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長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

全国城めぐり宣言 第22回 「備中国 鬼ノ城」  デカすぎ……過ぎたるはなほ及ばざるがごとし~!

2013年04月30日 22時45分46秒 | 全国城めぐり宣言
《前回までのあらすじ》
 早朝に深夜バスで岡山駅に降り立ち、午前7時半に JR吉備線の服部駅を徒歩で出発。
 そこから、苦節4時間半……途中での思わぬ伏兵・経山城(きょうやまじょう)の強襲や、目的地を目前にしての突如の「スウィート鬼ホーム」ゾーンへのバシルーラ、さらにそのコースから秘境・重田池(じゅうだいけ)への寄り道といった(かってに自分で設定した)さまざまな困難を乗り越えて、ついにそうだいは目指す最大の要衝・鬼ノ城(きのじょう)へとかえってきた!! やったぜベイビィイイ。
 だが、しかし。ここまでの(かってに自分で強いてきた)艱難辛苦の末にたどり着いた鬼ノ城が、普通のお城であっていいはずが、ない!
 そうだいの眼前にその威容を現した鬼ノ城はまさに、日本の城郭の概念を軽くくつがえす「異形の城」だったのだ……


 キリのいい午前12時。ついに念願の鬼ノ城に入城! 脚はもうすでにガッタガタだけど、いっくぞ~☆

 鬼ノ城の敷地の中で私が最初にたどり着いたのは、城の東西南北に1ヶ所ずつ設けられた城門の中でも、東門と同じように小規模に造られていた掘立柱式の「北門」でした。鬼ノ城は比較的なだらかな鬼ノ城山山頂の丘陵地帯に築城されているのですが、北門区域は中でも最も低い位置にあります。

 そのためもあってなのか、この北門は間口4m ということで確かに小さめな通用口といった規模にはなっているのですが、まさに「全力で弱点をおぎなえ!」といわんばかりの力の入れようで、標高が低いために比較的どの城門よりも攻めのぼりやすいこの地点の防御がなされていました。
 まず目立つのは、北門のドまん前にあえて造られていた高さ2m の段差でした。ここには石垣と自然の傾斜をうまく利用して、北門から入城する際にわざわざよじ登らなければならない構造がもうけられているのです。要するに、城壁の中の中途半端な高さの場所にわざと入り口があるわけなんですね。これはウザい!
 これは、「懸門(けんもん)」という古代朝鮮半島の築城技術に多用されていたテクニックのようで、平時にこの懸門には木製の階段やはしごのようなものが架けられているのですが、非常時にはそれらをとっぱらって攻城側の兵の侵入を困難にさせる効果があったというわけなのです。なるほどね~! 現在の北門には、観光客用の木製のステップが常設されています。

 この懸門構造は、どうやら鬼ノ城と同じ飛鳥時代に築城されたという12の古代山城や、その他の「神籠石(こうごいし)式山城」の中ではよく活用されていた技術だったらしいのですが、それ以降の日本の城郭の歴史の中ではトンと忘れ去られたものになっていました。
 これはおそらく、城門を城壁(石垣)の中に一体化させるという大陸式の築城法がその後の日本に根付かず、城門は城門で独立させて城壁とは別に建築する工法が広まっていったからだったのではないのでしょうか。たぶん、石垣を大量投入することができない地域が多かったとか、城門を別に造ったほうが移転や修築が簡単だとか、城門をさらに強化して1個の軍事拠点(やぐらやトーチカ)にするとかいう日本の事情や考え方とはそぐわなかったんでしょうね。

 それにしても、小さいながらも懸門を中心にして左右に堅固な城壁が展開されている北門は、下から攻めてくる兵からすればかなり攻めにくい地形になっていることは間違いなく、通常、攻撃されることが予想される平地側(瀬戸内海側)からは真裏に当たるこの北門区域も、しっかり油断せずに守りが固められているという雰囲気になっていました。いいね、いいね~!

 前回の説明文にも記されていた通り、鬼ノ城は「すり鉢形の鬼城山の山頂周囲を石垣・土塁による城壁が周囲2.8キロメートルに渡って取り巻く」という、山がはちまきを巻いたような構造になっており、その点でも、本丸・二ノ丸・三ノ丸といった「小さな丸」がいくつもつながってブドウのように構成されているパターンの多い日本の山城とはまるで様子の違う、中国・朝鮮半島もしくはヨーロッパのお城のような外観をなしています。とにかく城壁でぐるっと囲んでみました! みたいな。
 現在は、2.8km にわたって築かれていたという城壁のうちのごく一部しか復元されていないのですが、それでも、鬼ノ城の城壁のとらえ方が、いかに戦国時代の日本のお城と違うスケールのものになっていたのかは充分にうかがい知ることができます。

 この城壁によって囲まれた区域の総面積は約30ヘクタール。30ヘクタール!? つまりは30万平方メートルっすか!!

 これはものすごい広さなんですよ……まず、TV とかでこういう面積の話題をするときに必ず引き合いに出されて、その割にはいまいちピンと来ない比較で言いますと、「東京ドーム(およそ4.7ヘクタール)6.4コぶん」。うわ~ん、やっぱりピンとこないよう!

 最近、この『全国城めぐり宣言』で行ってみたお城を比較するのならば、お隣の経山城は「0.8ヘクタール」で、前回(の、予定)お世話になった備中高松城址公園は「6ヘクタール」。現在復元されている岡山城の城域と後楽園を合わせた面積が「20ヘクタール」ということになるので、鬼ノ城は今の岡山市にある岡山城一帯よりも広いということになるのです。行ったことのある方ならよくおわかりかと思いますが、これは広いですよ~!! ちなみに、かつて、あの小早川秀秋が城主だった時代に、いちばんの外堀に当たる二十日堀を完成させて「総構え(そうがまえ 城郭の主要な建造物だけでなく、城域のもっとも外側の防衛ラインにあたる砦や、城下町一帯も含めて外周を堀や石垣、土塁で囲い込んだ内部のすべてを含めた区域のこと)」を最大規模に拡張させた当時の岡山城の面積は「およそ100ヘクタール」あったと思われますので、それにはさすがに負けておりますが。さらにちなみに、戦国時代の備中高松城の総構えは「13ヘクタール」。


 ついでなので、いろんな東西の超有名なお城の面積を比較してみますと、

江戸城         …… 総構え2130ヘクタール(現在の皇居は115ヘクタール)
豊臣秀吉時代の大坂城  …… 総構え500ヘクタール(現在の大阪城公園は105ヘクタール)
後北条家時代の小田原城 …… 総構え675ヘクタール(現在の小田原城址公園は22ヘクタール)
故宮(紫禁城)     …… 総構え7800ヘクタール(現在の故宮は72.5ヘクタール)
ヴェルサイユ宮殿    …… 総構え2473ヘクタール(建造物の総面積は195.4ヘクタール)
バッキンガム宮殿    …… 総構え14ヘクタール(宮殿本体は4.3ヘクタール)
ウインザー離宮     …… 総構え21ヘクタール(宮殿本体は4.5ヘクタール)
シェーンブルン宮殿   …… 総構え168ヘクタール(宮殿本体は3.2ヘクタール)

 こんな感じらしいんですが……世界は広いやねェ~!!
 注意しておきますけど、これをパッと見て「バッキンガム宮殿、ちっちゃ!」とか思ったらあきませんよ!? もともとイギリスのこれらの宮殿には、「城郭の中に家来や民衆の家屋を囲い込む」という概念はないんですから。ある一族オンリーのお住まいという考え方でいくのならば、これ以上ないくらいに広いんです。
 もう、江戸城とか小田原城は都市をまるごと抱えているといって差し支えのない面積なんでございますよ……その最たるものが北京の紫禁城、というか「北京城」であるわけでして。やっぱり中華帝国はハンパない! ヴェルサイユもものすごいけどね~。

 話を戻しますが、そういったお歴々は世界にはいらっしゃるものの、やっぱり鬼ノ城の30ヘクタールというのはまったく規格外なだだっ広さで、さほど「政庁」的な機能は果たしていなかったと思われる純粋な「防衛基地」としては異常すぎるスケールを誇っていたのでした。これはやっぱり、7世紀当時にこの吉備地方を治めていた地方豪族が築城したというレベルではなく、それもひっくるめて本州を支配していた飛鳥朝廷(大和王権)が「国家的一大事業」として全力をあげて建設したもの……だったんでしょうねぇ。とにかく城全体、とくに城壁の構造から感じられる気合いの入り方がケタ違いなんですね。

 また、鬼ノ城の北門の通路は石造りの床になっているのですが、そこにしっかりと「排水溝」がもうけられているのにも驚きました。まさに当時の建築技術の粋を凝らしたというハイテク感がありますねぇ。とにかく「石」を多用した外観が、日本よりもローマ帝国の遺跡をほうふつとさせるエキゾチックな空気をかもし出しています。

 さて、私が入城した時間帯が陽光さんさんたる正午だったこともあって、鬼ノ城内には平日月曜日であるにもかかわらず観光客がけっこう入っており、老人会のような集まり、親子連れ、大学のサークルっぽいグループとバラエティ豊かな方々が行き交っていたのですが、私がちょっとビックリしたのは、みなさんが全員、かなりしっかりした「登山ルック」に身を包んでいたことでした。やっぱ、私みたいにジャケットはおって行く場所じゃなかったのね……
 また、ジャンパーにリュックという格好に加えて、竹か木でできた頑丈な杖をついている人がかなり多くて、この高い普及率の原因はのちにわかったのですが、私は「杖まで準備してきているのか!」とかなり衝撃を受けてしまいました。なんという用心深さか……私も杖、ほし~!

 現在の鬼ノ城の観光通路は、2.8km の外郭をまわる環状ルートと、城の中を通って建築物の遺跡をめぐる内部ルートがあるのですが、私はまず北門から右に向かって、鬼ノ城の「顔」として有名な復元城門のある「西門」区域に向かうことにしました。
 これがさぁ、北門から西門までは距離にして500m ほどなんですけど、北門区域が標高がいちばん低くて西門区域がいちばん高いもんですから(標高差50m ほど?)、地味~にキツい坂道なのよね……アスファルトに舗装されてんのがまた、逆にしみる……

 もはや本物以上にジジイと化した(鬼ノ城に来るような本物のみなさんはとっても元気です)肉体を引きずってたどり着いた西門区域は、本来ふもとからやって来て「鬼ノ城山ビジターセンター」に到着した人から見たら、最も近い場所にある鬼ノ城の玄関口なのですが、ここは他の地点にもまして復元に力が入れられており、可能な限り忠実に復元されたという巨大な「西門」と、非常時に西門を援護する防衛拠点「角楼(かくろう)跡」が整備されていました。

 まず角楼の方は、西門と城壁づたいにつながっている、地形的に出っ張った城の隅っこに造られた、日本のお城でいう隅櫓(すみやぐら)のような機能を果たしたやぐら(床面積は横幅13m ×奥行き4m )だったらしいのですが、建物自体は再現されてはいないものの、おおよそ角楼の中にいた兵士と同じ視線に立てる展望台は設置されており、そこに登ってみると、左手の西門を目指して眼下の登山道をのぼってくる攻城側の兵士を狙い打ちにできる格好の防衛ポイントだったことがわかります。やっるぅ~! この構造は、中国式で言う「馬面(ばめん)」、朝鮮半島式で言う「雉(チ)」という築城技術の輸入だったようですね。
 また、角楼からは西門ごしの鬼ノ城の眺めはもちろんのこと、もっと遠くに目をやれば、南の総社市や岡山市、さらには瀬戸内海をはさんで四国の香川県も視野におさめられる絶景ぶりを誇っていました。ここから見えるお城や名跡としては、南北朝時代に激戦の舞台となった備中福山城(総社市)、岡山市南区の常山城(つねやまじょう)、おなじみ備中高松城(岡山市北区)、鬼王温羅が投げた岩石が吉備津彦命の放った矢と激突して落ちたという伝説のスパークポイント矢喰宮(やぐいのみや 岡山市北区)といったものがあります。 
 あと、ここからは岡山市南区にある標高400m の金甲山(きんこうざん)という、鬼ノ城山とほぼ同じ高さの山も見えるのですが、この山の名前の由来は、あの「征夷大将軍」として有名な平安時代の名将・坂上田村麻呂(758~811年)が、倉敷市の由加山(ゆがさん 標高274m )に巣食っていたという鬼を討滅するべくこの山に陣をしいた際に、戦勝祈願のために黄金製の甲冑を地中に埋めたという伝説に基づいているようです。3世紀の鬼王温羅に続いて、8世紀は由加山の鬼かよ! 忙しいなぁ~オイ。まぁ、500年サイクルだから、いっか。

 ところで、この角楼から見えるものとして、鬼ノ城とからめて決して無視することができないのが、海を越えた香川県高松市に位置する屋島城(やしまのき)と、香川県坂出市に位置する讃岐城山城(さぬききやまのき)が視界に入っていることです。
 屋島城は『日本書紀』にその名が記録されている「古代山城」で、讃岐城山城は鬼ノ城と同じく記録にはないものの、「白村江の会戦」での敗戦を契機にして築城されたとおぼしき「神籠石(こうごいし)式山城」です。すべて、中規模の山を利用した石垣づくりの要塞という形式は非常に似通っていますね。
 ということは、今でこそ山の中に孤立したお城というイメージが強くはあるのですが、やっぱり鬼ノ城は、瀬戸内海が国際戦争の戦場になるという緊急事態を想定しての一大国家防衛プランの一環として築かれた要塞だったということは間違いがないのでしょうか……でも、瀬戸内海に軍勢が入ってきている時点でもう手遅れな感じはするんですが、ここまで他国との国家の存亡を賭けた悲愴な大戦争を見に迫って考えざるを得なかった、当時の天智天皇政権の切迫感には驚きを禁じえません。ものすごい時代だったんですね……幸い、これら屋島城も讃岐城山城も実際に軍事利用されることはなく、鬼ノ城と同じように早々に廃棄されてしまったようです。よかったよかった。
 ちなみに城の規模でいうと、3つの城の中で最も規模が大きいのは周囲7km の島全体が要塞と化した屋島城(現在は四国と陸続きになっている)だったらしいのですが、今現在、いちばん観光しやすいかたちに良好に復元・整備されているのは鬼ノ城です。ウェルカム鬼ノ城!

