長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

う~……

2011年06月30日 23時24分43秒 | 日記
 しんど~。うぇ~い。

 なんかねぇ、「ざっくりすぎるアイドルグループ史」をやっててしんどいとか、そんな感じのグチを言いたかったんですけど、それはどうでもよくなっちゃった。まだまだ大変だけど終わりは近づいてきましたからね。

 もっとしんどいのがさぁ、暑さ! あ・つ・さ!!
 ヤバいです……梅雨明け前からキツくなってきてますよ~。ちょっと涼しくても湿気がヒドかったりしますからね。

 6月ももうおしまいで、これからはいよいよ夏本番ですか。
 どっか行きたいですねぇ、なんか新しい場所に。

 先日ね、親しい方に誘っていただいて東京タワーに行ったんすよ。赤いほうね、333メートルのほうね。
 10年ぶりくらいだったでしょうか。やっぱり東京タワーはいいですねぇ、新しくも古くもない「東京タワー時間」が流れていて。
 いいひとときをいただきました。これでなんとか、またがんばっていけますわ。

 どのくらいヘヴィな夏になるのか見当もつきませんが、とにかく心身ともに健康をこころがけてのりきっていこう。まずは水分不足とあせもに気をつけなければ!

 みなさんもくれぐれも無理はせずに今年の夏も楽しんでまいりましょうね!
 ……って、炎天下に20キロさまよい歩いてる奴に言われたかねぇか!!

 行くよ! たぶん7月もまた歩ききってやるよ。

 だって、それがわたくしなのだから!!

 つきあってられませんわ……おやすみなっさ~い。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

そうだいのざっくりすぎるアイドルグループ史 第25回 『第3次モーニング包囲網。 2000』

2011年06月29日 22時53分35秒 | ざっくりすぎるアイドルグループ史
 ホイヤ~! チョイヤ~! あっ、どうもこんばんは、そうだいです。いや、気合いで暑さを追っ払おうかと思ったんですけど、ますます暑くなってしまいました……
 なんともはや、連日とてつもない気温でございますねェー。さすがに夜は多少過ごしやすくなるんですが、これが梅雨明けになって熱帯夜になってしまうことを考えてしまうと。こえぇな! 乗り切れるのか?

 暑さしのぎに、また最近気になったニュースをひとつ。いや、涼しくなるっていうもんじゃないんですけど、思わず暑さを忘れてしまうほど「えっ……?」と言葉をなくしてしまうやつ。


『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』完結、アニメ化決定 安彦良和が描くガンダムの「原点」(毎日新聞6月27日の記事より)

 アニメ『機動戦士ガンダム』のキャラクターデザインを担当した安彦良和さん(やすひこ よしかず 63歳)がファーストガンダムの世界を再構成したマンガ『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』が25日発売の雑誌『月刊ガンダムエース』(角川書店)8月号で完結、同作品のアニメ化が発表された。

 『機動戦士ガンダム』は1979年に放送されたシリーズ第1作で、社会現象となったロボットアニメ。安彦さんはキャラクターデザインとアニメーションディレクターを務めた。『THE ORIGIN』は、安彦さんが『ガンダムエース』の創刊号から連載を開始。アニメのストーリーをベースに、アニメでは描かれなかったシャア=アズナブルの生い立ちの詳細や「一年戦争」開戦の経緯などのエピソードも盛り込まれている。
 安彦さんは同誌の巻頭で、30年以上にわたってさまざまなガンダムが生まれ続けたことに複雑な気分だったことを明かしながら、「『最初(オリジナル)のガンダム』が数ある『ガンダム』の『単なるひとつ(ワン・オブ・ゼム)』では困る。あくまでも『ただひとつ(オンリーワン)』でなくてはならない。」と振り返っている。

 アニメの制作はサンライズが担当するが、制作時期などの詳細は未定。「ガンダム」シリーズでは、福井晴敏さん(42歳)の小説が原作の「機動戦士ガンダムUC(ユニコーン)」がOVA化(全6巻予定)されており、10月からテレビアニメ『機動戦士ガンダムAGE(エイジ)』が放送予定。


 これは……うれしいニュースなのか。
 なんなんでしょうか、「玉子が先かにわとりが先か」みたいな、自分の尾っぽを食べちゃってるウロボロス的な状態になってますね、ガンダムさん。それって、業界のあり方としてヤバいんじゃありませんこと?
 「THE ORIGIN」ったって、単にマンガのタイトルがそうであるだけなんであって、内容は原点じゃなくて完全なる「アニメ版ガンダムの再編集&新解釈マンガ」ですよね? そんなにあえてアニメ化するほどたてまつるものでもないんじゃないかと。
 しかも、なんてったってあの安彦先生のマンガなんですから、あの至高の画質をアニメにする必要はさらさらないんじゃないの?
 声優陣はちょっと楽しみですね。特に気になるのはやっぱり「セイラさん」の役を受け継ぐ方ね! アムロの陰に隠れて目立たないんですが、セイラさんもそうとう人間性に起伏のある「アレな人」ですからねぇ。彼女をやりきるにはかなりの技量が必要かと。
 あとはもう、「THE ORIGIN」でアニメ版の「大佐」から「中将」にまでズビズバ~とめざましい昇進をとげたマ=クベさんが誰になるかね! 塩沢さんの死後に声を担当された『劇場版3部作特別編』の田中正彦さんはセリフがかなり少なかったので、あらためて「マ=クベ中将」のあのすごみを演じてくださるニューフェイスに期待したいところです。私のマ様への愛情は去年11月くらいの『長岡京エイリアン』でつづっております。お時間のある方は、そちらもどうぞ。

 『THE ORIGIN』のアニメ、どうなりますかねぇ。どうせだったら富野さんの「小説版ガンダム」も別口でアニメ化して、「本家」VS「元祖」キミはどっちがおもしろい!? みたいなハチャメチャな企画をやってほしいなぁ。ワイドショーも連日お互いの悪口でもちきり!って感じで。


 はいはい、おたくっぽい話題はここまでにしておきまして、今日も本題の「ざっくりすぎるアイドルグループ史」を始めることにいたしましょう……って、こっちもおたくっぽいじゃねぇかァア!!

 いよいよ「アイドルグループ史」も、20世紀の終わりをむかえるところまで歩いてまいりました。やっとここまで来たのヨねェ~。そして6月ももう終わりなのヨねェ~!
 もう2ヶ月もやってます……それでまだ終わってません。さすがに来月には終わるかと思うんですけど、第1回からおつきあいいただいている方がいらっしゃるとしたら、これ以上のはげみはないですよね。もうちょっとガマンしてね、もうちょっとで終わりますから!
 6月いっぱいかけて1990年代の10年間をやりきりましたからね。21世紀の10年間もタイヘンだけどがんばるぞ~。

 ということで、今回は20世紀のおしまい、2000年に活躍した「モーニング娘。」以外のアイドルグループのみなさんを紹介することにいたしましょう。

 前回にもつづったように、2000年のモーニング娘。はまさに無敵状態。彼女たちに対抗しうる人気を持ったグループはまったくいない情勢になっていました。
 しかし! だからといって無視してよいほど単純な話でもないと。モーニング娘の陰にあったグループの動きの中にも、のちの21世紀のヴィジョンを予見するかのような前兆はすでにあったのであります。

 さっそくズズズイとならべてまいりましょう。2000年にブレイクしたグループのみなさんで~っす。


dream(ドリーム 2000年1月~)3~8人組
 松室麻衣(17歳)・橘佳奈(15歳)・長谷部優(14歳)
 エイベックスのヴォーカルダンスユニット
 2011年6月の時点で27枚のシングル(インディーズを含む)と8枚のオリジナルアルバム(ミニを含む)を発表している実力派グループ
 1999年8月に開催されたオーディション「avex dream 2000」のグランプリ受賞者3名で結成
 ※このオーディションの準グランプリは倖田来未(17歳)であり、最終選考には藤本美貴(14歳)も!
 大人な雰囲気の楽曲で歌唱力が高い
 2002年7月から8人組となり、以後不定期でメンバー人数が変化する(2011年6月現在は5名)
 2008年7月からグループ名を「Dream」に改称し、ダンスパフォーマンスに重点を置くようになる
 2008年からは全国でのミニライヴ活動に力を入れており、同性のファンが多くなる
 2011年2月の橘の卒業により、結成メンバーが全員いなくなる
 現在は松室はソロ歌手、長谷部は女優として活動している
 代表曲 6th『My will』(2000年11月)自身最高のオリコン6位

