みなさま、どうもこんばんは! そうだいでございます。
いや~、山形はいきなり寒くなってきましたよ! 朝夕のキンキン感がハンパない……雪もちらほら降ってきましたしね~。この冬は、どうやらクリスマス付近から雪かきの恐怖におびやかされる、冬らしい冬になりそうです。早起きヤダ~!
私の住んでいる山形盆地で本格的に雪が降ったのはつい数日前の土曜日からだったのですが、実は私、その日からいつもの感じの強行軍スケジュールで、東京に行っておりました。って言っても車でなく新幹線を使っての旅だったので、ずいぶんとのんきなもんですが。
そこでまぁ、意気揚々と都内にある城跡を3ヶ所めぐりまして、土曜の夜には最大のお目当てとして、いつものあの方々のお芝居を観てまいった次第です。
いや~、歩いた歩いた! そりゃまぁ城めぐりで歩いた分が主なんですが、この土日だけ、私のスマホの歩数計のグラフがぐーん!ってなっちゃいましたよ。でも、夜は雨が降ったんですが、日中はほんとにカラッと晴れたお天気で良かったです。石神井公園も練馬城址公園も、休日の行楽を満喫する老若男女やコスプレイヤーでにぎわっておりましたね。へいわ~!! 今度はハリー・ポッターのスタジオツアーにも行きてぇなぁ。豊島園駅周辺どころか、西武豊島線沿線がハリポタ化してました……みなさん楽しそうで何より。
城山羊の会プロデュース第26回公演 『平和によるうしろめたさの為の』(2024年12月4~17日 下北沢・小劇場B1)
きましたね、今年もこの季節が! 一年の終わりが近づいていることを告げる、城山羊の会さんの不謹慎すぎる笑いの饗宴!! 私は、こっちのスタジオツアーのほうが断然大好きです。魔法はないけど、オトナのドロドロすぎる情交イリュージョンパレードが堪能できます。
私、城山羊の会さんの公演を毎回観ているわけでもないので大きな口はたたけないものの、
昨年の公演がそうだったように、城山羊の会さんのお芝居といえば「三鷹市芸術文化センター星のホール」のイメージが強かったんですよ。でも今回は下北沢ということで、私も久しぶりにかの「演劇の都」へとおもむきました。
思いきり脱線するのですが、私、千葉で一人暮らしをしていた時代から、「下北沢に行くときは必ず渋谷駅から歩く」というルールを押し通していまして(たった数百円の電車代をケチって京王線を使わなかった故事にちなむ)、今回もそのならいにより、渋谷駅から駒場を通って下北沢へ行くルートを徒歩で行ったんですよ。時間は30分前後くらいかかりますかね。
それで、だいたい4、5年ぶりに同じ道を歩いたのですが、今回はまぁ~何がショックって、昔たいへんお世話になった駒場の小劇場が、今年5月いっぱいで閉じちゃってがらんどうになってたんですよね。
いや~、まさか、あそこが閉まるとは……いつも、必ず何かの公演をやってるその劇場の横を通り過ぎて下北沢に行っていたのですが、劇団員さんもお客さんもだぁれもいない、薄暮の町の中にたたずむ暗い建物になっていたのは、非常に心にせまるものがありました。時はうつろいますね。
その一方で、スタート地点の渋谷とゴール地点の下北沢の喧騒は相変わらずと言いますか、むしろさらに増えてんじゃね!?という恐ろしいもので、おまけにゃどっちも駅舎がむちゃくちゃ変貌していたので、まるで知らない街に来たようで大いに戸惑ってしまいました。街は生きている!! 下北沢の老舗スーパーのピーコックストアさま、たいへんお疲れさまでございました。
街は生きているというのならば、今回の公演が行われた小劇場B1も、2014年開場ということで下北沢の中では比較的新しくできた劇場でして、上階の北沢タウンホールのトイレはよく借りていたのですが劇場自体には私は特に思い出はありません。そんな中でも、客として初めて入った公演が、やはり2016年に上演された城山羊の会さんの
『自己紹介読本』(初演版)だったんですよね。それももう、8年も前の話なんですねい。
そうそう、そういえば今回の作品は、その舞台設定(近くに工事現場のある公園)が『自己紹介読本』に非常に似ていました。とはいえ、ある意味で『自己紹介読本』の内容を象徴するアイテムとなっていた「故障中の小便小僧像」が今回は無くなっているので全く同じ公園でもなく、まるでパラレルワールドのような「似て非なる空間」となっており、城山羊の会のお芝居を何回か観ている方だったら「ここ、どこかで観たような……」という気がしてしまう不思議な舞台となっているわけなのです。劇場も同じですしね。
それで今回の作品の内容についてなのですが、1回しか観ていないといううろ覚えっぷりをご寛恕いただきつつ申しますと、
観る者の「うしろめたさ」をクローズアップし、そして開放する唯一無二のひみつの花園、におうが如く今盛りなり!!