 さて、そんな鬼ノ城の施設の中でも特にカッコよく復元されているのが西門なのですが、2004年に復元されるまで現地には柱の穴しか残っていなかったわけで、城門の大規模さはわかるものの、実際に地上にそびえ立っていた建造物については、当時の大陸様式の城門の工法に基づいて再現されたようです。そりゃそうですよね、史料も絵画も残ってないんですからねぇ。

 再現された鬼ノ城西門は、横幅12m ×奥行き8m ×高さ13m の堂々たる3階建て、板葺き屋根の城門になっていて、1階部分は城外に通じる地下通路、2階部分は城壁に連結している地上通路、3階部分は見張り台となっています。要するに、鬼ノ城内と城外にはおよそ6m の高低差ができているんですね。
 その6m を構成しているのが城壁の基礎部分で、西門で再現されている城壁は厚さ6~7m の土台を形づくる版築土塁(はんちくどるい)の上に、外向きの板塀と内向きの石垣とが乗っかっているという構造になっていました。

 版築土塁というのは、ひたすら土をつき固めてカッチカチな厚さ数cm ほどの薄い層をつくり、それをミルフィーユのように繰り返し繰り返し積み重ねて作りあげていくという原始的な工法の土塁なのですが、それも厚さ6~7m ×6m ともなると、まさに黄土色の鉄壁といったおもむきで、石垣のような亀裂がないだけにかなり登りにくく、よけいに難攻不落な印象を強めてくれます。しっかり作られた版築土塁はまるでコンクリート壁とも見まごうような硬度を持っており、そこにはペンペン草1本生える余地すらありません。

 この城壁の版築土塁は、石垣とも、それほど強くつき固めない日本の土塁ともだいぶ違う独特の外観を持っており、西門の異様さともあいまって、まさに中国のどこかにあってもおかしくない異国的な雰囲気をあわせ持つ、鬼ノ城の特色を的確に言い表してくれています。
 ちなみに、この西門の3階部分には、城外から見た前面に、いかにも大陸っぽい赤い紋様をほどこした高さ1m ほどの木製の盾が15枚くらい、手すりの外に並べて設置されているのですが、これは現在の建築法の都合で西門3階に一般客が登ることが禁止されているため、せっかく作った盾を見やすくする目的で外に置いているのであって、別に昔の人がそういう盾の置き方をしていた、というわけではないのだそうです。そりゃそうですわ、むしろ邪魔になっちゃうからねぇ。中央の盾に描かれた、目をつりあがらせ歯をむいた真っ赤な男の顔が言うまでもなく鬼をイメージしており、まさしく「鬼の城」のトレードマークになっているのが心憎いですね。
 そんな異国情緒たっぷりな西門を駆け下りて城外から眼下の風景を一望すれば、気分はもう古代日本軍の武将ですよ……「さぁ大陸軍よ、ここまで攻めて来られるものなら来てみやがれ! でも都合が悪いんだったらそんなに無理して来なくてもいいです!!」


 さて、この西門付近のように、鬼ノ城は城壁の基礎部分の多くを版築土塁で形成しており、上部だけでなく基礎にまで石垣を使用しているという地点は、要衝の6ヶ所だけにとどまっていたようです。それにしても、7世紀当時の日本の築城技術からしたらとてつもないことですけどね!

 鬼ノ城の場合、石材がより有効に活用されていたのは、基礎部分よりもむしろ上部の城内通路部分で、西門から南門にかけての通路で一部再現されている区域では、いちばん外側の板塀から内側にかけて、1.5~5m 幅の敷石の床が形成されています。
 この石の通路は、よく見れば外側から内側にいくにつれてななめに低くなる傾斜をつくっており、これはおそらく、雨が降ったときに雨水が外側の城壁部分に流れて版築がもろくなることを避けるために、上部の敷石で水のしみこみをカバーしつつ、傾斜を利用して雨水を城内の排水路に誘導するという作用があったのではないかと解釈されているようです。かしこいね~! 石で土の弱点をおぎなっているわけなのです。
 この通路を復元するために、鬼ノ城では一部ながらも数千トンの石材が投入されたのだそうで、この構造を再現している遺跡は、日本でもこの鬼ノ城だけなのだそうです。すごいね~!

 すごいけど、足の裏にやさしくないよね~……歩き心地は石のサイズが大きくなった砂利道といった感じで、痛い、一歩一歩がいちいち痛い! 毒の沼地か、この通路は!? もう足が限界なんです、カンベンしてください!

 そこを歯を食いしばって耐えながら歩き続けると、西門から南に600m 向かったところで、西門とほぼ同じ規模の城門だった「南門」に到着します。こちらは区域が整備されて鉄筋製の柱が立てられているだけで城門は復元されていないのですが、西門と同じ巨大さを誇るものだったらしいことははっきり見てとることができました。ここをさらに通り過ぎると、500m ほどで最初に見た北門と同程度の小規模な「東門」があります。

 こうやって歩いていくと、鬼ノ城が基本的に南向きの面を重点的に強化したお城だったことがわかってきて、石垣の補強が多用されているのもこの「西門~南門~東門」ラインだし、現在発見されている6ヶ所の排水用の水門(石造り)も、すべてこの線上に設置されていることがわかりました。水門はちゃんと人の目の届く場所に置いてないと、すぐに伏兵に侵入されるからね! 私はこれを『ルパン三世 カリオストロの城』で学びました。

 そして、東門をすぎて200m ほど、鬼ノ城の東端に位置するのが、一見して「おぉっ!」とうなってしまうものすごい外観を持った「屏風折れの石垣」です。
 この地点は、鬼ノ城からまさしく屏風のひと折れように鋭角に突き出た断崖絶壁になっているのですが、そこを補強するために積み上げられた石垣の厚さと高さがそれはもう立派なもので、手法こそ最も原始的な「野面積み」ではあるものの、ここだけが時代をすっ飛ばして戦国時代の城郭になっているかのような堅固さを誇っているのです。余談になりますが、戦国時代の石垣に用いられた側面防御構造「横矢掛(よこやがかり)」のヴァリエーションのひとつにも「屏風折れ」という複雑な形式がありますが、これは文字通り、石垣の外側のラインを屏風のようにジグザグに設計するというものですので、鬼ノ城の屏風折れの石垣とは直接の関係はありません。

 東門をちょっと過ぎたあたりから、この絶壁は前方の視界に入ってくるのですが、遠景で見れば見るほど、この石垣のものすごさが伝わってきます。千数百年の時を経ているために、石垣のあいまから生い茂っている木々もかなり目立つわけなのですが、そうやって自然に同化し、石垣の上には何も残っていないという「荒城」感が素晴らしいんですね! この味わいはやっぱり時の経過のなせるわざで、人間の急場ごしらえではかもし出すことができない領域の美しさを持っていると感じ入りました。やっぱ千年モノは違うわ!

 戦国時代好きとしては、断崖の石垣の上には是非とも何かしら隅櫓のような建造物がたっていてほしい気もしたのですが、発掘調査によると、屏風折れの石垣の上にはもともと何も建造されていなかったようです。まぁ、当時の石垣工法だったらムリかぁ。残念!


 さぁ、いよいよ(そこに行くまでが)長かった鬼ノ城探訪も、おおかたの名所をのぞいて終わりにさしかかってまいりました。あとは城内をぐるりとまわって下山し、電車に乗って岡山に戻り、夜にお芝居を観て深夜バスに乗り、千葉に帰る! それだけでござ……え、「それだけ」?

 歩いてる距離としてはもう15km は超えちゃってるんですが、まだまだ道は遠いのよね……下りるだけとはいえ、大変だなぁ~!! 足ももうジンジンジンジンきてるのが通常営業になちゃってるよ。

 そんな疲労困憊の我が身なんですが、ともかく前身しなきゃあ始まんないということで!
 だいたい折り返し地点には立ちつつも、まだまだ私の鬼すぎる旅は続くのでありましたァア~ん。月をまたいでの次回、最終回!!
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全国城めぐり宣言 第21回 すみません今度こそちゃんと入城します 「備中国 鬼ノ城」

2013年04月25日 22時53分52秒 | 全国城めぐり宣言
《前回までのあらすじ》
 ……もなにもないっすよミキティ!!
 3月に行った岡山城めぐりうんぬんの話題にここまで時間をかけてしまうこととなろうとは。もう4月もおしまいだっつうの!
 ということで、なんとかして今月中におしまいにしたいと、そんなはかない願いをこめつつ、念願の鬼ノ城、入城~。



 そんなこんなで、鬼ノ城の北方一帯にひそんでいた驚くべき一大テーマパーク「いっぱしの鬼なら一度は住んでみたいオール石インテリア無料展示会」に瞠目してしまった私だったのですが、とにかく腰を抜かしたのは、その巨石群の散らばる広範囲さと、それぞれの前評判にたがわぬ異様さでした。
 これらの巨石群を見に来た人々にとって非常にありがたいのは、だいたいその大看板となる、前回に紹介した「鬼の岩屋」を中心にして、いくつかの山道沿いに木製の案内板が網の目のようにこまかく配置されていることで、一見すればどこに行っていいのか混乱しかねない RPGゲームのダンジョンそのものの鬼ホームも、足元の「→ 鬼の昼寝岩」とか「→ 鬼の酒盛り岩」という指示にしたがって行けば迷うことなく目的地にたどり着くことができるというわけなのです。これは地味ながらも本当にありがたかった!

 ありがたかったのですが……どうにも遠いのよねェ~、どこもかしこも!!

 ここで質問なんですが、そこのあなた、足元に「→ どっか」という看板があったら、だいたいそこから何分くらい歩いた距離にその目的地があるのがいいあんばいの配置だと思いますか?
 私の場合、この鬼ホームを体感するまでは、そういったものはせいぜい歩いて3分くらいが限度で、5分歩いても目的地にたどり着けなかったときにはそろそろ不安に感じてきて、看板の読み方に問題があったんじゃなかろうかと自分を疑うくらいの頃合になってくるといった感じでした。

 しかし……鬼ホームの人間サイズを超えた距離間隔は、そうやっていつの間にか「ちょっと行けば、すぐにあるんでしょ?」的なあまえきった都会っ子気分に堕してしまっていた私のちっぽけな概念を悠々と打ち砕いた!!

