図を広げてオカルト話を熱心にする生徒・水野。かなりかんばしいオタク臭をはなつ場面のはずなのだが、演じているのが声も良くてちょっと不良の雰囲気もあるイケメン高橋直純さんなので、スクールカースト底辺感が微塵も感じられない! ダウト!! それを証拠に、話聞いてんの全員女子だし……ヘアスタイルも、それ寝ぐせでもくせっ毛でもなく、完全にトッポいスプレーセットじゃんか~! さりげにイヤーカフもしてるし! この偽物め!! たぶん、当時の大槻ケンヂさん的なモテるオタクを意識したキャラクター造形だったのではないかと。大槻さんとは全く方向性が違うけど。
・水野が説明に使用していた地図をよく見ると、本作の舞台となる聖華学園の所在地が、東京都港区の国道246号線(青山通り)の南、都道418号線(明治神宮外苑西通り)と都道413号線(赤坂通りとみゆき通りの中間地点)の交差する付近、すなはち、東京都心最大の心霊スポットと言っても過言でない、あの「青山霊園」に非常に近い土地にあることがわかる。こういう一瞬しか見えないような設定にも、これ以上ないくらいおあつらえ向きな場所を選んでくる制作陣のプロフェッショナルな力の入れ方に脱帽せざるを得ない。宗教がまるで違うけど、そんなとこで黒魔術やっちゃダメー!! 天海大僧正もビックリよ。
・オタク水野の一般高校生らしからぬテクニシャンな語り口に、クラスのリア充代表の新藤たちも思わず聞き入ってしまう。いやいや、そこは「何言ってんだオメー!」とかせせら笑って本を奪い取るところでしょ!? なんだこの映画、オタクに異常にやさしいぞ……この後、全部水野の夢でした~みたいなバッドエンドオチが待ってるのか? 逆にこの生ぬるさが、観る者(オタク)の不安を掻き立てる。しかし、ほんとに水野を演じる高橋直純さんは上手ですね……そりゃ声優さんでもやってけるわ。
・2年7組担任の白井先生のふわっと立った前髪も、令和から見ると非常になつかしいのだが、教室の照明がやや黄色っぽい蛍光灯なのも、思わず目頭が熱くなるものがある。朝っぱらなのに、なんか定時制みたいな感じ……
・今どきの女子高生で、制服姿にカチューシャのヘアバンドつけてる人って、まだいるんですかね。まず校則でダメか。ともあれ、このちょっと冒険しているワンポイントで、みずきが学級委員長と言っても決してお堅いばかりの人間ではないというキャラクターがほの見える。考えてるな~、すみずみまで!
・基本的に無表情でズンズン歩く長身のミサと、その一歩前をちょこちょこすまして歩く小柄なみずきの身長差がすばらしい。この映画、セリフ以外の「雰囲気」で語る情報量が潤沢で油断ならないぞ! さすがは佐藤嗣麻子監督。
・ミサが劇中で最初に魔術を使うところで、ポーズを決めた時に「ピキュン!」という非常にアニメチックな効果音が鳴り響くのが、特撮ヒーロー番組か1980年代に大流行したキョンシー映画を彷彿とさせてかなりなつかしい。基本的に低温な印象の画作りが目立つ本作なのだが、要所要所の大事なところでこういうミーハーな演出が入るのも、バランスが良くてポイントが高い。そして、その直後のミサのパン……なんと巧妙な映像設計か!! これに魂を奪われない男がいるだろうか、いやいない!!
・キャラクター設計上の都合とはいえ、ぎこちない硬質な演技の続く本作のミサなのだが、だからこそ、時々ちょっと口元が緩んだところを見ただけでものすごく得をした気分になる。う~ん、すべては佐藤嗣麻子監督のたなごころの上か! 演技がうまい以外の俳優の魅力の引き出し方を本当によくわかってらっしゃる。
・とかく目力で言うと2代目ミサこと佐伯日菜子さんが話題になりがちなのだが、初代の吉野さんも十分すぎる程に目力がハンパない。人の心をえぐるような強烈な眼光……なんか、NHKの『人形劇 三国志』の川本喜八郎作の人形みたいな人間離れした目よ! たとえが昭和!!
・屋上に続く階段の最上階踊り場という、「密談と言えば、ここ!」な場所で沼田先生を呪う儀式を行おうとする水野グループ。儀式に使われる(原宿で買った)わら人形を見てミサがにやっと笑うところが、「よかった、みずきを呪詛した物じゃない。」という安堵でなく、どう見ても「これだから素人は……」みたいなプロ目線からのあざけりにしか見えないのがたまらない。所詮は原宿……
・水野グループの誰かが隠し撮りしたらしい、沼田先生の顔写真が非常にいい表情をしている。こういう絵に描いたようなゲスい悪役って、現実世界には掃いて捨てたいくらいにいるのに、フィクション作品の中ではとんと見なくなりましたよね……どんな悪役も、実は同情の余地があるみたいな背景を語られて中途半端になっちゃう。ドラマ『人間・失格』の斎藤洋介さんくらいにすがすがしいまでのワルはいないのかと! 江口のりこさんの今後のご活躍に期待したい!!
・呪いでみごと沼田先生の腸を冥土送りにしたミサに2年7組の女子たちは拍手喝采。メンツ丸つぶれになった水野は、揶揄する新藤に「うるせぇ!」と叫び、入口の壁をバン!と叩いて教室から出ていくが、それに女子たちがいっさい反応していないのが、水野の存在感と声量の小ささを象徴している。くじけるな、少年。
・カーテンを閉め切った美術室の中で、「ほんとにこれ一般映画なんですか」と思わず目を疑うような痴態をけっこう長め(約2分10秒)に繰り広げる、白井先生と田中さん(たぶんここらへんが劇場公開版ではカットされた部分かと推察されます)! 特に『ウルトラマンティガ』を見て育った人が見たらショックは甚大なのではないだろうか。イルマ隊長~! 前からあやしいあやしいとは思ってたけど、やっぱり!!
・復讐の炎に燃える水野の策か、たちまち学園中に広まってしまったミサの過去に関する黒いうわさ。ミサはひとり屋上で、胸に隠し持っていたロケットペンダントの中の髪の毛に哀しく戸惑う思いを打ち明ける。この時点でミサが本音を語ることのできる人間は学園内に誰もいないので、物を相手にしてという奇策を使ってでも、10代の少女らしい弱さを正直に吐露するシーンを入れるのは、ミサを感情移入しやすい物語の主人公にするために絶対不可欠な演出である。そうしないと寡黙でとっつきにくい異能者になりすぎちゃうから。ここもすばらしいバランス感覚!
・さすがは黒井ミサ、スポーツ万能のイケメンに「俺と付き合わない?」と告白されても、こともなげに「私のまわりにいる人はよく死ぬから、かまわないで。」と断れる女子はそうそういないだろう。ケンシロウみたいな、自らの宿命への諦念を感じる。これをちゃんと演じきれる吉野さん、やっぱただもんじゃない!
・白井先生が放課後の追試の告知をするシーンで絶対に見逃してはならないのは、それを聞いている時のみずきの表情である。一見、心ここにあらずというか、カメラが回っているのに気づいていないかのような「無」の状態で虚空を見つめているのだが、のちのちの展開から振り返ると、かなり恐ろしい感情が心中に渦巻いていることがよくわかる。モブのような位置にいても、ちゃ~んと菅野さんは演技してるわけよ! ほんとすごい、この17歳。
・田中さんを操り人形のように支配する手練といい、一人になった時にこれ以上ないくらいにワルい笑みを浮かべる様子といい、本作の白井先生はかなり教科書的に優秀な「限りなく疑わしいデコイ」ポジションをまっとうしているキャラクターである。まるで2時間サスペンスの中尾彬か萩原流行のような美しき伝統を堂々と取り入れるのも、佐藤嗣麻子監督の「直球ストレート勝負」な漢前っぷりの証左ではないだろうか。惚れる!!
・陽が落ちた学校校舎に鳴り響く重々しい13点鐘、そしていつの間にか教室の黒板に記されていた「13」の文字! ここ、この日常から非日常へ転換を、セリフも BGMも使わずに映像のカット割りだけではっきり観る者に知らしめるテクニックが素晴らしい。う~ん、ワクワクする! 佐藤嗣麻子監督には、今からでも全然遅くないから辻村深月先生のデビュー作『冷たい校舎の時は止まる』を映像化していただきたい!! でも、本作の時点でもう半分くらい映像化してるか。
・後半を展開を見ていてしみじみ思うのだが、なんで1990年代の中盤に、1970年代にはやった『エコエコアザラク』が映像化されたのかって、そりゃもう当時大流行していた「学校の怪談」ブームに乗っかるのに最適だったからですよね。でもこれ、シリーズ化された東宝の映画『学校の怪談』よりも早く作られてるから(『エコエコ』が1995年4月公開で『学校の怪談』は同年7月公開)、こっちのほうがブームの起爆剤となったのか? でも、なにかとアダルトだからブームの本流とは言い難いか。
・1学年で7組もある規模の高校のわりに、美術室や職員室がのきなみふつうの教室と同サイズのせまっ苦しさなのはなぜ……と気にするのはなしだ! いろいろスタジオのやりくりが大変なのでしょうね……それにしても職員室のブラウン管テレビと灰皿がなつかしくてしょうがない。
・一気に5人もの登場人物たちが惨殺される職員室のシーンも、よくよく見ると「音楽」、「減っていく黒板の数字」、「ドアを内側から叩く生徒」、「照明」、「血のり」だけでちゃんと盛り上げて描いているのが、怖くなるよりも感心してしまう。やっぱ、必要なのは金より知恵よね! 佐藤嗣麻子監督の旦那さま、そうですよね!!
・水野の「守る? なんにもできなかったくせに。」という非難に、思わず胸のロケットを握りしめるミサの描写がものすんごくいい。確実にミサの過去に、大切な誰かを守れなかった哀しい経験があったんだなと思わせる演出! 気になりますよね~、ロケットの毛髪の主。
・本作において、ミサが一貫して自分の使う黒魔術に対して「負い目」を持っているのが非常に興味深い。とはいえ、転校して早々に沼田先生に呪いをかけているので新藤たちはミサがちょっと違う人種であることは充分認識しているのだが、それでも周りに聞こえないように小声で呪文を詠むという抵抗が、魔女に徹しきれないミサの未熟さを象徴しているようでかわいらしい。あと、屋上に続く扉を開けたような手ごたえを感じて「やった!」みたいなとびっきりの笑顔を見せるところも、いいね! 開けられなかったけど。
・もうとにかく、本編時間残り13分からの菅野さんのブーストのかけ方がものすごすぎる! こりゃもう実際に観ていただくより他ないのだが、魔王ルシファの召喚が目的と言うが、あんたもう召喚してるんじゃありませんかってくらいの大迫力でミサにせまる! アイドルじゃあないよね~、その笑い方!!
・ミサの質問に対しての「はい」という意味の菅野さんの「フハハ!」という笑いが大魔王の風格に満ちている。こわ~! けどお茶目。
・本作は、いまや『シン・ゴジラ』や『ゴジラ -1.0』で世界的に知られる、山崎貴ひきいる VFXプロダクション「白組」が特撮に参加している作品なのだが、実際に CGを使用しているカットは本当に数えるほどしかないのが、映画特殊技術の歴史を見るようで印象的である。スピルバーグの『ジュラシック・パーク』第1作(1993年)だって、よくよく見ると CG恐竜の出演カットは意外と少ないもんね。ほとんどのアクションが血のり、ダミー人形、送風機などの伝統的な手作りスプラッタ映画方式で作られているだが、肉体が粉になって飛ばされるミサのあたりから、急に作品が変わったかのように惜しげもなく投入されていく CG作画の力の入れようは、まさに現在の白組を予感させるものがある。ま、召喚された魔王ルシファのお姿はご愛敬ですが……『孔雀王』(1988年)を観たときも、ラスボスがあんな感じだったからガッカリしたっけなぁ~!
・最期数秒の断末魔というのをいいことに、菅野さんがアイドルとしても女優さんとしても17歳のうら若き女の子としてもいかがなものかという顔を見せてくれるのが、サービスといってよいのかどうか……それを見せられて喜ぶ人は少ないですよね、いや、私は喜ぶけど。
・本作のラスボスの末路が、『ジョジョの奇妙な冒険』第3部のラスボスの敗因とおんなじくらいに「ごくごく自然な道理」な感じがして、ミサと同様に観る者にやるせない無力感をもたらす。大将、そりゃ無理ってもんですわ……相手わるすぎ。
・恐怖の夜が明け、朝焼けの屋上にひとり立つミサ。そして、朝もやの中、歩いてゆくミサの後ろ姿にしっとりとかかるエンディングテーマ。最高ですね! やっぱり、ダークヒーロー、ダークヒロインはひとりで地平線の彼方へ去ってゆくもんなのだなぁ。佐藤嗣麻子監督、最後の最後までわかってらっしゃる。


