山辺城(やまのべじょう)
山辺城は、山形県東村山郡山辺町山辺にあった戦国時代の日本の城。形式は輪郭式平山城である。「山野辺城」と表記されることもある。
城は、山形盆地西部の白鷹丘陵の先端地域に築かれている。現在の山辺小学校と、その南にある旧・山辺町役場を合わせた区画が城域で、山辺町役場部分に本丸(主郭)があったとされるが、現在は市街地に没している。
築城年代は定かではないが、一説によると、平安時代の前九年ノ役の時期(1051~62年)に須賀川山辺氏によって築かれたともいわれる。ただし、山辺城の構造は明らかに中世の城郭のものであり、平安時代に築城されたという確証はなく、文明年間に在地の土豪だった山野辺一族によって築かれたと推測するのが自然である。
11世紀後期に成立した軍記物語『陸奥話記』によれば、前九年ノ役で活躍した鎮守府将軍・源頼義の部将に「山辺太郎常貞(つねさだ)」という人物がおり(平将門の従弟・平忠頼の孫にあたる)、この山辺常貞が「須賀川山辺氏」を称して山辺の地を治めたという伝承が現地に残ったものと思われる。しかし、山辺常貞は上総国山辺郡(やまべぐん 現在の千葉県山武郡の南部)を一族発祥の地としており、在地の山野辺一族とは関係がない。
なお、須賀川山辺氏の「須賀川」が、具体的にどの土地を指すのかは不明で、在地の山野辺一族にも山辺常貞の山辺一族にも、須賀川という地名との関連は見えない。
ただし、山辺城のある山辺町には、山形県上山市の東南部から山形市西部を流れ、最上川に合流する「須川(すかわ)」という一級河川がある。このことから、在地の「須川の山野辺氏」がいつしか「須賀川の山辺氏」に転訛し、これに「山辺常貞」の経歴が加わって、「平安時代に須賀川山辺氏によって山辺城が築城された」という伝承が発生したのではないだろうか。
山野辺刑部(やまのべ ぎょうぶ)は永正十一(1514)年、置賜地方の戦国大名・伊達稙宗が山形の最上家を攻めた時、最上軍の先遣隊として長谷堂城に出陣し、戦死した。
その後は日野備中守が城主となったというが、慶長五(1600)年の慶長出羽合戦で、直江兼続率いる上杉軍の猛攻に遭い、山辺城は落城した。
翌年の慶長六(1601)年、最上義光の四男・山野辺義忠(1588~1665年)が、14歳で1万9千石の城主となる。義忠は、前年・慶長五年の関ヶ原合戦の直前に、最上家から徳川家康に人質として預けられていた時期からその名声が鳴り響いていたとされ、山野辺家を継ぐと、山辺城の大改修や城下町の建設などに力を入れ、釣樋堰や上江堰などの治水事業、神社仏閣や交通網の整備を行うなど、多くの実績を上げ名君と謳われた。しかし、その実力が仇となり、最上本家の当主に義忠を推す勢力が台頭し、元和八(1622)年には最上家にお家騒動が発生する(最上騒動)。江戸幕府はこれを機に、同年八月に最上家を近江国蒲生郡1万石の移転減封に処し、義忠も再び徳川幕府預りの身となり、山辺城も廃城となった。
義忠は備前国岡山藩の池田家にその身柄を預けられ、34歳から46歳までの12年間を幽閉のなかで送ったが、寛永十(1633)年九月、徳川幕府第3代将軍・徳川家光の命により水戸藩主・徳川頼房にその身柄を預けられ、知行1万石を得て水戸藩家老職となった。そして、義忠は頼房の世子・光圀の教育係も務めている。義忠の次男・義堅(1615~69年)も水戸藩主となった光圀に仕え、山野辺家の子孫は代々、水戸藩家老職に就いた。
