長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

「自伝的映画」を言い訳にしてはいけませんね ~映画『カミノフデ』~

2024年08月31日 23時12分32秒 | 特撮あたり
 みなさま、どうもこんばんは! そうだいでございまする~。
 いや~、ついに8月もおしまいでございます。でも、それで明日からガラッと涼しくなるでもなく、やっぱり暑い日はまだまだ続くんでしょうが、さすがに私の住む山形市は、朝夕が確実に過ごしやすくなっております。その時間帯だけ切り取れば確かに、秋がもうすぐそこまで来ているといったあんばいですね。
 今年の夏も、汗かいたね~……もうちょっとラクに働けたらな~、なんて思うのですが、まぁそれが私の働き方なんだもんなぁと、なかば諦めながらあくせく動き回っておりました。ありがたいことに大病にも熱中症にもギックリ腰にもならずに生き延びているのですが、私も若くはないのでねぇ。身体は大切にしないと。

 まぁそんなわけで、元気なうちにバタバタ働いて、そのぶん週末のお休みには好きなことをということで、本日はず~っと気になっていた、この映画がつい最近に山形県内でも公開のはこびとなりましたので、観てまいりました。


映画『カミノフデ 怪獣たちのいる島』(2024年7月26日公開 74分 ツエニー)
 映画『カミノフデ 怪獣たちのいる島』は、日本の特撮ファンタジー映画。
 日本の怪獣文化の根幹をなす特殊美術造形に多大な貢献を果たした造形家・村瀬継蔵が総監督を務める。村瀬が、その造形人生の総決算としてクラウドファンディングで資金を集め、村瀬が会長を務める造形美術会社「ツエニー」が主体となって制作した特撮映画である。
 本作の登場人物・時宮健三の遺した造形物や生前のエピソード、劇中に登場する空想の怪獣などには、村瀬の実際の特殊造形体験が数多く投影されており、10代の男女を主人公としたジュブナイル的物語に加えて、村瀬の自伝的要素も本作の見どころとなっている。

 本作制作の原点は、村瀬が1975~77年に香港の映画会社ショウ・ブラザース社に招かれて特撮映画を撮影していた時期にさかのぼる。映画『北京原人の逆襲』(1977年)の撮影中に村瀬は、プロデューサーの蔡瀾(チャイ・ラン 1941年~)から次回作の構想を依頼され、中国の昔話『ふしぎな筆(マーリャンと魔法の筆)』を元にした子ども向け冒険怪獣映画のプロットを執筆した。しかし蔡がゴールデン・ハーベスト社に移籍したために計画は立ち消えとなり、香港映画としての制作を想定した物語だったことから日本へのアレンジも難しいと判断された本作は長らく凍結したままとなっていた。
 しかし、2017年に本作のプロットに興味を示した TVディレクターが、村瀬に作家・脚本家の中沢健を紹介したことがきっかけで映像化の計画が再び動き出す。当初はクラウドファンディングの形で15~30分間ほどのパイロット的短編作品を想定していたが、物語の現代日本への置き換え、日本神話の魔獣ヤマタノオロチの登場、TVドキュメンタリー番組による制作現場の密着取材企画なども交えて作品の規模は拡大していき、最終的に独立した長編映画として2020年7月に制作発表されることとなった。

 撮影は2022年2月~翌23年5月に行われた(俳優によるドラマパートの撮影は2022年6~7月)。


あらすじ
 長年、特撮界における特殊美術の造形家として活躍し、多くの特撮作品を手がけた時宮健三がこの世を去った。
 祖父である健三との間にあまり良い思い出がなかった孫娘の朱莉は、母・優子とともに、複雑な心境で健三のファンに向けたお別れ会の会場を訪れ、そこで大の特撮ファンである同級生の卓也と出会う。さらに、健三の古い知り合いだというホヅミという男から、祖父が『神の筆』というタイトルの映画を監督しようとしていたことを聞かされる。
 ホヅミはおもむろに『神の筆』で小道具として使われる予定だったという筆を取り出し、「世界の消滅を防いでください。」と言い放つ。ホヅミの言葉とともに朱莉と卓也は強烈な光に包み込まれ、気がつくと周囲はお別れ会の会場ではなく、『神の筆』のプロットにあった孤島に変わっていた。
 その島で、伝説の魔獣ヤマタノオロチが世界の全てを破壊しようとする光景を目の当たりにした朱莉と卓也は、元の現実世界に戻るために、健三が創り上げようとしていた『神の筆』の秘密に迫る冒険の旅に出るのだった。

おもなキャスティング(年齢は映画公開時のもの)
時宮 朱莉 …… 鈴木 梨央(19歳)
城戸 卓也 …… 楢原 嵩琉(たける 18歳)
ホヅミ   …… 斎藤 工(42歳)
時宮 優子 …… 釈 由美子(46歳)
スーザン  …… 吉田 羽花(わか 17歳)
時宮 健三 …… 佐野 史郎(69歳)

おもなスタッフ(年齢は映画公開時のもの)
原作・総監督 …… 村瀬 継蔵(88歳)
脚本     …… 中沢 健(42歳)
特撮監督・プロデュース …… 佐藤 大介(43歳)
音楽     …… 小鷲 翔太(?歳)
オリジナル・コンセプトデザイン …… 高橋 章(2023年死去)
怪獣デザイン …… 西川 伸司(59歳)、松本 智明(28歳)
特殊造形   …… 村瀬 文継(56歳)、若狭 新一(64歳)、松本 朋大(49歳)
背景美術   …… 島倉 二千六(ふちむ 83歳)
エグゼクティブプロデューサー …… 村瀬 直人(59歳)
メインロケ地 …… 東京都瑞穂町・瑞穂ビューパーク、スカイホール、北海道池田町・池田ワイン城


日本特撮界の生き仏さま!! 村瀬継蔵とは
 村瀬継蔵(むらせ けいぞう 1935年~)は、特撮映画における怪獣などの着ぐるみ、造形物製作者。造形美術会社「有限会社ツエニー」会長。北海道池田町(道東地方)出身。現在は東京都瑞穂町(多摩地域)を拠点に活動している。

 23歳で上京し、1957年にアルバイトとして東宝の特殊美術に参加する。アルバイトを務めたきっかけは、東宝で特殊美術を手掛けていた八木康栄・勘寿兄弟と継蔵の兄・継雄が知り合いであり、前任のアルバイトであった鈴木儀雄が学業により参加できなくなったため、八木兄弟から相談を受けた継雄が継蔵を紹介したことからであった。
 1958年に正式入社すると、同年の『大怪獣バラン』や、1963年の『マタンゴ』などの着ぐるみ造形を助手として手がけた。東宝時代は八木兄弟に師事し、特に弟の勘寿には世話になったという。ある時、継蔵が生活の辛さから特撮の仕事を辞めようと思っていることを勘寿に告げたところ、勘寿から「この仕事は子どもたちに夢と幸せを売る商売だ」と諭され、一生の仕事として続けることを決心したという。
 1965年には、知人の劇団へ移籍するという形で当時の五社協定を乗り越え、大映初の怪獣映画となる『大怪獣ガメラ』も手がけた。この仕事をきっかけに継蔵は東宝から独立して、八木勘寿の息子である八木正夫とともにエキスプロダクションを設立し、特撮TV ドラマ『快獣ブースカ』や『キャプテンウルトラ』などを担当した後、1967年には韓国初の怪獣映画『大怪獣ヨンガリ』、1969年には台湾映画『乾坤三決斗』の造形も手がけた。

 1972年にはエキスプロから独立し造形美術会社「ツエニー」を設立。折からの変身怪獣ブームに伴い特撮TV ドラマ『仮面ライダー』、『超人バロム・1』、『ウルトラマンA』、『人造人間キカイダー』などを手がけ、1975年には香港のショウ・ブラザーズ社に招かれて映画『蛇王子』の造形を担当。1977年には『北京原人の逆襲』の造形だけでなく、火だるまとなった北京原人が高層ビルから落下するシーンのスタントも自ら演じている。その後は映画『帝都大戦』(1989年)や『ゴジラ VS キングギドラ』(1991年)などのセットや造形を手がけた。

 子の村瀬文継も村瀬直人も造形スタッフとしてツエニーで活動し、文継は後に独立して自身の造形会社「株式会社フリース」を設立して活動している。2019年、継蔵がツエニー会長に就任し、直人は代表取締役として活動している。

主な参加作品、担当造形物
1958年
映画『美女と液体人間』
映画『大怪獣バラン』バランの造形
1959年
映画『日本誕生』ヤマタノオロチの造形
1961年
映画『モスラ』モスラ幼虫とモスラ成虫、小美人パペットの造形
1962年
映画『キングコング対ゴジラ』ゴジラ、キングコング、大ダコの造形
映画『妖星ゴラス』マグマの造形
1963年
映画『マタンゴ』マタンゴの造形
1964年
映画『宇宙大怪獣ドゴラ』ドゴラの造形
映画『モスラ対ゴジラ』モスラ幼虫とモスラ成虫の造形
映画『三大怪獣 地球最大の決戦』ゴジラの尾とキングギドラの造形
1965年
映画『フランケンシュタイン対地底怪獣』フランケンシュタインとバラゴンの造形
映画『大怪獣ガメラ』ガメラの造形
1966年
映画『大魔神怒る』、『大魔神逆襲』大魔神の造形
映画『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』エビラの造形
1967年
韓国映画『大怪獣ヨンガリ』ヨンガリの造形
1971年
TVドラマ『仮面ライダー』仮面ライダー1号とサイクロン号の造形
1972年
TVドラマ『超人バロム・1』バロムワンやドルゲ魔人の造形
TVドラマ『ウルトラマンA』ベロクロン、バキシム、ギロン人の造形
1973年
TVドラマ『行け!グリーンマン』グリーンマンの造形
1975年
映画『メカゴジラの逆襲』チタノザウルスの造形
1977年
香港映画『北京原人の逆襲』北京原人の造形
1991年
映画『ゴジラ VS キングギドラ』キングギドラとメカキングギドラの造形
1992年
映画『ゴジラ VS モスラ』モスラ幼虫とモスラ成虫の造形



 東京公開がまる1ヶ月前なので、感想を言うのはだいぶ遅きに失しているのですが、それでもスクリーンで観ることができたのは幸いでした。
 それにしてもさぁ、この作品、山形県の県都たる山形市では公開されてないんですよ! 車で30分くらいかかるお隣の天童市にあるイオンシネマでの公開なの。山形市にイオンシネマねぇんだず~! イオンは2つくらいあるのに。
 でも、実はこの手間のかかる隣町への映画鑑賞行、私はけっこう好きでして、車で30分くらいかけて知らない街に行くドライブが小旅行感たっぷりでいいんですよね。しかも夜の最終回を観に行くと、あの野球場何個分なんだという、だだっ広い地方イオンモールの駐車場がほぼ無人なので、どこか日常とは空気の違う異世界のゴーストタウンをさまよっている感がハンパなく、観終わった後に外に出ると、ほんとに元の世界に帰ってこれたのか判然としない浮遊感を味わうことができるのです。さらにそこに、ミルクのように濃密な夜霧でもたちこめようものなら……おかーさーん!!

 それにしても、やっぱり新作映画が東京に比べて月遅れになるというのは歯がゆい思いですけどね。まぁそれはしょうがないよ、本だって雑誌だって発売日に本屋さんには並ばない地域なんだもんなぁ。
 あ~っ、そういえば! 私、本作の公開よりも、先週の23日に公開となる映画『箱男』のほうを楽しみにしてたんですよ! 白本彩奈さ~ん!!
 それがあんた、蓋を開けてみれば山形での公開は来月の9月20日なんですって! こちらはさすがに山形市で観られるんですが、やっぱ1ヶ月遅れなのよぉ~。そんなん、同じ白本さん出演のドラマ『黒蜥蜴』の放送とか、辻村深月先生原作の映画『傲慢と善良』の公開とほぼいっしょのタイミングじゃねぇかよう!
 まぁ、待ちますけどね……別にネタバレ情報バレがどうこういうジャンルの作品でもないと思うのでかまわないのですが、忸怩たるものはあるということで。

 情報バレではないのですが、今回取り上げるこの『カミノフデ』も、東京公開からすでに1ヶ月が経っているということで、ネット上でちょっと調べると、映画を観たお客さんのレビューのような文章がたくさん出てきます。

 え~、なになに、レビュー星5つ中、「星3つ」……3つ!? 100点満点中60点ってこと!?
 あ、あの、日本特撮界のレジェンドである村瀬継蔵さんが満を持してメガホンを執った作品が60点とは……

 具体的にレビューを見てみますと、そこには「俳優の演技がひどい」、「テンポが悪くて寝そうになった」、「予算なさすぎ」、「ストーリーが弱い」という言葉が目立ちます。ただ、全レビューが「特撮造形はすばらしい」という部分だけは声を合わせているのが、さすが村瀬さんです。
 ちょっと、映画館に観に行く前にこういう情報に触れてしまうと若干、足が重くなってしまうのですが、なんてったって日本全国あまねく特撮ファンの誰一人として足を向けて寝ることができないと申しても過言ではない村瀬さんの監督作品なのですから、「やっぱ観るのや~めた!」などという選択肢など存在しえません。これはもう、観る気とかおサイフ事情とかいうものでは揺らぎようのない、信仰心の問題なのです!
 なんてったって私は、出演者の演技力なんかお子様ランチのパセリ程にも期待していない、あの「ガールズ×戦士シリーズ」の劇場版にも堂々とおっさん一人で鑑賞におもむき、親子連れの女児のみなさまの怪訝そうな視線の包囲斉射にも耐え抜いた経験がある! あの過酷さに比べれば、こんな「評判が芳しくない」だけの映画など、北海道・富良野ラベンダー畑を吹きわたるそよ風の如し!! そういえば、「ガールズ×戦士シリーズ」の劇場版もイオンシネマグループでしたね……

 そんなわけで、異様なテンションを胸中にたぎらせ乗り込んだ『カミノフデ』鑑賞だったのですが、その感想や、いかに!?


良い映画には「野望」が必要だ! そしてこの作品には、「野望」がまるでない!!