 鬼ホームの案内板は、20分歩いて当たり前! 下山、登山もひっくるめての覚悟の「→」なのだ!!
 すごいんですよ……歩いても歩いても目的地が見えてこないんですよ。見えてこないのに、自分の身体は確実に今までいた山を下山してきていたり、また新たな知らない山道を登りはじめていたりするんです。この、どこに行くのかも知れないのに進み続けなければならない恐怖!! まさにこの鬼ホームめぐりは、人生という旅の縮図なのだ……

 まず、総じて鬼の岩屋の地点から上に位置する、岩屋山の頂上に向かうラインと頂上部分に点在している「鯉岩」、「鬼の餅つき岩」、「八畳岩」、「屏風岩」、「方位岩」、「汐差岩(しおさしいわ)」といったあたりは、岩屋山の頂上と言うべき部分が丘のような広さになっているために、ぐるりとめぐって最も遠いところで300m くらい離れているという状態になっています。そんなに遠くもないのですが、やはりひとつの山の上にある、という言い方では微妙に違ったニュアンスになる広さがありますね。

 それで、いよいよ「あれれ~?」という感覚におちいるのが、それらの巨石群と同じようになにげなく看板で案内されているもんだからふっと歩いてみたら、それがなんと今いる岩屋山を下りて、お隣の実僧坊山(じっそうぼうさん 標高471m )のふもとまで行かなければならないという「鬼の昼寝岩」くらいからで、いったい私は何度、そこに行くまでの途中で、

「も~いいよ~、そこの道ばたにある1m くらいの石が『昼寝岩』ってことにして、早く引き返そうよ~!」

 という弱腰な提案を自分に進言したことでしょう。しかし、もはや議論する余地もなく、「こんなに歩いたからにはとてつもない奇岩があるに違いないんだよ、たぶん!」という好奇心が勝ってしまい、結局足を進めてしまうことになるのでした。こういう感覚って、東京でだったらもう絶対に「道を間違えている」フラグ、ビンッビンなんですけどね。だけどここ、鬼ホームは違った!!

 下山して数分、体感としては極度の不安感も入り混じって鬼の岩屋からトータル20分は歩いたかと思ったその地点に、凝然と「鬼の昼寝岩」は確かに存在していた!

 完全に山と山との間にはさまれた、狭い「谷」のような地点に位置しているちょっとした野っ原。そこは谷間にもかかわらず奇跡的に日当たりが良いポイントで、よく見ればはっきりと、例によって「棚田」があったとおぼしき地形も残っているのですが、そこのド真ん中にぽつねんと、しかし異様に巨大な丸い岩石(5m くらい?)が横たわっていたのでした。うーん、あれが「鬼の昼寝岩」か! 確かにこれは、誰がどう見ても昼寝岩だ。

 それは、歩いてきた道から少し離れた位置にあったのですが、道から見える空間のまさしく中央にあって日光を浴びているその姿は、「神々しい」とも「不気味」とも言いがたい一種異様な空気感をまとっており、実際に出会う前には「昼寝っていうくらいなんだから、私もひとつ、その上に寝そべってみようか!」という面白半分な気分もあったのですが、いざ本物に対峙してみると、とてもじゃないですがそんなことはできない「現役のオーラ」に出くわして圧倒されてしまったのです。
 なんちゅうかその、私が歩いている山道はかろうじて「人の空間」という雰囲気を守っているのですが、そこを出た瞬間に「別のなにか」のテリトリーに踏み込むような空気があったんですよ。その上、巨大な昼寝岩に乗っかって寝そべろうものならば、ふとそこから山肌を見たときに、そこから「おい、そこ、おれのベッド!」と言わんばかりにこちらをにらむ鬼の顔と目があってもまったくおかしくないような世界が確かに存在していたのです!
 鬼がいるかもしれないなんて、21世紀の人里ならば間違いなく信じられないことなんですが……ここではなんだか、信じられる! やっぱり、日本のいたるところには、まだまだそういった空気を残しているゾ~ンが生き続けているんですなぁ。こうやって自分が実際に肌でとらえた新鮮な感覚っつうのは、実にいいもんであります。

 にしても、とにかく遠いっすよ……私がこの「鬼の昼寝岩」を通り過ぎて次に向かったのは、実僧坊山のさらに北にある登龍山(標高461m )の、3~5m くらいの巨石が10コくらいゴロゴロと露出して集まっていできていた山頂部分「鬼の酒盛り岩」だったのですが、もうここまでくると、自分が別の山に登ろうとしているのか、はたまた下ろうとしているのかなんてど~でもいい感じになってきます。もうどうでも好きなようにしやがれ!って感じ。それぞれ400m 級の山々をさまようわけなのですが、そのたんびに400m をしっかり下りきるというわけなのではなく、ゆるやかな尾根を伝って移動するという程度のものにとどまっているのがせめてもの救いですね。死なずに済んだ……

 「鬼の酒盛り岩」はまさに見晴らしのいい山頂一体が巨大な花崗岩の集まりになっているという印象で、鬼ノ城よりもけっこう北なのでふもとの市街地はあまり見ることができないものの、北の中国山地と南の瀬戸内海がはっきりと一望できたのは本当に爽快でした。豪快に酒盛りをするにはうってつけなのですが、アクセスが最悪なのが玉にキズです。

 そういえば、この酒盛り岩に登って、そこに生えているアカマツの木のほかにはさえぎるものがまったくない蒼天を見つめていたら、今にもその上空から UFOかなんかが降り立ってきそうな感覚になってしまったのですが、そういえば山頂のこういう岩石ゾーンって、今年の初めに『ゾンビデオ』つながりで私が観たお笑いホラードキュメント映画『怪談新耳袋・殴り込み!東海道編』(2012年 監督・青木勝紀)の中で「UFO が頻繁に目撃される山」として紹介されていた、愛知県豊橋市にある石巻山(標高358m )にそっくりなのよね、かなり!
 細かいことを言えば、岡山の登龍山は花崗岩の岩石で愛知の石巻山は石灰岩の岩石という違いはあるのですが、両者とも宗教的な「霊山」として扱われており、登龍山そのものではないものの、戦乱の世には城郭とも遠くない縁があったという点で似通った部分もあるんですよね。
 まぁ~、実際に立ってみた感覚で言わせてもらえたら、登龍山のほうもUFO 見えるんじゃない? たぶん。そういううわさが立たないのは、人里からあまりに離れすぎていて誰もそこからUFO を探す気にならないからなんじゃないのでしょうか。スピリチュアルな話なんて所詮はこんな調子で、人間の手前勝手な都合次第なのよねェ。

 さてさて、実は「鬼の~」関連のポイントはこの「鬼の酒盛り岩」が最も遠い位置にあるものだったので、登龍山の山頂に登った時点でおしまいということになるはずだったのですが、私はよせばいいのに、いたるところの案内板でチラッチラ紹介されていた、

「→ 重田池」

 という看板に誘われてしまいました。そんでまぁ~、ここがよりによって特に遠かったんだ!

 まぁ、ここまで来たからには「毒を食らわば皿までも」というやけくそ気分でこの未知の池に挑戦したのですが、これがまた、登龍山からまた別の山に行く勢いで下りたり登ったりを繰り返すわけ! も~あたしゃ、この調子で中国山地を突き抜けて日本海に行くのかと思っちゃったよ。
 その重田池に行く途中で、私はそ~と~久しぶりにすれ違う人と出会ったのですが、その高級そうなカメラセットをかかえた登山服のおじさんは私を見て、「ど~も~。調査ですか?」と声をかけてくださいました。私がこの歩行距離にまったく見合わない軽~い気分のジャケット姿だったからであります……
 それで私が「いえ、観光です。」とこたえたら、おじさんは本気でびっくりした様子で「観光!?」と目を丸くされていました。そんな秘境なのか、重田池って。
 おじさんはついでに、「重田池は寒かったよぉ~。風にとばされんように気ぃつけてな!」とおっしゃって行かれましたが、それを聞いた山道は日射しも強く風もなく、私はあまりの暑さに汗だくになっています。
 「寒い? そんなばかな……」と思いながら新たな山を登っていったのですが、その山頂にたどり着いた瞬間、おじさんの言葉に間違いがなかったことを身をもって大確認。

 山のてっぺんにある重田池(じゅうだいけ)は南北400m ほどの縦長な、池というよりはむしろ「湖」に近い大きさの貯水湖なのですが、エメラルドの美しい湖面が、そこを吹き渡ってくる北風によって絶えずさざなみを立てている様子はびっくりするほど絶景で、それまで歩いてきた距離の疲労がいっぺんに吹き飛んでしまう爽快感がありました。人工の湖といっても、どうやら作られたのは明治期くらいっぽいので、人の手のつけられていない無人の味わいがハンパない! そりゃあ、あのおじさんも撮影に来るよね~。
 私はこの風景を見た瞬間に、大好きな辻村深月先生の作品の中でも、特別に私が愛している長編『水底フェスタ』に登場するミステリアスなダム湖を連想したのですが、この重田池に人間の男女や車、ましてや自転車が入ってくる余地はまったくありませんでした……ほんとにステキな風景なのにね~! いや、人里から離れすぎている風景だからこそステキなのか。

 そして、確かに異常に寒かった……到着した瞬間には湖畔をぐるりと一周する考えも頭をよぎったのですが、この規模だったら1km 以上歩くことになるのは目に見えていたし、ここまでの奥地で人に出会うのは双方の心臓によくないと判断したので、半周だけしてまた同じ道を戻り、一路最初の「鬼の岩屋」に戻ることにしました。半周してまた戻るって、それ距離的には一周するのと同じことなんじゃ……ま、いっか。

 いや~、これでまず、鬼ノ城の前哨戦となった「スウィート鬼ホームめぐり」は終わりました……って、どんだけの距離なんでしょうか。多少の予想はしていたものの、岩屋山のふもとに位置する「岩屋休憩所」にたどり着いたころには時間も午前11時半となり、柔らかな山道から硬いアスファルト道路に踏み込んだ瞬間に、私の両の足の平にはイヤ~な感じの鈍痛が……まぁ、そうなるよね~。

 結局、「岩屋三十三観音みちコース」に入っていない重田池まで行ったので、私は最初の鬼ノ城の入り口からだいたい7km 、つまり早朝の服部駅から考えればトータル14km ほど歩いて、やっと鬼ノ城の入り口に戻ってきたということになりました。「岩屋三十三観音みちコース」は看板によると3時間半ほど時間がかかることになっていたのですが、実際に私が歩いたのは午前9時半~11時半の正味2時間。なかなかいいペースなんじゃないでしょうか。おかげで脚はすでにボロボロなんですが。

 それにしても、たかだか2時間ほど人の気配のない世界を見てきただけだというのに、この人家やアスファルトのあって当たり前ないつもの風景に戻ってくることができたときの、この満身にたちのぼる幸福感というか、「た、た、助かったぁ~。」的な感覚はなんでしょうか。
 別に今までいた鬼の空間を特別に怖いと感じたわけでもないのですが、それでもなんというか、春先の陽気の中でのどかな生活のリズムが流れる人間の空気にはない、「時間が停止した」ようななんともいえない寂しさが巨石群にはあって、ここらへんの不思議な感覚が「畏ろしく」もあり魅力的でもあり、それが「心霊スポット」ほど即物的でもなく、「妖怪」ほど親しみ深くもなく、「神」ほど崇高な位置にいるわけでもないという、まさしく「鬼」にしかかもし出せない世界を今に残していると感じました。
 またいつか、50代くらいになったら行ってみたいやね~。とっても味わい深い道のりになりました。それにしても、なんとなくながら履き物に「工業用の安全ブーツ」を選択した昨日の私に大感謝……これがなければ、どうなっていたことか。リアル遭難、略して「リア遭」~!!


 鬼ノ城に向かうまでの最後に、春先でもあることだし、岩屋休憩所から10分ほど歩いた場所にある名所「岩屋の大桜」もおがんでおきたいとひとふんばりして行ってみたのですが、高さ20m はあろうかというそのヤマザクラの大木は、みごとなまでに一輪も花を咲かせてはおらず、それどころかまだ葉っぱも生えていないという冬じたくモードのまんまでした。超絶行った甲斐ねぇ~!!
 でも、今回鬼ノ城関連の山々を歩いていった時点では、20m の大木とまではいかなくても、かなり多くの場所でささやかながらも白みがかった花を咲かせているカスミザクラの木がちゃんと楽しめたので、それはとても良かったですね~。ヤマザクラは葉っぱと同時に花を咲かせるということなので、岩屋の大桜もあともうすこしだったんでしょうか。

 アスファルトの道があれば、当然のごとく人家もぽつぽつ見えてくるわけで、畑をもった瓦屋根の家の横を通り過ぎることも多くなってきたのですが、入山した早朝と違って、なにかしら農作業や昼食の準備をしているらしい雰囲気も見てとれるようになってきます。

 地方の特色としては、そういった生活のかたわらで、開放された縁側から庭先に向かって大音量で流されるラジオ放送といったアイテムが、のどかな風景をデザインする上での必需品となるのですが、私が通りすがったときにかぎって、ラジオ放送でかかっていたリクエストソングがシャ乱Qの『ラーメン大好き小池さんの唄』だったのには心底驚いてしまいました。

「♪こゥいっけスぁあ~んん こゥいっけスぁあ~んん すゥっきィすゥっきィイイ~んんんん……」

 岡山の山奥にまでさまよって来て、それでも出会ってしまうつんく♂サウンド……昨日℃-uteのお芝居を観て、今日これか! もう一生ついていきます。

 もうお昼も近くなってきましたが、真の目的地はもう、すぐそこだ! すでに体力ゲージはイエローを余裕で下回ってまっ赤っ赤になっているのですが、もう歩けないだのなんだの言っている場合ではありません。GO あるのみ!

