ひえ~、もう連日あっちくてしょうがないし、リオオリンピックもおっぱじまっちゃったんで、本題にどんどん入っていっちゃおう!
私が『シン・ゴジラ』をおもしろく感じたポイント
1、1954年の『ゴジラ』を前提としないゼロベース感
これって、もしかしたら歴代シリーズでも初の挑戦だったのではないのでしょうか。実は、『シン・ゴジラ』以外に1作だけ例外があるのですが、それはまた後で触れます。
つまり、第2作『ゴジラの逆襲』(1955年)以降、これまですべての歴代作品は、記念すべき第1作『ゴジラ』(1954年)で語られた、水爆大怪獣ゴジラによる1954年8月の首都東京蹂躙の惨禍を「実際にあった歴史的事実」として世界観の根底に置いています。ただし、若干の設定変更はあったり(ミレニアムシリーズの『機龍2部作』では初代ゴジラの骨はオキシジェン・デストロイヤーの影響によって溶解せずに日本政府に回収されている)、後続作品すべてが同じ時間軸上にあるわけではないという煩雑さはあります。基本的に昭和シリーズと平成の『VS』シリーズとミレニアムシリーズはそれぞれの繋がりがまったく無いということになっています。ただ、『機龍2部作』はゴジラ以外の東宝系怪獣(カメーバだのサンダ&ガイラだの)が歴史上に組み込まれていたりして……まぁ~複雑ですよね。
ところが、今回の『シン・ゴジラ』は、この暗黙の了解でもあった「初代ゴジラが昔いた」という大前提を「なし」にしているのです。
なしにしている、ということは、2016年に初めて日本に巨大不明生物が出現したわけです。ということは、あの黒々とした身長118メートルの不気味な「なにか」を見て、人々は「ゴジラだー!」とも、そもそも「怪獣だー!」とも叫ぶことができないわけなのです。これって……なんか、ものすごく身に迫る怖さがありますよね。「怪獣」という日本語は江戸時代にはあったようなので知っている人はいるかもしれませんが、現実の私たちがイメージするような「どこか愛嬌のあるビッグサイズモンスター」という概念はくっついていない世界のはずです。
この「誰も見たことのないなにか」という正体不明すぎる存在感によって、ゴジラは同じく人類の前に(少なくとも20世紀になってからは)初めて出現した初代ゴジラに歴代で初めて伍することのできる「恐怖」を身にまとったのではないのでしょうか。人間にとってなにが怖いって、自分達の最大の武器である脳みそをもってしてもなんとも規定できない「なんだかわからないもの」ほど怖いものはないと思うんです。
そういう意味でこの『シン・ゴジラ』は、多くの日本人にとって忘れることのできない2011年3月11日を起点とした「見えない恐怖」や「どうなるかわからない恐怖」を見事に体現する「災厄」になりおおせていたのではないのでしょうか。だからこそ、この映画はディティールを現実に近づけているとか、ドキュメンタリー的な演出を多用しているとかいうテクニック面を語るまでもなく、本質的に第一級の「災害映画」になっているのです。
「ゴジラ」どころか、「怪獣」という言葉にもまとわりついている「愛嬌」や「ポップさ」を根こそぎ削り落とした『シン・ゴジラ』。ここまでのストイックさは今までのゴジラにはありませんでした。ただ外見を怖くしましたというだけじゃないんです。まず、この身一つで取り組む心意気に拍手ですよね。
それゆえに、本作では「ゴジラ」という名称がつくまでにも様々な経緯が丁寧に語られるわけなのですが……柄本明さん演じる東官房長官がいぶかしげに「ごじら……?」とつぶやくのはいかにも庵野総監督らしいファンサービスですよね。あなた、Gフォースで思いっきりゴジラと戦ってたでしょうが! でも当時ほんとに若かったし、息子さんそっくりでしたね!
2、ゼロベースゆえに超兵器がまったく存在しない自衛隊の絶望感
さて、初代ゴジラの出現を「あったこと」にすると、後続作品の世界観では、『ゴジラ』クライマックス後の山根恭平博士の名言を挙げるまでもなく、「またあんな怪獣が出現してしまったら……」という危機感を起点にして、現実世界にはない超兵器や怪獣退治専門の架空機関が開発・設置されることに説得力が出てきます。
24連装ロケット砲車(いわゆるポンポン砲)、東宝特撮映画の花形ことメーサー殺獣光線車、謎の電子ロボット・ジェットジャガー、首都防衛移動要塞スーパーXとその後続シリーズ、国際連合ゴジラ対策センターとGフォース、平成版のメカゴジラとかガルーダとか MOGERAとか、防衛庁(当時)特別ゴジラ対策本部Gグラスパーとかマイクロブラックホール砲ディメンション・タイドとか、対特殊生物自衛隊(特生自衛隊)とか3式機龍とか……まぁ数えあげたらきりがないくらいにいろんな超兵器が出てきたわけです。
ところが! 今回の『シン・ゴジラ』では、そもそもゴジラに出遭うのが初めてなわけですから、準備なんかしてるわけがない! ぜ~んぶヒト VS ヒトの戦争用兵器だけ。作中ではアメリカ軍ががんばってましたが、せいぜいゴジラを怒らせるくらいが関の山です。レベル1に所持武器がひのきのぼうという状態でマンドリルに遭遇するとか、ファミコンの『仮面ライダー倶楽部』のショッカーランドで最初に遭ったのがアルマジロングだったみたいな絶望感がありますよね。南無阿弥陀仏。本作における急場しのぎの特別チーム「巨大不明生物特設災害対策本部(巨災対)」の涙ぐましい努力については、またのちほど。
「ゴジラと絶望」という関係については、あの武田泰淳のあまりにも的を射すぎている短編小説『「ゴジラ」の来る夜』があるわけなのですが、それに比べれば今作での日本人の対応の方がよっぽど「まとも」で「教科書的」であるという事実に驚かされます。やっぱこの人は発想が違うわ……
ところで、ここでちょっと押さえておきたいのは、この『シン・ゴジラ』と同様にあのギャレス版『GODZILLA』が第1作『ゴジラ』の物語を「なかったこと」にしているという点です。ギャレゴジの世界観でも、東京は戦災から順調に復興・発展していた!
ところがギャレゴジの時間軸では、なんと初代ゴジラの出現とまったく同じ1954年にアメリカの原子力潜水艦とギャレゴジが会戦しており、それ以来、アメリカ政府と軍は特別研究機関「MONARCH(モナーク)」を創設してギャレゴジの行方を追っていたのでした。要するに、ギャレゴジで初代ゴジラが存在していないのは物語の主軸をアメリカに置くための交換措置なのであって、ハリウッド版GODZILLA にするための適切な脚本処理に過ぎなかったのでした。一部の人類はいちおうギャレゴジの来る日を想定して本格的な準備をしていたわけです。むしろ、日本に縁があるのは原発を襲ったムートーであって、ギャレゴジは海の中をう~ろうろ、って感じでしたよね?