 こういうことになりますでしょうか。わかりにくい? でも多分、こういうことのような気がするんです。

 映画は総合芸術、という言葉は使い古されたものですが、それはもちろん、監督だけでなく企画プロデュース、脚本、俳優、カメラマン、照明、舞台美術、編集、衣装、宣伝、配給会社……さまざまな才能が集まり、お互いに協力し合い時には衝突しながら創り上げた精華が、ひとつの映画になるからだと思います。一人の才能ではできないという点では、他の舞台演劇やアニメ、マンガ、小説、テレビ番組、音楽、絵画……およそ世にある娯楽というものならば何でもそうだと思うのですが、やはり映画が、それに関わる業種、人間の多さで言ったら一番なのではないでしょうか。

 そして、それだけ多くの人間が集まる以上、たとえば監督がいくら剛腕で天才的才能を持っていようが、たった一人のワンマン運転で完成させることは不可能でしょう。つまりそこには、「この一大プロジェクトに便乗して己の才能を世に問おう」とか、なんだったら「監督や他の俳優を喰っちゃう勢いで名を売ってやろう!」とまで張り詰めたテンションを胸に秘めた野心家たちが集まって当然のような気がするのです。そりゃそうです、全員その道のプロなんだから。
 だからこそ、次代を超えて残るクラスの名作映画には、必ずと言っていいほど「プロデューサー VS 監督」とか「原作者 VS 監督」とか「監督 VS 俳優」とか「主人公役 VS 脇役」といった対立項で、かなりガチンコな衝突が展開される逸話が残っているものなのですが、そういったスパークが生み出す化学反応こそが、単に台本を三次元化したものにとどまらない映画ならではの輝きを放つのではないかと思うのです。
 プロとプロとの真剣勝負が、真の傑作を生みだす……言うのは簡単なのですが、私だって実生活の中では誰ともケンカなんかしたくもないし、できればチーム全員がニコニコ、和気あいあいと仕事をする現場にいたいものです。でも、全員仲良くなあなあではとうてい超えられない境地があることも、厳然たる芸術の真理だと思うのよね……それは、監督がガミガミ怒って俳優を追い詰めればいいとかいう低レベルな話ではありません。互いに丸裸になって魂に火をつけ合うような、ハイレベルな命のやりとりですよね。

 そこで私が言いたいのが、この『カミノフデ』で、それこそ神の領域に達している村瀬さんの特殊造形技術に、真正面きって戦いを挑む気概を持った他セクションの才能が、たったひとつでもあったのか?ということなのです。それはもう、「総監督・村瀬継蔵」も含めて。
 少なくとも、本作を1回だけしか観ていない私には……残念ながら、そんな才能や仕事はどこにも見えなかったですね。

 つまりこの作品を、単に村瀬継蔵という稀代の芸術家の卒寿を記念したメモリアル映像とみるのならば、まるで文句などつけようのない立派な出来になっているかと思います。本作の目玉怪獣となっているヤマタノオロチの市街地破壊シーンは、最近あまり見られなくなった実物の操演怪獣と本物の火薬を使った爆破炎上演出を全面に押し出していて、本当にスクリーンのサイズに充分に耐えうる大迫力だったと思います。ヤマタノオロチだけでなく、村瀬さんがそのキャリアの中で携わってきた大魔神、巨大北京原人、モスラ、マタンゴといった往年の大スターたちを彷彿とさせる怪獣たちの活躍もオマージュたっぷりでいい味付けになっていたと思います。冒頭でちらっと出てきた大怪獣バランの背中の表皮なんか、まんま本物でしたよね? 私も持ってる『大怪獣バラン』の DVDの特典映像でも、村瀬さん嬉々として造形の裏話を語ってらしたもんねぇ。

 でも、これは映画ですよね。順次公開という形であるにしても、単独プログラムとして全国公開されている特撮映画なのです。
 そういう形式で、千ウン百円払って観てしまうと……特撮以外の全てにおいて、ビックリするくらいに前に出てこずに、お互いに中腰になって「村瀬さん、どうぞ、どうぞ……」と気持ちの悪い譲り合戦をしている、作り笑いを浮かべたオトナの顔しか見えてこないのです、この作品。

 そして、そうやって譲られた村瀬さんが本作の総監督という立場にいるのですが、この映画、「監督」を務めてる人がほんとにいたのか?と疑ってしまうくらいに、カメラワークもセリフをしゃべってる俳優のバストショットの切り返しばっかりだし、セリフとセリフの間にある1秒くらいのしろうと感まるだしな沈黙もそのまんま OKにしてるしで、俳優の演技に演出家としての注文を付けている形跡がまるで見当たらない、ノーカット粗削りなドラマパートが延々と続くのです。この作品はもともと「上映時間74分」という、21世紀では珍しく良心的な、観客の膀胱にやさしい時間設定の映画なのですが、いやホント、ちゃんとした監督が編集したらこんなん45分くらいまでには縮められるんじゃないですか!? セリフをひとつもカットしなくても!! そのくらいに異様な「無の時間」が、そこかしこでほったらかしになっている作品なのです。

 先ほど挙げたネット上の鑑賞レビューの中では「俳優の演技がひどい」という声が多いのですが、私としては、ひどいのは俳優さんではなくて、やはりその演技に的確な修正指示、もしくは演技をもっとましに見せる映像編集をまるで施さなかったスタッフ不在の状況だと思います。10代の若者の演技がぎこちないのは当たり前のことで、大切なのは、彼らをあえてメインキャストに起用した周りの大人たちが、彼らの未来のためにどれだけ一肌も二肌も脱げるかってところなのです。ていうか、私からすれば、10代の若者たちを今回の「演技力ひどい」の戦犯に仕立て上げるのもいかがなものかと思いますよ。むしろもっとひどいのは、さらに年上で経験も豊富なはずの何人かの出演者のほう!
 あの~、今回、私がひどいと思った出演者の名前は、上のキャスト表からは意図的に消しております。個人ブログならではの裁量でそうさせていただきましたので、したがって、上にお名前のある俳優の皆様には、当『長岡京エイリアン』はなんの悪感情も抱いておりません。でも、名前の無い人には……あっ、笠井アナはいいですよ。

 いや~、特に、「お前」! お前だけは、ほんっとに……またしょうこりもなく俳優みたいな顔して出てきやがって……ほんと、性格的に断れないタチのいい人なのかどうか知らんが、こういう仕事は心を鬼にして断ってくれよ~!! あんたが出てくると、特撮界の内輪うけネタみたいな空気が一瞬で蔓延して、作品全体の品位がガタ落ちになっちゃうんだよ!! でも、覚悟してたよりも出番は少なかったので、内心ほっとしました。

 ところで今回、かなり重要な役としてがっつり主演している斎藤工さんが、エンドロール上ででかでかと「友情出演」とクレジットされているのですが、これも私、どうかと思うんです。
 いや、友情出演って、もっと軽いチョイ役じゃないんですか……たとえ本作と同じ「村瀬継蔵の代理」的な立ち位置だったのだとしても、せめて出番はあんなに多くしなくてもよかったはずですよ、友情出演なんだったら。
 それが、あんなに重要なセリフもバンバン工さんに任せきりにしちゃって……もう、主演2人の次に出ずっぱりだったじゃんか!
 下世話な話ですが、友情出演って、出演料に適正な相場とは違う何らかの変更があるんでしょ? いやダメ! あんなに頑張ってる俳優さんには正規のギャラを払わないと絶対ダメでしょ!! 工さんのお人柄にあぐらかいちゃいけませんよ。「斎藤工さんの出演料(急募)」っていうクラウドファンディングしてでも、一人のプロとして正式にオファーしなきゃあ、村瀬継蔵の名が泣くってもんよぉ。


 役者についていろいろ言ってしまいましたが、結局、この作品の何がいけなかったのかってつらつら考えてみまするに、やっぱこれ、上の情報にある通り、もともと「15~30分間ほどの短編」として構想されていたお話を長編映画にしちゃおうという、イナバの物置を10階建てのコンクリートマンションにしちゃうくらいの違法増改築な経緯に無理があったのではないでしょうか。いや、そんなんムリムリ!! そんな素体おもい切って捨てなきゃ、絶対に早晩、無理した接合部からヒビが入って全部が崩れちゃうって。

 だいたい、あのヤマタノオロチのご登場自体がもとの構想に無かったっていう段階からしてとんでもない話なんですが、そういえば確かに、本作は序盤の『神の筆』の再現世界で繰り広げられる小規模なファンタジー冒険はそれなりに構造がしっかりしているのですが、ヤマタノオロチが出てきて、死んだはずの時宮健三のイマジネーション世界を喰い荒らす役割を担うあたりから、物語は渾沌としてくるのです。

 ん? 時宮が命を与えたヤマタノオロチが暴走して時宮の世界自体を壊しちゃうってこと? 時宮の世界が壊れるっていうのは、現実世界の人々が時宮健三の偉業を忘れ去るってこと? 中盤以降は朱莉と卓也のイマジネーション世界にヤマタノオロチが出てきて大暴れしたけど、これって、現実世界の朱莉と卓也にはなんの影響があるの?

 結局、ヤマタノオロチや怪魔神も含めたいっさいの登場怪獣たちは、現実世界の朱莉と卓也に「おじいちゃんはスゴかったんだぞ」ということを伝えるためだけに用意された「劇団時宮健三」みたいな幻影でしかなかったんだろうか……それはそれで、特撮を愛する村瀬さんらしいほっこりした物語ではあるのですが、だとしたらあのヤマタノオロチの大熱演も、結局最後は怪魔神にやっつけられちゃう台本通りのアトラクショーでした~みたいな話になっちゃうし、やっぱりそこはかとなく『世にも奇妙な物語』の1エピソードみたいなこぢんまりした印象になっちゃうんですよね。う~ん、みみっちぃ!

 そうそう、そういや今作のヤマタノオロチって、「8本中現役の首は5本」なんですよ。ええ~、ゴマタノオロチ!? それって、体力フルチャージ状態の「約62~3%」のコンディションで出演してますってこと!? せっかくの、『ヤマトタケル』(1994年)以来ちょうど30年ぶりの復活だっていうのによぉ~!! ちなみに、『ヤマトタケル』版ヤマタノオロチの造形を担当したのは村瀬さんではなく、小林知己さんと東宝映像美術です。
 もうアニメ版『風の谷のナウシカ』の巨神兵みたいなもんじゃねぇか! そっか、だからガソリン呑まなきゃ火ィ吐けなかったのか……こんなんだったら、こっちも「ヤマタノオロチの首3本ぶん(超急募!!)」でクラファンすればよかったのに!!


 いろいろ言いましたが、やっぱりこの作品は、本来映画になるべきでなかったものをムリヤリ映画にしてしまったという事態が、当然の結果をもたらしてしまった、としか言えないのではないでしょうか。
 やっぱりね、「俺がこの映画をなんとかする!」とか「あたしがこの映画で一番目立ってやる!!」という野望がしのぎを削る現場でないと、いい映画なんてとうていできないと思うんですよ。もはや現代日本は、「村瀬さんのお祝いをみんなでしよ~♪」みたいなお花畑パーティを、チケット料金徴収してやれる世界ではないんですよね、哀しいけど。

 あと、最後にこれも行ってはおきたいのですが、本作を「時宮健三の遺した世界」という部分だけに照準を当てた作品にした判断は、それはそれとしていいとは思うのですが、だったら主人公になっている10代の2人の立場はどうなっちゃうんだという大問題があると思います。
 要するに、あの2人の現実世界での鬱屈というか、特に朱莉のほうがド冒頭の下校シーンであんなにつらそうな苦悶の表情を浮かべていた理由とかが一切語られないのが、非常にもったいないと思うんですね。朱莉がかなり毛嫌いしているらしい卓也の学校での特撮オタクっぷりとか、それゆえに周囲から浮きまくっている卓也なりの苦悩とか、ドラマにしたら何十分にでもふくらませられるおいしい要素はゴロゴロ転がっているはずなのに、そこにいっさい行かない脚本に疑問を持ってしまうのです。いや、長編映画にしたいんだったら、普通そこ拾うでしょ!?

 そこはまぁ、特撮映画として余計な人間パートはいらないという考えもあったのかも知れませんけどね。最近はハリウッド版『ゴジラ』シリーズみたいに、人間側のあれこれが刺身のツマくらいの重要度になってる作品も珍しくはないし。
 でも……鈴木梨央さんにあれだけ真剣に学校でうまくいってなさそうな演技させといて、そこの伏線をまるで回収しない結末はどうかと思うし、本作の「自伝的要素」を重視してそれ以外の要素を切り捨てたというお題目よりは、「脚本としてうまくまとめられそうにないから逃げた」という意図しか感じられないんだよなぁ。
 だから、最後に朱莉と卓也が「大人になったら……」と将来の夢を伝え合うやり取りも、脚本の持っていきようによっては本当に最高なシーンになるはずなのに、そこまでの経緯がいっさい語られないから、なんだか唐突にいいこと言わせましたみたいな、とってつけた感しかしないんですよね! もったいないにも程があるよ!! 10代のみそらで主人公の大看板を背負った鈴木さんにおあやまり!!

 よくよく見てみると、脚本を担当した方も作家ではあるものの、決して長編映画のスケールを得意とする脚本家のようには見受けられないし……ここでもやっぱり、「特撮界隈ですぐに連絡がついて仕事を断らなそうな人にお願いしました。」なかほりが漂ってくるんですよね。う~ん……そこに手間を惜しんじゃダメなんじゃない!?


 とにもかくにも、いろいろと村瀬継蔵さんという偉大なる才能の、「ちょっぴり正直すぎるまでにピュアな心」を、素材そのまんま無加熱無加工でドスンッと提供したような『カミノフデ』なのでありました! もうちょっと、商品にすることを念頭において見栄を張ってもいいのでは……と思っちゃうんですが、そこがわたくしめのような俗人の欲目なんでしょうかねぇ。

 せめて、ヤマタノオロチの首がちゃんと8本そろうまで待ってもよかったのでは……どうせ村瀬さん、まだまだお元気でしょ!?