 私は鬼ノ城山の西側に位置する「鬼ノ城ビジターセンター」の駐車場から、北に広がる一帯の山々をめぐってきたわけなのですが、岩屋休憩所から最も近い鬼ノ城の入り口は西のビジターセンターではなく、鬼ノ城の真北にある「北門」ということになります。休憩所から続くアスファルトの車道をずっと歩いていけばビジターセンターにも戻ることができるのですが、せっかちな私は少しでも早く鬼ノ城に入りたかったので、近道して北門から登城することにしました。

 休憩所からアスファルト道を使って下りると、眼前には再び巨大な山と、「→ 鬼ノ城北門」の指示板が。これが最後! 岩屋山を下りて鬼ノ城山に入る登山口であります。アスファルトをそれてふたたびの山道と木組みの階段へ。さぁさぁ~、入城!

 なだらかな沢ぞいの湿地帯をすぎて、他の今まで来た山々よりも少し勾配のきつい登山道を100m ほど登ると、そこには唐突に、人によって整地されたクリーム色の山肌が露出した、要塞の入り口のような地形が! そしてその奥には、ガハハと笑いながら通り過ぎてゆく、登山ルックに杖をついた元気なおばちゃんの集団が!! 観光地だ! ということは、ここはあきらかに鬼ノ城!!

 ここで、大変遅ればせながら鬼ノ城に関する情報をまとめてみましょう。


鬼ノ城(きのじょう)とは


 鬼ノ城は、岡山県総社市奥坂の鬼城山(きのじょうざん 標高397メートル)に存在した神籠石(こうごいし)式山城。国史跡。

 すり鉢形の鬼城山の山頂周囲を石垣・土塁による城壁が周囲2.8キロメートルに渡って取り巻く。城壁によって囲まれた区域の総面積は約30ヘクタール。城壁の要所に東西南北4ヶ所の城門と、城外への排水機能を持つ6ヶ所の「水門」を配置する。城の内部には食料貯蔵庫や管理棟などと推定される礎石建物が7棟、烽火場(のろし台)の可能性が指摘される遺跡、水汲み場、鍛冶場、工事のための土取り跡などが確認されている。

飛鳥時代
 天智天皇二(663)年八月におこなわれた白村江(はくすきのえ 朝鮮半島南西沿岸)の会戦に日本軍が敗れた後、唐・新羅連合軍の侵攻に備えた大和朝廷の政策の一環として築城されたと考えられている。『日本書紀』などには西日本の要所に大野城(現在の福岡県大野城市)など12の山城(古代山城)を築いたと記されており、鬼ノ城もそのような防衛施設のひとつであろうと推測される。しかし、どの歴史書にも一切記録されていないなど、その真相は未だに解明されていない謎の山城である。当時の城主も廃城年も不明。出土した遺物は7世紀後半から8世紀初頭のものがほとんどだった。
 鬼ノ城のように、史書に記載が無く12の古代山城に該当しないものは「神籠石(こうごいし)式山城」と呼ばれる。これらについては、国家政策として築城された城郭という説の他に、「在地勢力の祭祀遺跡」や「大陸から渡来した氏族が在地勢力に追われて山岳地帯などの奥地に建造した城郭」と解釈する説もある。

現在
 鬼城山中に石垣などの遺構が存在することは古くから知られていたが、1971年に城壁の基礎となる列石が見つかり、はじめて古代山城と確認された。1986年に国の史跡に指定。現在は総社市教育委員会が2001年より史跡整備を行っている。特に西門付近は城門・土塁・石垣が復元された。
 2006年に「日本100名城 第69番」に選定。
 駐車場横に、鬼ノ城来訪者の休憩などを目的とした「鬼城山ビジターセンター」がある(毎週月曜休館)。



 だいたい、「お城」と聞いて日本の本州に住む方々のほとんどがパッと想像する、「天守閣」や「石垣」や「お堀」といった構造物を持った城郭というものは戦国時代から江戸時代にかけて築城されたものがほぼ全てであるわけなのですが、上の解説にしたがうのならば、私が今たどり着いた鬼ノ城は、そういった有名なお城たちの約1千年前に築き上げられた超先輩にあたるわけなのです。いっせんねん~!?
 ところが、その鬼ノ城も遺跡の状況から想像するに、築城されてからおよそ50年間ほどののちに早々に廃城してしまったらしいのですから、日本で最もお城のニーズが高まっていたのちの時代には、鬼ノ城はすでに「お呼びでない……っていうか、なにそれ?」的な忘れられた伝説の存在になっていたのだそうで。古すぎる出自と、早すぎる廃棄……謎とロマンは深まりますねい。

 そういった古さを持っている鬼ノ城ですので、その雰囲気はもうのっけの「北門」から、日本的というよりもむしろ大陸的だったりアジア的な感じになっていました。そりゃそうですよね、「日本独自のテイストを持った城郭」というものが、まだ生まれるべくもなかった時代のお城だったんですから。すべて、導入するべき最新技術は大陸渡来という「日本の少年時代」飛鳥の御世のものであります。


 ほんじゃま、本格的な鬼ノ城探訪編は、字数もかさんできましたので、まった次回~!
 できれば今月中に、終わらせ、たい……
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全国城めぐり宣言 第20回 鬼の棲み家からいよいよ入城できるか!? 「備中国 鬼ノ城」!

2013年04月10日 23時19分23秒 | 全国城めぐり宣言
《前回までのあらすじ》
 備中国鬼ノ城探訪までにそうだいが要した歩行距離は当初の予想を大きく上回り、思わぬ尖兵となったお隣の経山城探訪もあわせて「およそ7km 」におよんでしまった!
 ……というのもほんの一瞬のぬか喜び。鬼ノ城駐車場の手前には、鬼ノ城とはまるで別の方向を指し示す「岩屋三十三観音みちコース 1周6.5km 」という恐るべき看板と入り口が!!

 まぁその~、せっかくここまで来たんだし、行ってみるっきゃないわな!

 立派なおっさんに成長した身体から盛大に鳴り響く「やめときなはれ! やめとくんなはれ!!」という警告アラームも無視し、そうだいの脳からは「勇気をもって岩屋も踏破! 進軍開始!!」という指令が下されたわけだったのだが……



 ……目前に迫っていた鬼ノ城をみすみす見逃して、そこからどんどん離れることになる謎の登山を開始する感覚。こりゃあ~もう、なんとも言いようのない感覚でした。まぁ頭おかしいですよね。好きじゃなきゃやってられません。
 もちろん、この岩屋33観音めぐりコースの途上には城郭はないわけなのですが、コース案内の大きな看板を見てみますと、「皇(おう)の墓」「鬼の差上岩(さしあげいわ)」「岩屋寺」などといった妙に気になるポイントが点在していました。

「これはひょっとしたら、温羅伝説でいう『鬼の棲み家』は鬼ノ城よりも、むしろ裏手に当たるこっちのほうなんじゃなかろうか?」

 こんな感じで、『鬼の』というキーワードがある以上、こっちもチェックしなければ意味はないと私は感じたわけだったのです。あと、高い山岳の上にある寺院は当然ながら、古来より伝統のある神社仏閣は、そのまんま軍事要塞の機能も兼ねられる堅固度を誇っているものが多いという印象もありましたし(京の本能寺とか比叡山延暦寺とか)、城だけ見て寺はスルーという考え方は、私の中ではかなりの見落としを産みやすい危険なものになるという確信があったのです。

 とはいうものの……できたら行きたくねぇ~!! 脚が大変なことになりそう。

 ちなみに、案内板にはこのコース名の由来ともなっている、途上6.5キロの路傍にまんべんなくまつられていた「石造りの33体の観音像(千手観音や如意輪観音など)」の写真がわかりやすく紹介されているのですが、よくよく見るとそのうち17体の観音像には四角いくくりがつけられており、それらには「現在、穴観音所在地にまつられております。」というただし書きが。「穴観音」というのは、鬼城山の東のふもとにある奥坂地区にある観音堂ですね。

 貴重な文化財の保存のためとはいえ、半分以上が行ってももうないのね……いやいや、信仰は像のみに宿るのではない、像を取り巻く周囲の森羅万象にも宿るのだ! したがって、行って損はない。本体ないけど。

 ともかく、四の五の言わずに午前9時半ごろ、勇気をもってレッツラスタートという運びになったのですが、最初に登ることとなった犬墓山(いぬはかやま 標高443m )は、そのネーミングこそものすごい不吉さに満ち満ちているものの、そのときにいよいよ本格的になってきたポカポカ陽気もあいまって、非常におだやかな登山コースになっていました。山頂への木製の階段も整備されていて、序盤でもあったしヒョイヒョイと景気よく駆け登って気持ちよく汗をかくといった感じでしたね。さっそく見つかった石の観音像は、後光もあわせて高さ30cm ほどの非常にかわいらしい観音さまでした。なんかポケモンみたいなファンシー感があります。

 犬墓山は鬼城山の西、経山&新山の北という位置にあるのですが、山頂が木々に覆われてそれほど開けていないため、山頂よりもむしろ、そこに行く手前で鬼城山側が一望できる東向きの一角が絶好のスポットになっていました。
 ここは視線をちょっとだけ見下ろした先に、経山城主郭からとはまた違ったアングルの鬼ノ城が楽しめるいい場所になっているのですが、ちょうどそこには、「ここに座ってお休みくださいワン」と言わんばかりに、直径2メートルほどの非常にまんまるの形をしたクリーム色の奇岩が10個ほど、登山道から山肌を下へ、つらなるように存在していました。
 その1コ1コはお菓子の「タマゴボーロ」か、手っ取り早くおなかいっぱいになりたい人に大人気の「山崎パン 薄皮ミニパンシリーズ(126円)」のように、微妙につぶれた丸い形状で、それが精確に一直線というわけでもなく、くねるようにつながっているさまは、ファミコン時代のあの「巨大な蛇型キャラのせいいっぱいな表現」をほうふつとさせないこともありません。って言って、どのくらいの方が「あぁ~、あれ。」って納得がいくんでしょうか。ドラゴンボールの神龍でしたっけ。

 何の根拠もない私の勝手な推論としては、このヘンな巨石こそが山の名前の由来となった「犬墓」なんじゃなかろうかと思うんですが、自然にできた現象なのかなぁ、コレ……人的にやる意図がよくわかりませんもんねぇ。昔の人も、「別に何の役にもたたねぇし、犬の墓ってことでいんじゃね?」という解釈に落ち着いたのではないのでしょうか。『桃太郎』のイヌがここで殉職したって伝説もないみたいですし。っていうか、温羅伝説の原型にイヌ・サル・キジは出てこないみたいです。お互いに部下は巻き込まない、温羅と吉備津彦命のタイマン勝負ですね。

 ともあれ、奇妙ながらもとってもかわいらしい奇岩でしたので、こんなぜいたくなシチュエーションも滅多に味わえないだろうという観点から、特に急いでいるわけでもないのに、そのひとつに腰掛けて鬼ノ城を眺めながら、関東地方に電話をかけて仕事の打ち合わせをさせていただくことにしました。あら、いつもはあんなに無味乾燥だったビジネストークが、環境が変わっただけでこんなに爽快なコミュニケーションに!

 へへへ、電話先のお人は知らないだろうなぁ。私が現在、岡山県の標高400メートルの山に登って、眼下に城郭をのぞみながら会話をしているということに! いぃ~っひっひっひ☆

 現時点では別にやましいことはありませんが、こういうことに快楽を見いだす考え方は、多くの変態的行為に共通する病巣を有しています。気をつけようね、そうだい。


 さて、犬墓山に登ったあと、コースはその北に隣接する「岩屋山(標高477m )」を目指すこととなります。そしていよいよ、ここが鬼にまつわる「謎の巨石群」が集中している、いわゆる「鬼の棲み家」となるわけなのです。異常に古いネタになりますが、岡江久美子さんはいらっしゃいません。

 そういえば、私が入山した月曜日の午前中は、平日だったこともあってかすれ違う登山客の方の数が極端に少なく、最初の鬼ノ城駐車場の手前から入る登山口で、向こうから帰ってきた老夫婦と挨拶を交わして以来はまったく誰とも出会わないという状況が続いていました。この、時代感覚さえも揺らいでしまう山中の寂寥感……いいね!!

