きっと明日は雨のち晴れ

六甲道診療所での仕事は忙しいけど、それなりに楽しい。ちょっとくじけそうなことがあっても、雨のち晴れです

原点

2023-12-17 19:47:20 | 日記
年末には配布される健康いちばん 新年号
今年から、年賀状書かなくなりました。
あしからず、、ここで失礼いたします。

新年号の四季のカルテ
原稿提出したところで、原稿をアップしてみます
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

命を守る改革たりうるか?

六甲道診療所  谷口 敏光



昨年は基幹病院の専攻医や歌劇団での長時間労働やパワハラによる自死がニュースになりました。一方で今年四月から働き方改革が始まります。物流・運輸業界や建設業に加えて、医師の働き方改革が実施にうつされます。

Karōshi(過労死)
始まりは、一九七八年ごろにさかのぼります。Karōshi は英語の辞書にのるほどの日本の社会問題と認識されていました。その頃私は大学生で、あるご縁で先輩方の労働災害職業病の勉強会に顔を出していました。たとえば、神戸市保母(当時はまだ保育士とはいっていなかったが)の頚肩腕症候群や疲労性腰痛症などを目的とした健康診断のお手伝いをしながら、疾病の社会的要因について考えるようになり始めました。労働環境など社会背景が疾病発症に大きく影響していることを地域住民や職場労働者から学ぶことが重要と考え始めていました。今は職域ではありませんが、そのような健康観をもって療生協で働くことになった、事の始まりだったといえます。
当時から脳、心臓、精神疾患が長時間・荷重労働によって引き起こされ、過労自殺にもつながっていることは注目されていました。しかし、何十年もの年月が経過しても、長時間労働は一向に改善されるどころか、苛烈さを極め。数々の痛ましい結末をみることになっています。

産業医の権限
中小企業の長時間労働の対象者に対して、「面接指導」を受けなければならなくなったのが平成二〇年からで、診療所業務の傍ら、私も産業医として、神戸市産業保健センターで、面談に携わられていただきました。面談したからといって、現状の働き方をそうたやすく変えられるものではありません。とくに、一人店長のような立場の名ばかり管理者の面談は苦労しました。働き方改革といわれだして、徐々に産業医の権限強化がうたわれていますが、実際の労働現場には容易ならない現実があります。

実効ある改革とは
医師の労働は様々な形態をとります。実際に患者さんと接する業務だけではく、山のような書類作成、各種会議、研究会症例検討会や常に知識や技術をアップデートしていく為の時間も必須です。働き方改革にあたり、この「自己研鑽」に関する時間をどこまで労働時間とカウントするか、曖昧なところもあるようです。
本来の改革が長時間労働の是正ならば、医師を増やすか労働時間を減らすかしかありません。医師を増やさなければ、どう考えても、診療時間や診療科を減らす、つまり医療サービス低下、ひいては医療崩壊につながります。兵庫県内あちこちですすむ基幹病院の統廃合、その動きの裏にはこのOECD各国でも少ない医師数にあります。立ち行かなくなっているのは三田市民病院だけでないはずです。原資は限られた診療報酬、ますます切り詰められる医療費のなかで、患者サービスを低下させずに働く医師自身の命が守られる「実効ある働き方改革」など絵にかいた餅でしかありません。
かくいう、今年定年の(退職はしませんが)私も、すでにアウトです。自分自身の改革が必要です。しかし、事業を継続していかなければならない管理者です。どうやって切り開けばいいのでしょう
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あかね色の空をみたよ

2023-04-02 20:46:15 | 日記
昨日、日曜日は、娘の就職で、1人暮らしにアパートに、引っ越し荷物を運んできました。
場所は、阪神競馬場の北にある、住宅街、宝塚医療生協の良元診療所の近くです。駅でいえば 小林(おばやし)です。
エレベータのない、3階のアパートまで、イヴォークにのるくらいの荷物ですから、大したことなく、
段ボール6個分ぐらいでした。ワンルームに毛が生えた程度の新築アパートに荷物おいて、「そいじゃね」とかえってきましたが、