東宝シリーズほどケレン味のある超兵器は出なかったにしても、あんなにゴツいギャレゴジが出現したのに作品全体にどことなく「まぁなんとかなるでしょ。」という空気があったのは、ハリウッド超大作らしい鷹揚さもさることながら、半世紀以上ギャレゴジを調べ上げている特別機関がちゃんとあるという設定があったからなのではないのでしょうか。その点、『シン・ゴジラ』でもアメリカ政府は海の中に核廃棄物を食べる生き物がいるらしい、というところまでは感知していたのですが、それがまさかゴジラのような巨大生物になるとまでは予測していなかったのです。
なんとなくでもゴジラに効きそうな兵器は「核」しかなく、オキシジェン・デストロイヤーのような「夢ある兵器」も「おまかせ特殊専門チーム」もいっさい無し。こういった状況下で人類に何ができるのか? 今までの特撮映画では必ず出番のあった「お約束の超兵器」がまったく出ないという絶望感は、むしろそれによって作品としての緊張感を過去作以上に高めるという方向に作用していたと思います。
比較すれば、同じく「恐怖のゴジラが1頭」しか登場しなかった1984年版の『ゴジラ』は、中盤以降を「超兵器スーパーX」と「ソ連による核ミサイルの誤射」という対抗馬で盛り上げようとしていました。しかしそれゆえに、スーパーXのカドミウム弾が「けっこう効いちゃって」ゴジラが弱く見えてしまったり(あと新宿の高層ビル群がでかいでかい!)、ゴジラどころじゃない国際問題が起きちゃったりして、相対的にゴジラの恐怖が「そんなでもないかな?」みたいなショボショボ感になってしまったような気がするのです。
その点、超兵器をかたくなに登場させず、核兵器も実際に使用させる水際で止めていた庵野采配は、1984年版『ゴジラ』を見事に反面教師にした素晴らしいものだったのではないのでしょうか。「ゴジラの恐怖」を恐怖のままでキープさせておく深謀遠慮がハンパない! まさに「核は抑止力」ならば、ゴジラの恐怖も抑止力。ほんとにぶちかましあって強さと強さのインフレを起こしてはならないのです。『貞子 vs 伽椰子』の展開になってはいけない。
3、ゴジラの形態の変化に説明がついた!?
いやぁ~、ゴジラが変態するとは! それも第一~第四形態! 参りました。
私達としましては、やっぱり身長50~60メートルの第三形態や118メートルの第四形態を見て「待ってました!」となるわけなのですが、「海に戻ると第二形態(か第一形態)になるらしい」という解釈はおもしろかったですね。そりゃ泳ぎやすい体形にもなりたくなるでしょう。平成 VSシリーズのムキムキマッチョゴジラなんか泳ぎにくそうで泳ぎにくそうで! 沖合で戦闘機とか艦艇を相手にして上半身だけ浮かばせて戦ってるときも、「水面下では白鳥なみの努力でバタバタ立ち泳ぎしてるのかな?」って、子ども心に気になってたんですよ。あの図体で水深の浅い港にザバーッと現れるまで誰も気づかないっていう描写も妙ですし。
もうひとつ思いがいたったのは、このシン・ゴジの理論でいけば、歴代ゴジラ、特に昭和シリーズでの「作品ごとにゴジラの顔つきや体形が別人並みに変わる」という長年の疑問に対する答えにもなりうるんじゃなかろうかということですね。
『ゴジラの逆襲』ではあんなにガリガリだったゴジラが、なぜ7年後に封印されていた氷山の中から出てきたらあんなに筋肉モリモリマッチョマンの「キンゴジ」になっているのか? そしてなぜ翌年にまたやせた「モスゴジ」になるのか? なぜゴジラには雌雄のつがいが確認されていないのに「息子」がいるのか? なぜゴジラは海に入るとたま~に顔つきが古くなるのか? なぜゴジラは顔がアップになると目つきが急に怖くなったり逆にかわいらしくなるのか(特に初代ゴジラと'84ゴジラ)?
これらの、「まぁなんとなく事情はわかるんだけど……わからないことにしとこう!!」的な謎の数々が、シン・ゴジ理論でア~ラ氷解! あれは体内の核エネルギー代謝によるゴジラの変態だったんですネ! ってことにしとこう。
余談ですが、私はあの賛否両論の激しい第二形態のシン・ゴジを見て「どっかで見たことがあるような……」とひっかかっていたのですが、
わかったわかった、あの首のブラブラ感! 『帰ってきたウルトラマン』の「ひとだま怪獣フェミゴン」と、『ウルトラマンタロウ』の「百足怪獣ムカデンダー」だわ!!
さすがは庵野総監督……劇中でシン・ゴジが初めてその姿を現すタイミングに、そこらへんの異端すぎるデザインを持ってくるとは! 感服つかまつりました。
それにしても、身体中のどの部位よりも頭が一番障害物に当たってるって、どんだけタフかつドMな体形なんだ……私だったら上陸する前に脳震盪で気絶しちゃうけどなぁ。
4、煙であり火炎でありビーム! ゴジラの熱線の「オールカバー対応」
これはもう、ねぇ! 「スクリーンで観て!」と申し上げるよりほかないわけでして。
ともかく、時代によって「白い煙」のようにも見えて「火炎」のようにも見えて「ビーム」のようにも見えるゴジラの「放射能熱線」を、ああいったプロセスで「ぜ~んぶ正解!」という大胆な演出で魅せてしまう映像化にはビックラこいてしまいました。ギャレゴジのためっぷりもよかったですけど、シン・ゴジはためた上に1回吐いて3度おいしいというサービスっぷり! そして、それを吐いてしまったときの絶望感もサービスしすぎです……つ、つらい。
ものすごい威力でした……とてもじゃないですが、直撃でもパトカーを半壊させる程度だった初代ゴジラのバージョンや、直撃でも初代アンギラスや2代目ラドンが涼しい顔でぶんぶん頭を回していた2代目ゴジラのバージョンとはまるで比較にならない火力と照射距離。キングシーサーやスーパーX2でもあれは反射できないでしょう。
ここで忘れてならないのは、シン・ゴジの放射能熱線がただ威力がすごいだけではなく、ちゃんと演出をしっかりしているからものすごい崩壊感を生み出している、ということです。
というのも、ゴジラがこのくらいのスーパー熱線を吐いたのはこれが初めてではありません。例えば前作『ゴジラ FINAL WARS』(2004年)のゴジラは終盤で「ハイパーなんちゃら」とか「バーニングなんちゃら」とかいうむちゃくちゃな熱線を大気圏外までぶっ飛ばす勢いでバンバン吐いていました。
ところが、『FINAL』が見事に証明してみせている通り、大怪獣 VS 大怪獣の「強さのインフレ」の末に吐き出される必殺技光線って、インパクトが威力に反比例して減衰するんですよね! 『ドラゴンボール』のどの必殺技よりも、亀仙人が最初にぶっぱなした「かめはめ波」がいちばんインパクトがあった、みたいな?
シン・ゴジの放射能熱線は、あの悲壮感まる出しの音楽も含めて演出設計が全てそこに照準を合わせて持ってきているという精巧さの上に成立しているからこそ、とてつもなく怖くてかつ、美しいのでしょう。そりゃねぇ、簡単に何発も撃てませんよ。
5、豪華俳優陣の適材適所ぶり
そりゃもう、主演の長谷川さんもシニカルな上司の竹野内さんも、難しい役どころの石原さんもメインの方々はみ~んな素晴らしい演技を披露しておられたわけなのですが、不肖、我が『長岡京エイリアン』がその中でもあえて『シン・ゴジラ』における MVPアクターを選ぶとするのならばァ! それはもうダントツで……
関口文科大臣役の、手塚とおるさん! 彼しかいない!!
……つまりですね、手塚さんの独特の「声の高さ」って(たぶん地声は低いんでしょうが)、ミョ~に耳に残りますよね。これって、往年の大作映画において必ずどこかにいた、話の本筋に関わるわけでもないけどなんか気になってしまう「ヘンな脇役のひと」のポジションにものすんごく近いと思うんですよ。たとえば、石坂浩二版金田一耕助シリーズの三谷昇さんとか、大滝秀治さんとか! こういう人がいる「ワイワイ感」って、意外と作品の豊かさというか、幅の広さを演出する上で絶対にはずせない枠だと思うんですよ。私としては、贅沢を申せば大村千吉さんレベルの人間核弾頭が投下されれば文句も出ないのですが、そこまで無理は言いません。
そういう意味で、非常事態なのに常識一辺倒なことばかり言ってあわてふためき、ちょっと才能のある下っ端が余計なことを言ったと思ったら大人げもなく「キーッ!」とにらみつける小物感の権化でしかない関口大臣は、その他の閣僚の誰よりも「午前8時30分に発生した案件に対して昼1時にならないと対策を打ち出せない政府」という要素に説得力を与える役割を担っていたのではないのでしょうか。グッジョブ! とおるさんグッジョブ!!
