長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

サムライはまだ、日本にいる

2013年06月30日 10時00分09秒 | 日記
「自分しかいないと勇気」横断旗で応戦 71歳の学童誘導員 男児切りつけ事件
 (時事通信社 2013年6月29日付け記事などより)

 東京・練馬の小学校前で下校中の小学1年生3名が男に切られて、負傷した事件。刃物を振り回す男にひるまず、手にした横断旗で立ち向かった学童誘導員の広戸勇さん(71歳)の奮戦で、最悪の事態は避けられた。事件から一夜明けた29日、広戸さんが取材に応じ「とにかく子供を守るのは自分しかいないと必死だった。」と振り返った。

 広戸さんはシルバー人材センターから派遣され、週2回ほど通学路の安全指導を担当。この日も校門から1年生の集団下校に付き添っていた。児童たちは、初めてのプール授業の話を楽しそうにしていたという。
 信号が変わり、児童が横断歩道を渡り始めてすぐに「キャー」という悲鳴が響いた。恐怖で座り込んで動けない児童が数人おり、広戸さんは血を流す男児と男の間に立ちふさがり、長さ約1メートルの木製の横断旗をひたすら振り回した。

 「恐怖心はあったが、血を見て『この野郎』という言葉が先に出た。とにかく必死で男の顔も覚えていない。」と話す。

 広戸さんの抵抗もあり、男は逃走。広戸さんは「痛い痛い」と泣く男児を励まし、ハンカチで傷口を押さえ続けたという。 

 事件は、発生約40分後に犯人とみられる男の身柄を確保するスピード解決となった。
 男は車で逃走し、その様子を見ていた同じ方向に車を運転していた女性が追いかけていた。女性は逃走車両の真後ろに張りつき、「青のステーションワゴンタイプ、練馬ナンバー」であることを警視庁に情報提供したという。警視庁は埼玉県警に捜査協力を依頼。警視庁と埼玉県警は航空隊のヘリや覆面パトカーを出動させ、検問も行った。

 容疑者の身柄が確保された埼玉県三芳町の現場近くでは、28日午後に交通事故が発生。東入間署の警察官が事故処理をしていた最中に、容疑者の車が偶然通りかかった。「青い車だ。間違いない。」警察官が車を誘導し、逮捕につなげた。捜査幹部は「組織的な初動捜査がうまくいった結果だ。」と強調した。


 いや~、すばらしいニュースですね。
 事件が実際に起こってしまった以上は不幸というより仕方がないのですが、その絶望のパワーに、複数の「自分たちなりの正義にのっとって当然のことをした人たち」の努力の集合が打ち克ったという、この事実! ほんとうによろこばしいことです。

 私もこんな70代になれるように、今から日々精進しなきゃあなんねぇよ。こういうのはたぶん、想定の中でのシミュレーションとか筋肉トレーニングとかの積み重ねも必要っちゃあ必要かもしれないけど、その場その瞬間で迷わず「この野郎!!」と一歩前に進みだせる瞬発力がなにより大切なんじゃないかしら。だとしたら、これは人生全体の経験値と「筋金」の問題ですよね。精進、精進だね~。
 とはいっても、ほとんど多くの人々はそういった不幸に出遭うことのない毎日を過ごしているわけで、その、普段は動いていないエンジンを「ある事態」に対してギュギュンッといつでもすぐにふかせるようにしておくこと。そこが人の「実力」、なのかなぁ。人生はやっぱり、奥が深いですのう!


 余談ですが、このニュースを見てそうとう久方ぶりに思い出した、自分の古い記憶がありました。

 小学校時代、私は通学路の数ヶ所に置いてあった「横断歩道を渡るとき用の旗」(黄色くて布かビニール製のやつ)の場所と本数を確認して、いつでも非常時にそれを最短時間で確保して外敵に対抗するシミュレーションを脳内で組み立ててたっけなぁ……ひとりで。


 まぁ、、そのときに私が思い描いていた「外敵」は、刃物を持った通り魔ではなくてキョンシーだったんですけどね。


 なつかしすぎる……私がガキンチョのころに大流行していたキョンシー映画って、キョンシーに対抗する中国の道士さま(ラム=チェンインきたぁああああ)がとにかく道教で神聖視されている「黄色い」ファッションとグッズに身を固めていて、確か作品によっては、特殊な法力のこめられた旗をふるってキョンシーを打ち倒すアクションもあったはずなんですよ。


ヘッヘッヘ。キョンシーよ、いつでもこの通学路に飛び込んできやがれ……横断歩道用の旗と、ランドセルの中に常備している手づくりのお札で返り討ちにしてやるゼ!!


 ……八幡大菩薩よ、どうかこの哀れで超ヒマな児童に幸多き未来を! それが20年経ってこのざまだよ!!

 まわりがミニ四駆だカードダスバトルだゴールドクロスだとわいのわいのやっていた時期に、これだったんですよ。いい時代だったねぇ。


 たぶん、今回のニュースを TVで見て、全国各地で、


「ジジイの手は借りねぇ……オレがこの手と、この30cm じょうぎで、通り魔を冥土に送ってやるゼ。」

「いや、オレがこのサッカーボールと必殺の無回転シュートでヤツの首の骨をへし折る!」

「じゃあオレは、コンパスを耳の穴にズブッと刺してぐりぐりまーわす。」

「おい、それはやめろよ! 先生がとがった部分を人に向けんなって言ってただろ!? こいつマジひくわ~。」

「フフフ、みんなそうやって騒いでいるがいい。ボクがこの最強カードで魔獣ベヒモスを召喚しさえすれば、通り魔の検挙どころか、この世界の全てがボクのものに!!」

「あっ、こいつみんなに隠してキラキラ持ってんぜ! おぉ、ベヒモスのF形態じゃん!! も~らい~。」

「ちょっと、や~め~て~よ~……」


 といったあんばいに男子どもが鼻息あらく決起してるんだろうなぁ。
 いい、いい。子どもたちのテンションが上がって、暑い夏は近づいてくる。

 日本はまだまだ大丈夫だ! 私も気分を引き締めなおして、来月からも仕事に試験勉強にがんばっていきま~っ、しょい~!!
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いろいろ思いだしたような、思いだせないような……な、日

2013年06月28日 22時34分47秒 | 日記
 まるでブログを更新する時間がねぇ!! どうもこんばんは、そうだいでございます~。みなさま、今日も一日お疲れさまでした!

 いや~、仕事勉強睡眠、仕事勉強睡眠の繰り返しで、今週もあっという間に後半になってしまいました。ほんとに時間がないのか、ただ単に私の効率が悪いだけなのかわかりゃしませんが、とにかく光陰矢の如しな感覚をかなり短いスパンで実感している毎日であります。まいったねコリャ。

 さてそんな中、今日はめずらしく仕事はお休み。ではあるんですが! その代わりにとがっつりボランティア活動が入っておりました。うむ、特に変わりなく忙しいぞ~。






《ピンポンパン途中》
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しみじみ彷徨! 2013年土浦の旅  ~三条会による百景社アトリエ公演『ひかりごけ』~

2013年06月23日 22時33分15秒 | ふつうじゃない映画
 ぺっへ~い。どうもこんばんは、そうだいでございます。
 夏がもう、そこまで来ております。雨の日がずっと続いていたかと思えば、気がつけば蒼天にはおてんとさま、気温はガン上がり、町の食べ物屋さんには「うな丼はじめました」ののぼりが出るようになりました。ついに今年もやってきましたね~。

 そんなわけで、本日の関東地方も言うに及ばずものすごい暑さだったのですが、私はお休みをいただきまして、なんと行き慣れない異郷の地へ足を踏み入れることとなりました。つっても、まぁ関東ですけど。

茨城県・土浦市。

 茨城県といったら何度か行ったことはあったんですが、土浦市に行くのは今回が初めてでしたねぇ。
 行った目的は例によって例のごとく、劇団三条会の公演の観劇と、それにかこつけての土浦に残る城郭跡の探訪でありました。ほんとにもう、千葉と東京近郊以外に私が出かけるとしたら、必ずこの2大トピックなんだものなぁ~!! 楽しくってしょうがねぇや。

 そんなこんなで、本日はいつもお世話になっている我が携帯電話(ガラケーにきまってる)の便利な鉄道ダイヤ情報アプリを駆使しまして、午前8時に千葉を出発いたしました。も~最近は仕事にきたえられて朝型人間になるなる。8時に出発なんて休日ならではのぜいたく!って感じですよね~。

 目指す先は、JR 総武線→東武鉄道野田線→JR 常磐線と乗り継いで行っての、JR 土浦駅。
 個人的にはずっと、「千葉からふらっと行けるのは茨城なら牛久あたりまでじゃなかろうか。」と勝手に思い込んでいたので、そこよりさらに北に行く今回の土浦行は小旅行をするような気構えでいたのですが、なんのなんの、土浦だって近い近い! 電車移動の時間は2時間弱ですむし切符代もそんなには高くないし、なにより乗り継ぎ回数が少なくて済むのがありがたいですね。私の感覚からすると、乗り継ぎが地味にめんどくさい埼玉の川越とかのほうがよっぽど小旅行です。

 午前10時前に到着した土浦の地は、予想以上の夏日和! これから私はいろいろと歩き回って目的地に向かうつもりだったので、駅舎から出た瞬間に「うわぁ……」と青ざめてしまうような快晴になっていました。でも、雨よりはずっとましですよね。

 初めて見る駅前通りの店々をながめつつ、私はまず一路、駅の西へ向かって歩いていきました。目指す先は、もちのろんで土浦城!
 そういえば、土浦の駅前では、夏の参院選かなにかに向けて運動していたある政党の政策宣伝カーに轢かれそうになった自転車の老人が運転手を思いっきり怒鳴り散らすという一幕がありました。私の見た感じでは明らかに車道を横切ろうとしたじいちゃんが悪いと思うんだけど……まぁ、2013年現在の日本でこの政党に文句を言いたくなる、その気持ちはよくわかる。それにしても、常陸国の住人は21世紀でも血気盛んだ!! 気をつけるとしよう。

 さてその後、駅から1キロ弱の距離にある土浦城の跡地を利用した「亀城公園(きじょうこうえん)」(茨城県土浦市中央1丁目)に到着して恒例の探訪をおこなったわけだったのですが、そのあたりは今回の記事とはまた別に、『全国城めぐり宣言』のひとつとして独立して記したいと思います。やぁあ~っぱり、ここもいいお城だったねぇ!