 先日から、なんやら、病気かで休診にしている?もと灘区医師会長の徳井の大林せんせいは、
ここの所長より、3歳ぐらい年上ですが、、、おおばやし先生で
おばやし は、わすれられない思い出の地でした。
  長男が、生まれたのは1986年、、、おはやしで、この映画の上映がったのは2000年でした、、
まあいつだったかまでおぼえていないくらい、暗い闇のなかでした。家のマンションの壁にはたくさんの穴が開いてます、
、今はその穴に、額縁風の飾り棚を埋め込むように創作して、からくりおもちゃなどを飾っています。その後の父の息抜きの時間です、、

当時は 出口のみえない、息子のこもりっきりの毎日、
あのころ、「デコトラ」っていうテレビゲームにあけくれたりはしていました。
うちの子には、なんとなく、学童の影響でしょうか?ずっとゲームを買い与えていませんでした。親の身勝手かもしれませんが、、、
 そんな折に、この映画、だれにすすめられたのかは知らなかったのですが、つれられて、おばやしに、出向きました。
 まあ、すぐに、目の前がひらけたというようなことはないのですが、、
子供自身が苦しんでいるということは、わかってあげないといけないと思うようになった、、ようなきがします。
 中学生のほとんどを学校にいかず、知り合いの天城通の吉田酒店で仕事みたいなことをさせてもらって、
通信制の青雲高校にはいって、なんとか、難関?の落ちては受け落ちては受けの保育専門学校にはいれましたが、
たくさんの入試のなかで、国語のハードルが高かったみたい、、、
 今頃は、不登校と思われる中学高校生がたまに、診療所に体調不良ということでこられますが、
多くは、親が、なにか身体的な異常がないか、そのせいにしたいような気分でこられます。
不登校と認めたくないし、なんとか学校へいかせたいという一心です。
それは昔の自分をみているような気もしますが、でも、この映画を見た時からというか、
この時期から、こうあるべきだということは親がいうことではなくて、
自分でどうしたいかを決めれるようになるまでは、味方になって、まってあげることがすべてだと、
思い知らされたわけで、なんとなく、患者さんとしてきた子の親御さんにもそんな、言い方をしてきました。

なんとなく、さみしい、けど、祝福せんとあかん、末娘の門出でした
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ステンドグラスはしなやかにたくましいのかも