 ……長々と失礼いたしました。
 ともかく、この『エコエコアザラク WIZARD OF DARKNESS』は、81分という小兵でありながら、いや、その短さであるからこそ、佐藤嗣麻子監督の「ここは絶対におさえる」という映像美学が頭からしっぽの先までぎっちり詰まった至高の傑作となっております。
 そりゃまぁ予算の少なさは推し測れるわけなのですが、アイデアとセンスでどうとでもしてやるという気合を感じることができます。漢!!

 そして、監督の才覚もさることながら、「大事なところに1990年代の菅野美穂さんを召喚した」という奇跡の一手が、この作品をもう1フェイズ上の伝説に昇華させたことも忘れてはなりません。

 これ以降も『エコエコアザラク』シリーズは連綿と続いていくわけなのですが、まさに魔女の物語らしく、第1作たる本作がこれ以降に与えた「呪縛」は、そ~と~に高いハードルとしてのしかかってくるのでありました……
 そのうち、続編の第2・3作に関する我が『長岡京エイリアン』の記事も、ちゃんと完成させてまいりたいと思います。もうちょっとお待ちになっておくんなせぇ! 菅野美穂さんのさらに超気持ち悪い大怪作『富江』も、忘れてはおりません!

 セーラー服と黒魔術、バンザイ!! 結局はそこよね。
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てかこれ、神木くん版『帝都大戦』じゃ~ん!? ~映画『ゴジラ -1.0』~

2023年11月05日 10時37分18秒 | 特撮あたり
 どもども、みなさんこんにちは! そうだいでございます~。
 みなさん、2023年の文化の日は3連休となりましたが、いかがお過ごしでしょうか。私は幸いお仕事も休みでまるまるの連休となりまして、ありがたい限りでございますよ。もう思いっきり、家にたまった積ん読本の消化にまわさせていただいております。って言っても、じぇんじぇん平積みの本が減らない……でも、これは飛ばし読みすればいいってもんでもないんでね。少しずつ、少しず~つ味わって進めていきたいと思います。
 でも今年は多少、働き方を変えさせていただいたおかげで、ここ数年とんと思い出すことのなかった「読書のたのしみ」を再び感じることができているような気がします。歳もとってきたし、この頃は家に帰ってきた時点でヘトヘトの日々で、本のページを開いたらもうすぐ睡魔が襲ってきて読書がまるで進まない状態が続いていたんですよ。でも、最近はやっと最後まで読み切る体力と余裕が戻ってきたかな~と。そうそう、私の原点というか、脳みその大半は本からいただいた栄養でできているんだよな、としみじみ実感しております。

 そんなこんなでなんとな~く日々是好日なわたくしなのですが、読書以外の楽しみに関しましても、今年2023年は『シン・仮面ライダー』にキッチン戦隊クックルン10周年にプリキュア20周年記念に『ガメラ・リバース』にドラキュラ復活とねぇ、1980年代生まれで特撮やアニメ、ホラーにまみれて育った私としましてはうれしいイベントが目白押しでございました。去年も『シン・ウルトラマン』とガイガン生誕50周年祭があったし。『仮面ライダー BLACK SUN』は、まだ観てないんだよなぁ。なんか重たそうで。
 我が『長岡京エイリアン』といたしましては、このムーブメントの中に、どうしても「ゴジラさん抜きの単独の仕事でぬいぐるみ復活したおギドラさま」というトピックも入れたいのですが、いかんせん TVコマーシャルだし、第一復活されたのがよりにもよって「護国聖獣」のおギドラさまなんでねぇ。手ばなしにバンザイ三唱できないひねくれ信者がここにいます。えっ、おギドラさま、ゴジフェスのアレにも出られてんの!? でも……こっちもやっぱり忠犬みたいにかわいらしい顔のおギドラさまなのよねぇ。20年以上も前の着ぐるみなのに、よくぞ良好に保存されてたと感心しますけどね。
 そんでこれからは、水木しげる生誕100年記念ということで『ゲゲゲの鬼太郎』の単独新作映画も公開されますからね! たのすみだ。

 こんな、奇跡のような一連のイベントラッシュの中でも、話題性において特に最大規模と言ってよろしい大作映画が、ついに先日11月3日に公開されました! いや~、もうネット上では話題沸騰と言いますか、観た方々の感想レビューでもちきりですよ。そんなお祭りに泡沫ブログのうちも加わろうという算段でございます。空気に触れた瞬間にパチンと消えてしまいそうな泡沫記事ではございますが、泡も集まれば……?