といった感じになりますでしょうか。わっかるかな~、観なきゃわっかんねぇだろうなぁ~。
あのですね、もう、面白いのは当たり前なんです。でも、城山羊の会さんの提示する「面白さ」というものは、絶対的に子どもが見ても笑えるという性質の「味つけのしっかりした料理」や「爆弾」みたいにはっきりした存在ではなく、いわば観客の顔を映す「鏡」のような、相対的な存在なのです。
つまり、城山羊の会さんのお芝居を観て思わず笑ってしまうのは、そこでの登場人物たちのやり取りや悲喜こもごもに、過去に自分自身が経験した失敗や気まずさを観て「これ、あの時は全然笑えなかったけど、はたから見たらこんなにバカみたいな話だったんだなぁ。」と反芻したり、「こんなに悪いことがあれよあれよと言う間に積み重なっちゃったら、もう笑うしかないよなぁ。」と諦念したりする没入感があるからだと思うのです。なんか、この人たち不倫してるみたいだな、この女の人ヤバいな、この男の人そんなにエロいんだ……と、公園の一角で繰り広げられる定点映像をのぞきこんでいる内に、いつの間にか、「このヒヤヒヤする関係が壊れたら目も当てられなくなるんだろうなぁ。でも、壊れるの見てみたいなぁ、自分は関係ないから。」という、対岸の火事から目が離せなくなるような危険な心理状態におちいってしまうわけなのです。
でもそこ、本当に対岸ですか? もしかして、鏡に映ったあなたの家が燃えているのかも……ギャー!!
言っておきますが、たぶん、そこに「ほんとに不倫した人にしかわからない」とか「ほんとに肉親と恋人を取り合った人にしかわからない」というようなニッチな条件は必要ありません。だって、それだったら城山羊の会さんの公演がこんなに毎回大入り満員で、お客さんがほとんど黄色い声のような歓声を上げて舞台上での修羅場を喜色満面に見届ける状況など生まれるわけがないからです。
ほんの少しの、「知り合いにやましいことをした」経験、「ちょっとした隠し事があって咄嗟に嘘をついた」思い出……それさえ、その、本人さえもがすっかり忘れ果ててしまったかのようなちっぽけな「支点」さえあれば、城山羊の会さんの「力点」は、私たち観客の脳髄の中にある「作用点」をスポポポーン!!と笑いの成層圏にまで打ち上げてしまう異次元の射出能力を持っていると言わざるを得ないでしょう。
でも、今回の作品で本当に私が感服つかまつってしまったのは、今回の脚本ほど、その「力点」が簡素なものになっている作品はいまだかつて無かったのではなかろうかという点だったんですよね。
ほんと、今回の作品って、いかにも演劇的な「不思議なこと」っていうのが起きないんですよ。淡々と、事実が推移していく、だけど考えうる限り「最悪」なほうに。それだけなんです。それだけなのに面白いのです!
今までの城山羊の会さんの作品だと、そこに凄惨な殺し合いが起こったり、明らかにふつうの人ではない存在が介入したり、意図的に TVバラエティっぽい効果音と共に女優さんがなまめかしいアッピールをかましたりする、いかにもエンタメっぽいアクセントが入っていたような気がするのです。まぁ、フィクションであることを利用した展開ですよね。
それが、今回は極限まで、ない! そういった、観客の注目や違和感を比較的簡単に集められる安パイに逃げず、ただひたすらに、公園で起こってもおかしくない範囲のやり取りだけが連続するのです。まぁ、その中には法に触れる行為も多少はありますが……
ふつうですよ。そんなに大したことは起こらないんです。それなのに、あんなに面白いのは一体全体どういうことなのだろうか……
これはもう、ひとえにお話の完成度がとてつもなく高いと言うしかないのでしょう。極限までシンプルで、極限までいじわる! だがそこがサイコー!!