 そんなこんなで、時刻は正午をすぎて12時30分。そろそろ移動したほうがいい頃合いになったので、私は亀城公園を出て国道125号線を北上。一路、今回の三条会公演の会場となった「百景社アトリエ」へと向かいました。


 おお、百景社アトリエ……よもや2010年代もなかばにさしかかったこの御世にその名を冠した工房に足を踏み入れることになろうとは! しかも、そこで上演されるのは三条会のあの作品。そして、その上演の瞬間に、完全なるいち観客として立ち会っている私がここにいる。


三条会 百景社アトリエこけら落とし御祝儀公演『ひかりごけ』 6月22~23日 場所・百景社アトリエ(茨城県土浦市真鍋)


 上にあるとおり、今回の三条会公演は、茨城県のつくば市を拠点に2000年に立ち上げられた劇団「百景社(ひゃっけいしゃ)」の専用アトリエが今年3月に完成したことにともない、百景社自身の5~6月に上演されたこけら落とし公演『椅子』(作・ウージェーヌ=イヨネスコ)に続く他劇団からの「御祝儀」というかたちで上演されることとなったのだそうです。
 百景社と三条会との交流は、すでに百景社が結成されたその年から始まっていたということで、いまや「13年のつきあい」ということになっています。
 わたくしごとをぬかせば、私が三条会に俳優として参加することになったのは大学在学中の2001年夏のことでしたから、私も入った当初から「つくばにある百景社という若い劇団」の存在はよく聞いていました。そして、その後ほんとうにいろんな局面で百景社のみなさんとは親しく顔をあわせることとなり、2004年の8月には合同公演としてつくば市で、夏目漱石の『夢十夜』の全夜エピソードを上演するという企画もありました。もう10年ちかく昔の夏になるのね……

 それらの歳月を経て、ついに百景社がアトリエを構える運びとなり、そしてそこで最初に上演される外部劇団の公演が三条会の『ひかりごけ』だという事実は、もう、なんというか……作品を観ていない時点ですでに私の胸には迫るものがゴロンゴロンありまくりで、これを見逃してのうのうと生きているのならば、それはすでにわたくしではないという意味不明な決意をもって今日、土浦にやってきたというわけだったのです。

 でも、こんなご大層なことを言ってはいますが、なんともどっちらけなことに私は、肝心かなめの百景社さんの公演は今年の『椅子』はおろか、2006年1月につくば市で上演された『谷底』(作・鈴木泉三郎)以降まったく観ていないという大馬鹿ポンスケ状態でして、内心で「こんな私がアトリエにのこのこ顔を出していいものなのかどうか……」とビクビクしながら訪れたのでした。ホントにいいかげんにしないといけないねコリャ。

 今回上演される『ひかりごけ』(作・武田泰淳)は、三条会と百景社の両者にとって、この作品を上演するきっかけとなった富山県東砺波郡利賀村(現・南砺市)で行われた「利賀演出家コンクール」を介して非常に縁の深い作品になっているのですが、無論申すまでもなく、三条会単体にとっても上演歴の長い特別なタイトルになっています。
 実は、他ならぬ百景社の主宰で演出家の志賀亮史(あきふみ)さんこそが、「三条会の『ひかりごけ』の全ヴァージョンを観ている」というものすご~く貴重な生き証人でいらっしゃるわけなのですが、はばかりながら私もここで、ササッと三条会の『ひかりごけ』にかんする情報をまとめてみたいと思います。個人的には非常に、ひっじょ~に!! みっしりと思い出のつまりまくった年表であります……


2001年
8月 第2回利賀演出家コンクール出場(場所・利賀芸術公園利賀スタジオ)

9月 同コンクール最優秀演出家賞承認審査(場所・同じ)※一般公開上演ではなかった

2002年
3月 千葉県千葉市上演ヴァージョン(場所・千葉市美術館さや堂ホール)

11月 第9回 BeSeTo演劇祭出品ヴァージョン(場所・中国 北京人民芸術劇院小劇場)

2003年
7月 第3回密陽(ミリャン)夏公演芸術祝祭出品ヴァージョン(場所・韓国 密陽市密陽演劇村ゲリラテント劇場)

12月 台北・牯嶺街(クーリンチェ)小劇場上演ヴァージョン(場所・台湾 台北市牯嶺街小劇場)

2004年
11月 第11回 BeSeTo演劇祭出品ヴァージョン(場所・東京早稲田 戸山公園特設野外劇場)

2005年
7月 第1回まつしろ現代演劇プロジェクト招待公演ヴァージョン(場所・長野県長野市松代町 旧松代藩文武学校槍術所)

12月 三条会アトリエこけら落とし公演ヴァージョン(場所・千葉県千葉市中央区 三条会アトリエ)

2007年
1月 ザ・スズナリ上演ヴァージョン(場所・東京下北沢 ザ・スズナリ)

2008年
5月 なぱふぇす2008出品ヴァージョン(場所・栃木県那須郡 A.C.O.A.アトリエ)

2011年
5~6月 三条会アトリエ公演ヴァージョン A・B(場所・三条会アトリエ)

2012年
5~6月 ザ・スズナリ上演ヴァージョン(場所・東京下北沢 ザ・スズナリ)

2013年
6月 百景社アトリエこけら落とし御祝儀公演ヴァージョン
   現代演劇 ON 岡山主催公演ヴァージョン(場所・岡山県岡山市 岡山県天神山文化プラザホール)


 なるほど~、今回の百景社アトリエ公演で「13回目」の上演ということになるんですね。
 特に毎年1ヴァージョンと決まっているわけでもないのに、13年の歴史で13の『ひかりごけ』。まさにさまざまな「物語」がさまざまな国や場所で繰り広げられました。
 上にあるように、さらに1週間後の今月末には2日間、岡山県で「14ヴァージョン目」の『ひかりごけ』が上演される予定なのですが……残念無念! 私はどうしても観に行くことができないのよねェ~!! ほんとに口惜しいです……行けたらついでに天神山城か津山城あたりでも探訪してやろうと目論んでたのにィ!

 私が俳優として出演していたのは2001~08年の10ヴァージョンだったのですが……そうかぁ、5年前の那須が最後でしたか。あの公演も楽しかったですねぇ。

 ことあるごとに我が『長岡京エイリアン』でも語っているのですが、三条会の公演はたとえ同じタイトルでも、前回の公演と同じ内容が別の場所でリピートされるということはありえません。必ずその上演空間や俳優、時代に即した変容が作品ごとのカラーを決定付けているのが三条会の演劇、というか、「演劇のおもしろさを追求した演劇」の魅力なのだ、と私は確信しています。だから会場に行って生のものを目撃するしかないわけなんです。ライヴだってコンサートだって、そういった非効率的でプリミティヴな娯楽が現代に生き残っている理由は、突き詰めればそこですよね。

 そんなわけで各ヴァージョンごとにまったく違う世界を創り上げていた『ひかりごけ』なんですが、全ヴァージョンを客席から観ていたわけではないのでそれほど大したことは言えないものの、私の見立てでいくと、それでも2001~08年の10ヴァージョンとそれ以降の2011~12年の2ヴァージョンとのあいだには、特に大きな「違い」があったような気がします。

 各ヴァージョンによる変容はあったにしても、2001~08年の10ヴァージョンには、その作品の根幹に「男と女の『ひかりごけ』」というぶっとい軸があり、それを包むように「学生服姿の男たちの『飢餓感』」の物語が組み立てられていました。その具体的な現れ方には差があっても、最終的には「何をやってもわかりあえない、でもわかりあおうとあがくしかない男と女の関係」と、武田泰淳の『ひかりごけ』の裁判シーンでの笑うしかない船長と法廷との言葉のすれ違いのイメージとがオーバーラップしたクライマックスによって、作品は締めくくられていたのです。そして、その障壁だらけの物語を、あたかも両輪ともパンクしたママチャリでツール・ド・フランスに参加するかのような強引さで進行させていったその動力源は、『ひかりごけ』の小説世界を実感できない世代が、それでも『ひかりごけ』の世界に体当たりで潜入しようとしていくという、あふれんばかりに汗まみれな「若さ」だったのではないのでしょうか。
 ともあれ、そのころの『ひかりごけ』には総じて、「何も知らない状態から物語の探索を始めていく」という姿勢が共通していたと私は記憶しています。実際、私も若かったし。

 ところが、2011年以降のアトリエとザ・スズナリの2ヴァージョンは、明らかにそれまでの公演とは違う何かを動力源として進行していく物語になっていました。
 はっきりわかるのは、無邪気に性欲につながってもおかしくなかった以前のヴァージョンでの濃密な「男と女」の関係が、きれいさっぱり取り払われていたことです。まず、2011年のアトリエ公演は男優だけのキャスティングで、主演者が違う2パターンが交互に上演されていました。いっぽう、男優も女優もいっしょに出演しているという点では2012年のスズナリ版は今までと変わりがなかったのですが、そちらはそちらで男女の差は極力触れられないか、もしくは同じ世界に住んでいる男女という関係とは解釈しがたい「次元のへだたり」があるように私には思えました。無論、それはこれまでの「いっしょにいるのにわかりあえない」生々しく肉弾的なへだたりとはまるで違うものです。

 そして、そういった質感の大きな違いは男優と女優の関係だけではなく、性別にかかわらない俳優ひとりひとりの他の俳優との距離感や、作品の舞台が観客に与える印象にもおよんでいたため、2011~12年の三条会『ひかりごけ』は、それまでのヴァージョンとはまったく別のものになっていました。
 一言でいうのならば、2011~12年の三条会『ひかりごけ』は、走馬灯のような時間感覚をもって主人公の視点から見つめられていく「主観の物語」、ということになるでしょうか。