映画『ゴジラ -1.0』(2023年11月3日公開 125分 東宝)


 公開日からもう少し日が経ったころに落ち着いてじっくり観たかったのですが、我慢できずにこの連休内に観てしまいました。だって、ネットで見る動画見る動画、ピー音がかかってたりネタバレ御免だったりで、気になってしょうがないんだもん……

 言わずと知れた、日本特撮界を代表し牽引する超老舗作品『ゴジラ』シリーズの通算37作目の最新作にして「ゴジラ生誕70周年記念作品」という大看板を背負った、全特撮ファン待望の一作であります。
 そうか、『ゴジラ 怪獣惑星』3部作(2017~18年)とか『ゴジラ シンギュラポイント』(2021年)とかハリウッド版モンスターバース2作(2019、21年)があったから、そんなに空いてる印象は無いのですが、『シン・ゴジラ』(2016年)から実に7年ぶりの本家新作になるんですねぇ。でも、あらためてこう観てみると昨今のゴジラファンはほんとに果報者ですよ。『メカゴジラの逆襲』(1975年)から1984年版『ゴジラ』までの9年間とか、『ゴジラ ファイナルウォーズ』(2004年)から2014年ハリウッド版『ゴジラ』までの10年間の完全空白がウソのような豊穣っぷり! ゴジラさん、老いてなお盛んなり、ですねぇ。

 そいでま、なにしろ直系の前作があの大ヒット作『シン・ゴジラ』になりますので、世間でも何かと比較されることの多い今作でございます。興行収入80億円超えの作品と比較されちゃうんですから、ハードルが高いなんてもんじゃありませんよ! ハードルのバーが雲の上にあるから見えない、みたいなレベル。
 我が『長岡京エイリアン』における『シン・ゴジラ』の感想記事は、こちらこちらでございます。え! 私、記事2つも作ってたっけ!? 長いよ~!! いや、今回もおんなじくらいになる、かな……でも前後編にはならないから、だいじょうぶ! たぶん……

 いつもだったら、ここで Wikipediaさまから拝借した『ゴジラ -1.0』についての基本情報をのっけるところなのですが、今回は省略してちゃっちゃと感想本文に入りたいと思います。ストレートに、すっぱりと。
 なんでかっていうと、私、山崎貴監督の作品を一本たりとて、ちゃんと最初から最後まで観たものがなかったんですね。なので、知らない監督の情報を羅列しても意味はないかと思うので。
 そうなんです。確か『3丁目の夕日』シリーズの何かと、くだんのゴジラ特別出演シーンを TVで観たくらいで、今まで全然観たことなかったんですよね、山崎作品。佐藤嗣麻子監督の作品のほうはよく観てるつもりですし、大好きなんですが。
 これはまぁ、単に縁が無かったということもあるんですが、監督作品が公開されてもなんだか悪評を聞く機会が多いような気がして、まず観る気が無くなってしまうというパターンが多かったのです。
 そういう悪評も、ほとんどが素人さんの声なので信用するに足るかどうかはわからないのですが、「キムタクヤマト」だの「ドラ泣き」だのと、やたらと印象に残っちゃうのが始末に負えないんですよね。実際に面白いのかどうかはわかんないのですが、怪しいものにはお金は払えないな、ということで、食わず嫌いになっていたのです。
 でも、今回ばかりは世間の評判がどうとかなんて関係なく、スルーは絶対に許されないゴジラシリーズですから! やっとこのチャンスが来たということで喜び勇んで観に行ったわけなんですが……さぁ、初山崎監督の、感想やいかに!?


おもしろかったが、怪獣映画ではない!! ゴジラ映画でもないかな!?


 一言であらわすと、こんな感じでございました、私は。
 あの、以下は可能な限りネタバレを避けるように文章をつづるつもりなんですが、いかんせんそこはエンタメ映画ですので、面白さが作品の核心に直結していることは当然ですので、できればこの記事をお読みになる奇特なあなたさまも、是非とも『ゴジラ -1.0』をお近くの劇場で楽しまれてから読んでいただきたいと請い願います! 映画館で観る価値はありますよ! ゴジラシリーズは観た後のコストパフォーマンスも怪獣級ですからね。想像力が羽ばたきます!

 わかりやすく、先ほど申した文章を3つの要素に分けて、感想をくっちゃべっていきましょう。


〇おもしろかった点

 これはもうやっぱり、タイトルの「-」に全く偽りのない、あらゆる方面での人類、というか日本人側のマイナス感、物量不足感、アウェー感ですよね。物語の舞台となる1947年の日本にまとまった戦力などあるはずもなく、駐留している GHQの軍事力にも期待できないという、歴代ゴジラ作品史上最も力のない苦境にあって、一体どうやってあの水爆大怪獣ゴジラを倒すのか!? この難題に敢然と立ち向かう戦後東京の一般市民の姿を追い、クライマックスの乾坤一擲の「わだつみ作戦」を圧倒的ビジュアルで描く、本作の中盤からラストにかけての勢いは、とってもハイテンポでストレスが少なかったかと思います。そして、まさに決死の意志を持ってわだつみ作戦に参加する、神木隆之介さん演じる主人公・敷島! 敷島のゴジラへの深い思いや、敷島の搭乗する「秘密兵器」の復活にまつわるエピソードもからんで、群像劇と主人公の復讐劇とがゴジラに一気に集中していく流れは、『シン・ゴジラ』の「ヤシオリ作戦」の例を挙げるまでもなく、「人類 VS ゴジラ」の歴史に新たなる1ページを刻む名勝負になっていたと思います。

 兵器を駆る敷島とゴジラのタイマンという、古くは『ゴジラの逆襲』(1955年)、最近はアニゴジを思い起こさせる展開は実にアツく、最先端の撮影技術を駆使して、まるで観客が搭乗席の敷島になったかのような感覚になれるドッグファイトシーンは、まさに手に汗握る本作ならではの見せ場だったのではないでしょうか。さすがは、『ゴジラ ザ・ライド』の山崎監督ですよね!
 でも、あそこで私が真っ先に連想したのは、ゴジラシリーズじゃなくて『帰ってきたウルトラマン』第18話『ウルトラセブン参上!』(1971年8月放送 脚本・市川森一)における、地球防衛チーム MATの加藤勝一郎隊長が搭乗するマットアロー2号単騎と宇宙大怪獣ベムスターとの対決でした。あれも超名シーンよ~!!
 あのエピソードでの加藤隊長も、親友だった宇宙 MATステーションの梶隊長(演・南広)をベムスターに殺されているため多分に私怨のこもった因縁があったわけですが、あのベムスターを相手に戦闘機1つでなんて……ゴジラをはじめとする東宝怪獣と円谷プロのウルトラ怪獣を比較するのは古来ご法度とされていますが、それでもあえて言わせていただきますと、今回のゴジラよりも、ベムスターと戦い続ける方が難しくね!? だってベムスターは頭の角からけっこう頻繁にビーム弾を撃つし、自分も飛べるんだぜ!? 今回のゴジラの放射熱戦は、威力は確かにすごいんですが連射はできませんもんね。ついでに言うと、敷島はいちおう確固たる作戦の一環としてゴジラを一人であおっていたわけですが、加藤隊長は特に何の公算もないままベムスターに挑んでますからね。おそらく被弾するか燃料が尽きかけたらベムスターに特攻して果てるつもりだったのでしょう。その勇気やよしなのですが……組織のリーダーとしては、どうかなぁ!? 敷島よりも加藤隊長の方がよっぽど日本軍人っぽいですよね、いい意味でも悪い意味でも。
 ちなみに、放送本編中で加藤隊長はえんえん6分もの間ベムスターとタイマンをはっていたのですが、そのあいだに帰ってきたウルトラマンが地球~太陽間を往復しているので、実際には絶対それ以上の長時間にわたってファイトを繰り広げていたと思われます。正気じゃない……

 話がみごとに脱線しましたが、ともかく、主人公・敷島の物語を強く観客に訴えかけ、恨み骨髄のゴジラへの復讐、というか自分自身へのけじめをつける成長の路程を克明に描いた今回の『ゴジラ -1.0』は、当然ながら神木さんの入魂の名演もあいまって「見せたいところがはっきりしている」大作映画にふさわしい内容になっていたと思います。ひとつの作品としてのまとまり、カラーが明確なんですよね。


