恩賜元離宮 二条城(Wikipedia 記事をもとに作成)
二条城(にじょうじょう)は、京都府京都市中京区二条通堀川西入二条城町(旧・山城国葛野郡)にある、江戸時代に造営された日本の城。京都市街地にある平城で、同じ名称の建築物は足利将軍家・織田家・豊臣家・徳川家によるものがあるが、現存する城は徳川家によるものである。後の近代において明治六(1873)年の廃城令により「存城処分」を受け、二条城は京都府庁や天皇家離宮として使用された後、1939年に京都市に恩賜され現在に至る。
徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀と、徳川慶喜の大政奉還が行われ、江戸幕府の始まりと終わりの場所でもある。
日本の歴史において、「二条城」と呼ばれるものは複数ある。
1、室町幕府第13代将軍・足利義輝の御所。「二条御所武衛陣の御構え」と呼ばれていた。永禄八(1565)年に完成しない内に「永禄の変」により廃棄された。
2、室町幕府15代将軍・足利義昭の御所として、織田信長によって作られた城(1569~76年)。本来の二条通からは遠く離れていたが、平安京条坊制の「二条(二条大路と中御門大路(現・椹木通)に挟まれた地域)」には城域の南部がわずかに含まれるため、「二条」の名を冠して呼ばれる。
3、織田信長が京に滞在中の自身の宿所として整備し、後に皇太子・誠仁親王に献上した邸「二条新御所」(1576~82年)。この「二条」は二条家の屋敷跡に設けられたための呼称と考えられる。
4、羽柴(豊臣)秀吉の「二条第・妙顕寺城」。秀吉は主君・信長の在世中にも3、の隣接地に屋敷を有していたが、天正八(1580)年に信長に没収され太閤・近衛前久に献上されている(『兼見卿記』)。皮肉にも、本能寺の変の際に近衛家家人の逃げ出したこの屋敷を占拠した明智軍がここから二条新御所を攻撃したという話があり(『明智軍記』)、やがてそれに尾ひれが付いて前久が光秀に加担したとの風説が流された。その後、本拠地を摂津国大坂に定めた秀吉は京における拠点として、現・二条城の東200メートル、中京区小川押小路付近に「二条第」を構えた(1583~86年)。当時そこにあった妙顕寺を移転させその跡地に建設されたことから「妙顕寺城」とも呼ばれる。周囲に堀を巡らし天守もあった。聚楽第の完成まで秀吉の政庁として使われ、普段は重臣の前田玄以が在城した。現在は、地名に「古城(ふるしろ)町」、「下古城(しもふるしろ)町」をのこしている。
5、徳川家康が京の守護および上洛時の宿所として造営した城。後の近代には宮内省所管「二条離宮」となる。現存する二条城は4、の城である。
1、と2、は同じ場所に造られたが連続性はない。2、と3、は同じものと見られていたが、『信長公記』その他の史料および発掘結果、残存地名などを根拠として、現在では別のものとするのが通説となっている。2、と3、は5、と区別するために「旧二条城跡」と呼ばれている。
歴史
慶長六(1601)年五月、関ヶ原合戦に勝利した徳川家康は上洛時の宿所として京・大宮押小路に築城を決め、町屋の立ち退きを開始、十二月に西国の諸大名に造営費用および労務の割り当てを行った(天下普請)。造営総奉行に京都所司代板倉勝重、作事(建築)の大工棟梁に中井正清が任じられた。慶長七(1602)年五月に御殿・天守閣の造営に着工し、翌慶長八(1603)年三月に落成。天守閣は慶長十一(1606)に完成した。
慶長八(1603)二月十二日、家康は伏見城において征夷大将軍補任の宣旨を受け、三月十二日に竣工間もない二条城に入城、同月二十五日、室町幕府以来の慣例に基づく「拝賀の礼」を行うため、京御所への行列を発した。それに続き、二十七日に二条城において重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行った。この将軍就任の手順は2年後の慶長十(1605)年に家康の息子の第2代将軍・秀忠が、元和九(1623)年に孫の第3代将軍・家光が踏襲するが、曾孫の第4代将軍・家綱以降は行われなくなった。