 やっぱり、ワイン飲んでるようなのはダメだな!! 日本の魔獣はポン酒でいかにゃあ!!
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超ニッチ企画!! 『刑事コロンボ』幻の未映像化事件簿をよむ ~資料編~

2024年08月25日 20時32分24秒 | ミステリーまわり
突然失礼しま~っす!! 海外 TVドラマシリーズ『刑事コロンボ』とは!
 ※参考文献『別冊宝島 刑事コロンボ完全捜査記録』(監修・町田暁雄 2006年 宝島社)

 『刑事コロンボ』(けいじコロンボ 原題: Columbo)は、アメリカ合衆国で制作・放映されていたサスペンス TVドラマシリーズである。全69話。
 日本においては、アメリカ本国の NBCで1968~78年に放送された45作は『刑事コロンボ』、ABC で1989~2003年に放送された24作は『新・刑事コロンボ』の邦題で放映された。制作はユニヴァーサル映画。原作・原案は推理小説家で脚本家のリチャード=レヴィンソン(1934~87年)とウィリアム=リンク(1933~2020年)。
 犯罪者を主人公とする倒叙ものミステリーの形式を一貫しており、特に日本においては TVドラマ『古畑任三郎』シリーズ(作・三谷幸喜 1994~2006年放送 全40話)と並んで倒叙ものミステリードラマの代表作と称されることが多い。

 『刑事コロンボ』の原形は、アメリカのミステリー小説誌『アルフレッド・ヒッチコック・ミステリー・マガジン』1960年3月号に掲載されたレヴィンソンとリンクによる犯罪小説『愛しい死体』(原題:May I come in?、掲載時は Dear Corpus Delicti)である。この作品にコロンボ警部は登場しないが、登場するニューヨーク市警のフィッシャー警部に後のコロンボ警部を予感することができ、本作は『刑事コロンボ』の第1話『殺人処方箋』に発展していく。

 レヴィンソンとリンクは、犯罪小説だった『愛しい死体』を倒叙ものミステリーにすると共に犯人と探偵との対決物語へと改作し、ミステリー TVドラマシリーズ『シボレー・ミステリー・ショー』内で1960年7月31日に放送されたエピソード『 Enough Rope』とした。
 この作品に探偵を登場させるにあたり、レヴィンソンとリンクはフョードル=ドストエフスキーの長編小説『罪と罰』(1866年)に出てくる、見た目は冴えないが推理や心理テクニックを駆使して主人公の殺人者ラスコーリニコフを追い詰めていく有能なポルフィーリ=ペトローヴィチ予審判事を参考に、コロンボ警部というキャラクターを創造した。『 Enough Rope』でコロンボ警部を演じたのはバート=フリード(当時40歳)だったが、フリードにとっては数多く演じた刑事役の中の一つに過ぎなかった。

 しかし、演劇ファンであり劇作家になることも夢見ていたレヴィンソンとリンクは『 Enough Rope』をボリュームアップさせ再構築し、戯曲『殺人処方箋』(原題Prescription : Murder)を書きあげた。この舞台公演はコロンボ警部役をトーマス=ミッチェル(当時70歳)、犯人の精神科医役をジョゼフ・コットン(当時57歳)といった豪華キャストで、サンフランシスコを皮切りに25週にわたってアメリカ・カナダ2ヶ国ツアーが行われ大成功となった。この舞台での主役は犯人役のコットンであったが、それを上回る喝采をミッチェルが受け、観客にとってコロンボ警部が真の主役であることの証左となった。後にコロンボ警部のトレードマークの1つとなるレインコートはまだ使用されておらず、初代フリードは薄手のトップコートを、2代目ミッチェルは厚手のオーバーコートを着ていた。また、舞台版は後の TVシリーズとは異なりニューヨークを舞台としている。ただし、「あと1つだけ」、「うちのカミさんがね」、「あたしたちはプロ、犯人は所詮素人」といった、TVシリーズでのコロンボ警部の名セリフとなるような言葉はすでに舞台版の脚本に記されており、犯人とコロンボ警部の緊迫したやり取りもあるなど、コロンボ警部の造形は舞台版で明確になったと言える。
 しかしながら、2代目コロンボ警部を好演したミッチェルは体調不良のために舞台を途中降板し、その直後の1962年12月に世を去ってしまう。レヴィンソンとリンクはミッチェルに代わる俳優を探し、映画『ポケット一杯の幸福』(1961年)でミッチェルと共演したことのある「目つきのよくない怪優」ピーター=フォーク(当時40歳)を3代目のコロンボ警部役に起用し、舞台版の脚本をさらにひねり、1968年2月に再び TV版単発ドラマをシリーズ化に向けたパイロット作『殺人処方箋』として製作した。これがフォークにとって初めての本格的な刑事ドラマ主演となった。

 本シリーズは独特のテンポで進むストーリーで、知的で社会的地位も高い犯人が完全犯罪を目論むも、一見愚鈍で無能そうなコロンボ警部にアリバイを突き崩され、自ら破滅の道を転落する必罰的展開ながらも、コロンボ警部と犯人との駆引き、静かにしかし確実に追い詰められて行く犯人の内面の葛藤・焦りといった感情描写や、コロンボ警部のユーモラスなセリフ回しなど、そのいずれもが味わいのある1話完結形式のミステリードラマとなっている。
 また本シリーズは、冒頭で完全犯罪を企む犯人の周到な犯行を視聴者に見せた後、隙のなさそうに見える犯人が見落としたほんのわずかな手がかりを元にして、コロンボ警部が犯行を突き止めていく倒叙ものミステリーとなっている。これはもともと原形となった『愛しい死体』が犯人が主役とした犯罪小説であったものを舞台化するにあたって、主人公の犯人と追い詰める探偵との対立構図に再編したためである。
 原作者のレヴィンソンとリンクは自著にて、本シリーズが倒叙ものミステリー小説の創始者であるイギリスの推理小説作家オースティン=フリーマン(著書に「ソーンダイク博士」シリーズなど)の影響を受けていることを認めると共に、倒叙もの形式が TVドラマと相性が良いことを『殺人処方箋』の制作を経て直観したと語っている。


コロンボ警部について
 コロンボは、アメリカ合衆国カリフォルニア州のロサンゼルス市警察殺人課に所属する警察官であり、階級は「 Lieutenant(ルテナント)」である。ただし、殺人事件が発覚していない時点(行方不明など)で捜査に加わることもある。
 「lieutenant」を日本語に訳す場合、一般的には「警部補」とすることが多いが、実際のアメリカの警察制度では、lieutenantの一階級上の「 captain(警部)」が分署長や本部の課長などを務めることが多い。そのため lieutenant はそれに次ぐ階級として、署長(もしくは実動部隊の長)の「副官、代行」であるとともに、場合によっては署長職を務めることもあり、日本の警察での「警視」に相当する役割をも担っている。また、lieutenantの下の階級の「 sergeant(巡査部長)」でも警察署の係や課、警察署全体の当直シフトなどを監督・指揮できる階級となっている。コロンボは一定の権限を与えられた捜査責任者(警察を代表して犯人と対決することができる)という立場だが、単身で現れることが多く部下を指揮するような描写も少ない。

 シリーズを通して劇中でコロンボのファーストネームが語られたことは一度もなく、コロンボも名前を尋ねられた際、「私を名前で呼ぶのはカミさんだけです。」と答えている。しかし第5話と第35話でコロンボの警察バッジケースがクローズアップされる場面があり、それには「 Frank Columbo」と記されている。

 安っぽくよれよれのワイシャツとネクタイに、裏地がなく防寒着としては役立たないレインコート、安い葉巻、櫛の通っていないボサボサの髪の毛と斜視による藪睨み、猫背が特徴でまったく冴えない風貌の人物である。しかしその風貌こそが、コロンボの優れた知性を隠して犯人の油断を誘う重要な武器となっている。
 口癖は「 Just one more thing(あと1つだけ)」や、「My wife(うちのカミさんがね)」。頻繁に妻や親戚の話を口にする。イタリア系でイタリア語が話せる(第34、42、59話)が、話せないという設定の回もある(第65話)。
 射撃技術は不得手で拳銃は携帯しない。半年ごとに行う射撃訓練に10年も行っておらず警察本部から警告されたことがある。銃の発砲音が苦手らしく、やむを得ず発砲する必要がある時は耳を塞いで撃つ(第30話『ビデオテープの証言』)。またホールドアップの必要がある場面でも、実際には撃たずに突き付けるだけで済ませていた(第64話『死を呼ぶジグソー』)。
 刑事になる前は軍隊におり朝鮮戦争(1950~53年)に従軍した経験があるが、前線には出ず炊事当番をしていたと話している。

 怖がりで解剖や手術、残酷な殺人現場の写真を見ることを好まない(第13、15話)が、嘔吐したり気を失うなどといったことは全くなく、被害者の生死が係っている状況では怖がる様子は見せない。首が切断された死体がある現場でも、死体を見ないようにしながら現場検証をこなしている(第46話『汚れた超能力』)。
 運動は苦手で泳げない。高い所が苦手らしく、ケーブルカーに乗った際には一言も言葉を発しなかったり(第8話『死の方程式』)、捜査のため致し方なく航空機に搭乗した後は落ち着いて降りるまでに相当な時間を要していた(第2話『死者の身代金』)。乗船時に船酔いをしていたことがある(第5話『ホリスター将軍のコレクション』)。しかしゴルフではプロ級のスウィングでホールインワンを決め(第4話『指輪の爪あと』)、ダーツでは3投目に中央のブルに命中させている(第45話『策謀の結末』)。ビー玉などを狙って当てるのが幼い頃から得意である(第13話『ロンドンの傘』)。
 葉巻をふかす時、ライターやマッチは大抵誰かに借りている。葉巻はシガーカッターで切ったものより噛みちぎったものの方が好みである。
 好きな料理はチリコンカンとコーヒー。コーヒーは熱いのが好みで、ぬるくなると文句を言う。
 「料理はまったくだめ」と言いながらも料理を手際よく調理することができ(第3話『構想の死角』)、仔牛料理を料理研究家に振舞った際にはその腕前と才能を高く評価されている(第42話『美食の報酬』)。料理に関する知識も豊富で、自宅ではもっぱら妻に代わって台所で料理を担当しているらしい。
 趣味はリメリック(五行戯詩)、西部劇、クラシック音楽(イタリアオペラ、シュトラウス2世のワルツなど)、ゴルフ、ボウリング、フットボールの TV観戦。絵画にも精通しているようで(演じたフォークも絵画に精通している)、飾ってある絵画の価値を一目見ただけで把握したこともある。またビリヤードが得意である。

 逮捕した犯人にワインをふるまったり(第19話『別れのワイン』)、音楽をかけて慰めの言葉をかけたりする(第24話『白鳥の歌』)など、犯人に対して温かい心遣いを見せることもある。しかし卑劣な犯人に対しては、普段の控えめな態度を急変させて怒りを露わにすることもある(第15、26話など)。ちなみに日本語吹き替え版ではコロンボが犯人に対して怒鳴るシーンもあるが、原語版でのフォークは低音かつ抑え目のトーンで話していることが多い。

 犯行現場に寝ぼけたり、食事を抜かした状態でやって来ては現場にあった被害者の食べかけを勝手に食べたり(第21話『意識の下の映像』)、周囲の人間にコーヒーやオレンジジュース、ちょっとした食べ物を要求することも多い。また、犯行現場を荒らしてしまう癖があり、目覚ましに勝手に現場の水道を使って顔を洗ったり、凶器の鉄棒やパトカーでゆで卵の殻を割ったり、葉巻の灰をじゅうたんの上に落としてしまうなど軽率な行動も多いが、それが結果的に犯罪を暴くきっかけになる場合も多い。
 酒と高級なつまみが好きで、あちこちでご馳走になったり、現場や容疑者宅に置いてあるものを無断で失敬するが、自分ではめったに買わない。また、あまり金を持ち歩かないので、飲食店などでお金が足らなかった時には小切手で支払いをしたり、警察宛ての請求書を切ってもらうことがしばしばある。

 事件が起こっても急いで現場に駆けつけることは少なく、たいていは実況見分があらかた終わってから顔を出す。しかも、自身が注目する以外の物事には大して興味を示さず、現場保存にも執着せず、火の点いた葉巻をくわえながら自分なりの検分を行う。
 署内でのコロンボは相当な信頼と名声があるのか、同じ課に勤務する新人刑事から尊敬されているほか、事故として処理されかけている事件を上司に掛け合って殺人事件に切り替えて再捜査したり、警察とつながりのある社会的地位が高い人物の恫喝にも飄々と対応している。
 捜査方法は、整合性のない事柄に関して容疑者や関係者に事細かにしらみ潰しに当たり、時間や場所に関係なく職務質問するという極めて古典的なもので、その場でアリバイが立証されて一応納得するようなことがあっても、事実が判明するまでは幾度も同じ捜査を繰り返す。また聞き込みでは、相手の地位に関係なくへりくだった態度で妻の話などの雑談を振っておいてから、「形式的な捜査なので……」や「報告書に書くためだけです。」などと職務質問に入るパターンが恒例となっている。
 状況証拠と証言だけでの真相解明を目指さず、守秘義務に関係なく捜査状況を容疑者本人に逐一報告することで感情の機微や証言の小さな差異をあぶり出し、それらを手がかりに矛盾点を突きつけ焦らせて心理的誤誘導するなどし、最終的には理詰めで追い込んで犯行を認めさせるという捜査方法を多々用いる。知能指数が高く、世界で2% の高IQ な人物しか加入できない「シグマ協会」(モデルはメンサ)のメンバーである犯人は、コロンボの知能指数をテストした際に「あなたは警察に置いておくには惜しい。」と賛辞している(第40話『殺しの序曲』)。その一方で、犯罪捜査においては運が必要だと話している(第56話『殺人講義』)。
 お金が好きだといい、少ない情報で税や収入などの複雑な計算が瞬時にできる(第10話『黒のエチュード』)。
 非常に粘り強い捜査が持ち味となっており、最長の捜査期間は9年4か月だったと語っている(第62話『恋におちたコロンボ』)。
 本人によれば、新シリーズの時点で22年警察官を勤めている(第54話『華麗なる罠』)と言うが、これは第1話『殺人処方箋』の初回放送日が該当話の22年前(1968年2月)であることにちなんだネタであると思われる。

 コロンボが着ているよれよれの背広服とレインコートのスタイルはフォークが作り上げたものであり、どちらも彼の私物である。乾燥して降雨が少ないロサンゼルスではレインコートはほとんど普及していないが、フォークは「コロンボに強烈な個性と独特なキャラクターをもたせたかった。そこで、カリフォルニアでレインコートを着せることにした。」と語っている。

 コロンボは通常、相棒を持たず単独で捜査にあたる。しかし本物の刑事はパートナーと組んで捜査することもあり、エピソードによっては協力して捜査にあたる相棒が登場する。第11話『悪の温室』では、警察大学(入学前に殺人課に1年在籍する)を出たてのフレデリック=ウィルソン刑事(演・ボブ=ディシー)が登場した。フレディ刑事は警察大学で科学捜査を学び新しい捜査技術に明るく、丹念に事件の裏付けをたどって真相に行き着くコロンボとは対照的であり、「あの人とは捜査の仕方が違う。」と批判的な態度をとることもあったが、第36話『魔術師の幻想』に再登場した時には「また警部とご一緒できて光栄です。」と慕っている。
 また、同じ殺人課に配属されてコロンボの担当する事件のサポートをしていると思われる刑事として、第28話『祝砲の挽歌』のほか第31、34、37、52、65話に登場するジョージ=クレイマー刑事(演・ブルース=カービィ)がいる(ただし第65話ではブリンドル刑事という役名)。クレイマー刑事は常識的な捜査を行うが、コロンボの突飛な推理と単独捜査に面食らう描写が多い。なお、演じたカービィは『秒読みの殺人』で別の役(テレビの修理屋)としても登場している。