ちなみに、水戸光圀を主人公にした時代劇フィクション『水戸黄門』に登場する水戸藩家老の「山野辺兵庫」は、この山野辺義堅をモデルとしているが、義堅は光圀の隠居前に死没しており、年齢も義堅の方が10歳以上年長である。また、義堅が「兵庫」と称した事実はない(ただし、江戸幕末の義堅の子孫・山野辺義観が「山野辺兵庫」と名乗っていた)。
江戸幕末の文久六(1823)年に、白河藩(現在の福島県白河市)阿部家の羽前国領となり、旧・山辺城の二ノ丸区域に陣屋が建築された。
現在、山辺町の中央公民館の駐車場内(山辺城本丸に相当する区画)に、山辺陣屋の玄関部分が移築保存されている。
山辺町は山形の中心部から9㎞、東の蔵王山から流れでる最上川の支流、須川の西にひらけた町である。町の西には白鷹山や小鳥海山などの山が連なり、山の辺にひろがる集落から町の名「山辺」は由来する。1600年代、山辺城を中心とする城下町がひらかれ、川西地区の中心地として繁栄する基がつくられた。
明治から大正・昭和の三代にわたって、藍の匂いがたちこめ、藍染の木綿の北国きっての産地だった。そのため、全国に知られるオリエンタルカーペットの手織りじゅうたんとファッションニットが、長い間町の中心産業となっていたが、最近では海外からの安い製品に押されニット業界も厳しい状況にある。ニットなどの地場産業やりんご・さくらんぼなどの果樹や米栽培に従事する家庭、また山形などの会社に通勤する保護者が多い。
城の西側には四ノ堀まであったようです。
本丸の堀(内堀)は、本丸跡(旧・山辺町役場)周辺の道路であったと推察します。以前にも書きましたが、三ノ堀は旧・しあわせ銀行の裏と弾正淵専念寺前が掘らしく残っています。山野辺城趾の碑は一ノ堀跡の上に立っているようです。
すぐ近くに「高楯城」があった。数年前、安達峰一郎博士の生家付近で建物跡が発掘された。
三ノ堀は現在、水路になっている。
山辺城は、山形県東村山郡山辺町山辺にあった戦国時代の日本の城。形式は輪郭式平山城である。「山野辺城」と表記されることもある。
城は、山形盆地西部の白鷹丘陵の先端地域に築かれている。現在の山辺小学校と、その南にある旧・山辺町役場を合わせた区画が城域で、山辺町役場部分に本丸(主郭)があったとされるが、現在は市街地に没している。
築城年代は定かではないが、一説によると、平安時代の前九年ノ役の時期(1051~62年)に須賀川山辺氏によって築かれたともいわれる。ただし、山辺城の構造は明らかに中世の城郭のものであり、平安時代に築城されたという確証はなく、文明年間に在地の土豪だった山野辺一族によって築かれたと推測するのが自然である。
11世紀後期に成立した軍記物語『陸奥話記』によれば、前九年ノ役で活躍した鎮守府将軍・源頼義の部将に「山辺太郎常貞(つねさだ)」という人物がおり(平将門の従弟・平忠頼の孫にあたる)、この山辺常貞が「須賀川山辺氏」を称して山辺の地を治めたという伝承が現地に残ったものと思われる。しかし、山辺常貞は上総国山辺郡(やまべぐん 現在の千葉県山武郡の南部)を一族発祥の地としており、在地の山野辺一族とは関係がない。
なお、須賀川山辺氏の「須賀川」が、具体的にどの土地を指すのかは不明で、在地の山野辺一族にも山辺常貞の山辺一族にも、須賀川という地名との関連は見えない。
ただし、山辺城のある山辺町には、山形県上山市の東南部から山形市西部を流れ、最上川に合流する「須川(すかわ)」という一級河川がある。このことから、在地の「須川の山野辺氏」がいつしか「須賀川の山辺氏」に転訛し、これに「山辺常貞」の経歴が加わって、「平安時代に須賀川山辺氏によって山辺城が築城された」という伝承が発生したのではないだろうか。
