ワ~オ! イッツジャスライカ、かぜのおとにぞおどろかれぬる!! どうもこんにちは、そうだいです~。
あたたくなったのはいいんですけど、今日の千葉は風が強いですねぇ~。空もようも朝からどんより曇天で、予報ではそろそろ雨が降り出すというんですが、まぁ、こんなお天気も春到来のしるしですわ。
3月ももうおしまいでございます。TBS ラジオのリスナーとしては、小島慶子さんと鎌田麻子さんに「お疲れさまでした。どうもありがとう!」と、まことに簡潔ながらお礼をのべさせていただきたいです。昨日金曜日はいろいろジーンときましたねぇ。
そうなんですよ、春が来るんですよ。4月が近いんですよ!
4月が近いのに、まだ3月21日の岡山城探訪の話をしてるんですよ……
もう、いいかげんにしようや!! この回でおしまい! ここでまとめちゃうぞ~。
さて前回に私は、現在の岡山城を語る上で欠かせない人物が、「岡山市の原型をつくった」宇喜多直家と「漆黒の天守閣を建造した」宇喜多秀家、この父子の他に「最低もう2人はいる。」と申しました。
まずそのうちの1人は、宇喜多秀家の次に新生・岡山城のあるじとなったこのお方です。
金吾中納言・小早川秀秋(1582~1602年)
出ましたねぇ! 戦国時代に興味のある方ならば、誰もが知っている超有名人でございます。
ただしその実態としては、認識のされ方が「関ヶ原合戦で石田三成を裏切った卑怯者!」「どたんばで徳川家康に鉄砲隊でおどされるまで決断できなかったビビリ」「豊臣家の御曹司なのに豊臣家を見捨てた」「典型的なボンボン」「こんな人にはなりたくない」「肖像画の顔があまりに貧相」といったあたりとなっている、実に哀しいお方なのではないでしょうか。
小早川秀秋は、その姓から見てもおわかりのように戦国時代の中国地方の覇者となった毛利元就の三男・小早川隆景の後継者でした。
ただし、これは養子縁組によるものであって、秀秋の本当の出自は豊臣秀吉の正室・高台院おねのお兄ちゃんである武将・木下家定の五男です。
要するに秀秋は、血こそ直接にはつながってはいないものの豊臣秀吉のれっきとした親族であり、豊臣一族との接近をはかった小早川隆景が実子のいないことを理由に秀秋をうまく取り込んだという経緯があったわけなんですね。かつて織田信長の存命中に熾烈な闘争を繰り広げた秀吉と毛利家の重臣・隆景なのですから、それくらいのことをしないと命の保障を確保することは難しかったということなんでしょうか。
秀秋には5人の血を分けた兄弟がいたのですが、こういった形で有名大名の家に入った人物は他にはおらず、全員父親の「木下」姓を名乗っていました。つまり、秀秋のように一人前のメジャー大名になった者はいなかったということになります。それだけ秀吉が秀秋に期待するものは大きかったのでしょう。
さぁ、ここに「豊臣家のプリンス」が2人ならびたったことになります!
同じ中国地方で戦国時代には骨肉の争いを展開していた、「宇喜多家」のプリンス・秀家と、「毛利両川の小早川家」のプリンス・秀秋。
仲がいいわけ、ない!!
結局、「豊臣家の後継者あらそい」という部分は1593年の秀吉の実子・秀頼の誕生によって一区切りがつくのですが、天下統一のさまざまな戦いや朝鮮出兵などで、2人は自身の有能ぶりをアピールするために激烈なレースを継続していたようです。なっかっよっくっ、けんかしなっ♪
そんな2人の運命の明暗がハッキリ分かれてしまったのが、何を隠そう秀吉の死後わずか2年にして勃発してしまった、天下分け目の関ヶ原合戦! 慶長五(1600)年9月15日の早朝から夕方までのノンストップバトル。
この日本史最大級の大戦闘の結果、豊臣秀頼を擁する石田三成陣営中最大の軍勢として兵1万7千をひきいて奮戦した「豊臣五大老」宇喜多秀家は、突如として発生した小早川秀秋軍1万5千の「徳川軍としての参戦」によってあえなく敗戦。
とらえられた秀家は、父・直家から継承した岡山城をはじめとする備前・美作国57万4千石の財産をすべて没収されて29歳の若さで伊豆諸島の八丈島に流刑という処分になり、徳川家勝利の最大のキーマンとなった秀秋のほうは、皮肉にもその秀家の領地のほとんどを丸取りして新しい岡山城主となるのでした。秀秋はそれまでは筑前国名島30万石の領主だったので、そこから備前・美作55万石への移封なのですから、破格の栄転という待遇になりますね。
しかし! この関ヶ原合戦での大決断は秀秋の精神と肉体に甚大なストレスを課してしまったらしく、あわれ秀秋は岡山城主となってたった2年後の慶長七(1602)年10月に病死してしまいます。享年21歳! これは若いでしょ~。
こんな感じで、どうしてもひよわで精神薄弱な印象の強い小早川秀秋なのですが、最近の研究では「関ヶ原合戦での行動は裏切りではなく、もともと石田三成との関係は険悪なものになっていた」「秀秋の決断は徳川家に自分を売り込むための積極的なアピールだった」などといった新解釈もなされるようになってきているようで、決して秀秋が大名としての資質に欠ける暗愚な人物というわけではなかったのでは……? という空気も最近は生まれつつあるようです。
そういえば、何年か前に「関ヶ原合戦にタイムスリップした自衛隊が日本の歴史を改変しようとする」という荒唐無稽な内容の TVスペシャル版『戦国自衛隊』が放送されていたのですが、内容のできは箸にも棒にも引っかからないものであったものの、そこに登場した小早川秀秋が野望に満ちた行動的な武将に設定されていて、あの藤原竜也さんが秀秋役をギラギラした目つきで熱演していたのが非常に印象的でした。こういう解釈はおもしろいですねぇ。
実際に、わずか2年間とはいうものの、岡山城主となった小早川秀秋が取り組んだ新天地での政策は実にてきぱきとしたものがあり、少なくとも領主としての秀秋は実にアクティブな人物だったらしいことがわかります。
そうなんです、たった2年間でも、秀秋が現在の岡山市、そして岡山城におよぼした影響は非常に大きなものがあったんですね!
