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ヨーロッパでのハロウィーン、クリスマス、そしてサンタクロース(聖ニコラウス)

2024-12-25 16:04:34 | ヨーロッパ・中東・アメリカ全般、歴史・文化・食文化・芸術・建築

ケルト文化に起源をもつハロウィーンと万聖節,万霊節

十月三十一日は、イギリスやアイルランドでハロウィーンHalloweenと呼ばれる日である。 今では主として子供たちの行事と言う感宇土人はじであり、キリスト教の祭りではないのだが、後で述べる万聖節、万霊節との関連において重要なので、ここで説明しておく。

 

この日は、もともとケルト人の歴による一年の終わりの日であった。 ケルト人は一年を冬と夏の二季に分け、十一月から四月までを冬、五月から十月までを夏としていた。

ちなみに、五月一日はケルト人が夏の始まりを祝った日であり、ケルト人に極めて近い習俗を持っていたゲルマン人においても同様であった。

 

ケルト人は、一年の終わりのハロウィーンの日には、『この世』と『あの世』の境が開くと信じ、死んで『あの世』に行った先祖の霊、その他もろもろの善霊や悪霊が『この世』へ帰ってくると考えた。

同時に、『この世』の人間が悪霊にたぶらかされて、『あの世』に迷い込む危険もあるとした。先祖の霊が帰ってくるという考えがキリスト教に取り入れられて、十一月一日が万聖節、翌二日が万霊節ということになった。

 

ヨーロッパ大陸の中心部は、かつてはケルト人の諸部族の天下であった。 ところが、ローマ人に押されて次第に民族の独立性を失い、その文化もまたロマ人に吸収同化されてしまった。

それに対し、ローマ人に追われる形で移っていったイギリス諸島、ことにスコットランド、ウェールズ、南イングランド、アイルランドでは、ケルト文化が勢い盛んなまま、ずっと後世まで残った。 ハロウィーンもその一つの表れである。

 

イギリス諸島では十月三十日で、年が改まるとされ、この日に農地の小作、借家、雇い人などの契約を更新する習慣が続いた。

また、先祖の霊が帰って来るときの目印にするとともに、家のあたりを明るくしておいて、悪霊に悪さをさせたいために、この日の夜には盛大な焚火をしたり、灯明かりをともしておく習慣も後世まで続いた。今ではハロウィーンは子供の祭りになっている。

 

スイードという淡紫色の根菜(カブの一種)の中をくり抜き、目鼻を描き、小さなローソクをともして、ジャック・オン・ランターン(Jack-o-lantern)と言うものを作る。 

夜になると、子供たちは頭巾やお面をかぶったり、顔に炭をなすりつけたりして、悪霊に化け、ランターンを手にして近所の家々を回る。  そして、「トリック・オア・トリート(Trick or Treat)イタズラされたいか、それともご馳走するか」という脅し文句を唱える。

 

大人たちは、茶目っ気たっぷりに、イタズラは勘弁してくれというしぐさをし、用意しておいたお菓子を、小さな悪霊たちに渡す。

私が住んでいた、オーストリアのGraz(グラーツ)、こてこてのカトリック地域にも、この小さな悪霊たちが来て、お菓子を渡しました。

 

この習慣がアメリカに伝わり、ランターンの材料が、スイードからパンプキン(大型のカボチャの一種)に変わった。 明けて、十一月一日は万聖節(All Sints' Day「諸聖徒の祝日ともいう)」で、カトリック地域ではすべて休日。 

ケルト人やゲルマン人の習慣を受け継ぎ、アルプス以北の地域において民間で行われいた行事を、八三五年に法王グレゴリウス四世が正式にキリスト教に取り入れ、すべての聖人の遺徳をしのぶ日と定めたのである。

 

それからは、キリスト教の祭日として、アルプスより南の地域でも祝われるようになった。 しかし、この祭りはローマ法王が定めたものなので、ギリシア正教では認めていない。 またプロテスタントでは聖人の考え方が違うので、この日を休日にはしていないが、宗教改革以前からずっと続いていきた墓参りなどの習慣は広く残っている。

 