あえて逆の言い方をしますが、もし!もしですよ、この作品を観て「なにが面白いかよくわからなかった」という方がいたら、それは登場人物に共感できなかったということだと思いますので、自分の汚点を隠すためについたウソがばれるかも知れないという恐怖を人生の中で味わったことのない人なのではないでしょうか。ある意味、めっちゃうらやましい……不貞はするな!とか、ウソは絶対ダメ!!とかいうわかりやすすぎるお題目で世の中が回ってたら世話ないのよね。夢見る子どもじゃいられない現代人が大都会の片隅にある暗い空間で楽しむ秘密の娯楽集会、それが城山羊の会さん!!
特に、今回の作品は先ほども申したように、物語上のわかりやすい飛び道具がほとんどないので、過去作品よりもいっそう笑いの難易度が高いような気もするのですが、それでも観客は充分に満足できるというクオリティがしっかり担保されているのが本当にすごいところだと思います。
これは完全に私の思い込みなのですが、私の観た回に関して、クライマックスの乱闘シーンにおいて、私はあの名優・岡部たかしさんが若干コントっぽいオーバーでコミカルな挙動を見せていたのが、ちょっと岡部さんらしくないなと感じてしまいました。
でも、おおそれながら俳優さんの身を想像してみますと、たぶん岡部さんは「今回のお芝居の面白さ、伝わるかな……」という直感を持っていたので、おそらくそういったサービスをしてくれたのではないでしょうか。
いや、ぜんっぜん大丈夫です! 面白さ、ちゃんとわかりますよ!! 安心して千秋楽まで堂々と演じていただきたいと存じます!
ただ、確かにそんな根拠もない邪推をしてしまうほど、今回の作品は非常に高度で先鋭的で、無駄なものがいっさい無いのです。まるで F1カー、『新古今和歌集』、タルコフスキー監督の映画、麻生祐未の表情筋!!
今回のお話をおさらいしてみますと、とある、ドリル工事の騒音が時折けたたましく聞こえる公園の一角。そこには数台のベンチと、人間が1~2人隠れることができそうなブッシュ(しげみ)があり、ベンチの一つに男(演・古舘寛治)と増淵夫人(演・笠島智)が並んで座っているところから物語は始まります。
増淵夫人は男に「愛してる」と言うように懇願しますが、男は先ほどの夫人との情交からの疲れを隠さず、「言わなくても分かってるでしょ……」とはぐらかして明言を避けます。夫人はその態度に失望しつつも、愛している証拠をこの場ですぐ示せと男にせまり、ちょうどそこに長身の青年・添島(演・中島歩)が現れたにも関わらず、強引に熱い接吻を交わします。一見、2人とは何の面識もない赤の他人のように見えた添島なのですが、男が公園を去った後、夫人は添島と親しげに会話を交わし、ただならぬ関係にあったらしい過去がこの2人にもあることが暗示されます。昔のよしみからか、夫人は添島から煙草を借りて一服吸うのですが、そのやり取りを、添島と待ち合わせをして遅れてきた彼女のアキ(演・福井夏)が目撃してしまったことから、公園の一角はきな臭い雰囲気をただよわせ始めます。
アキは添島と夫人の間に何らかの関係があると怪しんで問いただしますが、2人は「無関係の他人同士で今たまたま煙草を貸し借りしただけ」と口裏を合わせてしらばっくれます。しかし微妙な違和感を拭いきれないアキはさらに疑念を強めていくのですが、そこに夫人の夫である増淵(演・岡部たかし)や、添島をまじえて会食するために来たアキの母(演・岩本えり)も現れ、複数の男女関係が入り乱れる悲喜こもごもの事態は、さらにその粘度をあげていくのでした……
ざっとお話の流れをまとめると以上のようになるかと思うのですが、私は本作の面白さの根本となる重要なポイントは2つあると見ていまして、1つ目は「ウソをつく人とつけない人のすれ違いの妙味」、そして2つ目は「うしろめたさの為の演劇って……?」ということになるかと思います。
1、ウソをつく人つけない人