手塚さんって、その外見や演技力からエキセントリックな役を演じることも多いんでしょうが(『ガメラ3』の倉田さんとか『仮面ライダーW』劇場版のダミードーパントとか)、こういうこぢんまりした人物を演じてもいいですよね。ヘンな声、サイコー!
いや~しかし、平泉成さんもよかったなぁ。植木等的な「そのうちなんとかなるだろう」オーラがハンパありませんでしたね。でも決して無責任とか自暴自棄じゃなくて、筋を通す時は通すんですよね。かっこいいです。前半の渡辺哲さんもかっこよかったなぁ。諏訪太朗さんの出番が少なかったのは残念だった……原知佐子さんって、いったいどこに出てたの!? 避難民の誰かか!? マフィア梶田さん、出すぎ!!
あと、パンフレットのキャスティング記載で気になったのですが、巨災対にいた自衛隊の若手将校を好演した谷口翔太さんと、嶋田久作さんの前任の外務大臣を演じた頭が少し薄めでメガネをかけた老俳優さんが写真つきで紹介されていないというのは、一体全体どういうことなのだろうか!? このお2人はかなり重要な役どころだろう! パンフレットでスペースがないんだったら、前田敦子か役立たずの3学者を消してでも入れなさいよ!! ほんと、あの『'84ゴジラ』の閣僚にいても違和感がないような風格のあの外務大臣は、誰が演じておられたんだろう?
余談ですが、ゴジラシリーズと AKBグループって、おもしろいくらいに活動時期が入れ違ってますよね。別に『シン・ゴジラ』の後にゴジラシリーズが続いても続かなくてもどっちでもいいんですが、わけわかんないおねえちゃんがちらっと出てきて「きゃー。」とかのたまうような演出だけは入れてほしくないです。やるなら篠原ともえさんくらいやれい!!
6、「牧ゴロー」とフランス ~濃厚にただよう円谷プロのかほり~
さぁ~、出てきました。特撮ファン向けサービスラッシュ!
人類でただひとりゴジラの正体も弱点も掴みきっていた男の名前が、「牧悟郎」だってぇ!? 「シロー」じゃなくて「ゴロー」なの!?
牧ゴローの1コ手前の「牧シロー」といえば、誰が何と言おうとあの円谷プロの空想特撮科学捜査ドラマの金字塔『怪奇大作戦』(1968~69年)の頭脳派捜査官・牧史郎に他なりません。『怪奇大作戦』はこれまで3シーズン(と番外編が1本)製作されていて、牧史郎はそれぞれお3方の名優が演じられているのですが、まぁ庵野総監督が牧悟郎にその天才肌でミステリアスなイメージを投影しているのは、第1シーズンの牧史郎こと、岸田森さんでほぼ間違いないでしょう。
「芹沢」や「猪四郎」といったあたりが、ああいう形で世界のケン・ワタナビィに「ふつう」に演じられてしまった以上、特撮ファンの庵野総監督に残されたマッドサイエンティストにふさわしい名前は「牧史郎」しかありえなかったのでしょう。すばらしい選択だと思います。「まきごろー」なんて、語感だけ聞けばなんとなく動物好きそうなほんわかしたイメージしか湧かないもんね。マキゴロウ王国のゆかいな仲間たち。
だったら、牧悟郎の写真も是非とも岸田さんでいってほしかったのですが、そこはそれ、岸田さんの容貌は作品の根幹を揺るがしかねないファンタジーさに満ち溢れているので、バランスを考えて岸田さんを多くの監督作品に起用した岡本喜八監督に差し替えたのではないのでしょうか。それに岸田さん、もう平成ウルトラマンのなんかの映画で遺影出演してるし。
でも、岡本喜八監督のあの、自動車教習所の先生みたいな半分サングラスもたいがいファンタジーですけどね。あんな人が2010年代まで生存しているなんて、とてもじゃないけど信じられない!
ちなみに、この『シン・ゴジラ』と何かと比較されることの多い岡本監督の『日本のいちばん長い日』(1967年)は、ドキュメンタリーとはいいがたい喜八印のファンタジーがふんだんに、そして巧妙に編み込まれた大傑作です。黒沢年男さんや天本英世さんのあのゴキゲンに狂いまくった演技を見て「ドキュメンタリーだなぁ!」なんて感じる人、いないでしょ? うん、そういう意味で考えると、「ゴジラだけがファンタジー」と言っているのはあくまでもプロデューサーさんの見解なのであって、庵野総監督はそうとうにファンタジーを盛り込んでるつもりなのかもしれない。石原さんのトニイングリッシュ(死語)とか「無人在来線爆弾」とか。
そしてそして、これは言っておきたいのですが、『シン・ゴジラ』って、なんか終盤の大事なところでやたらとフランスを重要なポジションに持ってきてたでしょ? クライマックス後には、一国の首相がフランス大使に深々と礼をたれるというひとコマもあったし。
なぜ庵野総監督は、フランスに対して日本にここまで大きな借りを作らせる必要があったのか?
これって、私はもう、『シン・ゴジラ』の後に当然作られるであろう「巨災対」を発展させた史上初の対怪獣専門組織を、日本と同等にフランスが主導権を握って、なんだったらその本部をパリに置くような国際組織にするための伏線のように見えてしょうがないわけなんです。
フランスのパリに本部のある怪獣退治の専門組織といえばあなた、『ウルトラマン』(1966~67年)の科学特別捜査隊、いわゆる「科特隊」ですわなぁ。
なんという壮大な伏線……庵野総監督は必ずこれを実現して、『シン・ウルトラマン』か、もしくはウルトラマンとベムラーが飛来するまでのムラマツキャップ中心の物語をリブートするつもりなのではないのか!? あの、ケムール人あたりが出てくるやつ! すごいですねぇ~、どっちかというと『シン・ウルトラQ』というか、『ウルトラマン』前史なわけですよ、『シン・ゴジラ』は。
庵野総監督おんみずからが若き日にウルトラマンになった『帰ってきたウルトラマン』までの道のりは遠いですが……もういいっす、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』なんてど~でもいいから、そっち始めちゃってください!!
7、すごい! 庵野さんの作品なのにちゃんと「終」わってる!!
こりゃもう、エンドクレジットの最後で素直に感動しました。終わった、ねぇ……庵野総監督がもう、かれこれ20年くらい見たい、自分で作り出したいと願い続けている「終」だったのではないのでしょうか。
……もうどうでもいいけどねぇ、使徒の出てこないヱヴァンゲリヲンなんて。
ささ、そんな感じで字数もあっという間にかさんでまいりました。最後にちょこちょこっと。
そんなに気にはなんないけど! 『シン・ゴジラ』の気になった点
1、いろいろとデジャヴ感がぬぐいきれない
それだけ庵野総監督も『新世紀エヴァンゲリオン』に心血を注いでいた、ということでもあるんでしょうが、「ヤシオリ作戦」っていうのはまさに「ヤシマ作戦」の変奏曲であり、ゴジラが活動を再開するタイムリミットまでに人類側が準備を整えるっていうサスペンスも、第7使徒イスラフェル戦で使われていた筋書きですよ。
ま、作った本人がまた使ってるんだから文句のつけようがありませんけど……悪くもないんですが、ヤシマ作戦に比べて感動の度合いが特に大きいわけでもないというヘンな感じでした。これ、取り立ててチープな出来にもなっていないのにどうしてアニメ作品中の1エピソードと東宝の大作映画が大して違いのない感動レベルになってるのか考えてみたんですけれど、私なりの答えは最後にまとめて申したいと思います。もうちょっとだけ待っててくださ~い!
