どもども、みなさまこんにちは! そうだいでございます。
今年もいよいよ秋深しとなってまいりまして、そろそろこちら山形でも冬支度を進めなければという時期になってまいりました。
でも、この冬はなんだか雪が少ないのだそうで、ここ数年はちゃんと雪かきをやらないといけない降雪量になっていただけにありがたい話ではあるのですが、ほんとかなぁ。ただ、朝夕の寒さはかなり厳しくなっているんですけどね。
さてさて今回は、ぽっと思い出したようにやっている、サスペンス映画の巨匠アルフレッド=ヒッチコック監督の仕事をキャリアの初期から振り返っていく企画の第3弾でございます。まだまだ、長い旅路は始まったばっかりよ!
映画『殺人!』(1930年7月公開 104分 イギリス)
映画『殺人!』(原題:Murder!)は、監督・アルフレッド=ヒッチコック、脚本・アルマ=レヴィル(ヒッチコック夫人)による作品。クレメンス=デインとヘレン=シンプソンのミステリ小説および舞台『ジョン卿登場』が原作となっている。『ゆすり』(1929年)、『ジュノーと孔雀』(1930年)に続く、ヒッチコックにとって3作目のトーキー映画である。
本作はトーキー映画初期の作品であるためアフレコの製作方法が確立されておらず、作中の音声は全て撮影現場での同時録音であった。そのためヒッチコックは、ジョン卿が自宅でひげ剃りをするシーンで聞いているラジオ音楽として、スタジオに30人編成のオーケストラを入れて録音した。
ヒッチコック監督自身は、本編1時間1分42秒頃に、殺人が起こった家の前を横切る通行人として出演している。
あらすじ
旅回り劇団の女優であるダイアナは、仲間の花形女優エドナが殺害された現場で、暖炉の火かき棒を前に呆然としているところを発見された。彼女は事件当時の記憶がなく、疑わしく思った警察は彼女を逮捕し、裁判は有罪となる。しかし、陪審員のひとりで有名俳優のジョン=メニアー卿は、ダイアナの所属する劇団の舞台監督エドワードとその妻の女優ドゥーシーの手を借りて事件を捜査していくことに決める。果たして3人はダイアナを救うことができるのか?
おもなキャスティング ※年齢は映画公開当時のもの
ジョン=メニアー卿 …… ハーバート=マーシャル(40歳)
ダイアナ=バーリング …… ノラ=ベアリング(23歳)
エドワード=マーカム …… エドワード=チャップマン(28歳)
ドゥーシー=マーカム …… フィリス=コンスタム(23歳)
ハンデル=フェイン …… エスメ=パーシー(42歳)
ゴードン=ドゥルース …… マイルズ=マンダー(42歳)
イアン=スチュワート …… ドナルド=カルスロップ(42歳)
マネージャーのベネット …… スタンリー・ジェイムズ=ウォーミントン(45歳)
大家のミッチャム夫人 …… マリー=ライト(68歳)
巡査の妻 …… ウナ=オコナー(49歳)
前々回の『下宿人』と、前回の『恐喝(ゆすり)』でも触れたように、ヒッチコック監督がその作風をサスペンス・スリラー系に絞るようになったのは、まだまだ後年のことでありまして、イギリス国内で当時有名だった小説や戯曲の映画化を、ロマンスやコメディ、人情ものなどなどジャンルを問わず手がけるエンタメ職人のような多彩な活躍をしていたのが、1920年代のヒッチコック監督でありました。でも、さすがはサイレント時代からのたたき上げと言いますか、どの作品でも「セリフや役者の演技をなるべく使わずに物語の要点を伝える」という映像テクニックを必ず差しはさんでくるギラギラの映像センスは、その非凡さの片鱗をのぞかせていましたね。
さて、そんなヒッチコック監督にとってのサスペンス・スリラー系映画の第1弾となった『下宿人』は監督作品としては第3作、お次の『ゆすり』は第10作にあたるものでした。そして今回のお題となる『殺人!』は第12作ということで、『ゆすり』と『殺人!』の間には例によって非サスペンス系となる人間ドラマ『ジュノーと孔雀』(1930年)が入ります。この作品は、アイルランドとイギリスの紛争状態の中で崩壊してゆく家庭のさまを描いた重苦しい悲喜劇なのですが、やはり原作が戯曲というのが徒となっているというか、俳優の演技も主な舞台となっている主人公一家の住まいを切り抜いたセット風景も堅苦しく、ヒッチコック監督が得意とする映像イメージの飛躍が観られなかったのが残念でした。でも、『ゴッドファーザー』とか『北の国から』みたいな、ある一家の栄枯盛衰をつづる大河ドラマが好きな人には水が合うかも……いや、ムリか。スケールが小さすぎるんだよなぁ!
そんな感じで、まだまだサスペンス系に腰を据えていない時期のヒッチコック作品ではあるのですが、今回の『殺人!』は、後年のヒッチコック作品まで視野を広げてもなかなか類似作品の見つからない、非常に珍しい「ミステリー映画」となっております。
要するに、私の言いたいミステリー映画というのは、本格もの推理小説のように「犯人が誰か?」という部分に作品の主眼を置いてくる作品のことでありまして、そういう意味では過去の『下宿人』は連続殺人事件の犯人なんかそっちのけで「主人公が犯人なのか?」という疑惑から「犯人に間違われた主人公が助かるのか?」というサスペンスに移行していきます。そして『ゆすり』にいたっては殺人事件の犯人が誰かがしょっぱなからわかっている上で、「犯行を知った恐喝犯にゆすられる犯人はどうなってしまうのか?」という、犯人捜しとは全く方向性の違う内容に面白さを見いだす作品になっているのでした。『下宿人』の原作小説は立派な推理小説と言えるんですけどねぇ。
つまり、こういう部分を見ていますと、ヒッチコック監督は世間で有名なドイルやクリスティといった推理小説家が世に出すミステリー物にはあまり興味が無く、事件の犯人とかトリックなんかどうでもいいから、その事件が巻き起こす悲喜こもごもによって慌てふためき人間性をさらけ出した登場人物が、運命の魔手から逃げ切れるのかどうか、その緊迫感(まさにサスペンス!)をフィルムにおさめたいんじゃ!という姿勢が見てとれるのではないでしょうか。
となると、今回の『殺人!』の出来上がりが、殺人事件を扱っているセンセーショナルな内容にもかかわらず、なんとな~く「凡庸……」なものになっている理由も納得がいくのです。そうなの、この『殺人!』、中だるみがひどいのよね!