カトリック地域では、この日に家族そろって教会の礼拝に出たあと、お墓参りをして菊の花、常緑樹の枝、果物、教会で聖水を入れてもらった瓶などを供える。 

今では、菊の花を室内装飾に使う人もいるようだが、元来ヨーロッパ人の心の中では、菊の花は死者や墓のイメージと結びついている。 ヨーロッパ人の家を訪れる時は、菊の花を持っていくのは避けた方が良い。

 

 

翌二日は、万霊節(All Souls' Day)と呼ばれ、休日ではないけれども、先祖や亡くなった家族の霊を追憶する日である。 家族そろっての墓参りは、勤め先も学校もすべて休みになる一日の万聖節に済ませる人が多いがこの二日の万霊節にもう一度お参りして、故人の好きだったワイン、ビール、お菓子などをお供えする人もいる。

この日には、赤いグラスの器の中にローソクをともして墓前に置くのがならわしで、たそがれ迫る墓地に赤い火がたくさんゆらめいている光景は幻想的である。前日に供えられた菊の花や常緑樹の枝もまだしゃんとしていて、赤い火に映える。

そして家に帰ってからまたローソクを赤々とともし、亡くなった家族が大好きだった料理を作り、彼らも一緒に居るつもりで家族そろって晩餐をする。 遠くに行っている息子や娘たちも、できればこの日に合わせて家へ戻って来る。そういう点も、すべて含めて日本のお盆によく似ている。ケルト人の文化と、日本人の文化がよく似ていると言われる所以である。

 

 

 

クリスマスを迎えるアドヴェンドと、聖ニコラウスの日

十一月二十六日を過ぎると、間に四つの日曜日をはさんで、クリスマス(降誕節)まで約四週間続くアドヴェンド(待降節)の期間に入る。 アドヴェンド(Advend)の語源は、ラテン語のアドヴェントウス(Adventus)で、到来を意味する。 救い主イエス・キリストが、この世に出た記念すべき日を迎えるに当たり、信者として心の準備を整える機関である。

各家庭では、樅の木(もみのき)そのほかの常緑樹の枝を丸めて葉冠を作ったり、小さなクリスマス・ツリーのようなものを作ったりして、そこに四本のローソクを飾る。アドヴェンドの最初の日曜日には、二本というようにしていって、四本すべてに火がともると、いよいよクリスマスは近い。 

 

これらのローソクは、日曜日に一家そろって食事をするときなどに火をともし、ふだんは消しておく。

 

 

アドヴェンドに入る頃から、商店ではクリスマスの飾りつけや、贈り物に使う品々を取り揃えて、華やいだ雰囲気になる。 各商店で、ショーウィンドウの装いに工夫を凝らすばかりではなく、商店街ごとに競争のようにして何か共同の飾りつけをするところも多い。

ヨーロッパ人はこの種のディスプレイについて、臭味の良し悪しを論ずる気風が強く、ただアメリカのように、単に派手で人目を引くだけでは、良い点はもらえない。そのため、しゃれたディスプレイが多く、この時期に商店街を散策するのは楽しい。

 

市内の特定の広場に、クリスマス用品や子供たちへの贈り物を売る屋台店が並ぶのが恒例になっている所も多い。 

そしてクリスマスが近づくと、どこかの広場に大きなクリスマス・ツリーが出現したり、大通りの並木が無数の豆電球で飾られたりする。 そのあたりは現在の日本とよく似ている。 

 

やっぱり、日本は、寂しさの裏返しで、お金目当てと虚栄心で大騒ぎするアメリカよりも、ヨーロッパ、更に言えばケルト的である。商業ファーストで、街中にジングルベルの大きな音が響き渡るようなことはなく、文化的で上品な美しさがある。

 

 

 

サンタクロース(聖ニコラウス)

アドヴェント途中の十二月六日は、聖ニコラウスの日である。ニコラウスは、四世紀に小アジアのミュラで司教をしていた人物で、非常に恵み深く、人々から敬愛された。

貧しくて嫁入り支度ができないで困っていた三人の姉妹の家へ、お金がどっさり入った財布を、暮れの夜ひそかに投げ込んでやったという話がたくさん伝えられている。

後に聖人に列せられ、子供たちの守護聖人とされるようになった。 

 