それから、私がエヴァンゲリオンシリーズよりももっと深刻に感じた『シン・ゴジラ』に対する既視感は、今作のキーマンとなっている牧悟郎という異常な天才がすでに自殺とみられる形で物語から退場しているというか、むしろ彼がいなくなってから物語が始まっているという構図でした。事件の原因も解決法も知り尽くしている天才が多分に悪意を持って自分から姿を消しているという、この感じは……
はいっ、アニメ『機動警察パトレイバー the Movie 』(1989年)の帆場暎一っていう天才プログラマーの動向とそっくりすぎ!!
キャラクター的に牧と帆場が似ているわけではないし、やっていることもまるで別の分野なのですが、作品の構図に対してのこの2人の「バットエンドになってもハッピーエンドになってもこいつのてのひらの上」という超越感がものすごく似てるんですよね。
私のようなどしろうとでも上映中から「似すぎじゃない……?」と気になってしょうがない脚本構造でした。庵野総監督、こんな大一番で押井守さんを喜ばせるようなことをしてなんの得があるのでしょうか……それだけリスペクトしてるってことなんでしょうが、自分の作品から引用するのとは話が違うから、ねぇ。
2、ゴジラのファーストインパクトとラストインパクトが、ちょっともったいない?
初代ゴジラの作品中での出現は、上映時間的にシン・ゴジの第二形態よりももっと後になっています。しかし足音だけや足だけチラ見せ、そして先に目撃した人たちの迫真の演技といった実に巧妙なじらし演出の積み重ねによって観客は全く飽きさせられず、しかも、満を持して山の稜線の向こうに出現したゴジラの咆哮はその期待値を大きく凌駕する衝撃と恐怖をもたらすものでした。
ところが、シン・ゴジの場合は第一形態のしっぽだけとか第二形態の背ビレだけとかいうじらしは順調に配置されていたのですが、かなり唐突に単純なシーン切り替えで第二形態の全容が白日の下にさらされてしまうのです。
そのあっさり感が新しいといえば新しいんですが……なんかもったいないと思いました。形態が形態なんでねぇ。もっとお客さんをビックリさせられる見せ方があったような気がするんですが。
あと、シン・ゴジの断末魔も、初代ゴジラのあの長い断末魔に比べればかなりあっさりしてましたよね。初代ゴジラは断末魔でほんとに演技してたもんね! あの「無念」を絵に描いたような表情と手の演技は、たぶん大戦中に東京のあちこちに転がっていたであろう焼死したご遺体のもがき苦しむかたちをまざまざと連想させるものがあったのではないのでしょうか。
それにくらべてシン・ゴジは……まぁ~ドライですよ。まぁ死因(?)がフリーズドライなんだからしかたないけど。
それ以外の綿密すぎる計算の連続に比べて、シン・ゴジの初登場と断末魔はまったくノーガードであっさり。私は意外に感じました。
3、そんなに伊福部さんを前面に押し出して鷺巣さんはいじけていないのだろうか
……鷺巣さんもいい曲いっぱい流してましたよね? 会議室のテーマはお遊びのようで、実はアレンジ再使用の多かった伊福部さんへのオマージュだったりして。不敬なりィ!
4、もしこの『シン・ゴジラ』を観て「気持ち悪い。」と感じたら
さっき言った、ヤシマ作戦とヤシオリ作戦でそんなに感動の度合いに差がないのはどうしてなのか? ということなのですが、これ私、それぞれの作戦の成功を願う人々の描写に、極端に違いがあるからどっこいどっこいになっちゃったと思うんです。
つまり、普通に同じ作りにしていたら『シン・ゴジラ』のほうが良くなっていたはず。ところが、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版・序』ではけっこう丁寧に描写されていた「非戦闘要員のみなさん」がどうしているのか、この作戦の成功をどのくらい命を込めて祈っているのか、という視点が『シン・ゴジラ』ではものの見事にカットされていたがために、頑張ってるのは前線の人たちか意識の高い主人公グループくらいで、国民全員でヤシオリ作戦!という構図が引き立たなかったと感じたんです。
そのために、「○カタルシス ×画作り」のヤシマ作戦と「×カタルシス ○画作り」のヤシオリ作戦とで同点引き分けになっちゃったと思うんですよ。
そしてそれがために『シン・ゴジラ』は、「なんか一部の人たちが犠牲精神まる出しでずーっと真面目に頑張ってるだけの映画で、なんか観てるこっちもそう生きろって言われてるみたいでヤダ!」という拒否反応も、たぶん少なくない人たちにはもたらしてるんじゃないのでしょうか。
当然、ゴジラという国難に立ち向かうのはもちろんのことなんですが、この映画では終始、その正義や願いがごく一部の人間にしか共有されない観念的なものになっていたような気がするのです。正義がヒエラルキーのかなーり上からトップダウンで降ろされてきてるみたいな。まさに「言ってることはわかるんですけど、偉い人に言われると、なんか……」な感じなわけです。正義と自己犠牲、感動の押し売りに見えなくも、ないかも。
もっと、初代ゴジラのときのような、兄をゴジラに殺された少年の「畜生……畜生……」というつぶやきや、顔も映らないような民衆の「どうやったらやっつけられるんだッ!!」という叫びや、ゴジラの恐怖に屈した避難民の「もう、おとうちゃんのところに行くのよ。」と幼い我が子をかき抱く姿や、「また疎開か、いやだなぁ。」とボヤく能天気な会話といった、直接戦いに加わらない人々の声を、本筋に邪魔にならないような絶妙さで差し挟んでいたのならば、もっと『シン・ゴジラ』は絶賛される傑作になっていたと思うのですが。
『シン・ゴジラ』に出てくる一般人という時点でかなり出番が限定されていたし、出てきた松尾スズキさんとか片桐はいりさんも、必要最低限なセリフしかなかったもんねぇ。味気ないですよ。「ゴジラを殺せ!!」と国会前でデモをするくらいしか能のない国民っていう描き方は、なんか引っかかるといえば引っかかりますよね。
極端な言い方をしますと、『シン・ゴジラ』は初代ゴジラや岡本版『日本のいちばん長い日』のような視野の広さはわざとであるにせよ、なくなっています。あえてミクロなお話の作り方になっていて、印象としては「かなり良くできた『プロジェクトX』」にとどまっているような感じもしないでは、ない。
そうつらつら考えると、エヴァンゲリオンシリーズの「超兵器を動かすのがごくふつうの子供」という設定の重要性、つまり「同級生の鈴原君や相田君の純真無垢な応援」も必然的に描写されるという『序』のクライマックスが、いかによくできたものだったのかがわかろうというものです。特別な能力があるわけでもない現実のお客さんが共感できるキャラクターを配置するというのは、ほんとうに大事なことなんですね。
うん、矢口ランドーさんだのパターソンさんだのに共感できる人なんて、そんなにはいないだろうからねぇ。末は総理か大統領なんてくっちゃべってる人たちなんだぜ。ファンタジーだねぇ、どうにも!
あぁ~、そんなこんなでおもしろかった! 助走、本走あわせて2万字を超える駄文長文の末、結論は「おもしろかった」です。ゆるしてパパ~ヤ~!!
今回はなりゆきで4D版を観ることになっちゃったけど、たぶん2D版のほうも夏休み中にあと2回くらいは観に行くんじゃないでしょうか。
『シン・ゴジラ』、ごちそうさまでした~!!