慶長十六(1611)年、二条城の御殿(現・二の丸御殿)において家康と豊臣秀頼の会見が行われる。慶長十九(1614)年の大坂冬の陣において二条城は大御所家康の本営となり、伏見城から出撃する将軍・秀忠の軍勢に続き、家康は二条城から大坂へ進軍した。
元和五(1619)年、将軍・秀忠は娘・和子の後水尾天皇への入内に備え、二条城の改修を行う。この時の縄張(基本設計)は秀忠自らが藤堂高虎と共に行った(実際には秀忠が高虎の考案した2つの案から一方を最終選定しただけ)。元和六(1620)年六月十八日、徳川和子は二条城から長大な行列を作り、後水尾天皇のもとへ入内した。
寛永元(1624)年、徳川家光が将軍、秀忠が大御所となり、二条城は後水尾天皇の行幸を迎えるため大改築が始まった。城域は西に拡張され、天守閣も拡張された西側に位置を変え、廃城となった伏見城天守閣が移築された。作事奉行には小堀政一、五味豊直(後の京都郡代)が任じられる。尾張藩や紀伊藩などの親藩・譜代19家が石垣普請を担当した。翌寛永二(1625)年から、二条城には将軍不在の間の管理と警衛のために二条城代と二条在番が設置された。のち元禄十二(1699)年に二条城代は廃止され、その職務は二条在番が一括担当することとなった。
寛永三(1626)年、後水尾帝の行幸は九月六日から5日間に渡っておこなわれ、その間舞楽、能楽の鑑賞、乗馬、蹴鞠、和歌の会が催された。この行幸が二条城の最盛期である。行幸のために新たに建てられた行幸御殿は上皇となった後水尾院の御所に移築され、その他多くの建物が解体撤去された。
寛永十一(1634)年七月、大御所秀忠の死後に将軍・家光が兵30万7千を率いて上洛し、二条城に入城したのを最後に二条城が将軍を迎えることは途絶え、幕末の動乱期までの230年間、二条城は歴史の表舞台から姿を消す。
その230年の間に暴風雨や地震、落雷で徐々に建物は破損し、老朽化する。寛延三(1750)年には落雷により天守閣を焼失。さらに京の町を焼き払った天明八(1788)年の大火の際には、飛び火が原因で本丸御殿、隅櫓などが焼失した。破損部分に関しては修理が行われたが、失した建物については再築されることなく、幕末を迎える。万延元(1860)年に発生した地震により、御殿や各御門、櫓が傾くなど、さらに大きな被害を受けた。
文久二(1862)年閏八月、交代制だった二条在番は廃止され、それに代わって常勤制の二条定番が設置された。なお、朝廷の監視・折衝を担当する京都所司代は二条城の北に邸を構え政務を執っていたため、将軍不在時の二条城は幕府の政庁としては全く使用されなかった。
同年、第14代将軍・家茂の上洛にそなえ、荒れ果てていた二条城の改修が行われる。二の丸御殿は全面的に修復され、本丸には仮御殿が建てられた。翌文久三(1863)年三月に将軍・家茂は第一次上洛を果たす。慶応元(1865)年に将軍・家茂は再度上洛し二条城に入るが、すぐに第二次長州征伐の指揮を執るため摂津国大坂城へ移る。しかしここで病に倒れ、翌慶応二(1866)年の夏に死去する。同年、江戸の幕閣によって次期将軍は一橋慶喜と決定されるが、慶喜は就任を拒絶。幕府関係者のみならず朝廷からの度重なる説得の末、ようやく十二月に、二条城において第15代将軍拝命の宣旨を受ける。