ギリシア正教では、聖ニコラスと呼ばれ、船乗りや漁師の守護聖人でもある。 カトリック地域では、十二月五日の夜は『聖ニコラウスの宵』と呼ばれ、聖ニコラウスの扮装(コスプレ)した男がお供を連れて、小さい子供のいる家を訪ねてまわる習慣がある。

聖ニコラウスは、長い髭を生やし、司教帽ヲかぶり、司教杖を手にしている。 子供がこの一年間、良い子であったか、悪いことをしなかったか、厳しい口調で問いただし、これからの一年間も良い子でいることを約束させてから、贈り物を渡す。

聖ニコラウスのお供は、エンマ帳を持っており、子供が何か悪いことをしたことが分かると、エンマ帳に書き込むことになっている。

 

こういう聖ニコラウスの来訪は、あらかじめ親が教区教会の委員に頼んでおき、贈り物も、親の方で買って預けておくのである。 

この聖ニコラウスがサンタクロースの元祖である。 ヨーロッパでは十二月五日の聖ニコラウスの宵、または後述する一月六日のエピファニーの日に、子供たちに贈り物を渡すのが昔からの習慣であった。

 

しかし、今日日本ではアメリカから逆輸入されたサンタクロースの風習に合わせて、クリスマス・イヴに渡す家が多くなった。乳二月五日、または一月六日にはお菓子程度の贈り物にとどめ、クリスマス・イヴにはもっと金をかけて、子供たちが熱望している贈り物にするという家もある。

 

 

 

サンタクロースの考現学

赤い帽子に赤い服、大きな袋を背負ってトナカイのソリに乗って、というサンタクロースのイメージはどこから生まれたのだろうか?

聖ニコラウスが、子供たちに贈り物を届けるという行事を、オランダの移民がアメリカに持ち込み、期日は十二月五日からクリスマス・イヴに変わったのが、そもそもの始まりとされている。

 

聖ニコラウスの事を、オランダ語で、シント・ニコラ―ス(Sint Nikoolaas)と言ったのが、なまってサンテ・クラース(Sante Klaas)になり、サンタ・クローズ(Santa Claus)というアメリカ語ができたと考えられている(最後のSはズと濁音になるのが正式、ドイツ語でもSは濁音になる、例えばSIEMENSはジーメンスと発音するのが、ドイツでは正式)。

 

一八二二年に、アメリカのクレメント・ムーアという詩人が、自分の子供にクリスマスの贈り物を渡すときに、読んでやろうと思ってサンタクロースの詩を書いた。かれが素晴らしい作品だったので、ある出版社が本に仕立てた。 この絵本に描かれたサンタクロースは、僧服に司教帽、司教杖という聖ニコラウスではなく、フィンランドのユールブッケという伝説的な精霊の姿にヒントを得たものだった。

 

こうして、白くフサフサした髭、極寒に耐えられる裏毛皮の赤い帽子に赤い服、長靴、背には大きな袋、そしてトナカイのソリに乗って、というサンタクロースのイメージが出来上がった。 この絵本は全米で愛読され、サンタクロースのイメージは、アメリカから世界へ広まった。 

 

本場フィンランドでは、もっと地味な防寒服を着た人が、ユールブッケに扮し、冬至の夜にトナカイのソリに乗って小さい子供のいる家々を訪ね、お菓子をあげて、長く暗い冬を耐え抜くように励ます習慣があったという。  現在、フィンランドの北極圏にあるロヴェ二エミという町にサンタクロースの里が設けられていて、世界中の子供達からサンタクロース宛てに送られてくる手紙に、全部返事を出すというサービスをおこなっている。

 

 

 

クリスマス、大晦日、正月、そしてエピファニーを迎えて

ヨーロッパでは、クリスマス・イヴでも街の様子はふだんとあまり変わらない。 教会でクリスマス・イヴの特別礼拝に列するのが、土地の人たちのいちばん標準的なイヴの過ごし方である。

カトリック地域では、この特別礼拝はすなわち、クリスマス・イヴのミサであり、大聖堂そのほかの教会で荘厳なミサがちり行われる。

 