EARTH(アース 2000年2月~05年1月)3人組
 瀬戸山清香(13歳)・東郷祐佳(14歳)・朝長真弥(14歳)
 全員が九州地方出身のR&B系ヴォーカルダンスユニット
 安室奈美恵やSPEEDを擁する芸能事務所「ヴィジョンファクトリー」のオーディションにより結成
 1999年3月のオーディション合格後は、およそ1年間にわたってニューヨークなどで本格的なレッスンを受けていた
 抜群にうまい歌唱力だったが、多くのTV番組やCMへのタイアップにもかかわらずさほどヒットせず
 5枚のシングルと1枚のアルバムをリリースした2002年3月の時点で突如活動休止
 ※それ以降は、正式に解散が発表された2005年までいっさい活動していなかった
 現在は3人それぞれが歌手として活動中
 代表曲 1st『time after time』(2000年2月)自身最高のオリコン13位

Folder5(2000年5月~03年6月)5人組
 14~16歳 AKINA(15歳)・満島ひかり(15歳)ら
 沖縄アクターズスクール出身のヴォーカルダンスユニット
 先輩にあたる安室奈美恵らのユーロビート路線を継承
 1997~2000年に活動していた7人組男女混合ヴォーカルダンスユニット「Folder」が前身
 2000年に変声期などの理由によりヴォーカル担当の三浦大地とダンサー担当の男子が脱退し、女性だけの5人組グループに改編
 8枚のシングルと2枚のオリジナルアルバムを発表するがさほどヒットせず
 2003年6月のベストアルバムのリリース以降、グループとしての活動がなくなり自然消滅
 現在はAKINAと満島ひかりが女優、石原萌が地元沖縄でタレントとして活動している
 代表曲 3rd『Believe』(2000年11月)自身最高のオリコン16位

花*花(1998年11月~2003年8月・2009年5月~)ポップスデュオ
 22歳 児嶋いづみとおのまきこ(共に兵庫県出身)
 主な楽曲の作曲は児嶋が担当している
 1998年からインディーズとして活動していたが、2000年7月に『あ~よかった』でメジャーデビュー 
 2000年に発表した1st『あ~よかった』と2nd『さよなら大好きな人』が大ヒットする
 ※『あ~よかった』はオリコン5位、『さよなら大好きな人』はオリコン6位を記録
 2003年8月のベストアルバム発売をもって活動を休止していたが、2009年から京都を拠点に再開

Whiteberry(ホワイトベリー 1999年8月~2004年3月)5人組ガールズバンド
 14~15歳
 メンバー全員が北海道北見市出身
 ※同じ「北海道出身」ということで、翌2001年に『secret base 君がくれたもの』でブレイクしたガールズバンド「ZONE」とよく比較される
 1994年から小学生ガールズバンドとして北見市で活動していた(当時はメンバー不定)
 1999年に1stミニアルバムをリリースしてデビューを果たす
 メンバーの大学進学のために2004年3月の地元きたみ東急百貨店ライヴをもって解散
 11枚のシングルと3枚のオリジナルアルバム(ミニを含む)を発表
 その後、ヴォーカルの前田由紀だけがバンド活動を続けていたが2011年2月に休止
 代表曲 3rd『夏祭り』(2000年8月)
 ※ロックバンドJITTERIN'JINNのカヴァー曲・自身最高のオリコン3位

ぱふゅ~む(2000年5月~)3人組
 かしゆか(12歳)とあ~ちゃん(12歳)ともう1名の3人組で、のっちは結成当時はいなかった
 もともとは広島県の地方TV局「テレビ新広島」のタレント養成学校「アクターズスクール広島」のスクール内グループだった
 ※沖縄アクターズスクールとはなんの関係もない
 2003年までは広島県を中心に活動していた元祖「ロコドル」
 グループ名の由来は、結成メンバー3人の名前に共通して「香」があったことから(のっちにはない)
 2001年に結成メンバーの1人とのっち(12歳)が交替して現在のメンバー構成となる
 歌手グループとしては2002年にインディーズデビュー
 2003年3月に東京に進出してからグループ名表記を「Perfume」にあらためる
 のちに2008年に全国的ブレイクを果たすこととなる

りんご娘(2000年7月~)4~6人組
 青森県弘前市のローカルアイドル
 ぱふゅ~むとならぶ「ロコドル」のパイオニア
 弘前市の市民団体「弘前アクターズスクールプロジェクト」がオーディションでメンバーを選定
 メンバー全員が弘前市出身
 グループのコンセプトは「cool&country」
 正規メンバーの芸名は「つがる」「あさひ」「紅夏(べにか)」「北斗」などと、弘前名産のりんごの品種名をもとにしている
 2000年7月にインディーズ1stシングル『LOVE&SOLDIER』でデビュー
 ※デビュー時のメンバー構成は6名だった
 2010年4月まではグループ名は「りんご娘.」で「.」がついていた
 現在のメンバー構成は4名で、結成からかぞえて第6期メンバー(結成メンバーはすでにいない)
 2011年現在までに12枚のシングルをリリースしている
 TV・映画・ラジオ・雑誌と、地元青森を舞台とした活動を積極的に展開している


 こんな感じでございますね~。なつかしいですか? あら、そう~。
 花*花は、この前のキロロと同じくご愛敬ということでね……『さよなら大好きな人』はほんとに名曲よ!

 一気に紹介してしまいましたが、見えてくるものは簡単にいうと2つ、「ブームとしてのヴォーカルダンスグループの終焉」と「ロコドルの胎動」です。

 もちろん、安室さんもMAXも第2期SPEEDも、今とりあげたドリームもみなさん現役で活躍していらっしゃるのですが、1990年代におおはやりした「ヴォーカルダンスユニット」という形式は、充分すぎるほどの実力を持っていたのにもかかわらずヒットすることのできなかった2000年代の各グループの撤退をもって終わりを告げることとなりました。ドリームを例にあげてみても、結成当初3人組だった時代と、2008~10年のインディーズ「夢者修行」(みずからつけたキャッチフレーズ)時代をへて再メジャーデビューを果たした6人組(さらに現在は5人組)の時代とではまったく別のグループに変容しているといって間違いありません。
 変容といえば、結成当初は同じ「ヴォーカルダンスグループ」と名乗っていながらも、2000年ごろに正真正銘の「アイドルグループ」に体質を変えていったモーニング娘。もまさに同じことで、要するに名を残しつつ実を変えて1990年代からうまく脱出していけたのか、それとも1990年代の終わりと運命をともにしたのかというあたりがグループの分岐点となっていたわけだったんですね。
 時代の激流の前では、メンバー個人個人の「容姿」とか「歌のうまさ」などは関係なかったということなのか。時代って、こわいね!