本作は、劇団内の三角関係のもつれで起きたと思われる殺人事件が物語の機転となっており、ほぼ密室状態の部屋の中で1人の女優エドナが殺され、その傍らで血まみれの凶器と共に、その女優に恨みを持っていると言われているライバル女優ダイアナが呆然と立ち尽くしているという、圧倒的にダイアナが不利な状況が提示されます。そして大方の予想通りに裁判でダイアナは有罪となり死刑判決が下されるのですが、たまたまこの裁判に陪審員として関わっていた有名俳優のジョン=メニアー卿がダイアナの犯行説に違和感を抱き、ダイアナの同僚だった劇団員のエドワードとドゥーシーのマーカム夫婦をワトスン役に従えて事件の私的な再捜査に乗り出すという筋になっています。
そしてジョン卿による事件現場の検証や事件の関係者からの聞き込みによって、ついにエドナ殺害の真犯人の存在が明らかとなり、ジョン卿の追求によって逃げ場を失った真犯人の劇的な自決をもって本作は解決となるわけなのですが、この映画、ご覧の通りに教科書通りのミステリー作品となっていながらも、名探偵役のジョン卿(とワトスン役の夫婦)にいま一つ魅力がないために、中盤の再捜査のくだりがかなりつまらないものになっているのです。
これ、決してジョン卿を演じている俳優さんに問題があるわけじゃなくて、とにかく「貴族で有名俳優」というジョン卿の設定が無敵すぎて、彼をサポートするマーカム夫婦をはじめとする登場人物が軒並み全員「ジョン卿さま、ばんざい!」、「ジョン卿さまがそう言うんなら、そうなんだべ!」な思考停止におちいるため、名探偵役がただ自分の考えた説を語り、真犯人が「その通りです……」というだけの単純きわまりないやり取りを約1時間見せられる苦行になってしまっているのです。名探偵の言うことに誰も反論しないし、警察も「余計なことすんな!」と怒らないし、真犯人さえもがすんなり罪を認めてしまうしで、どこにも緊迫感が無いんですよね。
わかりやすく言ってしまうと、『水戸黄門』の黄門さまが、「ちりめん問屋の隠居です」とか言って身を隠さずに、最初っから堂々と正体を明かして「お前、やったよな!?」と悪代官を追求するようなものなのです。いや、それはそれで話が早くていいんですが、それ、おもしろいかぁ!?
具体的にジョン卿のキャラクター設定のどこに問題があるのかは、本記事の後半に羅列した恒例の「気づいたことメモ」で挙げさせていただきますが、大きな問題はまとめて2点あり、1つは先ほど言ったように名探偵の社会的な地位が高すぎて抵抗勢力がいないこと。これ、極端な言い方をすればジョン卿の推理が間違っていても通りかねない危険性もあるわけで、そういう意味でもジョン卿は名探偵にはふさわしくないのかも知れません。冤罪、ダメ、ゼッタイ!!
そしてもう1つの問題は、結局本作におけるジョン卿が真犯人を見つけるために発見した要素が状況証拠ばかりで、決定的な確証が無いこと。そしてそのために窮したジョン卿が「心理的に真犯人を追い詰める」奇策に出てしまったがために、追い詰められすぎて逆に覚悟がガン決まりになってしまった真犯人が、もはや「トラウマテロ」ともいえる暴発的な最期を迎えてしまったことに尽きます。これ、真犯人の疑いのある人間が死亡するという最悪の結果を招く可能性を察知していながらみすみす泳がせてしまったというジョン卿の責任も重大で、真犯人が映画のように自身の犯行を認める遺書を残していなかったら、ジョン卿はどう言いひらきをするつもりだったのでしょうか。ともかく、本作の事件におけるジョン卿の名探偵としての評価は「0点、というか数百人の関係の無い人々にトラウマを植えつけた責任で-300点!!」くらいなのではないでしょうか。ほんと、金田一耕助先生くらいの見逃しでブーブー言ってられませんよね。シャーロック=ホームズのお膝元イギリスにも、迷探偵はやっぱいるんだなぁ!
そんなこんなで、この『殺人!』は、ヒッチコック監督とミステリー物が意外にも合わないという結果をもたらすものとなっていたと思います。実際に、ヒッチコック監督が本作の次に本格的なサスペンス・スリラー系に着手するのは、実に4年後の第17作『暗殺者の家』を待たなければならなくなるので、監督自身にとってもあまり手ごたえのある出来ではなかったのでしょうね。
また、のちにブロンドのヒロインが作品のトレードマークになるほど女優さんへのこだわりを見せるヒッチコック監督ではあるのですが、本作におけるブロンド枠のおしゃべり女優ドゥーシーはまぬけなワトスン役の域を出ない活躍しかしませんし、肝心の囚われのヒロイン・ダイアナも、演じたノラ=ベアリングさんがブルネットだからというわけでもないのでしょうが、なんだか無口でナヨナヨっとしたお人形さんといった感じで、『ゆすり』のアニー=オンドラさんの体当たりの魅力に遠く及ばないものになっていたと思います。演技の拙さをカバーするために寡黙な役になっている、みたいな感じなんですよね。
ただ、ここで本作の良いところをひとつだけ挙げておくのならば、それはやっぱり後半の真犯人役の追い詰められた演技と、大観衆の面前で華々しく迎える最期の緊迫感だと思います。それを食い止めようとしなかったジョン卿の無能っぷりは際立ってしまいますが、よくそんなシチュエーションを思いつくな、という状況での真犯人の末路は、ちょっと昨今の SNS上での公開中継自殺の闇に通じるリアルな恐ろしさもあり、荒唐無稽だと呆れてばかりもいられない普遍性があると感じました。ヒッチコック監督の、21世紀の現代病理への予言か!?
にしても、真犯人のキャラクターにあの要素を加えちゃうと、絵的には意外性があって面白いのですが「男女の三角関係の一人」としての姿がぼやけてしまうので、そんなに切った張ったのドロドロ関係におちいるほどの人物なのかな?という違和感は残ってしまいますよね。
そう言えば、容疑者の一人を演じていた『ゆすり』のドナルド=カルスロップさん、ほんとにちょっとしか出てこなかったよ。もったいないな~!
あと、最後にひとつだけ、映画を観ていて実は本編内容よりももっと気になってしょうがなかった点について。
上の Wikipediaを元にした作品の概要説明にもある通り、本作で最も有名と言ってもいい「ラジオから聴こえる BGMを録音するためにスタジオにオーケストラを入れた」というエピソードなのですが、これ、当時アフレコ録音の技術が無かったから、そんな手間のかかる撮影方法にしたっていう話じゃないですか。
でもこの、ジョン卿がラジオ放送を聴いているシーンって、自室でジョン卿が洗面台の鏡に写った自分の顔を見つめながら、殺人事件について推理を巡らせている場面なのですが、ここ、ジョン卿が口をつぐんで黙っている状態で、思いッきり心中思惟をナレーションで語っているんですよ……
あれ? これ、完全なるアフレコ処理じゃないの? だって、ジョン卿が口を閉じてるのにしゃべってるのよ?
どういうこと……? 俳優のセリフに関してはアフレコ技術が導入されてたのか? それとも、このシーンだけジョン卿を演じているハーバート=マーシャルさんの声質に近い別の役者さんが近くでしゃべってたのか? はたまた、ハーバートさんがいっこく堂もかくやという神業レベルの腹話術マスターだったのか?
いやいや、がっつりアフレコしてんじゃん!?みたいな疑問が湧いて、なんかモヤモヤするんですよね……そこらへんのご事情に詳しい方がいらっしゃってたら、教えてちょ~だいませ!
さてさてそんな感じで、それなりに観られるエンタメ作には仕上げるものの、まだまだ暗中模索の時期が続くヒッチコック監督なのでありましたが、いよいよ次なるサスペンス・スリラー系の作品で、後のヒッチコック作品の定番となる要素の数々を自家薬籠中の物としていくきっかけを得るのでありました。
サスペンスの巨匠、ついに覚醒か!? そしてその契機となる作品には、あの伝説的個性派俳優のコワすぎる名演が!