 なんの装飾もないまっさらの舞台に7組の机と椅子しかなく、唐突に学校の授業開始のチャイムとおぼしき鐘の音が流れるとともに、昔ながらの真っ黒い詰め襟の学生服を着た俳優たちがぞろぞろと現れてくるという始まり方の旧ヴァージョン『ひかりごけ』(2001~08年)は、俳優の身体が資本といった感じの汗まみれな肉弾戦が繰り広げられていくという、空間が「現にものすごいことになっている」明快で直接的な緊張感もさることながら、観客のほぼ全員が経験していた(いる?)はずの学校生活を自動的に想起させるチャイムで始まることからもわかるように、「現にそこに、観客の体感に近い時間が流れている」という空間を舞台の上に創り上げていました。まさしく「70分間一本勝負」といった感じですね。中身にいく前に、そもそも「外枠」の段階でリアルだったんです。

 ところが、2011~12年の新ヴァージョンはそこらへんが意図的に「ボンヤリ」していたような気がするのです。時間の流れ方、緩急やクローズアップの倍率があえていびつに、アンバランスになっている。これは、物語が旧ヴァージョンよりももっと強く「主人公の主観視点になったから」と言うべきなのでしょうか。
 もっとも、私がこうやっていっしょくたにしている2011年のアトリエ版と12年のザ・スズナリ版では、演出はもちろんのこと、舞台美術からキャスティングまで同じくくりにするのにかなり無理があるほど別の作品になっているのですが、極端に暗い照明の中でうすぼんやりと男たちがうごめく11年版も、物語のクライマックスにいくまでに徹底的に色彩をおさえた黒い空間&黒い衣装の俳優陣で話が進んでいく12年版も、どちらもあえてわかりにくい状況と閉塞した空気感の中で武田泰淳の『ひかりごけ』が舞台化されていたわけだったのでした。
 要するに、主人公という主観(船長=男)にいやおうなしに強力な他者(?=女)がぶつかってくるという旧ヴァージョンに比べて、新ヴァージョンはクライマックスで「すべてが主人公の脳内の物語の再現だった?」とも解釈できる要素が強くなっているような気がするんです。旧ヴァージョンほど強烈な外部要因がない代わりに、主人公の存在が強くなっているんですね。2012年のザ・スズナリ版ではそんな主人公を見つめる「ヴァイオリンを持った女性」という存在もいるのですが、これも他者というよりは……といった感じがします。

 こうなるとなんちゅうか、激辛エスニック料理ふうの旧ヴァージョンと超ビターなエスプレッソコーヒーのような新ヴァージョンというおももちで、同じ物語を舞台化しているはずなのに比較することからしてバカバカしくなってしまうような質感のちがいが生まれているわけなのです。私見をのべれば、内容うんぬんよりも単純に汗を流しながら俳優同士が激突していた旧ヴァージョンのほうが、インパクトに即効性があったぶん上演直後での観客の反応は熱かったような印象はあるのですが、やっぱりどっちが「深い」かというと、新ヴァージョンのような気がするんだよなぁ。若さと即効性の旧ヴァージョンと、深さと遅効性の新ヴァージョンですよ。

 あと、新旧ヴァージョンの比較で私が最も重大な違いだと思っているのは、新ヴァージョンが、武田泰淳による原作『ひかりごけ』(1954年2月)の前半に当たる「エッセイ部分」の最終行を俳優が朗読するところから本章たる「戯曲部分」に入っていることなんですね。
 いちいち挙げませんが、新ヴァージョン冒頭のこの朗読の内容は、小説家の武田泰淳がわざわざ戯曲の形式をとって実在の事件をフィクション化した理由が語られているかなり重要なものです。それと同時に、そこで他ならぬ原作者が「ムリだと思うけどねぇ~!」と皮肉たっぷりに語っているこの戯曲の舞台化に、「やってやろうじゃねぇか、コノヤロー!!」と三条会が宣言してから物語が始まるという、あたかも往年のプロレスの試合前後における、余りにも、余りにもエンタメ的なマイクパフォーマンスを観ているかのような熱さがあるオープニングになっているわけなのです。ラッシャー木村~!!

 ところが、そんな冒頭をもって「上演不可能な戯曲」にいどんだ新ヴァージョンは、その文章の通りに観客の思索にまかせる「余地」をあえて多くもうけたがために、特に前半において、意図的に熱を抑える演出が長く続きすぎた気が、私はしました。つまり、冒頭に出たはずの実に三条会らしい「熱さ」が、武田泰淳原作のアウェールールにのっとりすぎたせいで失われてしまったのではないのかと。
 原作か、劇団か。これはひっじょ~におもしろい問題なのですが、そのへんのバランスのとり方というか攻防戦のもようが本当にわかりやすく現れているのがこの10年以上にもわたる『ひかりごけ』と三条会の闘いの歴史だと思うのです。
 結局、どっちがいいとかいう話じゃないのよね! そりゃあ山盛りのいちごパフェを食べたくなるときもありゃ、激しょっぱでかっちかちのあたりめをチョイとつまみたくなるときもあるのが人間なんだから。どちらもよく練られた傑作であること。ただそれだけです。


 さぁそういうわけで、歴史とか思い出とかでだいぶ前置きが長くなりすぎてしまったのですが、いい加減に問題の2013年土浦版『ひかりごけ』を観た感想に入りたいと思います。ほんとに長くなっちゃってごめーんね!!


おもしろかったです。(小並感)


 いや、ほんとにそういうことだけなんですよね。もうそれ以外になにがいるって感じなんですけども。

 私の印象としましては、今回の最新版『ひかりごけ』は「新ヴァージョンをやった三条会が旧ヴァージョンをやってみた。」という内容になっていたと思いました。完全なハイブリッドではないのですが、とてもいい感じに両者が融合した新たなるアルティメット(究極)ヴァージョンが生まれた! という感じだったんですね。

 今回の『ひかりごけ』は、「詰め襟の学生服の役者陣が学校のような机と椅子に座って戯曲を朗読しあう」という、旧ヴァージョンの前半における演出が実に5年ぶりに復活しました。と同時に、「冒頭のエッセイ文の朗読」や「ヴァイオリンを持った女性」、そして「主人公強調の後半展開」は新ヴァージョンから継続されています。

 これは……理想的だなぁ。要するに、冒頭の「受けて立つ!」熱を有機的に引き継いだ体温やユーモアのある前半部分が生まれたわけだったのです。マクドナルドのハンバーガーが帰ってきたぁ!!

 これは私見なのですが、新ヴァージョンは「もう詰め襟の学生服ってのも……」という、演じる俳優陣の実年齢も考慮された上で、あえて観客に与える情報の少ない不特定多数な黒服になった、という背景もあったのでは? と考えています。もちろん、それだけじゃないでしょうが。

 ところが、この「詰め襟の学生服」っていうのが、本当にものすごい演出なんだな、っていうことを今回の究極ヴァージョンで改めて再認識しちゃいましたね!
 要するに、「学生服を着た人間がマックのハンバーガーにかぶりつく」という行為のヴィジュアルが観る側に与える、「飢餓感の説得力」がハンパないんだ、これが!!
 もうね、痩せた俳優が青白いメイクをして「おおぉ~……」とかってうめきながらワカメの切れっぱしをかじってるような上っつらの演技なんか、お話にもなりゃしませんよ! 学校のチャイムとまったく同じく、男女の性差を乗り越えて思春期を体験した人間ならほぼ全員が体感しているはずの「どっおしっておっなかっが 減っるのっかな♪」な、あの放課後を強烈に思い起こさせるキーワードが、そこにはある!!

 新ヴァージョンはこの「飢餓感」という前半の一大テーマを、そういった旧ヴァージョンのようなわかりやすい比喩にせずに、役者それぞれの「うまくいかないコミュニケーションからくる孤独感」に置換していたと思います。それゆえに、なんとも解決しようのないもやもやを持ったまま後半に向かうという流れがありました。当然、後半に用意された「答え」に納得のいかないお客さんがいたとしたら、そのまま釈然としない印象をかかえて劇場を出ることになってしまったでしょう。
 それはそれで、物思いにふけりながら帰る作品もいいとは思うのですが、究極ヴァージョンはそれとは無縁の、明快な「わけのわからなさ」を提示する前半に立ち返っていたのでした。

 ただし、後半の「主人公の物語」は、観る人によっては混乱しかねない主観の世界になっていたと思います。あの役とこの役を同時に演じる主人公の心象とは……そして、前半と後半とで主人公が違っている理由とは?

 いろんな解釈ができる余地は新ヴァージョンから継続して配置されているわけなのですが、私はここらへんについて、「過去の主人公と現在の主人公との対峙の物語」という、時間の要素が究極ヴァージョンから新たにつけ加えられた、と理解しました。
 つまり、学生服の役者という前半部分によって、飢餓感(もちろん食欲だけの話ではありません)にさいなまれていた過去の若い主人公と、それを冷たく「過去のもの」として客観化しようとする現在の大人な主人公との対決こそが、究極ヴァージョンにおける『ひかりごけ』後半の裁判シーンの真実なのではなかろうか、と。

 まぁ、それが正解かどうか、という問題には言いだしっぺでありながらも私はそんなに興味がないのですが、もしそうだとしたのならば、やっぱり三条会というか、演出の関美能留さんは現代における「尾崎豊継承順位第一位」のお人なのではなかろうか、という思いを新たにしましたね。
 音楽性とか偶像性とかファッションだとか、よく「窓のガラス割るな!」「バイク盗むな!」とイジられる表層の部分ではなくて、その熱すぎて真剣すぎる「過去の見つめ方」がほんとうに似ているような気がするんですが……気のせいですかそうですか。

 他にもたくさん語りたいポイントはあるのですが、何よりも今回は「10年以上の交流のある劇団へ贈る御祝儀」というめでたさが前面に押し出されたスペシャルな公演だったと感じました。会場が客席3~40くらいの規模だったことがちょっともったいないくらいの素敵な作品でした。すぐ後の岡山公演で、さらに多くの人がこの作品に出逢うことを祈りたいです。