 そして、ヴォーカルダンスグループ潮流の一段落とともに少しずつ動き出してきたのが、日本全国の各地方で勃興してきた「ロコドル」の登場ね!
 2000年ではまだまだ「地方を活動の拠点にしている」ロコドルが全国的な知名度を得ることはなかったのですが、ぱふゅ~むやりんご娘などの結成と活躍は、沖縄アクターズスクールに触発されて各地方で設立されたタレント養成学校やアイドル養成プロジェクトが具体的なかたちを持ちはじめてきたことをしめしています。

 「ロコドル」という言葉が最初に使われたのは2004年のNHKの歌番組『ポップジャム』でのつんく♂さんの発言からなのですが、東京以外の地方を拠点にしたアイドルグループが生まれたのは、篠原涼子さんのいた東京パフォーマンスドールの妹分として大阪で結成された「大阪パフォーマンスドール」(1993~97年)がはじめだとされており、それ以後は沖縄出身の面々は言わずもがなのことながら、ハロプロ勢では北海道の「カントリー娘。」(1999年~)がいました。
 しかし、沖縄勢やカントリー娘。が具体的にブレイクしたのは東京に活動の中心を移してからのことであり、大阪パフォーマンスドールも「吉本興業」という東京にぶっといパイプを通している母体があったからこそ活動できていた側面もあって、いずれも「おらが地方のアイドル」というにはあまりに東京よりな存在になっていたわけなのです。まぁホワイトベリーもこっちのほうになりますよね。

 こんな状況の中で、地道に地方に根ざした活動を続けていくのか、それともやっぱり東京に進出していくのか。りんご娘とぱふゅ~むにも見られたロコドルの2大選択がそれぞれどう展開していくのかは21世紀のお楽しみということですな。


 まぁこのように、20世紀のアイドルグループ界はおもてむきモーニング娘。の全盛で終わっていったのですが、栄枯盛衰は『平家物語』のむかしからの人の世の常! さまざまな嵐の予感をはらんだまま、いよいよ新世紀は幕を開けていくこととなったのでありました。

 さぁ~どうなるのか。っていうか、来月7月いっぱいでこの「アイドルグループ史」は本当に終わってくれるのか!? 梅雨明け前にAKB48は登場してくれるのか。
 がんばってもう一息つっぱしっていきますよ~いっと。

 夏、こわい~!!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

そうだいのざっくりすぎるアイドルグループ史 第24回 『モーニング天下。 2000』

2011年06月27日 23時38分40秒 | ざっくりすぎるアイドルグループ史
 どうもこんばんは~、そうだいです。いやぁ~梅雨ですなぁ。降ります降ります。グチを言ってもなんにもならんよね~。ひたすらあけるのを待つしかないんよね!


 今日、目が覚めてからいつものようにパソコンを起動させてみたところ(私のパソコンはいちじるしく古いので「あける」という表現はマッチしません)、ニューストピックに、

「鈴木清順」

 とあったんですね。鈴木清順って、あの映画監督の、仙人みたいなたたずまいの? この名前を見たとき、思わず「ああ、いよいよ鈴木監督も本格的に仙界へ?」と非常に失礼なことを連想したのは私だけじゃないはずです。
 しかし、ニュースの内容は実に鈴木監督らしい奇想天外なものでした。


鈴木清順88歳結婚 半世紀年下の清純美人(asahi.com 2011年6月27日の記事より)

 映画『ツィゴイネルワイゼン』『けんかえれじい』などで知られる鈴木清順監督(88歳)が、48歳年下の女性(40歳)と結婚していたと、今日27日発売の『週刊ポスト』が報じた。鈴木監督は1997年に前妻と死別しており再婚となる。

 同誌によると、女性は小柄でスレンダー、上品な「和風美人」。女性が30代半ばだったころ2人は出会い、鈴木監督のファンだったことから映画談議がはずんで急速に親密に。数年前から都内のタワーマンションで一緒に生活しているという。2009年4月には、撮影をかねて鈴木監督が高校時代を過ごした青森県を2人で旅行。マンションの周辺では、一緒に散歩する姿がしばしば目撃されている。また、作品にかかわった関係者はブログに、昨秋マンションを訪ねたところ、仲むつまじげに暮らす夫妻に会ったことなどを記している。

 鈴木監督は2005年公開の『オペレッタ狸御殿』以降メガホンを取っていないが、今春、米寿のパーティーに出席するなど元気な姿を見せている。同誌の電話取材に対し鈴木監督は「この年で結婚のことを話すなんて……恥ずかしいんですよ。」などと話し、明言しなかったという。


 うひょぉ~、監督ぅ! やっる~。
 「親子ほどの年齢差」じゃありませんよ、「グランパと孫娘ほどの年齢差」よ!? しかも、電話取材ではにかむとは……さすがは鈴木監督。
 監督の作品は学生時代にいくつか観ましたが、もう一回観なおしてみたいんだよなぁ~。その時はまだガキンチョだったもので、ただただ圧倒されるだけだったんですよ。特に『夢二』なんかよかったねぇ。
 見た目はまんま仙人でありながら、鈴木監督はまだまだ人の世に飽きておられないご様子。その情熱のエネルギーは本当に見上げたもんでございます。あ、見上げるんだからやっぱり「雲の上の人」なんじゃん! おぉマスタ~。


 はいはーい、じゃあ今日もやってくぞ、「ざっくりすぎるアイドルグループ史」の続きだい! あ、そうすか、もう24回になるんすか……

 苦節2ヶ月、いよいよ近づいて参りましたねェ~、あこがれの21世紀が。
 今回とりあげるのは激動の20世紀最後の年、2000年でございます。なんかコンピュータの「2000年問題」とか、「2000」の数字の真ん中の「00」の部分がフレームになってるふざけすぎたメガネをかけてる人とかいましたよね。もう10年以上昔のことなのね……

 アイドルグループ史にとっての2000年はまさに「モーニング娘。単独覇権」のはじまりという重要な年となりました。
 1996年8月のCDデビュー以来、3年8ヶ月にわたって日本のヒットチャートのメインストリートを疾走し続けていたSPEEDがついに2000年の3月いっぱいをもって解散、1998年にそんな彼女たちを追いかけるような形でメジャーデビューし1999年に『LOVEマシーン』で念願の爆発的ブレイクを果たしたモーニング娘。にとっては、いよいよ「自分たちがアイドルグループ界のトップをひた走る!」時代が開幕したことになります。

 まぁ~そんなわけで、2000年のモーニング娘。の活躍っぷりはとにかくムチャクチャなものがありました。いそがしいいそがしい!
 モーニング娘。というひとつのグループとしての仕事が激増したこともモチのロンのことながら、メンバー個人個人のソロ活動も始まっていき、さらにはモーニング娘。を含めたアップフロントエージェンシー所属のアイドル集団「ハロー!プロジェクト」全体としての活動も並行しておこなわれるという「リアル八面六臂」状態の1年間だったのでございます。
 そういった活動の多彩さもさることながら、それ以後のモーニング娘。やハロプロ所属アイドルたちの活動スタイルのエポックメイキングとなる出来事も多々あった最初の年でもありましたので、ざ~っと! ほんとにざ~っとですが、モーニング娘。の周辺で起きたさまざまなトピックを以下にならべてみることといたしましょう。
 ほんとにハードスケジュールだったのよ!!


モーニング娘。黄金の2000年

1月
・1ヶ月前、前年の12月に卒業と芸能界の引退を予告していた結成メンバーの石黒彩(22歳)がモーニング娘。を去る
 ※のちに石黒はLUNA SEAのドラマー真矢(しんや)と結婚し、2003年から主にママドルとしての活動を再開させている(ハロプロではない)
・メンバー7人体制でリリースした8thシングル『恋のダンスサイト』が売り上げ123万枚のミリオンヒットとなる(自身2枚目のミリオン)
・モーニング娘。初の冠番組『モーニング娘。のへそ』(テレビ東京・毎週平日夕方6時前の5分番組)が同年9月まで放送
・3名の加入を想定した「モーニング娘。第3回追加オーディション」の募集告知が『ASAYAN』で開始

3月
・モーニング娘。の3rdアルバム『LOVEパラダイス』がミリオンヒットとなる(自身のオリジナルアルバムでは最大のヒット)
・モーニング娘。のCM出演頻度が高くなる
・ハロー!プロジェクト史上初のシャッフルユニット企画が開始され、結成された3ユニットの同日発売シングルがのきなみヒットする
 ※参加アイドル……モーニング娘。・ココナッツ娘。・太陽とシスコムーン・平家みちよ ら
 あか組4(中澤・後藤ら)  『赤い日記帳』               オリコン2位
 黄色5(安倍・保田・平家ら)『黄色いお空でBOOM BOOM BOOM』 オリコン3位
 青色7(飯田・市井・矢口ら)『青いスポーツカーの男』         オリコン4位