2023-01-22 21:17:54 | 日記
西郷小学校のとなりに、淡路信用金庫があるのはご存知ですか?淡路島では「淡信(だんしん)」といってなじみの銀行ですが、
なんでこんなローカルな金融機関がこの灘区にあるのか?
 こんなことを聞いたことがあります。二号線から下の、とくに新在家南まちあたりには淡路出身の人がおおいって、、
 それらとは関係あるのかないのかわかりませんが、43号線から南の地域には職人さんが多いのです。
最近往診にいきだした方もブリキ職人だとか、、、木型の会社もあるよね
 六甲道診療所の玄関にはステンドグラスがはまっています。
ガラスにそれらしき塗装をしただけのものではなく、それぞれの間を鉛でつないでいる本格的なものです。
数少ないステンドグラス職人の組合員さんが名乗りをあげていただいた、ありがたい作品なのです。
それがあとでいうFさんの旦那さんで、「○○で5本の指にはいる職人」といわれていたのを思い出しますが、、
どれだけのお方だったのでしょう?
震災で全壊の赤札がはられた診療所の玄関は風除室の枠組みもふにゃふにゃにひんまがってしまっており、
両脇の分厚い広いガラス部分も粉々でした。
余談ですが、虹から鳩がとびたつ医療生協のイラストをガラスにはったのはだいぶあとの話だったと思うのですが、、自信なし。
 入り放題の真っ暗な診療所は数日後に、半地下喫茶店(夜はスナックですが)に神大生協の職員の男手にてつだってもらって、
カルテなど運び出し、さらにそのあとに、「卓球場」としてつかっていた
人間ドックをうけていただいてたYさんとこに引っ越しました。
 鉄筋むき出しになった柱が2-3階部分で損傷が大きかった今のビルは、
半年かけて、ギャッジアップ、
そして、奥の更衣室にある柱には10センチ厚の鉄板の袴をはかせて、補強工事がすすみました。 
 実は今にして思えば、鉛でつなぎ合わせているので、外力がかかっても、しなやかさゆえに、
ガラスの損傷はさけれるのでしょうか?さすがに、風除室の構造とおなじようにステンドグラスも
すくなからず損傷をうけていたとおもうのですが(ちゃんときいてなかったなな)、
このビルの改修工事(なぜか、都市計画で、このビルととなりのパチンコ屋さん、
そして山側のもう一つのパチンコ屋さん、、今はキコーナですが前身はバグジーだけが、
はずされて、取り壊しにはならずに済んだ、、不思議ちゃん)の際に、
ステンドグラスを、いったんFさんに保管してもらったんでしょうね。
これまた、Fさんにちゃんときいたことがなかったのです。
 半年後に今の場所にもどってきて
 もともと、その震災の前は、福島にいってしまった小児科のDrや愛媛に帰って行った内科Drなど
複数医師でやってた時期が2年ほどあって、いろいろあって、1人でがんばろうとしていた矢先の震災でした。
 がその、ステンドグラス職人Fさんが脳梗塞になってからは、訪問診療で伺うようになり、
長いお付き合い。その奥さんは、脳梗塞になった旦那さんの指導や、設計図などを受け継いで、
なんとか見様見真似だったのか、なんとか注文をうけて仕事もされていたように記憶しています。
家の3階に作業場があり、ご近所の方を招いて、「教室」みたいなこともしていて、そこに参加していましたね。
 そのころは、まだ、自分にも余裕があったのか、
岡山の現代玩具博物館の西田明夫さんのからくりおもちゃ教室に毎月通って、「田舎の日曜日」という、
これ以上ないといえるペンションに宿泊して、組木の小黒せんせいにも教えてもらったりでしたもんで、
つい、ものづくり癖で、往診の時にステンドグラスの話になって、お父さんは1階に臥床。奥さんに3階、
ガラスカットの練習を土曜日の午後に体験させてもらいました。
なんか、小黒先生の糸のこでの組み木みたいな感じで、ダイヤモンドカッターというのが正しいのかわかりませんが、
ダイヤのボールペンみたいなもので、
図面のように、ガラスをひっかいて、あとでペンチで挟んで力をくわえると、
その線のように、うまく割れたら成功!
 帰りには、お父さんの指示により、ガラスの辺縁をなめらかにするためでしょうか?
電動の「グラインダー」や繋ぎの鉛、
そして、鉛を溶かす「はんだごて」までプレゼントしていただきました。
 練習用のガラスもいただいて、お山におさまっていますが
、最近、木工もできていないうえに、ガラス細工にまで手がまわらない日々をすごすことになりました。

 脳梗塞のFさんは長らくの在宅療養のすえに、在宅みとりとなりました。その時も、脳梗塞でながかったとはいえ、状態がわるくなったのは、わりと、あれよあれよの数日の話でした。

そのあとの奥さん、F、Fさんはいろいろ病気はしながらも、地域の活動など、やるひとがおらんのや、、とぼやきながら、診療所ではどうしようもない、病気になってしまい、その検査と治療で消耗していたと思います。
 足腰がよわってきたなあと、思いながらも、ついこの間もなんとか歩いて、診療所にはいってきて、いつもの注射もして、、とおもっていたのですが、
 同居していない娘さんからも、もうあかんのちゃう?とおもわれていたようですが、この数日、足腰がたたない、まともにたべれない、、、もともと、この家で死にたい、どこにもいきたくないといって、、、でも、もっと早く定期往診対象に組み込んでいけたらよかったなあと思うのですが、、六甲道からの往診きてもらおうかと娘さんがきいても、まだええ、といわれて、いたそうです。
  電話がかかってきたのは、金曜日のもう終了してしまっています。お疲れ のあと、かえってから、およびだし
さみしくなりました。