翌慶応三(1867)年九月、将軍・慶喜は宿所を京の若狭小浜藩邸から二条城に移す。十月には大政奉還、将軍職返上、十二月には朝廷より辞官納地命令が二条城に伝達される。この時、二条城には旗本を中心とする徳川家直属の兵5000、会津藩士3000、桑名藩士1500が集結しており、朝廷を操る薩摩藩の挑発に対し激昂していた。軍事衝突を避けるため、慶喜は二条城からこれらの兵を連れて大坂城へ向かう。二条城は若年寄・永井尚志と水戸藩士200が守備のため残った。しかし命令系統の混乱から別に二条城守備の命を受けた新選組が到着し、水戸藩士との間で混乱が生じる。この件は永井の機転により、新選組が伏見奉行の守備に回ることで解決した。
翌慶応四(1868)年一月に鳥羽伏見合戦が勃発する。大坂に召還された尚志に代わり、二条城は水戸藩士・梅沢孫太郎が留守役となっていたが、同月五日に朝廷の命を受けた議定・徳川慶勝に引き渡され、太政官府が設置された。二月三日、明治天皇が初めて行幸し、白書院で幕府討伐の詔を発した事により、二条城は新政府の新しい中央政庁として機能する。三月、明治天皇が再び行幸し、四月十七日、本丸に仮皇居、二の丸に太政官府を造営する案が命じられた。明治三(1870)年の東京奠都後、二条城は留守官の管轄下に置かれる。翌明治四(1871)年に二の丸御殿は京都府庁舎となり、明治六(1873)年に二条城は陸軍省の所管に移された。
明治十七(1884)年七月、二条城は宮内省の所管となり「二条離宮」となる。翌明治十八(1885)年から明治二十五(1892)年にかけて二の丸御殿の修理が行われる。明治二十六(1893)年から翌二十七(1894)年にかけて、明治天皇の意向により京都御苑の今出川門脇に位置する旧桂宮邸の御殿群を二条離宮本丸へ移築し、本丸御殿とした。その後、明治期には皇太子時代の大正天皇が10回滞在され、離宮としても重要な役割を果たす。
大正四(1915)年、大正天皇即位礼の饗宴場として二条離宮が使用され(現・清流園にて)、それに伴い南門が増築された。
1939年、京都市に下賜され、翌1940年に「恩賜元離宮二条城」として一般公開される。
1952年、文化財保護法の制定により、二の丸御殿6棟が国宝に、東大手門など22棟の建物が重要文化財に指定される。翌1953年には二の丸庭園が特別名勝に指定された。1994年、ユネスコ世界文化遺産に「古都京都の文化財」として元離宮二条城が登録される。
2006年、日本100名城の第53番に選定される。
立地について
二条城は、かつて古代に平安京大内裏であった場所の南東と、大内裏の南にあった禁園(天皇の庭園)「神泉苑」にまたがる地にある。東西約500メートル、南北約400メートル、ほぼ矩形だが厳密には東側から見て凸型となっている。南北の幅が狭くなっている西側部分が徳川家光の時代に行われた寛永の大改修によって拡張された部分で、家康による創建時は現在の東側半分(二の丸)のみであった。
家康がこの地を選んだ理由は不明だが、この地域が当時、比較的人家がまばらであったこと(それでも数千軒が取り壊された)が考えられる。そのほか、信長の二条新御所と秀吉の妙顕寺城が並ぶ東西のラインと秀吉の聚楽第から真南に延ばしたラインの交差する場所、いわゆる「聖なるライン」の交わる場所であったことが注目される。特に聚楽第の存在は大きく、共に堀川西域に立ち京御所に向けて門を開けている様子は家康が聚楽第を意識していたことを明瞭に示している。
縄張
縄張の形式は、本丸の四方を二の丸で取り囲む「輪郭式平城」に分類されるが、本丸が中央より西寄りに配されている。本丸は約150メートル四方のほぼ正方形であり、本丸と二の丸の間には内堀が、二の丸の周りには外堀が造られている。二の丸は本丸の北と南にある仕切門によって東西に分かれている(この西側部分を「西の丸」と呼ぶ資料もある)。家康による創建時は現在の二の丸東側部分が本丸であり、本丸のみで構成される「単郭式平城」であった。大手門前の広場と堀川通を隔てて堀川が流れているが、総郭とまでは言えないものの堀川が第一防御線として想定されていた可能性はある。実際、江戸時代には西堀川通(現・堀川通)の南北に通行を妨げる「釘抜き」が設けられ、大手門前の広場に町民は立ち入ることができなかった。なお家康による第一次二条城の絵図面類は見つかっておらず、その内部の様子はよくわかっていない。