 犬墓山から岩屋山へは、ゆるやかな尾根のような林道を時間をかけて歩き向かうことになるのですが、そのほぼ中間地点にはちょっとした広場のようなひらけた空間があり、その中央にいかにも意味ありげに安置されているのが、次なるチェックポイントの「皇(おう)の墓」ですね。

 皇の墓(岡山県指定文化財)は、基壇もあわせて高さ119cm の石(花崗岩)造りの塔。その一番上の段が、卵を逆さに立てたような上広がりの電球型になっていることからも、この塔が地位の高い僧、つまりこの場合は岩屋山にかつてあったという寺院「岩屋寺(いわやでら)」の開山僧の墓標を指し示す無縫塔(むほうとう 別名・卵塔)であることは間違いなさそうです。

 伝説によると、かつてこの岩屋山に存在し、平安時代には南の新山寺とあわせて三十八坊もの伽藍を有する山岳仏教の聖地、別名「西の比叡山」を構成する権威ある寺院として大いに栄えたという岩屋寺。その開祖は、第42代文武天皇(もんむてんのう 683~707年)の皇子だった「善通大師(ぜんつうだいし)」という人物で、開山は彼がわずか7歳だったときと伝わっています。文武帝の皇子ということは、奈良の大仏さまで有名なあの第45代聖武天皇(しょうむてんのう 701~56年)の兄弟ということになるのでしょうか……
 実は、「岩屋寺の善通大師となった皇子」にあたる人物は正史ではその存在が確認できず、文武帝の皇子は聖武帝も含めて3名いたものの、聖武帝の「母違いの兄弟」にあたる2人の皇子は、聖武帝の母方の祖父だった時の権力者・藤原不比等(ふじわらのふひと)による「藤原家超ゴリ押し作戦」によって、強引に母方の実家である「石川」の姓を名乗る中級貴族に降格させられてしまいました。『万葉集』にその名を残す、「石川広成(ひろなり)」という人物とその弟・広世がその悲劇の2皇子だったのです。今このあたりの時代をドラマ化するのだったら、不比等の娘で文武帝の第一夫人(皇后)、そして聖武帝の実母となった藤原宮子(みやこ)の役は剛力彩芽さんがやるのが一番ピッタリだと思います。人の世っつうもんは、千年たとうが変わらんもんは変わらんもんで。

 このような感じで、にわかにその実在があやしくなる「善通大師さま」なのですが、そもそもその「善通」という名前も、あの真言宗の創始者である日本仏教界のスーパースター弘法大師空海(774~835年)の父・佐伯田公(たぎみ 生没年不詳)の法名「善通」といっしょという符合があり、言うまでもなく、そこにちなんで創設された四国の大寺院・善通寺(香川県善通寺市)をどこかで意識した引用である可能性が高いような気がします。そういえば、岩屋の「三十三観音めぐり」という信仰のありかたも、四国にしっかりと存在していますね。規模は四国のほうがケタ違いに大きいですが。

 まぁともかく、この「皇の墓」が指し示す具体的な岩屋寺の開祖が誰なのかはいまひとつはっきりしないものの、確かに実在するこの立派な石塔と、その「皇の墓」という名前こそが、善通大師という人物の「オーラ」を力強く今に残しているわけなのです。こうなるともはや「卵が先か、鶏が先か」という禅問答になってしまいそうなのですが、この石塔のいたるところに積み重ねられているお賽銭の数が、なにやら伝説と史実との境界線をあいまいにする不思議な霊域の存在を証明しているようで、思わず神妙な気分になってしまいました。もちろん、私もお金を置いてったヨ。なんちゅうか、歴史の流れに参加するライヴ感覚ですよね。なにほざいてんでしょうか。

 ところで、この石塔自体は古くとも14世紀の製造であると推定されており、つまりそれは、実際の意味での「岩屋寺開祖の墓」ではなく、「岩屋寺の権威をアピールするための一大モニュメント」として「皇の墓」がつくられたことを指しているはずです。確かに、この地下に本当に開祖さまがお眠りになられている、という空気はじぇんじぇんありませんね。単に石塔があるだけの森の中の広場です。
 開祖は8世紀の人物であるはずなのですから、この「皇の墓」は500年以上「新しすぎる」ものの、それでもこれは岡山県に現存する最古の石塔であるとされています。

 これまた私の勝手な推測ですが、14世紀当時の岩屋寺は、当時嵐のように本州全土を駆け巡る大フィーバーとなっていた「王政復古からの南北朝動乱」に乗るかたちで、開山の経緯と皇族との関係をことさらに神話化することで寺院の存続をねらったのではないのでしょうか。
 でも、この岩屋寺の大伽藍も時代の奔流には逆らうことができなかったのか、前回に触れた新山寺と同じように戦国時代までには消滅の憂き目にあっちゃうのよね……げにシビアなるは世の浮き沈みかな。

 そんな深い感慨と、「『西の比叡山』って、比叡山の時点で山形出身の私からしたら充分すぎるほどに『西』なんですけど……」という若干のフニオチを胸に抱きつつ「皇の墓」を過ぎると、いよいよ「魔境の真髄」たる岩屋山へと入っていくことになります。

 ちょっとその前に、「皇の墓」から岩屋山に向かうその途上で「岩切観音(いわきりかんのん)」という、巨石3つの積み重ね(全てで高さ7~8メートルほど!)の壁面に彫り込まれた観音像に出会うのですが、この石製の大型スクリーンのような岩石の異様さが、これから踏み入れる魔境の性質をみごとに象徴してくれているような気がしました。ちょうど、スクリーンにうすらぼんやりと観音さまの出ている番組が映っているといったあんばいです。う~ん、っていうか、観音さまの彫り込みが絶妙に淡いので、むしろ夜のネオン街を眼下にのぞむ壁一面のガラス窓に、リビングに立ちつくしてわけもなく外をながめているバスタオル姿の観音さまがボーっと写っているというニュアンスでしょうか。観音さまにそんな OFFモードがあったっていいと思う。


 「鬼の棲み家」の驚愕の正体。それは、徹底した「インテリア、オール石化」!!


 なにはなくとも、岩屋山のいちばんの中心地点になるのは、その中腹に位置する「岩屋寺」というポイントです。
 ここはその名の通り、かつてあった大寺院「岩屋寺」の栄光を今に伝える伽藍……かと思ってたどり着いたのですが、そこにあったのは完全なる「無人のお堂(観音堂)」。申し訳程度に賽銭箱が置いてあるだけで、正面の扉もがっちり閉ざされた、何の変哲もない昭和製っぽい修復の目立つ建物です。「寺」ですか? これ……そこにいくまでの石段とか石垣はけっこう雰囲気があるんですけどね。
 正面わきにある高さ5メートルほどの弘法大師をたたえるいかめしい石塔もいいんですが、さらにその脇にこぢんまりとひかえている「よーお参りんさった 岩屋寺」という手書きの立て札が、なんとも言いようのない哀感をかきたてます。哀感っていうか……徒労感?

 資料によると、この観音堂はかつての岩屋寺をしのんで、江戸時代に地元の人々が築いたものであるのだそうで、そもそも平安時代に栄えた山岳仏教の聖地の岩屋寺とは直結していないものなのだそうです。う~ん無念。

 しかし! この地の「ほんとうの」中心地は、この岩屋寺観音堂の裏手にあった!
 裏手にはさらに石段があり、そこを登りきった正面には、観音堂とは打って変わって年季の入った古めかしい毘沙門堂があるのですが、そのお堂のはしっこには、チラッチラ見切れて自己アピールしている、なんとも隠しようのない強大なオーラが!!


「鬼の差上岩(さしあげいわ)」と、それを天井とする洞窟「鬼の岩屋」!! こっち! こっちがものすごいんだ。


 ドドォオ~ンン……15m ×5m ×5m 。こんな巨大すぎる大岩が天井になっている! この「鬼の差上岩」をいくつかの岩石が下でささえており、そこをぬって中に入ることができる空間ができあがっているのです。この、だいたい高さ10m 、横幅15m ほどの岩石のかたまりのことを「鬼の岩屋」というわけです。

 ものすごい威圧感です。私は日中の天気のいい時間帯に来たのでしみじみとそのオーラを味わうことができましたが、曇天だったり夜だったりしたら、ちょっと怖くて岩屋の中にまで入る勇気はわかなかったかも……
 もちろん、こんな構造物が当時の人工的な技術で構築できるはずもないので、これらは自然の奇跡の産物であるはずなのですが、どう見ても人類の常識を超えた「なにか」が、偶然でなく意図的にそこに作り上げたとしか思えない意志! そんなものをこの岩石群からは感じてしまうんですねぇ~、石だけに。ハイッ、ストーンとおちたっ☆

 ともかく、その空間に人間が私ひとりしかいないというのもミョ~に不安になりだしてきて、今にも岩屋の奥底から、身長10m ほどの大鬼が「ハ~イ、どなたぁ?」と出てくるかのような、現代の人間社会の通念を超えた空間が、いまだにここには、ある!! これはものすごい発見でした。

 さて、まわりをしげしげとうかがってから恐る恐る岩屋の中に入ってみたのですが、岩屋の中はだいたい縦横2m もないくらいの案外せまいスペースで、その入り口には、壁に彫られた毘沙門天像をまつる木製のほこらも作られていました。これはちょっと、鬼の王様が寝床にするにはちょっと庶民チックすぎる気がするんですが……
 実はこの「鬼の差上岩」には、その名前の由来となった「鬼が岩屋の天井にするためにこの岩を差し上げた時についた手形」というものがついていて、それは確かに、岩屋の中に入って顔を見上げると、その天井部分にはっきりと確認できます。だいたい1m 四方くらいの、ちょっと細長いくぼみができているんですね。確かにくぼみには微妙に段差ができていて、うすらぼんやりと「指のある手のひら」に見えなくもないんですが……その「1m くらいの大きさの手のひら」というニュアンスが非常に魅力的なので、「なにかの自然現象でできた単なるへこみ」という解釈にいくのだけはやめておきましょう! ロマン、ロマン。

 さて、これで念願の「鬼王・温羅のプライベートルーム」に来訪することができたわけなのですが、忘れてはいけません。ここは「鬼の棲み家」! ただ寝室があっただけ、ではお話にならないのです!!

 見よ! この、岩屋山を中心とする鬼どものスウィート鬼ホームのステキな「鬼インテリアデザイン」を!!


鬼の岩屋のすぐ上(岩屋山の頂上に向かうラインと頂上部分)
「鯉岩」         …… 文字通り、鯉の形をした巨石(のはずだが、ただの横長な巨石にしか見えない)。温羅が変身したという鯉と関係がある?
「鬼の餅つき岩」     …… 文字通り、かつて鬼どもが餅をついたという恐怖の巨石。
「八畳岩」        …… 文字通り、というか八畳以上に広い巨大な1個の岩(ざっと見10m 四方はある)。
「屏風岩」        …… 文字通り、屏風のように垂直に立ち上がっている巨石。どちらかというと軍艦の船首のように見える。
「方位岩」        …… 巨大な岩の上に常に北をさす小さな岩が乗っているという奇岩。
「汐差岩(しおさしいわ)」…… 岩の頂上部に常に水たまりができているという奇岩。汐の満ち引きにあわせて水位が変わるという。
※鬼の岩屋からだいたい距離300m ほどの圏内に「鯉岩&餅つき岩」、「八畳岩」、「屏風岩」、「方位岩&汐差岩」が点在しているという感じ

岩屋山から隣の実僧坊山(標高471m )に行くまでのふもと
「鬼の昼寝岩」      …… 文字通り、かつて鬼がその上で横になって昼寝をしたという惨劇の岩。

登龍山(実僧坊山のさらに北 標高461m )の山頂
「鬼の酒盛り岩」     …… 文字通り、かつて鬼どもが大挙して集合し大宴会をひらいたというゆかいな巨石群。


 ギエ~、遠い! いちいち遠い!!
 一体どんだけ歩かせる気なんですか……そりゃ鬼は人間よりでかいから歩数も少なくていいかもしれませんけれども!

 鬼の岩屋から昼寝岩までの段階で20分くらいかかるんですよ? そんなに遠くで寝なくたっていいでしょうが! 鬼さん、どんだけ繊細なハートの持ち主なの!?
 酒盛りだって、すぐ上の八畳岩でやったらいいのに、広いんだし! なんで2つも向こうの山の頂上でやんの!?


 そんなこんなで、私の肉体と精神は磨耗していくばかりなのでありました……大丈夫? こんなんで鬼ノ城に行けるのか!?

 次回! 次回こそ、本当に鬼ノ城に入城するぞ~!! ほんとヨ。
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全国城めぐり宣言 第19回 「備中国 鬼ノ城」と思ったら……スウィート鬼ホームへようこそ!