 コロンボは捜査中によく「my wife」もしくは「Mrs. Columbo」(日本語版では「カミさん」)の存在を引き合いに出す。しかし画面に登場したことは一度も無い。第53話『かみさんよ、安らかに』でコロンボと共に女性の写真が並んでいるシーンがあるが、コロンボによると写真の人物はカミさん本人ではなく、カミさんによく似た姉妹だった。
 コロンボの子に関しては、妻と同じくセリフ中でのみ登場する。第19話『別れのワイン』や第23話『愛情の計算』で子どもが複数いることがわかるが、第53話『かみさんよ、安らかに』では「私たちには子どもはいないけどね(犬がいるので幸せだよ)。」と話している。

 コロンボは、甥や姪などの親族の話もよく引き合いに出す。シリーズを通して、コロンボが相手に揺さぶりをかけるために事件の核心に迫る際に話すだけで実際には登場しないことがほとんどであるが、コロンボの姉メアリーの息子で両親はすでに亡くなっているという甥のアンディ刑事(第60話『初夜に消えた花嫁』)だけが作中に登場している。
 具体的には妻の弟ジョージ(第14話『偶像のレクイエム』)、コロンボと甥と何人かの親族が写る数枚の写真(第25話『権力の墓穴』)、サンディエゴの水族館に勤める甥(第69話『殺意のナイトクラブ』)などの言及がある。

 コロンボはバセットハウンドの犬を飼っているが、これは実際に当時のフォークのペットであった。犬種はバセットハウンド。名前は、コロンボがあれこれ考えたものの良い名前が思い浮かばず「 dog」(日本語吹き替え版では「ワン公」)となり、最後まで名前が決まることはなかった。第10、16、23、30、32、36、41、43、44話に登場。
 なお、最初に出演していた犬はシリーズの途中で亡くなったため、以降は代々、初代に似た犬を起用している。

 コロンボの私有車として、くたびれたフランス製小型乗用車の1959年式プジョー403カブリオレ(オープンカータイプ)がしばしば登場し、彼のライフスタイルを物語る小道具となっている。ピーター=フォークの自伝によれば、シリーズの撮影中に自らがコロンボの自家用車のチョイスを任されたが、自宅ガレージの隅にあった色褪せているうえにパンクしていたプジョー403を直感的に選んだという。
 この車種は TVシリーズの初放映時点ですでに10年以上経過した旧式モデルであった。塗装もところどころまだらになっており、プジョーは作中でしばしば不調を起こし、あまりに散々な見てくれに周囲からはスクラップ扱いされる体たらくであったが、コロンボはさして意に介する様子もなく、自らの足として愛用し続けた。
 1989年に新シリーズが再開された時点では、旧シリーズで使用していたプジョー403はすでに売却されていたが、改めてプジョー403を3台購入して撮影に使用した。そのため旧シリーズの車体の色が灰色だったのに対し、新シリーズは白に近い薄い灰色になり、最終エピソードとなった第69話のみ水色になっている。
 シガレットライターに繋ぐ形式のパトランプを積んでいるが、シガレットライターが壊れているため作中では一度も使用されたことがない。ほとんどの場合ソフトトップをつけたまま乗車しているが、第7話『もう一つの鍵』などの数話で屋根を開けた姿を見せている。
 第43話『秒読みの殺人』の冒頭で衝突事故を起こしてしまい車両後部が大きく破損している。これは旧シリーズの最終第45話『策謀の結末』でも直っておらず、ボディ後部に歪みが残っていた。

 日本で一般に『刑事コロンボのテーマ』として知られている曲は、『刑事コロンボ』を含む4作の TVドラマシリーズをローテーション放送していた『 NBCミステリー・ムービー』のテーマ曲である(原題:Mystery Movie Theme 作曲・ヘンリー=マンシーニ)。しかし NHKでの放送時にこの曲がオープニングとエンディングで流されたため、『刑事コロンボのテーマ』として定着した。
 もうひとつの「コロンボのテーマ」と呼ばれる曲は、アメリカの古い歌『 This Old Man』で、劇中でコロンボが頻繁に口笛を吹いたり口ずさんだりしており、『死者のメッセージ』などでピアノを弾く場面もあった。

 日本語吹き替え版でのコロンボ警部の声は、旧シリーズでは小池朝雄(吹き替え当時41~47歳)が担当した。しかし小池が1985年に死去したため、新シリーズには石田太郎(吹き替え当時49~67歳)が起用された。第67話以降の最終3話は WOWOWで日本初放映されたため、地上波で石田が吹き替えたものの他に銀河万丈(吹き替え当時50~55歳)が吹き替えた WOWWOW版が存在する。例外的に最終第69話は WOWOWの銀河版しか存在しなかったが、2011年6月23日に死去したコロンボ役のピーター=フォーク追悼の意を込め、ジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメントジャパンから2011年12月2日に HDリマスター版全69話を収録したBlu-ray BOX『刑事コロンボ コンプリート・ブルーレイBOX』が発売された際に、石田による吹き替え版が新録されている。

 小池朝雄は、当時舞台俳優として実力を広く認められていたものの、映画、テレビに出演した際の役柄は悪役が大部分(それも類型的な悪役よりは異常性や残虐さを強調した役)であり、かなり思い切った起用であった。しかし結果として小池の独得のセリフ回しは大きな人気を集め、一躍その名がお茶の間に知られることとなった。
 小池の没後に放送された新シリーズでは石田太郎が2代目に抜擢されたが、日本テレビが番組を買い付けてから石田に決まるまでに2年近くの時間を要し、放送決定後に10名の候補者を絞り込んだ上で石田に決まったという。当時、日本語吹き替え版の制作スタッフだった吉田啓介によると、石田の登板は早くから持ち上がっており(小池の持ち役だったジーン=ハックマンの吹き替えを石田が引き継いでいた)、結局は視聴者に馴染みのある小池のイメージに寄せる方針で石田に落ち着いた。小池に雰囲気が似ているという制作側の希望条件に沿ってコロンボ役を継いだ石田は、イメージを壊さないようにとの要請に苦労したという。
 日本語吹き替え版は、コロンボのセリフの独特なニュアンスを生かした額田やえ子の翻訳(「うちのカミさんがね……」の口癖が有名)に、コロンボのキャラクターと小池の吹き替えのハマリ具合が重り、洋画が吹き替えによって作品の魅力を高めることに成功した代表例となった。


『刑事コロンボ』シリーズ
1968年パイロット放送版(1968年2月20日放送)98分
第1話『殺人処方箋』( Prescription: Murder)
1971年パイロット放送版(1971年3月1日放送)98分
第2話『死者の身代金』( Ransom for a Dead Man)

第1シーズン(1971年9月~72年2月放送)各話73分
第3話『構想の死角』( Murder by the Book)
第4話『指輪の爪あと』( Death Lends a Hand)
第5話『ホリスター将軍のコレクション』( Dead Weight)
第6話『二枚のドガの絵』( Suitable for Framing)
第7話『もう一つの鍵』( Lady in Waiting)
第8話『死の方程式』( Short Fuse)
第9話『パイル D-3の壁』( Blueprint for Murder)

第2シーズン(1972年9月~73年3月放送)第10・13話のみ98分、それ以外は各話73分
第10話『黒のエチュード』( Etude in Black)
第11話『悪の温室』( The Greenhouse Jungle)
第12話『アリバイのダイヤル』( The Most Crucial Game)
第13話『ロンドンの傘』( Dagger of the Mind)
第14話『偶像のレクイエム』( Requiem for a Falling Star)
第15話『溶ける糸』( A Stitch in Crime)
第16話『断たれた音』( The Most Dangerous Match)
第17話『二つの顔』( Double Shock)

第3シーズン(1973年9月~74年5月放送)第19・20・24・25話は98分、それ以外は各話73分
第18話『毒のある花』( Lovely but Lethal)
第19話『別れのワイン』( Any Old Port in a Storm)
第20話『野望の果て』( Candidate for Crime)
第21話『意識の下の映像』( Double Exposure)
第22話『第三の終章』( Publish or Perish)
第23話『愛情の計算』( Mind Over Mayhem)
第24話『白鳥の歌』( Swan Song)
第25話『権力の墓穴』( A Friend in Deed)

第4シーズン(1974年9月~75年4月放送)第26~29話は98分、第30・31話は73分
第26話『自縛の紐』( An Exercise in Fatality)
第27話『逆転の構図』( Negative Reaction)
第28話『祝砲の挽歌』( By Dawn's Early Light)
第29話『歌声の消えた海』( Troubled Waters)
第30話『ビデオテープの証言』( Playback)
第31話『5時30分の目撃者』( A Deadly State of Mind)

第5シーズン(1975年9月~76年3月放送)第32・34・36・37話は98分、第33・35話は73分
第32話『忘れられたスター』( Forgotten Lady)
第33話『ハッサン・サラーの反逆』( A Case of Immunity)
第34話『仮面の男』( Identity Crisis)
第35話『闘牛士の栄光』( A Matter of Honor)
第36話『魔術師の幻想』( Now You See Him)
第37話『さらば提督』( Last Salute to the Commodore)

第6シーズン(1976年10月~77年3月放送)各話73分
第38話『ルーサン警部の犯罪』( Fade in to Murder)
第39話『黄金のバックル』( Old Fashioned Murder)
第40話『殺しの序曲』( The Bye-Bye Sky High IQ Murder Case)

第7シーズン(1977年11月~78年5月放送)第43・45話は98分、それ以外は各話73分
第41話『死者のメッセージ』( Try and Catch Me)
第42話『美食の報酬』( Murder Under Glass)
第43話『秒読みの殺人』( Make Me a Perfect Murder)
第44話『攻撃命令』( How to Dial a Murder)
第45話『策謀の結末』( The Conspirators)

『新・刑事コロンボ』シリーズ ※全話各98分
第8シーズン(1989年2~5月放送)
第46話『汚れた超能力』( Columbo Goes to the Guillotine)
第47話『狂ったシナリオ』( Murder, Smoke and Shadows)
第48話『幻の娼婦』( Sex and the Married Detective)
第49話『迷子の兵隊』( Grand Deceptions)

第9シーズン(1989年11月~90年5月放送)
第50話『殺意のキャンバス』( Murder, a Self-Portrait)
第51話『だまされたコロンボ』( Columbo Cries Wolf)
第52話『完全犯罪の誤算』( Agenda for Murder)
第53話『かみさんよ、安らかに』( Rest in Peace, Mrs. Columbo)
第54話『華麗なる罠』( Uneasy Lies the Crown)
 ※スティーヴン=ボチコが1974年5月に執筆した没シナリオを映像化したもの
第55話『マリブビーチ殺人事件』( Murder in Malibu)

第10シーズン(1990年12月~2003年1月放送)※数ヶ月~1年以上に1作放送のペースとなった
第56話『殺人講義』( Columbo Goes to College)
第57話『犯罪警報』( Caution : Murder Can Be Hazardous to Your Health)
第58話『影なき殺人者』( Columbo and the Murder of a Rock Star)
第59話『大当たりの死』( Death Hits the Jackpot)
第60話『初夜に消えた花嫁』( No Time to Die)
 ※倒叙もの形式でない特殊な回(原作はエド=マクベインの「87分署」シリーズ)
第61話『死者のギャンブル』( A Bird in the Hand...)
第62話『恋におちたコロンボ』( It's All In The Game)
第63話『4時02分の銃声』( Butterfly In Shades Of Grey)
第64話『死を呼ぶジグソー』( Undercover)
 ※倒叙もの形式でない特殊な回(原作はエド=マクベインの「87分署」シリーズ)
第65話『奇妙な助っ人』( Strange Bedfellows)
第66話『殺意の斬れ味』( A Trace of Murder)
第67話『復讐を抱いて眠れ』( Ashes to Ashes)
第68話『奪われた旋律』( Murder With Too Many Notes)
第69話『殺意のナイトクラブ』( Columbo Likes the Nightlife)


小説版『刑事コロンボ』シリーズ(1988~2003年は二見書房、2006~07年は竹書房より刊行)
 小説版については、放映された映像作品から独自に書き起こしたものや、脚本から小説化したものなど形態が多数存在する。そのため映像化された作品と比較して物語の流れやトリックなどに相違点があるものもある。著者名に記載されているレヴィンソンとリンクは原作・原案者として名を貸しているだけである。

オリジナル小説作品(ハードカバーで二見書房から出版された『殺人依頼』以外は全て二見書房文庫)
1、『人形の密室』( A Christmas Killing)アルフレッド=ローレンス 訳・小鷹信光 2001年3月25日
 ※1972年にアメリカで出版されたオリジナル小説の改題・改訳版(1975年12月に『死のクリスマス』として初訳されていた)
2、『13秒の罠』( The Dean's Death)アルフレッド=ローレンス 訳・三谷茉沙夫 1988年4月25日
 ※1975年にアメリカで出版されたオリジナル小説の翻訳。のちの映像版第56話『殺人講義』(1990年)と同様の展開がある
3、『サーカス殺人事件』( Roar of the Crowd)ハワード=バーク 訳・小鷹信光 2003年4月25日
 ※1975年12月に執筆された没シナリオの小説化作品
4、『血文字の罠』( The Helter Skelter Murders)ウイリアム=ハリントン 訳・谷崎晃一 1999年12月25日
 ※1994年にアメリカで出版されたオリジナル小説の翻訳
5、『歌う死体』( The Last of the Redcoats) 北沢遙子 1995年4月25日
 ※没シナリオ・シノプシスの小説化作品
6、『殺人依頼』( Match Play for Murder) 小鷹信光 1999年6月2日
 ※没シノプシス『 Trade for Murder』を元にした小鷹信光によるオリジナル小説
7、『硝子の塔』( The Secret Blueprint)スタンリー=アレン、訳・大妻裕一 2001年8月25日
 ※アメリカで出版されたオリジナル小説の翻訳

同人誌作品
8、『クエンティン・リーの遺言』( Shooting Script)大倉崇裕 『刑事コロンボ』の日本同人誌『 COLUMBO!COLUMBO!』第1~3号(2004年12月~06年12月)にて連載
 ※1973年7月にジョゼフ=P=ギリスとブライアン=デ・パルマが執筆した没シナリオの小説化作品


 いんや~、これ、ずっとやりたかった記事なのよね! やっと最近になって読書する余裕ができましたので、満を持して始めたいと思います。

 そんな感じで、幻の未映像化小説8作のを実際に読んでみての具体的な感想あれこれは、まったじっかい~。
コメント (2)
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まじめそうな顔してそうとうなクセモノだこれ!! ~『獄門島』2003エディション~

2024年08月13日 23時38分16秒 | ミステリーまわり
 あっぢぃねぇ~……みなさま、どうにもこうにもこんばんは。そうだいでございます~。
 今年もつつがなくお盆休みに入りまして、私も、暑い暑いといいつつも幾分かはゆったりできる時間をいただいております。ほんと、この時期に平常通りに働くのはしんどいですよね……ご先祖様に感謝を~なんて言いつつも、ふつうに生きてる人が休むための連休になっちゃってますよ。いや、ちゃんとお墓参りはしなきゃいけませんけど!

