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全国城めぐり宣言 第27回 「豊前国小倉城&長門国赤間神宮」資料編

2016年01月15日 23時25分22秒 | 全国城めぐり宣言
豊前国(ぶぜんのくに)小倉城(こくらじょう)とは……

 小倉城は、現在の福岡県北九州市小倉北区に存在した城である。勝山城、勝野城、指月城、湧金城、鯉ノ城などの別名がある。JR九州の西小倉駅から徒歩で10分、小倉駅から徒歩で15分。

 小倉城は13世紀中期(鎌倉時代中期)に紫川(むらさきがわ)の河口西岸にあった丘に築城されたといわれ、近世の江戸時代前後に戦国武将の毛利勝信が現在見られるような縄張で総石垣造りの城郭を築き、江戸幕府大名の細川忠興が南蛮造りの天守閣などを建てた。
 本丸を中心に、南に松丸、北に北ノ丸、それらを囲むように二ノ丸、三ノ丸、外郭が配された梯郭式平城であった。建造物は、野面積みの石垣の上に大天守と平屋の小天守1基、平櫓117、二重櫓16、櫓門12、各所に狭間3271を配していた。城下は、城の東を流れる紫川を天然の堀として活用し城内に町を取り込んだ総構え形式を採っていた。現在、一部の石垣と堀が残り、天守閣・櫓・庭園と大名屋敷が再建されている。天守閣の内部は郷土資料館として利用されている。

 天守閣は、4重5階の大天守と1重の小天守からなる連結式層塔型天守であった。大天守は、最上階の外廻縁(そとまわりえん)が徳川幕府への遠慮により重数を少なく見せるため、また雨よけのために雨戸で覆われた下層よりも張り出している、いわゆる唐(南蛮)造りである。さらに最上層の入母屋破風を除き、破風を用いないものであった。現在、建造されている唐造りの天守閣はこの小倉城と周防国岩国城の天守閣の2例しか存在せず、どちらも昭和時代の再建によるものである。
 かつての天守閣は天保八(1837)年に失火によって本丸御殿とともに焼失し、天守台には「御三階櫓」と呼ばれる櫓を建て、天守閣の代用としていたとされる。現在見られる天守閣は、1959年に『豊前小倉御天守記』『小倉城絵巻』『延享三年巡見上使御答書』などの史料をもとに鉄筋コンクリート構造によって復興された。最上層以外の破風構造などは地元観光面への考慮から要望によって付加されたもので、大入母屋破風や千鳥破風、唐破風などの破風が見られる。
 2004年の発掘調査により、篠崎口から清水門の外堀で畝堀(うねぼり)と堀障子(ほりしょうじ)が発見される。これは忠興時代に造られたものと考えられている。

歴史
文永年間(1264~74年)
 緒方大膳亮帷重が居城した、というのが初見とされる。
元徳二(1330)年
 黒崎土佐守景経が居城。後に守護大名・大内家の持ち城となる。
嘉吉二(1442)年
 太宰少弐頼冬が占領し、文明年間(1469~86年)には菊池家が居城とした。
永禄十二(1569)年
 毛利家と同盟し大友家と対立していた岩屋城主・高橋鑑種が大友家に降伏し、小倉城に領地替えとなる。
天正十五(1587)年
 高橋鑑種の養子・高橋元種が豊臣秀吉の九州征伐に小倉城を開城。豊臣秀吉の重臣であった毛利勝信が豊前国小倉6万石を与えられ小倉城に入城する。この当時の城の様子は史料がなく不明。なお、勝信の嫡男・勝永にも豊前国に1万石が与えられている。毛利勝信・勝永父子は関ヶ原の戦いで西軍に付き改易となる。
慶長五(1600)年
 関ヶ原の戦いで石田三成に加担した毛利勝信・勝永父子は改易処分となり、論功行賞で細川忠興が豊前国を領する。忠興は初め中津城に入城したが、豊前一国40万石の大名の居城として、1602年から7年かけて毛利家の小倉城を改築し、そこに居城した。なお、この際に城下町も整備され紫川で東西に二分し、西は侍町、東は町人や下級武士の町とした。
寛永九(1632)年
 細川家が肥後国に移ると、譜代大名として播磨国から小笠原忠真が15万石を領して小倉城に入り、以後、小倉藩藩主の居城となる。
天保八(1837)年
 失火により本丸御殿と天守閣が焼失し、それ以後天守閣は再建されなかった。
文久三(1863)年四月
 江戸幕府の攘夷政策にともなう海防強化のため、城の外郭で海からの入口に当たる紫川の河口両岸に東浜台場と西浜台場を造営。
慶応二(1866)年
 第2次長州戦争での小倉藩と長州藩の戦闘の際、小倉藩は長州藩の攻勢の前に小倉城へ撤退。同年八月一日、小倉藩は小倉城に火を放ってさらに撤退し、藩主は肥後国熊本藩に退避。家老ら藩首脳陣は小倉の南の香春(かわら)で指揮を執った。
慶応三(1867)年
 長州藩と小倉藩で和平が成立。しかし小倉城を含む地域は引き続き長州藩の領有となり、小倉城は再建されなかった。


長門国(ながとのくに)赤間神宮(あかまじんぐう)とは……

 赤間神宮は、現在の山口県下関市阿弥陀寺町に存在する神社である。旧社格は「官幣大社」。平安時代末期の壇ノ浦合戦で幼くして崩御した安徳天皇を祀る。
江戸時代までは「安徳天皇御影堂」といい、仏式で祀られていた。源平合戦で滅亡した平家一門を祀る塚があることでも有名であり、怪談『耳なし芳一』の舞台でもある。JR下関駅から徒歩で10分。

 平安時代前期の貞観元(859)年に、阿弥陀寺として開闢された。
 寿永四(1185)年三月二十四日の壇ノ浦合戦で入水した安徳天皇の遺体は現場付近では発見できなかったが、建久二(1191)年、朝廷は赤間関(現在の下関)に安徳帝の御影堂を建立し、帝の母である建礼門院平徳子ゆかりの尼僧に奉仕させた。以後、勅願寺としての崇敬を受ける。
 明治時代の神仏分離政策により阿弥陀寺は廃され、神社となって「天皇社」と改称した。また明治二十二(1889)年七月、歴代天皇陵の治定に際し、安徳天皇陵は多くの伝承地の中からこの安徳天皇社の境内が「擬陵」として公式に治定された。天皇社は1940年8月に官幣大社に昇格し「赤間神宮」に改称した。
 太平洋戦争の空襲により社殿を焼失したが、1965年4月に新社殿が竣工した。

平家一門の墓(七盛塚)…… 壇ノ浦合戦で滅亡した平家一門の合祀墓(供養塔)。平知盛、平教盛ら一門14名の供養塔が並び、名前に「盛」の付く者が多いことから「七盛塚」とも称する。
水天門 …… 神社の神門は竜宮城を模した竜宮造の楼門。「水天」の名称は、安徳天皇が水天宮の祭神とされることによる。
文化財 …… 『長門本平家物語』20巻(重要文化財)、『赤間神宮文書』(重要文化財)

先帝祭
 安徳天皇の命日である毎年5月2~4日(新暦)に行われる年中行事。2日には平家落人の子孫らの参列のもと御陵前での神事を始め、平家一門追悼祭などがある。翌3日には、平家の遺臣・中島四郎太夫が漁師に身をやつして平家再興を計り下関に潜伏、先帝の命日には威儀を正して参拝したという故事に因んで、その子孫に端を発する「中島組」という漁業団体員が参拝する「中島組参拝の式」が行われる。それに次いで「上臈・官女参拝の式(上臈道中)」となるが、これは壇ノ浦合戦の後に地元の住民に救助された建礼門院平徳子の侍女たちが、住民に養われつつ御陵に香花を手向け、先帝の命日には容姿を整えて参拝したことに縁由するという。その後、妓楼を営むようになった住民が、侍女たちやその遺族も没したために、抱える遊女たちにその宮廷装束をまとわせて参拝させるようになり、これが江戸時代に至って、当時存在した稲荷町遊廓の遊女によって受け継がれて現在の上臈道中となったといい、吉原の花魁に模した太夫が禿(かむろ)、上臈、稚児、警固(けいご)らを従え、下関市中を外八文字を踏んで歩く。その他、檀ノ浦では源平合戦の再現合戦が行われる。例祭の翌々4日には神幸祭が行われる。
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全国城めぐり宣言 第26回「筑前国 福岡城」&「筑紫国 鴻臚館」 資料編