4月
・ハロー!プロジェクトの1stオムニバスアルバム『プッチベスト 黄青あか』がリリースされオリコン1位のヒットとなる
 ※既存グループやシャッフルユニットの他に、中澤と安倍それぞれのソロ楽曲も収録されている(安倍にとっては初のソロ)
・「第3回追加オーディション」の結果が発表され、史上最大規模の2万5千名の応募者の中から予定より1名多い4名の加入メンバーが決定する
 石川梨華(15歳)、加護亜依(12歳)、辻希美(12歳)、吉澤ひとみ(15歳)
 ※オーディションにはのちにハロプロにかかわることとなる藤本美貴や里田まい、かかわらないがグラビアアイドルの若槻千夏も参加していた
・モーニング娘。のメインレギュラー番組2本が放送開始となる
 『ハロー!モーニング。』(テレビ東京 毎週日曜日午前11時30分 2007年4月まで)
 『フライデーナイトはお願い!モーニング』(日本テレビ 毎週金曜日深夜0時30分 2001年9月まで)
 ※特に『ハロー!モーニング。』はモーニング娘。の新たな旗艦番組となり、この放送開始から『ASAYAN』への出演ペースが低くなる

5月
・メンバーの市井紗耶香(17歳)が、5月いっぱいでの卒業と芸能活動の休止を宣言する
・メンバー11名体制でリリースした唯一のシングルである9th『ハッピーサマーウエディング』がミリオンヒットとなる
・モーニング娘。出演2作目にして初主演・初劇場公開映画となる『ピンチランナー』(監督・那須博之)が全国上映されヒットする
 ※この映画のキャッチコピー「モー娘。走る!」に使用されたことから、モーニング娘。の略称「モー娘。(もーむす)」が一般化する
・宣言どおり、9thシングルと『ピンチランナー』への参加をもって市井紗耶香がモーニング娘。を卒業、芸能活動を休止する
 ※市井は翌2001年から歌手として活動を再開し、2011年現在は女優として活躍(ハロプロではない)

6月
・つんく♂の提唱によりモーニング娘。内ユニットの増設とメンバー改編がおこなわれる
 タンポポ  ……卒業した石黒にかわり石川と加護が加入した4人編成による「第2期」に
 プッチモニ ……卒業した市井にかわり吉澤が加入した「第2期」に
 ミニモニ。 ……新設(CDデビューは翌年1月)

7月
・第2期タンポポと第2期プッチモニのシングルがリリースされのきなみヒットする
 タンポポ  5th『乙女パスタに感動』 オリコン3位
 プッチモニ 2nd『青春時代1.2.3!』 オリコン1位

9月
・メンバー10名体制でリリースした初のシングルである10th『I WISH』がオリコン1位を獲得

12月
・モーニング娘。が司会をつとめる(キャイ~ンと共同)音楽バラエティ番組『MUSIX!(ミュージックス)』(テレビ東京 毎週日曜夜22時 のちに火曜日にうつり2003年3月まで)が放送開始となる
 ※『ASAYAN』の次の番組だった『MUSIX!』への出演により、モーニング娘。の『ASAYAN』への依存度はますます軽くなる
・メンバー10名体制でリリースした最後のシングルである11th『恋愛(ラブ)レボリューション21』がミリオンヒットとなる


 まァ~もう大変なもんですよ。

 ついでに、2000年に結成されたモーニング娘。のグループ内ユニットと、ハロプロ内のアイドルグループもご紹介。


ミニモニ。(2000年6月~)4名 モーニング娘。のグループ内ユニット
 モーニング娘。3番目のグループ内ユニット
 結成当初は矢口真里(17歳 初代リーダー)・辻希美(13歳)・加護亜依(12歳)の3人体制
 2000年10月にココナッツ娘。のミカ(16歳)が加入して4人メンバーで固定される
 ※この体制は2003年3月の矢口の卒業まで継続
 「身長150cm以下のメンバーによるユニット」というふれこみ
 ※実際には矢口144cm・辻153cm・加護155cm・ミカ150cm
 アニメ・コミック・ゲーム・キャラクターグッズなど、子供向けのバラエティ豊かな展開
 アニメ『とっとこハム太郎』やバラエティ『志村けんのバカ殿様』とも提携して活躍
 現在は2009年7月から始まった新たな4人組による第3期体制「新ミニモニ。」となっている
 代表曲 1st『ミニモニ。ジャンケンぴょん!』(2001年1月)オリコン1位を獲得

シェキドル(2000~02年)ハロー!プロジェクトの2~3人組ガールズバンド
 18~22歳
 所属事務所はアップフロントエージェンシーではない
 軽快・ライトなロックバンド
 インディーズバンドとしてライヴや路上演奏を活動の中心にしていた
 2000年7月の「第4回 モーニング娘。&平家みちよ妹分オーディション」出場者の中から2名で結成
 ※オーディションの優勝者は松浦亜弥(14歳)だった
 2001年3月に末永真己(21歳)が加入し3人組バンドとなる
 3枚のインディーズシングルと1枚のメジャーシングルをリリースするがヒットせず
 2002年1月のメンバー末永の体調不良からの休養により自然消滅
 現在は復帰した末永のみがソロシンガー「凛」として活動している(ハロプロではない)


 はい~。2000年のモーニング娘。とハロプロの動きは、ざっとこんな感じでありました。

 私、このあいだSPEEDについてつづっていた時、累計楽曲売り上げ1953万枚というアイドルグループ史上最大のビッグアーティストであったのにもかかわらず、そんなSPEEDの2000年3月の解散が私自身の記憶にさほど強く残っていないことが不思議でしょうがなかったのですが、原因はこれだったんですなぁ!
 基本的に忙しいモーニング娘。だったのですが、SPEEDの解散とダブった春は特にシャッフルユニット企画にCM出演にアルバムリリースに追加メンバーオーディションにと全弾発射レベルの大攻勢をかけており、まさに全力でSPEEDに「引導を渡す」ことに成功していたのです。こ、こわい……

 一見ひっちゃかめっちゃかな年だったようなのですが、見逃してならないのは確実にモーニング娘。の「体質」が変容したということです。

 所属事務所であるアップフロントエージェンシーは、モーニング娘。の理想的なメンバー人数を「10名前後」と想定していたのだそうで、そういう意味ではモーニング娘。は2000年の第4期メンバー加入をもってはじめて「完成形」になったとも言えます。
 結成メンバーだった「モーニング娘。随一の男前」石黒さんや、「かわいいのにおもしろいように目立たない」市井さんの卒業(当時は脱退とも言われていた)もさることながら、辻ちゃん加護ちゃんに石川さんによっすぃーと、去年のごっちんに続いての「明るい新世代」の加入により、かつて情念たらたらの失恋ソングを唄っていたモーニング娘。とはまったく別個の、「ハイテンションな楽曲で現実を忘れるひとときをお送りする」アイドルグループとしてのモーニング娘。が新生したのはまさに2000年のことだったのです。

 失恋ソングを唄う唄わないということを取り上げなくても、たとえば6thシングル『ふるさと』と9thシングル『ハッピーサマーウエディング』とが、同じ「家族」をテーマにしていながら冷や奴と花火つきチョコパフェほどの違いがあることからも、まさにモーニング娘。に大きな変容があったことは明らかです。

 要するに、どっちがいいのかという問題は意味がないので議論しませんが、等身大の気持ちを情感たっぷりに唄う「安倍なつみとモーニング娘。」ともいえた活動初期が、ごっちんというパンドーラの箱を開け、そのチャンスを逃さなかったつんく♂さんの方針転換によって完全に終焉し、誰が加入しても誰が卒業しても致命的なマイナスにはならない「夢をあたえるアイドルびっくり箱としてのモーニング娘。」が生まれたのが、まさしくこの2000年だったのではないかと思うんですね。
 びっくりといえば、グループ内ユニットのタンポポとプッチモニが、第4期メンバーの加入によってまるで互いに中身がすげかわったかのような「アダルト」と「ガーリー」のスタイルの逆転を起こしたこともちょっとした衝撃でした。この頃のつんく♂さんには、グループ名やユニット名についてまわるイメージの固定を避けようとする意志が強くあったのではないでしょうか。ちゃんとそれにこたえてくれるメンバー1人1人の対応力も相当なものですけど。

