その昔、
岡山県東粟倉村というところに、現代玩具博物館というものがあって、今は亡き 館長の西田さんの指導で「からくりおもちゃ教室」というのに参加していました。10数人の受講生が、月に1回土日2日かけて、1つの作品を仕上げるというもの。神戸からは泊まり込みで、隣の西田さん一家が経営しているペンションにとまらせてもらって、、約1年間のコースでした。最後はひとりひとりのオリジナル作品をつくるというのでしめくくりでした。教室の助手みたいなことをしてくれてたのが 橋爪さんという方です。
平成の大合併?だったかに、東粟倉村は美作市と合併吸収され、現代玩具博物館も、まちの中心地湯の郷温泉郷の中心地に引っ越し、西田さん亡き後の館長を橋爪さんがつとめていました。 毎年米子の研究集会に行く途中で、湯郷の橋爪さんを訪ねるのが恒例となっていました。ついでに、いろいろ買い物して、、でも、お山での木工作業は からくりおもちゃよりは、ほとんど診療所のための工務店の作業場になってしまったこのごろ。おまけに、米子にも オンライン参加で、湯郷にご縁が激減してしまいました。
そんなおり、毎月「友の会」会員におくられてくる、STORK magazine の編集後記に 訳あって退職することになりました というような 下りがあり、びっくり、、 事情がわからないし、それほど詮索するほどの関係性もないのですが、
つづいて、診療所にとどくファックスのなかに、
流谷せんせいからのが、、、ファックスでというのがなんとも、、なんですが、4月いっぱいで、診療所を閉鎖するという内容。
もうずいぶんになりますね、
六甲道がプライマリケア関連で、診療所実習を受け入れるネットワークに手上げしていて、ごくまれに、学生さんとか研修医などもきてくれたことがありますが、実際の開業医さん(流谷先生はどなたかの医院の継承開業だったおもいますが)がたずねてこられたのは初めてで、 その当時、水曜日の午後診察は、神戸大学の健康管理センターで仕事してた先生のアルバイト先として、外来をお願いしてた時期で、 中田先生(今は京都に)や浦浜せんせい(住まいは篠原北町)といった先生に水曜日の午後の外来をお願いしていましたが、その裏で、流谷先生と検査したり、往診したりという、最近志谷せんせいのときのような気分でお付き合いしていました 何度か、薬屋の招待?で蘇州園や芦屋の店でふたりで飲み食いしたことがありますが、それはオフレコ その後は毎年盆暮の挨拶と年賀状だけになってしまいました、、
縁とは不思議なものですが、疎遠になってはいけないというおもう人とは ご無沙汰してしまい、、そうではない〇〇とは しがらみからぬけだせない、、というようなものでしょうか?
岡山県東粟倉村というところに、現代玩具博物館というものがあって、今は亡き 館長の西田さんの指導で「からくりおもちゃ教室」というのに参加していました。10数人の受講生が、月に1回土日2日かけて、1つの作品を仕上げるというもの。神戸からは泊まり込みで、隣の西田さん一家が経営しているペンションにとまらせてもらって、、約1年間のコースでした。最後はひとりひとりのオリジナル作品をつくるというのでしめくくりでした。教室の助手みたいなことをしてくれてたのが 橋爪さんという方です。
平成の大合併?だったかに、東粟倉村は美作市と合併吸収され、現代玩具博物館も、まちの中心地湯の郷温泉郷の中心地に引っ越し、西田さん亡き後の館長を橋爪さんがつとめていました。 毎年米子の研究集会に行く途中で、湯郷の橋爪さんを訪ねるのが恒例となっていました。ついでに、いろいろ買い物して、、でも、お山での木工作業は からくりおもちゃよりは、ほとんど診療所のための工務店の作業場になってしまったこのごろ。おまけに、米子にも オンライン参加で、湯郷にご縁が激減してしまいました。
そんなおり、毎月「友の会」会員におくられてくる、STORK magazine の編集後記に 訳あって退職することになりました というような 下りがあり、びっくり、、 事情がわからないし、それほど詮索するほどの関係性もないのですが、
つづいて、診療所にとどくファックスのなかに、
流谷せんせいからのが、、、ファックスでというのがなんとも、、なんですが、4月いっぱいで、診療所を閉鎖するという内容。
もうずいぶんになりますね、
六甲道がプライマリケア関連で、診療所実習を受け入れるネットワークに手上げしていて、ごくまれに、学生さんとか研修医などもきてくれたことがありますが、実際の開業医さん(流谷先生はどなたかの医院の継承開業だったおもいますが)がたずねてこられたのは初めてで、 その当時、水曜日の午後診察は、神戸大学の健康管理センターで仕事してた先生のアルバイト先として、外来をお願いしてた時期で、 中田先生(今は京都に)や浦浜せんせい(住まいは篠原北町)といった先生に水曜日の午後の外来をお願いしていましたが、その裏で、流谷先生と検査したり、往診したりという、最近志谷せんせいのときのような気分でお付き合いしていました 何度か、薬屋の招待?で蘇州園や芦屋の店でふたりで飲み食いしたことがありますが、それはオフレコ その後は毎年盆暮の挨拶と年賀状だけになってしまいました、、
縁とは不思議なものですが、疎遠になってはいけないというおもう人とは ご無沙汰してしまい、、そうではない〇〇とは しがらみからぬけだせない、、というようなものでしょうか?