●怪獣映画じゃない

 これは、どこからどう見ても戦争映画ですよね。
 こういう言い方をすると「何言ってんだ、反戦映画だろ!」と思われるかもしれないのですが、もともと戦争映画と反戦映画は白か黒かみたいな正反対の意味のジャンルじゃなくて、「反戦の意図を持っている戦争映画」っていうのが、戦後日本で制作される戦争映画のほぼ全部じゃないですか。戦争を肯定する戦争映画なんて、プロパガンダ映画ですもんね。そんなもん、民主主義国家の日本で作られるわけない……と、信じたい。
 それで、太平洋戦争で活躍して奇跡的に生還した軍艦や兵器の数々が生き生きと現役復帰してゴジラ対策に投入されちゃうと、あ、これは戦争が終わってる時期のお話なんだけど、戦争兵器のロマンを駆り立てるねらいはあるな、と思わずにはいられません。実際に、主人公の敷島も「自分の戦争は終わってない。」と言っていたし。
 今作を観てしみじみ感じたのですが、昭和ゴジラシリーズの多くを手がけた円谷英二特技監督や本多猪四郎監督は、本当の戦争を知っておられたからこそ、自身の特撮映画に出す戦車や戦闘機といった通常兵器の数々を、あえてちゃっちい作り物感まるだしで撮影していたのではないでしょうか。そこには多分、人を簡単に殺せる道具の呪われた「美」みたいなものを新しい世代の子ども達に見せたくないという、プロとしての判断があったのではないかと思われるのです。だからこそ、彼らが創案したメーサー殺獣光線車やマーカライトファープは、他の既存兵器とは一線を画す、むしろ退治しているはずの東宝怪獣たちに近い体温と生命を宿しているのではないでしょうか。それは平成 VSシリーズのスーパーX シリーズとかにも受け継がれているんでしょうけど。

 そう思うので、実在した重巡洋艦や駆逐艦がリアルに活躍するのを見て、私はなんだか複雑な気持ちになってしまうのでした。まぁ、そういう物のカッコよさを語る作品もホビーの世界にあっていいとは思うのですが、ゴジラシリーズでやるのはどうなんだろうなぁ、と。ちょ~っと、軽率なんじゃない? なんたって時系列的に、本多監督の『ゴジラ』(1954年)の直前を標榜する作品なんですから。

 あとこの映画、明らかにゴジラが「ぱたっ。」と出てこなくなる時間が中盤に2ヶ所あり(銀座襲撃の前後)、そこで展開される敷島と「巨大生物対策本部」のストーリーが長く感じちゃうんだよなぁ! そして、そこに濃厚にただよう戦後混乱期日本のひもじさ、寒さ、飢餓感、焦燥感、徒労感……
 重い、暗い! この映画は、この画面は、あまりにも重苦しすぎる!!
 いや、待てよ。私はこの荒廃した東京の重苦しさを知っている。なぜ? 1980年代に生まれ、せいぜい千葉に15年くらい住んでいたのが関の山だった純山形県民の私が、なぜにこの空気を、この土ぼこりのけむたさを、病院の薬臭さと血なまぐささを知っているのか……

 そうだ……『帝都大戦』だ!! この『ゴジラ -1.0』は、あの呪われた超怪作トラウマ SF映画『帝都大戦』(1989年)に、異様に似通った点が多いのです!! スクリーミング・マッド・ジョージ!!

 映画館で観ている最中にこの真理に思い至ったとき、私は脳天に焼け火箸を突き立てられたような衝撃を受けました(©横溝正史神先生)!
 そうだ、敷島を演じる神木さんは、かつて名子役の神木くんだった時に、かの平成版『妖怪大戦争』(2005年)において、伝説の魔人・加藤保憲と一度あいまみえていたのです! カァアトォオオ!! げろげろげろ。
 加藤が帰ってきた……しかも今度は、「キリン一番搾り糖質ゼロ」をひっかけたくらいでやにさがって中条あやみさんとアハハウフフしているような惰弱な依り代ではなくて、身長 50m、体重 2万t の水爆大怪獣に憑依してきたのだ!! そりゃ大人になった神木さんもガタガタ震えますよね。助けて麒麟送子!!

 いやほんと、『帝都大戦』と『ゴジラ -1.0』、構図と雰囲気がよく似てるんですよ。
 『帝都大戦』のヒロイン……というか真の主人公・辰宮雪子(演・南果歩)は、かつて少女時代の前作『帝都物語』(1988年)において魔人・加藤保憲に拉致され東京壊滅のための大怨霊・平将門復活の依り代にされかけたという超絶トラウマをかかえた娘さんで、太平洋戦争末期の東京で夜ごとの空襲におびえながら、さらに「加藤が帰ってくる」という幻影にとり憑かれ苦悩し続ける日々を送っているのです。
 これ……戦争体験ではないけど、完全に敷島の PTSDにオーバーラップする深い心の傷ですよね。そして、最終的に自分自身が悪夢の根源にいる加藤と対峙して滅ぼすことでしか、「自分の戦争を終わらせて」新しい復興の朝を迎えられないという窮状も、実に敷島と似ているものがあるのです。
 あと1947年と45年ということで、場所もおんなじ東京だし、あらゆるロケーションが似てるんですよ。この2作はほんと瓜二つ! 男女の一卵性双生児!?
 でも、だからといって私は、この記事を読んでいるあなたに『帝都大戦』の視聴を薦めているわけでは決してありません。やめとき……全年齢で観られる『ゴジラ -1.0』の印象が、それこそこの作品のゴジラのはなつ放射熱戦レベルで吹き飛ぶくらいの衝撃 SFX残酷グロテスク描写のオンパレードですから。あと、上野耕路さんの劇伴音楽がむ~っちゃくちゃ怖いよ!! 我が『長岡京エイリアン』でも『帝都大戦』についての記事はありますが、ほんと、視聴の精神的ダメージは自己負担でね! とんでもない映画よ、まじで。
 そういえば、かわいいはかわいいんだけど、おかっぱ頭の子役の女の子がどっちも顔色が悪くてかわいそうというのも、2作に共通するポイントですね。ほんと、明子ちゃんを何度も一人にする敷島の所業だけは許せん!! もっと、女の子の心臓とおしりを安定させて抱け! 腕から落ちそうだから怖がるだろ!!

 そうそう、劇伴音楽というのならば、今作は音楽面ではほぼ0点なのではないのでしょうか。いかなプリキュアシリーズで大恩のある佐藤直紀先生とは言え、これだけは言わせていただきますぞ! 繊細な音楽なんでど~でもいいから、佐藤先生なりのゴジラマーチを出さんかい!!
 大事なところはぜんぶ伊福部先生に丸投げにしやがって……しかも、作品の大看板になっている銀座蹂躙シーンで2回も「モスラの動機」を流してやがるよ!! わだつみ作戦で勇壮な「キングコングの動機」が流れるのは100歩ゆずって受け入れますが、なんで絶望の破壊シーンで「♪ま~は~ら~」みたいな癒しの旋律が流れるんだよ~う!! これは監督の選曲センスの問題か? ちゃんと完成映像を観ながら演奏録音していた伊福部先生に謝れェい!!

 まぁ、にしてもあの魔人・加藤と戦った経験のある神木さんを今作の主人公にキャスティングしたという点は、ポイント高いですね。
 でも、だったらだったで、『帝都大戦』における斎藤洋介さんや野沢直子さんのように、虫けらのように命を散らす印象的なキャラクターがいてもいいとは思うのですが、そこらへんが今回の『ゴジラ -1.0』はいかにも手ぬるいといいますか、きれいごとになっちゃってますよね。最初はかなり陰険でいい感じだった安藤サクラさん演じる澄子も、なしくずし的に「ふつうの善人」になって生き残っちゃうし。

 ラストのラストに控えているあの展開も……ねぇ。
 「フィクションなんだから、そのくらいの奇跡あってもいいじゃん!」という判断があったのだとは思います。思うのですが……
 あなた、もし東日本大震災をテーマにした映画があったとして、あの漆黒の大津波にがっつり吞み込まれて消えた登場人物が、あとで「助かってました~。」みたいな感じで出てきたら、それ、許せる? 私はちょっと……

 山崎監督って、ゴジラシリーズ第25作の『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』(2001年 以下 GMK)が大好きなんですよね。
 だって、具体的には言えませんがアレもコレも『 GMK』まんまじゃないですか。もう、リスペクトやオマージュを超えて「いいネタが思いつかないからもらっちゃいました」みたいな域にいってる気もするのですが……
 そこまで好きなんだったら、せめて『 GMK』に出てきた篠原ともえさんくらいに観客に凄惨なインパクトを与える、『帝都大戦』でいう「だいじょうぶ、病院は撃たないからっ☆」からのズダダダ!!みたいなトラウマシーンのひとつやふたつくらいは作っててほしいですよね。あれだって、大した SFXも特殊メイクも使ってないのに、人間の演技とカット割りだけであれだけの恐怖と戦争のむなしさを演出してるんですから。