2016年01月12日 18時13分10秒 | 全国城めぐり宣言
筑前国(ちくぜんのくに)福岡城(ふくおかじょう)とは……

 福岡城は、福岡県福岡市中央区城内に存在した城。別名・舞鶴城、石城。江戸幕府の外様大名であった福岡藩黒田家の居城だった。国指定史跡。日本100名城第85番。

 福岡城は梯郭式平山城の城郭である。築城当時の史料が少ないため、築城時の城郭は現在の姿とは大幅に異なるとされる。普請奉行は黒田家重臣で後に江戸城や徳川家大坂城の築城にも加わった野口佐助一成である。城地に選ばれた福崎丘陵(当時の那珂郡警固村福崎)は、那珂川を挟んだ博多の西に位置する。構造は本丸を囲むように二ノ丸、その外に大きく三ノ丸と南丸が配され、47の櫓と10の門を配し縄張りの範囲は約25万ヘクタールに及ぶ。西日本では大坂城に次ぐ最大級の規模の城郭で、同じ九州地方に存在した肥後国熊本城よりも巨大であった。東側の那珂川を堀として高い石垣を南北に長く築き、また西側は干潟の「草ヶ江」を大きな池沼堀として活用した。この大堀は現在、「大濠公園」として整備されている。城下町は城の北側(博多湾側)に東西に長く開かれた。現在、大濠公園と道路を挟んだ東の本丸跡は、桜の名所としても有名な「舞鶴公園」となっている。太平洋戦争後、福岡城は城址として公園化され、主にスポーツ施設が多く造られた。
 築城の際、福崎という地名は黒田家ゆかりの地である備前国福岡(現在の岡山県瀬戸内市長船町福岡)の地名にちなみ「福岡」と改められた。現在、城跡には3棟の門と4棟の櫓が現存し、多聞櫓とそれに続く二ノ丸南隅櫓は国指定重要文化財に、伝潮見櫓・下ノ橋大手門・祈念櫓・母里太兵衛友信邸長屋門が福岡県指定文化財に、名島門が福岡市文化財にそれぞれ指定されている。また、多聞櫓に続く二ノ丸北隅櫓も戦後に復元されているが、急激に開発が進み、城内には東西を遮る道路、全国でも珍しい住宅私有地、公営競技場、裁判所、市立美術館といった施設が建築され、城郭遺構の破壊は広範囲に及ぶ。福岡市は2013年、20~30年の長期計画で福岡城の復元整備などを行っていく計画を発表し、2014年、城内の舞鶴中学校跡地に展示施設「福岡城・鴻臚館案内処 三の丸スクエア」をオープンさせた。

 慶長五(1600)年、豊前国中津16万石を領していた戦国大名の黒田孝高・長政父子は、関ヶ原合戦の功績により筑前一国52万3千石を得て、かつて大友家重臣の立花家が築城し、小早川隆景が改修した名島城に入城した。その後、黒田家は立地条件から城下町を拡大する余裕の無かった名島城を廃し、福崎丘陵に新城を築いた。慶長六(1601)年に築城が開始され、7年後の慶長十二(1607)年に完成した。
 以降、黒田家の歴代藩主により二ノ丸御殿や西ノ丸御殿の増築など数度の改修が行われたが、特に幕末の嘉永・万延年間(1848~61年)に、第11代藩主・黒田長博により大改修が行われた。
 江戸幕府崩壊後の明治四(1871)年、明治政府による廃藩置県により福岡城旧下屋敷に福岡県庁が置かれて福岡城は廃城となり、明治六(1873)年の廃城令発布により日本陸軍第6軍官に属する。その後、多くの建造物が解体もしくは移築された。
 大正九(1920)年、祈念櫓が北九州市八幡東区の大正寺に観音堂として移築されたが、昭和五十八(1983)年に再び元の地に戻された。
 昭和六十二(1987)年、三ノ丸跡地の平和台球場一帯から、平安時代の朝廷の外交施設であった鴻臚館(こうろかん)の遺構が発見された。
 平成十二(2000)年、不審火により下ノ橋大手門の一部が焼失したが、修復工事がおこなわれ、平成二十(2008)年11月1日に一般公開された。

天守閣の存在について
 従来の通説では、正保三(1646)年に作成された福岡城を描いた最古の絵図『福博惣絵図』に天守閣が描かれていなかったため、江戸幕府への配慮から黒田家は福岡城天守閣を造築しなかったとされていた。
 しかし近年、豊前国小倉藩主・細川忠興が三男・忠利へ宛てた元和六(1620)年三月十六日付の書状から、「黒田長政が幕府に配慮し天守を取り壊すと語った。」という内容の、天守閣の存在を窺わせる記述が発見されたことによって、天守閣があった可能性が示されている。当時、徳川家大坂城の普請のために全国の有力諸大名が築城に駆り出されていたことから、天守閣を解体し築城資材として譲渡することによって幕府の信任を得ようとしたと言う説も上がっている。
 現在、福岡城や鴻臚館の整備・活用を目的とする NPO法人「鴻臚館・福岡城跡歴史・観光・市民の会」では、石垣や礎石から割り出した5重天守閣の想像図面を製作し、本格的木造建築による再建にむけて運動を展開、将来的には、天守閣をはじめ鴻臚館を含めた福岡城全体や大濠公園の一体的な整備を構想している。ただし、九州大学大学院の服部英雄教授(日本中世史研究)は、天守閣について「強風を受けやすい立地条件で、存在したとは考えにくい」とする非実在説を主張している。
 また服部教授は、不審火によって焼損し2008年に復元された下ノ橋大手門についても、仕切が大きく作られて門の幅が比較的狭くなっている構造について、「門の中は敵襲に備える兵士が動きやすい必要がある。復元された構造は、史実と異なるのではないか」との異説を示している。


筑紫国(つくしのくに)鴻臚館(こうろかん)とは……
曖昧さ回避 この項目では、平安京・難波・筑紫の3箇所にあった平安時代に設置された外交施設の鴻臚館について説明しています。

 鴻臚館は、飛鳥時代から平安時代にかけて設置されていた、朝廷の外交および海外交易施設である。平安京・難波・筑紫の3ヶ所に存在していたとされ、前身としては筑紫館(つくしのむろつみ)や難波館(なにわのむろつみ)と呼ばれていた。
 「鴻臚館」という名称は、6世紀中盤の北斉帝国時代から中国大陸に存在していた中央官僚機関「九寺(きゅうじ)」の内の外交施設「鴻臚寺」に由来し、唐帝国の時代になってその名称が日本に導入された。「鴻」は大きな鳥、「臚」は伝え告げるという意味で、合わせて「鴻臚」は外交使節の来訪を告げる声を意味していた。なお、九寺における「寺」とは「役所」という意味であり、宗教施設としての寺院が外交機関を兼ねていたということではない。

 筑紫国(現在の福岡県西部)の鴻臚館は、現在の福岡県福岡市中央区城内に存在しており、のちの福岡城の敷地内に位置していた。遺構が見つかっている唯一の鴻臚館である。
 筑紫国の外交施設の原型は、『魏志倭人伝』の作成された3世紀末に遡るとされる。福岡県北西部の糸島半島にあったとされる伊都国(いとこく)には「郡使の往来、常に駐まる所なり」と記された外交施設が存在していた。ただし、施設名や詳細な場所についての記録は残っていない。

筑紫館
 筑紫国で発生した磐井の乱(527~28年)の終結後、宣化元(536)年に飛鳥朝廷は、那津のほとり(現在の博多湾)に、九州地方の支配と中国大陸の諸国との外交を担う行政機関「遠の朝廷(とおのみかど)」を設置した。推古十七(609)年には「筑紫大宰(つくしのおほみこともちのつかさ)」の名で『日本書紀』に登場している。白村江会戦の翌年664年に、遠の朝廷はより内陸の大宰府(現在の福岡県太宰府市)に移転され、那津のほとりには大宰府の出先機関のひとつとして、海外交流および国防の拠点機能が残された。
 この施設は筑紫館(つくしのむろつみ)と呼ばれ、唐・新羅・渤海の使節を迎える迎賓館および宿泊所として機能し、海外からの使節はまず鴻臚館に入館して大宰府や平安京へ上ることとなっていた。筑紫館と大宰府には約16キロメートルの距離があったが、そこには最大幅10メートルの側溝を完備した直線道路が8世紀まで敷設されていたとされる。また、筑紫館は海外へ派遣される国使や留学僧らのための公的な宿泊所としても用いられていた。律令制においては治部省玄蕃寮の管轄であった。筑紫館は、他にも外国商人らの検問・接待・交易などに用いられていたとされる。

大宰府鴻臚館
 「鴻臚館」という名称は、入唐留学僧だった円仁の『入唐求法巡礼行記』の承和四(837)年における記述に初めて登場する。
 天安二(858)年には、留学僧・円珍が唐の商人・李延孝の貿易船で帰朝し、鴻臚館の北館門楼で歓迎の宴が催されたと『園城寺文書』にある。鴻臚館の国際外交施設としての機能は、菅原道真により寛平六(894)年に遣唐使制度が廃止された後にも強まっていった。
 当初、鴻臚館における通商交渉は朝廷が運営していた。商船の到着が鴻臚館から大宰府に通達されると、大宰府から平安京の朝廷へと急使が向かう。そして、平安京から唐物使(からものつかい)という使者が派遣され、経巻や仏像仏具、薬品や香料など宮中の皇族や貴族から依頼された商品を優先的に買い上げ、残った商品を地方豪族や有力寺社が購入した。商人は到着から通商完了までの3ヶ月~半年間、鴻臚館に滞在することとなり、宿泊所や食事は鴻臚館が提供した。延喜三(903)年には、朝廷による公式な買上前の貿易を厳禁とする太政官符が発行されており、貿易が官営から私営に移行しつつあったことが窺える。延喜九(909)年以降は、唐物使に代わって大宰府の官僚が交易の実務を直接担当することとなった。
 貞観十一(869)年の新羅入寇の後、朝廷は警固所として鴻臚中島館を増設し、大宰府の兵力を移した。また1019年の刀伊入寇の後、山を背にした地に防備を固めたという記述があり、これも鴻臚館の警固所を指しているとされる。
 その後も、鴻臚館は北宋帝国・高麗・遼といった諸外国の商人と交易を行ったが、11世紀には、聖福寺・承天寺・筥崎宮・住吉神社らといった有力寺社や有力貴族による私的な貿易が盛んになって現在の博多から箱崎にかけての沿岸地域が交易の中心となり、当時は「大宋国商客宿坊」と名を変えていた鴻臚館での貿易は衰退していき、永承二(1047)年に火事があったという記述を最後に、大宰府鴻臚館の存在は文献上から消えることとなる。