 もっと役者さんについても触れたかったのですが……ひとつだけ挙げておきますと、私が観た回はとにもかくにも客演の呉(くれ)キリコさんの存在感がかなり偶発的な方向で炸裂していたものになっていました。
 ちょっと他のお客さんが気づいていたのかどうかはわからないのですが、呉さんの語るセリフで多少のトラブルが発生し、そのために呉さんの演じた『ひかりごけ』の「西川」というキャラクターの尋常でない「地に足のついてなさ」感(だいたい、本来男性である役柄を女性の呉さんが男物の学生服を着て演じている時点でどこかおかしい)にさらにギアがかかってしまい、その結果、非常に生々しい感覚で「この人……なんかおかしい!」という緊張感が共演者の間に満ち満ちていたのです。いちいち細かい台本との齟齬は知らない多くのお客さんにも、この生身の俳優さん同士のあいだに生じている緊急事態な空気だけはビンビン伝わっていたと思います。いいんじゃないでしょうか、『ひかりごけ』ですから。
 そして、そんなやりとりを経た上での、あの虚ろな視線の「歌唱」……戦慄してしまいました。
 こう言ってはなんなんですが、呉さんは最初に三条会の『ひかりごけ』に客演した2012年ヴァージョンとは比較にならないくらいに、今回の公演で持ち味が発揮されていましたね。ともかく「空気感のそぐわない」青年・西川。う~ん、すごい説得力。デンジャラスすぎる。

 こういうハプニングも、ある意味では汗だくの真剣勝負を旨とした旧ヴァージョンではありえなかった方向性なのではないかと思いつつ……
 時代も変わり、集団も変わり。

 究極ヴァージョンと勝手に銘打ちつつも、これを究極と言わずに、さらに新たなる「次元」に挑戦した三条会の『ひかりごけ』をいつか近いうちに拝見したいものだなぁと思いながら、土浦の街をあとにした今回の観劇記だったのでありました~。


 百景社さん、ほんとに近いうちにまた、お芝居を観に行きますからね!!
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出ました! 超ウルトラスーパー0点~  映画『クロユリ団地』 拾遺

2013年06月18日 22時06分05秒 | ホラー映画関係
 いや~、やっぱり言いたいことはおぼえてるうちに全部言っとかなきゃあね。

 っつうことで、今回は前回に引き続いての、「映画『クロユリ団地』ふざけんなキャンペーン」でございます。1800円しっかり払って2時間ちかく拘束させられただけのコストパフォーマンスはきっちりいただきますぞ! 泣き寝入りだけは絶対にせんからな、クソがぁあ!!


 ……と鼻息荒く始まりましたが、まずはいったん落ち着きまして、前回にいちおう挙げさせていただきました、主演の前田敦子さんの堂に入った「手のつけられない病気演技」のほかにも、映画『クロユリ団地』には2つだけ評価すべきポイントがあったということで、私が見ていて「あっ、これはおもしろくなるかな。」と、実に儚いうたかたの幻想をいだいてしまった前半の良かったところも指摘したいと思います。
 確かに、最初の30分くらいは傑作になるような気配もあったんですけど……その後の展開で何から何までまるっとパーになっちゃいましたね。


good その1 「老朽化した団地を『幽霊屋敷』に選んだ着眼点」

 やっぱりここは見事でしたね。
 映画は冒頭から、引っ越してきたばかりの二宮明日香(前田さん)主体の描写と並行して、彼女が新しく住むこととなった年代物の集合住宅地区「クロユリ団地」の深刻な老朽化と止めようのない住民の高齢化を、セリフを使わずに無言のカットバックのみで的確に説明してくれています。

 外観に無残なひびと黒いしみが広がっているコンクリート製の灰色の団地。すべてが昭和時代のサイズに設計されたために、明日香がどうしても窮屈に見えてしまう部屋の間取りや階段の狭苦しさ。子どもも滅多に遊んでいない閑散とした外の公園。特に何をするでもなく、杖代わりの無人のベビーカーを押してさまよう老人……

 大都市の近郊ならばどこにでもありそうな日常的な風景だし、とりたてて不吉なわけでもないんだけど、どことなく重苦しい閉塞感がただよっているこういったカットの連続は、リアルな生活のにおいを伝えると同時に作品の緊張度をいやがおうにも高めており、介護士を目指して勉強中の若い明日香の前途に、この団地の「暗さ」がなにかしらの影を落としていくという展開を予言しているようです。
 実際に、明日香が高齢者を介護するための専門学校に通っている設定や、のちに隣の部屋で孤独死した老人・篠崎の遺体を発見してしまう展開など、この作品の特に前半は、2007年に65歳以上の人口の割合が総人口の21% を超えてしまった「超高齢化社会」日本の大問題を観客にビシッと突きつけた、かなり硬派なタッチになっているのです。

 ホラー映画の舞台として、従来なら人里離れた古びた幽霊屋敷が選ばれるような「まがまがしい存在」に、一時期には日本の繁栄の輝ける象徴だった団地をもってきた着眼点もナイスですが、『クロユリ団地』の少なくとも序盤は、2013年にこの作品が製作された必然性のようなものがバッチリ提示されていて、とても興味を惹かれました。デートムービーのつもりで観に来た若いお客さんには少々堅苦しかったかもしれないけど、私はすごく新鮮だと感じましたね。

 確かに、昨今の「昭和製の集団住宅」の老朽化と廃墟化はちょっとものすごい勢いで私の身のまわりでも進んでいて、劇中のクロユリ団地ほどの大きさではないとしても、どこかの企業の社宅だったと思われる小さなアパートやマンション風の建物が無人となり、夜には不気味な闇をたたえた「生のない場」になっているという状況には、知らない町をふらふらしているときによく出くわします。怖いんですよね……あのざらざらのコンクリート、締め切られた車庫のシャッター、誰もいるはずのない暗い部屋の中をチラつかせる窓の群れ! もしそこに人の影があって、じっとこちらを見つめていたとしたら……キャー!!

 写真家の内藤正敏さんの作品じゃないですけど、どんなに現代的な大都市にでも、必ず「魔の空間」は寄り添うように、あるいはいつの間にか一体化すらして存在している……無人のオフィスビル、深夜の病院、繁華街の路地裏、事件のあった現場。
 そういったものの最新型として提示された『クロユリ団地』の風景に、私は大いに期待値を上げたのですが……


good その2 「隣の部屋から聞こえる正体不明の音の強調」

 これも実に良かったですね!
 物語の前半、明日香は隣の住人の部屋に通じる壁から、正体不明の「重い物体を引きずるような音」が毎晩のように聞こえてくることに疑問をいだきます。
 まず、隣人のたてる不思議な音という展開要素はホラーやミステリーではかなり古典的なとっかかりであるわけなのですが、『クロユリ団地』の場合はただ単にその音を「ごそ、ごそ……」とリアルに表現するという順当な作法からは大きくかけ離れて、

「ゴリィ! ゴゴリィイイ!! ゴロン!」

 という思いっきり隣人を驚かす気まんまんの凶悪な不協和音をヴォリューム最大でスクリーンいっぱいに鳴り響かせているのです。 
 この気持ちのいいくらいのうそ臭さ! いいですねぇ~。『クロユリ団地』106分間の中で、私が唯一「その意気や!」とテンションを上げた演出でした。

 おそらく100% 意図的にかと思われるのですが、このでかすぎる壁の音は、初代『ゴジラ』(1954年)やシリーズ第2作『ゴジラの逆襲』(1956年)で観る者を大いにびびらせた、あの「巨大生物ゴジラのうなり声」に酷似しています。これは、のちの「怪獣王ゴジラ」の軽快な「アエェ~ン!」という雄叫びとはまるで異質な重低音のドスのきいた凶悪な声で、危険な「黙示録の獣」の気配と息遣いを肌で感じさせる実に良くできた音響効果になっていました。

 つまり、この壁の音は、クロユリ団地という建物や土地そのものが呪われた「恐怖の主体」そのものであるということを前半ではっきりと物語っているわけなのですが、そんな感じでせっかく好調なスタートを切ったその恐怖の主体はなぜか、話が進むにつれてどんどんその姿を変えていって……?


 と、まぁこういったあんばいで、実は最低限、序盤の30分間くらいの『クロユリ団地』はのちの展開に大いに期待感を抱かせてくれる「団地そのものが怖い!」という牽引力を十二分に機能させていたのです。
 まさか、あのキューブリック版『シャイニング』(1980年)のオーヴァールックホテルにも匹敵する「現代的な幽霊屋敷」の新たなる1ページになるのでは!? と鼻息を「フハッ!」としかけた私だったのですが……

フタを開けてみたら、前回にぶちまけたようなオールどっちらけの0点評価になっちまったってわけ。


 なんでこんなことになってしまったのか。序盤のいい感じのあれこれは、製作スタッフ自身のその後の演出によってどのように踏みにじられていってしまったのか?
 いちおう、おさえられない怒りに任せて、めぼしいところには前回だいたい触れたわけなのですが、今回は、他に気づいた『クロユリ団地』のどうしようもない致命的な失敗ポイントをざっとならべて終わりにしたいと思います。

 まぁ、メモみたいなもんですからね。前回の余熱処理みたいなもんだと思って、ゆっくりのんびり読んでってつかぁさ~い。
 たぶん、「そこがいいんじゃないか!」って反論する人はいない……と思う。


超BAD その1 「ベタな展開でさんざんひっぱっといた末に……それ?」

 『クロユリ団地』は序盤、主人公の一人である明日香の視点で物語が進行していき、その意味では1990年代から現在にいたるまで隆盛を極めている「実話投稿型ホラー」の典型的な流れを追ったような展開がしばらく続きます。

 明日香が新しく入学した介護学校で会話しているときに、彼女が「クロユリ団地に引っ越してきた。」と言った瞬間に「え、あそこって……『出る』んでしょ?」となんの気づかいもなく顔を曇らせる同級生など、もう百回くらいは見てるんじゃないかと思わせるパターン演出の繰り返しがズラズラとならんでいるわけなんですね。
 薄気味悪い隣人の存在、だんだんエスカレートする怪現象、明日香の「隣人がおかしい」という意見にかなりにぶい反応を返す周囲、なにやら訳知り顔で陰のある青年の登場、とかなんとか。