 なんだかんだ言って今年も、こんな感じに後半戦に移ろうかとしておるのですが、なんだかふと気がつきますと、我が『長岡京エイリアン』的にはめちゃくちゃ楽しみな映像作品が目白押しなんですよね、8月からは!

8月23日公開 映画『箱男』(監督・石井岳龍)、30日から山形で公開 映画『カミノフデ』(監督・村瀬継蔵)
9月27日公開 映画『傲慢と善良』(監督・萩原健太郎)、29日放送 ドラマ『黒蜥蜴』( BS-TBS)
10月11日公開 映画『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』(監督・トッド=フィリップス)、25日公開 映画『八犬伝』(監督・曽利文彦)
12月25日アメリカ公開 映画『 Nosferatu』(監督・ロバート=エガース 日本公開日は未定)

 全部、手放しで楽しみにしているわけでもないのですが、とりあえず必ずチェックしようと思っている作品だけでも、これだけあるんですよね。見逃すまいぞ~。
 今年の前半にはゴジラもありましたから(ハリウッド製だけど)、2024年もさまざまなコンテンツで順調に新しい動きがあった豊年だとみてよろしいかと思います。仮面ライダーは……もう最近のシリーズを追う必要もないですかね。今さらながらではありますが、テレビ東京の「ガールズ×戦士シリーズ」がここにいないのは、やっぱり寂しいやねぇ。ああいった目くじら立てず、頭をからっぽにして楽しむ娯楽作もあっての文化だと思うんですけどね~。

 こういったラインナップを見ますと、あの明智さんも更新されてることですし、あとは我らが金田一耕助シリーズも、映画でもテレビでも動画配信サービス限定でもいいので最新作を出してくれるとうれしいんだけどなぁ~と思っちゃうのですが、忘れちゃなんねぇ、金田一先生にだって、今年はこういうスペシャルムーヴメントがあんのよね!

11月 映画『三本指の男』(1947年公開)うぶごえクラウドファンディングパートナー限定配信
2025年2月 映画『悪魔が来りて笛を吹く』(1954年公開)デジタル修復版 うぶごえクラウドファンディングパートナー限定配信

 これこれ! 偉大なるレジェンド・初代金田一耕助こと片岡千恵蔵版の『本陣殺人事件』と『悪魔が来りて笛を吹く』のご復活でございます!! これを観ずしてなにが『長岡京エイリアン』かと!!
 クラファン、目標金額の3倍以上集まったんですもんね。すごいやねぇ~。当然ながら、こちらも無事に配信視聴できたあかつきには、全力をあげて感想記事をつづらせていただく所存也。歴史の創生に立ち会う思いですね……これでもう、来年2月までは死ねねぇ!! 安全運転を心がけよう。

 そんでまほんでま、今回の記事はと言いますと、千恵蔵金田一の復活までにまだちょっと時間はありますが、なんと本日ついさっきの夕方に「夏恒例!」とばかりに BSテレ東で再放送されていた、金田一ものドラマについて。
 これ、ずっと観たかったんですよね~。


ドラマ『金田一耕助ファイル 獄門島』(2003年10月26日初放送 テレビ東京『水曜女と愛とミステリー』)
 27代目・金田一耕助   …… 上川 隆也(38歳)
 18代目・等々力大志警部 …… 二世 中村 梅雀(47歳)
 ※金田一耕助もの長編『獄門島』の6度目の映像化
 ※本作が放送された2003年は、金田一耕助が登場する映像作品としては TBSでの古谷一行金田一による『金田一耕助の傑作推理』が年1本のペースで制作されていた時期で、フジテレビでの片岡鶴太郎金田一による『横溝正史シリーズ』(1990~98年)と稲垣吾郎金田一による『金田一耕助シリーズ』(2004~09年)とのちょうど間隙期にあたる。
 ※『獄門島』の映像化としては、古谷一行が金田一耕助を演じたドラマ『名探偵金田一耕助の傑作推理 獄門島』(1997年5月放送 TBS)以来約6年ぶりとなる。
 ※原作小説の設定によれば、本作の事件発生時点での金田一耕助の年齢は「33歳」と推定される。鬼頭早苗の年齢は「22~23歳」と語られている。

主なキャスティング
鬼頭 早苗    …… 高島 礼子(39歳)
鬼頭 月代    …… 三倉 佳奈(17歳)
鬼頭 雪枝・花子 …… 三倉 茉奈(17歳 二役)
分鬼頭 儀兵衛  …… 石山 輝夫(61歳)
分鬼頭 お志保  …… 原田 喜和子(38歳)
鵜飼 章三    …… 川村 陽介(20歳)
了然和尚     …… 神山 繫(74歳)
了沢       …… 出光 秀一郎(34歳)
荒木 真喜平   …… 鶴田 忍(57歳)
村瀬 幸庵    …… 寺田 農(60歳)
清水巡査     …… 金田 明夫(49歳)
漁師の竹蔵    …… 井上 康(36歳)
復員服の男    …… 東田 達夫(47歳)
お小夜      …… 田村 友里(32歳)
鬼頭 千万太   …… 伊藤 竜也(27歳 当時、上川隆也の付き人だった)
鬼頭 一     …… 並木 大輔(24歳)
鬼頭 嘉右衛門  …… 二世 笑福亭 松之助(78歳)

主なスタッフ
演出 …… 吉田 啓一郎(56歳)
脚本 …… 西岡 琢也(47歳)
音楽 …… 川崎 真弘(54歳)
エンディングテーマ『 Days』(歌・中森明菜)


 出ました、金田一耕助シリーズでもド定番の鉄板名作『獄門島』! しかも、非常にレアな上川隆也版でございます!!

 上の情報にもありますように、本作はあの TBSの古谷一行版がまだまだ現役だった時期、フジテレビの鶴太郎版シリーズと稲垣吾郎版シリーズとの間という、金田一映像史上においても非常に繊細なタイミングで放送されていた、テレビ東京の上川隆也版シリーズの第2作となります。第2作なのですが、と同時に、2024年時点ではシリーズ最終作となっております……2作で終わっちゃったんか~い!!

 作品の内容に関する感想は後でまた触れますが、本作、改めて観てみても、特に決定的に悪いような要素もありませんし、金田一を演じる上川さんも気力体力共にノリノリな時期ということで( NHK大河ドラマ『功名が辻』の主演はこの約3年後)、このシリーズが打ち切りになるような気配はまるでありません。当時、この作品が放送されたテレ東の『水曜女と愛とミステリー』枠も、テレ朝の『土ワイ』や日テレの『火サス』に負けない有力コンテンツをということで、この上川版をこれ以降も推していく算段だったのではないでしょうか。

 それじゃ、一体全体どうして上川版シリーズがこの『獄門島』でおしまいになっちゃったのかと言いますと、これはどうやら、本シリーズ2作の演出を担当した吉田啓一郎監督に関して、奇しくもこの『獄門島』放送の2ヶ月前にあたる8月12日に新作ドラマ『西部警察2003』の撮影中、出演俳優の乗車した車両が見物人を負傷させてしまう事故を起こしてしまったため、業務上過失致傷罪で起訴猶予になったことが大いに影響していたような気がします。この後、吉田監督は約3年間の活動自粛を経たのちに復帰されているらしいのですが、上川さんのスケジュール的にも、このシリーズが復活するタイミングは完全に逃してしまったようです。別に、令和の今、ひょっこり復活してもいいと思うんですけどね! 上川さんもまだまだ還暦手前で若いし。
 なんてったって、今現在、地上波テレビ局で2時間サスペンスドラマの新作を制作放送してるのは、テレ東の『月曜プレミア8』の枠だけなんだもんな(ただし月1ペース以下の不定期放送)! 時代も変わりましたね~。

 さてさて、そんなこんなで不運にも新進気鋭の上川シリーズの最終作ともなってしまったこの2003年版『獄門島』ですが、放送局が違うとはいえ、古谷一行版と共に、次代の稲垣吾郎版シリーズの誕生までの重要なつなぎ役となった作品でもあります。その吾郎シリーズでもこの『獄門島』は映像化されておらず、次に映像化されたのはあの PTSD長谷川博己金田一による2016年版になってしまうのですから、「2000年代唯一の『獄門島』」として、この作品をとくと味わってみたいと思います。
 思い起こすと私、この2003年バージョンって、初放送時は終盤の謎解きシーンだけをなんとなく見たかな~、くらいの記憶しかなかったんですよね。今回、およそ20年ぶりにちゃんと観れたぜい!

 そいでもって、実際にこの『獄門島』2003エディションを視聴してみての私個人の感想なのですが、

まじめな映像化のようで、実はムチャクチャやっとるぞこれ!!

 というものでした。
 う~ん、8割がた、原作に忠実な内容のような顔をしてる2003年版なのですが、最後の土壇場になって驚愕のアレンジが発覚するんですよね。
 この変更はね……結局、結末は原作とそうそう変わらないので、意外と印象に残らず流してしまう人もいるかも知れない(セリフ処理が主なので映像的にちとわかりにくい)のですが、私としましては、原作小説において連続殺人が決行されてしまった成立状況の「真の恐ろしさ」に気づかせてくれる、非常に重要な示唆だと受けとめました。
 ぶっちゃけ、2003年版の状況だと、連続殺人は発生しなかったんじゃなかろうかと思っちゃうのよね……いろいろと発生条件が変わっちゃうような気がするんだよなぁ。

 まぁ、そういった最重要問題は置いておきまして、まずはさらっとしたアレンジポイントから。

 非常にありがたいことに、いつもお世話になっております Wikipediaの『獄門島』記事では、映像化された各バージョンにおける原作小説との相違点が列記されております。もちろん、それを鵜呑みにするわけにもいかないのですが、参考としてそこでの言及を元に、本作と原作小説との違いを振り返ってみましょう。

原作小説と2003年ドラマ版との相違点
1、昭和二十一(1946)年の春に発生した事件になっている(原作小説では同年10月5日に第1の殺人が発生)。
2、金田一は釣鐘を輸送する船で獄門島に上陸し、ほぼ同時に鬼頭千万太の戦死公報も到着する(原作小説では金田一の獄門島来訪は9月下旬で釣鐘の帰還と千万太の戦死公報の到着は10月3日)。
3、島の寺の名は医王山千光寺ではなく「仙光寺」で、屏風には俳画ではなく句の短冊が貼られている。
4、劇中で医者の幸庵が、鬼頭与三松は労咳のため屋敷の座敷牢に隔離されていると語っている。
5、月代、雪枝、花子は年子ではなく三つ子で、鬼頭一は早苗の兄でなく弟となっている。
6、原作の勝野と床屋の清公、磯川警部が登場しない。
7、鵜飼章三と鬼頭三姉妹との恋文の交換には山中の「愛染かつら」ではなく「恋ヶ浜の地蔵」が利用されている。
8、鬼頭花子の殺害時に、了然和尚が寺へ続く石段を登っていた時の提灯が見えるくだりがカットされている。
9、原作小説で非常に重要なキーワードとなる了然和尚の「ある発言」がまるごとカットされている。
10、島に逃げ込んできたのは、東京から逃げてきて瀬戸内海の海賊に加わっていた殺人犯であり、それを追いかけて東京警視庁の等々力警部が島にやって来る。
11、鬼頭早苗がラジオの『復員だより』を聞かなくなった描写、医者の幸庵が骨折した描写、山狩りの際に早苗が与三松を解放する描写が無い。
12、了然和尚が了沢へ伝法するくだりがない。
13、事件解決後の犯人たちの末路が原作小説と違う。
14、鬼頭嘉右衛門と与三松父子の扱いが原作小説から大幅に変更されている。
15、原作小説とは逆に早苗の方から金田一に一緒に島外へ出ようと懇願するが、結局実現しなかった。

 こんな感じで、目立ったものでも10個以上の変更点があることがわかります。いや~超デカいのあんねぇ!

 でも、これは文庫本にして300ページ以上ある長編小説(それでも横溝ワールドの中で『獄門島』は軽量級の方ですが)を正味90~100分(本作は95分)のドラマサイズに収めるためには必要な変更もあるわけですし、無理もない数と言えるでしょう。尺たりんけん、しょうがない!

 具体的に上のポイントを整理してみますと、2、6、8、11、12の変更点が、おそらくは本編時間の都合でカットされたものかと思われます。いろいろ優先順位を考えればやむをえないリストラかなとも思えるのですが、一つ一つがけっこうミステリー作品としての面白さを支えている味わいポイントなので、これらのカットで犯人当ての楽しみが減じてしまっていることは否定できませんやね。大勢に差はないのでしょうが、ミステリー作品はこういった細部にこそ、原作者の遊び心がこもってるような気がしますよね。

 続いては、2003年版の制作スタッフの「撮影上の都合」で生まれた変更点です。上の一覧を見てみれば、1、3、5、7、9、10がそれにあたるでしょう。
 いや~、この中ではなんてったって9、が一番でかいやね! いや、そこカットする!? でも、まぁカットするかぁ! 地上波テレビ放送だし。

「きちがいじゃが仕方がない。」

 ね~……もうこれ、原作小説『獄門島』を代表する謎と言っても間違いはないし、ほんとに原作を読めば読むほど、いろんな解釈の可能性が何重にも重なっているスルメワードなんですよね。ここをカットしちゃう……かぁ。
 まぁ、無くしたものを未練たらしく語ってもしょうがないのでこれ以上は申しませんが、この発言を無くしたせいで本作は、おそらく撮影時期(2003年の春先?)に即して春の事件になりましたし、鬼頭与三松や三姉妹の精神状態が普通じゃないという、放送倫理的に危うい設定からも解放されました。
 でも、これが「解放」と言えるのかどうか……どっちかと言うと緊張感が無くなったというか、「タガが外れちゃった」みたいな感じで、作品全体の統一感が無くなってフワフワしちゃったような気が強くするんですよね。これは、後で言う「最大の問題点」に関しても、そうです。
 例えば、「春の事件」になったことで、本作は「分厚そうなマントをまとった金田一が瀬戸内海の孤島にいる」という、原作小説のどこにもなかった激レアな状況を生んでいるのですが、春なのになんで第3の殺人で「萩の花」が殺人現場に置かれていたんだ?という問題を発生させてしまっています。いやいや、萩は字の中に「秋」があるでしょ!? こっちのほうが……モゴモゴ。
 なんだ? 犯人は去年の秋に採った萩の花を、ドライフラワーにして半年も大切に保管していたのか? それとも、昭和二十一年の瀬戸内地方に萩の造花を売ってるダイソーかセリアかキャンドゥでもあったのか!?