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ステンドグラスはしなやかにたくましいのかも

2023-01-22 21:17:54 | 日記
西郷小学校のとなりに、淡路信用金庫があるのはご存知ですか?淡路島では「淡信(だんしん)」といってなじみの銀行ですが、
なんでこんなローカルな金融機関がこの灘区にあるのか?
 こんなことを聞いたことがあります。二号線から下の、とくに新在家南まちあたりには淡路出身の人がおおいって、、
 それらとは関係あるのかないのかわかりませんが、43号線から南の地域には職人さんが多いのです。
最近往診にいきだした方もブリキ職人だとか、、、木型の会社もあるよね
 六甲道診療所の玄関にはステンドグラスがはまっています。
ガラスにそれらしき塗装をしただけのものではなく、それぞれの間を鉛でつないでいる本格的なものです。
数少ないステンドグラス職人の組合員さんが名乗りをあげていただいた、ありがたい作品なのです。
それがあとでいうFさんの旦那さんで、「○○で5本の指にはいる職人」といわれていたのを思い出しますが、、
どれだけのお方だったのでしょう?
震災で全壊の赤札がはられた診療所の玄関は風除室の枠組みもふにゃふにゃにひんまがってしまっており、
両脇の分厚い広いガラス部分も粉々でした。
余談ですが、虹から鳩がとびたつ医療生協のイラストをガラスにはったのはだいぶあとの話だったと思うのですが、、自信なし。
 入り放題の真っ暗な診療所は数日後に、半地下喫茶店(夜はスナックですが)に神大生協の職員の男手にてつだってもらって、
カルテなど運び出し、さらにそのあとに、「卓球場」としてつかっていた
人間ドックをうけていただいてたYさんとこに引っ越しました。
 鉄筋むき出しになった柱が2-3階部分で損傷が大きかった今のビルは、
半年かけて、ギャッジアップ、
そして、奥の更衣室にある柱には10センチ厚の鉄板の袴をはかせて、補強工事がすすみました。 
 実は今にして思えば、鉛でつなぎ合わせているので、外力がかかっても、しなやかさゆえに、
ガラスの損傷はさけれるのでしょうか?さすがに、風除室の構造とおなじようにステンドグラスも
すくなからず損傷をうけていたとおもうのですが(ちゃんときいてなかったなな)、
このビルの改修工事(なぜか、都市計画で、このビルととなりのパチンコ屋さん、
そして山側のもう一つのパチンコ屋さん、、今はキコーナですが前身はバグジーだけが、
はずされて、取り壊しにはならずに済んだ、、不思議ちゃん)の際に、
ステンドグラスを、いったんFさんに保管してもらったんでしょうね。
これまた、Fさんにちゃんときいたことがなかったのです。
 半年後に今の場所にもどってきて
 もともと、その震災の前は、福島にいってしまった小児科のDrや愛媛に帰って行った内科Drなど
複数医師でやってた時期が2年ほどあって、いろいろあって、1人でがんばろうとしていた矢先の震災でした。
 がその、ステンドグラス職人Fさんが脳梗塞になってからは、訪問診療で伺うようになり、
長いお付き合い。その奥さんは、脳梗塞になった旦那さんの指導や、設計図などを受け継いで、
なんとか見様見真似だったのか、なんとか注文をうけて仕事もされていたように記憶しています。
家の3階に作業場があり、ご近所の方を招いて、「教室」みたいなこともしていて、そこに参加していましたね。
 そのころは、まだ、自分にも余裕があったのか、
岡山の現代玩具博物館の西田明夫さんのからくりおもちゃ教室に毎月通って、「田舎の日曜日」という、
これ以上ないといえるペンションに宿泊して、組木の小黒せんせいにも教えてもらったりでしたもんで、
つい、ものづくり癖で、往診の時にステンドグラスの話になって、お父さんは1階に臥床。奥さんに3階、
ガラスカットの練習を土曜日の午後に体験させてもらいました。
なんか、小黒先生の糸のこでの組み木みたいな感じで、ダイヤモンドカッターというのが正しいのかわかりませんが、
ダイヤのボールペンみたいなもので、
図面のように、ガラスをひっかいて、あとでペンチで挟んで力をくわえると、
その線のように、うまく割れたら成功!
 帰りには、お父さんの指示により、ガラスの辺縁をなめらかにするためでしょうか?
電動の「グラインダー」や繋ぎの鉛、
そして、鉛を溶かす「はんだごて」までプレゼントしていただきました。
 練習用のガラスもいただいて、お山におさまっていますが
、最近、木工もできていないうえに、ガラス細工にまで手がまわらない日々をすごすことになりました。