将軍滞在の城としては規模も小さく防御能力に問題がありそうだが、家臣の疑問に対し家康は、「一日二日も持ちこたえれば周辺から援軍が来る」、「万が一この城が敵の手に落ちたら堅城だと取り返すのに手間がかかる」と答えたと伝えられる。
国宝・二の丸御殿について
二の丸の中心的建造物である国宝・二の丸御殿は、東大手門から入って正面の西方に建つ。御殿は築地塀で囲まれていて、正門である唐門は塀の南側にある。それをくぐると正面に二の丸御殿の玄関にあたる「車寄(くるまよせ)」が見える。二の丸御殿は手前から順に「遠侍(とおざむらい)」、「式台(しきだい)」、「大広間」、「蘇鉄の間」、「黒書院(くろしょいん)」、「白書院(しろしょいん)」と呼ばれる6つの建物が、南東から北西へ雁行に並び、入側や渡り廊下で接続され一体となっている。又、築城当時の柱の銅版は金箔押しであり、現存している柱より遥かに華やかなものであった。大広間の西側、黒書院の南側に日本庭園がある。遠侍の北側には「台所」と配膳をするための「御清所」と呼ばれる建物がある。現在、檜皮葺となっている唐破風車寄の屋根は、明治修理により瓦葺きから檜皮葺となった。
徳川家康が二条城の造営に着手したのは慶長六(1601)年であるが、現存する二の丸御殿の建物群はその20数年後の寛永期に大改修されたものである。二の丸御殿が寛永期に新築に近い改修を受けていることは川上貢らの調査で判明しており、建物内の障壁画についても寛永期の作であることが土居次義、武田恒夫らの研究で明らかになっている。
遠侍および車寄、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の6棟が国宝に指定され(遠侍および車寄は1棟に数える)、これらの建物の各室の床(とこ)、床脇(棚)、帳台構、襖、障子腰、長押上壁などには狩野探幽ら狩野派の絵師による障壁画が描かれている。各建物の屋根は現在は瓦葺きであるが、当初は杮葺きであった。貞享三(1686)年に建物の破損検分を行った記録ですでに瓦葺きであったので、屋根葺き材の変更時期は1686年以前である。
日本の城郭の御殿は明治以降に破却されたものが多いなかで、二条城二の丸御殿は、一部に改変や破損があるとはいえ、元来からのオリジナルの建物と障壁画がともに現存するという意味で大変貴重な存在である(名古屋城本丸御殿の場合は、障壁画は大部分が現存するが建物は太平洋戦争の空襲で焼失した)。
遠侍は、二の丸御殿のうち最も手前に位置し、かつ、最も大規模な建物である。棟を南北に向けた入母屋造、瓦葺きの建物で(二の丸御殿の諸殿は全て入母屋造、瓦葺き)、面積は1,048平方メートル。登城した大名や家臣らの控えの場となった建物である。平面は正方形に近く、間取りは東西・南北とも3列構成で、北東に位置する勅使の間(上段・下段に分かれる)から逆時計回りに、一の間、二の間、三の間、柳の間(四の間とも)、若松の間、帳台の間があり、これらに囲まれた中央部には芙蓉の間と物置がある。物置以外の各室に障壁画があり、いずれも金地濃彩である。勅使の間は上段が21畳、下段が35畳。上段には二間半幅の押板形式の床(とこ)と棚、帳台構を備えるが、付書院はない。このような大規模な御殿の主室に付書院を設けないのは異例である。床に向かって左の入側境(通常、付書院の設けられる位置)には腰高障子を嵌める。画題は上段が楓、下段が檜の大樹を主とした金地濃彩画である。一の間、二の間、三の間の障壁画の画題はいずれも竹虎図で、これらの室には虎の間の別称がある。玄関にあたる遠侍の障壁画に虎を描くことは名古屋城本丸御殿などにも例があり、来訪者を威圧する意図があるという。