天才監督ヒッチコックの足跡をたどる長い旅路、どうか次回も乞うご期待~。
≪毎度おなじみ~、視聴メモでございやすっと≫
・開幕早々、深夜に響き渡る女性の絶叫に慌てて起きる、劇団所属のエドワードとドゥーシーのマーカム夫妻。外していた入れ歯をはめるエドワードとネグリジェから着替えるドゥーシー、そして2人が建てつけの悪い窓に四苦八苦しながら外をうかがう様子など、映像的にマーカム夫妻のキャラクターを説明するテクニックが惜しげもなくズビズバ投入される。さすがは、サイレント時代からの職人ヒッチコック。
・劇団女優エドナの死体が転がる現場に押しかける野次馬と、エドナの関係者たち。そこら中の物を触るし椅子に座るし、『科捜研の女』の沢口靖子さんが見たら失禁しかねない、現場保存の鉄則からほど遠い状況なのだが、血まみれの火かき棒の近くでミステリアスな沈黙を守る仲間の女優ダイアナの横顔が、現場に不気味な緊張と静謐をもたらす。まさにサスペンス!
・いかにも世間話好きな舞台女優ドゥーシーが、ダイアナのために紅茶を淹れる大家のミッチャム夫人にまとわりついて、聞いてもいないダイアナとエドナ周辺の人間関係をとうとうと説明するくだりが、約1分50秒にわたるワンカット撮影で展開される。こんな状況説明、ふつうにやったらついていけなくなるのだが、しゃべくるドゥーシーを演じるフィリス=コンスタムさんの達者さと、キッチンとダイニングを行ったり来たりするコミカルな2人を追うカメラのせわしなさで、ちゃんと面白く見られるようになっている。演出がいちいち上手!
・この事件の予備審問が行われる裁判所の受付に「本日ダイアナとエドナは出演しません。」という貼り紙が貼ってあったり、独房のダイアナが舞台開幕の拍手の幻聴を耳にしてほほえむ描写があったりと、本作はまさに「劇場犯罪」というべきか、劇団の架空と現実の殺人事件とがごっちゃになった幻惑的な演出が差しはさまれる。ダイアナの不気味な沈黙も相まって非常に引き込まれますねぇ。
・真面目なはずの警察の聞き込み捜査が、よりにもよって劇団が喜劇を上演している最中に舞台袖で行われてしまうもんだから、証人の劇団員たちがひっきりなしに出たり入ったりするわ、トンマなメイクをしていたり男が女装していたりするわで映像的に相当おかしな光景になっているのが、ヒッチコック監督の底知れないサービス精神とチャレンジ魂を感じさせてくれて素晴らしい。ようやるわ……でも、これも出演者にそれ相応の実力がちゃんとないと実現できない趣向ですよね。この時代の映画俳優って、やっぱり基本的に舞台出身ばかりだから基礎がしっかりしてるのかなぁ。
・ヒッチコック監督のサスペンス系映画の前作『ゆすり』で、警察に追い回されてかなりひどい目に遭う恐喝者トレイシーを演じていたドナルド=カルスロップが、本作では舞台でまぬけな警官を演じる劇団俳優イアン役になっているのが面白い。この人もどんな役でもできて上手なんだよなぁ。そりゃ当時のヒッチコック作品の常連にもなりますわ。ちなみにフィリス=コンスタムさんも、『ゆすり』で本作の役とキャラがほぼ同じの、おしゃべりな主婦を演じている。監督、元気な女性が好きですよね。
・エドナ殺害事件の公判で、11人の陪審員の顔がパパパッと連続で映し出されるのが、だいぶ後年の市川崑監督による「石坂浩二の金田一耕助シリーズ」の撮影手法の原型を見るようで興味深い。その中にしれっと、本作での名探偵役のジョン=メニアー卿がまぎれているのも洒落てますね。
・ただ、この陪審員たちのカット、陪審員たちは「12人」のはずなのに、なぜか11人の顔しか映し出されないんですよね……なんで? ヒッチコック監督、忘れたの? その映されなかった1人は、のちの審議シーンで「深夜なのに白昼夢?」という衝撃の天然ボケ発言を炸裂させるおじさんなのだが、特に本作の中で重要な役割を担っているわけでもない。嫌われたもんですね……これ、ほんと、なんで?
・本作は1930年の映画だが、この時点ですでに法廷弁護士がふつうに女性であるあたり、さすがは近代西洋文明の旗手たる世界帝国イギリス(当時)だなぁとうならされてしまう。ちなみに、日本初の女性弁護士として有名な中田正子女史が弁護士になったのは昭和十五(1940)年でした。戦前日本もやりますね!
・公判の場で検事や裁判長が陪審員たちに対して、「容疑者の美しさに惑わされずに公平に審議してください。」と言っていること自体が、逆の意味でダイアナを差別しているという皮肉が、実にヤな感じ! でも、2020年代になっても解決していない問題ですよね、こういうの。
・公判後の陪審員たちの審議シーンも、さすが演劇化もされた作品と言うべきか、議論を通じて事件の内容と争点が整理される効果があって、観客にとっては非常に親切。見やすいなぁ。
・審議によって「12人中、ダイアナ有罪に11人」という圧倒的な状況になったところで、最後まで無罪を主張するジョン卿がおもむろに発言を始めるという流れが、いかにも名探偵登場といった感じでニクい展開である。ほんとこういうあたり、エンタメの教科書ですよね。
・世界にあまた無数の名探偵おれども、本作のジョン卿のように、登場したのっけから「推理の長ゼリフ」を始めてしまう名探偵はそうそういないのではなかろうか。別に事件の核心をついているわけでもないのに「この事件は難しいね」というだけの内容を長々と語る度胸には驚き入ってしまう。しかもド頭にしたり顔で「おれの話、長いよ~♡」と宣言するあたり、尋常でない鋼鉄の精神力である。イギリスの貴族って、こんな無理も押し通せるのか……身分社会、すげぇ!
・とうとうと語ったはいいものの、特にダイアナ無罪説を裏付ける確証も無かったために、案の定11人からミュージカル張りの「有罪でしょ!」合唱コールを浴びせられ、しぶしぶ有罪に転じてしまうジョン卿。証拠が無いんだから当然ですよね……それにしても、ジョン卿に詰め寄る11人の剣幕に、「早く公判終わらせて帰りましょうよ!!」という無言の同調圧力が潜んでいるのは、演出こそ喜劇的ではあるのだが、非常に恐ろしいものがある。これでダイアナの死刑が決まっちゃうんだからね……裁判って、こわい!!