信者でないものも列席してかまわないが、服装をきちんとして行く事、絶対に聖体拝領しないこと、という心がけが大切だ。 聖体拝領が始まると、信者たちがみな前の方へ出て行くので、一緒について行ってって、訳も分からずに聖体拝領をする日本人旅行者が跡を絶たない。ううれは、非常に悪いことである。 ミサに列する人が多いために、たいていの大聖堂では、宵の口から深夜にかけてニ、三回繰り返してミサがとり行われる。

ギリシア正教の教会では、ギリシア正教徒でない場合は、会衆席に立ち入ることを許されず、入り口を入ったところで立ったまま見学することになる。 クリスマスの午前中は、平素甘利教会へ行かない人でも、この日ばかりはたいていみな教会へ行って特別礼拝に列する。

そのあと、家族そろってお昼にクリスマスを祝うご馳走を食べ、午後から夜にかけては、家族でカード遊びなどを楽しむ人が多い。 日本のお正月に似ている。クリスマスには、商店はもちろんのこと、博物館、美術館、歴史的建造物、古代遺跡などは、みな閉まる。翌ニ六日も休日で、商店は引き続き全休であるが、博物館などはあいている所もある。

 

 

十二月三十一日は、聖ジルヴェストルの日だ。 休日ではなく、商店は開いている。博物館なども建前としては開いてあるはずなのだが、午後になると早々と閉めてしまうところがかなりある。美術館、城、宮殿などを見るのは、できるだけ午前中にすませてしまう方が無難だ。午後になっても規定通り開いていたら、おまけだと思えばよい。

十二月三十一日の夜は、家族や友達が寄り集まって飲めや歌えやのパーティを開き、明け方近くまで陽気に騒ぐのがヨーロッパ流である。 たいていのホテルでも同様のパーティがあり、こちらは金さへ出せば、誰でも参加できる。

ホテルのパーティは、要するに長時間にわたる晩餐会であり、この日にはホテルで通常の夕食をとることができない。 パーティは夜中の十二時にクライマックスを迎える。

伝統がぜんぶ消えて、室内はしばし真っ暗になる。 この間には誰にでもキスしても良いという習慣があり、女性はそれなりに身構えておく必要があるかもしれない。再び、パッと明かりがつくと新年で、バンドが高らかにファンファーレを奏し、シャンパンが抜かれ、みな杯を挙げて「新年おめでとう」と言い交す。

そのあとも、パーティの熱気はますます高まって、三時、四時まで続く。 しかし翌日の行動予定を考えて、旅行者は午前〇時半頃に引き上げるのが潮時だろう。 かっこよく遊ばねばならない。ビジネスの会食でも、ワインはワングラスまでが暗黙のルールである。

 

一月1日は、商店街も博物館なども全休。 現地の人は寝正月を決め込んでおり、街は人通りが絶える。 旅行者としては、散歩でもする以外に、時間の使いようがないというのは能のない話で、旅行の計画を立てる時から、一月一日は長距離の移動に当てておくべきだろう。 ふだんの日曜日や休日と違い、一月一日は飲食店もほとんど閉まる。 

 

日本と違って、一月二日からは、完全に平常通りである。 そして次の祭日は一月六日のエピファニー(Epiphany)で、日本では顕現節、あるいは御公現の祝日と言う。 語源はギリシア語のエピファーニアで出現を意味する。

幼子イエスが初めて公衆の前に姿を現した日であり、三人の占星術の学者たち、いわゆる東方の三博士たちが、イエスを礼拝した日であるとされている。 

さらに一月六日は、重複していりいろな記念すべきことが起こった日であるといわれてきた。 そもそも神が天地創造を開始したのは一月一日であり、六日目にアダムとエヴァを創造したから、一月六日は人間がこの世に現れた日であるというのがその一つ。

また、イエスがヨハネから洗礼を受けたのも一月六日とされている。 

 

一月六日は、商店は全休で、博物館もやすみになるところがかなりある。 日本では、クリスマスと違って、エピファニーが話題になることは皆無。 キリスト教徒でない日本人は、エピファニーが大祭日であるという認識をほとんど持っていない。 旅行会社の社員ですらそうである。

 

クリスマス関連の飾りつけは、エピファニーまで、一月六日を過ぎると全て取り片づけられる。 年末年始の休みを利用して、ヨーロッパを旅行する人は、周到に計画を練っておくべきである。

 

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