私が『シン・ゴジラ』をおもしろく感じたポイント
1、1954年の『ゴジラ』を前提としないゼロベース感
これって、もしかしたら歴代シリーズでも初の挑戦だったのではないのでしょうか。実は、『シン・ゴジラ』以外に1作だけ例外があるのですが、それはまた後で触れます。
つまり、第2作『ゴジラの逆襲』(1955年)以降、これまですべての歴代作品は、記念すべき第1作『ゴジラ』(1954年)で語られた、水爆大怪獣ゴジラによる1954年8月の首都東京蹂躙の惨禍を「実際にあった歴史的事実」として世界観の根底に置いています。ただし、若干の設定変更はあったり(ミレニアムシリーズの『機龍2部作』では初代ゴジラの骨はオキシジェン・デストロイヤーの影響によって溶解せずに日本政府に回収されている)、後続作品すべてが同じ時間軸上にあるわけではないという煩雑さはあります。基本的に昭和シリーズと平成の『VS』シリーズとミレニアムシリーズはそれぞれの繋がりがまったく無いということになっています。ただ、『機龍2部作』はゴジラ以外の東宝系怪獣(カメーバだのサンダ&ガイラだの)が歴史上に組み込まれていたりして……まぁ~複雑ですよね。
ところが、今回の『シン・ゴジラ』は、この暗黙の了解でもあった「初代ゴジラが昔いた」という大前提を「なし」にしているのです。
なしにしている、ということは、2016年に初めて日本に巨大不明生物が出現したわけです。ということは、あの黒々とした身長118メートルの不気味な「なにか」を見て、人々は「ゴジラだー!」とも、そもそも「怪獣だー!」とも叫ぶことができないわけなのです。これって……なんか、ものすごく身に迫る怖さがありますよね。「怪獣」という日本語は江戸時代にはあったようなので知っている人はいるかもしれませんが、現実の私たちがイメージするような「どこか愛嬌のあるビッグサイズモンスター」という概念はくっついていない世界のはずです。
この「誰も見たことのないなにか」という正体不明すぎる存在感によって、ゴジラは同じく人類の前に(少なくとも20世紀になってからは)初めて出現した初代ゴジラに歴代で初めて伍することのできる「恐怖」を身にまとったのではないのでしょうか。人間にとってなにが怖いって、自分達の最大の武器である脳みそをもってしてもなんとも規定できない「なんだかわからないもの」ほど怖いものはないと思うんです。
そういう意味でこの『シン・ゴジラ』は、多くの日本人にとって忘れることのできない2011年3月11日を起点とした「見えない恐怖」や「どうなるかわからない恐怖」を見事に体現する「災厄」になりおおせていたのではないのでしょうか。だからこそ、この映画はディティールを現実に近づけているとか、ドキュメンタリー的な演出を多用しているとかいうテクニック面を語るまでもなく、本質的に第一級の「災害映画」になっているのです。
「ゴジラ」どころか、「怪獣」という言葉にもまとわりついている「愛嬌」や「ポップさ」を根こそぎ削り落とした『シン・ゴジラ』。ここまでのストイックさは今までのゴジラにはありませんでした。ただ外見を怖くしましたというだけじゃないんです。まず、この身一つで取り組む心意気に拍手ですよね。
それゆえに、本作では「ゴジラ」という名称がつくまでにも様々な経緯が丁寧に語られるわけなのですが……柄本明さん演じる東官房長官がいぶかしげに「ごじら……?」とつぶやくのはいかにも庵野総監督らしいファンサービスですよね。あなた、Gフォースで思いっきりゴジラと戦ってたでしょうが! でも当時ほんとに若かったし、息子さんそっくりでしたね!
2、ゼロベースゆえに超兵器がまったく存在しない自衛隊の絶望感
さて、初代ゴジラの出現を「あったこと」にすると、後続作品の世界観では、『ゴジラ』クライマックス後の山根恭平博士の名言を挙げるまでもなく、「またあんな怪獣が出現してしまったら……」という危機感を起点にして、現実世界にはない超兵器や怪獣退治専門の架空機関が開発・設置されることに説得力が出てきます。
24連装ロケット砲車(いわゆるポンポン砲)、東宝特撮映画の花形ことメーサー殺獣光線車、謎の電子ロボット・ジェットジャガー、首都防衛移動要塞スーパーXとその後続シリーズ、国際連合ゴジラ対策センターとGフォース、平成版のメカゴジラとかガルーダとか MOGERAとか、防衛庁(当時)特別ゴジラ対策本部Gグラスパーとかマイクロブラックホール砲ディメンション・タイドとか、対特殊生物自衛隊(特生自衛隊)とか3式機龍とか……まぁ数えあげたらきりがないくらいにいろんな超兵器が出てきたわけです。
ところが! 今回の『シン・ゴジラ』では、そもそもゴジラに出遭うのが初めてなわけですから、準備なんかしてるわけがない! ぜ~んぶヒト VS ヒトの戦争用兵器だけ。作中ではアメリカ軍ががんばってましたが、せいぜいゴジラを怒らせるくらいが関の山です。レベル1に所持武器がひのきのぼうという状態でマンドリルに遭遇するとか、ファミコンの『仮面ライダー倶楽部』のショッカーランドで最初に遭ったのがアルマジロングだったみたいな絶望感がありますよね。南無阿弥陀仏。本作における急場しのぎの特別チーム「巨大不明生物特設災害対策本部(巨災対)」の涙ぐましい努力については、またのちほど。
「ゴジラと絶望」という関係については、あの武田泰淳のあまりにも的を射すぎている短編小説『「ゴジラ」の来る夜』があるわけなのですが、それに比べれば今作での日本人の対応の方がよっぽど「まとも」で「教科書的」であるという事実に驚かされます。やっぱこの人は発想が違うわ……
ところで、ここでちょっと押さえておきたいのは、この『シン・ゴジラ』と同様にあのギャレス版『GODZILLA』が第1作『ゴジラ』の物語を「なかったこと」にしているという点です。ギャレゴジの世界観でも、東京は戦災から順調に復興・発展していた!
ところがギャレゴジの時間軸では、なんと初代ゴジラの出現とまったく同じ1954年にアメリカの原子力潜水艦とギャレゴジが会戦しており、それ以来、アメリカ政府と軍は特別研究機関「MONARCH(モナーク)」を創設してギャレゴジの行方を追っていたのでした。要するに、ギャレゴジで初代ゴジラが存在していないのは物語の主軸をアメリカに置くための交換措置なのであって、ハリウッド版GODZILLA にするための適切な脚本処理に過ぎなかったのでした。一部の人類はいちおうギャレゴジの来る日を想定して本格的な準備をしていたわけです。むしろ、日本に縁があるのは原発を襲ったムートーであって、ギャレゴジは海の中をう~ろうろ、って感じでしたよね?