・ダイアナへの死刑宣告という劇的な場面を、法廷内を撮影せずに、片付けをする用務員さんだけがいるからっぽの審議室に法廷から声が聞こえてくる光景で描写しているのが、「あえて映さない引き算の効果」を最大限に発揮していて素晴らしい。いや~ヒッチコック監督、大事なところは王道で行くけど、スキさえあれば挑戦的な撮り方にいくよね! まさに才能ギラッギラ。
・本作の名探偵ポジションのジョン卿は、貴族ということで物腰は非常に紳士的なのだが、人気舞台俳優ということで会う人会う人に尊敬のまなざしで見られるし、ロンドンの中心地ウェストミンスターのフラットで執事にブランデーグラスを持ってこさせる優雅な暮らしぶりだし、捜査の下準備は全部マネージャーのベネットにさせるしで、苦労らしいことをひとっつもしていないのが非常に鼻につく。しかも捜査のためとは言え、自分の舞台は平気で風邪だとウソをついて代役に任せるし、事件の重要人物である舞台監督エドワードの名前を忘れても全然悪びれないしで、しゃべるたびにイヤな感じのところがボロボロ出てくるのがおもしろすぎる。ベネットに、「事件の重要人物をなるべく多く集めてくれ。」だってさ……それ、範囲がガバガバで部下が一番困るやつ~!! 貴族って、そんなにイライラする存在なのか!? 京極夏彦の榎木津礼二郎とは別のベクトルで、近くにいてほしくない貴族探偵だ。
・かつて無名時代のダイアナが自分に売り込んできたことがあるという事実を、ベネットに言われるまですっかり忘れていた疑惑のあるジョン卿。その後でいくら「彼女には苦労が必要だったから追い返したのだよ……」って言い訳をしてもねぇ……もうお前しゃべるな! 捜査に専念しろ!!
・撮影スタジオにオーケストラを呼んで演奏させたというエピソードが有名らしいのだが、ちょっと音が大きすぎてセリフがよく聞こえません……まだまだ、トーキー映画もよちよち期だったのねぇ。
・ジョン卿から呼び出しの電報が来ただけで舞い上がり、精一杯おめかしして出発するエドワードとドゥーシー。それを見てアパートの大家は滞納していた家賃がもらえると大喜び……もはや本人が何も言わなくても周辺の人々が勝手に持ち上げ続けるジョン卿のスターっぷりに、もうお腹いっぱいです。このいかにも芝居めいて安っぽいくだりをよそに、調子はずれのピアノの練習をし続ける娘をちゃんと不協和音として画面の中に配置しているところに、ただのコメディには絶対にしないゼというヒッチコック監督の意地を見た! さすがです。
・しがない一般人のエドワードから見たジョン卿の威光のものすごさを説明する描写として、「ジョン卿の執務室の床のカーペットが異常にふっかふか」という誇張表現を挿入しているのが、悪ノリのしすぎでおもしろい。そんな布団みたいなカーペット、転ぶわ!
・今日明日にもダイアナの死刑が執行されるかもしれないという状況下で、事件の再捜査のためにエドワードを呼びつけたのに、まず菓子をつまみながら自身の芸術論をとうとうと語るところから始めるジョン卿。もうこれ、わざとやってるでしょ。
・自分の思うように世界が回っていると考えていそうな唯我独尊のジョン卿なのだが、無名の舞台監督エドワードにちゃんと仕事を与えた上で本題の事件の話に入っているあたり、相手の欲しいものをしっかり把握した「交渉」の手順を踏んでいて、そこがリアルに貴族っぽい。ただのおぼっちゃまじゃないんだな……
・ヒッチコック作品の恒例として、本作のワトスン役のドゥーシーを演じるフィリス=コンスタムさんもブロンドの美女なのだが、夫のエドワードとの間にすでに娘もいる無名の舞台女優という設定も相まって、エドワードとの所帯じみた夫婦漫才が堂に入った、生活感たっぷりの魅力的なキャラクターになっている。もう一方のヒロインである容疑者ダイアナのミステリアスな感じと好対照でイイ感じ。
・繰り返しになるが、ダイアナが死刑執行されかねない切羽詰まった状況の中でも、捜査の成功を祈るお酒の乾杯は忘れないジョン卿。う~ん、これは貴族階級にしか許されないペース配分ですね!
・ドゥーシーの何気ない発言に、事件解決の糸口を見つけるジョン卿。つまり、事件のトリックにつながる鍵は本作の冒頭でちゃんと観客に提示されていたのだ。こういう伏線回収、ミステリーではあるあるだけど爽快ですよね~。
・やっと捜査を開始するジョン卿とマーカム夫妻。殺害現場の大家のミッチャム夫人が事件当夜に聞いた声が女性のものとは限らないということを、舞台俳優らしいやり方で証明するジョン卿なのだが、それをまともに映像化されるとコントにしか見えない。いや、男の声だってバレバレでしょ……
・本作では本編開始から1時間以上経ってから、ほんとに一瞬だけ画面を横切るカップルの役で出演するヒッチコック監督なのだが、その一瞬の中でくいっと首をひねるだけで、なんかモテそうな雰囲気を醸し出しているのが小憎ったらしい。うまいな~、監督!
・異様にゴテゴテっとした土壁で作られているミッチャム夫人の宿屋や、遠近や水平バランスが狂っている劇場の楽屋まわりなど、現実的な殺人事件の解決を目指す本作の作風に関わらず、美術に超現実的なドイツ表現主義の雰囲気が継承されているのが興味深い。狭いスタジオ内で舞台を組む時の伝統になっていたのかな?
・登場してからこのかた、なかなか好感度の上がるチャンスの無いジョン卿だったが、捜査中に泊まった巡査の家で5人のガk……お子様方と1匹の黒猫にたたき起こされるという苦難に遭ってもニヒルな笑顔で受け流す余裕で、かろうじて人徳がアップするのであった。手がかりもつかめたし、よかったね!
・刑務所でのダイアナとの面会によって、ついに事件の真犯人を確信するジョン卿。必死に真犯人の行方を追うジョン卿たちのセリフを流しながら、映像では独房のダイアナと、日のめぐりによってじわじわと壁にのぼってくる絞首台のシルエットが映し出される映像のモンタージュが、切迫感をあおって非常にいい感じである。センスが冴える!
・ジョン卿は「自身の新作舞台のオーディション」という名目で真犯人をおびき出し、エドナ殺害事件を再現した戯曲の犯人役を演じさせて心理的動揺を誘うという、意地が悪いにも程のある作戦を発動させる。悪魔か!? でも、見事に引っかかって冷や汗みどろになりながらも、徐々に覚悟を決めて落ち着いてくる真犯人の演技が素晴らしい。特にわなわなと震える手の動きがすごいね!
・ジョン卿の極悪非道な心理作戦によって、その日の夜のサーカス公演で壮烈な最期を遂げる真犯人。その悲壮な表情も、死を選んだ場面設定も非常に映画らしく見映えのするものになっているのだが、結局確定的な証拠を掴めなかったジョン卿のひねり出した苦肉の策によって、真犯人の死亡と、その暴発的な公開自殺によって興行と団の看板に致命的なマイナスイメージを負ったサーカス団、そしてそのエグすぎる死を目の当たりにしてそうとうなトラウマを抱えることになった数百人のサーカス観客といった甚大な犠牲の数々をまねいてしまった。ジョン卿、我が国の金田一耕助などまったく比較にならないほどの大失態を何コもやらかしているのですが……この人、ほんとに名探偵か?
・事件解決後、舞台上で恋人同士の役を演じるジョン卿とダイアナというしゃれた終幕を迎える本作。でも、自身の捜査において状況証拠ばっかで決定打に欠けるというマズさから真犯人の逮捕に失敗し、それなのにご丁寧な真犯人の遺書で推理が正しかったことを認められ、挙句の果てにゃ自分にぞっこんの美女をゲットするという、超絶ラッキーマンなジョン卿……こんな他力本願成分ほぼ100% な人、人気でるかぁ!?