式台の間は、遠侍の西に接して建つ東西棟の建物である。面積は332平方メートル。登城した大名らの取次の場となった建物で、手前に式台、その裏手に老中一の間、老中二の間、老中三の間がある。各室の障壁画はいずれも金地濃彩である。式台の間は48畳で、床(とこ)、棚、付書院等の設備はない。式台の間の障壁画は松の巨木を描く。
二の丸御殿大広間は、式台の西に接して建つ南北棟の建物である。面積は784平方メートル。二の丸御殿の諸殿のうちもっとも格式が高く、将軍の表向きの対面に用いられた、公式的・儀礼的空間である。一の間(上段の間)、二の間(下段の間)、三の間、四の間(鑓の間とも)、帳台の間からなる。一の間は48畳で、床(とこ)、棚、帳台構、付書院を備え、天井はもっとも格の高い二重折上格天井とする。障壁画は式台の間と同様に松の巨木を主題とする。
蘇鉄の間は、式台と黒書院をつなぐ、南北棟の渡廊下状の建物である。明治期に板敷に変更されているが、江戸時代には畳敷の部屋であった。
黒書院は、蘇鉄の間の北西に接して建つ東西棟の建物である。「黒書院」は幕末頃からの呼称で、それ以前は「小書院」と呼ばれていた。面積は569平方メートル。大広間が公式的・儀礼的な表向きの対面の場であったのに対し、黒書院は内向きの対面の場であり、将軍の御座所でもあった。規模は大広間より一回り小さい。一の間(上段の間)、二の間、三の間、四の間、帳台の間からなり、二の間、三の間、四の間は障壁画の画題から、それぞれ桜の間、浜松の間、菊の間ともいう。一の間は24畳半で、床(とこ)、棚、帳台構、付書院を備える。このうち、棚を北面東端から東面北端にかけて矩折り(L字形)に配置するのが特色である。一の間の天井は格天井だが、大広間の一の間のような二重折上とはしていない。障壁画は式台、大広間と同様に松を主題とするが、床貼付絵は松に梅、柴垣、小禽鳥などを配し、松樹には残雪を表すなどして早春の季節感を表す。さらに床脇(棚)の壁貼付の竹図と合わせて松竹梅を表している。
白書院は黒書院の北に建つ南北棟の建物で、御殿の建物群のうちもっとも奥に位置する。黒書院とは渡り廊下を介して接続する。「白書院」は幕末頃からの呼称で、それ以前は「御座之間」などと呼ばれていた。面積は318平方メートル。大広間や黒書院に比べて規模が小さい、内向きの建物である。将軍の休息所、寝所として使用され、本来は将軍と夫人、おつきの女中のみが入ることができた間であった。障壁画は他の諸殿が金地濃彩を主としているのと異なり、白書院の障壁画は淡彩が主体となっている。間取りは黒書院と同様、一の間(上段の間)、二の間、三の間、四の間、帳台の間、付属の間(指出の間)からなるが、規模は黒書院より小さい。一の間は15畳で、床(とこ)、棚、帳台構、付書院を備える。一の間の天井は格天井だが、二重折上としていないのは黒書院一の間の天井と同様である。障壁画は淡彩の山水画で、中国の西湖の情景を表したものである。
外部との出入り口としての城門は東西南北に1つずつある。ただし、南門は1915年に大正天皇の大典に備え新たに造られたもので、本来の城門ではない。正門は堀川通に面した東大手門(櫓門)である。西門(埋門)と南門は外堀を渡る橋がなく使用されていない。北大手門(櫓門)も普段は閉鎖されている。また、この他に二条城内には5つの城門がある。二の丸を東西に分ける北中仕切門と南中仕切門、二の丸と本丸を結ぶ通路への入り口となる鳴子門と桃山門、その通路から内堀を渡った本丸への入り口となる櫓門である。なお東大手門は現在創建時と同じく櫓門となっているが、後水尾天皇の行幸を仰ぐ際、上から見下ろすのは不敬として一重門に変えられ、行幸後に再び櫓門に戻された。