城山羊の会さん作品のご多分に漏れず、今作でも様々なカップリングが現れては、狭い公園の一角で毛糸か有線イヤホンのコードのごとく無惨に混線してゆくのですが、混乱の原因はことごとく、「軽い気持ちでウソ」をつくか、逆にそれをつけなかったから。それに帰結するのではないでしょうか。相手の思いとの間に決定的な亀裂が生じるきっかけというものが、全てこの「ウソをつくタイミング」の失敗にあるような気がするのです。
例を挙げれば思いつくだけでも、「愛していると言え」と言われて咄嗟にそう言えない男、妻には仕事だとウソをついて外出し増淵夫人と真昼間から3ラウンドもいたす男、公園のベンチにいる増淵夫人と男に出くわし瞬間的に赤の他人のふりをする添島、見知った仲なのかとアキに聞かれて口裏を合わせたかのように「初対面の他人同士だ」とウソをつく増淵夫人と添島、増淵から公園の隅にいる男と知り合いなのかと言われて返答をはぐらかすアキ、増淵夫人の喫煙の話から感じたことをフィルターなしでずけずけ言う増淵、自分の夫である男がどこで誰と何をしようが全然かまわないと断言して添島に露骨なモーションをかけるアキの母……
このように、本作は「男と増淵夫人」、「増淵夫人と添島」という2つのカップリングを隠そうとする3人のウソと、そこをなあなあにせず素直に「なんで?」と追究しようとする周囲の3人とのせめぎあいが、見る見るうちにさらなる修羅場へと延焼してゆくという、まるで台所を再現した屋内セットでほっといた天ぷら鍋から火柱があがる過程を定点カメラでひたすら眺める火災防止啓発映像のような物語となっております。おかーさん長電話してる場合じゃないよー!!
ただ、ここで重要なのは、必ずしも「ウソつきが悪」で「正直者が善」というわけでもなく、「ウソつきが賢く」「正直者がバカ」というわけでもない事実が指摘されている点なのです。
おそらく、この作品を見て観客の多くが感情移入してしまうのは男・増淵夫人・添島のウソつきチームの方なのではないでしょうか。なぜなら、この3人がウソをつくのは「現在好きな相手(男にとっての増淵夫人、増淵夫人にとっての男、添島にとってのアキ)」と「過去に好きだった伴侶(男にとってのアキの母、増淵夫人にとっての増淵、添島にとっての増淵夫人)」との、どちらとの関係も平穏無事であり続けるという意味での「平和」を希求するがゆえだからなのです。要するに、視野が非常にミクロというか、はたからすれば自分勝手すぎるというエゴイズム満点な話ではあるのですが、この3人は純粋に平和主義者なのです。しかし、そのためにつくウソはめちゃくちゃ打算的で計画性もへったくれも無いものなので、ご覧の通りの惨状となってしまうわけですが。
ところが、それに対するアキ・アキの母・増淵の正直者チームの方はどうなのかと言いますと、まずもって「現在」と「過去」それぞれの存在をてんびんにかけるという考えがないので、ウソつきチームの八方美人な態度がまるで理解できず、ただひたすらにウソをつく相手を追求しては「なんで? なんでそんなウソつくん!?」と攻撃するか、もう知らんわと突き放すことしかしないわけなのです。
この関係……ウソつきが非現実的かつ純粋かつ理想主義的なもので、正直が現実的かつ視野狭窄かつ排他的なものだという対立構造は、はっきり言って世間一般的な、学校で教わってきたような道徳的な観念から見ればかなり異様で危険なものであるかのように見えます。でも、実はウソが人間の思想として周囲へのまごころあふるる(けど整合性はない)聖性から生まれるもので、正直さがとげとげしく俗っぽいものであるという感覚は、やはりどことなく太宰治を彷彿とさせる視点があるような気はしますね。まさに城山羊の会さん印の作品であるわけです。
そういう意味で、そもそも不倫をしていることが間違いの元凶であるとはいえ、終始苦虫を噛み潰したような表情で苦悩し、挙句の果てにゃ公園のブッシュに立たされて日本一恥ずかしいところを実の娘に目撃されてしまう男のたたずまいは、この世の汚濁をすべて一身に引き受けた受難者っぽくもありますし、ラストシーンで2人にはさまれたあの人が浮かべていたあの表情も、男から確実にその「受難の相」を継承しちゃったな、というオチを明示しているのではないでしょうか。あ~、次はこの人が人柱になるのか……みたいな七人ミサキ感ですよね。男はつらいよ!!