 最先端の CG技術でその場にいるかのように描かれたゴジラが素足で人をどんどん踏みつぶして来るから怖いでしょ? じゃないんですよ。もっと頭を使って、カメラワークと役者さんの演技で観客の感情を揺さぶる映像を創出するのが、映画監督なのではないのでしょうか。


●ゴジラ映画じゃない

 これは、もう設定が「初代ゴジラ以前の物語」となっているので、しょうがないっちゃしょうがないのですが、「実在の危険生物」と「アニマルパニック映画の巨大モンスター」と「日本的な怪獣」をその生命力や強さでむりやり横一線に並べてしまうと、今回のゴジラは明らかに東宝や円谷プロの作品に出てくる怪獣らしくないというか、むしろ『ジョーズ』のホホジロザメ・ブルースくんとか『トレマーズ』シリーズのグラボイズのほうに近いような気がします。っていうか、1998年のハリウッド版『ゴジラ』? いや、放射熱戦が吐けるし再生能力も尋常じゃないしで、強さは段違いなのでしょうが、ちゃんと弱点のある存在なんですよね。
 これはこれで、そうしないと映画がきれいに終わらないので仕方ないのは百も承知なのですが、う~ん……オキシジェン・デストロイヤーみたいな空想兵器の出る幕も無く、人間のアイデアで殺せるゴジラ? う~ん……
 せっかく向こうのハリウッドでも日本の怪獣っぽいゴジラが定着しつつあるというのに、おおもとの日本で、な~んか今さら海外におもねるモンスター的なゴジラになっちゃうのって、海外のゴジラファンのみなさまにしてみたら、どんなもんなのでしょうか。これも時の流れなんですかね。

 あと、これだけは声を大にして申したいのですが、今回のゴジラって、そんなに怖いか?

 私はなんですが、別にそんなに怖くないんだよなぁ、あのゴジラ。いや、目の前にいたら確実にぶっ殺されるからいてほしくはないんですけど、そんなもん、昭和ゴジラシリーズのミニラだって、念入りに踏みつぶされたら私、死にますからね。
 迫力は、確かにある。迫力はあるんですが、特に肝心かなめの銀座蹂躙シーンで、怖く見えなかったんですよ。なんか世間でつとに喧伝されているほど、人間を襲っている感じがしなかったのです。
 これ、映画を観ながらなんでなのかな~って考えてみたんだけど、私なりにわかりました。

 あれ、歩いてる時のゴジラの姿勢が良すぎて、足元の人間を追ってるように見えないんですよ。大胸筋がムッキムキに発達しすぎて背筋がのびちゃってるから、顔と目線が必要以上に上がって何キロも先の向こうしか見てないようになっちゃってんのね! だから全然怖くないんだ。こっち見てないんだもん。
 プロローグの大戸島シーンも掃海艇の追撃シーンも、確かに目は人間を狙ってるから怖いんです。でも、その怖さはゴジラ的な怖さじゃなくて、やっぱ『ジュラシック・パーク』や『ジョーズ』の怖さのたぐいなんですよね。そして、巨大な怪獣ゴジラの怖さを満を持して披露するはずの銀座シーンで、ゴジラの視線がどっかいっちゃってるという。それは……ゴジラ映画である必要、あるか?

 過去歴代シリーズにおける「怖いゴジラ」をひもといてみますと、初代ゴジラとシン・ゴジラは、どんなに身体が大きくても眼球の黒目だけは下を見ているから怖かった。1984年版ゴジラは、常になんにもない頭上を睨みつけている「目がイッちゃってる感」が怖かった(着ぐるみのほう)。そして『 GMK』ゴジラは、瞳が無い白目が生む「どこを見ているかわからないからこそ、常にどこも見ている」効果というコペルニクス的発想転換が怖かったのです。
 中でも、私が最も怖いと記憶しているゴジラは、シリーズ第2作『ゴジラの逆襲』のハンドパペットのほうのゴジラなのですが、曳光弾に誘導されて沖へ離れて行き、もうちょっとで大阪湾から出ていくぞというすんでのところで、運悪く大阪沿岸の工業地帯にあがってしまった爆発の火の手に気づき「ぬ~っ」と陸地を振り返る、あのスローモーな動きの怖さと言ったら! 怖いって言うのは、こういうこと!! 絶対的な死の象徴が、自分たちを見る、ロックオンするからこそ、その時に恐怖が生まれるのです。

 だから、今回のゴジラはまるで怖くないのです。パンプアップしてマッチョになりすぎるのも考えもんですね。逆ゴジさんを見習って減量でもしてみたら?
 マッチョもそうなんですが、あたしゃ昨今の、「やたら小顔」なゴジラも、ほんっっっっとに大っ嫌いでねぇ! あのくだらないブーム、思えば『ゴジラ×メカゴジラ』(2002年)くらいから洋の東西を問わずず~っと続いてるんですけど、いつになったら終わんの!?

 なんで怪獣もイケメン目指さなきゃいけねぇんだよ~! いい加減にしてくれよォ。
 どこの自然界に「小顔がイイ」なんていうルールがあるんだよ! 顔はでっかくてナンボでしょうが!! いや、1954年ひな形バージョンの「きのこ雲ゴジラ」さんほど大きくなれとは言いませんが。
 『ゴジラ VS コング』のゴジラなんか、よくあの片手のグーサイズの超小顔でコングにぶん殴られても平気でいられるなと心配になってしまうほどなんですが、ミョ~に男前で胸板の厚いイケメンゴジラ、ほんとに今作でおしまいにしてほしい。見飽きた!
 もちろん、1980年代生まれの私ですから、おそらくは山崎ゴジラがリスペクトしていると思われる平成「 VSシリーズ」ゴジラのイケメンっぷりも好きではあるのですが、やっぱ怪獣は異形じゃなきゃね! 21世紀も無数のバージョンのゴジラさんが生まれていますが、近年で異形なゴジラなんて、『 GMK』の白目ゴジラとシン・ゴジラと『シンギュラポイント』の毒蝮三太夫さんみたいに下あごがガッチリしたゴジラくらいなもんなんじゃないですか? 求む、キンゴジくらいに面白い顔の新人さん!!

 そうだそうだ、そういえば、ゴジラに限らず人間の俳優さんでも『ゴジラ -1.0』って、面白い顔の俳優さんがほぼ絶滅に近かったですよね。み~んな、おんなじようなふつうのお顔か、美男美女。強いてあげれば序盤の序盤のダークサイド安藤サクラさんぐらいかな? ものすごい顔だった人。
 顔見てても、おもしろくねぇんだよな……その点『シン・ゴジラ』は良かったよ~!? 元祖・加藤の嶋田久作さんでしょ、大杉漣さんでしょ、渡辺哲さんでしょ、塚本晋也さんでしょ。他にもピエールさんに松尾さんに柄本さん(父)に手塚さんに……市川実日子さんも、実はいい顔してるんですよね。
 たぶん、庵野監督はそういうことも考えてキャスティングしてるんだと思うんです。セリフなんかどうでもいいから、顔と表情だけで観客を引き付けられる画面を作れる俳優さんをと。
 それに比べて今作はというと、なんか、基本的にセリフ、大声でがなるでしょ? がなるのに、顔ふつうでしょ? 見たくなくなっちゃうんですよね、興奮してるふつうの人なんて。 
 よくわかんないけど、山崎監督の作品がアニメ的というのならば、そういうところに画面の平板さの原因があるんじゃなかろうか。

 BSプレミアムの金田一耕助シリーズでもさんざん言いましたが、吉岡秀隆さんはそうとうに業の深いお顔をされた方なんですよ……それをまるで活かそうとしないもんね、あれだけ出しておきながら! その無駄遣いは、映画監督としていかがなものなのでしょうか。


 ……とまぁ、言いたいことのほんの一部を羅列しただけで、いつものお字数になってまいりましたのでおしまいにしたいのですが、とにもかくにも、この『ゴジラ -1.0』は、絶対に映画館の大スクリーンで観ることをお勧めいたします。迫力は歴代シリーズでもピカイチだと思いますんで!