 つまり、モーニング娘。は2000年にはじめて、「ヴォーカルダンスグループ」でない正真正銘の「アイドルグループ」になったとも言えるんじゃなかろうかと。うおお~。

 こんな感じで、モーニング娘。は話題性たっぷりの展開をもって世間の注目をさらに独占し、新曲シングルがヒットチャート1位を獲得することも当たり前な不動の地位を手に入れることに成功しました。
 ただ、前年の『LOVEマシーン』とならんでモーニング娘。の代表作と評される『恋のダンスサイト』や『恋愛レボリューション21』がリリースされながらも、『LOVEマシーン』の売り上げ記録195万枚を超えることがついにかなわなかったのは惜しいところでした。あるいは、もうすでに「CD売り上げ不振」の時代は始まっていたと言えるのかもしれませんね。

 あと、これは言うだけ酷というものなのかも知れませんが、ハロプロ内での「モーニング娘。とそれ以外のグループとの人気の格差」がはっきり見えてきたのもこの頃からでした。まぁ、そう簡単にポンポンとメガヒットアイドルが何組も生まれるわけじゃあないですからね……
 シャッフルユニット企画がウケたのも、結局はモーニング娘。の大人気を分散させた目新しさが当たったからなのであって、この時点ではハロプロ内でモーニング娘。としのぎをけずるようなライバル的存在はまったくいなかったのです。

 これはいけません。このままではモーニング娘。の人気とハロプロの命運は一蓮托生ということになり、いずれ訪れるであろう「モー娘。ブームの終わり」とともにせっかく復活したアイドルグループ文化も再び冬の時代を迎えてしまうことに! ヤバイよヤバイよ~、ウッチャン、これほんとマジやばいってマジで~(あなたもダミ声で、さぁどうぞ)。


 しかし、現実の結果はさにあらず。ハロプロの天下はその後ずっと続き、2011年現在は今までにない「アイドルグループ全盛の時代」をむかえているわけなのです。
 なぜか!? なぜ21世紀に入ってもモーニング娘。は存続し、ハロプロの人気も続いていくことができたのか? これからの「ざっくりすぎるアイドルグループ史」は、このへんのテーマを常に見据えた流れになりそうですな~。

 ってなわけで、ハロプロ全盛期の現出によってますます白熱化していくアイドルグループの歴史のつづきは、また次回のココロだ~っ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

そうだいのざっくりすぎるアイドルグループ史 第23回 『第2次モーニング包囲網。1999 チェキッ娘の陣』

2011年06月25日 23時07分56秒 | ざっくりすぎるアイドルグループ史
 はいどうも、こんばんは! そうだいです。みなさん、今日もいい1日になりましたでしょうか? 突然また涼しくなりましたね。体調を崩さんように気をつけないと!

 突然ですけど、美人な女性が「思い出し笑い」してるのって、いいですよね。

 電車に乗っていたら、向かいの座席に座っていた女性が「木村カエラさんの姉」といった感じの美人でして、あれ、チェロっていうんですかね? 1メートルくらいのおっきな楽器をかかえてボヤーンとしてるんですけど、時々にんまりしてるのね。
 そんなにだらしない感じでもなく「ぽいっ」というていで脚をのばしていて、たまにチェロに頬づえをついているしぐさも含めて、見事に「木村カエリズム」を体現していた方だったので、妙に感心してしまいました。
 チェロっていう持ち物もいいんですけど、思い出し笑いさえも、美人にとっては武器になるんだねぇ。すごいもんだわ。私なんかがやっても気持ち悪いだけなのにねぇ、うん。


 んじゃあ~今回もおぱっ、おぱっ、おっぱじめますかい、「ざっくりすぎるアイドルグループ史」!

 いや~。6月、もう終わっちゃうねぇ。それなのに、この企画はまーんだ終わらないぃ~。
 2011年までは……あと10年ほどですか。地道にやってくしかねぇわなぁ。

 しかし、ここまで長く険しい道のりになろうとはのう。思えば遠くへ来たもんだ!

「人生とは 重き荷物を背負いて 長き坂をのぼるが如し」

 でしたっけ? かの徳川家康の言葉だとか。
 それをこのアイドルグループ史で実感いたしました。いや、もっと他になんかあるだろ。


 1998年の後半に初めてブレイクし、翌99年のまた後半にリリースした7thシングル『LOVEマシーン』でついにミリオンヒットをかっ飛ばすこととなったモーニング娘。のみなさん。

 今回は、そんな彼女たちを取り巻いて1999年以降に活躍していた他のアイドルグループのみなさんをあつかってみたいと思います。どんな人たちがいたのかナ?

 前回につづった1998年の「モーニング包囲網。」は、特にモーニング娘。を包囲しているつもりではないという衝撃の実態があったのですが、さすがにオリコン1位を獲得して『紅白歌合戦』にも初出場というキャリアを持ってしまった以上、翌99年の周囲のモーニング娘。を見つめる視線は、単なる「よくある企画ものグループのひとつ」というわけにはいかなくなっていたのです。


 さっそくいきますが、まず挙げておかなくてはならないのはこの方々ですよね!

チェキッ娘(ちぇきっこ 1998年10月~1999年11月)6~20名
 15~18歳 下川みくに(18歳)ら
 秋元康の企画協力による「平成のおニャン子クラブ」
 『夕焼けニャンニャン』でADをつとめていた水口昌彦プロデューサーが総合プロデュース
 フジテレビの夕方バラエティ番組『DAIBAッテキ!!』『DAIBAクシン!!』(1998~98年)に出演
 番組内のしろうとオーディションでメンバーが追加されていくという「おニャン子クラブ」方式の復活
 メンバーは「出席番号」ではなく「ID番号」制
 約10のグループ内ユニットが活動していた
 1999年3月の『DAIBAッテキ!!』放送終了をもって下川のみ脱退しソロ歌手デビュー
 当時盛り上がっていた「ディーヴァ(歌姫)ブーム」によりヒットせず
 ※楽曲シングルのオリコン最高順位は30位
 タイアップしていたゲーム機「ドリームキャスト」の伸び悩みも大きかった
 おおむね歌唱力がきびしい
 1999年11月の東京ベイNKホールでの「旅立ちLIVE」により解散
 2004年と2009年に期間限定で復活している
 在籍していた21名のうち、現在も芸能界で活動しているのは下川、熊切ら7名
 ※参考までに、おニャン子クラブの場合は52名中13名が現在も芸能活動を続けている


 チェキッ娘でございます。チェキー!!

 今まで、「おニャン子クラブの後継者」と目される10名以上の規模を持ったアイドルグループは、おもだったところではフジテレビのプロデュースした「乙女塾」(1989~91年)やテレビ朝日の番組企画グループ「桜っ子クラブさくら組」(1991~94年)、日本テレビの番組企画グループ「ねずみっ子クラブ」(1993年)がありましたね。アイドルグループとは言えないのですが、チェキッ娘のほぼ同時期には、同じフジテレビの深夜番組『アイドルハイスクール 芸能女学館』(1998~99年)で約20名ほどの新人アイドルが共演していました。

 だが、しかし。
 おニャン子クラブの落日から始まったいわゆる「アイドル冬の時代」の厳しさはすさまじいものがあり、CoCoやribbonを輩出した乙女塾も、菅野美穂や中谷美紀が所属していた桜っ子クラブさくら組も、当時の知名度は全国レベルとは言えない低さにとどまっていました。というか、この2グループは全体としての活動にはあまり力を入れていなかったため、「母体」としての意味はそれほどなかったともいえます。
 秋元康と後藤次利が楽曲で再びタッグを組んだねずみっ子クラブがもっとも正統な後継者であるようにも見えるのですが、10歳くらいの子どもが集まった「チャイドルグループ」だったねずみっ子クラブは、残念ながら一般的な人気を得ることのないまま消滅していきました。