2013年04月06日 23時19分05秒 | 全国城めぐり宣言
《前回までのあらすじ》
 勢い込んで鬼ノ城の徒歩探訪に乗り出したそうだいだったが、多少は予想していたけどそんなにキツいとは思わなかった急角度の坂道と、まったく聞いていなかった鬼ノ城のお隣さんの城・経山城との遭遇に、おもしろいように出鼻をくじかれてしまった。
 しかし、小兵ながらも典型的な戦国時代の山城としての遺構を今に残していた経山城はなかなか見ごたえのある城跡で、山頂にたどり着いたころには天候も、春先にふさわしい陽気をたたえる快晴に転じた。
 やった! 私は運がいい。もうこの時点で足はけっこうキてるんだけど、この流れに乗じてちゃっちゃとメインの鬼ノ城もクリアして下山しよう。あとは岡山の市街地でいくらでも休んでればいいんだし。
 そういった甘い考えをいだくそうだいだったのだが……果たして目指す「鬼の本拠地」は、そんなにやすやすと制覇されてしまうようなヤワい土地なのだろうか!?


 確かに経山城の主郭に登ったときの、ちょっとだけ近い感じになったお天道さまからさんさんと降り注ぐ陽光のあたたかみは格別のものがあったのですが、実は同時に、北の吉備高原の山々から吹きすさぶ風の勢いのハンパなものではなく、ついさっきまで急激な坂道のために汗だくになってなっていたことがウソのように、たったの10分程度頂上にいただけで汗は乾き、むしろ涼しく感じるくらいにまで体温は降下。
 うむ、確かに天気はいいのですが、この、場所によっての温度の乱高下は注意しなければなりませんね。それに、「山の天気は変わりやすい」っていうし……まぁいいや、とにかく先を急ぐことにしましょう!

 さっそく、経山城でのメモを終えてから来た道をまた戻っていったのですが、このぐらいの時間帯から鬼城山を下山する最後のときまで、私はしきりに未舗装の山道で、私が歩くたびに地面のほうぼうから聞こえる「かさかさっ」という音と、目にもとまらぬ速さで道から草むらの中へ疾走していく体長10~20センチほどの細長い物体に出遭うことになります。
 Oh, イッツァ、かなへび!! とかげなのにかなへび! 西日本だからニホントカゲかもしれないけど。
 なつかしいなぁ~……かなへびを見るのなんて、もしかしたら小学生時代以来かも。ぽかぽか陽気になってきたので山道でひなたぼっこをしているんですねぇ~。ここでは完全に人間のほうがよそ者なんですねぇ~。

 さくさくっと軽快にくだって、最初の登城口から鬼ノ城駐車場へのアスファルト道に戻りました。さぁ、駐車場までもう1キロもありません。はりきってがんばりましょ~。

 このぐらいになると傾斜はだいぶゆるくなるのですが、道は大きく右に曲がりながら鬼城山を西から北へ、つまりは鬼城山の裏にまわりこんでいくというかたちになります。
 そして、道沿いにはとんとご無沙汰だった人家と田んぼが。家はまばらで多くはないのですが、一軒一軒がかなり重厚な瓦葺きの日本家屋で、かなり昔から住んでおられる歴史を感じさせます。
 同時に田んぼも、山と山との間を川が流れ、そこにできたわずかな土地を有効に活用して耕作地にする「棚田(たなだ)」が段々に連なっているという、今となってはかなりめずらしくなっている風景を間近に見ることができ、のんびりした陽気もあいまってかなりステキな徒歩ルートになっていました。たぶん、夏ごろに田んぼに放して雑草を食べさせるために農家の方が飼っているらしい大量のカルガモが柵の中にスタンバッていたのですが、そこが私が来たタイミングでいっせいにガーガーやかましくなったお約束の反応も含めて、実にいいひとときでしたねぇ~。実際に住むとなったら大変なんだろうけどね~。
 ただ、鬼ノ城の駐車場まで1キロ近くえんえんと続いていた棚田の土地も、実際に現在も耕作されているのは農家に近い田んぼ数枚分ほどだけのようで、あとはうっそうと雑草が生い茂る「もと棚田」という状況になっていました。まぁ、棚田を必要としなくてもいいほどに日本が豊かになった、と解釈すれば聞こえはいいんですが……無責任な立場から「寂しい」って言うのは簡単なんですけどね!

 棚田にも目を取られたのですが、もうひとつ私が気になったこととして、経山城に引き続いて、この一帯の農家の敷地や棚田の段差などでも、ちょっと驚くくらいの大盤振る舞いモードで石垣が多用されているのが見逃せませんでした。しかも、見た目はかなり歴史のある風合いになっていて、最近取り付けられたコンクリート製の模造石垣とは明らかに次元の違う重厚な雰囲気をはなっています。
 ここでもこんなに石垣が……この地域は良質な石材がそんなに手に入りやすいのだろうか!? 私の興味のボルテージはいやがうえにも上がっていきます。こだなの、山形じゃあちぃっと考えられねぇこんだずぁ……

 そんな中、鬼ノ城に向かう前にチェックしなければいけない「第2関門」として私の前に立ちはだかったものは人家のすぐ近くに鎮座ましましていました。唐突に道ばたにあるもんだからビックリ!


総社市指定工芸文化財「鬼の釜」!! なんちゅうストレートなネーミング!

 これは、経山城登城口と鬼ノ城駐車場とのちょうど真ん中あたり、道の左手にある「あずまや」というにはちょっと重厚な瓦葺きの屋根つき建屋の中におさまっているのですが、口の直径185cm 、深さ105cm という文字通り規格外な巨大さを誇る鉄製の大釜であります。ふつうの大人でも、立った姿勢だったら軽く10人は入ることができるサイズ!

 今でこそ全体的にサビに覆われていて、底にも大きな穴があいている状態になっているのですが、なんでもこの大釜は、付近の新山(にいやま)の谷で江戸時代の享保七(1722)年十月に出土したものなのだそうで、以来、新山の人々はこの大釜のことを、

「古い言い伝えにある、その昔この一帯にはびこっていたという鬼の王『ウラ』が、捕まえた人間たちを煮て食うために使っていた大釜なのではなかろうか。」

 と解釈して畏れていたのだとか。
 うをを!! さっそく鬼の実在を証明する超貴重な遺物が!? こんなの、宇宙人の話だったら矢追さんと東スポがだまっちゃいませんぞ!!

 さぁここで、この地方に今現在も伝わっている、「鬼の王」ことウラの伝説についてサッとさらってみましょう。


温羅(うら)伝説

 温羅伝説とは、吉備地方に残る、昔話『桃太郎』のモチーフとなったといわれる伝説である。
 古代、吉備国(主に現在の岡山県と広島県東部を指す)には温羅という鬼の王が住んでおり、鬼ノ城を拠点にこの地方を支配していた。吉備の人々はヤマトの都へ出向いて窮状を訴えたため、これを救うべく第10代崇神天皇(すじんてんのう 3世紀から4世紀前期のあいだに実在?)は、第7代孝霊天皇の第3皇子で四道将軍(よつのみちのいくさのきみ)の一人・吉備津彦命(きびつひこのみこと 3世紀初頭から中期に活躍? 第8代孝元天皇の異母弟)を派遣した。命は現在の吉備津神社の地に本陣を構えた。命は温羅に対して矢を射たが、温羅の投げる岩に当たってさまたげられた。そこで命は次の矢を2本同時に射て、投げた岩に当たらなかったほうの矢が温羅の左眼を射抜いた。負傷した温羅がキジに化けて逃げたので命はタカに化けて追った。さらに温羅は鯉に化けて逃げたので吉備津彦命は鵜に化けて追い、ついに温羅を捕らえ、首をはねたという。
 温羅は、製鉄技術をもたらして吉備国を治めた豪族がモデルではないかとされている。また、血吸川の水質・土壌の赤さは鉄分によるものであると推測され、吉備地方は古くから鉄の産地として知られていた。

伝説の伝承地

・鬼の岩屋&鬼の差し上げ岩(岩屋寺の裏に存在する洞窟)…… 鬼王・温羅の住居とされる

・鬼の釜(鬼ノ城への登山道脇に所在)…… 温羅が生け贄を茹でたとされる鉄製の巨大な釜

・吉備津神社(岡山市北区吉備津)  …… 備中国の一宮。吉備津彦命が温羅討伐のための本陣を置いた地とされ、命を祀る
 矢置岩(吉備津神社境内)     …… 吉備津彦命が準備した射る矢を置いたとされる
 吉備津神社御釜殿(吉備津神社境内)…… 討ち取られた温羅の首がうなり続けるため首村(後述)から移し、土中に埋められたとされる。温羅伝説にまつわる特殊神事「鳴釜神事」が金曜日以外の毎日行われている

・吉備津彦神社 (岡山市北区一宮)…… 備前国の一宮。吉備津彦命を祀る

・楯築遺跡(倉敷市矢部)…… 弥生時代の墳丘墓。吉備津彦命が石楯を築き防戦準備をしたとされる。頂上の5つの平らな岩が石の楯とされる

・矢喰宮(やぐいのみや 岡山市北区高塚)…… 温羅が投げた岩石が吉備津彦命の放った矢と当たって落ちた地

・血吸川(総社市~岡山市)…… 鬼城山の北から東に流れ、南流して足守川に合流する川。吉備津彦命が2本同時に放った矢のうちの1本が温羅の左目に突き刺さり、血が激しく噴出して川となったとされる

・赤浜(矢喰宮の南1キロほど)…… 土地名。温羅の血により一帯が真っ赤に染まったことに由来する

・鯉喰神社(こいくいじんじゃ 倉敷市矢部)…… 鯉に化けて逃げた温羅を、鵜に化けた吉備津彦命が捕まえた地

・白山神社(岡山市北区首部) …… 温羅が首をはねられた地。首が串に刺されてさらされ、村名「首(こうべ)村」の由来になった

・中山茶臼山古墳(現在の岡山市北区吉備津)…… 吉備津彦命の陵墓


 ね! すごいでしょ!? この鬼王・温羅に関する広範囲な伝承地の数々!! その中にちゃんと、くだんの「鬼の釜」もエントリーされているわけなんです。
 この、『桃太郎』の起源になったという、「温羅 VS 吉備津彦命」の一大決戦……スゴいですねぇ。大迫力ですねぇ。3つの市を股にかけちゃってますねぇ。
 岡山市の吉備津神社にいた吉備津彦命が、総社市の岩屋にいる温羅に矢を射るってあんた、10km くらい離れてるんですけど!? 吉備津彦命の矢はミサイルかポジトロンスナイパーライフルか!? 古代の話なのに想像するとミョ~に近代戦チックになってしまうのが素晴らしいですね!

 話はそれますが、1980年代後半の『週刊少年ジャンプ』につかった私は、「2本の矢」のくだりを読むと、この辺の設定もかなりしっかりとストーリーに組み込んでいた、にわのまこと大先生の名作プロレスギャグマンガ『ザ・モモタロウ』を思い出さずにはいられません。今をときめく小畑健先生のお師匠にあたるお方ですよね。この作品は桃太郎にかぎらず『浦島太郎』『かぐや姫』『牛若丸』などといった日本の伝承・伝説を本当にうまく調理した傑作でした。適度にエロかったしねぇ~。

 蛇足ですが、この「温羅伝説」ではフォローされていない桃太郎の「鬼ヶ島」という孤島の要素は、どうやら鬼ノ城のすぐ近く、瀬戸内海の女木島(めぎしま 香川県高松市)の鬼伝説がモデルになっているようです。ともあれ、この付近が桃太郎伝説の起源になっているらしいことは間違いないんですね。

 鬼王・温羅は確かにいたのだろうか……吉備津彦命がいたとされる時代は、たとえば時の大王(天皇)の寿命が100歳を超えるのは当たり前だったり(吉備津彦命の享年は「281歳」)して、日本の神話と史実とがいい感じにないまぜになった実に神秘的なゾーンであり、今なお解明されていない謎も多いのですが、吉備津彦命に温羅討伐を命じたという崇神天皇が3世紀中盤~4世紀前半に崩御した実在の人物であるらしいことは確からしく、そうなると、温羅の鬼王国は3世紀ごろに吉備津彦命の討伐によって崩壊した、ということになるわけです。
 3世紀っちゅうたら日本は弥生時代よね……でも、そんな時代に大陸からあの「三国志」あたりのスーパー技術をたずさえた集団が移住してきたとしたのならば、確かに当時の住民は「人じゃない奴らが来た!」と理解するかも知れません。そして、ヤマト地方の王権もその存在を非常に危険視するだろうし、同時にそのへんのテクノロジーをなんとか自分のものに吸収したいとも思うでしょう。
 現実味を帯びさせたいと思ったら、いくらでも想像の羽根を広げられる自由な世界なんですなぁ~。まさにロマン!