建設位置と発掘調査
 江戸時代に福岡藩の学者は、鴻臚館の存在していた位置を博多部官内町(現在の福岡市博多区中呉服町付近)と唱え、この説は大正時代まで広く信じられていた。
 しかし、当時の九州帝国大学医学部教授・中山平次郎(1871~1956年)が、『万葉集』の記述などを検討して福岡城跡内説を提唱した。中山は、『万葉集』の中で遣新羅使が筑紫鴻臚館で詠んだという歌に「志賀の浦」や「志賀の海人」を詠んだものが多いことや、「今よりは秋づきぬらしあしひきの山松かげにひぐらし鳴き」という歌の内容から、博多湾の北部にある志賀島(しかのしま)を望むことができ、山の松にいるセミの鳴き声を聞ける場所は博多部には無いとして、付近の高台という立地条件から福岡城跡を推測した。
 当時、福岡城跡には帝国陸軍歩兵第24連隊が駐屯していたが、1915年の博多どんたくによる同連隊の開放日に中山は兵営内を踏査して古代の瓦を表面採集し、1926年から福岡城跡内説を論文で展開していった。
 戦後の1949年、歩兵第24連隊兵営跡地には平和台野球場が建設されたが、1957年に改修工事が行われた際に約3000点の陶片が出土した。そして1987年の球場外野席改修工事に伴う発掘調査で、それまで破壊されたとみなされてきた遺構の一部が良好な状態で発見され、残る遺構も同様に残存している可能性が急浮上した。
 平和台球場は、福岡ダイエーホークスが1993年に本拠地を福岡ドームに移した後、歴史公園整備事業の開始に伴って1997年に閉鎖した。その後、スタンド等の建築物を解体した1999年から本格的な発掘調査が続けられており、2004年5月には国史跡に指定された。
 発掘調査によって木簡や瓦類が出土し、他にも越州窯青磁・長沙窯磁器・荊窯白磁・新羅高麗産の陶器・イスラム圏の青釉陶器・ペルシアガラスが出土し、鴻臚館の時代的変遷も確認できるようになった。ただし、9世紀後半からの遺構は福岡城の築城によって破壊されている。奈良時代のトイレ遺構の寄生虫卵分析により、豚や猪を常食していた外国人のトイレと日本人のトイレが別々に設けられていたことが判明している。さらに、男女別のトイレであり、トイレットペーパーには籌木(ちゅうぎ)という棒片が使われていたことも判明している。
 発掘調査が終了した南側の遺構には1995年に「鴻臚館跡展示館」が建てられ、検出された遺構や出土した遺物が展示されている。

難波の鴻臚館
 難波の鴻臚館は難波津(なにわつ)にあったとされ、現在の大阪府大阪市中央区にあったと考えられる。
 古墳時代から畿内地方の重要な港として機能していた難波津には外交施設として難波館(なにわのむろつみ)があり、『日本書紀』には継体六(512)年12月に百済王国の使者が朝鮮半島南部の任那地方の割譲を求めて滞在していたという記述がある。これが、外国使節を宿泊させる難波津の施設の初見である。
 欽明二十二(561)年には、「難波大郡(なにわのおおごおり)」にて百済と新羅の使者を接待したという記述があり、推古十六(608)年には、隋帝国皇帝・煬帝の大使・裴世清が来訪するにあたって、まず筑紫館に滞在させ、その間に難波の「高麗館(こまのむろつみ)」に新館を建造して歓迎の準備を整えたという記述がある。
 「鴻臚館」という名称が難波館に用いられ始めた年代は定かではないが、『続日本後紀』によると、承和十一(844)年十月に難波鴻臚館が摂津国国府の政庁に転用され廃止されたという記録が残っている。

平安京の鴻臚館
 平安京の遷都が延暦十三(794)年だったため、平安京の鴻臚館は3つの鴻臚館の中で最も新しく設置された迎賓施設となる。
 設立当初は朱雀大路南端の羅城門の両脇に設けられていたが、東寺・西寺の建立にともない弘仁年間(810~24年)により北の七条大路に朱雀大路をまたいで「東鴻臚館」・「西鴻臚館」として移転された。現在の京都府京都市下京区、JR丹波口駅の南東に位置する。
 平安京の鴻臚館は、主に中国大陸東北部に存在していた渤海王国からの使節を迎賓していた。日本海の北航路を経由して来訪した渤海使は、「能登客院」(現在の石川県羽咋郡志賀町)や「松原客院」(現在の福井県敦賀市)に滞在してから京に上った(発掘調査から、現在の秋田県秋田市に存在していた出羽国秋田城にも同様の迎賓施設があったことが判明している)。渤海使は京の鴻臚館で入朝の儀を行った後に、宮廷の財産を管理する内蔵寮(くらりょう)と交易し、次に都の有力者と、その次に京外の者と交易を行った。しかし、9世紀前半に朝廷は経済的負担の大きい渤海̪使との交易を外国商人の私的交易と解釈して公的に迎賓しない方針に転換し、東鴻臚館は承和六(839)年に典薬寮所管の「御薬園」へと改められ廃止された。渤海王国が遼帝国の侵攻によって926年に滅亡した後に施設の機能はさらに衰え、残る西鴻臚館も鎌倉時代に消失した。一説によると、延喜二十(920)年に廃止されたとされる。
 11世紀初頭に成立したとされる王朝文学『源氏物語』の『第1帖 桐壺』には、鴻臚館に滞在していた高麗の占術師が登場している。なお『源氏物語』は、作者とされる紫式部の時代から見て約100年前の10世紀前半を作中の年代として執筆されたと推定されている。
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全国城めぐり宣言 第25回 「羽前国 山辺城」 資料編

2015年03月29日 22時19分15秒 | 全国城めぐり宣言
山辺城(やまのべじょう)

 山辺城は、山形県東村山郡山辺町山辺にあった戦国時代の日本の城。形式は輪郭式平山城である。「山野辺城」と表記されることもある。
 城は、山形盆地西部の白鷹丘陵の先端地域に築かれている。現在の山辺小学校と、その南にある旧・山辺町役場を合わせた区画が城域で、山辺町役場部分に本丸(主郭)があったとされるが、現在は市街地に没している。

 築城年代は定かではないが、一説によると、平安時代の前九年ノ役の時期(1051~62年)に須賀川山辺氏によって築かれたともいわれる。ただし、山辺城の構造は明らかに中世の城郭のものであり、平安時代に築城されたという確証はなく、文明年間に在地の土豪だった山野辺一族によって築かれたと推測するのが自然である。
 11世紀後期に成立した軍記物語『陸奥話記』によれば、前九年ノ役で活躍した鎮守府将軍・源頼義の部将に「山辺太郎常貞(つねさだ)」という人物がおり(平将門の従弟・平忠頼の孫にあたる)、この山辺常貞が「須賀川山辺氏」を称して山辺の地を治めたという伝承が現地に残ったものと思われる。しかし、山辺常貞は上総国山辺郡(やまべぐん 現在の千葉県山武郡の南部)を一族発祥の地としており、在地の山野辺一族とは関係がない。
 なお、須賀川山辺氏の「須賀川」が、具体的にどの土地を指すのかは不明で、在地の山野辺一族にも山辺常貞の山辺一族にも、須賀川という地名との関連は見えない。
 ただし、山辺城のある山辺町には、山形県上山市の東南部から山形市西部を流れ、最上川に合流する「須川(すかわ)」という一級河川がある。このことから、在地の「須川の山野辺氏」がいつしか「須賀川の山辺氏」に転訛し、これに「山辺常貞」の経歴が加わって、「平安時代に須賀川山辺氏によって山辺城が築城された」という伝承が発生したのではないだろうか。

 山野辺刑部(やまのべ ぎょうぶ)は永正十一(1514)年、置賜地方の戦国大名・伊達稙宗が山形の最上家を攻めた時、最上軍の先遣隊として長谷堂城に出陣し、戦死した。
 その後は日野備中守が城主となったというが、慶長五(1600)年の慶長出羽合戦で、直江兼続率いる上杉軍の猛攻に遭い、山辺城は落城した。