今年もいよいよ秋深しとなってまいりまして、そろそろこちら山形でも冬支度を進めなければという時期になってまいりました。
でも、この冬はなんだか雪が少ないのだそうで、ここ数年はちゃんと雪かきをやらないといけない降雪量になっていただけにありがたい話ではあるのですが、ほんとかなぁ。ただ、朝夕の寒さはかなり厳しくなっているんですけどね。
さてさて今回は、ぽっと思い出したようにやっている、サスペンス映画の巨匠アルフレッド=ヒッチコック監督の仕事をキャリアの初期から振り返っていく企画の第3弾でございます。まだまだ、長い旅路は始まったばっかりよ!
映画『殺人!』(1930年7月公開 104分 イギリス)
映画『殺人!』(原題:Murder!)は、監督・アルフレッド=ヒッチコック、脚本・アルマ=レヴィル(ヒッチコック夫人)による作品。クレメンス=デインとヘレン=シンプソンのミステリ小説および舞台『ジョン卿登場』が原作となっている。『ゆすり』(1929年)、『ジュノーと孔雀』(1930年)に続く、ヒッチコックにとって3作目のトーキー映画である。
本作はトーキー映画初期の作品であるためアフレコの製作方法が確立されておらず、作中の音声は全て撮影現場での同時録音であった。そのためヒッチコックは、ジョン卿が自宅でひげ剃りをするシーンで聞いているラジオ音楽として、スタジオに30人編成のオーケストラを入れて録音した。
ヒッチコック監督自身は、本編1時間1分42秒頃に、殺人が起こった家の前を横切る通行人として出演している。
あらすじ
旅回り劇団の女優であるダイアナは、仲間の花形女優エドナが殺害された現場で、暖炉の火かき棒を前に呆然としているところを発見された。彼女は事件当時の記憶がなく、疑わしく思った警察は彼女を逮捕し、裁判は有罪となる。しかし、陪審員のひとりで有名俳優のジョン=メニアー卿は、ダイアナの所属する劇団の舞台監督エドワードとその妻の女優ドゥーシーの手を借りて事件を捜査していくことに決める。果たして3人はダイアナを救うことができるのか?
おもなキャスティング ※年齢は映画公開当時のもの
ジョン=メニアー卿 …… ハーバート=マーシャル(40歳)
ダイアナ=バーリング …… ノラ=ベアリング(23歳)
エドワード=マーカム …… エドワード=チャップマン(28歳)
ドゥーシー=マーカム …… フィリス=コンスタム(23歳)
ハンデル=フェイン …… エスメ=パーシー(42歳)
ゴードン=ドゥルース …… マイルズ=マンダー(42歳)
イアン=スチュワート …… ドナルド=カルスロップ(42歳)
マネージャーのベネット …… スタンリー・ジェイムズ=ウォーミントン(45歳)
大家のミッチャム夫人 …… マリー=ライト(68歳)
巡査の妻 …… ウナ=オコナー(49歳)
前々回の『下宿人』と、前回の『恐喝(ゆすり)』でも触れたように、ヒッチコック監督がその作風をサスペンス・スリラー系に絞るようになったのは、まだまだ後年のことでありまして、イギリス国内で当時有名だった小説や戯曲の映画化を、ロマンスやコメディ、人情ものなどなどジャンルを問わず手がけるエンタメ職人のような多彩な活躍をしていたのが、1920年代のヒッチコック監督でありました。でも、さすがはサイレント時代からのたたき上げと言いますか、どの作品でも「セリフや役者の演技をなるべく使わずに物語の要点を伝える」という映像テクニックを必ず差しはさんでくるギラギラの映像センスは、その非凡さの片鱗をのぞかせていましたね。
さて、そんなヒッチコック監督にとってのサスペンス・スリラー系映画の第1弾となった『下宿人』は監督作品としては第3作、お次の『ゆすり』は第10作にあたるものでした。そして今回のお題となる『殺人!』は第12作ということで、『ゆすり』と『殺人!』の間には例によって非サスペンス系となる人間ドラマ『ジュノーと孔雀』(1930年)が入ります。この作品は、アイルランドとイギリスの紛争状態の中で崩壊してゆく家庭のさまを描いた重苦しい悲喜劇なのですが、やはり原作が戯曲というのが徒となっているというか、俳優の演技も主な舞台となっている主人公一家の住まいを切り抜いたセット風景も堅苦しく、ヒッチコック監督が得意とする映像イメージの飛躍が観られなかったのが残念でした。でも、『ゴッドファーザー』とか『北の国から』みたいな、ある一家の栄枯盛衰をつづる大河ドラマが好きな人には水が合うかも……いや、ムリか。スケールが小さすぎるんだよなぁ!
そんな感じで、まだまだサスペンス系に腰を据えていない時期のヒッチコック作品ではあるのですが、今回の『殺人!』は、後年のヒッチコック作品まで視野を広げてもなかなか類似作品の見つからない、非常に珍しい「ミステリー映画」となっております。
要するに、私の言いたいミステリー映画というのは、本格もの推理小説のように「犯人が誰か?」という部分に作品の主眼を置いてくる作品のことでありまして、そういう意味では過去の『下宿人』は連続殺人事件の犯人なんかそっちのけで「主人公が犯人なのか?」という疑惑から「犯人に間違われた主人公が助かるのか?」というサスペンスに移行していきます。そして『ゆすり』にいたっては殺人事件の犯人が誰かがしょっぱなからわかっている上で、「犯行を知った恐喝犯にゆすられる犯人はどうなってしまうのか?」という、犯人捜しとは全く方向性の違う内容に面白さを見いだす作品になっているのでした。『下宿人』の原作小説は立派な推理小説と言えるんですけどねぇ。
つまり、こういう部分を見ていますと、ヒッチコック監督は世間で有名なドイルやクリスティといった推理小説家が世に出すミステリー物にはあまり興味が無く、事件の犯人とかトリックなんかどうでもいいから、その事件が巻き起こす悲喜こもごもによって慌てふためき人間性をさらけ出した登場人物が、運命の魔手から逃げ切れるのかどうか、その緊迫感(まさにサスペンス!)をフィルムにおさめたいんじゃ!という姿勢が見てとれるのではないでしょうか。
となると、今回の『殺人!』の出来上がりが、殺人事件を扱っているセンセーショナルな内容にもかかわらず、なんとな~く「凡庸……」なものになっている理由も納得がいくのです。そうなの、この『殺人!』、中だるみがひどいのよね!