 にしても、ベクトルはまるで違うと思うんですが、怪獣映画でもゴジラ映画でもなく、山崎監督の作品をほぼ観たことのない私のような人間までもが「手癖だらけなんだろうなぁ、これ……」と容易に推察してしまうほどの「山崎映画」になっちゃってたという、この強引のっとり感。どうしても、あの『ゴジラ ファイナルウォーズ』の「フタを開けたら純度100%の北村龍平映画でした。」の惨劇を思い起こさずにはいられません。いや、あれがいいというファンの方が多いのもわかりますし、ファイナルウォーズ版ゴジラは、今年のゴジフェスでも大活躍ですから、もういい思い出なんですけどね。

 個性があるのはいいじゃないですか。長い長い歴史のあるゴジラシリーズなんですから、たまにはこういう作品があっても全然問題ないと思いますよ! なんてったって、私たちは『オール怪獣大進撃』や『ゴジラ対メガロ』、ミニラもジェットジャガーも歴史の1ページと受け入れているゴジラファンなんですからね。

 海のように広い寛容さを胸に、明日からもがんばってまいりましょう! ♪ま~は~ら~!!
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そりゃあね……おもしろくはないっすよね。  映画『清須会議』  ~10年ごしの感想!!~

2023年11月01日 23時20分00秒 | 日本史みたいな
≪前回までのあらすじ、もなにも……≫
 資料編歴代信長家臣団のあゆみの記事から、なんと10年が経っちゃったよ!


 ……いや~、ついにこの時が来てしまいました。じゅ、10年!? 感想言うのに10年もかかっちゃったの!?
 でもね、今回、ついに重すぎる腰を上げて記事をまとめようと思って、DVD で再見してみたのですが、ほんとに面白くないと私が感じた理由は、もうこんなに時間をかけるまでもなく単純明快なんですよね。ただ、当時から今に至るまでなんやかやと記事の完成を先送りにしてしまっていただけなんです。何か難しい事情があったとか、そんなことは全く無かったのであります。

 ただ、この10年で私の中での三谷幸喜さん作品への印象もだいぶ変わりました。っていうか、昨年2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、ほぼ正反対に転換したわけだったのです。
 『鎌倉殿の13人』は、もうほんとに面白かったんです。なにが素晴らしいって、脚本の伏線の張り方、オリジナリティの打ち出し方に、「史実に誠実に対峙する」という態度がしっかり守り抜かれていたんですよね。破天荒に見えるキャラクターや展開があっても、そこは三谷さんだけの発想で生み出されているんじゃなくて、一見無茶苦茶に聞こえる「異説」や「伝説」が現代に残っている状況を丁寧に取材した上で組み立てている「ハイブリッド新説」に仕上がっているのです。その、歴史への仁義の切り方が非常にすがすがしい!
 登場人物の面々も、役者さんがのきなみ名演を見せてくれましたし、第一、「人の死」というものがこれほどまでに恐ろしく哀しいものなのかと、最終回のラストカットまで戦慄させられ通しになってしまう緊張感と重厚さが、『鎌倉殿の13人』には行き渡っていたと思います。
 映画『清須会議』もそうなのですが、三谷作品の大河ドラマ『新選組!』と『真田丸』には、歴史上実在した人物の死を、正面きって重苦しいものとして描く姿勢がない……とまでは言いませんが、観やすいものに軽くしていた手法があったかと思います。いや、そうでもしないと江戸幕末も戦国時代末期も、血なまぐさ過ぎてとてもじゃないが見られたもんにならないだろうという配慮もあったのでしょうが。
 でも、『鎌倉殿の13人』は、死ぬ人死ぬ人、みんなの最期の演技が本当に真剣勝負なんですよね。あまりにも重すぎて、ハードディスクや映像ソフトで何回も繰り返し観たいとは思えないかも知れませんが、すごいよね……死にざまがすごいってことは、生きざまもすごいってことだもんね。義経、全成、上総広常、比企能員、善児、そして義時。パッと今思い出しただけでも、一体いくつの名シーンがあったでしょうか。個人的には、実朝暗殺のときの源仲章の小物感たっぷりの死にざまが最高でしたね。NHK であそこまでギリギリの表現はすばらしい。でも、私の中での『鎌倉殿の13人』ベストカットは、巴御前の最後の絶叫です。あれはもう……涙なしには観られない。

 話が長くなりましたが、結局なにが言いたいのかと言いますと、『鎌倉殿の13人』の精華は、まさしくこの『清須会議』の大失敗なくしては生まれ得なかった、「泥沼に咲いた蓮の花」だったのではないかということなのです! リメンバー『清須会議』!! 無かったことにするなかれ、黒歴史にするなかれ!!
 あ、あと、『清須会議』とはまったく関係がないのですが、今月末に公開されるらしい映画『首』が、なんだか非常にかんばしいかほりのする予告編で妙にぞわぞわしてきましたので、そっちを観る前に、いい加減こっちの方にケリを着けようという気分にもなったので、今回の感想編にとりかかる運びとなりました。『清須会議』のちょうど10年後に『首』とは……なにやら因縁めいたものを感じちゃいますね。今年の初めに公開された映画『レジェンド&バタフライ』もそうとうな珍作でしたが、なかなかどうして『首』もすごそうだぞ~。青筋おったてて家臣をののしり蹴りまくる織田信長って、いったい何十年前から時の止まっている化石イメージなのでしょうか。

 お話を『清須会議』に戻しますが、私がこの作品をおもしろくないと感じた理由は、まさに『鎌倉殿の13人』の真逆の作風、つまり「史実に敬意の無い創作設定」をけっこう多めに弄しておきながら、その効果が「単に歴史上の人物をバカにしているだけ」にとどまり、作品の面白さに全くつながっていなかったから。ほんと、ひとえにこれだけのことなのです。

 映画をざっと見て気がついただけでも、この作品では、

・「織田家家督・織田信忠」という事実の無視
・武田松姫の設定
・池田恒興の設定
・滝川一益の設定と描写演出

 という、「そこでウソついちゃったら『清須会議を舞台にしているお話』って言う資格ないんじゃない?」と言いたくなるえそらごとが満載なのです。
 これ、映画のタイトルが『喜劇・清須会議』だったり、『きよそ会議』だったら私もそんなに怒らなかったかと思うのですが……題名の段階で「フィクション史劇以前のコントで~っす☆」って言ってくれればよかったのにねぇ。

 要するに、史実の清州会議は前提として「本能寺の変の6年も前から勝幡織田家第6代当主になっていた織田信忠」の嫡男である織田三法師の「後見人」を決める宿老会議であり、その三法師が武田松姫の実子である可能性はゼロで、宿老の一人・池田勝入斎は会議に参加する前の段階で完全に秀吉派になっており、滝川一益は最初から会議に参加する気など無かったのです。

 おいおい、作品の根幹を揺るがす「事実と異なる創作ポイント」が最低4コもあるよ! しかもこれらは、「そうだったかもしれない」可能性がまるでない完全なるでっちあげなのです。「そういう異説もあるよ」なんていうロマンなどかけらもない三谷コントの思いつきと申してよろしいでしょう。ぜ~んぶ、えそらごと。

 当然、三谷さんも無鉄砲ではないわけで、言葉にこそしていませんが、本作は「史実そのまんまではありませんよ~。」と解釈できる演出は、ちゃんと冒頭で提示しています。
 すなはちこの映画は、物語の脇役であるはずの前田玄以が誰もいない清須城の1階大広間に現れて、京での本能寺の変をアニメ的に表現する不思議な絵巻物を開陳するところから始まるのです。つまり、この映画の全ては玄以の披露するえそらごとであります、と。
 でも、だったらだったで、この清州会議の後に秀吉に取り入り、最終的に豊臣政権五奉行に名を連ねる程に出世した前田玄以がこの『清須会議』を語る必然性があってもよいものかと思うのですが、この映画は玄以の出てくる冒頭の演出の意図を全く説明せず、フツーに勝家と秀吉が別れる描写で終わるのです。織田信雄があんなにバカ殿さまに描かれる理由も、黒田官兵衛が吹き矢を放って勝家がビーチフラッグスに負ける理由も、ありもしない信忠と松姫との円満な家庭生活が空想される理由も、第一に玄以が途中から脇役以下に成り果てて物語にいっさいからまなくなる理由も、説明は一切ナシです。あと、西田敏行さんや天海祐希さんがあんなにくだらない出番のためにひっぱり出された理由も!