そうそう、このお話は以上のごとく、男がこれまで築きあげてきた家庭の崩壊から、新たな波乱が招来する予兆までの流れを淡々と観察してゆくのですが、終始登場人物たちの人間模様をつづっているようでいて、どこかしら、この信じられないくらい悲惨な状況が積み重なってしまう不幸のピタゴラスイッチの原因が、人間の言動がどうのこうのという人災を超えた、この「公園という場所」にある目に見えない存在が引き起こした天罰のような空気も感じさせるものがあります。なんとも、21世紀の現代科学でさえ解明不可能な、もう「悪所」としか言いようのない不気味な土地がむいた牙……そこに来る人々を一人残らず不幸にする、内藤正敏の写真の闇のような黒さをたたえたブラックホール。そこらへんの吸引力を象徴するのが、公園のベンチの後ろにあるブッシュであり、いったん公園から離れたはずの増淵夫妻を超強引に引き戻してしまう増淵夫人のスマホなわけなのです。まるで、増淵夫人が煙草を地面に押し付けてもみ消したことがトリガーになったかのような、町の中にあるなんでもない場所の「復讐」……ま、これは理屈もへったくれも無い非合理的な想像ではあるのですが、この物語が、「動物園での家族客の何気ない行動が、そこにいたゾウかキリンを怒らせて大変なことになっちゃった」みたいな解釈もできそうな、そんな不気味な可能性もあるんですよね。おもしろいなぁ。
話を戻しますが、この作品の中での「ウソつき」と「正直者」との印象の逆転現象に関してとっても重要な役割を担っているのが岡部さん演じる増淵でして、この人の正直さが増淵夫人を不倫にまで追い詰めた元凶だったという事実が判明する後半の展開は、かなりインパクトが大きかったですね。
この作品を最初から観ている観客は、明らかに不倫をしていて、しかも相手の男にかなりしつこく愛していると言えと迫る増淵夫人を見て「ヤバいなこの人……」と感じてしまうと思うのですが、そんな夫人と増淵とのやり取りを見て、アキが「旦那(増淵)のほうがヤバい!」と即断してしまうのは、アキの感性がいかに鋭敏で正確なものなのかを如実に示していると思います。ま、具体的に増淵がどうヤバいのかについては、お芝居を観た人だけのヒミツということで説明は控えておきますが、女性からしたら絶対にヤですよね、こういう男との結婚生活なんて……
ただ大事なのは、それほどヤバい増淵が「禁煙できない人」や「レストランが作ってくれた食事をすっぽかす人」を真剣に非難して、迷惑をかけた相手に対しては手土産まで用意して謝罪するという、ごくごく常識的な人間であるということなのです。近頃は、自分のことは棚にあげて全く公開しない無名の人々の振りかざす「正義」が、かなりオーバーキルな力を持って名前のある誰かを猛攻撃する現象が SNSのいたるところで見られますが、本作の増淵というキャラクターは、そういう意味で非常に現代的な存在なのではないでしょうか。なるほど~、今の悪役ってこういう感じなのかも。
また、相手の非を秒で指摘する目ざとさと舌鋒の鋭さこそ脅威な増淵ではあるのですが、意見が決裂して乱闘が始まってしまうと異様なまでに腕っぷしが弱くあっという間にねじ伏せられるというアンバランスさも、ここで作者の山内さんが仮託している現代悪の正体を看破しているようで面白いです。ここ、別にギャグで増淵が弱っちいわけじゃないんですよね。あそうか、だから本作には岩谷健司さんがいないんだ!
2、平和からうしろめたさが生まれる?