東宝シリーズほどケレン味のある超兵器は出なかったにしても、あんなにゴツいギャレゴジが出現したのに作品全体にどことなく「まぁなんとかなるでしょ。」という空気があったのは、ハリウッド超大作らしい鷹揚さもさることながら、半世紀以上ギャレゴジを調べ上げている特別機関がちゃんとあるという設定があったからなのではないのでしょうか。その点、『シン・ゴジラ』でもアメリカ政府は海の中に核廃棄物を食べる生き物がいるらしい、というところまでは感知していたのですが、それがまさかゴジラのような巨大生物になるとまでは予測していなかったのです。
なんとなくでもゴジラに効きそうな兵器は「核」しかなく、オキシジェン・デストロイヤーのような「夢ある兵器」も「おまかせ特殊専門チーム」もいっさい無し。こういった状況下で人類に何ができるのか? 今までの特撮映画では必ず出番のあった「お約束の超兵器」がまったく出ないという絶望感は、むしろそれによって作品としての緊張感を過去作以上に高めるという方向に作用していたと思います。
比較すれば、同じく「恐怖のゴジラが1頭」しか登場しなかった1984年版の『ゴジラ』は、中盤以降を「超兵器スーパーX」と「ソ連による核ミサイルの誤射」という対抗馬で盛り上げようとしていました。しかしそれゆえに、スーパーXのカドミウム弾が「けっこう効いちゃって」ゴジラが弱く見えてしまったり(あと新宿の高層ビル群がでかいでかい!)、ゴジラどころじゃない国際問題が起きちゃったりして、相対的にゴジラの恐怖が「そんなでもないかな?」みたいなショボショボ感になってしまったような気がするのです。
その点、超兵器をかたくなに登場させず、核兵器も実際に使用させる水際で止めていた庵野采配は、1984年版『ゴジラ』を見事に反面教師にした素晴らしいものだったのではないのでしょうか。「ゴジラの恐怖」を恐怖のままでキープさせておく深謀遠慮がハンパない! まさに「核は抑止力」ならば、ゴジラの恐怖も抑止力。ほんとにぶちかましあって強さと強さのインフレを起こしてはならないのです。『貞子 vs 伽椰子』の展開になってはいけない。
3、ゴジラの形態の変化に説明がついた!?
いやぁ~、ゴジラが変態するとは! それも第一~第四形態! 参りました。
私達としましては、やっぱり身長50~60メートルの第三形態や118メートルの第四形態を見て「待ってました!」となるわけなのですが、「海に戻ると第二形態(か第一形態)になるらしい」という解釈はおもしろかったですね。そりゃ泳ぎやすい体形にもなりたくなるでしょう。平成 VSシリーズのムキムキマッチョゴジラなんか泳ぎにくそうで泳ぎにくそうで! 沖合で戦闘機とか艦艇を相手にして上半身だけ浮かばせて戦ってるときも、「水面下では白鳥なみの努力でバタバタ立ち泳ぎしてるのかな?」って、子ども心に気になってたんですよ。あの図体で水深の浅い港にザバーッと現れるまで誰も気づかないっていう描写も妙ですし。
もうひとつ思いがいたったのは、このシン・ゴジの理論でいけば、歴代ゴジラ、特に昭和シリーズでの「作品ごとにゴジラの顔つきや体形が別人並みに変わる」という長年の疑問に対する答えにもなりうるんじゃなかろうかということですね。
『ゴジラの逆襲』ではあんなにガリガリだったゴジラが、なぜ7年後に封印されていた氷山の中から出てきたらあんなに筋肉モリモリマッチョマンの「キンゴジ」になっているのか? そしてなぜ翌年にまたやせた「モスゴジ」になるのか? なぜゴジラには雌雄のつがいが確認されていないのに「息子」がいるのか? なぜゴジラは海に入るとたま~に顔つきが古くなるのか? なぜゴジラは顔がアップになると目つきが急に怖くなったり逆にかわいらしくなるのか(特に初代ゴジラと'84ゴジラ)?
これらの、「まぁなんとなく事情はわかるんだけど……わからないことにしとこう!!」的な謎の数々が、シン・ゴジ理論でア~ラ氷解! あれは体内の核エネルギー代謝によるゴジラの変態だったんですネ! ってことにしとこう。
余談ですが、私はあの賛否両論の激しい第二形態のシン・ゴジを見て「どっかで見たことがあるような……」とひっかかっていたのですが、
わかったわかった、あの首のブラブラ感! 『帰ってきたウルトラマン』の「ひとだま怪獣フェミゴン」と、『ウルトラマンタロウ』の「百足怪獣ムカデンダー」だわ!!
さすがは庵野総監督……劇中でシン・ゴジが初めてその姿を現すタイミングに、そこらへんの異端すぎるデザインを持ってくるとは! 感服つかまつりました。
それにしても、身体中のどの部位よりも頭が一番障害物に当たってるって、どんだけタフかつドMな体形なんだ……私だったら上陸する前に脳震盪で気絶しちゃうけどなぁ。
4、煙であり火炎でありビーム! ゴジラの熱線の「オールカバー対応」
これはもう、ねぇ! 「スクリーンで観て!」と申し上げるよりほかないわけでして。
ともかく、時代によって「白い煙」のようにも見えて「火炎」のようにも見えて「ビーム」のようにも見えるゴジラの「放射能熱線」を、ああいったプロセスで「ぜ~んぶ正解!」という大胆な演出で魅せてしまう映像化にはビックラこいてしまいました。ギャレゴジのためっぷりもよかったですけど、シン・ゴジはためた上に1回吐いて3度おいしいというサービスっぷり! そして、それを吐いてしまったときの絶望感もサービスしすぎです……つ、つらい。
ものすごい威力でした……とてもじゃないですが、直撃でもパトカーを半壊させる程度だった初代ゴジラのバージョンや、直撃でも初代アンギラスや2代目ラドンが涼しい顔でぶんぶん頭を回していた2代目ゴジラのバージョンとはまるで比較にならない火力と照射距離。キングシーサーやスーパーX2でもあれは反射できないでしょう。
ここで忘れてならないのは、シン・ゴジの放射能熱線がただ威力がすごいだけではなく、ちゃんと演出をしっかりしているからものすごい崩壊感を生み出している、ということです。
というのも、ゴジラがこのくらいのスーパー熱線を吐いたのはこれが初めてではありません。例えば前作『ゴジラ FINAL WARS』(2004年)のゴジラは終盤で「ハイパーなんちゃら」とか「バーニングなんちゃら」とかいうむちゃくちゃな熱線を大気圏外までぶっ飛ばす勢いでバンバン吐いていました。
ところが、『FINAL』が見事に証明してみせている通り、大怪獣 VS 大怪獣の「強さのインフレ」の末に吐き出される必殺技光線って、インパクトが威力に反比例して減衰するんですよね! 『ドラゴンボール』のどの必殺技よりも、亀仙人が最初にぶっぱなした「かめはめ波」がいちばんインパクトがあった、みたいな?
シン・ゴジの放射能熱線は、あの悲壮感まる出しの音楽も含めて演出設計が全てそこに照準を合わせて持ってきているという精巧さの上に成立しているからこそ、とてつもなく怖くてかつ、美しいのでしょう。そりゃねぇ、簡単に何発も撃てませんよ。
5、豪華俳優陣の適材適所ぶり
そりゃもう、主演の長谷川さんもシニカルな上司の竹野内さんも、難しい役どころの石原さんもメインの方々はみ~んな素晴らしい演技を披露しておられたわけなのですが、不肖、我が『長岡京エイリアン』がその中でもあえて『シン・ゴジラ』における MVPアクターを選ぶとするのならばァ! それはもうダントツで……
関口文科大臣役の、手塚とおるさん! 彼しかいない!!
……つまりですね、手塚さんの独特の「声の高さ」って(たぶん地声は低いんでしょうが)、ミョ~に耳に残りますよね。これって、往年の大作映画において必ずどこかにいた、話の本筋に関わるわけでもないけどなんか気になってしまう「ヘンな脇役のひと」のポジションにものすんごく近いと思うんですよ。たとえば、石坂浩二版金田一耕助シリーズの三谷昇さんとか、大滝秀治さんとか! こういう人がいる「ワイワイ感」って、意外と作品の豊かさというか、幅の広さを演出する上で絶対にはずせない枠だと思うんですよ。私としては、贅沢を申せば大村千吉さんレベルの人間核弾頭が投下されれば文句も出ないのですが、そこまで無理は言いません。
そういう意味で、非常事態なのに常識一辺倒なことばかり言ってあわてふためき、ちょっと才能のある下っ端が余計なことを言ったと思ったら大人げもなく「キーッ!」とにらみつける小物感の権化でしかない関口大臣は、その他の閣僚の誰よりも「午前8時30分に発生した案件に対して昼1時にならないと対策を打ち出せない政府」という要素に説得力を与える役割を担っていたのではないのでしょうか。グッジョブ! とおるさんグッジョブ!!