 さて、そこでこのチェキッ娘なのですが、まずはグループの「パッケージ」がほぼ忠実におニャン子クラブを模したものであることがおわかりかと思います。
 まぁさすがは『夕焼けニャンニャン』にたずさわったことのあるAD出身の水口プロデューサーということで、「芸能活動経験のほぼない女性を番組内のオーディションでメンバーに加えていく」というグループの作り方は、まさに過去のどのグループよりもおニャン子クラブに近いものだったと言えるでしょう。
 ところが……上にもあげたとおり、チェキッ娘には今ひとつブレイクできないまま解散にいたってしまった「いくつかの不運」がありました。

 まずはなんといっても、「知名度が低かった」。
 原因は、チェキッ娘の活動の拠点となっていたレギュラー番組『DAIBAッテキ!!』以下のシリーズが、あの『夕焼けニャンニャン』と同じ平日夕方の枠であったのにもかかわらず、関東ローカルでの放送だったため。
 制作側としては口コミで人気が広がることも期待していたようなのですが、まだまだインターネットも一般的なものになっていなかった1990年代末期ではそれにも限界があり、実際に当時山形県に住んでいた私は、いくら『HEY!HEY!HEY!』でチェキッ娘があつかわれても、今一つ「誰だべ~?」という疑念をぬぐい去ることができなかった記憶があります。あとはやはり、そういった状況だったのに加えてフジテレビ以外のテレビ局の番組に積極的に出演しなかったことがそのまま足かせになってしまいました(他局の音楽番組でのCD宣伝程度はしている)。

 知名度の問題と並行したのが、「楽曲がヒットしなかった」。
 チェキッ娘はかなり積極的にグループ全体としても多くのグループ内ユニットとしても楽曲を発表しており、チェキッ娘本体が解散して以降も独立して活動を続けていくユニットがあったほどでした。
 有名なチェキッ娘内ユニットは以下のとおり。


NEOかしまし娘(1999年)3人組 チェキッ娘のグループ内ユニット
 下川みくに(19歳)
 グループ名は『HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP』で松本人志が命名
 1999年3月の下川のチェキッ娘脱退によって解散
 ※「かしまし娘」は「アイドルグループ史」の第1回を参照のこと
NEOちゃっきり娘(1999年)3人組 チェキッ娘のグループ内ユニット
 上田愛美(17歳)
 グループ名は『HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP』で松本人志が命名
 1999年11月のチェキッ娘解散と同時に解散
 ※「ちゃっきり娘」とは、1960~80年代に活動した女性音曲漫才トリオ
CHEE'S(チーズ 1999年1月~2001年6月)3~5人組 チェキッ娘のグループ内ガールズバンド
 17~19歳 新井利佳(ベース担当 18歳)がリーダー
 全員が楽器を演奏しながら歌唱するスタイル
 結成から解散まで在籍していたのは新井と藤岡麻美(ドラム担当 17歳)
 下川みくにもチェキッ娘を脱退する1999年3月まで在籍していた(トランペット担当)
 プロベーシストの吉田建がプロデュース
 1999年11月にチェキッ娘が解散した後にも活動を続ける
 3枚のメジャーシングルをリリースするがヒットせず解散
 現在は新井は引退しているが藤岡は歌手として活動している
METAMO(メタモ 1999年7月~2003年3月)3人組 チェキッ娘のグループ内ユニット
 18~19歳 熊切あさ美(19歳)ら
 体操服にブルマ姿だったりする「色もの」ユニット
 1999年11月にチェキッ娘が解散した後にも活動を続ける
 バラエティ番組でものまね芸などを披露していた
 2枚のメジャーシングルと1枚のアルバム(タイトルは『うざい曲集』)をリリースするがヒットせず解散
 現在は熊切のみがタレントとして活動している(「崖っぷちアイドル」と呼ばれていた時期も)


 こんな感じだったのですが、どのグループもどの曲も今一つヒットしなかったのは、知名度が低かったからなのか、単に曲がよくなかったからなのか。
 やっぱり、いくら「アイドル冬の時代」が終わったとはいえ、それはおニャン子クラブが大いにウケた「しろうとっぽさ大歓迎の時代」が戻ってきたということではなかったんですな。当時の「歌はうまくて当たり前」というディーヴァブームをくつがえすことはできなかったと。
 ちなみに、チェキッ娘の活動に企画協力した、「おニャン子クラブの生みの親」にしておニャン子クラブの多くの名曲の作詞を手がけてきた秋元康さんは、チェキッ娘の楽曲にはいっさいかかわっていません。
 なぜこんなに秋元さんがつれなかったのかといいますと、実は当時、秋元さんはセガの新世代ゲーム機「ドリームキャスト」の宣伝プロデューサーとなっており、あくまでその戦略の一環としてチェキッ娘の活動と提携するという立場だったからなのです。

 そう、そしてチェキッ娘最大の不運となった致命的なポイントもそこ! 「組んだドリームキャストが失敗した」。ここだったんだなぁ~。
 セガの社運をかけて開発されたという「ドリームキャスト」は1998年から秋元さんをまねいて大々的な宣伝攻勢をかけ、当時本当にセガの重役だった「湯川専務」を主役にしてしまう斬新すぎるCMなども大きな話題となりました。
 しかし! ゲーム機としての性能以外にも互換性だとかDVDが観られる観られないだとかソフト商品の発売トラブルだとかなんとかで、ライバルだったソニーの「プレイステーション2」に大きく水をあけられてしまい、2001年にあえなく撤退の憂き目を見ることとなります。
 ここねぇ……インターネットの線がなかったとしても、もしゲーム業界で勝ち馬に乗ることができたら、そこから知名度が上がったり楽曲がタイアップ戦略でヒットすることもありえたかもしれんのですが……

 この「アイドルグループ史」をつづるにつけて、アイドルというものは「時運に乗る」というラッキーさも、重要なというかなによりも一番大切な実力であって、実は「かわいい」があっても「歌がうまい」があっても「おもしろい」があってもタイミングが悪かったらブレイクできないという冷酷な歴史的事実を痛感してしまうのですが、そういう意味ではチェキッ娘ほどわかりやすい残念な例はないと思うんですね。

 結局、「おニャン子クラブにもっとも近い存在」だったチェキッ娘は、その意欲的な展開にもかかわらず諸要素が見事なまでに噛みあわなかったため、当時全盛期にあったSPEEDやモーニング娘。をおびやかすアイドルグループとなることのないまま1999年に「旅立ち」という名の解散をとげることとなりました。
 つまるところ、2~3年間『オールナイトフジ』が充分にあたためてきた「しろうとブーム」をきれいに継承したおニャン子クラブにくらべて、チェキッ娘はあまりにも助走期間がなさすぎたのです。『夕焼けニャンニャン』のシステムだけをトレースしてもしょうがなかったのね。
 そのため、芸能界に残ったチーズやメタモもその後は厳しい路をあゆまざるをえず、特にバラエティ番組で活動したメタモは過酷な仕事も多く、お笑い芸人にまざってハロプロ系の「プッチモニ」などのものまねをする彼女たちを観て、多くの人々が袖をぬらしたとかそうでもないとか。

 しかし! ここで私は特記しておきたい。チェキッ娘は、「解散コンサートの価値の再確認」という最後の1点でアイドルグループ史に名をきざむ存在になりえたと。
 要するにチェキッ娘は、名曲がなくてもメンバーの個性がよくわからなくてもアーティストとしての実力がまだそなわっていなかったとしても、「私たち、解散します!」という気持ちに嘘偽りがなかったとしたら、解散コンサートの彼女たちはなによりも光り輝く存在になるのだということを証明してくれたのです。
 まさにガチンコ。1999年の解散コンサートだけは、その時のチェキッ娘だけは、SPEEDもモーニング娘。もかなわない「その日その時にしか味わえないライヴのエンターテインメント」を創造していたのでしょう。

 そういう点では、解散ではないですがつい最近にあったAKB48の第3回総選挙も、同じような興奮があったのではないでしょうか。つまりは、AKB48の楽曲が好きでない人も、メンバーの顔と名前が一致しない人でさえもついつい引き込まれてしまうのが「人生をかけたアイドルたちの感情のやりとり」なのです。
 だとすれば、AKB48の直接の「おかあさん」にあたるのはチェキッ娘だというのか……母の無念を娘が晴らす。すすす、すごい大河ドラマだ!