本作は、劇団内の三角関係のもつれで起きたと思われる殺人事件が物語の機転となっており、ほぼ密室状態の部屋の中で1人の女優エドナが殺され、その傍らで血まみれの凶器と共に、その女優に恨みを持っていると言われているライバル女優ダイアナが呆然と立ち尽くしているという、圧倒的にダイアナが不利な状況が提示されます。そして大方の予想通りに裁判でダイアナは有罪となり死刑判決が下されるのですが、たまたまこの裁判に陪審員として関わっていた有名俳優のジョン=メニアー卿がダイアナの犯行説に違和感を抱き、ダイアナの同僚だった劇団員のエドワードとドゥーシーのマーカム夫婦をワトスン役に従えて事件の私的な再捜査に乗り出すという筋になっています。
そしてジョン卿による事件現場の検証や事件の関係者からの聞き込みによって、ついにエドナ殺害の真犯人の存在が明らかとなり、ジョン卿の追求によって逃げ場を失った真犯人の劇的な自決をもって本作は解決となるわけなのですが、この映画、ご覧の通りに教科書通りのミステリー作品となっていながらも、名探偵役のジョン卿(とワトスン役の夫婦)にいま一つ魅力がないために、中盤の再捜査のくだりがかなりつまらないものになっているのです。
これ、決してジョン卿を演じている俳優さんに問題があるわけじゃなくて、とにかく「貴族で有名俳優」というジョン卿の設定が無敵すぎて、彼をサポートするマーカム夫婦をはじめとする登場人物が軒並み全員「ジョン卿さま、ばんざい!」、「ジョン卿さまがそう言うんなら、そうなんだべ!」な思考停止におちいるため、名探偵役がただ自分の考えた説を語り、真犯人が「その通りです……」というだけの単純きわまりないやり取りを約1時間見せられる苦行になってしまっているのです。名探偵の言うことに誰も反論しないし、警察も「余計なことすんな!」と怒らないし、真犯人さえもがすんなり罪を認めてしまうしで、どこにも緊迫感が無いんですよね。
わかりやすく言ってしまうと、『水戸黄門』の黄門さまが、「ちりめん問屋の隠居です」とか言って身を隠さずに、最初っから堂々と正体を明かして「お前、やったよな!?」と悪代官を追求するようなものなのです。いや、それはそれで話が早くていいんですが、それ、おもしろいかぁ!?
具体的にジョン卿のキャラクター設定のどこに問題があるのかは、本記事の後半に羅列した恒例の「気づいたことメモ」で挙げさせていただきますが、大きな問題はまとめて2点あり、1つは先ほど言ったように名探偵の社会的な地位が高すぎて抵抗勢力がいないこと。これ、極端な言い方をすればジョン卿の推理が間違っていても通りかねない危険性もあるわけで、そういう意味でもジョン卿は名探偵にはふさわしくないのかも知れません。冤罪、ダメ、ゼッタイ!!
そしてもう1つの問題は、結局本作におけるジョン卿が真犯人を見つけるために発見した要素が状況証拠ばかりで、決定的な確証が無いこと。そしてそのために窮したジョン卿が「心理的に真犯人を追い詰める」奇策に出てしまったがために、追い詰められすぎて逆に覚悟がガン決まりになってしまった真犯人が、もはや「トラウマテロ」ともいえる暴発的な最期を迎えてしまったことに尽きます。これ、真犯人の疑いのある人間が死亡するという最悪の結果を招く可能性を察知していながらみすみす泳がせてしまったというジョン卿の責任も重大で、真犯人が映画のように自身の犯行を認める遺書を残していなかったら、ジョン卿はどう言いひらきをするつもりだったのでしょうか。ともかく、本作の事件におけるジョン卿の名探偵としての評価は「0点、というか数百人の関係の無い人々にトラウマを植えつけた責任で-300点!!」くらいなのではないでしょうか。ほんと、金田一耕助先生くらいの見逃しでブーブー言ってられませんよね。シャーロック=ホームズのお膝元イギリスにも、迷探偵はやっぱいるんだなぁ!
そんなこんなで、この『殺人!』は、ヒッチコック監督とミステリー物が意外にも合わないという結果をもたらすものとなっていたと思います。実際に、ヒッチコック監督が本作の次に本格的なサスペンス・スリラー系に着手するのは、実に4年後の第17作『暗殺者の家』を待たなければならなくなるので、監督自身にとってもあまり手ごたえのある出来ではなかったのでしょうね。
また、のちにブロンドのヒロインが作品のトレードマークになるほど女優さんへのこだわりを見せるヒッチコック監督ではあるのですが、本作におけるブロンド枠のおしゃべり女優ドゥーシーはまぬけなワトスン役の域を出ない活躍しかしませんし、肝心の囚われのヒロイン・ダイアナも、演じたノラ=ベアリングさんがブルネットだからというわけでもないのでしょうが、なんだか無口でナヨナヨっとしたお人形さんといった感じで、『ゆすり』のアニー=オンドラさんの体当たりの魅力に遠く及ばないものになっていたと思います。演技の拙さをカバーするために寡黙な役になっている、みたいな感じなんですよね。
ただ、ここで本作の良いところをひとつだけ挙げておくのならば、それはやっぱり後半の真犯人役の追い詰められた演技と、大観衆の面前で華々しく迎える最期の緊迫感だと思います。それを食い止めようとしなかったジョン卿の無能っぷりは際立ってしまいますが、よくそんなシチュエーションを思いつくな、という状況での真犯人の末路は、ちょっと昨今の SNS上での公開中継自殺の闇に通じるリアルな恐ろしさもあり、荒唐無稽だと呆れてばかりもいられない普遍性があると感じました。ヒッチコック監督の、21世紀の現代病理への予言か!?
にしても、真犯人のキャラクターにあの要素を加えちゃうと、絵的には意外性があって面白いのですが「男女の三角関係の一人」としての姿がぼやけてしまうので、そんなに切った張ったのドロドロ関係におちいるほどの人物なのかな?という違和感は残ってしまいますよね。
そう言えば、容疑者の一人を演じていた『ゆすり』のドナルド=カルスロップさん、ほんとにちょっとしか出てこなかったよ。もったいないな~!
あと、最後にひとつだけ、映画を観ていて実は本編内容よりももっと気になってしょうがなかった点について。
上の Wikipediaを元にした作品の概要説明にもある通り、本作で最も有名と言ってもいい「ラジオから聴こえる BGMを録音するためにスタジオにオーケストラを入れた」というエピソードなのですが、これ、当時アフレコ録音の技術が無かったから、そんな手間のかかる撮影方法にしたっていう話じゃないですか。
でもこの、ジョン卿がラジオ放送を聴いているシーンって、自室でジョン卿が洗面台の鏡に写った自分の顔を見つめながら、殺人事件について推理を巡らせている場面なのですが、ここ、ジョン卿が口をつぐんで黙っている状態で、思いッきり心中思惟をナレーションで語っているんですよ……
あれ? これ、完全なるアフレコ処理じゃないの? だって、ジョン卿が口を閉じてるのにしゃべってるのよ?
どういうこと……? 俳優のセリフに関してはアフレコ技術が導入されてたのか? それとも、このシーンだけジョン卿を演じているハーバート=マーシャルさんの声質に近い別の役者さんが近くでしゃべってたのか? はたまた、ハーバートさんがいっこく堂もかくやという神業レベルの腹話術マスターだったのか?
いやいや、がっつりアフレコしてんじゃん!?みたいな疑問が湧いて、なんかモヤモヤするんですよね……そこらへんのご事情に詳しい方がいらっしゃってたら、教えてちょ~だいませ!
さてさてそんな感じで、それなりに観られるエンタメ作には仕上げるものの、まだまだ暗中模索の時期が続くヒッチコック監督なのでありましたが、いよいよ次なるサスペンス・スリラー系の作品で、後のヒッチコック作品の定番となる要素の数々を自家薬籠中の物としていくきっかけを得るのでありました。
サスペンスの巨匠、ついに覚醒か!? そしてその契機となる作品には、あの伝説的個性派俳優のコワすぎる名演が!