 「仙光寺」の変更も、なんでそうなったのか全然わかんないし……単なる読み間違いとしか思えませんよね。
 ただ、三姉妹がマナカナ150% 増量キャンペーンで三つ子になった点と、磯川警部じゃなくてはるばる東京からやってきたプリティ梅雀等々力警部になっていたのは、面白いお遊びだと感じました。作品自体に何の影響もありませんしね。
 それにしても、マナカナさんの演技はぎこちなかったな……やっぱ、ふつうの現代劇とは演技の勝手がまるで違うんでしょうね。死に顔はなかなか素晴らしかったですけど!

 そいでいよいよ、2003年版でも特に、原作小説から大きく変わることを承知の上で変えたと思われる、3つのポイントに関して考えていきましょう。
 あの、いちおう、我が『長岡京エイリアン』では小説、映像作品を問わず、ミステリー作品の話をする時は「犯人は××ですが」みたいなネタバレは極力避けるように努めております。これはマナーだからということはもとより、そう書いた方が楽しいからそうしているのですが、ここ以降の文章はどう頭をこねくり回しても犯人が誰かが類推できるような話ばっかりになりますので、原作小説や2003年版ドラマをこれから楽しむつもりだよという方は、お読みにならないことをお勧めいたします。
 まぁ、そのどっちも知らないで、こんな太平洋戦争末期の南方戦線みたいなガジュマル密林文章地帯に迷いこむ人はいないでしょうけどね……生きて戻ってこいよー!!


○ポイント13、事件解決後の犯人たちの末路が原作小説と違う。

 最初に言っておきますが、この2003年版『獄門島』における「実行犯の設定」は、原作小説から変わっておりません。
 ですので、2003年版はクライマックスでの上川金田一の、いかにも名探偵らしい事件解明パートが終わるまではとことん、「了然和尚のあの発言がない」という一点以外は、おおむね原作小説に忠実な映像化という印象が強いです。
 だいたいにおいて、本作はサスペンスドラマらしく実直で手堅いキャスティングで、金田一を演じる上川さんも原作通りに若々しい青年として、結果としては千万太が守ってくれと言い遺した三姉妹をみすみす死なせてしまう痛恨の苦杯は舐めるものの、悪戦苦闘の末に事件の真実にたどり着く名探偵を好演しています。パートナーの梅雀等々力警部との相性も抜群でしたね!

 ところが、金田一の推理の説明も終盤にさしかかり、犯人も観念して自白に近い述懐をつぶやいたかなという土壇場になって、突如として血相を変えた早苗が犯人に駆け寄り、なにやら意味深な発言をしたあたりから俄然雲行きが怪しくなり、その後は原作小説に無かったもう一つの「驚愕の真相」が明らかとなるのでした。これについては、また後で。

 まず私が言いたいのは、この2003年版オリジナルのエピローグによってすり替えられた、原作小説の「驚愕のラスト」についてです。具体的に言いますとそのラストとは、「鬼頭一が復員するという情報が嘘で、一は戦死していた」という真実が金田一の事件解明と前後して獄門島にもたらされ、その結果として犯人のうちの一人が発狂し、もう一人が憤死してしまうという展開なのです。
 念のためですが、鬼頭一の名前は「ひとし」と読みます。間違っても「はじめ」とか「きとういち」と読んではいかんぞ! どういうこと、はじめちゃん!?

 この、鬼頭一の戦死公報自体は2003年版でもラストに持ってこられるのですが、公報が獄門島に届くタイミングが微妙に遅れており、金田一の説明が終わって犯人のうちの2名が無事に逮捕された(もう1名はすでに自殺)後に漁師の竹蔵さんが知らせに来るので、原作ではかなりドラマティックに、かつ悲惨に描かれていた犯人たちの末路がかなりソフトなものになっているのです。
 ここがソフトになった理由はいろいろ考えられるのですが、おそらくはドラマとしての展開の最高潮を、次のポイントである「金田一と早苗のロマンス」に持っていき、サスペンスドラマとしてすっきりした後味のラストにしたかったという脚本としてのねらいがあったのではないでしょうか。

 うん……気持ちは、よくわかる! でも、この改変によって「鬼頭一さえ帰ってくれば……」という連続殺人断行にいたった最大のキモがだいぶ小さく見えてしまったのではないでしょうか。だって、殺人すらいとわなかった大のおとな2人が狂ったり死んだりするほど重大な問題だったのに、そこらへんが曖昧になっちゃうんだよなぁ、原作小説の因果応報な犯人たちの末路が無くなっちゃうと。

 あと、おそらくなのですが、脚本家の人と言うか、2000年代当時の価値観を持った人が1940年代の『獄門島』という小説作品を読んだ時に、「いやいや、そんなに簡単に人が憤死なんてするわけないじゃん。ホラー映画の失神じゃないんだからさぁ。」という思いがあったのかも知れません。

 つまりこの「犯人の憤死」という原作小説での展開をみて「そうはならんやろ……」と修正を加えたのが2003年版であり、「ンなっとるやろがい!!」と強引に押し通したのが2016年版だった、と言えるのではないでしょうか。どっちかっつったら、私は2016年版の方がパワフルで好き♡

 2003年版って、実直ではあるのですが、なんか「常識的にそれは、ないよね。」という醒めた判断で原作小説の世界を矮小化しているようなタッチも感じられる気がします。まぁ、そこは2時間サスペンス枠での映像化なんですからね、しょうがねっか。


○ポイント15、早苗の方から金田一に一緒に島外へ出ようと懇願するが、結局実現しなかった。

 ここはもう、本作での早苗が、原作小説と違って金田一とほぼ同年代の「立派なおとな」であるということと、本作を放送した枠が『女と愛とミステリー』であるという厳然たる事実から生まれた「お約束」のような改変であるような気がします。もう、いいとか悪いとかじゃなくて、高島礼子さんなんだからそうしなきゃいけなかったの!!

 原作小説における早苗の年齢は22、3歳ということで、ちゃんと大人ではあるのですが獄門島の社会に今一つ馴染めていない部分もありますし、何と言ってもただ一人の頼みの綱である兄の一がいないという窮状から、作中でもかなり金田一を翻弄させてしまうトラブルメイカーというか、ブービートラップ要員になってしまっております。この立ち位置、『獄門島』と同じかそれ以上に有名な金田一シリーズの長編小説に出てくるヒロインとほとんど一緒なんですよね……似てんだよなぁ、『獄門島』と、その超有名長編って。
 それに対して2003年版の早苗はといいますと、一の「姉」という変更もあってか、もはや母性に近い鉄の意志で「一が帰って来るまで鬼頭の家を守ってみせる……!」と生き抜く芯の強さのあるキャラクターになっているのです。原作小説のか弱さやはかなさは、皆無ですよね。
 ただ、そんな彼女が「一の戦死」という残酷きわまりない事実を突きつけられてついに折れてしまい、一に代わる存在として金田一に救いを見いだして「私、こんな島嫌いです!!」と本音を叫ぶ流れは、非常にドラマティックで良かったのではないでしょうか。

 でもそれ、ミステリーとしての『獄門島』の物語とはちょっと乖離しちゃってるし、金田一に抱く「本土の理想」も、一時的な感情からきた現実逃避っていう意味合いが強いですよね。だからこそ、20歳そこそこの小娘ではない2003年版の早苗は自分で冷静になり、金田一の出航には姿を見せなかったのでしょう。

 「一の戦死」という最後の一手を犯人たちの破滅に持ってこずに、早苗の女性としての解放に使ったという2003年版の判断は、それはそれでドラマとして良いかとは思うのですが、結局、島の有力者一族の跡継ぎという拘束からは逃れられないという原作小説の呪縛は依然としてガッチリ残っているのでした。高島礼子さんの早苗もまた、無惨やな。


○ポイント4と14、鬼頭嘉右衛門と与三松父子の扱いが原作小説から大幅に変更されている。

 それでいよいよ、本作最大の問題的アレンジとなるわけなのですが、要するにこれ、犯人たちを連続殺人事件の凶行に走らせた「黒幕」の影響力を、原作小説以上に強めようとして加えられた改変なんですよね。たぶん、そういう意図があったんじゃないでしょうか。

 でも、これ……影響力、強くなってんのかな。

 ここで私が強く思うのは、「生きてる人と死んだ人、どっちのほうが影響力があるのかな?」っていう疑問なのです。

 おそらく、この2003年版の脚本は、「黒幕が生きてて犯人たちを監視してる方が強いでしょ!」という確信を持ってこのアレンジを加えたのだろうと思います。実際にこの采配は、全く同じではないのですが、すでに過去の『獄門島』映像作品にて使われた手でもあります。前例あんのかよ!
 でも、2003年版における「生きている黒幕」は、演技でなくかなり重い病状で寝たきりの状態だったらしいのです。これは……犯人たち、うまくごまかして連続殺人計画なんかうやむやにして、黒幕がおっ死ぬのを待ってればよかったのでは? ボケてたんでしょ?

 ここで私が言いたいのは、そういう重箱の隅を突っつくようなツッコミじゃなくて、「連続殺人計画の決行を監視していたのは誰なのか」という問題なのです。そして、ことこの「黒幕の生死」設定をいじくってしまったがために、2003年版の「監視者」は、原作小説のそれとは全く別のものに変わってしまっています。

 すなはち、2003年版の監視者は「生身の黒幕人物」で、原作小説の監視者は「犯人たちの相互監視」です。相互監視の根本原理になっているのは言うまでもなく「死亡した黒幕の遺言」なわけなのですが、原作小説で犯人たちを犯行にけしかけたのは黒幕の幽霊などでは決してなく、あの人の遺言なんだから計画を実行するのがこの島のため最善の道だと決めつける責任転嫁の論理と、そうは言っても互いに誰がいつ極秘の犯行計画から離脱、離反するかわからんと言う疑心暗鬼の関係から「早くやっちゃって楽になろうや」という思考停止の状況なのです。
 これはねぇ、恐ろしい状況です。計画した黒幕が死んで不在だからこそ、形を持たない「疑いの力」が、生前の黒幕以上の強さを持って犯人たちをがんじがらめにしていると見てもよいのではないでしょうか。これ、この小説に限った話でなく、けっこう現実の組織でも生じることの多い、怖すぎる状況じゃないですか? 秘密を共有しているメンバーが互いを疑う力自体が、計画を無理やり動かす原動力になってしまう。そこにはもう、ショッカーの大首領みたいな具体的なカリスマ黒幕なぞ必要なくなってしまうのです。頭の無い集団の暴走。これは怖いぞ~。
 繰り返しますが、原作で犯人がつぶやいていた「修羅の妄執」というのは、死んだ黒幕の怨念などではなく、生きている犯人たちにとり憑いて生き延び続けている「殺さなければならない」という強迫観念のこと、つまり行きつくところは犯人たちの心の問題なのです。黒幕が生前どんなに強い権力を持った人物だったかとか、そんなことは死んだら全然関係なくなるというのに、それを捨てられないでいる人間の心の弱さ……なので、この『獄門島』の犯人たちって、そうとうに情けなくてみじめな人達なんですよね。でも、それが人間なのだという。

 結局、横溝先生が原作小説で犯人たちの愚行を通して訴えたかったのは「猜疑のみで心の無い集団」の生み出す悲劇のむなしさ、だったのではないでしょうか。先生はおそらく、太平洋戦争の惨禍の原因に、軍部独裁の暴走がどうとか帝国主義への追従がどうとかじゃない、こういった集団心理の恐ろしさを見たからこそ、この『獄門島』を世に問うたと思うのです。
 そして、反戦からはやや離れるのですが、こういった集団心理の醜さ、恐ろしさをさらに突き詰めた発展形が、まさに「黒幕が完全に死んだ状態」からでないと物語が始まらない、あの超有名長編小説に結実していくわけなんですよね~。「お父様、ご遺言を。」からの、ノトーリアス・B・I・G 発動ォオオ!!

 だからこの『獄門島』は、ディティールとして復員詐欺だの戦死公報だのといったキーワードを使っているだけにとどまらず、物語の頭からしっぽの先まで完全無欠の反戦小説だと思うのです。こんな重いテーマを扱いながら、同時に驚くべき完成度のミステリー小説に組み上げてしまう横溝先生……その才は五大陸に鳴り響くでぇ!!

 なので、そこらへんをやや安易に解釈して「黒幕がちゃんといた方がいいでしょ。」としてしまった2003年版は、原作小説のものすごさを逆に証明してしまう失敗例になっちゃったような気がするのです。
 だいたい生きてるったって、犯人たちをちゃんと監視できる状態じゃないもんねぇ。犯人たちもバカじゃないんだから、失敗する可能性の方が高いこんな計画、絶対にやらないと思うんだよなぁ。へいへいって適当に返事をして死ぬのを待つのが一番でしょ。
 黒幕の命令がどうとかじゃなくて、「犯人たちにとってもお小夜の血を引く三姉妹が邪魔だった」という動機も2003年版は匂わせていたのですが、こちらもこちらで、その動機で果たして犯人たちが結託できんのかなっていう疑問はあります。だって下世話な話、互いにどう低く見積もっても「三姉妹の実父じゃない確率80%」なんでしょ(お小夜と肉体関係にあった人物が5人だとして)? そんな、自分が8割がた関係の無い犯罪計画にあーた、参加しますぅ?