本作の序盤で、男が「世界では残酷非道な戦争や深刻な差別・迫害がはびこっているというのに、我々はこんなこと(不倫)をしていていいのか……」という主旨のことを増淵夫人につぶやく場面があります。
それ自体は、増淵夫人から「愛していると言ってくれ」とせがまれた男が困惑する中でひねり出した言葉なので、まぁ話題をそらすための方便とも解釈できますし、だいたい男だって好きで増淵夫人と蜜会しているわけなのですから、その男がどの穴から世界の危機を憂いた妄言を吐いとんねんという話なのですが、問題は、その男が見る見るうちに家庭崩壊へのレールを猛進していくために、男の「平和」に対するリアリティが秒速で変容していくというところなのです。
つまり、このお話の最初と最後とで、男からみた「平和な日常」との距離感がどんどん遠くなっていき、それと反比例して平和というもののありがたさが克明になっていくのです。こんなに恐ろしい話があるでしょうか……平和なときに平和はわからず、平和でなくなったときに平和は理想に満ちた光り輝くその姿をあらわにするのです。んもう、いじわる!!
しかし、平和という環境は非常に退屈なものである一面もあり、男がそうであったように、平和に倦んだ一部の人は、外部に刺激を求めてさまよい出るという挙に出ます。刺激というのは男にとっては「増淵夫人との火遊び」であり、「外国の戦争や差別衝突を憂うこと」であったわけなのですが、それらから逆に「ごく普通の平穏な家庭を築いている自分」の身を振り返って、「いいのかな、俺だけこんなに平和で。」とうしろめたく感じること。これこそが、男の唯一無二の愉しみとなっていたのではないでしょうか。
平和とうしろめたさとの関係は、この男に関してはこれほどに表裏一体、どちらが無くなればもう片方も無くなるという密接なものであったのです。そして、この作品の中、どこかの公園の片隅で繰り広げられた約2時間の物語をもって、男の「平和」と「うしろめたさ」は、どちらもバサバサバサーッと男の元から飛び去ってゆき、ラストシーンでベンチの真ん中に座ったあの人の肩にとまることとなった、という流れなのではないでしょうか。
あの……つまり平和っていうのは、周囲の不幸とセットでないと感知しえないものなんですかね。そういうの、昔から日本では「ざしきわらし」と言っていたのでは……昔の人の感性はやっぱすげぇ。
また、この作品で徹底しているのは、登場する人物たちの中で男に共感してくれる人が一人もいないというところなのです。男は家庭では、妻からも娘からも、娘の彼氏との会食に誘われない程つまはじきにされており、一方の愛する増淵夫人も、実は酔狂で男と不倫しているのではなく、猛烈に嫌な存在である増淵とその実母の拘束から逃れるために男を利用していたという実情が明らかになるのでした。自分が築いた家庭の中で自分をリスペクトしてくれる人がどこにもいないという事実をもって、果たしてあなたはあの男のように「平和だ」と感じることはできるでしょうか……でも、男はあえてこの状況を平和だと思い込んでいたのです。自己暗示か、麻痺か、それともたんなる超ドM なだけなのか。あっ、あの縄……山内さん作品の伏線は、こんなところにも周到に!!
……とまぁ、今回もここまで何の脈絡もなく思いついた限りのたはごとをつらつら述べてまいりましたが、要するに今年も、城山羊の会さんの定期公演は非常に面白かったと、それだけのことなのでございます。
ただ、今回の作品の質感は、明らかに昨年までの諸作とは異なり1段階以上ちがう次元に上がったような印象を受けました。面白さを感じる観客側の精神状態の熟度も必要というか……正直言って、20歳前後の大学生だった頃の私がもしこの作品を観たら同じように楽しめていたのかどうか疑わしいという感じなのですが、私も本作を楽しめるくらいの人間になれたのかなということで安心しております。間に合ってよかった。
平和とは、いったい何なのか。思えば、こうやって毎年東京にいそいそとおもむいて、物語の中で他人の平穏な人生がドンガラガラと音を立てて不幸のズンドコへと転がり落ちてゆくさまを観て爆笑できるわたくしのこの状況こそが、平和なのかも知れません。はたから見たらどうなのかはわかりませんが……