山野辺刑部(やまのべ ぎょうぶ)は永正十一(1514)年、置賜地方の戦国大名・伊達稙宗が山形の最上家を攻めた時、最上軍の先遣隊として長谷堂城に出陣し、戦死した。
その後は日野備中守が城主となったというが、慶長五(1600)年の慶長出羽合戦で、直江兼続率いる上杉軍の猛攻に遭い、山辺城は落城した。
翌年の慶長六(1601)年、最上義光の四男・山野辺義忠(1588~1665年)が、14歳で1万9千石の城主となる。義忠は、前年・慶長五年の関ヶ原合戦の直前に、最上家から徳川家康に人質として預けられていた時期からその名声が鳴り響いていたとされ、山野辺家を継ぐと、山辺城の大改修や城下町の建設などに力を入れ、釣樋堰や上江堰などの治水事業、神社仏閣や交通網の整備を行うなど、多くの実績を上げ名君と謳われた。しかし、その実力が仇となり、最上本家の当主に義忠を推す勢力が台頭し、元和八(1622)年には最上家にお家騒動が発生する(最上騒動)。江戸幕府はこれを機に、同年八月に最上家を近江国蒲生郡1万石の移転減封に処し、義忠も再び徳川幕府預りの身となり、山辺城も廃城となった。
義忠は備前国岡山藩の池田家にその身柄を預けられ、34歳から46歳までの12年間を幽閉のなかで送ったが、寛永十(1633)年九月、徳川幕府第3代将軍・徳川家光の命により水戸藩主・徳川頼房にその身柄を預けられ、知行1万石を得て水戸藩家老職となった。そして、義忠は頼房の世子・光圀の教育係も務めている。義忠の次男・義堅(1615~69年)も水戸藩主となった光圀に仕え、山野辺家の子孫は代々、水戸藩家老職に就いた。
ちなみに、水戸光圀を主人公にした時代劇フィクション『水戸黄門』に登場する水戸藩家老の「山野辺兵庫」は、この山野辺義堅をモデルとしているが、義堅は光圀の隠居前に死没しており、年齢も義堅の方が10歳以上年長である。また、義堅が「兵庫」と称した事実はない(ただし、江戸幕末の義堅の子孫・山野辺義観が「山野辺兵庫」と名乗っていた)。
江戸幕末の文久六(1823)年に、白河藩(現在の福島県白河市)阿部家の羽前国領となり、旧・山辺城の二ノ丸区域に陣屋が建築された。
現在、山辺町の中央公民館の駐車場内(山辺城本丸に相当する区画)に、山辺陣屋の玄関部分が移築保存されている。
山辺町は山形の中心部から9㎞、東の蔵王山から流れでる最上川の支流、須川の西にひらけた町である。町の西には白鷹山や小鳥海山などの山が連なり、山の辺にひろがる集落から町の名「山辺」は由来する。1600年代、山辺城を中心とする城下町がひらかれ、川西地区の中心地として繁栄する基がつくられた。
明治から大正・昭和の三代にわたって、藍の匂いがたちこめ、藍染の木綿の北国きっての産地だった。そのため、全国に知られるオリエンタルカーペットの手織りじゅうたんとファッションニットが、長い間町の中心産業となっていたが、最近では海外からの安い製品に押されニット業界も厳しい状況にある。ニットなどの地場産業やりんご・さくらんぼなどの果樹や米栽培に従事する家庭、また山形などの会社に通勤する保護者が多い。
城の西側には四ノ堀まであったようです。
本丸の堀(内堀)は、本丸跡(旧・山辺町役場)周辺の道路であったと推察します。以前にも書きましたが、三ノ堀は旧・しあわせ銀行の裏と弾正淵専念寺前が掘らしく残っています。山野辺城趾の碑は一ノ堀跡の上に立っているようです。
すぐ近くに「高楯城」があった。数年前、安達峰一郎博士の生家付近で建物跡が発掘された。
三ノ堀は現在、水路になっている。