 翌年の慶長六(1601)年、最上義光の四男・山野辺義忠(1588~1665年)が、14歳で1万9千石の城主となる。義忠は、前年・慶長五年の関ヶ原合戦の直前に、最上家から徳川家康に人質として預けられていた時期からその名声が鳴り響いていたとされ、山野辺家を継ぐと、山辺城の大改修や城下町の建設などに力を入れ、釣樋堰や上江堰などの治水事業、神社仏閣や交通網の整備を行うなど、多くの実績を上げ名君と謳われた。しかし、その実力が仇となり、最上本家の当主に義忠を推す勢力が台頭し、元和八(1622)年には最上家にお家騒動が発生する(最上騒動)。江戸幕府はこれを機に、同年八月に最上家を近江国蒲生郡1万石の移転減封に処し、義忠も再び徳川幕府預りの身となり、山辺城も廃城となった。

 義忠は備前国岡山藩の池田家にその身柄を預けられ、34歳から46歳までの12年間を幽閉のなかで送ったが、寛永十(1633)年九月、徳川幕府第3代将軍・徳川家光の命により水戸藩主・徳川頼房にその身柄を預けられ、知行1万石を得て水戸藩家老職となった。そして、義忠は頼房の世子・光圀の教育係も務めている。義忠の次男・義堅(1615~69年)も水戸藩主となった光圀に仕え、山野辺家の子孫は代々、水戸藩家老職に就いた。
 ちなみに、水戸光圀を主人公にした時代劇フィクション『水戸黄門』に登場する水戸藩家老の「山野辺兵庫」は、この山野辺義堅をモデルとしているが、義堅は光圀の隠居前に死没しており、年齢も義堅の方が10歳以上年長である。また、義堅が「兵庫」と称した事実はない(ただし、江戸幕末の義堅の子孫・山野辺義観が「山野辺兵庫」と名乗っていた)。

 江戸幕末の文久六(1823)年に、白河藩(現在の福島県白河市)阿部家の羽前国領となり、旧・山辺城の二ノ丸区域に陣屋が建築された。
 現在、山辺町の中央公民館の駐車場内(山辺城本丸に相当する区画)に、山辺陣屋の玄関部分が移築保存されている。



 山辺町は山形の中心部から9㎞、東の蔵王山から流れでる最上川の支流、須川の西にひらけた町である。町の西には白鷹山や小鳥海山などの山が連なり、山の辺にひろがる集落から町の名「山辺」は由来する。1600年代、山辺城を中心とする城下町がひらかれ、川西地区の中心地として繁栄する基がつくられた。
 明治から大正・昭和の三代にわたって、藍の匂いがたちこめ、藍染の木綿の北国きっての産地だった。そのため、全国に知られるオリエンタルカーペットの手織りじゅうたんとファッションニットが、長い間町の中心産業となっていたが、最近では海外からの安い製品に押されニット業界も厳しい状況にある。ニットなどの地場産業やりんご・さくらんぼなどの果樹や米栽培に従事する家庭、また山形などの会社に通勤する保護者が多い。

 城の西側には四ノ堀まであったようです。

 本丸の堀(内堀)は、本丸跡(旧・山辺町役場)周辺の道路であったと推察します。以前にも書きましたが、三ノ堀は旧・しあわせ銀行の裏と弾正淵専念寺前が掘らしく残っています。山野辺城趾の碑は一ノ堀跡の上に立っているようです。

 すぐ近くに「高楯城」があった。数年前、安達峰一郎博士の生家付近で建物跡が発掘された。

 三ノ堀は現在、水路になっている。
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全国城めぐり宣言 第24回 「羽前国 天童城」 資料編

2015年03月21日 23時21分58秒 | 全国城めぐり宣言
天童城(てんどうじょう)
 別名・舞鶴城。また、江戸時代の天童藩主・織田家の築いた山麓の陣屋を天童城、中世に天童家の居城だった山城を天童古城と称することもある。

 山形盆地の中東部(山形市の北)にあたる、山形県天童市の市街地の南東に位置する舞鶴山(標高241.8メートル / 比高133メートル)にあった山城(やまじろ)。舞鶴山という名前の由来は、尾根が多方向に展開する地形からきている。東西1キロ、南北1.2キロ、周囲4キロほどある全山を城塞化した規模の大きな城で、羽前国の村山地方では最大の山城といわれている。
 中央の高い山頂部に本丸(主郭)を置き、現在はその跡地に愛宕神社が建つ。本丸部分は東西100メートル、南北80メートルの面積であり、東側に物見櫓跡の土壇が残る。また、南側には井戸跡が残っている。山頂から北西・北東・南西・南東へ4つの尾根が延びる本丸下には2段の帯曲輪(おびぐるわ)が巡り、要所には幾重にも段状の曲輪群が連なる。本丸から南西に延びる尾根部分を南丸とし、北西に延びる尾根部分を中央丸、その先の尾根下を北丸とし、特に、東西50メートル、南北350メートルと南北に細長い中央丸には八森楯、小松楯などの出城があり、重臣が守備した。中央丸の南側は東に3段、西に5段の帯曲輪を設け、西側は西丸に続いている。北西に位置する帯曲輪は北丸に続いている。南北に長い東丸と本丸との間には、北側から大きく入り込んだ侵食谷を利用した幅20~30メートルほどの大規模な空堀が設けられている。
 西丸は本丸の東側に位置し、北と南の2つの区画に分かれ、それぞれ西側に迫り出す数段の段築を擁する。南丸は西丸の南側に位置し、東西50メートル、南北65メートルの面積であり、北東に5段程度の帯曲輪を設けている。北丸は城域の北端に位置し、現在は喜太郎稲荷神社が祀られている。山麓から喜太郎稲荷神社まで3段の帯曲輪が設けられていた。ちなみに、北丸跡の喜太郎稲荷神社は、麓の天童市街地にある喜太郎稲荷神社(田鶴町)と区別して「小路喜太郎稲荷神社」と呼ばれている。
 本丸・中央丸・北東の東丸に囲まれた北の麓には愛宕沼と呼ばれる沼がある。大手口は山の南東の麓、搦手口は北西の麓にあったが、どちらも遺構は残っていない。現在の天童市街地が根小屋(ねごや 家臣団その他の城に従属する人々の集落)であり、市も建つなど活気があったという。城跡の大部分は現在、天童公園となっている。
 登るには急坂を登り、北は沼、山頂の本丸付近は断崖で囲まれた天然の要害であった。天童の地名は、舞鶴山に二人の童子が天から無い降りたという伝説がある。

 舞鶴山は「城山」とも呼ばれ、伝承によれば、南北朝時代の建武三(1336)年に、山家城の山家信彦、溝延城の大江家、東根城の小田島長義らと共に南朝方に属した北畠天童丸(顕種)が、南朝方の拠点として舞鶴山に居館を構えたのが最初であるとされる。天童丸は、多賀城に下向した鎮守府将軍・北畠顕家か、もしくはその弟・北畠顕信の血縁者とされるが、その存在は伝説の域を出ない。天童丸は山寺立石寺と同盟して、正平年間(1346~70年)から文中年間(1372~75年)にかけて南朝勢力の挽回に努めたが、北朝方の最上家に敗れて陸奥国の津軽鯵ヶ沢に逃れたといわれ、その後の消息は不明である。

 北朝永和元年・南朝天授元(1375)年、最上家第2代・最上直家の子で、出羽按察使として山形に入った最上家初代・斯波兼頼の孫にあたる最上頼直が、成生荘の地頭・里見家の養子となり、天童伊予守頼直を称して居城を舞鶴山に築城し、本拠地を成生館から舞鶴山に移した。当時、天童を支配していた里見家は、後の戦国時代に安房国の大名となる里見家と同じ清和源氏系で、上野国を発祥とする里見一族は南北朝時代には新田家らと共に南朝方の勢力として活躍しており、北畠天童丸の伝説のある城を里見家が支配していたという経緯には、同じ南朝方の武将であるという類縁関係が見られる。しかし、里見家第5代当主・里見義景には実子がなかったため、奥州探題・斯波家兼の四男である義宗を養子に迎えたが、この義宗も子に恵まれなかったために最上頼直(義宗は頼直の大叔父にあたる)を後継として迎えたのであった。
 このため、天童家は最上家の分家ではなく里見家を称して最上家と同格の扱いとなり、享徳の乱では京の足利幕府から、最上家と天童家の両家に書状が送られた。 

 天童頼直は次男・頼高を東根に、三男・頼種を鷹巣に、四男・満長を上山に配置した。さらに家臣では、八森館に八森石見守、小幡館に小畑大隅守、かつての居城だった成生館に成生伯耆守、小松館に小松山城守、向館に大友将監、安斎館に安斎刑部、草苅館に草苅兵庫守、大泉館に大泉内蔵助を置き、勢力拡大を図った。これらは後に「最上八楯」と称され、天童家を中心に最上一族の中でも強大な力を誇るようになる。

 永正年間、米沢の伊達家が最上家の領内に侵攻するようになり、永正十一(1514)年、伊達稙宗は長谷堂合戦で最上義定を破り、最上家を事実上の傀儡としたが、天童城を拠点に各地の土豪や地侍を従え、村山地方東部を支配する大勢力となった天童頼長と最上八楯は、伊達家に抵抗を続けた。大永元(1521)年には、伊達稙宗・蘆名盛滋らとの合戦の際に一時、高城と共に天童城を占拠されたこともあったが、天童家は八楯の盟主として、最上家に代わる実力をつけるようになった。

 1570年、山形城主・最上義光が父・義守との相克を経て最上家家督を相続する。最上義光の、最上家のみによる出羽地方統一の動きに対抗し、天童頼貞は隠居した義守に肩入れして、義守の女婿・伊達輝宗らとも同盟を結び、義光を攻めて「天正最上の乱」が起きた(1574年)。天正五(1577)年五月、最上義光は天童城を直接攻撃する。しかし、勇猛を謳われた重臣・延沢能登守満延(信景)をはじめとし、東根頼景・楯岡満英ら最上八楯が天童頼貞に援護し、加えて天童城が天然の要害であることも手伝って義光は苦境に陥る。その結果、義光が頼貞の娘を側室に迎えることで抗争は和睦に至った。

 しかしこの間、義光は上山の上山家、真室川の鮭延家などを攻略し、庄内の大宝寺義氏を家臣の内応で暗殺し、勢いを増していた。
 さらに天正八(1580)年には東根城を攻撃し、東根頼景は家臣・里見源左衛門景佐・蔵増安房守・鈴木新左衛門尉らの離反もあって討死した。頼景を援護していた楯岡城主・楯岡満英は東根城落城の報を聞いて自害し、当主を失った楯岡家は義光に降り、一族の楯岡豊前守満茂が楯岡家を継いだ。
その後、成生館・飯田館・六田館の館主達も義光に降り、村山盆地はほぼ最上家の勢力下に入ったため、天童氏は孤立する。さらに天正十年(1582)年には、義光に嫁いでいた頼貞の娘が死去したため、天童家と最上家との再衝突は避けられないものとなった。

 天正十二(1584)年、義光は谷地の白鳥長久を山形城に誘き寄せ暗殺し、寒河江の大江家を滅ぼした。残った天童家の第11代・天童頼久(頼貞の子)は、天童城の天険を誇り義光に抵抗したが、重臣・延沢満延が、嫡男・又五郎康満と義光の娘・松尾姫との婚姻を取り付けて最上軍の再度の天童城攻めの際に義光に寝返り、それを契機に家臣団の離反が相次いだため、天童頼久は孤立無援となり、同年10月の八幡山合戦で兵5500を率いる義光に敗北し、天童城も10月19日に落城する。頼久は喜太郎という者の手引きで関山峠を越え、妻の実家であった仙台の国分盛重のもとに逃れ、以降は天童頼澄と名を改め、伊達政宗の家臣となった。最上義光は戦勝後、天童城を廃城処分として本丸跡に愛宕神社を建立し、勝軍地蔵を祀った。その後、この舞鶴山は「愛宕山」とも呼ばれるようになる。ちなみに、義光は二度にわたる城攻めで天童城の堅固さに手を焼き、こののち城として利用できないように愛宕神社を建てたともいわれている。実際に、現在の天童城跡には多数の郭(くるわ 曲輪)跡が残るものの、その他の遺構としては堀切跡と思われるものが一ヶ所あるほどで土塁などは全く見当たらず、義光が城の縄張りを徹底的に破壊した可能性がうかがえる。愛宕神社は現在も残っている。

 江戸時代の元禄十一(1698)年に羽後国久保田藩で編纂された軍記物語『奥羽永慶軍記』によると、ある時、最上義光の家臣・志村伊豆守光安が用あって、天童頼久のもとに赴いた。すると天童家の家臣が次のようなことを言った。

 「山形殿(最上義光)は平地の館(山形城)にお住まいになっていると聞くが、それはどうも心配なことである。天童殿の居城は山城であるが、この城はとても険阻で、数万の軍勢に攻められたからといって、何年も持ちこたえることができるほどのものだ。それに比べて山形殿の城は、軍勢に攻められたらひとたまりもないでしょう。」

 光安が帰ってこのことを報告すると、義光は怒って天童家の征伐を決意したという。
 しかし、義光の天童家討伐は、あくまでも出羽統一のために必要不可欠な最重要政策だったのであって、私怨による突発的な行動でなかったことは明らかである。

 江戸時代になり天保元(1830)年、織田家(織田信長の次男・信雄の子孫)が上野国(現在の群馬県)から転封されて天童藩を興し、舞鶴山の西麓(現在の天童市田鶴町)に、外堀と内堀を持つ御館(おたて)と呼ばれる陣屋を築いた。

 現在、天童城跡は天童公園(天童市・舞鶴山公園)として整備され、城郭時代の遺構はほとんど残っていないが、桜やつつじの名所となっている。公園には、毎年春の恒例行事である、甲冑を身にまとった人間が駒となる「人間将棋」で用いられる巨大な将棋盤があるが、天童における将棋の歴史は織田家が天童に入部して始まる。窮乏した天童藩では生活苦にあえぐ下級武士たちが将棋の駒づくりを内職とし始めたという。幕末には家老の吉田大八が藩士に将棋の駒づくりを奨励した。

 JR 奥羽本線・山形新幹線「天童駅」から南東へ約1.2キロ、自動車で約10分の距離にある。城跡の天童公園には無料駐車場が完備されている。公園には、江戸幕末の天童藩家老・吉田大八の像がある。
 車で登ることができるのは、比高60メートルの本丸と中央丸との間にある武者溜(むしゃだまり 軍勢を集結させるために設けられた広場)跡の駐車場までで、本丸はそこからさらに比高70~80メートルほど登った山頂部にあたる。本丸・中央丸以外の郭の遺構は比較的良好に残っているが、あまり整備されておらず薮化が激しい。駐車場から山頂までは徒歩で10分ほどで登山できる。


天童陣屋(てんどうじんや)

 現在の山形県天童市田鶴町に位置し、JR天童駅から南へ500メートルの区域に存在していた。
 天下統一を目前にして横死した織田信長の次男・信雄の子孫である、天童藩主織田家の陣屋。

 戦国末期に一時代を築いた織田家ではあったが、豊臣秀吉、徳川家康の時代を経た末に、天童の地でかろうじて2万石を有する小大名となる。
 天童陣屋は、江戸時代後期の天保元(1830)年、織田家第10代・織田信美の時代に築かれたものであり、それ以前には、織田家は明和四(1767)年に2万石の小藩として高畠(山形県東置賜郡高畠町)で発足しており、幕府への居館移転願いが認められて天童に移転した。
 織田家の前身は上野国小幡藩5万石であったが、減封されて羽前国に左遷されてしまった理由は、儒学者の山県大弐が幕府に対する謀反の疑いで捕らえられ処刑された事件に連座したことによる。
 減封された織田家は、5万石時代の藩士を多く抱えていたこともあり、藩の暮らしは非常に貧しいものであった。そこで下級の藩士たちが、将棋の駒づくりを内職として始めたことから、天童の将棋駒生産が始まったという。

 天童藩織田家の祖は、織田信雄である。信雄の父・信長は、最盛期には600万石以上の所領を持ち、実質的な天下人であった。その信長の死後に尾張・伊勢国の所領を相続した信雄もまた、100万石を領する大大名であった。
 しかし、信長の子がこれだけの大きな領地を有していることは、当時の天下人である豊臣秀吉にとって不安の種だった。天正十八年の小田原征伐後、秀吉は信雄に関東転封をもちかけたが、信雄がそれを拒否すると、それを理由に信雄の所領を没収した。
 その後、信雄は下野国烏山、羽前国、伊予国などへと所領を流され転々としていた。しかし、後に徳川家康の口利きによって許され、大和国で1万8千石を拝領する。ちなみに嫡男・織田秀雄は、越前国大野で5万石を拝領している。
 だが、関ヶ原合戦の際に西軍に属したため、信雄は秀雄と父子ともどもまたもや改易に処せられてしまう。以後、信雄は大坂城などに居住していたが、大坂ノ陣が開戦する直前に大坂城を脱出し、徳川方に加担した。そこで、家康との古くからの親交もあり、元和元年に上野国小幡5万石を与えられるに至った。

 陣屋の規模は大きく、南北450メートル、東西500メートルにわたる。輪郭式の陣屋であり、内堀を廻らせた本丸に相当する場所が藩主の居館で、その外側に総構え的に政庁や重臣の屋敷と外堀があったとされる。虎口にはそれぞれ枡形が用いられ、全体の構造はかつての小幡陣屋に共通するものがあり、行政面を重視した城郭であったという。

 この天童陣屋で織田家は4代を経て明治維新に至るが、明治維新では新政府軍に属し、家老・吉田大八が奥羽鎮撫使先導代理を命じられて軍の先鋒を担うが、藩内の動員兵力は400名ほどであり実質的な戦闘ができたとも見られず、周囲の諸藩からも孤立し、戊辰戦争での幕府方の庄内藩の攻撃によって陣屋は焼失。城下町も半分ほどが焼亡した。
 このため、天童藩もやむなく幕府方の奥越列藩同盟に加盟するが、責任を問われ吉田大八は切腹。さらに今度は新政府軍に攻撃され、降伏する。新政府により藩主・織田信敏は弟の織田寿重丸に家督を譲って隠居させられ、所領は没収されて2千石となった。
 その後、織田寿重丸は幼少であったため、信敏が藩主(藩知事)に復帰し、明治四(1871)年には廃藩置県により天童県となり、同年8月に山形県に編入された。

 現在は、遺構はほとんど失われており、本丸にあたる中央部分は JR羽越本線が貫通し、山形新幹線が走っている。
 城域の東には、織田家が氏神とした喜太郎稲荷神社が残され(天童城北丸跡にある喜太郎稲荷神社とは別)、神社の境内にあたる土地が陣屋の中心部となっていた。南は公園になっている。その他は民家や畑になっており、大手門跡の標識などが建てられているのみである。神社脇の公民館前には広いスペースがあり、車も駐車できる。ただし神社の入り口が狭いため、道路から分かりにくい。
 喜太郎稲荷神社の入口には当時、天童陣屋の門があり、近くには北辰一刀流道場「調武館」と稽古所が置かれ、天童織田藩の藩士が武術に励んでいたという。
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全国城めぐり宣言 第23回 「備中国 鬼ノ城」最終章  家に帰るまですべてが鬼です 

2013年05月03日 23時49分00秒 | 全国城めぐり宣言
《前回までのあらすじ》
 (特に誰がやれと言ったわけでもないのに勝手に自分で設定した)いくたの苦難を乗り越えて、そうだいはついに念願の鬼ノ城探訪を果たした!
 あらかたの主要なスポットもめぐり終え、万感の想いをこめて今回の旅をふりかえる……だがしかし、すでに肉体は空中分解寸前のガッタガタ状態。一歩一歩大地を踏みしめるたびに、全身の関節のサスペンションがゆかいなビートを刻んでいる。
 しかし、よくよく考えてみればこののちのそうだいには、「徒歩下山」という実に無視しがたい大問題がひかえていたのだ!!
 考察のまとめ、下山、駅まで徒歩、岡山市でお芝居鑑賞、そのまんま深夜バスで千葉に帰還……そして、その数時間後に出勤。
 若さとバカさでダブルアタック!! 鬼の旅路を笑顔で完走しろ~☆


 鬼ノ城を探訪するつもりで早朝の吉備山地に踏み入っておよそ6時間。太陽はすでに空高くにのぼりきり、3月の山道はかなりの陽気をたたえるようになってきました。しばらく歩けばすぐに汗をかいてしまうようなぽかぽかしたお天気にはなりましたが、ちょっとひらけた場所に出て数分立ち止まれば、山肌を吹き渡る風のおかげであっという間に涼しいを通りこして寒いくらいの体感気温になってしまいます。
 しかし、この鬼ノ城山におとずれつつある季節は、確実に春。足を進めるたびに、目の前の草むらでは「がさがさっ」とトカゲやヘビやらが走り去る音が何度となく聞こえてきます。まさに春の虫たちと書いて「蠢く」! 爬虫類は虫じゃないけど。鬼ノ城内の順路のいたるところには毛筆で書かれた「まむし注意」の小さな看板が。これがホントの「鬼が出るか蛇が出るか」!! エンカウント率が高すぎるわ!
 それに加えて、今回経験した山道の旅では、前半の経山城のあたりからず~っと私は自分の鼻をつくかぎなれない独特な香りが気になっていて、あまずっぱいような香ばしいような、芳香とも異臭ともつかない何物かの存在がしょっちゅう気になっていたんです。それが際だって強くなってきたのも鬼ノ城に入ってからだったのですが、それがどうやら、城内のいたるところに生い茂っているアカマツの香りであるらしいことはぼんやりとわかってきました。天然の松やにのアピールがこんなに強烈なものだったとは……ラテン系の娘さんなみの押しの強さだ!
 そういえば、アカマツも多かったけど、今回私が訪れた山々はどこでも、シダのたぐいがかなりな我がもの顔で繁栄していたなぁ。そういうところも、神秘的な「鬼の棲み家」の雰囲気をけっこう彩っているんですよね。なにごともムードは肝要だ。

 そんなことを考えつつも、鬼ノ城いちばんの絶景ともいえる「屏風折れの石垣」の突端にひとり立ちつくしてみますと、そこからは周囲の山々と眼下の平野の風景が180°以上のパノラマで一望することができて、高所恐怖症でない人にはイチオシのスポットになっています。まさに断崖絶壁の先の先。スリル満点で気分は『土曜ワイド劇場』の真犯人! こころなしか、登山ルックでもなくふつうのジャケット姿でそこに立っている私に対する、周囲の観光客の皆さんの視線が緊張感のあるものになっているような気がします。まだわしは死なんぞォ!!
 ぐるっと周りを見まわして目立つのは、早くも山々のいたるところで花ひらいてきれいな白をそえている野生のヤマザクラと、きれいに整備されたふもとのゴルフ場……ゴルフにとんと縁のない私にとっては、あのゴルフ場の緑ってのはどうにも気にいらねぇ! 天然のものとはまったく異質な、きれいすぎるグリーンなんですよね。

 ここらで、いろんなつれづれに関する、今回の探訪を通じての私なりのまとめをパパッとやってしまうのですが、まずなにはなくとも、私が山に入ってみてかなり早い段階でいだいてしまった2つの疑問点に関する答えを考えてみたいと思います。記憶されている方、いらっしゃいますか? 経山城を探訪したときにくっちゃべってたやつね。


疑問その1、どうしてこれほどまでにふんだんに石垣が使用されているのか? 東北地方生まれの私にとっては、この石垣の投入量はちょっと考えられない。

疑問その2、どうして鬼ノ城のような大要塞の遺跡が残っていたのに、戦国時代の大名たちはまったくそれを再使用しなかったのか?


 この2つだったわけなんですが、どちらも、自分の足で探訪してみたらすぐに答えはわかったような気がしました。

 まず疑問その1、については、「こんなに石材が豊富な吉備山地で、むしろ石垣を使わないで城を建てるほうがぜいたくな話!」ということなんですな。
 山城を歩けば、経山城のような小さなお城を見ても石垣だらけ、それどころか棚田のような一般の農地にさえも段差に石垣が、農家の方のおうちにも石垣が! それもそのはず、鬼の棲み家の数々の奇岩を見てもわかるように、この一帯は山肌にゴロゴロ露出するほどに潤沢な花崗岩の名産地になっているわけだったのです。それはもう鬼ノ城の屏風折れの石垣からあたりを見まわしても一目瞭然で、あたりの山々のいたるところに木々の繁茂をさえぎって岩石が天を仰いでいる部分があるんですよね。
 うらやますぃ~! 石垣文化のほぼなかった東北人からしたら実にうらやましい環境だ……でも、岩石が少ないからこそ、こっちもこっちで山のめぐみが豊富なんでねぇ。こっちを取ればあっちが引っ込むってお話ですな。無いものねだりはよしときましょう。

 疑問その2、については、「鬼ノ城なんかまともに再利用していたら、維持してるだけで国が傾くわ!!」って感じだったんじゃないでしょうか。
 鬼ノ城は確かに、日本の山城としては考えられないくらいに広大で強固な守りが期待できる巨城ではあるのですが、それはおよそ3km という気の遠くなるような長さの城壁のすみずみに守備兵が常駐して初めてその実力を発揮するのであって、そのために必要な兵数たるや、なんだかんだいっても1万人はくだらなかったんじゃないんでしょうか。そんなアメ車みたいに燃費の悪いお城、節約を旨とする戦国大名が使うはずがありません。1万も兵を確保できるんだったら、城になんかこもらずに他国に攻め込むっつ~の!!
 要するに、数百からせいぜい1千人くらい同士の戦闘がほとんどだった戦国時代において、「万単位同士の国際戦争を予測して作られた要塞」などというものは、同じ軍事目的でもまったくニーズの違う施設だったのでしょう。どんなに城壁が難攻不落の高性能ぶりを誇っていたのだとしても、そこに守備兵がいなかったら単なるエクストリーム障害物競走にしかならないのです。
 そして最も大事なのは、そこまでして鬼ノ城に籠城するメリットが戦国時代ではほとんどなかったということで、山陽道や山陰道といった交通網、もしくは人口の集中する平野部の掌握が肝になっていた時代に、鬼ノ城山はあまりにもそれらから脇道しすぎる位置にあったのです。でかすぎる鬼ノ城よりは、拠点から拠点への移動、または敵国の拠点への侵攻のための休憩所 or サービスエリアのような軽さの経山城を確保しておくほうがよっぽどクレバーだったんですね。20世紀の戦争の話じゃないんですけど、やっぱり「大きければいいってもんじゃない」ってことなんです。本当に勉強になるわ……

 さてその後、私は鬼ノ城の東端にあたる屏風折れの石垣をまわって北に行き、最初におとずれた北門ポイントから、城壁沿いではなく、城内のいくつかの遺跡をめぐるコースに入りました。
 まぁ……そこにあるのはただ一面の林となだらかな山道、そしてこの広大な敷地に対して「たった7棟ぶん」という異常に少ない建物の礎石群なんですけどね。
 それも、お世辞にも戦争のことを想定した基地施設のようにはまったく見えず、倉庫のような目的にしか使われなかった建物のように見えません。鬼ノ城はその立派すぎる城壁とはまったく相反して、内部は実用どころか、誰かが常駐していたとも考えられないような「ただの山」感に満ちているのです。もちろん、「本丸」「二ノ丸」なんて縄張りの概念もありません。まだ発見されていないなにかの施設跡ももしかしたらあるのかもしれませんが、とにかく「城壁だけで力尽きた」ムードがたっぷり!
 むしろ、鬼ノ城の観光ルートには、ところどころに岩石を手彫りして作った磨崖仏像が置かれていたので、やっぱり裏手の「鬼の岩屋」に通じるような宗教的なかおりを、鬼ノ城にも強く感じました。やはりここも廃城後は、かつて「西の比叡山」とまで称されたという付近一帯の山岳仏教のいち聖地として使用されていたのでしょうか。温羅伝説と山岳仏教。この2つはたぶん、切っても切り離せないネガとポジの関係にあるんですね。ジョーカーとバットマン、ばいきんまんとアンパンマンの構図がここにもあるってわけだ! 私ホイホイシステムですな。

 つくづく変な城です……あるいは鬼ノ城は、戦国時代の感覚で言うお城というよりも、本当に進退窮まったときのための「避難シェルター」のほうに近い考え方で建設されたものだったのかもしれませんね。そうだとするのならば、663年の白村江会戦の敗戦後に築城されたと推定されておきながら、720年に完成した史書『日本書紀』にその名が記されていないことも私は納得がいくような気がします。もともと鬼ノ城は、『日本書紀』にあがっていた12の古代山城とは別の目的で建設された施設だったのではないのでしょうか。
 いずれにせよ、資料によると、出土する遺物は7世紀後期~8世紀初期のものであるというということで、その巨体の割に極端に短命な施設だったことがわかる鬼ノ城なのですが、実際に使用される事態にならなくて、ほんっとうによかった!

 こういった感じで、歩けば歩くほど「古代のロマン」ではなく「古代も大変だったんです……」的な必死さが垣間見えてくる鬼ノ城だったのですが、21世紀もしばらくたった現在では、天気がよければ多くの観光客でにぎわう格好のウォーキングスポットになっていました。初対面の人とも、すれ違うときには「こんにちは。」と笑顔であいさつをするなごやかな場……やっぱ平和がいちばんよねェ~!!
 お昼すぎということで、ほうぼうの広いスペースでお弁当箱を広げる家族連れのみなさんも見られたりしてとってもいい雰囲気だったのですが、私のほうはと言いますと、いち早くこの探訪を終わらせて下山したいという満身創痍のコンコンチキです。ちゃっちゃと行こう、ちゃっちゃと行こう!
 結局、私は鬼ノ城を城壁沿いに1周してから城内を通って西門から鬼ノ城山ビジターセンターに下りるというコースを歩きまして、トータルで「およそ4km 」歩いたことになりました。早朝の JR服部駅からの距離を入れたら「18km 徒歩」ですか……まぁ、鬼ノ城内はそうとうなだらかな山道でしたからね。それでもボロボロな両足には充分に鬼よ!?

 鬼ノ城山ビジターセンターは、鬼ノ城西門から400m ほど道を下った場所にあったのですが、館内には鬼ノ城関連の資料なども充実していたというこの施設は「毎週月曜日休館」、ということで、ね……いや、わかってはいました。わかってはいたんですが……なんで月曜日に来ちゃったんだろう、おれ!? バカなのね~、バカなのよ~♪
 ちなみに、私が最後に通ることになった、このビジターセンターから西門への登城路には、簡単な鬼ノ城に関する1枚つづりの無料パンフレットと、観光客のために無料でレンタルされている「登山用の杖」が置かれていました。だからみんな杖を常備していたのか……なんでビジターセンターから登城しなかったんだろうか、おれ!? 生き方がひねくれまくっているんです。

 鬼ノ城とはぜんぜん関係ないんですが、ビジターセンターの入り口には、同じような歴史関連施設の近日公開の展示企画を紹介する宣伝ポスターとして、

「埼玉県大里郡寄居町・鉢形城歴史館特別展示『プレ北条氏邦シリーズ第1回 鉢形城主・上杉顕定展 東日本の副将軍・関東管領上杉氏と鉢形城』」

 という、こう言っては非常に失礼なんですが、テンションと知名度とが美しいまでに反比例したものすごい展示のお知らせが貼ってありました。「東日本の副将軍」とは大きく出たな……思わずJARO に電話したくなる内実のともなわなさなんですが、「プレ北条氏邦シリーズ」という恐るべき企画に惚れました。シリーズ化するんですか……つづくといいね!
 でも、埼玉県の展示情報を岡山県のここに貼るってことは、それなりの効果があって鉢形城に馳せ参じる猛者が全国にはひしめいている、ということなんでしょうなぁ。私もがんばんなきゃ! 前日に東京で℃-uteのお芝居を観て今日は岡山県で鬼ノ城を探訪するというスケジュールごときでヒーヒー言ってるようじゃまだヒヨッコなんです。

 そして、そんな感じで鬼ノ城をあとにした私は、早朝に苦心して登りきった鬼ノ城登山道を、またまったく違う苦心を味わいながら下山することとなりました。
 足が……足が……確かに、「下山は登山くらいにキツい」!! もうね、足首の足の甲からすねにかけての部分のちょうつがいがバカになっちゃうの。いっさい力が入らずに、糸の切れたマリオネットのごとくにパッカパカになっちゃうんですね。これはもう、ひざと一緒に私も笑うしかありませんわ! ハハハのハ~ってなもんよ。

 そんなこんなでくったくたの全身を引きずって、始まりの服部駅に帰ってきたのは午後2時半ごろ。途中で久しぶりに観た自動販売機で買った缶ジュースがうまいのなんのって……道に人がいないのをいいことに、飲んだあとに大声で「っか~!!」って絶叫しちゃったからね。飲んだのは「QOO 」だったんですけど、「く~。」できくはずがないですよ、こんな渇望度!!

 ここまでの時点でトータルの徒歩距離はいよいよ「23km 」に到達していたのですが、なにを血迷ったのか、私はそこですんなりと吉備線には乗らずに、3km 離れた場所にある隣駅の足守(あしもり)駅までの最後の徒歩を敢行することにいたしました。ほ~ら、やっぱりひねくれてる。

 ま、なにに血迷ったのかって、たこ焼きに血迷ったからだったんですけどね……
 今回は自動販売機の極端な少なさに難渋した鬼ノ城探訪だったのですが、前回の備中高松城探訪時に私は、この高松地区における外食店の絶滅っぷりに唖然としてしまいました。全国チェーンの有名店どころか、個人経営のおそば屋さんほどのものでさえ、まともに存在してないんだぜ!?
 そんな中で、私は最後にたどり着いた足守駅のすぐ近くのたこ焼き屋「つぐ」でやっとありついた焼きたてほっかほかのたこ焼きの、これまでの自分のたこ焼きにたいする概念をくつがえすおいしさに心を奪われた経緯があったため、今回も是非とも最後は、あのたこ焼きでしめたいと企図するものがあったのです。そのためならば、2km や3km の追加なんかどぉ~ってことないっすよ! 山道じゃなくて平地ですしね。

 そんなわけで、服部駅から足守駅までトボトボ歩いていったわけだったのですが、私はこの、知らない町をひとり歩くっていう行為がめっぽう好きでして……いいお天気、行き交う人の滅多にいない農道、かなりきれいなのにキャンパスには人っ子1人いない岡山県立大学(春休みだったから?)、風の吹きすさぶ幹線道路の高架下、そして、30分に1回のペースでのんびりと線路をすべっていく単線の電車……たまんなかったねぇ~、どうにも!! あ、あと、田んぼのあぜ道でワーワー言いながら走りまわって遊んでいた3~4人のわらしこたち! 非常にこう、時空を超えた情緒にあふれた風景でしたね~。いい土地です。

 まぁ、お約束どおり、お目当てのたこ焼き屋さんは「臨時休業」で閉まってたんですけどね……鬼だよね~、やっぱ。
 ご丁寧に「毎週木曜日定休」って書いてありながらも、「本日25日は臨時休業とさせていただきます。」だってさ! もう笑ってさしあげるしかねぇ~っつうの!! イヒヒのヒ~よ。

 そういった鬼なオチをさしこみつつ、何とか無事に吉備線の岡山行きに乗ることができたのは、午後3時半。なにはともあれ、早朝7時半に開始された総距離26km におよんだ鬼ノ城探訪エトセトラは、8時間後に無事に終了とあいなったのでありました。生きて還ってこられたぜ……ほんとによかった。

 そしてその30分後に岡山駅に到着した私は、構内の待合スペースでぐったりしたり、売店でTシャツを買って着替えたり(それまで来てたTシャツは全体的に塩がふってありました……ご苦労さん!)、桃太郎大通りの地下街のラーメン屋さんで今日はじめてのまともな食事をとったりしての~んびり。時間の余裕をぜいたくに使って、夜7時からのお芝居に向かうこととなりました。
 ど~でもいいことですが、岡山市内のラーメン屋さんって、とんこつストレート麺が繁栄してるよね~! おいしいからいいんですが、太ちぢれ麺のみそラーメンで育ってきた東北人としましては、いささかさびしい異邦感にとらわれました。こういうとこで西日本にいるんだな~ってことを思い出すのよね。

 さて、その日に私が観た目当てのお芝居は、


ルネスホール特別企画 『月の鏡にうつる聲(こえ)』 (演出・関 美能留、作・末原 拓馬)


 でした。丸1年前の2012年3月に観たお芝居『晴れ時々、鬼』と同じく岡山市の旧銀行社屋を改修した多目的ホール「ルネスホール」での特別企画公演であり、同じく関美能留さんによる演出であり、同じく「温羅伝説(桃太郎)」をベースにした作品であります。出演者も、昨年と同じくこの公演のために公募された総勢25名もの役者陣で構成されています。

 そう言ってしまうと、昨年の『晴れ時々、鬼』と一体いかほどの違いがあるのか? と感じられる方もいるのかもしれませんが、そこはそれ、天下の関美能留演出よ。まるで違った味わいもあるし、作者が別なのでまったくパラレルな関係にあるとはいえ、「舞台公演」という意味での昨年の成果をしっかりと踏まえたネクストステージな作品になっていたのです。

 なにはともあれ、全国民的に超有名な『桃太郎』をもとにした物語になっているため、本来は凶悪な侵略者とされている「鬼(温羅)」を逆に「大和王権の勢力拡大の被害者」という立場ととらえ、温羅と宿敵であるはずの「桃太郎チーム」の誰かとが、実はかつて地元の吉備国で深い交流をむすぶ関係にあったという解釈にもとづいているという点では、前年と今年のどちらも同じ構図を物語の軸にすえています。『晴れ時々、鬼』の場合は吉備津彦命(桃太郎)の部下として付き従った「イヌ」が主人公になっていましたね。

 今回の『月の鏡にうつる聲』では、直球ど真ん中で温羅と桃太郎(吉備津彦命)の2人が主人公にすえられており、桃太郎が大和王権の皇族ではなく、吉備国から立身出世を目指してヤマトの都にやってきた、野心的なエネルギーに満ちた青年に設定されているところがミソになっています。桃太郎は吉備国での少年時代を、異国からやってきた戦災孤児の温羅といっしょにすごした仲だったのですが、運命の残酷ないたずらというべきか、武将となった桃太郎にヤマトの王が与えた使命は、故郷の吉備国で有力な地方領主となった温羅を追討するというものだったのです。

 話だけを言えばこういった悲劇的な雰囲気になってしまうし、実際に物語は、温羅の退治されたあとも「呪い」によって重たい雲と冷たい雨がたえず覆い深刻な不作が続いている吉備国から、過去の経緯を回想するという流れになっており、かなり陰鬱な始まり方をします。

 しかし、このスタートがあるからこそ、生前の温羅と桃太郎とのあたたかい交流と、方向性は違えどそれぞれに純粋な生き方を貫こうとする2人の発する明るさが非常にひきたってきて、温羅の死後の呪いの「ほんとうの意味」が生み出す爆発的なラストシーンが実によかったです。
 感動、ですよねぇ。昨年の『晴れ時々、鬼』はとにかくその公演かぎりのお祭りというにぎやかなイメージがあったのですが、今回の『月の鏡にうつる聲』はそこからより成熟したという感じで、あえてテンションをおさえるかのような前段があったり、現在と過去とのシーン構成をもっと重層的で有機的なつながりのあるものにする試みが随所に炸裂していたと思います。パッと転換する映画じゃないので、演劇は前のシーンのかおりをいやおうなく残してしまうものがあると思うのですが、その「良さ」をふんだんに活用したあいまいさが心地よかったですね。

 今回の出演者は25名ということで、昨年の17名をさらに上回る岡山のみなさんが舞台に立たれたわけだったのですが、例えば温羅や桃太郎の「少年」「青年」「現在」をそれぞれ別の役者が演じるといったかたちがキャストの多くに採用されており、2人の他にも「イヌ」「サル」「キジ」「温羅の側女」「ヤマトの王」といった主要な登場人物たちのおよそ30年にわたる物語がさまざまな個性の人たちによって彩られていくというバラエティ豊かな内容になっていました。役によっては男女の性別が時代によって変わっているものもあったし、ともすれば観る側が混乱しかねないギリギリのところを、共通のイメージの衣装やセリフで守り通していた冒険心に感服つかまつりました。攻めてるな~!

 そんな多くの魅力的な役者陣の中でも私が特に印象的に感じたのは、青年時代の桃太郎、つまりは「有名になって大金持ちになるんでい!!」という過剰な野心をいだいて都にやってきた田舎出身のピュアすぎる若者(演・大川由起子)のパートで、とにかく根拠のない成功ビジョンを強く胸に持ちつつ、洗練されたシティボーイのイヌ・サル・キジにつっかかってはコテンパンにのされ、ヤマトの王に偶然に出会っては「なんでもしま~っす♡  家来にしてくだせぇ!」とヘーコラこびへつらうという、彼の迷いのない生き方には素直に感動してしまいました。そういうキャラクター設定もいいのかも知れませんが、とにかく演じた大川さんのバカっぽさと空回り感がかわいらしいというかなんというか、コテコテの小者ではあるわけなんですが、根拠のない「一点押し!!」の姿勢がいかにも若くてたくましいんですよね。そのエネルギーの放射熱がいいんです。

 そして、そんな青年の泥臭いはいつくばり方に感動しながら、私は内心でハタと思い当たりました。「根拠のないエネルギー! 昨日の『さくらん少女』の中島さんといっしょじゃないか!!」と。
 つまり、物語にしろ現実にしろ、新しい世界を切り開くのはすべからく「根拠のない」ものなのではないのだろうかと。そして、それが花ひらいたあとで、後世の人々があとづけで好き勝手につけくわえるのが根拠というものなのです。最初から「根拠のある」ものなんてのは、所詮はその程度に今存在している世界の想像の範疇におさまっているスケールのものなんですから、そこから本当の意味での新世界は生まれるはずもないのです。
 私も、いよいよ齢30なかばにさしかかろうとしているオッサンなのですが、これからの人生をどのくらい新鮮に生きていくのかは、ひょっとすると、年齢相応に身にまとわりついてしまった常識やらなんやらにとらわれない根拠のない信念を、どれだけ周囲の反応を恐れずに持ち続けられるか、そこにかかっているのではなかろうかと感じました。
 いつも心のすみっこに、少年時代に近所の駄菓子屋で見かけた「?」としか表示されていないガチャガチャを!! いや、実際に買ったことはないんですけどね……

 そんなことをいろいろと考えさせられた『月の鏡にうつる聲』だったのですが、この作品はそれだけでも十二分におもしろかったものの、役者陣では昨年の『晴れ時々、鬼』からの続投となったおなじみの顔ぶれ(成人した温羅役の森峰清さんや吉備の農民役の遠藤雄一さんなど)が多く参加されており、前作でそれぞれが演じた役のことを考えるとさらにおもしろくなるという楽しみ方もできたし、演出に目をやれば、関さんの主宰する劇団「三条会」で上演された過去の作品の数々を想起させる構図やギミックがいたるところにちりばめられているという愉快さもありました。とにかく、私にとってはひたすら幸せでイメージ豊かなひとときになりました……
 観劇の直前まで自分なりにそうとう肉体を酷使していたので、「ひょっとしたら、観ている最中に意識が飛んじゃうかも……」という心配も若干あったのですが、まぁ~それは杞憂もいいとこでしたね。眠くなるほうがムリっていう話でしたわ。


 そんなこんなで無事に観劇も終了した午後9時すぎ。私は幸せな気持ちと充実感、そして「ここちよい」くらいのレベルを860% ほどオーバーしてしまった疲労をかかえて、午後10時発の東京行き深夜バスに乗って岡山をあとにしました。おみやげのきびだんごもちゃんと買ったヨ。

 思えば、今回の旅は前日のアイドル舞台の当日券すべり込み観劇から、ただひたすらに「鬼」な展開の目白押しでございました。不眠の深夜バス、早朝からの登山、まったく予想のつかない進路、だだっ広い鬼ノ城、トータル20km 超えの徒歩、そして「鬼」にまつわるお芝居の観劇。

 そういえば、帰りの深夜バスに乗るときも、バス停留所の位置をしっかり調べていなかったので、結局は運転手さんと電話でつながりながら数分ダッシュするというはめになりましたね。出発時間にはギリギリ間にあったんですが、一瞬真剣に岡山で野宿する自分の姿を想像してしまいました。その節は大変ご心配をおかけいたしました……

 そのまさかの展開も鬼だったけど、それで翌朝に東京に帰ってきて、数時間後に出勤しましたからね、わたくし。
 すべてが美しいまでの自業自得なので自分をほめる気にはさらさらならないのですが、こんなに唯我独尊な楽しさに満ちた3日間はなかったなぁ。ホントに自分勝手好き勝手にやらせていただきました。岡山の鬼王温羅さまには感謝の言葉もねぇよ!


 今回もとっても楽しかった。でも、次の城めぐりはも~ちょっと! ほんのも~ちょっとでいいから! ラクなものにしたいもんです……

 もう若くはないんだから、ムリはしたくないね……って、どの口が言ってるんだバカー!! 寄り道ばっかのハイカロリーな人生、ばんざい。
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