 で、それ自体はいくらベタだってかまわないんですよ? 後半に高まったぶんの期待に応えてくれる展開があったら。

 だのにま~、その肝心の後半が、前回にも言ったとおりの「笑えない幽霊退治コント」なんだからかける言葉も見つからないやね!
 時間をおうごとに展開がさらにベタになっていって、なんの新奇さも見当たらない放り投げオチでおしまい!? そういう実験的なことをやってサマになるほど独特の映像センスがあるわけでもないのに、ふつうの TVの再現ドラマなみの平々凡々な画面でそれをやられてもねぇ……なにを楽しんだらいいのか、さっぱり。
 全編2時間ちかくベタだらけなんていう摩訶不思議な大冒険は、デイヴィッド=リンチとかコーエン兄弟くらいの天才じゃなきゃもつわけがありませんわな。

 唯一、この流れの中でも「おっ」と感じさせるものがあるのだとすれば、それはやっぱり中盤での明日香のキャラクターにたいする観客の見方の「転換」かと思われるのですが、それだって前回に言ったような絶妙なつなぎの悪さで、大半のお客さんは「あぁ、イヤだなぁこの娘……」という感触に直結してますます興味が離れる方向に助長してしまったのではないのでしょうか。いくら意外な展開だからって、それでドン引きされちゃったら意味はありません。

 こういう、主人公の不運な設定が大事な要素になってるホラー映画自体は、昔からいろいろありますよね。その中でもいちばん『クロユリ団地』に似ている……というかオチがちゃんと効いているぶん『クロユリ団地』より数万倍おもしろいのは1961年の古典ホラー『恐怖の足跡』(ハーク=ハーヴェイ監督 アメリカ)なわけなんですが、こっちのオチにいっちゃうともう完全に『恐怖の足跡』のリメイクにしかならないんで、そこを避けた結果、今回のような実に中途半端で観る価値のない奈落に落っこちることになってしまった……だいたいこんな経緯だったんじゃないっすか?
 ちなみに、『恐怖の足跡』パターンの作品の中でも私が最も好きなのは、1981年の『ゾンゲリア』(ゲイリー=シャーマン監督)ですねぇ。いずれにせよ、このパターンはオチが強烈なぶん、そこにもっていくまでの脚本の伏線張りと監督の映像センスが大いにキモとなります。ということは……しょせんこっちに走っても『クロユリ団地』のスタッフ陣ではたいした作品にはならなかったでしょうね。意味なし夫。

 そういえば、前回にとばっちりに近い形で引き合いに出してしまった『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』「ムービーウォッチメン」コーナーでの『クロユリ団地』評で、宇多さんがこの作品のクライマックスでの美術造形をさして「ルチオ=フルチみたい」などとツルッパゲな意見をぬかしていましたが、それはあまりにもフルチに失礼だと思います。
 あんな、ちょっとサビてよごしのかかった程度のもので「フルチみたい」……? 登場人物が日本語のセリフをしゃべってるマンガを見て「手塚治虫みたい。」と言ってるくらいに的外れもいいとこな発言ですね。うじ虫の1匹もわいてない空間のどこがフルチ的なんですか?


超BAD その2 「黒ずんだユリとかジャングルジムのカットの意味のなさ」

 私がこうも口をすっぱくしてスタッフの技量を低く評価するのは、なんのオチも意志も示さなかった腑抜け脚本家の観客を馬鹿にしきったやっつけ仕事もさることながら、わけのわからないイメージカットをことあるごとにシーンとシーンとのあいまに挿入してくるという、明らかに監督が脚本の牽引力を信頼していない「ひより演出」がチラッチラ見えるからでもありました。
 あれね。どっかの花壇で何十本も咲いている赤黒いユリの花を映して意味ありげな「ズウゥ~ン」みたいな不協和音を流したり、真上の視点から団地の公園にある球形のジャングルジムを映して、それを「うにょにょ~ん」と歪めたりするカット。それがあって次のシーンに入っていくわけなんですが。

 いや~、心の底から意味がない、子供だましの時間稼ぎですね。「これはホラー映画です。これから怖くなるから、みんなみててね☆」みたいなテロップを画面の下に流したほうが良かったんじゃないですか? そんなに自信がなかったら。

 だってさぁ、作品の中で特に明日香がユリに興味があるとか、ジャングルジムになにかの思い出があるとか、そんなこといっさいないんですよ!? それなのに、ジャングルジムのカットから明日香の「非常に重要な記憶」のイメージ映像とかが始まっちゃうわけ。なんなの、そのデリカシーのかけらもないカット配置!? それで、その後の展開にユリとかジャングルジムがかかわってくることも結局ないんですからね。
 いったいどんな思考回路をしていたら、自分の全身全霊を込めた作品の、大事な血肉のひとかけらにそんなに意味のないパーツをはめ込めるんでしょうか。たいしてきれいなカットでもないよ? 意味ありげにピントを動かしたり CGでいじくってるってだけじゃん!

 シーンとシーンのつなぎは本当に大事だと思うんですよ……そこにどのくらいセンスを見せるかで、映像作家の技量は決まってくると思うの。『天才バカボン』のレレレのおじさんやウナギイヌを見習ってほしいですね。


超BAD その3 「忍を演じる成宮寛貴の過剰すぎる『不幸な境遇』ヴォイス」

 作品のもう一人の主人公である青年・忍。
 物語の後半から、なかば精神崩壊してしまった明日香に救いの手を差し伸べる存在として登場した彼もまた、明日香とはまた違う「重い過去」を背負って生きている人物だったわけなのですが……

 そこらへんの事情が明らかになる前も前、最初に画面に出てきた瞬間から、全身にまとうオーラが不幸すぎ!! 顔はやせこけて目はふしめがち、その上しゃべりだしたら声のトーンも疲れテイスト240% アップのやつれ演技だってんだからどうしようもねぇや! この状態で「明日ディズニーランドに行くんです……」とは絶対に言わないでしょう。

 そういう過剰演技って、見ていて本当に重たくてめんどくさいんですよね。
 成宮さんも、もう必ずしも若くはないんですよ。二枚目に変わりはないとしても、顔もそれなりに年齢を重ねて味が出てきて、肌にハリツヤのあるフレッシュ感はなくなっていると思うんです。だいたい、たたずまいでキャラクターの印象を出せる技術もすでに身についているはずなんですが。
 それなのに、そこらへんだけでなく「セリフのしゃべりかた」にまで不幸キャラの色を混ぜ込んできたら、そりゃあもうおなかいっぱいトゥーマッチってもんですよ。なんか、顔を出さないぶん演技を過剰にする必要のある声優さんなみに「私、不幸なんです!」成分がしみこみすぎなんです。いらないと思うんだけどなぁ、そんなには! ルー大柴さんレベルのクドさでしたよ。
 そういう人が主人公になっちゃうと……ついていけないよね。もう展開のなにもかもがめんどくさい。誰が死のうが助かろうがどうでもいいって感じになっちゃいました。全盛期のみのもんたさんの『チョット聞いてヨ! 思いっきり生電話』でも、この事案はフォローしきれないでしょう。梅沢富美男さんがいたらブチ切れる内容ですよね。

 こういうめんどくさすぎる不幸ペアが主人公だからこそ、クライマックスにあのインチキ霊能者がクロユリ団地にこの2人「だけ」を置き去りにしてミノル君との対決をまかせっきりにしてしまった展開も説得力がまるで見られないものになってしまいます。負けるに決まってんじゃん、そんなもの!! 後ろにいたおばちゃんの1人でもついて行かせろっての、バックコーラスに置いても意味ないんだから!


超BAD その4 「明日香は絶対に介護サービス業に向いてない」

 これは地味にイラッときました。
 お隣さんの孤独死を発見したんだかなんだか知らないが、本当に介護の仕事に就きたいんだったら、そんな最低なテンションで介護学校に来るんじゃない!! いるだけ、真面目に実習している他の生徒たちの邪魔!

 だって、明日香は孤独死が蔓延しつつあるような現状をなんとかしたくて介護の道を目指してるんでしょう? それがなんで、たまたま隣人の遺体を見たってだけで、あんな再起不能な状態になっちゃうんですか? それだけ明日香の意志は薄弱だったってことなの? そんなキャラクターをどうして前田敦子さんがやってるの!?

 なんか、おかしいんだよなぁ……そんな娘が思いつきで介護士を目指して、わざわざクロユリ団地に引っ越してきて学校に通うまでの意志を持つか?
 つまるところ、前半の「将来の夢に向かって進んでいる明日香」と、後半の「ミノル君につきまとわれる明日香」とのキャラクターに齟齬がありまくりなんです。中盤でブランコに乗って泣き出す明日香の行動がまったく唐突なんですよね。
 それが人間というものの複雑さ……なのか? 単に脚本が行き当たりばったりなだけなんじゃなかろうか。この疑問はそのまんま、次のポイントにもつながります。

 余談ですが、作品を観ている途中から、私は明日香というか、明日香を演じている前田さんのもろもろの演技が私の身近にいる女性の表情や言動の剛情さに酷似している事実に気づいて、明日香が泣いたり叫んだりするたんびに「う~ん、そういうこと言うよね……そして、確かにめんどくさい!!」と再認識してしまいました。
 でも、それは脚本がうまいってことじゃないですよ。だって、私の知ってる人は正真正銘の演技でそういうことやってるからね。うすっぺらい脚本なんだよなぁ~、心の底から!!


超BAD その5 「ラスボス『ミノル君』の存在の耐えがたいチャチさ」

 まず最初に疑問。
 明日香とのファーストコンタクトで、どうしてミノル君は無言で明日香から逃げるように走り去っていったのか?

 上の疑問の答えとして私は、「その段階では脚本はミノル君をラスボスどころか、敵キャラにする気さえなかった。もしくはどうしようか迷っていた。」という前代未聞の真相だったんじゃなかろうかとふんでいます。客に出す料理の作り方を、調理しだしてから悩むなバカー!!!