天才監督ヒッチコックの足跡をたどる長い旅路、どうか次回も乞うご期待~。
≪毎度おなじみ~、視聴メモでございやすっと≫
・開幕早々、深夜に響き渡る女性の絶叫に慌てて起きる、劇団所属のエドワードとドゥーシーのマーカム夫妻。外していた入れ歯をはめるエドワードとネグリジェから着替えるドゥーシー、そして2人が建てつけの悪い窓に四苦八苦しながら外をうかがう様子など、映像的にマーカム夫妻のキャラクターを説明するテクニックが惜しげもなくズビズバ投入される。さすがは、サイレント時代からの職人ヒッチコック。
・劇団女優エドナの死体が転がる現場に押しかける野次馬と、エドナの関係者たち。そこら中の物を触るし椅子に座るし、『科捜研の女』の沢口靖子さんが見たら失禁しかねない、現場保存の鉄則からほど遠い状況なのだが、血まみれの火かき棒の近くでミステリアスな沈黙を守る仲間の女優ダイアナの横顔が、現場に不気味な緊張と静謐をもたらす。まさにサスペンス!
・いかにも世間話好きな舞台女優ドゥーシーが、ダイアナのために紅茶を淹れる大家のミッチャム夫人にまとわりついて、聞いてもいないダイアナとエドナ周辺の人間関係をとうとうと説明するくだりが、約1分50秒にわたるワンカット撮影で展開される。こんな状況説明、ふつうにやったらついていけなくなるのだが、しゃべくるドゥーシーを演じるフィリス=コンスタムさんの達者さと、キッチンとダイニングを行ったり来たりするコミカルな2人を追うカメラのせわしなさで、ちゃんと面白く見られるようになっている。演出がいちいち上手!
・この事件の予備審問が行われる裁判所の受付に「本日ダイアナとエドナは出演しません。」という貼り紙が貼ってあったり、独房のダイアナが舞台開幕の拍手の幻聴を耳にしてほほえむ描写があったりと、本作はまさに「劇場犯罪」というべきか、劇団の架空と現実の殺人事件とがごっちゃになった幻惑的な演出が差しはさまれる。ダイアナの不気味な沈黙も相まって非常に引き込まれますねぇ。
・真面目なはずの警察の聞き込み捜査が、よりにもよって劇団が喜劇を上演している最中に舞台袖で行われてしまうもんだから、証人の劇団員たちがひっきりなしに出たり入ったりするわ、トンマなメイクをしていたり男が女装していたりするわで映像的に相当おかしな光景になっているのが、ヒッチコック監督の底知れないサービス精神とチャレンジ魂を感じさせてくれて素晴らしい。ようやるわ……でも、これも出演者にそれ相応の実力がちゃんとないと実現できない趣向ですよね。この時代の映画俳優って、やっぱり基本的に舞台出身ばかりだから基礎がしっかりしてるのかなぁ。
・ヒッチコック監督のサスペンス系映画の前作『ゆすり』で、警察に追い回されてかなりひどい目に遭う恐喝者トレイシーを演じていたドナルド=カルスロップが、本作では舞台でまぬけな警官を演じる劇団俳優イアン役になっているのが面白い。この人もどんな役でもできて上手なんだよなぁ。そりゃ当時のヒッチコック作品の常連にもなりますわ。ちなみにフィリス=コンスタムさんも、『ゆすり』で本作の役とキャラがほぼ同じの、おしゃべりな主婦を演じている。監督、元気な女性が好きですよね。
・エドナ殺害事件の公判で、11人の陪審員の顔がパパパッと連続で映し出されるのが、だいぶ後年の市川崑監督による「石坂浩二の金田一耕助シリーズ」の撮影手法の原型を見るようで興味深い。その中にしれっと、本作での名探偵役のジョン=メニアー卿がまぎれているのも洒落てますね。
・ただ、この陪審員たちのカット、陪審員たちは「12人」のはずなのに、なぜか11人の顔しか映し出されないんですよね……なんで? ヒッチコック監督、忘れたの? その映されなかった1人は、のちの審議シーンで「深夜なのに白昼夢?」という衝撃の天然ボケ発言を炸裂させるおじさんなのだが、特に本作の中で重要な役割を担っているわけでもない。嫌われたもんですね……これ、ほんと、なんで?
・本作は1930年の映画だが、この時点ですでに法廷弁護士がふつうに女性であるあたり、さすがは近代西洋文明の旗手たる世界帝国イギリス(当時)だなぁとうならされてしまう。ちなみに、日本初の女性弁護士として有名な中田正子女史が弁護士になったのは昭和十五(1940)年でした。戦前日本もやりますね!
・公判の場で検事や裁判長が陪審員たちに対して、「容疑者の美しさに惑わされずに公平に審議してください。」と言っていること自体が、逆の意味でダイアナを差別しているという皮肉が、実にヤな感じ! でも、2020年代になっても解決していない問題ですよね、こういうの。
・公判後の陪審員たちの審議シーンも、さすが演劇化もされた作品と言うべきか、議論を通じて事件の内容と争点が整理される効果があって、観客にとっては非常に親切。見やすいなぁ。
・審議によって「12人中、ダイアナ有罪に11人」という圧倒的な状況になったところで、最後まで無罪を主張するジョン卿がおもむろに発言を始めるという流れが、いかにも名探偵登場といった感じでニクい展開である。ほんとこういうあたり、エンタメの教科書ですよね。
・世界にあまた無数の名探偵おれども、本作のジョン卿のように、登場したのっけから「推理の長ゼリフ」を始めてしまう名探偵はそうそういないのではなかろうか。別に事件の核心をついているわけでもないのに「この事件は難しいね」というだけの内容を長々と語る度胸には驚き入ってしまう。しかもド頭にしたり顔で「おれの話、長いよ~♡」と宣言するあたり、尋常でない鋼鉄の精神力である。イギリスの貴族って、こんな無理も押し通せるのか……身分社会、すげぇ!
・とうとうと語ったはいいものの、特にダイアナ無罪説を裏付ける確証も無かったために、案の定11人からミュージカル張りの「有罪でしょ!」合唱コールを浴びせられ、しぶしぶ有罪に転じてしまうジョン卿。証拠が無いんだから当然ですよね……それにしても、ジョン卿に詰め寄る11人の剣幕に、「早く公判終わらせて帰りましょうよ!!」という無言の同調圧力が潜んでいるのは、演出こそ喜劇的ではあるのだが、非常に恐ろしいものがある。これでダイアナの死刑が決まっちゃうんだからね……裁判って、こわい!!