小早川秀秋の業績とは、「天守閣以外の岡山城をほぼ完成させたこと」、これでございます。
現在の岡山城本丸公園に見られる石垣に、戦国ふうのクラシックな「野面積(のづらづみ)」と江戸ふうのアートチックな「打込萩(うちこみはぎ)」とが両方あるということは前にも言ったのですが、要するに秀家の建造した天守閣部分に使われていたのが野面積で、それ以外の部分に使われて私がいちいち「ほほぉ~! ほっほほぉお~!!」と感動していた打込萩部分をつくった人物こそが、他ならぬ秀秋だったというわけなのです。
備前・美作国の領主となり岡山城を手に入れた秀秋は、さっそく武士も民衆も総動員させた大土木工事を断行し、本丸から見て最も離れた外堀となる「二十日堀」を掘削し、堀を5重に囲んだ堅固な守りをそなえて1km 四方もの広さを持つ岡山城の城域を完成させました。
そして、その堀の掘削でできた大量の土砂を岡山城天守閣の周辺に盛り、「秀家時代の本丸部分を完全に埋め立てる」かたちで、現在の公園に残っている地形を持った新しい「岡山城本丸」を作り出したのです。つまり、やたら私が感心していた本丸の「中段・表書院」などといった部分を建てたのは、秀家くんじゃなくてそのあとの秀秋だったと。
すごい執念ですね~! さすがに天守閣には何も手は入れなかったのですが、秀秋はそれ以外の秀家の岡山城に思いっきりダメだしをしてしまったわけなんですね。そこになんらかの秀秋の個人的感情があったとしても、まぁ無理のない話ではありますよね。
ただ、たとえば豊臣秀吉の大坂城をまるごと埋め立てて再建された徳川幕府の大坂城のように、「かつての城を埋め立てて自分ごのみの新しい城を作り直す」という事業はけっこうよくある話なのですが、この岡山城の場合はもうちょっと別に、埋め立てて新しい本丸を作らなければならない事情があったのではないでしょうか。
それは、「秀家の本丸がせまかったから」なのではないかと。
実は、岡山城天守閣が低層階の広くつくられた「下半身どっしり」のお城であることは前にも言ったのですが、この第1階には実に珍しいことに、殿様が定住していた『城主の間』があったのです。そのために広めに造られていたんですね。あと、岡山城天守閣は1階の断面が「いびつな五角形」になっていることでも有名なのですが、これもめいっぱいに広げて丘の頂上を使いきるための苦心の結果だったのではないかと。
この、「天守閣に殿様が住んでいる。」という形式は、日本の城郭のパターンの中ではけっこう珍しいことなんです。たいていの場合は、殿様は天守閣に隣接して建てられているでっかい平屋のお屋敷「本丸御殿」で生活しているんですね。
よく、TV の時代劇で殿様のシーンに入る直前に、お城の天守閣の外観カットがうつって「ドン! ドン!」とかいうもっともらしい太鼓が鳴っていたりしている映像パターンがあるので、てっきり殿様はいつも天守閣にいるのかなんて気になってしまうのですが、むりやり高層につくった天守閣はあくまで戦争用や遠望用の「やぐら」の最終発展系であるわけでして、居住には適していなくてふだんは倉庫に使われたりしていることが多かったのです。
『志村けんのバカ殿様』なんか、まるで殿様の豪華な和室が天守閣の最上階にあるかのような演出がなされているんですけれども、そんな手間のかかる素っ頓狂なコーディネイトをやらかすのは実際には織田信長の安土城くらいしかなかったらしいのです。さすが信長。
とにかく、岡山城の天守閣内に秀家の居住スペースが取り込まれていたということは、これはすなはち、秀家時代の本丸に別棟の「御殿」を建てる余裕がなかったということであり、ここに着目して、本丸の平地部分を拡張して「中段・表書院」を増設した秀秋の判断は実に的確! これからくる「平和の時代」の到来を明らかに見すえていたものがあったのです。秀秋、グッジョブ! 2年後に死んじゃうけど。
ちなみに、この大改修のときに秀秋は、近所の「沼城(別名・亀山城)」にあった4階建ての天守閣を、増設した中段区域の南端にまるごと移設してきており、これを「大納戸櫓(おおなんどやぐら)」という扱いにしていました。
この大納戸櫓は明治時代に入って解体されてしまうのですが、よそのお城の天守閣をもってきて「やぐら扱い」にしてしまうとは……秀秋の力の入れ具合が伝わってくるエピソードですね。
さてさて! 岡山を作った宇喜多直家、天守閣をつくった宇喜多秀家ときて、ここについに岡山城の全体をつくった小早川秀秋が出揃いました。
ここまできたら、あとは他にどんな重要な貢献を果たした殿様がいるんだという話になるのですが、いるんだなぁ~! 他にもう1人、大事な仕事をしてくれたお方が。
その名は、池田綱政(つなまさ 1638~1714年)!!