本丸御殿について
本丸御殿は、二条離宮時代に京都御苑にある京都御所の北にあった旧桂宮邸(1847年建築)を、明治天皇の意向により1893~94年に移築したもので、徳川家の二条城とは本来無関係の建物である。しかし、この本丸御殿(旧宮邸)は幕末には明治帝の父・孝明天皇の仮皇居となっていたことや、皇女・和宮親子内親王はこの御殿に暮し、ここから江戸へ嫁いでいるという由緒ある御殿である。また、移築された本丸御殿は主に皇太子時代の大正天皇が10回滞在された等、離宮としても重要な役割も果たした。
過去には春と秋に期間限定で公開されていたが、耐震性の不足が判明したため2007年の春を最後に公開を中止している。もともとあった京都御苑内の敷地には、築地塀と表門と勅使門、庭園や池が現存している。本丸御殿の南には、洋風庭園がある。
天守閣跡
創建時の天守閣は、『洛中洛外図屏風』では二条城の北西部分(現在の清流園の辺り)に複合式望楼型5重5階天守として描かれている。この天守閣は慶長期に家康によって現在の二の丸の北西隅に建てられたもので、大和国郡山城天守閣の移築であるという説がある。記録には小天守や渡り廊下の記述があり、天守曲輪を形成していたと考えられる。この天守は3代将軍・家光の時に行われた寛永の大改修時に淀城に再び移築された。移築された淀城天守は図面が残されているので、慶長度天守の復元は可能である。
これに代わって新たに造られた本丸の南西隅に、前年に一国一城令によって廃城とした伏見城天守閣が移築された。この寛永期天守は、取付矢倉が付属する複合式層塔型5重5階天守であったが、寛延三(1750)年に落雷で焼失して以来、再建されなかった。現在は天守台のみが残る。天皇が行幸で昇った唯一の天守閣となる。
移築建造物
・神奈川県横浜市中区の三渓園に、二条城から聴秋閣(三笠閣)が移築されて現存し、国の重要文化財に指定されている。
・京都市東山区にある豊国神社の唐門は、寛永大改修に際して金地院以心崇伝が第一次二条城の唐門を下賜されたものを、明治時代になって金地院から譲られ移築したもので、国宝に指定されている。
・東京都世田谷区にある世田谷観音寺内の阿弥陀堂という三階建ての望楼型建築物が、二条城本丸からの移築と伝わる。二条城内の櫓とは建築方法や外見が大きく異なるため、風流を嗜むものと思われる。
特別名勝・二の丸庭園
別名「八陣の庭」。小堀遠州の代表作として挙げられることも多い桃山様式の池泉回遊式庭園(中心に池を配し、その周りを歩いて鑑賞する庭園)である。池には3つの島が浮かぶ。池の中央やや北よりにもっとも大きい蓬莱島があり、その北に亀島、南に鶴島がある。亀島は亀の形に、鶴島は鶴の形に石が組まれている。蓬莱島は亀島と共に見えるアングルからは鶴の形に、鶴島と共に見えるアングルからは亀の形に石が組まれていて、常に鶴亀の一組を表現する趣向となっている。池の北西部には二段の滝がある。池の南に広がる芝生の部分は、寛永の行幸の際には行幸御殿が建てられていた場所であり、こちら側が庭園の第1正面となる。第2正面は東(大広間)側、第3正面は北(黒書院)側という三正面式の設計である。
1953年に特別名勝に指定された。
現地情報
京都市営地下鉄東西線二条城前駅から徒歩1分。
入城料……一般800円(二の丸御殿を観覧する場合は別途500円必要)、中高生 400円、小学生 300円
展示・収蔵館の入館料 …… 小学生以上100円
開城時間 …… 8時45分~16時(閉城17時)、二の丸御殿観覧時間 …… 8時45分~16時
展示・収蔵館開館時間 …… 9時~16時45分(受付16時30分まで)
休城日 …… 年末12月29~31日
二の丸御殿休殿日 …… 毎年1・7・8・12月の毎週火曜日、正月三が日、12月26~28日(当該日が休日の場合その翌日を休城日とする)