 かわいさよりも歌よりも、その真剣さ。それが垣間見える瞬間に立ち会いたいからこそ、人はアイドルのファンになるのかもしれない。
 

 スペースをだいぶチェキッ娘だけにさいてしまいましたが、1999年にはSPEEDの正式な後継グループとも言えるこんな方々もいました。


y's factory(ワイズファクトリー 1999年10年~2002年1月)3人組
 14~15歳 山田優(15歳)ら沖縄出身のヴォーカルダンスユニット
 沖縄アクターズスクールの選抜メンバー「B.B.WABES」の中から結成
 メンバーの名前が「ユウ」「ユカ」「ユウカ」でYつながりだったので「y's factory」
 6枚のシングルと1枚のアルバムをリリースするがヒットせず
 山田はすでに並行してモデルや女優としても活動していた
 現在は山田のみ芸能活動を続ける


 彼女たちはパチモンではなく、正真正銘の「SPEEDの後輩」だったわけなのですが、SPEEDの解散宣言にあわせて満を持してデビューしたものの、やはり巨大なファン層をそっくりそのまま引き継ぐことはできなかったようです。
 3人とも、沖縄アクターズスクールのエリート中のエリートだったので歌唱力もダンスも申し分はなかったものの、どうやら山田さんのその後の活躍を見てもわかるように、少々とっつきにくいハイレベルな「大人感」を出しすぎたのがいまいちブレイクできない原因だったのではないでしょうか。
 つまり、同じバラードを唄っていたとしても、感情をむき出しにしたなりふりかまわないモーニング娘。にくらべて、ワイズファクトリーはどこかかっこよすぎて崩れないスタイルのドライさがあったのです。それがそのまま「手数の少なさ」というか「単調さ」に見えてしまったのではないかと。
 そんな感じだったため、ワイズファクトリーの埋められなかった「SPEEDの穴」は、のちにSPEEDご本人たちが再び埋めることとあいなったのでした。

 やっぱり、「後継」だ「妹」だっていうのはなにかと分が悪いものなんですなぁ。
 このように、1999年くらいからじょじょ~に始まってきた「モーニング包囲網。」というか、モーニング娘。への周辺の意識だったのですが、まだまだ充分に対抗しうるアイドルグループが台頭することはありませんでした。そういう点では、モーニング娘。の相手はあくまでも他のビッグアーティストやディーヴァブームで登場した歌姫たちだったのであり、アイドルグループの情勢は「モーニング娘。ひとり勝ち」のまま20世紀の終焉を迎えようとしていたのでありました。


 はいは~い、次回はいよいよ20世紀最後の年・2000年。ますます盤石のものとなっていくモーニング天下をたどっていきたいと思いま~す。
 辻ちゃん加護ちゃんあらわる! なっち丸くなる!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風の吹いた日 ~桜木町恨道中と『さや侍』~

2011年06月24日 22時35分29秒 | ふつうじゃない映画
 はいど~うもっ。そうだいです。

 いや、暑いよ……梅雨じゃなかったのかよ。2~3日連続でむしむしむしむし。カンベンしてくださいよ~。


 そんな中でもね、昨日やっちゃったんですよ、予告通りにアレを!

 やっちゃった! 「桜木町恨道中2011年 狂風(さくらぎちょううらみのみちゆきとうぇにぃいれぶん きょうふう)」を!!

 感想はもう、「なんでよりによって昨日にやらかしてしまったんだ……」のひとことにつきます。
 昨日はねぇ、暑いのもひどかったんですけど、もうなによりもキツかったのが「強風」!!

 今回も「やるたびに出発駅を変えて少しずつ桜木町に近づけていく」というルールにのっとりまして、

「京浜急行線 六郷土手(ろくごうどて)駅」

 から出発いたしました。六郷土手駅は「京急線東京最南端の駅」ということでつとに有名、じゃないね。
 相変わらずゆっくり運転の各駅停車に乗りまして、2~3回の急行通過待ちをへて到着した六郷土手駅は、さすがに東京都内の駅舎なので「ボロい」ということはなかったのですが、平日の午後ということもあってか降りる人はまばらで、おりからの節電のためにかなり屋内が薄暗くなっている雰囲気もあいまって私に妙な不安をいだかせるのに充分な説得力をもつものがありました。

 そう、実は今回、私は出発して間もない段階で、

「今回はたぶん、楽しいハイキングにはならないかもしれん……心してかかろう。」

 という不吉な予感がしていたのです。足のひらが大変なことになったり2時間豪雨にうたれながら歩いたりと、好きでやってないのなら即効で実家の家族に電話をかけたくなるような数多くの苦難(っぽいプレイ)を乗り越えてきた「桜木町恨道中」だったのですが、こんなことは今まで1回もなかったよ。

 別に暑すぎてヤバイ、などと考えたということではありません。いや、まぁ確かにやってみたらヤバい暑さだったわけなのですが、出発したお昼1時の段階では、まだ私のいる千葉はくもりがちでさほど気温が上がるようには感じられなかったのです。
 しかし、風だけはその時からビュンビュン吹きすさんでいたのです。


 そう、風。


 私が不吉な予感をいだいたのも、その風が原因でした。

 これからJRを使って東京に行くぞと思い、もよりの駅に入ってホームで電車を待っていたところ、そこにひときわ強い風が吹き抜け……


 お、おらぁ……おら見ちまったんだ、パンのチラを! じょ、じょじょ、女学生の!!


 普通の子だったんだけど、ほんと! ほんとにマンガみたいに一瞬だけひるがえって、あ、あざやかな、あざやかなICHIGOがらが、がらがらがりんぺいろ。


 ま、まま、待ってくれ! 誤解だ、誤解なんです。いや、見たのは確かだから誤解じゃないんだけど。
 こっちは見るためになんの努力もろうしてないのよ!? それなのに偶然バッチリ見ちゃったんだよ。

 私はつねづね、階段をのぼる時に前にいるミニスカートの女性が、自分のおしりに手をまわしたりバッグをそえていたりしているのを見ては、「あぁ、パンチラがいやなのね、じゃあそんなに短いのはかなきゃいいんじゃん!」と思っていたのですが、

 今こそ真実に気がついた……ミニスカートのパンチラはパンチラにあらず!!
 なぜならば、真のパンチラとは、風をはらむことができる充分な長さをもったロングスカートが、強風という「神のおぼしめし」を受けてひるがえる一瞬の奇跡現象だからなのである。
 だからね、ミニスカートのパンチラはただの「人間による簡易模造品」! 大自然の決断を必要条件とする「真のパンチラ」とはどだいスケールが違うのです。


 ……もし、もしかしたらの話よ? もしこの『長岡京エイリアン』を読んでらっしゃる方の中に女性の方がいらっしゃるとしたら……ひく?


 とにかくですね、昨日の体験に、私は素直に感動してしまいました。いやらしいなんていうキモチは毫もわきおこらないもんなんだなぁ、「本物」は。

 かつて、「観光旅行」の「観光」という文字の本来の意味とは、「光を観る」。つまりは、「人ならざる、日常ならざるもののパワー(光)」をさずかるためにふだん行かない場所へおもむくという重要な意味合いがあったのだといいます。
 そういう意味では、私が昨日体験したパンチラは、しょっちゅう使っている駅のホームでの出来事であったとはいえ、まさに本当の意味での「観光」だったのではなかろうか……とかなんとか、ごたくをならべてみてももう遅い? 俺オワタ?