宇喜多直家を初代とした場合、そこから数えて第7代の岡山城主となる江戸時代前期のお方なんですが、この人がなにをやったのかと言いますと~?
「日本三大庭園」のひとつ、国公認の特別名勝「岡山後楽園」をつくった!!
ここ! ここが重要なんですよ……
あの~、私、だいたい午前11時くらいに岡山城の探訪が終わったのですが、そのあとに「ついでだから後楽園にも行ってみっかぁ~。」くらいの軽い気持ちで入園してみたのですが。
まぁ~すばらしい大庭園です! おかげで午後2時から始まるお芝居に間に合うかどうかギリギリのタイムスケジュールになっちゃったよ。
岡山後楽園は、岡山城本丸の北と東をまもる旭川の対岸につくられた広大な大名庭園で、その面積は実に13万3千平方メートル!! ピンとこないたとえで申し訳ないのですが、「東京ドーム3コ分」!
私をはじめ、東日本の人たちが「後楽園」と聞いてまずパッと思いつくのは、どうしても東京の文京区にある「小石川後楽園」なのですが、この東の後楽園は水戸徳川家がつくったもので、岡山の後楽園とは直接の関連はありません。
名前が同じになったのは、命名の元ネタにした11世紀の中国(宋帝国)の古典『岳陽楼記』の有名な格言「先憂後楽(民衆の憂いの先に憂い、民衆の楽しみの後に楽しむ」がたまたまカブッてしまったからなのだそうです。君主やリーダーはかくあるべしという素晴らしいお言葉ですね。
東の小石川後楽園ができたのは1629年で、西の岡山後楽園ができたのは1700年ということなんですが……岡山がパクッたんじゃねぇよ!?
だいいち、小石川後楽園の広さは7万平方メートルですから、それも充分すごいですけど、岡山後楽園はその倍あるんです。
いんや~……岡山後楽園はすばらしかった。
また、あの日は天気がよくてねぇ。後楽園の一角には「梅」と「桜」と「もみじ」の木が100本ずつ植えられたスペースがあるのですが、まぁ~私が行ったときには明るいピンクの梅の花が満開で! すごかったですよぉ。私はやっぱり、桜より梅のほうが好きなんだなぁ。色がはっきりしてるから。桜はまだ咲いてませんでしたねぇ。今じぶんはもう満開なのかしら。
この大庭園は中央に大きな「沢の池」をおき、その周辺にさまざまな植物や休憩所・屋敷を配した一大パノラマを形成しています。
ぽかぽかとした陽光のもとに大勢の観光客がワイワイガヤガヤ楽しく行き交っている風景を見るとただ単にほのぼのしてしまうのですか、庭園の随所に、これを創建した殿様のぶっ飛んだセンスを感じさせるものがちらほら見えていたのには驚きました。
いろいろあったんですけど、私が特にビックラこいたのは、沢の池の近くにあった休憩所のひとつ「流店(りゅうてん)」でした。
ここさぁ、普通の板張りの広間のど真ん中を川が流れてんのよ! しかも実にいい形の奇石がポンっポンって置かれてたりして。
あと、庭園の西側には沢の池とは別に「花葉(かよう)の池」という静かな杉林に囲まれた池があるのですが、そのほとりにはなんと、高さ7.5m もある巨大な花崗岩「大立石(おおだていし)」がズシンと置かれているのですが。
この岩石はよその土地からこの後楽園にうつされる際に「90コの破片にていねいに分割して輸送され、花葉の池に搬入されてから再び組み立てられた」というものすごい処置を受けていたのです。もうなんか、現代の前衛アートみたいにきれいに割ったあとがついてるんですよ、縦横にこまかく! 映画『CUBE 』のバラバラにされた人みたい。
ここまでして自分の理想的な世界を築き上げたかった、この庭園の創造主・池田綱政とはいったい……
このお方は、一般には元禄時代の全国大名の「能力」を記録したといわれる謎の文書『土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)』の中で、「生まれつきの馬鹿」「分別がない」「特に色を好むことには限度はなく、手当たり次第に女に手を出して70人以上の子供を作った」「書物を読んでいる姿を見たことがない」などとボロカスにたたかれていることで有名な人物で、ネガティブな評価という点では小早川秀秋とかなりいい勝負をしている殿様です。
ところが、綱政が単なる「バカ殿さま」でなかったことは、この日本有数の大庭園・岡山後楽園が現代に至るまで雄弁に物語るものであり、ただひたすら難しい文書を読むことだけが「教養」ではないということをビンビン肌で感じさせてくれるのがこの空間なのです。