・ダイアナへの死刑宣告という劇的な場面を、法廷内を撮影せずに、片付けをする用務員さんだけがいるからっぽの審議室に法廷から声が聞こえてくる光景で描写しているのが、「あえて映さない引き算の効果」を最大限に発揮していて素晴らしい。いや~ヒッチコック監督、大事なところは王道で行くけど、スキさえあれば挑戦的な撮り方にいくよね! まさに才能ギラッギラ。
・本作の名探偵ポジションのジョン卿は、貴族ということで物腰は非常に紳士的なのだが、人気舞台俳優ということで会う人会う人に尊敬のまなざしで見られるし、ロンドンの中心地ウェストミンスターのフラットで執事にブランデーグラスを持ってこさせる優雅な暮らしぶりだし、捜査の下準備は全部マネージャーのベネットにさせるしで、苦労らしいことをひとっつもしていないのが非常に鼻につく。しかも捜査のためとは言え、自分の舞台は平気で風邪だとウソをついて代役に任せるし、事件の重要人物である舞台監督エドワードの名前を忘れても全然悪びれないしで、しゃべるたびにイヤな感じのところがボロボロ出てくるのがおもしろすぎる。ベネットに、「事件の重要人物をなるべく多く集めてくれ。」だってさ……それ、範囲がガバガバで部下が一番困るやつ~!! 貴族って、そんなにイライラする存在なのか!? 京極夏彦の榎木津礼二郎とは別のベクトルで、近くにいてほしくない貴族探偵だ。
・かつて無名時代のダイアナが自分に売り込んできたことがあるという事実を、ベネットに言われるまですっかり忘れていた疑惑のあるジョン卿。その後でいくら「彼女には苦労が必要だったから追い返したのだよ……」って言い訳をしてもねぇ……もうお前しゃべるな! 捜査に専念しろ!!
・撮影スタジオにオーケストラを呼んで演奏させたというエピソードが有名らしいのだが、ちょっと音が大きすぎてセリフがよく聞こえません……まだまだ、トーキー映画もよちよち期だったのねぇ。
・ジョン卿から呼び出しの電報が来ただけで舞い上がり、精一杯おめかしして出発するエドワードとドゥーシー。それを見てアパートの大家は滞納していた家賃がもらえると大喜び……もはや本人が何も言わなくても周辺の人々が勝手に持ち上げ続けるジョン卿のスターっぷりに、もうお腹いっぱいです。このいかにも芝居めいて安っぽいくだりをよそに、調子はずれのピアノの練習をし続ける娘をちゃんと不協和音として画面の中に配置しているところに、ただのコメディには絶対にしないゼというヒッチコック監督の意地を見た! さすがです。
・しがない一般人のエドワードから見たジョン卿の威光のものすごさを説明する描写として、「ジョン卿の執務室の床のカーペットが異常にふっかふか」という誇張表現を挿入しているのが、悪ノリのしすぎでおもしろい。そんな布団みたいなカーペット、転ぶわ!
・今日明日にもダイアナの死刑が執行されるかもしれないという状況下で、事件の再捜査のためにエドワードを呼びつけたのに、まず菓子をつまみながら自身の芸術論をとうとうと語るところから始めるジョン卿。もうこれ、わざとやってるでしょ。
・自分の思うように世界が回っていると考えていそうな唯我独尊のジョン卿なのだが、無名の舞台監督エドワードにちゃんと仕事を与えた上で本題の事件の話に入っているあたり、相手の欲しいものをしっかり把握した「交渉」の手順を踏んでいて、そこがリアルに貴族っぽい。ただのおぼっちゃまじゃないんだな……
・ヒッチコック作品の恒例として、本作のワトスン役のドゥーシーを演じるフィリス=コンスタムさんもブロンドの美女なのだが、夫のエドワードとの間にすでに娘もいる無名の舞台女優という設定も相まって、エドワードとの所帯じみた夫婦漫才が堂に入った、生活感たっぷりの魅力的なキャラクターになっている。もう一方のヒロインである容疑者ダイアナのミステリアスな感じと好対照でイイ感じ。
・繰り返しになるが、ダイアナが死刑執行されかねない切羽詰まった状況の中でも、捜査の成功を祈るお酒の乾杯は忘れないジョン卿。う~ん、これは貴族階級にしか許されないペース配分ですね!
・ドゥーシーの何気ない発言に、事件解決の糸口を見つけるジョン卿。つまり、事件のトリックにつながる鍵は本作の冒頭でちゃんと観客に提示されていたのだ。こういう伏線回収、ミステリーではあるあるだけど爽快ですよね~。
・やっと捜査を開始するジョン卿とマーカム夫妻。殺害現場の大家のミッチャム夫人が事件当夜に聞いた声が女性のものとは限らないということを、舞台俳優らしいやり方で証明するジョン卿なのだが、それをまともに映像化されるとコントにしか見えない。いや、男の声だってバレバレでしょ……
・本作では本編開始から1時間以上経ってから、ほんとに一瞬だけ画面を横切るカップルの役で出演するヒッチコック監督なのだが、その一瞬の中でくいっと首をひねるだけで、なんかモテそうな雰囲気を醸し出しているのが小憎ったらしい。うまいな~、監督!
・異様にゴテゴテっとした土壁で作られているミッチャム夫人の宿屋や、遠近や水平バランスが狂っている劇場の楽屋まわりなど、現実的な殺人事件の解決を目指す本作の作風に関わらず、美術に超現実的なドイツ表現主義の雰囲気が継承されているのが興味深い。狭いスタジオ内で舞台を組む時の伝統になっていたのかな?
・登場してからこのかた、なかなか好感度の上がるチャンスの無いジョン卿だったが、捜査中に泊まった巡査の家で5人のガk……お子様方と1匹の黒猫にたたき起こされるという苦難に遭ってもニヒルな笑顔で受け流す余裕で、かろうじて人徳がアップするのであった。手がかりもつかめたし、よかったね!
・刑務所でのダイアナとの面会によって、ついに事件の真犯人を確信するジョン卿。必死に真犯人の行方を追うジョン卿たちのセリフを流しながら、映像では独房のダイアナと、日のめぐりによってじわじわと壁にのぼってくる絞首台のシルエットが映し出される映像のモンタージュが、切迫感をあおって非常にいい感じである。センスが冴える!
・ジョン卿は「自身の新作舞台のオーディション」という名目で真犯人をおびき出し、エドナ殺害事件を再現した戯曲の犯人役を演じさせて心理的動揺を誘うという、意地が悪いにも程のある作戦を発動させる。悪魔か!? でも、見事に引っかかって冷や汗みどろになりながらも、徐々に覚悟を決めて落ち着いてくる真犯人の演技が素晴らしい。特にわなわなと震える手の動きがすごいね!
・ジョン卿の極悪非道な心理作戦によって、その日の夜のサーカス公演で壮烈な最期を遂げる真犯人。その悲壮な表情も、死を選んだ場面設定も非常に映画らしく見映えのするものになっているのだが、結局確定的な証拠を掴めなかったジョン卿のひねり出した苦肉の策によって、真犯人の死亡と、その暴発的な公開自殺によって興行と団の看板に致命的なマイナスイメージを負ったサーカス団、そしてそのエグすぎる死を目の当たりにしてそうとうなトラウマを抱えることになった数百人のサーカス観客といった甚大な犠牲の数々をまねいてしまった。ジョン卿、我が国の金田一耕助などまったく比較にならないほどの大失態を何コもやらかしているのですが……この人、ほんとに名探偵か?
・事件解決後、舞台上で恋人同士の役を演じるジョン卿とダイアナというしゃれた終幕を迎える本作。でも、自身の捜査において状況証拠ばっかで決定打に欠けるというマズさから真犯人の逮捕に失敗し、それなのにご丁寧な真犯人の遺書で推理が正しかったことを認められ、挙句の果てにゃ自分にぞっこんの美女をゲットするという、超絶ラッキーマンなジョン卿……こんな他力本願成分ほぼ100% な人、人気でるかぁ!?