 まさか、ミノル君が「初回はわざと無視して、2回自分に声をかけた人間につきまとうことにしていた。」という諸葛亮孔明みたいな作戦をとっていたわけでもあるまいし。
 なんか、あからさまに急なんだよなぁ、後半からの「ミノル君がすべての元凶!」という展開が。
 そして、それがミノル君の「孤独でかわいそうな境遇だが、明日香に優しい気づかいを見せてくれるかわいらしい少年」という面をさんざん見せたあとで始まるわけだから、もはや何をやっても、どんなメイクをしてもミノル君が怖くないのなんのって。ふつうの小学校入りたてのガキンチョなんだもん、もう!

 これはもう、『呪怨』の佐伯俊雄君を製作スタッフがどれだけ細心の注意を払って「怖い存在」に創り上げたのか。その苦労のいっさいを放棄しているとしか言いようがありません。偉大なる先行作品からなんにも学んでない!
 幽霊役をやらせる子役なんて極力しゃべらせちゃダメなんだって。しゃべったら、どうやったってかわいらしさと幼さが出ちゃうんだから。生きている人間のあたたかみとか、「早く帰ってハンバーグ食べたいな~。」とかっていう脳内思念を表に出さないために、無言にしたり全身白塗りにしたり顔を映さなかったりしてたのよ、いろんな作家さんたちは。

 そういうことにろくに機転も働かせないで「はい、この子は悪霊でござ~い。」ったってそうはいかねぇよ。
 こっちは前半のそれなりの団地のおどろおどろしさで期待値が上がってるんだから! それなのにガキがとことこ出てきて「おねえちゃ~ん、開けてよ~。」ったって、もうじぇんじぇん怖くなんない! 勢いよくドアを開けたら、たぶんノブに頭をぶつけて号泣するぜ、あんなの。

 たいして人生経験もないくせに、いっちょまえにゴミ焼却炉と一体化して人を見くだしやがって……大ヤケドしたのはこんな映画を見るために千ウン百円払わせられたこっちのほうじゃ、クソガキがぁああああ!!


超BAD その6 「中盤からの忍と『金本』の役割のどっちつかずのアイウォンチュウ」

 なんか、明日香と忍をだしぬいて「明日香の秘密」を知ってしまう、介護学校の教師・金本っていう中盤のくだりが、まったくもってストーリー上のネタバレ要員にしかなっていないのがものすごく癪にさわりました。そういう意味では金本はかなり重要なキャラでなければならないわけなのですが、それ以前もそれ以降もまったく物語の核心にかかわってこないんですよ、全然。

 要するに、ミステリー小説でいう名探偵の推理なみに大事な部分のはずなのに、その役割を忍がやると忍が「全知全能すぎ」になってしまうから、そのパートだけ誰か他のキャラにやらせた。ただそれだけなんです。

 金本……なんだったんだ、金本? 来たと思ったら行っちゃったよ。
 演じた青山草太さんは大好きな俳優さんなんですが、実に意味のない仕事でしたね。


超BAD その7 「明日香の伯父・伯母夫婦のどうしようもなさ」

 役    立    た    ず    す    ぎ    。



 こんな感じで、『クロユリ団地』が超ウルトラスーパー0点だった採点内訳は以上で~っす♪
 あ~……すっきりしたんだかしてないんだか、よくわかんない!!

 日本のホラー映画業界よ、二度とこのあやまちを犯すなかれ。
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出ました! 超ウルトラスーパー0点~  映画『クロユリ団地』

2013年06月16日 17時18分08秒 | ホラー映画関係
 じめじめイエー! 梅雨イエー!! どうもこんにちは、そうだいでございま~っす。6月の日曜日、みなさまいかがお過ごしでしょうか?

 いや~、多分それでもまだまだ降雨量は少ないのかも知れませんが、ある程度しっかり雨の降る天気が続いてまいりました。いちいち傘をさしたり、洗濯物がなかなか乾かないのはイヤですが、夏を迎えるためにこの季節は大事なのであります。ひどい湿気もちゃんと受け止めなきゃあね~。楽しめ楽しめ~っと。

 もうね、最近のあたくしは忙しいもなにも、もう「忙しい」って言うヒマもないってくらいの忙しさなんでい! って感じなんですが。
 でも、「しっかり仕事をする。」ってことを身をもって体験している時期なんでね。試験勉強も手を抜いちゃあいけないわけなんで、一日の時間が短く感じるのに、その貴重な時間があいたらひたすら眠くなるだけ、って日々なんですが、このあたりがのちのちに「良い思い出」になってくれれば万々歳! ってことで、冷や汗かきかきがんばっていきまっしょい~と。

 そんな毎日でありまして、ふと今月のスケジュールを手帳で見なおしてみたら、仕事も誰かと会う用事もない完全フリーな日は「たったの2日」ってありさまよ! まぁ、そういう一年をお過ごしでいらっしゃる方々が無数にいらっしゃるのが「大人の社会」というものなのでしょうが、不肖わたくしめも、やっとそのつらさがわかるかもしれないステージに混じらせてもらっとるということで。へいへいありがてぇこってす。

 それで、その超貴重な「まるまる休日」のひとつが本日だったわけなのでありますが、そんな今日は早朝から雨、雨、雨。私の住む千葉は絵に描いたような梅雨のオープニングでございました。
 こういう日は外に出ないで家でのんびりするのが一番なのかも知れませんが、それでも私は外に行く予定を作っちゃってたのよねぇ~。今日行っとかなきゃ、いつ行くんだと!


 というわけで、本日は東京の池袋に行きまして、2つの娯楽をたのしんできてまいりました。
 まず、ひとつはこれ。


さやか 個展『緑とコーヒーとあなたの物語』6月5日~7月31日 場所・スターバックス池袋明治通り店


 我がいとしの辻村深月先生のハードカヴァー版『本日は大安なり』(角川書店)や文庫版『ふちなしのかがみ』(角川文庫)、河治和香の『紋ちらしのお玉』シリーズ(角川文庫)などのカヴァーイラストを手がけていらっしゃる画家のさやかさんの個展が、画廊といった特別な空間でなく、ふつうに出入りするようなコーヒー屋さんで開催されている! そんな情報をなんと、さやか先生ご本人の手跡になるダイレクトメールで頂戴いたしましたので、喜び勇んではるばる千葉くんだりから池袋まで馳せ参じさせていただくことにいたしました。
 これは昨年の夏に、千駄ヶ谷で開催されたさやか先生の個展に行ったときに来廊帖に記入したからいただいたお知らせだったんですが、記入してなかったら、たぶん忙しさにかまけて展示の存在にさえも気づかずじまいになってたんじゃないだろうか……危なかったねぇ!

 それで、ちょっと今日を逃がしたらしばらくチャンスがないということで足を向け、慣れないスターバックスの中に踏み入って、「し、し、したらば、おらはコーシーをいっぺぇもらえっかな……」と、うつむきがちに小声で自分のランニングのすそを両手でギュッとつかみながら顔を真っ赤にして……はいないんですが、内心はそのくらいのドギィ&マギィ度でアメリカーノのトールを頼み、それを片手に2階にあがっていきました。
 私ねぇ、そりゃあいちおうコーヒーはいろんな場所でたしなむんですが、基本的に苦手なんですよ、コーヒー。だから、スターバックスなんか滅多にいかないの。

 オイオイ、なんだよ、この「トール」サイズって! 多いよ、多すぎるよ量が! なんでこんなに多量の苦豆汁をいちどきに摂取しなきゃなんねぇんだよ!! うぅ……なんか、強引に体内から腹中虫を追い出す儀式的なもんに参加してる気分になってきたよ……にが……

 そんなことを内心で叫びつつも、表向きは「う~ん、やっぱりカァフィはブラックに限りますな。」というゼントルメンな涼しい顔をしながら、明治通り店の2階と3階に展示されている計13点のさやか作品を楽しみました。

 うん、やっぱりさやか先生の作品は色の濃淡の絶妙な采配が最高なんですよね。今回の作品群は「黒い闇」を背景にして人物が躍動している構図が多かったと感じたのですが、その闇の中に深みがあるというか、ちゃんと近くは明るくて、遠くなるにつれて光が届かなくなって暗くなっていくという空間の奥行きの説得力がしっかりあるのがステキなんですよね。それこそ宇宙の黒さに秘められている可能性の豊穣さ、そこにある無限大の世界の存在を感じて、それと同時に、手前のにぎやかな人物配置が豊かな光源となっていて、それを見ている自分自身が今ここにいるということの奇跡に思い当たり、身が引き締まる感覚を得るわけです。

 昔、私は学生時代に友人たちと連れだって1週間くらい北海道に旅行に行ったことがあって、そのときに1艘のカヌーに乗って屈斜路湖をただよったことがあったのですが、しばらく進んでふと湖面の下をのぞいてみたときに、その碧い美しさを構成している30~100m くらいの深さを感じて、そんな高さの空中に浮かんでいるような気分になってヒヤッとした経験がありました。「怖い!」っていう感覚じゃなくて、なんともいえない自分以上のサイズの世界に触れたっていう畏敬に近い感覚ですよね。
 まぁ、同時に屈斜路湖の伝説の聖獣「クッシー」のこととか、小学生のときに TVで見てものすご~くビックラこいた映画『恐竜・怪鳥の伝説』(1977年)のこととかも連想したんですけど。俗な話でごめ~んねっと。

 ともかく、あのとき私が感じた「深遠の美しさ」を絵画という形で体験させてくれるのがさやか先生の筆遣いなのです。
 今回は静かな画廊ではありませんし、作品がかかっている壁際にふつうのお客さんがいる座席が置かれている状態なので作品に接近することはかなり制限されたうえでの展示なのですが、それでも、印刷物ではない本物のさやかワールドが味わえる貴重な機会だと思いますので、多くの方々に観に行っていただきたいと思います。店員さんも非常に感じがよろしかった! みなさんぜひとも、お時間があるときに行ってみてくださ~い。

 それにしても、雨の降る日曜日だっていうのに、あそこのスタバはパソコンをにらんでお仕事らしきものをなさっているスーツの方が多かったね……それに加えて休日を楽しむ2人連れもあいまって店内はほぼ満員だったのですが、午前中から大東京はほんとににぎわっとるねぇ。池袋の文化集中度というか、ものすごさを改めて思い知った感じでした。

