悪魔も恐れる最高峰の天使たち!キリスト教の七大天使を解説!
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女子に人気のハプスブルグ家ですが、ヨーロッパの歴史には『同君連合』の例が多くありますが、一人で多数の国の君主を兼ねたという点では、ハプスブルグ家が断トツ一番です。
ハプスブルグ家 女王 マリア・テレジア
『ハプスブルグ家』は最初、ハプスブルグ家の家名のもと、『スイス』東北部の『ハービヒッブルグ城』に本拠を置く『豪族』でした。
13世紀に『バーベンベルグ家』が断絶した後、『オーストリア』方伯国の『君主』になりました。 この『方伯国』は、次第に昇格されて『大公国』となります。
その領域は現在の『オーストリア共和国』のうち、『ウィーン特別市』を含む、『上オーストリア州』と『下オーストリア州』にあたります。
これが、狭義の『オーストリア』です。
『ハプスブルグ家』はその後、『軍事力による征服』と、『』結婚を通じての相続』とにより、次々にいろいろな国の『君主』を兼ねるようになります。
有名な『マリア・テレジア』の時代には、その『当主の正式な称号』は次のように長ったらしいものになります。
「『オーストリア女大公』、兼『シュタイヤーマルク』女公、『ケルンテン女公』、兼『チロル女伯』、兼『ボヘミア女王』、兼『ハンガリー女王』、兼・・・、」。 この後も兼・・が延々と続き、全部でなんと42もありました。
ちなみに、私が住んでしたのがシュタイヤーマルク州のGraz(グラーツ)という市で、オーストリアの首都になったこともある美しい街です。
ヨーロッパの街並みは全て美しいですが、中でも美しい街として世界遺産にもなっている文化的な古い街並みが残っています。 私の本Blogの『カテゴリー・自己紹介』にGrazの街や私が住んでいた家の写真も掲載していますので、興味あれば見てやってください。
・オーストリアに住んでいた頃の街 Graz(グラーツhttps://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/6dbe17a3aa9ced46f65ef97a2d972db5
・オーストリア(Graz)で住んでいた家の紹介https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/5a08de0805a7087660975e79f495b2ed
・Graz大学、Wien大学、そしてGraz国立音楽大学https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/8ceff7af54b25c2f8df110322e47b5f2
・スペイン国王 ファン・カルロス殿下との昼食会 於帝国ホテルhttps://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/2bbacdcb7da7e18112b03bc54e5bb222
・両陛下、スペイン国王夫妻を歓迎 来年国交150周年(17/04/05)
https://www.youtube.com/watch?v=CXdDXBgYS7c
・ブルガリアの副大統領との面会とプレゼントhttps://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/abde5b1d927384a461d216cd8b64c7c0
・ロスチャイルド当主 ANAホテル(赤坂)プライベート会合https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/15e42c79348485224e0b9ae63ca899e4
・ロスチャイルド財閥ー9 ウィーン体制 そしてオーストリア帝国宰相クレメンス・メッテルニヒの直系の孫であるメッテルニヒ氏との食事会 https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/bdb88089d7be05f04ad603f308e78bfd
・デュポン財閥-1 概要 そしてDuPont財閥当主との付き合いhttps://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/5226329b578cb7902e701c57de715b54
マリア・テレジアはよく『女帝』と呼ばれますが、これは正式な肩書ではありません。
『彼女の夫』は『ロートリンゲン家』から入り婿としてやってきた『フランツ』で、このフランツが『神聖ローマ帝国皇帝』に選出されたのであります。
『神聖ローマ帝国』は、もはや完全に『有名無実の存在』でしたが、『七選帝侯による皇帝選出』や『皇帝の戴冠式』がフランクフルトで盛大に行われたことは、ゲーテが父などから聞いて、『詩と真実』に生き生きと描かれています。
この場合、『マリア・テレジア』は『皇帝の配偶者つまり皇后』に過ぎませんでした。 それに対して前記の『オーストリア女大』公などの場合は、『彼女が君主』なのであって、『フランツはその配偶者』でした。
『フランツ・ヨーゼフ』は『政治にも軍事にも』あまり口出ししなかったので、『内政、外交、戦争』などのすべてにわたって『マリア・テレジアが一人』で切り回しました。
そういう『実質的な意味』では、『マリア・テレジア』はまさに『女帝』であったのです。
マリア・テレジア少女時代の肖像画
(関連情報)
・日本人が理解しがたい欧州の『同君連合』 ユナイテッド・キングダム(UK)
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/a4f7b27f35ea09b3ed935f4f9f4215f4
中世の昔から変わることなく存続してきた『地域共同体』の意識が同君連合の背景にあります。
なぜイギリスの国名は連合王国なのか?