 そんなわけで、『長岡京エイリアン』はパンツ盗撮に反対します。

 女性の心に重い危害を加える犯罪行為であることも当然ながら、それは「神の意志を自分勝手に捏造しようとする最大級の冒涜行為」です。神に近づこうとしてよけいに神から遠ざかる。愚の骨頂よ!
 嫌な死に方をしたくねぇんだったら、人様のパンツをのぞこうなんていうことは自分からするもんじゃあねぇ。のぞかぬパンツにたたりなしだぜ。


 話をもとに戻しますと、出発のでばなでそんな奇跡体験アンビリバボーをくらってしまった私は、即座に、

「天運つきたり!! 今回の桜木町ハイキングは成果はないであろう。」

 と横山光輝調で予感してしまったのでした。そして、それは実際にあたってしまいます。


 ……っていう、作り話でした!! いやーねぇ、パンチラなんて見るわけないじゃないの、ヘンタイじゃないんだからぁ~。冗談よ冗談! 女性の方、びっくりした? うそうそ!! みんなうそよ!?
 
 これでどうかな。ダメ? やっぱ手遅れ?


 まぁ~実際ね、六郷土手から桜木町、そしてそこからさらに「あるお店」に行くという今回のハイキングはきつかったね。
 暑いし、基本的にず~っと向かい風だし。
 交通標識が強風でたわんでるのは何回も見ましたよ。砂ボコリもひどかったし、みなとみらいあたりの浜風が特にキツくて、私なんか体重のあるほうではないので、マイケル=ジャクソンのアレみたいに基本的に前にかたむきながらの姿勢で歩いていました。
 結局、歩いたトータルは20キロで、飲んだペットボトルは大小とりまぜて3本か。汗をふくもの持ってってて本当によかった。
 もっとも徒労に感じてしまったのは、例の「お店」がやっぱりやってなかったということね。さすがにこれは、どうやら私のそのお店に対する認識が甘かったようなので、まだ桜木町に行ったらそのお店に行くということは続けるけれども、もうちょっと別の手も打たなきゃいけないかなという気になってきました。こっちもそれほどのんびりしてなれない事情があるんでね。

 つうことで、今回の桜木町行も、成功はしたけど収穫はナッシング。ただ、2~3時間炎天下に向かい風のなか歩いても筋肉痛どまりで済む身体になっているということがうれしいですね。私の足のうらも、最初のあの惨劇からくらべるとずいぶんと頼もしくなったもんだよぉ。


 で、恒例ながらミッション終了後は、桜木町の映画館「ブルク13」で映画鑑賞。
 抹茶ジェラートをいただいたあとで今回観たのは、うわさの『さや侍』(監督・松本人志 主演・野見隆明)!! うおお~。

 正直な話、今回は待ち時間中ずっと眠くてしょうがなかったので、「観てる途中で記憶なくなるかも……」と思っていたのですが、うとうとするヒマもなく見入ってしまいました。

 現在、家にTVのない私は映画の批評などの情報にだいぶうとい状況が続いており(雑誌もあまり読まないし、ラジオでも映画批評の番組をやっている時間は働いていることが多いため)、そういうときに頼りになるのは「知り合いの感想」だけになってしまうのですが、『さや侍』の場合はどうだったかといいますと、みんながみんな「う~ん。」と沈黙する解答だったんですね。ただ、期待感があったのは「まず観てもらわないと話ができない。」という「う~ん。」だったことなのです。いいですねぇ。おもしろそう!
 余談ですが、私の身のまわりでは、松本監督の作品は「『大日本人』は観たけど『しんぼる』は観ていない。」という人が圧倒的に多いです。実はかくいう私もそうでして……早くDVDが観られるようになりたい。

 結論から申しますと、『さや侍』は、おもしろかった! 私は非常に楽しめました。

 映画が始まる前、私は意外とお客さんに大人の方(40~50代)が多かったのを見て不思議に感じていたのですが、観終わった後は非常にそのことに納得がいきました。
 いろいろ考えたくなる点はあまたあったのですが、残り30分くらいからの展開は思った以上にストレートに監督の言いたいことが直球で伝わってくる流れになっていて、素直に感動できました。

 感動! そうなのよ、『さや侍』を楽しめるかどうかは、この映画が「感動できる作品である」という事実に観る人がどう対処できるかによるんですね。受け入れられるかそうでないか。

 この映画は「しっかり泣ける映画」です。
 ただし、この映画の監督が「あの松本人志」であるということ、そしてこの映画にも天才松本特有の「はしょり感」があることが観る人にとって障害になってしまった場合、せっかくの『さや侍』もその人にとっては「どう観ていいのかわからない笑えない作品」ということになってしまうのではないかと。


 ところで、私は人に「あなたがいちばん好きなお笑い芸人は?」と問われたら、迷うことなく、

「1998年までの松本人志。」

 と答えます。要は、坊主頭にならずに独身貴族でタバコをくゆらせ不摂生にふとり、全身全霊をこめて『一人ごっつ』や『VISUALBUM』シリーズにうちこんでいたころまでの松本さんです。

 比較したところでしょうがないのですが、今現在活躍している松本さんはもはや私の中では勝手ながら別人となっており、松本さんが結婚しようが禁煙しようが病気療養しようが特に気にはならず、TVが観られなくなってもなにひとつ困ることはありません。
 そして、そういう気持ちが私にとって悪く反応したのが『大日本人』(2007年)でして、「松本の笑い」を馴れない映画の世界で全盛期のように自由自在に提示しようとして苦戦し、最終的に映画という手法を放棄してしまったその姿に、私は少なからぬ失望を感じてしまいました。
 その影響で『しんぼる』にも二の足を踏んでしまったわけなのですが、『さや侍』は観て本当によかった。

 『さや侍』は、映画になっている! 細かいデティールをあげつらって「時代劇がわかってない」とか「キャラクターの考えがわからない」とか言うのは簡単ですが、一本しっかりと筋が通っていることをちゃんと見れば、この映画は見事に成立していると言いきれるはずです。

 つまるところ『さや侍』は、「ダウンタウン松本人志」でない「映画監督松本人志」が初めて誕生した作品なのではないかと。
 ダウンタウン松本人志は間違いなく「笑いの鬼」であり、『さや侍』も「人を笑わせるということ」にこだわりまくった内容の作品になっています。

 でも、『大日本人』やそれまでの無数の名作コントの中にあった「これが最高の笑い。これで笑えんヤツは知らん。」というスタイルではなく、

「人に笑ってもらうって、どういうことやと思う?」

 ということを問いかけてしみじみ考えさせてくれる『さや侍』は、間違いなく松本さんの新しい闘いが始まったことを高らかに告げるものになっていると思いました。

 他人にたとえて言うのもどうかと思いますけど、小説の『たけしクン、ハイ!』を読んだり映画の『キッズ・リターン』を観たりして、
「ビートたけし、つまんねぇぞ! タケちゃんマンやれ!」
 って言う人はもういませんよね。いてもおもしろいけど。
 『さや侍』をもって、このくらいに「映画監督松本人志」は「ダウンタウン松本人志」から独立した存在になったんじゃないかと感じたんですね、私は。 

 いや~しかし。「人の親になる」って、こんなに人を変えるのね……

 何をするにしてもカミソリのように鋭利でニトログリセリンのようにデンジャラスだった「あの松本人志」は変わらず大好きなのですが、今はただ素直に、なるべく多くの人が『さや侍』を観てくれることと、松本監督の「次なる一手」を期待したいと思います。

 ほんとにいい映画だった。
 私は1時間半くらいある映画のうち、たった1ヶ所でもいいから心にひびく笑顔があったらもうそれで充分だという感覚があるのですが、ラストシーンで主人公の野見さんが見せた笑顔は最高でしたね。泣けるねぇ、愛だねぇ。
 あと、私は役者としての板尾創路さんは特に名優だとは思わないのですが、父をたよりなく思いながらも誰よりも強く心配している娘役の熊田聖亜(せあ)ちゃんとのやりとりでは素晴らしい演技を見せていたと感じました。実際の父親役である野見さん以上に「父」だったその姿は、「人間・板尾創路」の人生の彫りの深さを見事に反映したものだったと思います。いい!!


 はいっ。ということで昨日は、メインの桜木町ハイキング自体はさんざんでしたが、奇跡のパンチラに『さや侍』にと、非常に収穫の多い1日となったのでした~。

 あ……あの、パンチラはうそね、うそうそ、作り話! ハハハ、ハハ……
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする