きっと明日は雨のち晴れ

六甲道診療所での仕事は忙しいけど、それなりに楽しい。ちょっとくじけそうなことがあっても、雨のち晴れです

ご縁がなかったと、引きずらないで

2023-03-21 20:11:41 | 悩み
前回の雨のち晴れを書いていたときの気分は月曜日に発行した直後に  
「水泡に帰す」でした
{水泡に帰す」の意味は「努力したものが消えてしまうことなので、
正確に努力はしていないのですが、初めての面接といってもいいのですが、
その初めてにしては、素敵なお方にみえたのは、節穴だったのでしょうか?
でも、ビギナーズラックというほどに、「逃がした魚はでかい」というほどの縁ではあったのでしょうが、
ご縁がなかったということにして、1週間をすごしました。
まあ、面接なんてのは、婚活みたいなもので、縁がなかったと、ひきずらないということか???
「打たれ強くならんとあかんですね、、」でも、くよくよタイプはなおらない、、
ですが、そんなときでも、外来はとまってくれないし、新規往診依頼も「たえまなくふりそそーーーぐ♪」でした。
 ということで、元気なときにみる「真田丸」から、
めそめそしているときにみる「おかえりモネ」にきりかえて、「百音と未知」の週で、
「おねえちゃんずるい」と激しいバトルのあたりをみながら、
菅波先生が、東京にいくところで、なんとなく、気持ちが穏やかになるシーンですが、、、
サヤカさんとのやりとり、、
*********************
さやか)せんせい、どうかした
今日中に東京かえるんでしょ
 そろそろ支度しないと
はははあああ
まさか、あの子にあうのに緊張してっとか?

菅波)まあ、それもあります 器用なほうではないですから
またなにか余計な事いって、あの人をきずつけてしまわないか、すこし、自分が心配です。
さ)せんせい、、ずっと大事にしてくれてたんですね
菅)大事にしたいとはおもっています
さ)その気持ちだけでじゅうぶんですよ
なにも心配ない
あとは、、 何をおもいなやんでるんですか

菅)いやあああ
人間は自分がよくわかってないっていうのはほんとうだなって

さ)ききますよ、私に理解できるかわかりませんけどね
菅)僕は患者さんと接するのが苦手だとおもってきました 
人の感情はわりきれないし、ころころかわるし、、
そういうものを推し量りながら治療をするのは、ぼくのような人間にはハードルが高い、、
外科を選んだ理由でもあります。
でも、ここにきて、案外むいてるんじゃないかって、
もしかしたら、こっちの道にすすんだほうがいいんじゃないかって、最近、、、
さ)ここの診療所に専念してくれるっていうことですか?
菅)中村せんせいからは、外科の専門医としてキャリアをつむなら、
ここはもう離れて、医局のチームにもどれといわれています。
さ)モネと話してみたらどうですか?今のはなし、
あの子はせんせいのことはいちばんわかっているとおもいますよ
*********************
もう、年度末です。いろいろ、心が揺らぐできごとが起こりやすいところで、
たじろがずに、春分の日はカルテ整理にあけくれて、
ちょっとすっきりして、山籠もりそして、雨のち晴れです
通巻899になりました。
自分でもよくつづいたなあって、、、
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あととり

2023-01-15 20:42:51 | 悩み
逮夜(たいや)とは、「次の日に及ぶ夜」という意味で、
仏教では命日や初七日、四十九日、一周忌や三周忌などの忌日の前夜を指します。「迨夜」「大夜」と書くこともあります。
逮夜には、僧侶を招き供養し、故人の冥福を祈ります。亡くなった日を入れて7日ごとに行います。

その間、お骨は家にもちかえり、飾り物とご飯とお椀ものをお供えを毎日しないといけないのでしょうが、、、
ちょっとそれは神戸ではできん?とははっきりいわずに、
なんとなく、住職も察してくれたのか?お寺の片隅においてもらえることになりまして、
そこに7日ごとに親族があつまってお経をあげてもらうことになります。が、、、、
無理言って、土日のどこかでお寺にお詣り

さて、お布施とお供えお菓子をもっていくのを用意してもらったのですが、
それはいつ出すのが正解か?ググってみても、両論あり、
結局、あとにだして後悔するより、先にだしたほうが、間違いがないということで、
先にだして、お経をあげてもらう間にお寺の仏壇においてもらえたので、よかったわけですね。