手塚さんって、その外見や演技力からエキセントリックな役を演じることも多いんでしょうが(『ガメラ3』の倉田さんとか『仮面ライダーW』劇場版のダミードーパントとか)、こういうこぢんまりした人物を演じてもいいですよね。ヘンな声、サイコー!
いや~しかし、平泉成さんもよかったなぁ。植木等的な「そのうちなんとかなるだろう」オーラがハンパありませんでしたね。でも決して無責任とか自暴自棄じゃなくて、筋を通す時は通すんですよね。かっこいいです。前半の渡辺哲さんもかっこよかったなぁ。諏訪太朗さんの出番が少なかったのは残念だった……原知佐子さんって、いったいどこに出てたの!? 避難民の誰かか!? マフィア梶田さん、出すぎ!!
あと、パンフレットのキャスティング記載で気になったのですが、巨災対にいた自衛隊の若手将校を好演した谷口翔太さんと、嶋田久作さんの前任の外務大臣を演じた頭が少し薄めでメガネをかけた老俳優さんが写真つきで紹介されていないというのは、一体全体どういうことなのだろうか!? このお2人はかなり重要な役どころだろう! パンフレットでスペースがないんだったら、前田敦子か役立たずの3学者を消してでも入れなさいよ!! ほんと、あの『'84ゴジラ』の閣僚にいても違和感がないような風格のあの外務大臣は、誰が演じておられたんだろう?
余談ですが、ゴジラシリーズと AKBグループって、おもしろいくらいに活動時期が入れ違ってますよね。別に『シン・ゴジラ』の後にゴジラシリーズが続いても続かなくてもどっちでもいいんですが、わけわかんないおねえちゃんがちらっと出てきて「きゃー。」とかのたまうような演出だけは入れてほしくないです。やるなら篠原ともえさんくらいやれい!!
6、「牧ゴロー」とフランス ~濃厚にただよう円谷プロのかほり~
さぁ~、出てきました。特撮ファン向けサービスラッシュ!
人類でただひとりゴジラの正体も弱点も掴みきっていた男の名前が、「牧悟郎」だってぇ!? 「シロー」じゃなくて「ゴロー」なの!?
牧ゴローの1コ手前の「牧シロー」といえば、誰が何と言おうとあの円谷プロの空想特撮科学捜査ドラマの金字塔『怪奇大作戦』(1968~69年)の頭脳派捜査官・牧史郎に他なりません。『怪奇大作戦』はこれまで3シーズン(と番外編が1本)製作されていて、牧史郎はそれぞれお3方の名優が演じられているのですが、まぁ庵野総監督が牧悟郎にその天才肌でミステリアスなイメージを投影しているのは、第1シーズンの牧史郎こと、岸田森さんでほぼ間違いないでしょう。
「芹沢」や「猪四郎」といったあたりが、ああいう形で世界のケン・ワタナビィに「ふつう」に演じられてしまった以上、特撮ファンの庵野総監督に残されたマッドサイエンティストにふさわしい名前は「牧史郎」しかありえなかったのでしょう。すばらしい選択だと思います。「まきごろー」なんて、語感だけ聞けばなんとなく動物好きそうなほんわかしたイメージしか湧かないもんね。マキゴロウ王国のゆかいな仲間たち。
だったら、牧悟郎の写真も是非とも岸田さんでいってほしかったのですが、そこはそれ、岸田さんの容貌は作品の根幹を揺るがしかねないファンタジーさに満ち溢れているので、バランスを考えて岸田さんを多くの監督作品に起用した岡本喜八監督に差し替えたのではないのでしょうか。それに岸田さん、もう平成ウルトラマンのなんかの映画で遺影出演してるし。
でも、岡本喜八監督のあの、自動車教習所の先生みたいな半分サングラスもたいがいファンタジーですけどね。あんな人が2010年代まで生存しているなんて、とてもじゃないけど信じられない!
ちなみに、この『シン・ゴジラ』と何かと比較されることの多い岡本監督の『日本のいちばん長い日』(1967年)は、ドキュメンタリーとはいいがたい喜八印のファンタジーがふんだんに、そして巧妙に編み込まれた大傑作です。黒沢年男さんや天本英世さんのあのゴキゲンに狂いまくった演技を見て「ドキュメンタリーだなぁ!」なんて感じる人、いないでしょ? うん、そういう意味で考えると、「ゴジラだけがファンタジー」と言っているのはあくまでもプロデューサーさんの見解なのであって、庵野総監督はそうとうにファンタジーを盛り込んでるつもりなのかもしれない。石原さんのトニイングリッシュ(死語)とか「無人在来線爆弾」とか。
そしてそして、これは言っておきたいのですが、『シン・ゴジラ』って、なんか終盤の大事なところでやたらとフランスを重要なポジションに持ってきてたでしょ? クライマックス後には、一国の首相がフランス大使に深々と礼をたれるというひとコマもあったし。
なぜ庵野総監督は、フランスに対して日本にここまで大きな借りを作らせる必要があったのか?
これって、私はもう、『シン・ゴジラ』の後に当然作られるであろう「巨災対」を発展させた史上初の対怪獣専門組織を、日本と同等にフランスが主導権を握って、なんだったらその本部をパリに置くような国際組織にするための伏線のように見えてしょうがないわけなんです。
フランスのパリに本部のある怪獣退治の専門組織といえばあなた、『ウルトラマン』(1966~67年)の科学特別捜査隊、いわゆる「科特隊」ですわなぁ。
なんという壮大な伏線……庵野総監督は必ずこれを実現して、『シン・ウルトラマン』か、もしくはウルトラマンとベムラーが飛来するまでのムラマツキャップ中心の物語をリブートするつもりなのではないのか!? あの、ケムール人あたりが出てくるやつ! すごいですねぇ~、どっちかというと『シン・ウルトラQ』というか、『ウルトラマン』前史なわけですよ、『シン・ゴジラ』は。
庵野総監督おんみずからが若き日にウルトラマンになった『帰ってきたウルトラマン』までの道のりは遠いですが……もういいっす、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』なんてど~でもいいから、そっち始めちゃってください!!
7、すごい! 庵野さんの作品なのにちゃんと「終」わってる!!
こりゃもう、エンドクレジットの最後で素直に感動しました。終わった、ねぇ……庵野総監督がもう、かれこれ20年くらい見たい、自分で作り出したいと願い続けている「終」だったのではないのでしょうか。
……もうどうでもいいけどねぇ、使徒の出てこないヱヴァンゲリヲンなんて。
ささ、そんな感じで字数もあっという間にかさんでまいりました。最後にちょこちょこっと。
そんなに気にはなんないけど! 『シン・ゴジラ』の気になった点
1、いろいろとデジャヴ感がぬぐいきれない
それだけ庵野総監督も『新世紀エヴァンゲリオン』に心血を注いでいた、ということでもあるんでしょうが、「ヤシオリ作戦」っていうのはまさに「ヤシマ作戦」の変奏曲であり、ゴジラが活動を再開するタイムリミットまでに人類側が準備を整えるっていうサスペンスも、第7使徒イスラフェル戦で使われていた筋書きですよ。
ま、作った本人がまた使ってるんだから文句のつけようがありませんけど……悪くもないんですが、ヤシマ作戦に比べて感動の度合いが特に大きいわけでもないというヘンな感じでした。これ、取り立ててチープな出来にもなっていないのにどうしてアニメ作品中の1エピソードと東宝の大作映画が大して違いのない感動レベルになってるのか考えてみたんですけれど、私なりの答えは最後にまとめて申したいと思います。もうちょっとだけ待っててくださ~い!