こんなところに江戸川乱歩の「パノラマ島」がほんとに存在していたとは! 大感動でした。
ちなみに、綱政はこういった大庭園を現出せしめた元禄期を代表する「へうげもの」だったわけなのですが、ちゃんとそれに取り組む前に、かつて宇喜多秀家が強引に旭川の流路を改変したために頻発していた岡山城下の大水害を解決するべく、旭川の増水を軽減するための長さ13km にもおよぶ人口の放水路「百間川(ひゃっけんがわ)」の掘削工事を完成させています。ちゃんとやることやってるんだねぇ。
とにかく、こんな流れで岡山城と同じくらいに重要な歴史的・文化的価値を持つ岡山後楽園にもメロメロになってしまった私だったのですが、ここらへんで昼近い陽気の下、ついにマシュマロとばかうけだけしか胃に入れていなかったエネルギー限界がさし迫ってきてしまい、あわや観光客でいっぱいの後楽園の中で野垂れ死にかという危険性も頭をよぎったのですが、ちょうどいいところに茶店があったので軽食をとることとなりました。
そしたらさぁ……甘酒ときびだんごのセットたのんじゃったんだよなぁ。大好きだったから。
マシュマロの次に甘酒って。ぜんぜん栄養の補給になってないんじゃない!? おいしかったけど。
そんな感じだったので、出口ちかくの「鶴舎」にいたタンチョウヅルに「ぴげー、ぴげー」と鳴かれながら後楽園を出た私は、次に入った近所の「竹久夢二郷土美術館」で、「夢二の世界と現実世界と空腹感と寝不足」とがミックスされた幽冥のあわいに立つ非常にヤバイ状態になってしまい、ある意味では最高のコンディションで夢二ワールドと向き合うことができました。
あんまり関係ないですけど、夢二美術館のお客さんは9割わかいおなごだった! ちっきしょ~このモテモテ野郎ぉ~。
結局、そのへんで時間がいいころになったので、観光をきりあげて「ほんとにご飯が食べられる場所」を探したのですが観光地をいったん出ると意外とそういったお店が少なくて、よろよろとさまよった挙句に、街の道ばたによくある「ブリキみたいな金属製の板に書かれてあるお店紹介地図」みたいなものを見て、ちょっと大きな道をはずれた場所にあった「平井食堂」というお店を選びました。
そのときは私、多分じいちゃんばあちゃんが長年経営していて「煮つけ定食」なんかがでてくるひなびた食堂かと思っていたんですけど、この平井食堂さんっていうのが実におしゃれな、その日の3つだけのメニューをチョークで入り口のミニ黒板に書いてあるっていう場所でねぇ、ご主人も私と同い年くらいの雰囲気のいいお兄さんで。
いや~、あそこで食べた「から揚げの梅ソースかけ定食」。うまかったうまかった~!!
ご飯おかわりしましたよぉ~、ラストにオレンジジュース追加しちゃいましたよぉ。
うむむ、約1日ぶりに食べるまともなご飯がこんなにおいしいものだったとは。ご主人がキッチンにいなかったら私、号泣してました。
岡山市北区、岡山城近くの平井食堂! 平井食堂! ごちそうさまでした。また必ず行きますよ~。
とまぁ、そんなこんなで、今度は一気に食べすぎて「うぷっ、もうなんにも食べられない……」と口に手をやりながら、わたくしはお芝居を観るべく、会場のルネスホールに向かったのでありました~。
ふ~……まぁ、こんな感じで。
とにかく、天気がよくてあったたかったのが何よりでしたね、ほんとに!
初めて行った岡山市と岡山城の印象は非常にすてきなものになりました。また行きたい~。
ただ、たったひとことだけ苦言を呈させていただきたいんですが……
岡山市、お土産が「きびだんご」ばっか!! いろんな会社のいろんな味のきびだんごがズラリとならんでて、他に選択肢がねぇんだよ!
いや、マシュマロと甘酒が好きなわたくしなんですから不満はなんにもないんですけど、もうちょっと、新しい風を取り入れたほうがいいんじゃなかろうかと。これではきびだんごのおいしさはわかっても、星の数ほどのメジャーお菓子たちが群雄割拠する世界の広さはわからんぜよ。
求む、「お菓子界の宇喜多直家」!! こえぇな~。
今度はぜひとも、瀬戸内海のほうに目を向けてみたいですね!
先月にたまたま私が本で読んだ「アート島」こと直島って、けっこう近かったんでしょ? いくいく!!