 とまぁ、いろいろくっちゃべってるうちに字数も1万字を超えましたのでいいかげんにいたしますが、やはりこの2003年版もまた、原作小説の偉大さを再確認させてくれる有意義なバージョンでありました。やっぱ、そうそう安直に手を加えていい完成度の作品じゃないのよね~、という教訓が、ここにも。
 いや~、2016年版までに7バージョンの映像化作品のある『獄門島』なのですが、やっぱり、私個人としてのベスト『獄門島』は、鶴太郎&フランキー堺の鎌倉滅亡コンビによる1990年版かなぁ。でも、これは多分に思い出加点要素が大きいので、いつか BSかどこかで再放送してほしいですね~。

 最後にもう一つだけ、ある意味でこの2003年版最大のミステリーかも知れない、この意味深発言を。

 物語の中盤にて、等々力警部がはるばる東京から瀬戸内の獄門島までやって来た経緯を金田一に説明するくだりがあり、その中でこういうセリフのやり取りがあったのですが……


等々力 「三月前に起こった巣鴨の女給殺しです。ホシの復員兵が、岡山の戦友に誘われて海賊の一味に加わったとの情報を得ましてね。」

金田一 「おとといの海の大捕り物は、それですかぁ。」

等々力 「ええ。しかし見事に逃げられました……で、清水巡査から島で連続殺人が起きたと聞き、もしや私が追ってる殺人犯が島に潜入したかも知れんと思いましてね。」


 え……「連続殺人」? 「連続」!? 等々力警部が島に来た時点では、殺されていたと判明しているのは花子ちゃん一人だけでは……
 ここにきてまさかの「清水巡査も共犯説」!? あんなコメディリリーフ然としたオコゼみたいな顔しといて、その真の姿は……ギャ~!!

 いや~、『獄門島』って、ホンッッッットに! いいもんですねェ~。それじゃまた、ご一緒に楽しみましょ~。
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我が『長岡京エイリアン』は、りょうさんのご活躍を勝手に応援させていただきます ~『黒蜥蜴』2019エディション本文~

2024年08月08日 20時19分44秒 | ミステリーまわり
≪泣く子も呆れる5年前!! 前回記事はこちら……

 いや~もう、ひどいもんであります……

 りょうさん版の『黒蜥蜴』って、もう5年前のドラマになるんですか。この記事のタイトルで全面的に応援しますって言っておきながら、5年も感想を塩漬けにしてたって、一体どんな了見なのでありましょうか。マダムお許しください!!

 いやほんと、ドラマ本編自体はずっとパソコンに保存していたので、いつでも本腰を入れて感想記事を出す準備はできていたのですが、思い起こせば2019年の年末以降ずっと忙しい忙しい言うてまして、気がつけばこんな時間が過ぎてしまいました。
 そうこうしておる内に、世の中ではいろんなことがありまして、本作に関するニュースと言いますと、何と言いましても期待の明智小五郎俳優界のホープだったはずの第83代・永山絢斗さんが2023年6月に薬物関連の不祥事で逮捕されてしまいました。少なくとも2019年に放送された本作の中では、特になんの変哲もないさわやかなヤング明智だったんですけどね……
 ちょっと、主演ど真ん中の明智役の方がお縄になってしまった以上、本作もおそらく再放送とか映像ソフト商品化の可能性は無くなってしまっているのかも知れませんが、それがこのりょうさん版の中身のクオリティを下げていることはまるでない、ということは断言させていただきます。ただ、世の中に今後、このりょうさん版の良さを知る人が増える可能性がかなり低くなってしまうという事実は、不幸としか言いようがありませんね。永山さんよ~う!!
 余談ですがその一方、この永山さんの一件に関して珍しく「良く」働いているものとして私は、今年の NHK大河ドラマ『光る君へ』における藤原隆家役の、永山さんから竜星涼さんへの交代を大いに挙げたいです。これ、ほんとに代わって大正解だったと思う! 正直、5年前に明智を演じた永山さんしかちゃんとは知らないのでその後大きな成長があったのかも知れないのですが、あの平安時代随一のトラブルメイカー隆家を演じるには、永山さんはちといい子ちゃん過ぎるような気がしていたのです。竜星さんの斜めに崩れた姿勢とひねくれた眉毛の演技、サイコー!

 そしてそして、本作が放送されて年が明けた2020年以降、やろうやろうと思っていながらずっとほったらかしになっていたこの感想記事だったのですが、ここにきて、ほんとのほんとに「えー加減にせい!」というかのような天からの雷の如きニュースが、つい先日に落ちてきてしまいました。


≪江戸川乱歩原作『黒蜥蜴』が令和に蘇る 明智小五郎役は船越英一郎&緑川夫人役は黒木瞳≫
 YAHOO!JAPAN ニュース 7月30日付配信記事より

 BS-TBS では、9月29日(日)に2時間ドラマ『江戸川乱歩原作 名探偵・明智小五郎「黒蜥蜴」』(夜7:00~8:54、BS-TBS、BS-TBS 4K で同時放送予定)を放送する。明智小五郎を船越英一郎、緑川夫人を黒木瞳が演じ、昭和40年頃の雰囲気と現代を織り交ぜた架空の時代を背景に、新たなスペシャルドラマが令和に誕生する。

 2024年10月に生誕130年を迎える推理小説家・江戸川乱歩。1934年に月刊誌『日の出』に連載された本作は、名探偵・明智小五郎と、美しいものをコレクションする緑川夫人(黒蜥蜴)が心理戦を繰り広げるサスペンスで、テレビドラマに映画、舞台と、時代を超えさまざまな形で制作されてきた。
 日本が誇る名探偵・明智小五郎は、罪を重ねる黒蜥蜴という人物を断罪しつつも、その心理を暴きたいという強い情念にかられ、いつしか引かれていく。
 そんな明智を演じるのは、2時間ドラマの帝王・船越。意外にも明智を演じるのは初めてだという。対する緑川夫人(黒蜥蜴)を演じるのは、船越と双璧をなす黒木。世界中の美品を盗み出し、コレクションに加える稀代の盗賊。変装の名人でもあり、VFX を用いた変装シーンは見どころの1つとなる。

 また、秀でた美貌ゆえ緑川夫人の標的にされる岩瀬早苗役は、映画への出演が続く女優の白本彩奈が務める。明智小五郎の部下で、一生懸命働くもどんくさい一面がある小林芳雄役は、人気急上昇中の俳優でモデルの樋口幸平、同じく明智の部下で、的確な推理力と洞察力を持ち、武術にも長けた木内文代役は、ミュージカル『レ・ミゼラブル』など主にミュージカル界で活躍している唯月ふうかが演じる。
 容姿端麗で緑川夫人の寵愛を受ける手下・雨宮潤一役は、俳優のほかフォトグラファーとしても活動する古屋呂敏。その他、緑川夫人の手下で元番頭の松吉役を諏訪太朗、宝石商・岩瀬庄兵衛役を大河内浩、警視庁捜査一課刑事・浪越警部役を池田鉄洋が演じる。


 オーイもう次のバージョンが放送されちゃうよ! このニュースを知って「もうやんの!?」と思ったのですが、りょうさん版も5年前のことになっちゃうので、人気作の『黒蜥蜴』なんですから、そろそろ出てもおかしくはない頃合いだったんですね。
 もちろんこれも要チェックだし、たぶん我が『長岡京エイリアン』でも視聴した感想記事を出すことになるかとは思うのですが、前情報を聞いた限りの印象としては、正直言って明智役と黒蜥蜴役に特段の期待はしておりません。船越さんが初明智なのが意外って、一体全体だれが言ってるんだ!? そんなもん初めてに決まってんだろ! タイプが全然ちげーんだよ!!
 ただ、個人的にこの作品を絶対に見逃せないと思うのは、なんてったって今現在芸能活動を続けていらっしゃる若手女優さんの中では私がいちばん大好きな白本彩奈さん(今月公開の映画『箱男』が超楽しみ!)が実質的なヒロインの岩瀬早苗を演じることと、りょうさん版であの堀内正美さんが演じた松公の役を諏訪太朗さんが演じるという、この2点においてですね。これは絶対チェックや!! 実相寺昭雄の遠行からもう18年になろうかとしておりますが、今もなお、正美と太朗の因縁の関係は続いているのだ!! 『ファントミラージュ』のあの回の感想記事も、まだ未完成なんだった……嗚呼、私に嫌なことを思ひ出させなひでちやうだい!!

 ……とまぁ、そんなこんな状況なので、もはやこれまでということで今回、覚悟を決めてりょうさん版『黒蜥蜴』の感想記事をここに納めさせていただくこととしました。いや、つったって単なるドラマの感想なんで、5年も眠らせておくほどのこともないんですけどね。やることは、ちゃちゃっと早くやるにしくはないやねぇ。

 そんでま、この愛しのりょうさん主演で送られた『黒蜥蜴』2019エディションの感想なのでありますが、ざっくりまとめますと、


決して本道ではないアレンジの強い作品だが、『黒蜥蜴』の歴史に残るべき快作!


 ということになりますでしょうか。クセは強いが、さすがは林海象監督作品! 面白かったです。

 この作品を語る上で決して無視できないポイントは2つありまして、ひとつは何と言いましても「主演・りょう」というキャスティングの大成功。そしてもうひとつは「架空の近未来」という時代設定のアレンジ。この2つによって2019年版『黒蜥蜴』の99% が構成されていると申しても過言ではないでしょう。


〇「主演・りょう」の、期待以上のぎっしり感&満足感
 いや~、一にりょうさん、二にりょうさん、三、四がなくて五にプリティ梅雀!!

 この作品、ほんとにりょうさんの八面六臂の大活躍が堪能できる奇跡のような一作です。おなかいっぱいです!
 まず、トカゲの異名を持つ悪人の役をりょうさんが演じるという時点で、作品の成功はほぼほぼ確約されているわけなのですが、りょうさんもりょうさんでムッともしないでノリノリで演じておられるのが画面の随所からにじみ出てくるのが素晴らしいです。
 世に「爬虫類顔の美女」と評される方はたくさんおられるかと思うのですが、ネット上のまとめ記事を見ても「お前ヘビとかトカゲ見たことあんのか」と小一時間ほど問い詰めたくなるランキングになっている結果が多く、ちょっと目が鋭いとか顔や鼻筋のラインがシュッとしてる程度で爬虫類顔に当てはめてしまう意見ばっかりのような気がします。
 いやいや、爬虫類顔という世界に関しては、天上天下唯りょうさん独尊でしょう! 菅野美穂さんとか、確かに演技のふり幅によって爬虫類っぽい雰囲気にもなれる女優さんはいらっしゃるかと思われますが、りょうさんが出てきちゃったら「私も爬虫類顔ヨ」とおめおめ出てくる勇気のある人はそうそういないでしょう。りょうさんこそは、「爬虫類顔の美女」という言葉の複数形化を永久に封じてしまう絶対的存在なのであります。
 だから、私に言わせれば世間のおしゃれファッション雑誌とかにおける「モテる動物顔は?」みたいな特集でのカテゴライズ項目は、「ネコ顔」、「イヌ顔」、「タヌキ顔」、「ウサギ顔」、「りょう」、「カエル顔」……と表記されるべきなのです。

 いや、ほんと大好きなんですよね、りょうさん。私、あんまりテレビに出てこられるような芸能人の方に直接会った経験はないのですが、それでも何人かをお見かけした記憶を思い出すだに、特に女優さんって、もはや「異貌」と申してもよいような異次元のお顔立ちをされている種類の方が多いというか、それが当たり前の世界なのではないかと思ってしまいます。なんか、「モテそう」とか「うらやましい」とかじゃなくて、まず最初に「人生大変そうだな……」と感じてしまうレベルの美人さんですよね、実際にご本人を見てしまうと。こりゃ普通に生きるのは難しそうだな、みたいな。
 そんな中でも、りょうさんの異貌性というか、「異形と紙一重の美しさ」というのは、さらに一段も二段も先を行くものだと思います。他の人に見間違えようがないし、極論を言ってしまえば、りょうさんがどんな役を演じても、それは別のパラレルワールドのりょうさんでしかないのです。若い芸能人でよくある「何やってもおんなじ」とは、全く話が違うんですよね。りょうさんのそれは、高倉健さんとか田中邦衛さんの世界の高みに達しているものです。

 なので、そんなりょうさんがあの女賊・黒蜥蜴を演じるってんですから、失敗するわけがないのです。だって、黒蜥蜴もそういった異形の存在だし、犯罪界の女王になるしか道の無い悲劇的な人物だったのですから。
 一言も発せず、何もしなくても、りょうさんの立ち方、座り方に黒蜥蜴である存在の説得力がみなぎっているのです。これ以上なにが必要だというのでしょうか。

 とにもかくにも、今回の2019年版『黒蜥蜴』は、「やっと時代が追いついたか」と言いますか、りょうさんがデビューしてからなんと30年もかかって実現した「理想のキャスティング」だったのではないかと思います。失礼ながら、りょうさんだってもう若いだけではありません。でも、ピチピチキャピキャピだけでは絶対にできない緑川夫人=黒蜥蜴を、美貌、演技、そしてハイキックぶんぶんのアクションで演じきることのできる「最高のタイミング」を見逃さずにひとつの作品に結実させた林海象監督の采配は見事としか言いようがありません。

 いや~、ほんと、そんなに頑張っていいんですか?っていうくらいに、りょうさん出ずっぱりです! 場合によっては大御所の女優さんが演じることも多いし、設定上も犯罪集団の首領なので出番をセーブしようと思えばできなくもない黒蜥蜴なのですが、2019年版の黒蜥蜴は、雨宮とか松公そっちのけで働くよ~!!
 本作のりょうさんは「七変化」どころか、ざっと見てみただけでも定番の和装、女怪盗風ライダースーツ、インバネスの男装紳士、短髪ノースリーブ、ぴっちり中わけにオフショルダーのプリンセスラインドレス、イブニンググローブにエンパイアドレス、おかっぱ頭に上下オレンジの囚人服、ヴェールにオフショルダーのスレンダードレス、無造作オールバックロングヘアにロングマントと、ほんとに場面が変わるたんびに着替えてるようなひとりファッションショーの様相を呈してくれます。サービス満点! これは『黒蜥蜴』の皮をかぶったりょうさん芸能30周年記念のファン感謝ムービーか!?
 だって、峰不二子とかキャットウーマン風のライダースーツ衣装なんか、明智の追撃からロケットに乗って逃げる時に一瞬見えるだけなんだもんね。和装から着替える意味なんにもないんですよ!? それなのにちゃんとフォームチェンジしてくれるんだもんなぁ。もっと長く拝見したかった!!