 そういえば、池袋の映画館「新文芸坐」にもずいぶんと行ってないねぇ。
 あっ、今度、7月と8月をまたいで黒沢清監督のオールナイト特集を2回やるんでしょ? 行ってみようかなぁ、久しぶりに! どんなファンが集まるのかも興味があるしねぇ~。
 ……あ、試験の超直前だったわ。まぁ、行かない勇気も大切ということで、ハイ。


 とまぁ、そんなことでさやか先生の個展は「やっぱり、イイ!!」という大満足の感想に終わりまして、問題はもうひとつの用事のほうだったのであります。

 本来の計画では、まず池袋の映画館「シネマサンシャイン」で上映中のこの作品を観てからスターバックスに行くつもりだったのですが、家を出るのが遅れてしまったため午前の回の上映開始に間にあわず、結局はスターバックスに行ってから地下鉄に乗って新宿に行き、新宿ピカデリーでやっているちょい遅めの回を観るというまわりくどい経路になってしまいました。地下鉄の東西線は便利なんですけど、ちょっとタイミングを逃がすと東京に到着する時間が思いっきりズレちゃうんですよね。

 そして、いつも活気のある新宿ピカデリーで観たおめあての映画は、こちら。


映画『クロユリ団地』(2013年5月公開 106分 松竹)

 『クロユリ団地』は、中田秀夫監督のホラー映画。日活創立100周年記念作品。公開と同時に『ぱちんこクロユリ団地』としてパチンコ化されているほか、スピンオフの連続 TVドラマ『クロユリ団地 序章』が放送されている(毎週火曜日深夜2時30分~3時 TBS)。
 全国162スクリーンの公開ながら、公開初日2日間で興収1億5千万円、動員11万人になり、映画観客動員ランキングで初登場第1位となった。公開第2週で累計興収は4億1千万円、累計動員は32万人となり2週連続第1位となった。

スタッフ
監督 …… 中田 秀夫(『リング』シリーズ 51歳)
脚本 …… 加藤 淳也(42歳)、三宅 隆太(『ほんとにあった怖い話』シリーズ 41歳)
音楽 …… 川井 憲次(『リング』シリーズ、『攻殻機動隊』シリーズ 56歳)
企画 …… 秋元 康(55歳)
企画・製作幹事 …… 日活

キャスト
二宮 明日香     …… 前田 敦子(21歳)
笹原 忍       …… 成宮 寛貴(30歳)
明日香の父・勲    …… 勝村 政信(49歳)
明日香の母・佐智子  …… 西田 尚美(41歳)
明日香の弟・聡    …… 佐藤 瑠生亮(るいき 8歳)
明日香の伯父・武彦  …… 並樹 史朗(55歳)
明日香の伯母・栄子  …… 筒井 真理子(50歳)
介護学校の教師・金本 …… 青山 草太(33歳)
忍の恋人・ひとみ   …… 佐藤 めぐみ(28歳)
松浦刑事       …… 諏訪 太朗(58歳)
忍の上司・石塚    …… 柳 憂怜(50歳)
ミノル        …… 田中 奏生(かなう 7歳)
篠崎老人       …… 高橋 昌也(83歳)
霊能者・野々村    …… 手塚 理美(51歳)

ストーリー
 黒百合団地に引っ越してきた介護士志望の学生・二宮明日香は、住み始めて数日後に、隣室に住む老人の遺体を発見する。そして、団地の公園で孤独な少年ミノルと出会ったことを境に、次々と彼女の身に恐怖が襲いかかる……



 はい~、なにはなくとも現在大人気公開中の、話題のホラー映画であります。
 なんかその後、公開第4週の段階で興行収入7億6千万、動員50万人をゆうに突破したそうですね。もちろんまだ結果は出ていませんが、おそらくこの土日で10億円には届くんじゃないかなぁ。
 ともかく新宿ピカデリーで私が観た午前の回は、公開1ヶ月とはにわかには信じがたい大盛況ぶりで、120席あるスクリーンがほんとのほんとに「私の買ったチケットで完売になる」という勢いになっていました。
 私はまさかそんなにコミコミになっているとも思わずに、のうのうと予告編が始まっているくらいに受付に行ったら、見事なまでの「座席選択肢、なし。」で最前列のど真ん中でした。首が、首がいてぇ!! でも、わざわざ新宿にまで来てソールドアウトで門前払いになるよりは100万倍ましでしたね。私はやはり運がいい。

 今回はやっぱり、せっかく休みを利用して東京に行くんだから、コーヒー屋だけじゃなくてついでに何か観て帰ろうという貧乏根性から始まった映画鑑賞だったのですが、あんまり積極的に観たいものがないんだけど……と思いつつも、『ローマでアモーレ』、『言の葉の庭』、『グランド・マスター』、『フィギュアなあなた』、『ジャンゴ 繋がれざる者』といった候補の中から選ばれたタイトルこそが、この『クロユリ団地』だったのでした。

 まぁ、やっぱり日本のホラー映画の最新型ですし、ものすごい人気になっている話題作ですから。しかも、あの天下の前田敦子さんが主演なんでしょう? 実は私、家に TVがないもんですから、正味な話 AKB48の PV以外での「女優・前田敦子」の仕事って1回も観たことがなかったのよね……あの『リング』シリーズで大変お世話になった中田監督の作品もハリウッド版の『ザ・リング2』(2005年)以来トンとご無沙汰でしたからね。
 「最近の日本のホラー映画&女優・前田敦子はいかほどのものか!?」というダブルテーマに注目しながら意気揚々と鑑賞した『クロユリ団地』だったわけなのですが……


0点、0点、れぇてぇえ~んん!! 私の中では異議なし処置なし文句なしの大零点という脅威の得点が出てしまいました。


 いや~……ヒドいですね。
 無論、私も鬼ではありませんし、別に「怖くなければ即、0点!!」というホラー・ショック演出重視論者でもないつもりです。つまり、さほど怖くない、もしくは起伏のないホラー映画でも「おもしろい」のならば大好きな作品として歓迎する意志は持っているつもりです。エンタテイメント的な派手さはなくても、その「不吉な」雰囲気がなんともいえない味わいを提供してくれる一連の黒沢清、鶴田法男両監督の作品ですとか、「朦朧法」の教科書とも言うべき丁寧なストーリーテリングの「幽霊洋館もの」を見事に現代に復活させてくれたアレハンドロ=アメナーバル監督の『アザーズ』(2001年)とか、ほんとにもう大好きですね。

 なので、世間で言われている「あんまり怖くなかったよ。」という意見に賛同して減点しているわけではないのですが、ともかくこの『クロユリ団地』、「ホラー映画」になっていない以前に、そもそも娯楽作品としての「映画」にもなってないし、さらにはプロのみなさんが世に問う「作品」にもなってないと思うのよ、私! 何を言いたいのか、観た人に何を感じてほしいのかがほんっとうにわかんない。ただただ、観る人をすべからく不快な気持ちにさせるだけのストーリー展開、そしてあのファッキンど~しようもない結末!

 かといって、あの世界的な不快映画『ブラック・スワン』(2010年)みたいな計算高さもないしねぇ。要するに、この『クロユリ団地』という常軌を逸した駄作をひっさげて「文句あるかバカヤロー!」と気を吐く誰かが作り手の中にいるのならば、それなりに再検証する価値のある「怪作」なのかもしれませんが、スタッフの誰からも役者の誰からも熱意がまったく感じられない。
 「いや、いちおうがんばって作ってはみましたけど、別にこれを代表作にするつもりはないっす。ヒットしたらいいんじゃないっすか?」みたいな、気が抜けてるどころか、もともと最初っから炭酸が入ってない「コーラグミを1コ、2~3分漬けただけの水道水」みたいな気力のなさなんですよ、この映画! 同じ中田監督でも、まず創作にかける意欲の時点で『リング』(1998年)とは天と地ほどの違いがありますよ、マジで!! え? もちろん『リング』はコカ・コーラ御大その人ですよ! 『リング2』はコーラ・タブクリア(1993~94年)かな。『呪怨』のオリジナルビデオ版2部作はやっぱりジョルト・コーラだろうねぇ。

 最初にこれだけは言っておきますが、確かに前田敦子さんの演技は主演者として観られるものがありました。少なくとも、この作品での「二宮明日香」というキャラクターは100% 以上の説得力をもって演じきることができる「幸薄さ」と「おびえの表情」を惜しげもなく披露してくれていたと思います。

 でも……それを世間に知らしめて、前田さんのこれからにメリットはあるの?

 『クロユリ団地』の二宮明日香というキャラクターは、ストーリーの中盤からもうこれでもかというほどに展開されていく「主人公らしからぬ境遇」の激流に身を任せていくことになり、とにかく演じる前田さんの「顔色の悪さ」と「周囲からさし伸べられる救いの手のいっさいを拒絶する、第14使徒ゼルエルもビックリの A.T.フィールドの張りっぷり」が際だって印象的な娘さんになっています。
 つまり、単なるむちゃくちゃめんどくさい「アレな人」でしかないわけなんですよ。こういう演技がうまいって言われて喜ぶ本人やファンって、いるか?

 いや、もちろん作品の後半にいくにしたがって、前田さん演じる明日香がそういう人になってしまった「原因」、ひいてはこの『クロユリ団地』という物語の全体にわだかまる謎の真相は明らかになっていき、それによって明日香の「悲劇のヒロイン」としての説明はいちおうなされていくのですが……

 そこにまぁあっっっったく感情移入できない!! 誰の意見も聞かずにひたすらウジウジしている人なんか、千ウン百円お金払った上に同情なんて、できる? できるあなたは、ちょっと度を越した前田さんファンか菩薩さまだよ! 今すぐ出家したほうがいいよ!!