しっかし、今回もずいぶんと引っぱっちゃったね……まぁ、私の中にある「お城♥愛」はこれほどまでにおさえようのないものなのだ。
次はどこだ~、いい城はいねがぁ~!! イィイ~ッヒッヒッヒ。
あたたくなったのはいいんですけど、今日の千葉は風が強いですねぇ~。空もようも朝からどんより曇天で、予報ではそろそろ雨が降り出すというんですが、まぁ、こんなお天気も春到来のしるしですわ。
3月ももうおしまいでございます。TBS ラジオのリスナーとしては、小島慶子さんと鎌田麻子さんに「お疲れさまでした。どうもありがとう!」と、まことに簡潔ながらお礼をのべさせていただきたいです。昨日金曜日はいろいろジーンときましたねぇ。
そうなんですよ、春が来るんですよ。4月が近いんですよ!
4月が近いのに、まだ3月21日の岡山城探訪の話をしてるんですよ……
もう、いいかげんにしようや!! この回でおしまい! ここでまとめちゃうぞ~。
さて前回に私は、現在の岡山城を語る上で欠かせない人物が、「岡山市の原型をつくった」宇喜多直家と「漆黒の天守閣を建造した」宇喜多秀家、この父子の他に「最低もう2人はいる。」と申しました。
まずそのうちの1人は、宇喜多秀家の次に新生・岡山城のあるじとなったこのお方です。
金吾中納言・小早川秀秋(1582~1602年)
出ましたねぇ! 戦国時代に興味のある方ならば、誰もが知っている超有名人でございます。
ただしその実態としては、認識のされ方が「関ヶ原合戦で石田三成を裏切った卑怯者!」「どたんばで徳川家康に鉄砲隊でおどされるまで決断できなかったビビリ」「豊臣家の御曹司なのに豊臣家を見捨てた」「典型的なボンボン」「こんな人にはなりたくない」「肖像画の顔があまりに貧相」といったあたりとなっている、実に哀しいお方なのではないでしょうか。
小早川秀秋は、その姓から見てもおわかりのように戦国時代の中国地方の覇者となった毛利元就の三男・小早川隆景の後継者でした。
ただし、これは養子縁組によるものであって、秀秋の本当の出自は豊臣秀吉の正室・高台院おねのお兄ちゃんである武将・木下家定の五男です。
要するに秀秋は、血こそ直接にはつながってはいないものの豊臣秀吉のれっきとした親族であり、豊臣一族との接近をはかった小早川隆景が実子のいないことを理由に秀秋をうまく取り込んだという経緯があったわけなんですね。かつて織田信長の存命中に熾烈な闘争を繰り広げた秀吉と毛利家の重臣・隆景なのですから、それくらいのことをしないと命の保障を確保することは難しかったということなんでしょうか。
秀秋には5人の血を分けた兄弟がいたのですが、こういった形で有名大名の家に入った人物は他にはおらず、全員父親の「木下」姓を名乗っていました。つまり、秀秋のように一人前のメジャー大名になった者はいなかったということになります。それだけ秀吉が秀秋に期待するものは大きかったのでしょう。
さぁ、ここに「豊臣家のプリンス」が2人ならびたったことになります!
同じ中国地方で戦国時代には骨肉の争いを展開していた、「宇喜多家」のプリンス・秀家と、「毛利両川の小早川家」のプリンス・秀秋。
仲がいいわけ、ない!!
結局、「豊臣家の後継者あらそい」という部分は1593年の秀吉の実子・秀頼の誕生によって一区切りがつくのですが、天下統一のさまざまな戦いや朝鮮出兵などで、2人は自身の有能ぶりをアピールするために激烈なレースを継続していたようです。なっかっよっくっ、けんかしなっ♪
そんな2人の運命の明暗がハッキリ分かれてしまったのが、何を隠そう秀吉の死後わずか2年にして勃発してしまった、天下分け目の関ヶ原合戦! 慶長五(1600)年9月15日の早朝から夕方までのノンストップバトル。
この日本史最大級の大戦闘の結果、豊臣秀頼を擁する石田三成陣営中最大の軍勢として兵1万7千をひきいて奮戦した「豊臣五大老」宇喜多秀家は、突如として発生した小早川秀秋軍1万5千の「徳川軍としての参戦」によってあえなく敗戦。
とらえられた秀家は、父・直家から継承した岡山城をはじめとする備前・美作国57万4千石の財産をすべて没収されて29歳の若さで伊豆諸島の八丈島に流刑という処分になり、徳川家勝利の最大のキーマンとなった秀秋のほうは、皮肉にもその秀家の領地のほとんどを丸取りして新しい岡山城主となるのでした。秀秋はそれまでは筑前国名島30万石の領主だったので、そこから備前・美作55万石への移封なのですから、破格の栄転という待遇になりますね。
しかし! この関ヶ原合戦での大決断は秀秋の精神と肉体に甚大なストレスを課してしまったらしく、あわれ秀秋は岡山城主となってたった2年後の慶長七(1602)年10月に病死してしまいます。享年21歳! これは若いでしょ~。
こんな感じで、どうしてもひよわで精神薄弱な印象の強い小早川秀秋なのですが、最近の研究では「関ヶ原合戦での行動は裏切りではなく、もともと石田三成との関係は険悪なものになっていた」「秀秋の決断は徳川家に自分を売り込むための積極的なアピールだった」などといった新解釈もなされるようになってきているようで、決して秀秋が大名としての資質に欠ける暗愚な人物というわけではなかったのでは……? という空気も最近は生まれつつあるようです。
そういえば、何年か前に「関ヶ原合戦にタイムスリップした自衛隊が日本の歴史を改変しようとする」という荒唐無稽な内容の TVスペシャル版『戦国自衛隊』が放送されていたのですが、内容のできは箸にも棒にも引っかからないものであったものの、そこに登場した小早川秀秋が野望に満ちた行動的な武将に設定されていて、あの藤原竜也さんが秀秋役をギラギラした目つきで熱演していたのが非常に印象的でした。こういう解釈はおもしろいですねぇ。
実際に、わずか2年間とはいうものの、岡山城主となった小早川秀秋が取り組んだ新天地での政策は実にてきぱきとしたものがあり、少なくとも領主としての秀秋は実にアクティブな人物だったらしいことがわかります。
そうなんです、たった2年間でも、秀秋が現在の岡山市、そして岡山城におよぼした影響は非常に大きなものがあったんですね!