日本人が理解しがたいヨーロッパの歴史的制度の一つに『同君連合』というものがあります。
たとえば、イギリスは事実上は一つの国歌ですが、建前としては『イングランド王国』『スコットランド王国』『ウェールズ公国』『北アイルランド』という4つの国の連合体ということになっていて、エリザベス女王(イングランド国王)がそれぞれの国の君主を兼ねています。
エリザベス女王(イングランド国王)は、ロンドンでイングランド女王(イングランド国王)としての戴冠式を挙げた後、エジンバラでスコットランド女王としての戴冠式を挙げました。
プリンス・オブ・ウェールズ。つまりウェールズ公の地位には皇太子が封じられる(国王からウェールズを任される)のが昔からの慣例で、チャールズ皇太子はカナーヴォン城へ行き、ウェールズ公としての戴冠式を上げました。
ユナイテッド・キングダム(連合王国)というのがイギリスの国名になっている所以です。
連合王国ができるまで
ウェールズは、もとはイングランドとは全く別の独立国でしたが、イングランドに征服されました。 それで事実上はイングランドに併合されましたが、建前としては『ウェールズ公国』として存続し、現在に至っています。
『『スコットランド王国』と『イングランド王国』も、昔は全く別の独立国で、しかも仲が悪く、しばしば戦争をしていました。 1707年にイングランドに併合され,『グレートブリテン王国』(今日のイギリスの前身)ができました。
それが、1603年にエリザベス一世が跡取りなしで亡くなったとき、最も近い縁続きということで、『スコットランド王ジェームズ』が迎えられ、『イングランド王』を兼ねることになりました。
だから、『ジェームズ』は、『イングランド王』としては、『ジェームズ一世』です。
以来、一人の王が、両国の君主を兼ね今日に至っています。
(関連動画)
・英領北アイルランド 2年ぶりに自治政府発足へ (2024.02.05)
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/a2909a80e1bd7f8043d6d434881238cf
・英国領の北アイルランド、分離派の党から首相初選出 (2024.02.05)
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/d96c2b824350f2fab276171be20cc893
北アイルランドの自治政府首相に選ばれたシン・フェイン党のオニール氏=ロイター
【ロンドン=共同】
英領北アイルランドの自治政府首相に3日、英国から分離し隣国アイルランドとの統一を掲げるシン・フェイン党のミシェル・オニール副党首(47)が選出された。
かつての紛争でテロを重ねた過激派、アイルランド共和軍(IRA)の元政治組織である同党から首相が誕生するのは初めて。
シン・フェイン党は2022年5月の議会選で勝利。副首相を擁立する英帰属維持派の民主統一党(DUP)が抵抗し、組閣が難航して2年近く政治の空白が続いていたが、自治政府が発足することになった。
北アイルランドでは1921年以降、英統治の継続を望む政党が一貫して議会の主導権を握ってきた。
しかし、60〜90年代を中心に分離派と帰属維持派の間で紛争が起き、98年の包括和平合意に基づき、自治政府の閣僚ポストを両勢力で分け合う共同統治を行ってきた。
日経記事 2024.02.04より引用
英領北アイルランドのベルファストにある議会議事堂(2022年6月)=ロイター
【ブリュッセル=江渕智弘】
英領北アイルランドで、2年ぶりに自治政府が発足する見通しとなった。発足を阻んでいた英本土と北アイルランド間の通商問題をめぐり、英政府が新法を整備し、事態が動いた。
英国から離脱し、隣国アイルランドとの統一をめざすシン・フェイン党と親英国の民主統一党(DUP)が近く共同で組閣する。
アイルランドの独立後も英領に残る北アイルランドでは、1960年代から英国の統治を求めるプロテスタント系とアイルランドとの統一を望むカトリック系の紛争が続いた。犠牲者は3000人を超えた。
98年の紛争の和平合意に基づき、親英派と親アイルランド派をそれぞれ代表する政党が共同統治する決まりになっている。
機能不全に陥ったのは、2020年の英国の欧州連合(EU)離脱がきっかけだ。英国とEUはアイルランド同様に、北アイルランドをEUの単一市場に事実上とどめる議定書を交わした。
英本土と北アイルランドの間の物流に通関手続きが必要になり、DUPが反発した。抗議の一環として共同統治をボイコットしてきた。
英政府は1月末、英本土と北アイルランド間の物品の自由な貿易アクセスを保証する新法案を明らかにした。DUPはこれを受け、自治政府の発足に向けた協議に復帰すると表明した。
日経記事 2024.02.02より引用