さて、親鸞。
第一部を読んだのが、当ブログで調べたら2015年、第二部を読んだのが2017年。だいぶ、というかかなり時間が経ってしまいました。まあどうでもいい話ではありますが、第一部は単行本で、第二部と三部は文庫で買いまして、もちろん書いてある内容はいっしょなんで別に問題はないんですが、どうせならどっちかに統一したかったですね。
個人的な話をさせていただきますが、現在、通信制の学校で勉強しておりまして、その学校の経営母体がなんと浄土真宗系のお寺。というわけで、なにかの「縁」を勝手に感じながら読みました。
第一部では、少年時代に比叡山に入って修行をはじめ、山を下りて法然の弟子となって、法然の提唱する念仏が禁止となって親鸞は越後に流罪となります。ちなみにこの頃に親鸞は結婚します。
第二部では越後で布教活動をしていて、刑期が終わったのですが京には戻らず、関東の常陸に行きます。
で、六十一歳になった親鸞は京に戻ります。親鸞が少年時代に伯父の家にいたときの使用人で、のちに商売で成功した犬麻呂の後を継いだ申丸に住む家と生活費を世話してもらっています。親鸞は特にこれといって何もせず、一日中何かをせっせと書いています。外出するのは月に一回、法然の法要のときに出かける程度。
その申丸に会いたいという人物が。覚蓮坊という僧なのですが、このお坊さん、なにやらすごい権力があるようで、どんな悪そうなやつも覚蓮坊の名前を出すだけでビビるというほど。先代の犬麻呂の使用人で今は使用人を束ねる係の常吉という老人は「あの方とお付き合いするのは遠慮なさったほうが」と心配しますが、じつは犬麻呂の遺言で「覚蓮坊との付き合いを絶やさぬように」とあり、たとえ悪そうなやつとだいたい友達でもニューヨーク生まれヒップホップ育ちでも先代の教えは守ります。
さて、申丸と覚蓮坊が会ってる時に、常吉はある場所へ向かいます。そこは竜夫人という女性の屋敷で、なんでも幕府や公家あたりに大金を貸しているそうで、もとは遊女で宋の竜大人という富商に身請けされてのちに日本に戻ってきます。常吉は自分の主人の行動をなぜ竜夫人に報告するのか。
覚蓮坊の用事とは、親鸞のことについて聞きたいとのことで、じつは親鸞がまだ比叡山で修行中、覚蓮坊も修行していて、親鸞はとても優秀な修行僧で、覚蓮坊たち後輩はみんな憧れていたそうで、それがいきなり下山してご禁制の念仏僧の法然に弟子入りしたということで未だにひどく親鸞のことと念仏を憎んでいる様子。そこで、京に戻ってきた親鸞は一体何を企んでいるのか、それと、親鸞の持っている書を見せてほしい、というのです。そこで申丸は「貸しがある」という親鸞の長男で善鸞に頼もうとしますが・・・
このことを、常吉は竜夫人に報告します。すると、手紙を持たせ「この文を印地御殿の党の長老、弥七どのに渡してほしい」というのですが、「印地」とは石を投げる技、その技術者をいい、ある時期に(白河印地の党)という集団が結成され、私兵や用心棒をやったりします。その本拠地である印地御殿に住む長老というのが、かつて親鸞が少年時代に出会った、あの「ツブテの弥七」だったのです。竜夫人と弥七はどのような関係なのか。
ところで親鸞の息子の善鸞なのですが、いちおう親鸞の弟子というか親鸞のもとで念仏の勉強をしていますが、親鸞パパの中に家族というか親子の情愛といったものはあまり無く、そこで善鸞はなんとしてでも認めてもらおうと唱導という歌うように説法をするもので、これを真剣に学んで極めたいといい、さらに関東のある寺から招待されてるので関東に行くと決めます。ところが関東では念仏の間違った解釈が蔓延っていて、弟子の唯円を関東に向かわせます。さて善鸞ですが、親鸞から「お前は私の名代として関東に行くわけではない」と念を押されますが、関東についたら「わては親鸞の息子でっせー名代でっせー」と振る舞います。これに嘆いた親鸞は善鸞に義絶を申し渡し・・・
竜夫人は嵯峨野にある寺を建造します。名前は「遵念寺」といい、唱導の名手といわれますが朝廷により処刑された安楽坊遵西の「遵」の字をつけたというのですが、竜夫人とどのような関係があるのか。完成したらぜひとも親鸞に導師をやってほしいとお願いしますが・・・
この第三部では、それこそ「激動」で、あれやこれやと書ききれないほどの出来事が満載。最終的に九十歳で入滅します。
誰でも「なむあみだぶつ」と唱えれば極楽に行ける、だったら生きている間に悪いことをしまくってもいいじゃないか、という解釈があったようです。あとは「他の宗派はブルシット!念仏のみが真の教え!」と喧伝。法然ら念仏宗一派が罪になったのもこれが危険思想とみなされたからですね。
かの有名な悪人正機説、「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」と歎異抄にあるフレーズ、自分の力で幸せになれる人、これを善人つまり「自力本願」ですね、こういう人は阿弥陀様の助けを別に必要としなくても往生つまり極楽に行けるからいいんですが、ところが「親ガチャ」でしたっけ、生まれた境遇が悪いなど、さまざまな理由で他人を傷つけたり他人の物を奪ったりするような人生を送るようになってしまった人つまり悪人は、いわば不幸なので、こういう人こそ阿弥陀様の救済が必要なのです。阿弥陀様はこういった不幸で悲しい生き方をしている人たちをも慈しんでくださります。これを「慈悲」といいます。阿弥陀様の力でもって救われるから願いましょう、これが「他力本願」です。「すべての衆生(生きとし生けるもの)とは煩悩具足の凡夫(悪人)である」から結局はこの世はみんな悪人なんですね。そして親鸞は南無阿弥陀仏(阿弥陀様に帰依します「私を救ってください」)にプラスでこれを唱えることで阿弥陀様の声(あなたがたを救ってあげます)を聞くことができる、と加えます。つまり、どうせ極楽に行けるんだから悪いことやりまくるぜヒャッハーというのは、その時点で阿弥陀様に帰依してないので、救われません、残念。
キリスト教の賛美歌である「アメイジング・グレイス」も、That saved a wretch like meの部分は「私のような惨めで哀れな者でも救ってくださった」ということで、南無阿弥陀仏にどこか近いものがあります。この歌詞を書いた人はもともと奴隷貿易に携わってたそうですね。
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