小早川秀秋の業績とは、「天守閣以外の岡山城をほぼ完成させたこと」、これでございます。
現在の岡山城本丸公園に見られる石垣に、戦国ふうのクラシックな「野面積(のづらづみ)」と江戸ふうのアートチックな「打込萩(うちこみはぎ)」とが両方あるということは前にも言ったのですが、要するに秀家の建造した天守閣部分に使われていたのが野面積で、それ以外の部分に使われて私がいちいち「ほほぉ~! ほっほほぉお~!!」と感動していた打込萩部分をつくった人物こそが、他ならぬ秀秋だったというわけなのです。
備前・美作国の領主となり岡山城を手に入れた秀秋は、さっそく武士も民衆も総動員させた大土木工事を断行し、本丸から見て最も離れた外堀となる「二十日堀」を掘削し、堀を5重に囲んだ堅固な守りをそなえて1km 四方もの広さを持つ岡山城の城域を完成させました。
そして、その堀の掘削でできた大量の土砂を岡山城天守閣の周辺に盛り、「秀家時代の本丸部分を完全に埋め立てる」かたちで、現在の公園に残っている地形を持った新しい「岡山城本丸」を作り出したのです。つまり、やたら私が感心していた本丸の「中段・表書院」などといった部分を建てたのは、秀家くんじゃなくてそのあとの秀秋だったと。
すごい執念ですね~! さすがに天守閣には何も手は入れなかったのですが、秀秋はそれ以外の秀家の岡山城に思いっきりダメだしをしてしまったわけなんですね。そこになんらかの秀秋の個人的感情があったとしても、まぁ無理のない話ではありますよね。
ただ、たとえば豊臣秀吉の大坂城をまるごと埋め立てて再建された徳川幕府の大坂城のように、「かつての城を埋め立てて自分ごのみの新しい城を作り直す」という事業はけっこうよくある話なのですが、この岡山城の場合はもうちょっと別に、埋め立てて新しい本丸を作らなければならない事情があったのではないでしょうか。
それは、「秀家の本丸がせまかったから」なのではないかと。
実は、岡山城天守閣が低層階の広くつくられた「下半身どっしり」のお城であることは前にも言ったのですが、この第1階には実に珍しいことに、殿様が定住していた『城主の間』があったのです。そのために広めに造られていたんですね。あと、岡山城天守閣は1階の断面が「いびつな五角形」になっていることでも有名なのですが、これもめいっぱいに広げて丘の頂上を使いきるための苦心の結果だったのではないかと。
この、「天守閣に殿様が住んでいる。」という形式は、日本の城郭のパターンの中ではけっこう珍しいことなんです。たいていの場合は、殿様は天守閣に隣接して建てられているでっかい平屋のお屋敷「本丸御殿」で生活しているんですね。
よく、TV の時代劇で殿様のシーンに入る直前に、お城の天守閣の外観カットがうつって「ドン! ドン!」とかいうもっともらしい太鼓が鳴っていたりしている映像パターンがあるので、てっきり殿様はいつも天守閣にいるのかなんて気になってしまうのですが、むりやり高層につくった天守閣はあくまで戦争用や遠望用の「やぐら」の最終発展系であるわけでして、居住には適していなくてふだんは倉庫に使われたりしていることが多かったのです。
『志村けんのバカ殿様』なんか、まるで殿様の豪華な和室が天守閣の最上階にあるかのような演出がなされているんですけれども、そんな手間のかかる素っ頓狂なコーディネイトをやらかすのは実際には織田信長の安土城くらいしかなかったらしいのです。さすが信長。
とにかく、岡山城の天守閣内に秀家の居住スペースが取り込まれていたということは、これはすなはち、秀家時代の本丸に別棟の「御殿」を建てる余裕がなかったということであり、ここに着目して、本丸の平地部分を拡張して「中段・表書院」を増設した秀秋の判断は実に的確! これからくる「平和の時代」の到来を明らかに見すえていたものがあったのです。秀秋、グッジョブ! 2年後に死んじゃうけど。
ちなみに、この大改修のときに秀秋は、近所の「沼城(別名・亀山城)」にあった4階建ての天守閣を、増設した中段区域の南端にまるごと移設してきており、これを「大納戸櫓(おおなんどやぐら)」という扱いにしていました。
この大納戸櫓は明治時代に入って解体されてしまうのですが、よそのお城の天守閣をもってきて「やぐら扱い」にしてしまうとは……秀秋の力の入れ具合が伝わってくるエピソードですね。
さてさて! 岡山を作った宇喜多直家、天守閣をつくった宇喜多秀家ときて、ここについに岡山城の全体をつくった小早川秀秋が出揃いました。
ここまできたら、あとは他にどんな重要な貢献を果たした殿様がいるんだという話になるのですが、いるんだなぁ~! 他にもう1人、大事な仕事をしてくれたお方が。
その名は、池田綱政(つなまさ 1638~1714年)!!