でも、私の今回の東京行に関してかえりみてみますと、このお芝居の前に練馬の石神井公園を意味もなくほっつき歩いたのですが、別に何でもない、あたたかい陽光の下で談笑しながら散歩する人々がいて、遊具で歓声を上げながらあそぶ子ども達がいて、水面を親子ですべる水鳥の群れがいて、ギャハギャハ笑いながらスワンボートをこぐ詰め襟学生服の修学旅行生がいるという光景を眺めることができていることが、今の私にとってのかけがえのない平和なのかなと、お芝居を観た後に夜の下北沢を宿(すぐそこのカプセルホテル)へと急いだときにしんみり思いました。すっっっごく平和な風景だったな、石神井公園……
余談ですが、1980年代生まれの私にとって、「練馬の石神井公園」という地はある種のユートピアと言いますか、「ほんとにあるのかわかんない理想郷」のような存在にまで神格化されておりまして、なんでかっていうと、少年時代の私が愛読していたマンガ誌『月刊コミックボンボン』(講談社)の中の佐藤元先生のギャグマンガ『爆笑戦士!SDガンダム』(1987~92年連載)で、ことあるごとに登場キャラたちや元先生っぽい人物が「練馬の石神井公園」と言っていたからなのでした。スタジオがそこにあったんですかね。
『爆笑戦士!SDガンダム』は単にガンダムの作中ネタだけでなく、明らかに当時首都圏の TVで放送されていたとおぼしき CMをパロッたギャグも頻出していたのですが、当時「民放 TV局が2局」(1989年まで 現在は民放4局)という戦時中の情報統制に近いメディア制限下の山形で育った私には元ネタがほぼわからず、「このねりまのしゃくじいというどごさいったら、どだなギャグも笑えるんだど。夢もかなうんだど。苦しみも消えるんだど……」といった感じで、どっちかというとガンダーラに近い心の中のエル・ドラドオと化していたのでした。
それでまぁ今回、少年時代からいだいていた30年以上ものの宿願が果たされたわけだったのですが……まぁ普通の町でした。ふつうにすてきで、ふつうに平和な町。でも、本当に幸せな気分になりました。
思えば、私にとっての理想郷・石神井公園に行けたその日に、今回の城山羊の会さんの平和に関するお話を楽しむことができたのも、運命が導いてくれた最高のカップリングだったのかも知れません。いつも長旅に出る前にお参りしている薬師如来さまに、今回も大感謝! また明日から頑張って生きていこう。
最後にもう一つだけ蛇足を。私、下北沢で城山羊の会さんのお芝居を観た後に、約10年ぶりくらいになると思うのですが、そうとう久しぶりに近所の有名なスープカレー屋さん「マジックスパイス」に行ったんですよ。
そしたら、隣のお客さんがたった今まさに同じ公演を観たばかりだという見ず知らずの方で、偶然だったので本当に2、3言しかお話をせずに失礼してしまったのですが、やっぱ、城山羊の会さんの公演は観た直後に感想を言い合える誰かと楽しんだほうがずっといいですね。まぁ、デートとしては相当難易度が高いほうかとは思うのですが、ちゃんとした関係だったら、仲が険悪になるようなことは絶対に無いと思います。おもしろいんだもん!
いやぁ、隣のすてきなお客さんと話ができるとわかってたら、スープカレーも見栄を張って辛さのレベル上げときゃよかったよ! 前回に行ったときは若かったし、仲間内のネタで辛さレベル最高の「虚空」(辛度7)にしてたんですが、今回はむっちゃくちゃひよって「覚醒」(辛度1)にしちゃってました……歳とったなぁオイ!! そういえば、昔はワクワクして買い物できてたヴィレッジヴァンガードとかディスクユニオンも、今はこんな感じか~ってなもんで食指は動かなかったな。もうまごうことなきおっさんだよ~!!
またマジスパさんに行って、辛さで気合を入れ直してもらわないとね。あと、現状、日本のお城旧跡の中でいちばん行きたくない「渋谷城跡」(東京都渋谷区の宮益坂わき金王八幡宮内)にも、いつかは必ず行かなきゃなんねぇし……人ごみヤダー!!
城山羊の会さんの公演を観て、いよいよ2024年もおしまいに近づいたという実感がわいてきました。来年の公演も、どうやら年末ではないようなのですが、変わらず楽しみにしております! そのために身体も健康第一でがんばっていきます!!
平和なんてものは、要は一人一人のアンテナの問題なのかも知れませんしね。やっぱりメンテは大切だ。しみじみ。