 ところが、そんなモヤ~ンを頭上に展開させている私を鼻で笑い飛ばすかのように、「鬼の釜」の解説板はこんな現実的解釈を補足していました。

「近隣の新山寺で使用されていた湯釜が廃棄されたものと思われる。」

 ウヒョ~大人!! ハードボイルドにもほどがあるわ! もうちょっと夢を見させてほしかった。

 この鬼の釜は鉄板を鋳あわせた工法で製作されているのですが、この地区の裏手にある新山(標高406m 経山の北、鬼城山の西)のどこかに存在していた「新山寺」という寺院で使用されていた入浴用の湯釜か、もしくは鎌倉時代にこの新山寺を訪れて伽藍を修築したあの俊乗房重源(しゅんじょうぼう ちょうげん 1121~1206年)が新山の人々に下げ渡した炊き出し用の大釜なのではないかとも伝わっているようです。
 いずれにせよ新山寺という寺院は、前回の解説文でも触れられていたように、鬼ノ城一帯で繁栄していた山岳仏教の聖地のひとつとして存在していたものだったらしいのですが、平安時代にはすでにそうとう有名な寺院としてその名が広まってはいたものの、数多くの戦乱に巻き込まれて戦国時代までには消滅してしまっていたようです。だからこそ、江戸時代の時点ですでに鬼の釜は「なんだかよくわからないでっかい釜」になってしまっていたんですね。

 なんだ、3世紀にいた鬼の王が「ガハハハ! 灰汁はちゃんとすくえよ!! 弱火でコトコト!!」とか言って大笑いしながら使った大釜じゃなかったんだ……いやいやそれにしても、歴史の奥深さを証明する貴重なアイテムであることに間違いはないんですな。ありがてぇありがてぇ。

 さぁ、この鬼の釜を過ぎてしばらく歩くと、いよいよついに鬼ノ城の駐車場に到着であります。
 ここまで坂道を徒歩、5.5km! プラス経山城よりみち(たぶん往復で1.5km くらい)!!
 実に感慨深い到着であるはずだったのですが、そこにあったのは、当たり前ながらも単なる駐車場と、道の駅よりもちょっと小さいサイズの休憩所。この休憩所は「鬼城山ビジターセンター」という資料館を兼ねている施設で、中には鬼ノ城に関する解説資料が展示されているようです。うん、ふつうよね。まだ観光客の人影はおひとりも見当たりません。

 実はこの駐車場からも、もうちょっと坂道を登っていって鬼ノ城の城域に入らなければならないわけなのですが、ま、とにかく、出発点にはたどり着くことができたわけなのです。
 よしっ、それじゃあ鬼ノ城へ潜入するぞ! と勇躍、敷地に入ろうとした私ではあったのですが……

 右手に鬼ノ城へと続く駐車場があったのですが、あれ、左手にもどこかへの入り口があるぞ。入り口の前には、なにやら大きな案内板が。

 ……なにか、非常に嫌な予感がする……あの案内板は見ないほうがいいんじゃないのだろうか。あの入り口はないことにすればいいんじゃないだろうか……いや、でも、見るだけは見というたほうがいいんじゃ……アレだ、あんまり興味をくすぐらないルートだったら行かなきゃいい話なんだから! うん……

 外国の古いことわざに「猫の死因は『好奇心』」というものがあるそうなんですが、私そうだいの死因も好奇心だ!
 おそるおそる、おそるおそるその、左手の案内板をのぞくと、そこには……


「総社ふるさと自然のみち 岩屋三十三観音みちコース 徒歩距離6.5km(所要時間3時間半ほど)」


 ……膝からカックン。
 なんていうか、「ゴールの1マス手前で別のすごろくコースにすっ飛ばし」ですよね、これ。こんな超絶トラップが現実に存在していたとは。

 無視など……できるはずにはない! 鬼城山から見て北西の方角にある山々を「いくつかまたいで」ぐるっと一回りしてまた戻ってくるという、恐怖の円環コースの途上には、「鬼の岩屋」「岩屋寺」「皇(おう)の墓」などといった実に興味深いネーミングの数々が……なんと、鬼の「真のマイホーム」は鬼ノ城ではなく、この裏手の山々であったのか!! これぞ「秘境」。

 行かいでか、行かいでか、行かいでかァア!!

 え~っと、今が午前9時半すぎだろ……じゃあ、まぁ時間的には無理なことはないよな。でも、問題はタイムスケジュールよりも体力なんですけど。

 いや、もうこれは逡巡してるだけ時間の無駄ですよ。

「やらずに後悔するよりも やって後悔したほうがいい」(山本よしふみ『トライアルかおる!』より いちいち古い)

 この精神で突撃だ!! 迷わず左の登山口へ GO~。


 はぁ~。鬼ノ城はまたおあずけかいな。いやでも、すぐにでもまた戻ってくるぞ、わしゃあ!! うぇいた、みにっつ!

 6.5km て……今までヒ~ヒ~言ってきた距離を、鬼ノ城探訪の前にもう一回ってことっすか!? まいったねコリャ。

 え~っと、まわらなきゃいけない山々はというと……全部で4つですか。名前は?


「犬墓山」「岩屋山」「実僧坊山」「登龍山」


 ……ネーミングがもう、私を呼んでるよね。バッター1番、犬墓。
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全国城めぐり宣言 第18回(たぶんそのくらい) 「備中国 経山城」かぁらぁの~「備中国 鬼ノ城」!

2013年04月03日 22時34分52秒 | 全国城めぐり宣言
《前回までのあらすじ》
 岡山県岡山市での演劇鑑賞にかこつけて、2ヶ月ぶりの城めぐりとしゃれこんだそうだいが今回挑戦したのは、岡山市に隣接する総社市(そうじゃし)に屹立する謎の巨城・鬼ノ城(きのじょう)!
 だが、しかし。どストレートな3.5キロもの山道の徒歩に早くも足腰が悲鳴をあげまくりだったそうだいの前に立ちはだかったのは、鬼ノ城とはまったく逆の方向を指す「← 経山城」という魅惑的な看板。
 なめるなよ!? たとえこの両の足が粉砕しようとも、「鬼ノ城だけを見て、要件だけ済ませたらちゃっちゃと下山する」という選択肢は、このワシには、ない!!(ちょっと頭をよぎったけど) 夕方まで時間はたっぷりあるんだ、ここまで来たら寄り道しまくってやろうじゃねぇかァア!!
 誰が聞いているわけでもないのにそう息巻くそうだいだったのだが、今回の鬼ノ城にまつわる「寄り道」の数と規模において、この経山城はまったくの序章に過ぎないのであった……



 それではまず、私が急遽むかうこととなった、鬼ノ城の「お隣さん」経山城と、その最後の城主となった武将・中島元行についてのあれこれをまとめてみましたので、ちょっと見ていただきましょう。


経山城(きょうやまじょう)とは

 吉備高原の南端に位置する経山(標高372.7m )の山頂付近に存在した、東西70m 、南北120m を城域とする小規模な城郭。北には新山(にいやま)・岩屋山・鬼城山(鬼ノ城)など標高400m 級の山が連なり、山頂部からは南に吉備総社平野が一望でき、西には高梁川(たかはしがわ)を視界に捉えることができる。背後の各峰は平安時代には山岳仏教の霊場であった。そして、近接した南のこの山に多数の経塚が築かれたことに由来して「経山」「経山城」と呼ばれた。
 この城は、天文年間(1532~55年)に大内義隆によって築かれたと、江戸時代に編纂された記録集『古戦場備中府志』に記されている。のちに毛利氏の所領となり、元亀年間(1570~73年)に毛利氏の重臣・小早川隆景の命により当時の城主・中島大炊介(おおいのすけ)元行が城郭を修築した。毛利氏の東部の押さえとして、この城は重要な位置をしめていた。
 この城をめぐる攻防戦は大きなものは二回あったとされ、第一回は天文十二(1543)年。この時期には播磨国守護・赤松晴政(はるまさ)の軍勢との攻防が熾烈を極めた。当時、大内義隆と出雲国守護・尼子晴久との激突はいよいよもって激しくなり、大内義隆は領国七ヶ国の軍勢十万を率いて出雲国の富田城を包囲した。備中国からも多くの兵士が出陣していたため、この隙をうかがい侵入を開始してきたのが播磨国白旗城主・赤松晴政であった。晴政は重臣の浦上宗景、宇喜多興家(おきいえ 直家の父)らを派遣し攻撃の陣を進めていたが、その最中に京の将軍・足利義晴から晴政のもとに三好長慶・細川氏綱らを討伐せよとの命が下ったため、赤松勢は撤退を余儀なくされた。
 ついで第二回の合戦は元亀二(1571)年、尼子家が兵一万で城を攻撃したものを城兵数百が撃退したと伝えられるのだが、戦国大名としての尼子家は永禄九(1566)年十一月にすでに毛利家の総攻撃によって滅亡しており、その残党も永禄十三(1570)年二月の布部山合戦で大敗を喫していったん壊滅していたため、実際にその規模の戦闘があったのかどうかはあやしい。
 廃城の時期は定かではないが、天文十(1582)年の備中高松城水攻めの後に羽柴秀吉と毛利氏が和睦し、それを機に経山城は宇喜多氏の領地となって家臣の延原土佐守秀正(ゲーム『信長の野望』に登場する延原弾正忠景能の一族)に与えられたが、おそらくその直後に城は破却されたと思われる。 ※『日本城郭体系』(新人物往来社)の記事などより

 現状は登城道が整備されており、比高も低く容易に城跡まで到達できる。登城口から15分ほど登ると城の主郭部分に到達できる。
 経山城は、山頂部に方形の主郭(東西40m 、南北30m )を置き、西から南側にはLの字状に最大幅15m の帯曲輪(おびくるわ)が二段もうけられている(二ノ段と三ノ段)。この外側三ノ段には空堀と土塁の遺構が残り、また主郭南端の切岸(きりぎし 人工の崖)部分には石垣(野面積み)の遺構が残存している。主郭の東から北側には中曲輪(東西40m 、南北40m )・北曲輪・東帯曲輪が配置され、北曲輪にも石垣の遺構がある。また、北曲輪はなだらかな尾根が続く北面防備のために、土塁の内側に「武者隠し(むしゃがくし 城兵側からの奇襲用の塹壕)」の機能を持つ空堀(箱堀)を設けていた。城の外側一帯には「犬走(いぬばしり 防御兵用の通路)」がめぐらされ、南西側には虎口(こぐち 城の出入り口)がある。それぞれの曲輪のあいだには1~3m の段差があったとみられる。
 曲輪、空堀、虎口などの遺構は比較的明瞭に残るが、石垣の遺構は破却されたため、所々に残存している状態である。それでも曲輪の配置や規模、戦国時代の山城の縄張り(建物や障害物の配置)がよく見て取ることができる。


 
中島 元行(なかしま もとゆき 1552~1614年)

 中島元行は、戦国時代の武将である。備中国賀陽郡阿曽郷(現在の岡山県総社市黒尾)に存在した経山城の城主。通称・大炊介。備中高松城城主・清水長左衛門宗治(むねはる)の娘婿で、従弟でもあった(元行の母は宗治の叔母)。父は同じく経山城主だった中島輝行。嫡男は中島義行。

 中島家は藤原南家工藤氏の末裔で、鎌倉幕府の政所別当・二階堂氏の子孫にあたる。
 室町幕府第10代将軍・足利義稙の近侍であった二階堂大蔵少輔政行のとき、義稙の命により備中国地頭として中国大名・大内義興(義隆の父)の家臣となった。初め備中国浅口郡片島(現在の岡山県倉敷市)の中島城に在城したため中島と改姓した。後に賀陽郡阿曽の経山城の城主となり、政行・氏行・輝行・元行と四代にわたって支配した。元行の父・輝行(1528?~67年)の代になると、備中国支配から撤退した大内家にかわって勢力を拡大した毛利家の傘下に入ったが、輝行は備中国松山城主・三村元親(もとちか)の同盟軍として参戦した永禄十(1567)年七月の備前国明禅寺合戦で宇喜多直家に敗れて討死した。
 中島元行は義父で従兄の清水宗治とともに毛利家一族・小早川隆景の配下となった。元亀二(1571)年には、経山城に籠城して尼子家の残党と交戦している。
 天正十(1582)年、織田信長の命により中国方面軍を率いる羽柴秀吉が備中国に侵攻し、備中国高松城は包囲された(備中高松城水攻め)。このとき、中島元行も副将として城主・清水宗治とともに籠城し抗戦する。この際には高松城の二ノ丸を守備し、何度も秀吉軍の陣地に攻めこんだ。宗治の切腹を条件に秀吉との和議が結ばれた後、元行は宗治の遺言により宗治の嫡男・五郎左衛門景治(かげはる)の後見となる。経山城は和議の条件により宇喜多領となったため、中島家は清水一族ともども旧領を去る。
 その後、豊臣政権下で大名となった小早川隆景が筑前国名島(現在の福岡県福岡市)に移ると、清水景治と元行、元行の嫡男・義行は隆景に同行する。元行は隆景から、時に家臣達に軍談を話すように命じられるなど、その扱いは特別なもので、清水家と共に手厚い待遇をうけていたという。
 隆景が死去すると小早川家を去り、清水景治は毛利輝元に仕え、元行と義行は備中国賀陽郡刑部郷小寺村(現在の岡山県総社市小寺)に戻り帰農した。さらにその後、義行は慶長五(1600)年の関ヶ原合戦後まもなく松平越前少将秀康に仕官し、家督は義行の嫡男・昌行が継いだ。
 元行は慶長十九(1614)年一月に死去、墓は備中国報恩寺(同じく総社市小寺)にある。当時の戦乱の模様を今に伝える軍記『中国兵乱記』は後年に中島元行が著したものである。