宇喜多直家を初代とした場合、そこから数えて第7代の岡山城主となる江戸時代前期のお方なんですが、この人がなにをやったのかと言いますと~?
「日本三大庭園」のひとつ、国公認の特別名勝「岡山後楽園」をつくった!!
ここ! ここが重要なんですよ……
あの~、私、だいたい午前11時くらいに岡山城の探訪が終わったのですが、そのあとに「ついでだから後楽園にも行ってみっかぁ~。」くらいの軽い気持ちで入園してみたのですが。
まぁ~すばらしい大庭園です! おかげで午後2時から始まるお芝居に間に合うかどうかギリギリのタイムスケジュールになっちゃったよ。
岡山後楽園は、岡山城本丸の北と東をまもる旭川の対岸につくられた広大な大名庭園で、その面積は実に13万3千平方メートル!! ピンとこないたとえで申し訳ないのですが、「東京ドーム3コ分」!
私をはじめ、東日本の人たちが「後楽園」と聞いてまずパッと思いつくのは、どうしても東京の文京区にある「小石川後楽園」なのですが、この東の後楽園は水戸徳川家がつくったもので、岡山の後楽園とは直接の関連はありません。
名前が同じになったのは、命名の元ネタにした11世紀の中国(宋帝国)の古典『岳陽楼記』の有名な格言「先憂後楽(民衆の憂いの先に憂い、民衆の楽しみの後に楽しむ」がたまたまカブッてしまったからなのだそうです。君主やリーダーはかくあるべしという素晴らしいお言葉ですね。
東の小石川後楽園ができたのは1629年で、西の岡山後楽園ができたのは1700年ということなんですが……岡山がパクッたんじゃねぇよ!?
だいいち、小石川後楽園の広さは7万平方メートルですから、それも充分すごいですけど、岡山後楽園はその倍あるんです。
いんや~……岡山後楽園はすばらしかった。
また、あの日は天気がよくてねぇ。後楽園の一角には「梅」と「桜」と「もみじ」の木が100本ずつ植えられたスペースがあるのですが、まぁ~私が行ったときには明るいピンクの梅の花が満開で! すごかったですよぉ。私はやっぱり、桜より梅のほうが好きなんだなぁ。色がはっきりしてるから。桜はまだ咲いてませんでしたねぇ。今じぶんはもう満開なのかしら。
この大庭園は中央に大きな「沢の池」をおき、その周辺にさまざまな植物や休憩所・屋敷を配した一大パノラマを形成しています。
ぽかぽかとした陽光のもとに大勢の観光客がワイワイガヤガヤ楽しく行き交っている風景を見るとただ単にほのぼのしてしまうのですか、庭園の随所に、これを創建した殿様のぶっ飛んだセンスを感じさせるものがちらほら見えていたのには驚きました。
いろいろあったんですけど、私が特にビックラこいたのは、沢の池の近くにあった休憩所のひとつ「流店(りゅうてん)」でした。
ここさぁ、普通の板張りの広間のど真ん中を川が流れてんのよ! しかも実にいい形の奇石がポンっポンって置かれてたりして。
あと、庭園の西側には沢の池とは別に「花葉(かよう)の池」という静かな杉林に囲まれた池があるのですが、そのほとりにはなんと、高さ7.5m もある巨大な花崗岩「大立石(おおだていし)」がズシンと置かれているのですが。
この岩石はよその土地からこの後楽園にうつされる際に「90コの破片にていねいに分割して輸送され、花葉の池に搬入されてから再び組み立てられた」というものすごい処置を受けていたのです。もうなんか、現代の前衛アートみたいにきれいに割ったあとがついてるんですよ、縦横にこまかく! 映画『CUBE 』のバラバラにされた人みたい。
ここまでして自分の理想的な世界を築き上げたかった、この庭園の創造主・池田綱政とはいったい……
このお方は、一般には元禄時代の全国大名の「能力」を記録したといわれる謎の文書『土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)』の中で、「生まれつきの馬鹿」「分別がない」「特に色を好むことには限度はなく、手当たり次第に女に手を出して70人以上の子供を作った」「書物を読んでいる姿を見たことがない」などとボロカスにたたかれていることで有名な人物で、ネガティブな評価という点では小早川秀秋とかなりいい勝負をしている殿様です。
ところが、綱政が単なる「バカ殿さま」でなかったことは、この日本有数の大庭園・岡山後楽園が現代に至るまで雄弁に物語るものであり、ただひたすら難しい文書を読むことだけが「教養」ではないということをビンビン肌で感じさせてくれるのがこの空間なのです。