 ほんとね、清須会議が終わった後の残り30分、本当にいらない!! なんか、あの西田さんやら天海さんやら松山ケンイチさんやらが、クソどうでもいい役柄でちょっとだけ出てくるノリって、「私の映画には、こんな日本芸能界を代表する名俳優のみなさんがたも、どんな役でもいいから出たいってせがんできちゃうんですよね~。困っちゃうなぁもう♡」みたいな声が聞こえてくるようで、とっても嫌な気分になってしまうんですよね。いや、こんなの私の一方的な思い込みなんでしょうけれどね……モテモテな陽キャののろけ話を聞かされてるようで、心のズイから怒りがこみあげてきます。

 役者さんの話をするのならば、確かに本作も、三谷監督作品らしく当代人気の俳優さんがたのオンパレードといった陣容です。その中でも、私としましては大泉さんと浅野忠信さんの演技が光っていたかな、と思います。あと、やや軽めの立ち位置でかなり自由に遊んでおられた佐藤浩市さんの「小物」演技と、中谷美紀さんのハイテンションなダンスも素晴らしかったですね。あんな浩市さんと中谷さん、今じゃもう観られないのでは?
 ただ、それ以外のみなさんは、まぁ彼 or 彼女だったらそのくらいの仕事はするだろうな~、といった感じの、まるで TVのバラエティコントのような緊張感のない演技の持ち寄りあいにしか見えませんでした。ただダッシュさせてただけの阿南健治さんとか、ボーっとしてるだけの梶原善さんとか、一体どういう感覚をしていたらそういった貴重な人材をドブに捨てるような使い方ができるのかがまったく理解できません。
 特にもったいないにも程があるのは、やっぱり主演の役所広司さんでしょう。まるで三船敏郎のものまねのような安っぽい豪傑感! 絶対にその程度しかできない俳優さんじゃないのに、なんであんなことになってるんだろう。それはもう、確実に演出している監督が「そんな感じでいいです。」とギアダウンさせてしまっているのでしょう。役所さんに限らないことでしょうが。
 やっすいものまねと言えば、お市の方役の鈴木さんもひどかった。どこからどう見ても黒澤明の『乱』における原田美枝子さまのものまね……なんですが、設定として本作でのお市の方の年齢が三十代半ばなので、演技においてもビジュアルにおいても全面でオリジナルに劣っているという負けいくさっぷり。まさか黒澤明に TVバラエティコントで挑もうとするとは……浮き輪ひとつで太平洋に浮かぶ人間を、ホホジロザメは笑って許してくれるかな?
 そしてど~しても見逃せないのは、武田松姫役の剛力さんですよね。たぶん、ご本人はとっても真面目で勉強家なんだろうなぁ。でも、声の質と絶対的能力値が……三谷さんも、よくもまぁあそこでワンカットの長ゼリフを彼女にぶっつけたな。三谷さん、剛力さんキライ?


 とまぁ、そんな感じで10年もの時が経過した今もなお、1万字になんなんとする思いのたけは、まだ残ってました!
 でも、しゃべり出したら記事を何回やってもきりがないので、最後にその他気になった点をズラズラ~っと羅列するいつもの流れでしまいにしたいと思います。一部、先に触れたことと重複する内容もありますが、DVDを観ながらたったかたーっと打ったものですので、なにとぞご寛恕いただきたく。