 脳梗塞のFさんは長らくの在宅療養のすえに、在宅みとりとなりました。その時も、脳梗塞でながかったとはいえ、状態がわるくなったのは、わりと、あれよあれよの数日の話でした。

そのあとの奥さん、F、Fさんはいろいろ病気はしながらも、地域の活動など、やるひとがおらんのや、、とぼやきながら、診療所ではどうしようもない、病気になってしまい、その検査と治療で消耗していたと思います。
 足腰がよわってきたなあと、思いながらも、ついこの間もなんとか歩いて、診療所にはいってきて、いつもの注射もして、、とおもっていたのですが、
 同居していない娘さんからも、もうあかんのちゃう?とおもわれていたようですが、この数日、足腰がたたない、まともにたべれない、、、もともと、この家で死にたい、どこにもいきたくないといって、、、でも、もっと早く定期往診対象に組み込んでいけたらよかったなあと思うのですが、、六甲道からの往診きてもらおうかと娘さんがきいても、まだええ、といわれて、いたそうです。
  電話がかかってきたのは、金曜日のもう終了してしまっています。お疲れ のあと、かえってから、およびだし
さみしくなりました。


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なにかあるかな  六甲道診療所には、、、、

2023-01-02 18:08:44 | 日記
健康いちばん  
医療生協の機関紙に、「あと10年がんばります」といったのが、
今頃になって、重くのしかかっています
「風のガーデン」のお父さんみたいに、仕事をつづけられたらいいなあ
というようなのは 淡い妄想かもしれません
いつまでも頑張れるわけではないことはわかっていても、
ことを先送りにしているだけでは許されません。

おかえりモネの 医事考証の 田上せんせいみたいな
力量とひきつける力をもっているわけではないので、
自分の分をわきまえるしかないですが、

学生時代にいろいろ、余分な?ことをしてて、今の自分があるわけですが、
そのころは、次につなげようとするしつこさがありました。
しかし、いざ、この職場にきて、日々おわれてしまってました。
看護師のこと、事務職員のこと、薬剤師のこと、
安泰な時期がない、、、といって自分になにができたわけでもないのですが

そして、一番大事な、次の医師のことにまで、追いついてないことを
いよいよこの年になって、思い知るとは

自分自身をみがくべく、「家庭医療学研究会」からたどる、
プライマリーケア学会や、万年研修医の尊敬すべき田坂せんせいのTFC や、
診療所での「実習」をうけいれてきた、 PCFMで
こられた、学生さんや流谷せんせい、いろいろ出会いはありました。

鳥取大学の先生らを中心にした社会医学研究センターにも
なんとか、運営委員としてかかわりながらも、なかなか、
なにか期待できる成果がでそうにありません。

おかえりモネで、
田上せんせいのモデルになっている、「俺たちの菅波」せんせいが、
ここに、、「なにかあるかな」って思えたのは、なんでしょうね
第4話くらいのお話です。

もう、今年は思いたくもない、65歳になる年です。
具体的に、アクションをおこして、「なにかあるかな」って
思ってもらえる、「出会い」をもとめていかんと、あとはないですよね
職員の生活があるし、
医療生協の看護をしっかりつくりあげようとしている看護部や、、
育休明けにもどってきてくれるといってくれる年賀状の彼女
若いみんなの、これからを保証できる明日をなんとか、
たぐりよせたい1年になります。
はいつくばって、動き出したいですね

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