 こういうわけなので、この2019年版『黒蜥蜴』は、「江戸川乱歩原作小説の忠実な映像化作品」ということを期待するのならば、それにはちと沿いかねる作品だと思います。ただ、主演のりょうさんの全キャリアの、現時点での総決算を楽しむ作品とするのならば、120点以上の価値のある一大ページェントとなっております。要するに、『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』(1969年)ならぬ『実録りょう全集 黒蜥蜴 BLACK LIZARD』となっているのが本作なのです。たった一本の作品で「全集」を名乗るなんて、石井輝男監督と土方巽にしか許されないパワープレイかと思っていたのですが、なにかとうるさい令和の御世に、林海象監督とりょうさんがそれを再現してしまったというわけ! とんでもない話よコレ……そういえば、後半の黒蜥蜴 VS 明智の対決シーンで唐突に現れた、真っ青なホリゾントを背景に舞踏をする人のくだり、ちょっと石井輝男監督っぽかったですね。ほんと、ちょっとだけだけど。

 いや~、なんで江戸川乱歩の作品のはずなのに、りょうさんがこんなにもはっちゃけちゃう「オールりょうさん感謝祭」みたいな作品になっちゃったのかしら。
 でもよくよく考えてみたら、りょうさんのすさまじい独自性がここまで自由にのびのび活躍できる世界観を持っているのは、やっぱ日本では乱歩ワールドくらいなのかもしれませんね。泉鏡花の世界もけっこう異形の女性がやりたい放題できるところではあるのですが、りょうさんの無国籍な容貌とはちょっぴり合わないかも知れないし。
 りょうさんといえば、確か昔に稲垣吾郎版金田一耕助の『八つ墓村』(2004年 フジテレビ)で田治見春代の役を演じていたかと思うのですが、りょうさんの特殊すぎる容姿って、犯人当てに主眼を置いた本格ミステリードラマの世界では意外と活躍しにくいと思うんですよ。あれももちろん重要な役ではあったのですが、りょうさんの本領発揮の場ではなかったかと思います。横溝ワールドでは意外と居場所のないりょうさん。『仮面舞踏会』の鳳千代子くらいの個性がないといけないような気がするのですが、そんなに異性との恋愛に浮き名を流す印象もないんですよね、りょうさんの美貌は性別さえをも超越しちゃってるから!

 それになんてったって、りょうさんにとって乱歩ワールドは、あの乱歩の皮をかぶった雰囲気系スットコトンチキ映画『双生児』(1999年 監督・塚本晋也)という因縁のある地だったので、今回こういう形で四半世紀ぶりにリベンジを果たせたのは、非常に感慨深いものがあるのではないでしょうか。マダム、本当に良かったですね!!


●架空の近未来への SF的アレンジは果たして必要だったのか?
 本作は開幕1秒でパッとわかる通り、1930年代の日本を舞台とする原作小説とはまるで違う時代設定で、物語の時点で50歳代後半と思われる天馬博士の経歴情報に「2004年 桐生院大学生物学部卒業」~「2017年 シンバイオテックス入社」などとあることから、だいたい2030年代後半を舞台とした近未来SF 作品になっています。

 なにせ江戸川乱歩の原作小説の時代は1920~60年代なものですから、映像化された作品は時代設定が現代(撮影時)に変更されることが非常に多く、その最たる例はやはり天下御免の天知小五郎の「美女シリーズ」ということになります。そして、これ自体は乱歩の原作ではないのですが、乱歩の『怪人二十面相』に着想を得た北村想の小説を原作とした佐藤嗣麻子監督の映画『K-20 怪人二十面相・伝』(2008年)のように、現代のみならず架空の未来やパラレルワールドを舞台とする大胆なアレンジも多いのが、乱歩系映像作品の特色でもあります。要するに登場人物と物語が普遍的にヘンなので、どの時代にアレンジしても作品がブレない頑丈さがあるんですよね、乱歩ワールドって。

 だもんで SFアレンジ自体はそんなに珍しくもないことなのですが、今回の2019年版『黒蜥蜴』に関しましては、こと『黒蜥蜴』であるという性質上、かなり大幅な変更が加えられていると言っていい事態になっております。

 それはすなはち、黒蜥蜴=緑川夫人のパーソナリティを形成する上で、明智小五郎の他に「岩瀬庄兵衛」と「天馬英九郎博士」という2人の男性の存在が非常に大きなウェイトを占めるという変更が生まれているからなのです。
 乱歩の原作小説を元とする三島由紀夫の戯曲を観てもわかるように、『黒蜥蜴』はかなり高い純度の「黒蜥蜴と明智と雨宮潤一」による三角関係の物語として描かれることが多いです。ところが今回の2019年版に関しては、SF 的なアレンジを根拠として、本来ならば物語中の単なる被害者でしかない岩瀬父娘がそうとう重要な役割を持つキャラクターとなり、さらには天馬博士という、いったい何塚治虫の世界から出向して来たのだというオリジナルキャラまでもが参戦して、黒蜥蜴の人物設定に大きな悲劇性を加える一大包囲網ができあがってしまっているのです。1人の女に対して男がわらわら集まっているという構造。『うる星やつら』かな?
 余談ですがこの天馬博士、演じている風間トオルさんはいたって真面目にこの天才科学者を演じてはいるのですが、容姿とか発言が完全に天馬博士どころか、某水中酸素破壊剤を発明した世界的に有名な博士そのまんまなので、もう笑ってよいのやら怒ってよいのやらといった闇鍋みたいなキャラになってしまっています。あんたは乱歩ワールドの住民じゃないでしょ! 黙って東宝空想ユニバースに戻ってゴジラ殺しとけや!!

 なので、本作はちょっと CG合成モリモリな作風が初見さんお断りである上に、原作小説や戯曲の雰囲気や、過去の美輪サマ(当時は丸山サマ)あたりの映像作品が好きな『黒蜥蜴』ファンにとっても、「こんなの『黒蜥蜴』じゃない!」と拒否反応を示される異端作になっちゃうのかも知れません。特に、演じていた俳優さんは特に悪いということもないのですが、雨宮というかなり屈折したおいしいキャラの役割が、岩瀬父娘や天馬博士といったわけのわかんない奴らのために、あたかも『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air』のエヴァンゲリオン2号機のごとく無惨についばまれまくってしまい、その結果、明智にムキー!と嫉妬するだけの空気読めない系あんちゃんに縮小されてしまったのは残念としか言いようのないアレンジでしたね。雨宮こそ、乱歩の代弁者のような気がするんだけどなぁ。

 また、本作における明智小五郎は、普通だったらけっこう簡単めにあしらえる力関係にあることの多いライバル(笑)怪人二十面相に、冒頭のカーチェイスで完全に出し抜かれてしまうという失態を犯しており、全体的に「若さ」が目立つキャラクターとなっています。その点では、どっちかというと黒蜥蜴から一方的に好かれてしまいながらも、あくまでも「犯罪者は犯罪者」という見方を変えずに彼女を冷徹に追い詰める原作小説の明智とはだいぶ違った人物になっていますね。ただし、一般的に有力な「明智小五郎1900年生まれ説」を採るのならば、原作『黒蜥蜴』の時点での明智もせいぜい33~34歳なので、本作で演じた永山さんとそう変わらない年齢なのですが。
 その他に、緑川夫人と対峙する時の正装が「黒縁メガネに赤い蝶ネクタイ」というバーローとっつぁん坊やな感じなのも若さを通り越してガキっぽいくらいですし、小林助手(♀)やアンドロイド・マリアにしょっちゅう心配されている不完全さも、「決して神ではない人間・明智」という側面を強調しています。
 まぁ、それはそれで、ある意味で完璧すぎる復讐者・黒蜥蜴とは正反対の人間として明智を設定するためのアレンジと解釈することもできなくはないのですが、その一方で、本作の明智は10年も前に天馬博士の失踪事件に深く関わっていたという経歴も加わっているために、「けっこう前から探偵をやってる」という情報がまじっちゃって、結局明智が有能なのか無能なのかがわからない座りの悪さがあるんですよね。

 そして、今回の SF要素が本作に「悪く機能している」最大のミソなのがここなのでありまして、明智小五郎のすごさが、明智個人じゃなくて彼をかなり分厚くサポートしているマリアちゃんに代表される「近未来の科学技術」にしかないんじゃないかと疑ってしまう余地が大いに出てきてしまうんですよね。明智のカリスマ性に「SF なので何でもアリ」という小さな穴が開いてしまい、そこからプシューと空気が抜けてしまっている状態なのです。
 その最たるものが、本作でもかなり印象的だった、アパホテ……じゃなくてヴェルドゥーラホテルでの緑川夫人と明智とのポーカー対決で、あれがふつうに1930年代~今現在までの時代設定だったら、互いに「ストレートフラッシュ」とか「フォーカード」とかいうアホみたいな高得点の役しか出さない異次元な対決に、2人の神がかった豪運、もしくはプロのマジシャンもはだしで逃げ出すいんちき(失礼!)テクニックがあらわとなる歴代屈指の名シーンとなるはずです。
 ところがギッチョン、本作はなんてったって、目の前にいる人間の姿さえもが光学迷彩 CG技術によっていくらでもだまくらかせてしまう SF作品なので、そんなもん、どうせあのトランプカードだって、白紙のカードにお互いが好きな役を投影させてるだけなんでしょ、という面白くもなんともないごっこ遊びに堕してしまうのです。

 いや~、だから、乱歩ワールドと SFって相性がいいように見えて、実はかなり慎重にすり合わせていかないと一歩間違えばキャラや作品全体の説得力・魅力が雲散霧消してしまうという、喰い合わせの悪さも潜んでいると思うんです。
 そりゃそうですよ、名探偵の神の如き推理力の源泉が「よくわかんない未来の技術でした~」なんて言っちゃったらなんでもアリになっちゃうじゃないですか!
 明智の変装は、人知れず血のにじむような特訓を積み重ね、専門のメイクアップ業者と入念&漏洩絶対厳禁の相談、打ち合わせを繰り返して、自分の髪型どころか顔の大きさや背の高ささえも変えてしまう変装技術を会得し、胸元の部分をぐいっと引っ張っただけで一瞬でパリッパリのフォーマルスーツ姿に変身できる衣装を発注しておくという、明智探偵事務所の収入の大半をつぎ込んでるんじゃなかろうかという努力の荒野に咲いた一輪の精華なのです。あ、これは原作小説というよりはアマチ小五郎の話か……でも、原作の怪人二十面相だってシコシコ夜なべして自分の身体のサイズにジャストフィットした郵便ポストとかクソでかカブトムシの着ぐるみとか作ってるんですから(手下や外部業者に任せるなんて絶対しないでしょう)、乱歩ワールドの住民に「時間と労力をいとわない変態的情熱」が必須条件であることはまず間違いありません。

 そんな常軌を逸した世界を、なんで「SF なんでアリです。」などという空辣きわまりない屁理屈で整理整頓してしまうのでしょうか……確かに本作の場合、これによってりょうさん演じる黒蜥蜴のキャラクターに、非常に分かりやすく感情移入しやすい「哀しき背景」が付与されたことは良かったかとは思うのですが、その反面、明智のキャラ造形がかなり没個性でぼんやりした「半人前ヒーロー」になってしまったことは否めないでしょう。そんな人に夕陽を背景にラストシーンで絶叫されても、ねぇ。

 余談ですが、原作小説で黒蜥蜴こと緑川夫人の下の名前は語られていないのですが(緑川だって偽名でしょうし)、この2019年版では新聞記事の中で「緑川芙美代」という記述が一瞬だけ見えます。
 芙美代、ふみよ! 乱歩ワールドにおける「ふみよ」といえば、これはもう綴りこそ違いますが、明智小五郎夫人の「明智文代」しかありえません。天知小五郎シリーズにおいては、実質小林芳雄のポジションの大部分を乗っ取っていた探偵事務所の女性助手の名前が文代だったと記憶している方も多いでしょう。
 つまり、今回の永山小五郎やかつての天知小五郎のように、明智が既婚者という設定を隠している場合、ふみよという名前を持つ女性キャラがかなり特別な意味を持っていることは間違いないのです。まぁ今回は一瞬だけの情報なのでお遊びの要素も大きいのでしょうが、そこらへんに黒蜥蜴が夢見た「あったかもしれない結末」を幻視することもできるのではないでしょうか。
 余談ですが、原作小説『黒蜥蜴』での明智小五郎は、時系列的にすでに文代と結婚して小林芳雄も探偵事務所に勤務している可能性が高いのですが、小説本編には文代も小林少年も全く登場しません。明智先生、さも独身ですみたいな顔しちゃって、も~う!!


 まぁまぁ、こんな感じでいろいろとくっちゃべってまいりましたが、今回の2019年版『黒蜥蜴』は、舞台作品も含めれば演じた女優さんがなんと20人もいるという悠久の「黒蜥蜴史」の中では、決して王道をゆくものではない異端の作品であることは確かです。なんてったって、黒蜥蜴の半生とかが原作小説に全く無いオリジナル要素であるというところが、乱歩ファンとしては痛いんだなぁ。

 しかし、ただひとつ「主演・りょう」という決定的な成功するしかないポイントに特化した点において、本作は絶対に世の多くの人々の記憶に残るべき大傑作となっているのです。黒蜥蜴というキャラクターを演じる女優さんの魅力をレーダーチャート的にさまざまな観点から評価する場合、たとえば「知性」とか「セクシー」とか「カリスマ性」とかいろんな項目が挙げられるかと思うのですが、今回のりょうさんに関しては、「爬虫類っぽさ」と「アクション」部門においてはごぼう抜きのダントツ、なんだったら永久1位あげてもいいくらいのドンピシャ人選だと思います。ほんと、このキャスティングが実現して良かった!

 あと、最後にこれも。りょうさんも演技の妖しさにギアがかかって素晴らしかったのですが、それに輪をかけて笑っちゃうくらいの怪しい演技を見せてくれるのが、手下の房子を演じた月船さららさんなんですよね。あの、常に片頬の口角を上げてほくそえんでるみたいな余裕しゃくしゃくな表情がたまらない! あの人も乱歩ワールドをゆうゆうと泳ぎきってくれていましたね~。

 なんか、SF 描写も NHK Eテレの子ども向けドラマみたいな甘い味付けですし、全体的にグリーンバックの前で撮影してたのかな……みたいな安っぽさも目立つ作品ではあるのですが、そこで毛嫌いして見ないというのも損だと思いますよ。ほんと、一人でも多くの方に観ていただきたい作品です! それを……永山さんったらよぉ~!!


 ほんと、今どきの芸能界におけるキャスティングって、ほんとに大変なのねぇ……さすがに今度の2024年版『黒蜥蜴』は大丈夫ですよね、船越さん!? ンやわたっ!!
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