その他、気になったポイントメモ
〇2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』を存分に楽しんだ人間としては、やっぱり森蘭丸成利を染谷将太くん(当時21歳)が演じているのが非常に感慨深い。蘭丸くん、出世したねぇ~! 出世しても本能寺で死んじゃうけど。
〇織田信長役の篠井英介さんも、明智光秀役の浅野和之さんも、物語的に本作にはちょっとだけしか登場しないのだが、ビジュアルが非常に良い。特に光秀は、あんまり他の映像作品では採用されない「本能寺の変当時67歳説」がちゃんと採用されていて最高です。あとキンカン頭も!
〇若干コミカルに描かれている末期の信長が印象的。案外、そのくらいのフツーのおじさんだったのかも?
〇ビジュアルと言えば、「織田家の血筋の特徴」として、現代日本から見ても異様に見える程の高い鼻筋を、登場する織田家関係者全員が特殊メイクで表現しているのも、他映像作品ではなかなか見られない演出である。でも信包役の伊勢谷さんは自鼻だったとか? さすが。
〇本作の重要な物語要素として、織田信忠の嫡男、つまり信長の嫡孫の織田三法師秀信が、あの武田信玄の四女である信松尼松姫の実子であるという設定がある。つまり三法師が信長と信玄の両方の血を引くハイブリッド貴公子であるという非常に魅力的な話なのだが、実は史実の三法師の母親ははっきり確定しておらず、大小とりまぜて5説あるうちのひとつが松姫説ということになる。武田信玄の血を引く可能性20%か……でも、面白いから本作で松姫説が採用されるのも、しょうがないよね! 三谷作品だし。
〇ちなみに、松姫以外の三法師の母親候補の中には、織田家武将・森可成の娘もいる。もしこっちが正しいとすると、三法師は森蘭丸くんの甥ということになる。こっちはこっちで面白いが……武田信玄の娘に比べると、ちょっとスケールがねぇ。
●史実では、武田松姫は確かに織田信忠の「婚約者」とはなったものの、例の信玄西上作戦と三方ヶ原合戦で織田家との関係が最悪になってしまったために婚約は立ち消えになり武田家領内から出ることはなく、織田三法師が誕生した天正八(1580)年には兄・仁科盛信のいる信濃国高遠城下に、武田家滅亡後は北条家の庇護のもと武蔵国八王子にいたという。え、じゃあ、映画の中のように本能寺の変の時に信忠と一緒に京にいるのも、そもそも三法師を産むのもムリなのでは……? 本編開始3~4分のこの時点で、本作が「史劇」でないことは明確になっている。ファンタジー!
●ついでに言うと、映画では父母と一緒に京の二条新御所にいた織田三法師(当時3歳)も、史実では父の居城の美濃国岐阜城にいたらしいです。そりゃそうだよね、現代感覚の京都旅行じゃないんだから、織田家当主と次期当主候補が軽々しく一緒に行動するわけがありません。
〇本作のストーリーテラーである前田玄以が、本能寺の変当日に信忠と一緒に二条新御所にいたのは史実らしいのだが、やはり本作は、冒頭の演出から見ても「前田玄以が盛りに盛ったフィクション」と受けとめるのがいいかもしんない。でんでんさんらしいうさんくささ!
〇3年後の2016年大河ドラマ『真田丸』であんなにはっちゃけた秀吉を演じた小日向文世さんを観てしまうと、本作でいかにも苦々しく大泉秀吉の栄達を眺めている丹羽長秀の姿が非常に興味深く見える。今に見てろよ、コノヤロー!
〇実質どこからどう見ても秀吉 VS 光秀の大決戦だった山崎合戦だが、本作で描写される通り、形式上の秀吉方の総大将は信長の三男・神戸信孝だった。ここでの信孝の存在感も、他作品では省略されがちなので地味にうれしい。
●冒頭の絵巻物風アニメでも実際の撮影でも、本能寺は約2m そこそこの土塀で囲まれただけのふつうの寺として描写されているが、まさか戦国時代の真っただ中に京にあった法華宗大本山の寺院がそんなわけなく、実際には堀と土塁と石垣に囲まれた要塞のような城館であったという。だからこそ信長も油断してたし、光秀も全軍をガッツリ投入して攻め込んでたわけでねぇ。
●やっぱりこの作品は、丹羽長秀が信孝を次期織田家当主に擁立して、宿老筆頭の柴田勝家を際立たせるために古巣の尾張国清須城で会議を開こうと提案したという根幹の筋が決定的なえそらごとになっている。清州会議が開かれたのは、当時清州城に三法師(次期当主確定)がいたからなのでは……
●本能寺の変の時点で、羽柴秀吉はすでに15年以上、織田家武将として活動しているはずなので、本作の時期に正室お寧の方や弟・秀長があんなに百姓ライズした言動で秀吉を裏切者扱いしているのは、ちょっと何を今さらな感じがする。そもそもお寧は百姓じゃないし。木下家の特徴らしい耳の特殊メイクも、こっちはやりすぎじゃない?
〇予想通り、苦み走った表情に黒服の寺島官兵衛のビジュアルが非常にいい。岡田准一官兵衛ほど美化されてもおらず、斎藤洋介官兵衛ほど異貌でもない絶妙なバランス! 本作においては陽の面の強い大泉秀吉と好対照ですね。
〇上映開始から12分というスピード感で、本作の重要な舞台となる清須城が出し惜しみなく登場して、映画のタイトルがクレジットされる。清須会議が行われるのは、二重四階建て檜皮葺きの、黒壁でも白壁でもない非常に簡素な印象の天守閣の一階である。あの信長の城としては意外すぎるほど地味なのだが、だからこそ信長もちゃっちゃと清須城から出ていったと考えられるわけで、納得のいく外観ではある。そしてこの天守も、清須会議から4年後の天正地震で倒壊するわけ。言うまでもないことだが、今現在清州城跡に建っている三重四階建ての鉄筋コンクリート造の模擬天守とは全く関係がない。
〇20年ぶりに清須城に入るという柴田勝家を満面の笑顔で迎える、清須城の老足軽・義兵衛。彼を演じるのは三谷作品に欠かせない名優・近藤芳正なのだが、近藤さんは本作の翌年の大河ドラマ『軍師官兵衛』で、柴田勝家その人を演じることとなる。ものすんごい出世! でも、ずいぶんとかわいらしい鬼権六ですね。
〇本作では信長の妹・お市の方がもともと清須城に住んでいたような描かれ方になっていたが、史実の彼女は当時どうやら美濃国岐阜城にいたらしい。確かにあの信長の妹として、そっちの方が自然な気がするのだが、そこはそれ、映画ですからね……便宜上のショートカットということで。
〇清須城入城に際して勝家が一番優先したのがお市の方との接見で、秀吉が優先したのが清須城下の民衆への施しセレモニーという、上層 VS 下層の対比が非常にわかりやすい。いろいろと目端の利く秀吉の深謀遠慮を象徴するエピソード。
〇冒頭からちょいちょい登場している信長の三男・神戸信孝に対して、もっと上位のはずの次男・北畠信雄がずいぶんと後になって登場する。上映開始18分でやっと会話の中に名前が出てきて、しかものっけから勝家に「大うつけ!」と呼ばれているさんざんっぷり。まぁ、実際そうなんですけどね……山形県人の私としては、地元近くの天童市に非常に縁の深い方なので、ついつい信雄に肩入れしたくなっちゃう。
〇お市の方が秀吉を蛇蝎のごとく嫌う理由は、清須会議から9年前に彼女の夫・浅井長政を、信長の命を受けた秀吉が先鋒として攻め滅ぼし、夫妻の間にできた嫡男・万福丸を処刑したことにあるとされている。しかし、当然ながら秀吉の行動は全て主君・信長の代行としてのものであり、なんだったら勝家も浅井攻めにはしっかり参加しているのである。秀吉が嘆く通り、織田家の中でも秀吉だけを嫌っているお市の方が理不尽なのか、それとも、それだけのことをしでかしておいて「9年も経てば忘れてくれるだろう」と考えている秀吉が異常なのか……
〇上映開始から23分たち、ついに本作の台風の目となる重要キャラクター・北畠信雄が登場。しかし、居室には所狭しと役に立つんだか何だかさっぱり見当のつかない発明グッズやおもちゃの数々が……織田家きっての「奇人」としての信雄の印象を強調する演出だが、史実の信雄はそれなりの水準以上の教養はあったにしても、ともかく長期的な戦略眼のなさや中途半端な世渡り上手さがあったゆえに歴史の渦に飲み込まれた「凡人」という方が正しいような気がするので、ここらへんも本作の創作のにおいが強い。そんなの奇人変人度で言ったら、信雄なんか足利将軍家のみなさんの足元にも及ばないんじゃなかろうか。格が違う!
〇特殊メイクによるつけ耳がやたら印象に残る大泉秀吉なのだが、実は右手にずっと手甲のような布を巻いているのも、映像作品の中の秀吉像としては非常に画期的である。これはつまり、「秀吉の右手は6本指(多指症)だった」という、本作にもがっつり登場している秀吉の盟友・前田利家の証言を採用している演出であると思われる。これなんかは特に NHKの大河ドラマではまず映像化されないであろうし、映画作品ならではの味付けなのではないだろうか。別に中二病で黄金の指ぬき手袋をしてるわけじゃないんだぞ!
●これまた三谷作品の常連名優である梶原善さん演じる羽柴秀長の存在が、史実よりもずっと小さい。山崎合戦後のこの時期に秀吉の傍にいないなんてことはありえないと思うのだが……これはおそらく、ポジションが黒田官兵衛とかぶりすぎるために採られたカット策であると思われる。そんな、お寧といっしょに一般人ヅラしてこっそり入城なんてできるわけないでしょ。
〇上映開始36分で、本作の新たなるキーパーソン、織田信包が登場! 物語の中で、秀吉は清須会議を有利に導くための奇策として信包の懐柔を謀るが、史実の信包はもっと早く、本能寺の変の直後から秀吉=信雄派に属していたらしい。これはおそらく、信包も信雄も本拠地が同じ伊勢国にあるという地政学的判断からだと思われる。ちなみに、信包が本作のように兄貴譲りの西洋かぶれなオシャレ人だったという記録史料は残っていない。むしろ、毒にも薬にもならない、兄・信長に従順な常識人だったのではなかろうか。ほら、二人のあいだにいた信勝(信行)くんの一件もあるし……
〇上映開始44分で、清須会議の行く末を決める織田家新宿老として、今度は信長の乳兄弟の池田恒興が登場。演じる佐藤浩市さんの、長いものに巻かれる俗物感がいい。しかし、ここでの秀吉派と勝家派とのはざまでフラフラする恒興というのも、実は本作にしかない虚像であり、史実の恒興は中国大返しを果たした秀吉軍と合流して山崎合戦に参戦した功によって織田家宿老に昇格されたという流れがすでに清州会議前にあった。さらにこの時点で秀吉との間に、次女(若政所)を秀吉の後継者候補である甥・秀次の正室とし、次男・輝政を秀吉の養子とするという盟約を結んでいるため、会議の時にすでに恒興は、勝家と長秀がつけ入る余地などないほど濃厚な秀吉派になっていたのである。さすが、人たらしの秀吉! ちなみに、山崎合戦の直前に恒興は剃髪して勝入斎と名乗っているため、本作の時期にはツルッツルの僧形になっているはずである。なんか、信長の死後すぐに出家するというその素直さは、本作のイメージとはちょっと違う気がする。むしろ、大河ドラマ『信長 KING OF ZIPANGU 』(1992年)で恒興を演じた的場浩司さんがぴったりな気がしますね。筋は通すゼ!
〇キャラクター造形の是非はおいておいて、当時もうすっかり大女優の仲間入りを果たしていたはずの中谷さんが、かなり長い時間を使って秀吉の饗宴シーンで愛知県重要無形民俗文化財「津島市くつわ踊り」のソロダンスを披露しているのが非常にうれしい。若いな~! さすがは中谷さんだ、キャリアは積んでも、アイドルグループ「桜っ子クラブさくら組」内のアイドルデュオ「 KEY WEST CLUB」時代のステップは衰えちゃいねぇぜ! 夢はマジョリカ・セニョリータ!!
〇清須城内での秀吉派の酒宴の乱痴気騒ぎっぷりを、「あれもいくさ」と寝室から冷静に分析する前田利家。しかし、そういう無礼講パーティにいのいちばんで飛び込みたいのは間違いなく、若いころの犬千代時代に「槍の又佐」、「織田家きってのかぶき者(狂犬)」とおそれられた利家のはずである。大人になったな~!
●本作の公開後、2018年に提唱された柴裕之氏の新説によると、清州会議の前日の日付で秀吉が関東にいたと思われていた滝川一益にあてた書状に、「徳川家康と連携して北条家の織田領への侵攻を防いでくれ」としたためられていることから、清州城に参集していた織田家要人たちは、最初っから一益を会議に呼ぶ気はなかったのではないかと唱えられている。そりゃそうですよね、「関東から一益が来るかも」なんていう不確定要素のためにいつまでも待っていられる悠長さなんて、信包に言われるまでもなく当時の織田家にあるわけがありません。
〇清須会議後の祝宴での、池田恒興の「この世は生き残った者勝ちだ。俺は生き残ってみせるよ。」という発言が非常に深い。だって、彼はこの2年後に……ねぇ。


 まぁ、ざっとこんな感じよ。

 いろいろ言いましたがこの『清須会議』は、つまるところ大失敗作だと思います。
 でも、それは間違いなくのちの『鎌倉殿の13人』の大成功に結実している、長い長~い道のりのひとつだと思います。

 今2023年、令和になってしばらく経ってから観直してわかってくる『清須会議』の嫌なところは、「茶化しておもしろがる」、「無駄遣いしておもしろがる」という、実に平成らしい文化の一側面だったような気がしてきます。そして、三谷幸喜さんはそこにとどまらず、『鎌倉殿の13人』をもって令和にも大傑作を打ち出していける脚本家として進化したのではないでしょうか。
 だとすると、令和はかなり殺伐とした、余裕のない社会時代なんだろうなぁ。それはそれで、平成がなつかしく思えてくる?

 さぁ、これから公開される『首』は、どうなりますかねぇ? とっても楽しみですね!
 『首』に小日向さんが出てこなさそうなのが、実に残念ですね! でも、それじゃほんとに『アウトレイジ』のタイムスリップ版になっちゃうか。逮捕しちゃうぞ、コノヤロー☆
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