それから、私がエヴァンゲリオンシリーズよりももっと深刻に感じた『シン・ゴジラ』に対する既視感は、今作のキーマンとなっている牧悟郎という異常な天才がすでに自殺とみられる形で物語から退場しているというか、むしろ彼がいなくなってから物語が始まっているという構図でした。事件の原因も解決法も知り尽くしている天才が多分に悪意を持って自分から姿を消しているという、この感じは……
はいっ、アニメ『機動警察パトレイバー the Movie 』(1989年)の帆場暎一っていう天才プログラマーの動向とそっくりすぎ!!
キャラクター的に牧と帆場が似ているわけではないし、やっていることもまるで別の分野なのですが、作品の構図に対してのこの2人の「バットエンドになってもハッピーエンドになってもこいつのてのひらの上」という超越感がものすごく似てるんですよね。
私のようなどしろうとでも上映中から「似すぎじゃない……?」と気になってしょうがない脚本構造でした。庵野総監督、こんな大一番で押井守さんを喜ばせるようなことをしてなんの得があるのでしょうか……それだけリスペクトしてるってことなんでしょうが、自分の作品から引用するのとは話が違うから、ねぇ。
2、ゴジラのファーストインパクトとラストインパクトが、ちょっともったいない?
初代ゴジラの作品中での出現は、上映時間的にシン・ゴジの第二形態よりももっと後になっています。しかし足音だけや足だけチラ見せ、そして先に目撃した人たちの迫真の演技といった実に巧妙なじらし演出の積み重ねによって観客は全く飽きさせられず、しかも、満を持して山の稜線の向こうに出現したゴジラの咆哮はその期待値を大きく凌駕する衝撃と恐怖をもたらすものでした。
ところが、シン・ゴジの場合は第一形態のしっぽだけとか第二形態の背ビレだけとかいうじらしは順調に配置されていたのですが、かなり唐突に単純なシーン切り替えで第二形態の全容が白日の下にさらされてしまうのです。
そのあっさり感が新しいといえば新しいんですが……なんかもったいないと思いました。形態が形態なんでねぇ。もっとお客さんをビックリさせられる見せ方があったような気がするんですが。
あと、シン・ゴジの断末魔も、初代ゴジラのあの長い断末魔に比べればかなりあっさりしてましたよね。初代ゴジラは断末魔でほんとに演技してたもんね! あの「無念」を絵に描いたような表情と手の演技は、たぶん大戦中に東京のあちこちに転がっていたであろう焼死したご遺体のもがき苦しむかたちをまざまざと連想させるものがあったのではないのでしょうか。
それにくらべてシン・ゴジは……まぁ~ドライですよ。まぁ死因(?)がフリーズドライなんだからしかたないけど。
それ以外の綿密すぎる計算の連続に比べて、シン・ゴジの初登場と断末魔はまったくノーガードであっさり。私は意外に感じました。
3、そんなに伊福部さんを前面に押し出して鷺巣さんはいじけていないのだろうか
……鷺巣さんもいい曲いっぱい流してましたよね? 会議室のテーマはお遊びのようで、実はアレンジ再使用の多かった伊福部さんへのオマージュだったりして。不敬なりィ!
4、もしこの『シン・ゴジラ』を観て「気持ち悪い。」と感じたら
さっき言った、ヤシマ作戦とヤシオリ作戦でそんなに感動の度合いに差がないのはどうしてなのか? ということなのですが、これ私、それぞれの作戦の成功を願う人々の描写に、極端に違いがあるからどっこいどっこいになっちゃったと思うんです。
つまり、普通に同じ作りにしていたら『シン・ゴジラ』のほうが良くなっていたはず。ところが、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版・序』ではけっこう丁寧に描写されていた「非戦闘要員のみなさん」がどうしているのか、この作戦の成功をどのくらい命を込めて祈っているのか、という視点が『シン・ゴジラ』ではものの見事にカットされていたがために、頑張ってるのは前線の人たちか意識の高い主人公グループくらいで、国民全員でヤシオリ作戦!という構図が引き立たなかったと感じたんです。
そのために、「○カタルシス ×画作り」のヤシマ作戦と「×カタルシス ○画作り」のヤシオリ作戦とで同点引き分けになっちゃったと思うんですよ。
そしてそれがために『シン・ゴジラ』は、「なんか一部の人たちが犠牲精神まる出しでずーっと真面目に頑張ってるだけの映画で、なんか観てるこっちもそう生きろって言われてるみたいでヤダ!」という拒否反応も、たぶん少なくない人たちにはもたらしてるんじゃないのでしょうか。
当然、ゴジラという国難に立ち向かうのはもちろんのことなんですが、この映画では終始、その正義や願いがごく一部の人間にしか共有されない観念的なものになっていたような気がするのです。正義がヒエラルキーのかなーり上からトップダウンで降ろされてきてるみたいな。まさに「言ってることはわかるんですけど、偉い人に言われると、なんか……」な感じなわけです。正義と自己犠牲、感動の押し売りに見えなくも、ないかも。
もっと、初代ゴジラのときのような、兄をゴジラに殺された少年の「畜生……畜生……」というつぶやきや、顔も映らないような民衆の「どうやったらやっつけられるんだッ!!」という叫びや、ゴジラの恐怖に屈した避難民の「もう、おとうちゃんのところに行くのよ。」と幼い我が子をかき抱く姿や、「また疎開か、いやだなぁ。」とボヤく能天気な会話といった、直接戦いに加わらない人々の声を、本筋に邪魔にならないような絶妙さで差し挟んでいたのならば、もっと『シン・ゴジラ』は絶賛される傑作になっていたと思うのですが。
『シン・ゴジラ』に出てくる一般人という時点でかなり出番が限定されていたし、出てきた松尾スズキさんとか片桐はいりさんも、必要最低限なセリフしかなかったもんねぇ。味気ないですよ。「ゴジラを殺せ!!」と国会前でデモをするくらいしか能のない国民っていう描き方は、なんか引っかかるといえば引っかかりますよね。
極端な言い方をしますと、『シン・ゴジラ』は初代ゴジラや岡本版『日本のいちばん長い日』のような視野の広さはわざとであるにせよ、なくなっています。あえてミクロなお話の作り方になっていて、印象としては「かなり良くできた『プロジェクトX』」にとどまっているような感じもしないでは、ない。
そうつらつら考えると、エヴァンゲリオンシリーズの「超兵器を動かすのがごくふつうの子供」という設定の重要性、つまり「同級生の鈴原君や相田君の純真無垢な応援」も必然的に描写されるという『序』のクライマックスが、いかによくできたものだったのかがわかろうというものです。特別な能力があるわけでもない現実のお客さんが共感できるキャラクターを配置するというのは、ほんとうに大事なことなんですね。
うん、矢口ランドーさんだのパターソンさんだのに共感できる人なんて、そんなにはいないだろうからねぇ。末は総理か大統領なんてくっちゃべってる人たちなんだぜ。ファンタジーだねぇ、どうにも!
あぁ~、そんなこんなでおもしろかった! 助走、本走あわせて2万字を超える駄文長文の末、結論は「おもしろかった」です。ゆるしてパパ~ヤ~!!
今回はなりゆきで4D版を観ることになっちゃったけど、たぶん2D版のほうも夏休み中にあと2回くらいは観に行くんじゃないでしょうか。
『シン・ゴジラ』、ごちそうさまでした~!!