こんなところに江戸川乱歩の「パノラマ島」がほんとに存在していたとは! 大感動でした。
ちなみに、綱政はこういった大庭園を現出せしめた元禄期を代表する「へうげもの」だったわけなのですが、ちゃんとそれに取り組む前に、かつて宇喜多秀家が強引に旭川の流路を改変したために頻発していた岡山城下の大水害を解決するべく、旭川の増水を軽減するための長さ13km にもおよぶ人口の放水路「百間川(ひゃっけんがわ)」の掘削工事を完成させています。ちゃんとやることやってるんだねぇ。
とにかく、こんな流れで岡山城と同じくらいに重要な歴史的・文化的価値を持つ岡山後楽園にもメロメロになってしまった私だったのですが、ここらへんで昼近い陽気の下、ついにマシュマロとばかうけだけしか胃に入れていなかったエネルギー限界がさし迫ってきてしまい、あわや観光客でいっぱいの後楽園の中で野垂れ死にかという危険性も頭をよぎったのですが、ちょうどいいところに茶店があったので軽食をとることとなりました。
そしたらさぁ……甘酒ときびだんごのセットたのんじゃったんだよなぁ。大好きだったから。
マシュマロの次に甘酒って。ぜんぜん栄養の補給になってないんじゃない!? おいしかったけど。
そんな感じだったので、出口ちかくの「鶴舎」にいたタンチョウヅルに「ぴげー、ぴげー」と鳴かれながら後楽園を出た私は、次に入った近所の「竹久夢二郷土美術館」で、「夢二の世界と現実世界と空腹感と寝不足」とがミックスされた幽冥のあわいに立つ非常にヤバイ状態になってしまい、ある意味では最高のコンディションで夢二ワールドと向き合うことができました。
あんまり関係ないですけど、夢二美術館のお客さんは9割わかいおなごだった! ちっきしょ~このモテモテ野郎ぉ~。
結局、そのへんで時間がいいころになったので、観光をきりあげて「ほんとにご飯が食べられる場所」を探したのですが観光地をいったん出ると意外とそういったお店が少なくて、よろよろとさまよった挙句に、街の道ばたによくある「ブリキみたいな金属製の板に書かれてあるお店紹介地図」みたいなものを見て、ちょっと大きな道をはずれた場所にあった「平井食堂」というお店を選びました。
そのときは私、多分じいちゃんばあちゃんが長年経営していて「煮つけ定食」なんかがでてくるひなびた食堂かと思っていたんですけど、この平井食堂さんっていうのが実におしゃれな、その日の3つだけのメニューをチョークで入り口のミニ黒板に書いてあるっていう場所でねぇ、ご主人も私と同い年くらいの雰囲気のいいお兄さんで。
いや~、あそこで食べた「から揚げの梅ソースかけ定食」。うまかったうまかった~!!
ご飯おかわりしましたよぉ~、ラストにオレンジジュース追加しちゃいましたよぉ。
うむむ、約1日ぶりに食べるまともなご飯がこんなにおいしいものだったとは。ご主人がキッチンにいなかったら私、号泣してました。
岡山市北区、岡山城近くの平井食堂! 平井食堂! ごちそうさまでした。また必ず行きますよ~。
とまぁ、そんなこんなで、今度は一気に食べすぎて「うぷっ、もうなんにも食べられない……」と口に手をやりながら、わたくしはお芝居を観るべく、会場のルネスホールに向かったのでありました~。
ふ~……まぁ、こんな感じで。
とにかく、天気がよくてあったたかったのが何よりでしたね、ほんとに!
初めて行った岡山市と岡山城の印象は非常にすてきなものになりました。また行きたい~。
ただ、たったひとことだけ苦言を呈させていただきたいんですが……
岡山市、お土産が「きびだんご」ばっか!! いろんな会社のいろんな味のきびだんごがズラリとならんでて、他に選択肢がねぇんだよ!
いや、マシュマロと甘酒が好きなわたくしなんですから不満はなんにもないんですけど、もうちょっと、新しい風を取り入れたほうがいいんじゃなかろうかと。これではきびだんごのおいしさはわかっても、星の数ほどのメジャーお菓子たちが群雄割拠する世界の広さはわからんぜよ。
求む、「お菓子界の宇喜多直家」!! こえぇな~。
今度はぜひとも、瀬戸内海のほうに目を向けてみたいですね!
先月にたまたま私が本で読んだ「アート島」こと直島って、けっこう近かったんでしょ? いくいく!!
しっかし、今回もずいぶんと引っぱっちゃったね……まぁ、私の中にある「お城♥愛」はこれほどまでにおさえようのないものなのだ。
次はどこだ~、いい城はいねがぁ~!! イィイ~ッヒッヒッヒ。