 感情移入できない理由はいくつかあるんですが、まず致命的なのは、映画が明日香の「秘密」をちょっと長く引っぱりすぎてしまったがために、本来ならば観客と一体化した視点を持っていなければならなかった明日香にたいして、観客が「なんかこの人……おかしいぞ。」もしくは「なんでこの子は『あの違和感』をはっきり人に言わないんだ? もどかしすぎ!」という不信感を持つにいたってしまい、後半でその原因を解き明かされてもイマイチ明日香の問題の解決法というか、「ハッピーエンドのかたち」を想像する興味がわかない温度の低下をまねいてしまっているのです。作中では後半から、そんな明日香の「主人公降板」をフォローするかのように、W主演というふれこみの成宮寛貴演じる青年・忍がぐぐっとストーリーの中枢に乗り出してくるのですが、もはや時すでに遅しといった感じだし、忍は忍でそれなりに「くら~い闇」を背負っているので、その事情を知らなければならない「重だるさ」におおむね違いはありません。

 要するにさぁ、何から何まで重苦しいくせに、主演だっていう2人が2人とも、それぞれの形は違ってもまったく救いようのない末路をたどって物語が勝手に終焉する、って感じなんですよ。

「あるところにかわいそうな人がいました。そこに幽霊が現れたりいろいろあって……かわいそうな人はさらにひどい目に遭いましたとさ。チャンチャン。」

 こんなそっけなさ、重たいまんまで投げっぱなしの知らんぷり! オイちょっと、それはいくらなんでも丸投げすぎなんじゃないのか!?

 話はちょっと変わりますが、『クロユリ団地』は時間が進むにしたがって、物語がズンズン信じられないくらいの加速度で「古臭くなって」いき、クライマックスではあきれてものも言えないほどに古典的な『吉備津の釜』パターンでの「人間 VS 邪悪な霊」の対峙になってしまうのですが、そういうのはその人間が邪悪な存在を呼び込むことになってしまった「それなりのきっかけ」というか、誰でも「あぁ、それやるよね~!」と思わず共感してしまうような、人間らしい欠点が理不尽な破滅を呼んでしまうことへの同情が生まれてはじめて機能する、怪談文化の「教訓譚」としての効能だと思うんです。「やっちゃいけないことはやっちゃいけない」「行っていけない所には行っていけない」という問答無用な教訓がわかりやすく伝わるツールだからこそ、怪談は不滅なのです。

 でもさぁ……別にバッドエンドでもかまわないんだけど、明日香と忍が、あの「ミノル」とかっていう邪悪な存在に追われなきゃいけなくなった原因って、強いてあげれば「心優しかったから。」ってことなんでしょ?
 じゃあさ、この映画はなに、「優しくなっちゃいけません。弱そうに見えるものに声をかけちゃいけません。」っていう教訓を伝える映画なの?

 いちおうこの作品では、後半に手塚理美演じる霊能者の野々村が明日香に「優しいのは悪いことじゃない」という意味合いの声をかけるシーンも用意されてはいるのですが、すでに明日香はそんなことはまるで聞いちゃいない精神状態だったし、野々村も流れでミノルくん調伏に一肌脱いではみたものの、その明日香の優しさが引き起こしてしまった「大失策」のために散々な目に遭ってしまいます。完全に「骨折り損のくたびれもうけ」ですね。

 ちょっと話はズレますが、この野々村っていう霊能者の調伏儀式シーンっていうのが、また最低でねぇ! ホラー映画の大事なクライマックスだっていうのに、怖がっていいんだか笑っていいんだかぜんぜんわかんない演出で、コントみたいな扮装にコントみたいなおばちゃんエキストラをしたがえてコントみたいな呪文を大声でわめき散らすわけ! ヒドいもなにもないよ、こんなもん。怨霊調伏の儀式なんかもうどうでもいいから、とりあえず TSUTAYAに行って『エクソシスト』を借りてきて雰囲気の出し方を勉強してくれよ~!!

 しかもさぁ、この儀式シーンで野々村が唱えてる呪文ってのがもう、どこからどう聴いても完全に、四国の「いざなぎ流陰陽師」の『不動王生霊返(ふどうおういきりょうがやし)』のフレーズなわけ! 超メジャーなナンバー!!
 いやいや、あんたが対決してるのは生霊とか同業者のはなった式神とかじゃなくて、ミノル君っていう正真正銘の「死霊」なんでしょ! 話聞いてた!? カゼひいてウンウンうなってる人のおでこにバンドエイド貼ってどうするんだバカー!!! 宜保愛子先生の墓前で腹かっさばいて詫びてください。

 オイ脚本! 消費者ナメんなよ!! 「とりあえず内容なんかどうでもいいから、耳障りがおどろおどろしい呪文をわーわー言わせとけ。」っていう安易な動機でチョイスしてんじゃねぇよ。どんな呪法なのかヒアリングできる気持ち悪いお客さんもいるの!
 この作品の脚本担当者は2名いるのですが、そのうちの1名(三宅)はしょっちゅう公共の電波で「私は本物の幽霊が見える体質です。」と明言しています。

嘘だ!!!! まさかの2013年に竜宮さん風の、嘘だ!!!!

 世間以上に幽霊の存在をリアルに感じている人なんだったら、そんな「相手(幽霊)に意味を通す」というコミュニケーション上の大前提を軽く無視することはできないだろう。もはや心霊やホラー映画に詳しいプロとも言えないドしろうとの、「呪文なんかなんでもいい」という他人も他霊もいっさいをナメにナメきった脚本です。百歩譲って、もしその呪文チョイスが自分(三宅)の筆によるものじゃなかったのだとしても、「共同脚本」という形で名前がいっしょにならぶんだったら、自分のプロ生命を賭けてでも相手に変更をうながすレベルのイージーミスでしょう。
 も~0点、0点! 0点どころか退学処分で放課後に市中引き回しだろ、これ。

 とにかくもうね、この『クロユリ団地』はデートムービーのつもりでノリで観に来た若いいちげんさんにも、前田敦子さんや諏訪太朗さんといった出演者のファンの方々にも、ホラー映画に一家言を持っていると自負しているマニア層にも、全方位360°に向けて「ナメきった」つくりのしろものになっているんです。だぁれもうれしくないし、だぁれも得しないの。得してるのは作品に直接かかわってないのにもうけてる「上の人」だけ。

 こんなにヒットしちゃって、もしかしたら続編製作が決定してもおかしくないような勢いなわけなんですが、私は信じてますよ。この国の「口コミ」の力を! こんな愚にもつかない有害ゴミをえんえん1時間半以上も見せつけられて「おもしろかったー☆」なんて言える人はいないはず。
 でもさぁ、公開から1ヶ月たってもまだこんなに大入りだってことは……「口コミ」がそういうことになってんのか。そんな馬鹿な……


 話は変わりますが、私は最近、ひところはあんなに毎日楽しみにして聴きまくっていたラジオ生活をめっきりやめてしまいました。もうほとんど、ラジオ日本の『モーニング女学院』と『Berryzステーション1422』くらいしか聴けていない寂しさになっています。
 もちろん、その最たる原因は冒頭にも申しあげた「仕事で忙しいし眠りたい!」というものなのですが、そういった生活上の変化とほぼ時を同じくして、

なんとなく TBSラジオのラインナップに魅力を感じなくなってきた。

 という心理的変化も発生してしまった、ということがあったんですね。

 んで、その流れで毎週土曜日の『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』も聴かなくなってしまっていたのですが、今回「んまぁ~ひどい映画を観てきちゃったよ!」とプリプリしながら帰ってきて、そういえばこの『クロユリ団地』の脚本を担当している三宅隆太っていうのが、映画監督とか脚本家とは違う「スクリプト・ドクター」っていう肩書きでけっこうおもしろいホラー映画理論コーナーをやってたっけな、と思い当たってちょっと久しぶりに『ウィークエンドシャッフル』のホームページをのぞいてみたのね。
 そしたら案の定、宇多さんが何週間か前に『クロユリ団地』をシネマハスラー……じゃなかった、「ムービーウォッチメン」のコーナーで批評していたわけです。

 それで、おぉこれは聴かなきゃ。宇多さん、あの歯に衣着せぬ物言いでこのゴミを焼却処分にしてくれ! という思いでその放送回を聴いてみたらば……

 宇多さん。それはないです。なにをそんなに言いよどんでるんですか。なんで昔みたいにはっきり「クソだYO!!」と言ってくれないんですか。まぁ、そんなこと過去にも言ってないけど。
 4~50分くらいあるコーナー内容の中で、『クロユリ団地』自体のことに言及してるの、たったの「10分ちょい」じゃないですか! それもあんな気持ちの悪い、言いわけがましい弁護に終始して……「奥歯に物のはさまったような言い方」の教科書みたいな最低最悪のひとときでしたよ!
 そりゃあ、三宅隆太のことを個人的に好いているのはよくわかるし、スクリプト・ドクターとしての彼の魅力が番組に貢献しているのはよくわかりますよ。「ブルボンのお菓子コーナー」もいいしね。

 でもさぁ!! ちゃんと、そこと「『クロユリ団地』の脚本・三宅隆太」は区別して、正当に引導を渡してさしあげないと! ちゃんと「てめーはもう作品を創作するな!! 医業に専念しろ!」って。

 もう私は心に決めちゃいましたからね、「『大人の事情』でがんじがらめになっている宇多さんの声なんて二度と聴きたくないし、今後いっさい信用することもできない!」って。
 私ごときが聴かなくなっても特に番組の人気に問題はないのでしょうが、結構な人数がガッカリしたと思うんですよ。そこにカッコよさは1ミクロンも感じられないからです。それはもう、かつての『リング』に見られた新時代の到来を告げるスパークが、『クロユリ団地』のどこにもなかったのと同じことですよ!


 まぁ、いろいろ言いましたけどね。ま~だまだ言い足りない問題があるので、次回にもちっと補足のかたちで『クロユリ団地』の最低さについての考察をあげてみたいと思います。腹の立つことはもう山ほどありますが簡単にかいつまんで。できるか?

 結局、今回の『クロユリ団地』鑑賞は、「中田秀夫」と「三宅隆太」(と、宇多さん?)という名前になにかしらの幻想を抱いてしまっていた私から「憑き物」を落としてくれるいいきっかけになったと思います。今までどうもお世話になりました。

 もう二度とあんたらの作品には金をおとさねぇからな! さっさと後進の才能に押しつぶされてくれ、日本の未来のために!!

 ……でも、その後進がもうかれこれ10年以上出てきてないのが、日本のホラー映画の現状なのよね。
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