ゲーム『信長の野望』シリーズでのだいたいの評価
中島元行(『蒼天録』『革新』に登場)…… 政治・知略 54、統率・武勇 62、特技 弁舌
中島輝行(『蒼天録』に登場)    …… 政治・知略 34、統率・武勇 40、特技 城郭の改修
清水宗治(シリーズのほぼ全作に登場)…… 政治・知略 28、統率・武勇 71、特技 浪人の登用など


 まぁ、こんな具合なんですけどね。『信長の野望』関連はご愛嬌ですけど、要するに戦国武将としての中島家は全国的な知名度は親戚の清水宗治にだいぶおカブを奪われている現状なんですな。ところで、実際に経山城を上にあげたような戦国時代仕様にモデルチェンジしたのは息子の元行のはずなのに、なんで親父の輝行の特技のほうが「改修」になってるんだろうか……これぞ『信長の野望』名物、ざっくり采配!!

 上の説明に即していいますと、今現在もうけられている経山城の登城道は城の裏手に当たる北側から、なだらかな経山の尾根づたいに登っていくルートになっていまして、北曲輪、中曲輪、主郭という順番に山頂へ登っていくことになります。

 さぁ、それでまずは、鬼ノ城へ続くアスファルトの車道をそれて、道の左側にある登城道に入っていくわけなのですが……あぁ~、やっぱり傾斜はさらにキツくなりますよね~……だって、人間専用の登山道なんですもんね~。

 ところが! いざ覚悟を決めて登ってみますと、これがなぜか、これまでの道に比べてだいぶラクなんですわ! どこからどうみても急斜面の階段がところどころにある未舗装の山道なのに、なぜ?

 そう、この「未舗装」っていうのが決め手なんですよね~!
 未舗装とはつまり、アスファルトではなく秋の落ち葉が降り積もった柔らかい土の道であるということ。これ! この道の柔らかさが、安全ブーツごしの足のひらに非常にやさしいんですねぇ~!!
 もちろん、木の杭で組まれた階段やすべりやすい斜面の連続ではあるんですが、この着地点の衝撃吸収性が、足にかかる負担をだいぶ軽減してくれているんですね~。こいつぁありがてぇや!

 ……とは感じたんですが、尾根づたいに登るということは、いったんある山の頂上に登ってから、またさらに高い山に向かって登っていくということになります。
 「えぇ~、また登ってくの?……しかも、あの100メートルくらい向こうにある山に行くんだろ。カンベンしてよ……」
 山登りというものは、目標点である頂上が見えなくても疲れるし、見えても疲れるものは疲れる! どっちみち気楽なレジャーにはならんのね。
 ともかく、尾根になってだいぶ道の傾斜は楽になりまして、ついでに先ほどのおじさんの予言はさらに現実のものとなり、空は風がやや強めに吹き渡る快晴に変貌! いえ~い、あたしゃあ運がいい☆

 そして、尾根を渡りきるとそこは……うむっ、城があったともにわかには信じがたい、ただの山? ともかく先に目に入ってくるのは自由に伸びまくった木々のみで、何の変哲もない自然の山のようにしか……

 いやっ、よく地面を見てみろ!! なんだあの段差は、あの落とし穴のような窪みは!? そして、若干くずれつつも確かに残存している、あの立派な石垣は!! 立派っつったって、たかだか高さは2メートル弱くらいだけど。
 間違いなく、ここは城郭だった……どうやら、登山道沿いの整備以外には、廃城となった1582年いらい、実に500年以上の長きにわたって放置され続けているようで、日を追うごとにわずかずつ、まさに「磨耗」というべきゆるやかなスピードで経山城は母なる山に還りつつあるようなのですが、逆に言ってしまえば、それくらいの歳月、その地に住む者のなくなった現代においてさえも、経山城の当時最新鋭の縄張りは原型をとどめているのです。これは貴重だな~! 後世の人間の開発や自然災害で跡形もなく消滅してしまっている名城も無数にあるというのにねぇ。
 天文年間の築城で改修1回、そして1582年に廃城したというのですから、長くても50年ほどしか存在していなかった経山城であるはずなのですが、その10倍の時間が経過していてもしっかりその痕跡を残している……ロマンだなや~!!

 はっきり言って、この経山城は城域70m ×120m ということで、あの「備前国府」岡山城(城域1km 四方!)はもちろんのこと、清水宗治のいた備中高松城(城域100m ×300m )にくらべてもだいぶ小規模な城郭であり、広さだけを見れば、どちらかというと「城」というよりも「砦」に近いようなスケールに見えます。実際に、その地に立ってみると非常時でない時期にも城主の中島一族が年がら年中住み込んでいたとはとてもじゃないですが信じられない狭さと不便さがあり……おそらく、平時には城内の人員は必要最小限におさえられており、城主ら重臣一同はふもとの総社平野のどこかに屋敷をかまえていたのではないのでしょうか。

 ところが! この経山城を「城」たらしめているのは、まさにその狭い空間に石垣、空堀、土塁、虎口、切岸、犬走り、武者隠しと、これでもかというほどにテンコ盛りに満載された非常時用の高スペックの設備の豊富さで、情報の正確さに若干の不安は残るものの、赤松家、尼子家という2度に及ぶ大軍の来襲をはねのけた実績にも大きな説得力があります。まさしく「戦国時代の山城の教科書」みたいなお城なんですね。これはもう、今回、「天気が良くて、かつ木々の葉がまだ生い茂っていない春先」という、城の構造を見るには最高の季節に訪れたということに感謝せずにはいられないでしょう。ラッキーだったなぁオイ!

 ただしなんとも無念なのは、この経山城にとっての「最終決戦」となるはずだった備中戦役において、最終的にやっぱり規模の小ささがネックとなったためか、城主の中島元行が「経山城の放棄」を決断し、義父・清水宗治の加勢のために一族城兵をあげてふもとの備中高松城にうつっていってしまったということでしょうか。しかし、今までの攻撃軍とは比較にならないスケールで迫り来る織田政権の中国方面軍に対して、もし仮に籠城したとしても経山城がどれほど持ちこたえられたのか……やはりこれは、兵力を高松城に集中させた中島・清水ペアの策のほうが的を得ていたということなのでしょう。

 結局その後、中島家に代わって経山城を受け取ったという宇喜多家武将の延原秀正が城に移ったという記録もなく(秀正の居城はだいぶ遠い備前国赤磐郡にあった)、おそらく秀正は「不便」と「戦略的重要度の低下」という理由から、さっさと使えるものだけを移転させて経山城を廃棄させてしまったかと思われます。
 かつて大内家、毛利家の「東の国境防衛ライン」として重視された経山城ではありましたが……それだけ時代が変わったということなんですなぁ~。まさにこれは、「峻険な戦闘要塞」から「交通便利な政庁」へと、日本の城郭の重視すべきポイントがシフトしていった典型的な例かと思われます。勉強になるなぁ~オイ!

 さて、ついに城の主郭、つまり経山の頂上に立ってみますと、まぁ~見事に360°がステキなパノラマになっていました。とにかく南には総社平野、はるか南東には低い山に囲まれた備中高松城のあるべき高松盆地が見えます。それらのさらに南は……あれっ、もしかして海? 瀬戸内海!? じゃああれは、四国かよ! ウヒョ~、すげぇな、こりゃ!! 私は生まれも育ちも山形盆地の人間ですので、なにはなくとも海を見ると興奮してしまうのです。しかも、それに加えてまだその土を踏んだこともない四国島を目にしてしまったんですから……ヒエ~、三好 LOVE♡  こういう絶景が楽しめるからこそ、汗かき苦労して挑戦する山登りはいいんですよねぇ。
 そういった遠景も素晴らしいのですが、今現在、経山城の主郭のすぐ南に位置する二ノ段・三ノ段区域には高さ50m はあろうかという鉄塔がそびえ立っており、ぶっとい電線ケーブルを東西の山々にわたしています。
 このケーブルがねぇ、城の魅力とはぜんぜん関係ないんですけど、強風にあおられて「ギュヴ~ン、ギュヴ~ン!」っていうものすごいうなり声をあげているんですよ! う~ん、かっこいい!! なんか、ひとりで荒城を探訪している孤独感をあおってすごくいいですね。
 あのケーブルにつかまって、下の山までジブリアニメ的な要領ですべっていったらラクだろうなぁ……って思うけど、実際にやったら地面が50~100メートルくらい下なんだから……っていうか、一瞬で黒焦げになるか手がすべる摩擦で……ギャ~!! バカバカしい妄想は広がります。

 すがすがしい気分でミカンをつまみながら、視線を逆方向の北の吉備高原にめぐらせますと、北東の方角にはドド~ンと、今回の私の本来の目的であった、あのお城が!!
 これみよがしにそびえ立つ、日本の戦国時代のそれとはまったく建築様式の違う、異様な外観の城門と城壁!
 経山城のある経山の標高は372.7m で、鬼ノ城のある鬼城山は標高397m だそうですから、ほぼ私の目の高さの延長線上に目指す鬼ノ城はありました。経山城からのアングルはほんとに絶好の角度ですよ! まだ午前中だということもあってか、城門付近に人影は見当たりません。

 あれが鬼ノ城か……天気は快晴ですが、背後から聞こえる電線の「ギュヴ~ン、ギュヴ~ン!」といううなりがいやがおうにも、これから「鬼の城」に乗り込んでいくという雰囲気を盛り立ててくれます。

 っていうか、遠いな~……鬼ノ城は明瞭に見えるわけなんですけど、あれは直線距離にしても1キロはあるんじゃないだろうか。それをいったん経山城を下りてから、また鬼城山を登っていくっていうんだからよう……そりゃ山的には「お隣どうし」だけどよう!

 ここでちょっと整理しておきたいのですが、ここまできた時点で、私の中には2つの大きな疑問が浮かび上がっていました。

1、どうして経山城ほどの小規模な城郭にも、これほどまでにふんだんに石垣が使用されているのか? 東北地方生まれの私にとっては、この石垣の投入量はちょっとありえない。例えば、私の実家に最も近い城郭である「羽前国長谷堂城」は経山城よりも規模の大きい山城なのだが、石垣はいっさい使われていない

2、どうして鬼ノ城のような広い土地を持った山が近隣にあったのに、戦国時代の大名たちは狭い経山の方を城郭に使用したのか?

 この2つの疑問なんですが、これらは次第に、実際に足を使って探訪することによって、おもしろいように氷解していきました。それはまた後ほどの話なんですが、やっぱり「現場百遍」の精神は大事ねェ~!


 さてこのとき、経山城主郭跡に到着した時刻、午前9時。JR 吉備線の服部駅を出発したのが7時30分でしたから、1時間半かけてここまでたどり着いたということになります。だいたい5~6キロくらい歩いたことになるのかなぁ。

 うん、うん。ポテンシャルの低い私の体力にしては、けっこういいペースなんじゃないだろうか。このままいったら、いくらしんどいといっても、もしかしたらお昼過ぎくらいに鬼ノ城探訪は終わるかも知れないぞ。こりゃあ、夜のお芝居鑑賞までだいぶ時間が余っちゃうな~。どうやって時間をつぶそうかナ~♪

 山道がつらい割には予想以上にスイスイ進む探訪に、思わずそんな楽観的な気分におちいる経山城山頂の私だったのですが……


 あまい!! その思惑は森永マミーなみに甘い。

 それはもう、他ならぬ私自身とその両足が、これから身をもってじっくり味わっていくのでありました……
 なんてったって、「正体不明の鬼の城」なんですからね。そうは問屋が卸すかっつ~の!

 まさに鬼ノ城。そのスケールと厳しさ、そして悠大さは、文句なしの「鬼」だった……鬼パねぇ!!
コメント (2)
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