とういう、おとといの土曜日の夕方、濃霧の高速道路を、眠気とたたかいながら、
淡路にいって、その日は、ご住職は「腰をいためておりまして、、」
「お弟子さん」といわれる たしか、娘婿さんと紹介がありましたが、
若様とでもいうような、自分の息子より若いような、、
でも、感じのよさそうなお方で、丁寧にお経をあげていただいたと感じることができました。
まあ、法華宗 まあ、南無妙法蓮華経ですが、さっぱりわかっていません。
これ、また「おかえりモネ」で 1000年以上の歴史をもつ、
せいみょう寺のあととり息子 「みつお」(まえだまえだ)のお父さんは、
光明真言
「おんあぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まにはんどま じんばらはらばりたやうん」 をとなえておりましたなあ
その息子は、いまどき「職業の選択がない」と訴えるわけですね。 まあ、結局はあとつぐわけやけどね、、
この淡路のお寺さんは、お弟子さんとよばれる 娘婿を「射とめた」形になったわけですね
 あととりは大事でしょうね、、
 鶴瓶の家族に乾杯という番組を、月曜日と金曜日週に2回だけのうちご飯の夜に 定番のように見るわけですが、
あちこちの町でであう家族、、そこには、「家業を継ぐ」という話はいっぱいでてきます。
美しい話やなとも思いながらも、そうはうまくはいかないし、そんなのは今どき希少かもですね。
 いろいろな選択肢のあったであろう大学時代を、
どうしてこのような道にすすむことになったのか?それなりに、志しをもって、普通じゃない医師になってしまいました。
民医連に研修就職しようとしても、ことわられました。
そして、医局をうらぎるような、大阪でのスーパーローテート研修(今の研修医制度を先取りしすぎたわけですが)、
そして、灘診療所に何の専門医ももたずに就職して、失われた30年を六甲道で耐えた?
灘区内でも、自民党の二世議員ではないけど、二世開業医さんはあまたあり、
今どき、私立医学部もレベル高く、どこも狭き門、ですが、そこに行かせられる、
「教育力」というより、「背中を見せる」ことができているんやろなあと
 プライマリー連合会の前身である、3学会のうちのひとつ家庭医療研究会や、
外来実習を受けるネットワークなど、プライマリーケアの目指す若手の医師の研修講習にもでかけて、
つながりをもてることを目指してきましたが、なかなか、日常の忙しさに負けてきました。
 今年は、もう定年を迎えます。
ウォークイベントで、あと10年は頑張りますとはいいましたが、
あと10年今のような働き方をしているだけでは、10年たったら、廃業するしかありません。
決して自分の生き方を押し付ける気もありませんが、
せめて、この地で、医療生協として、何かの生き方を見つけてもらえる方にであえたら、、、
出会いを求める5か年計画を過ごしたいですね、
来年度の方針からは、、
「六甲道診療所で〇〇しませんか?」という、医師募集をはじめてもいいでしょうか?
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こういう人生もあるんやなあ 

2022-12-27 21:27:32 | 悩み
死亡診断書を近所の開業医のところにとりにいったところ、死因の筆頭は「老衰」でまあ納得なんですが、あとに書かれた「期間」は「約10日間」とはなんとも短いですね、、、

2週間前の老人ホームの玄関先の「あおぞら面会」のときは、ちゃんとにこやかにしゃべっていたのですが、久しぶりに「息子」にあって、事切れたのか、そのあとから急降下でして、年内もって、年末年始の休みのときに亡くなった鹿の下のSさんみたいだったら、診療に穴開けなくてすんだのですが、まさかの急展開、、、たくさん往診の木曜日はこえてほしいと思いながらも、まあ、安定しているといえば安定しているし、ある程度長くお付き合いしている方々だとすれば、夏のコロナと同様、それ以上に事情は察してくれるんだなあと、、、あとで、、思ってしまいました
 PCRの箱詰め作業中に電話があったのが12時15分 これが死亡時刻になっていましたが、、、
もう清潔不潔ごちゃごちゃで電話にでて、、、師長さんらに、催促されるように「はよ、帰ったらな!!」というのに、背をおされて、
 じんちゃんの時には病院にいって、また神戸にもどって、いろんな準備をしにかえってくる、その「体力」がありましたが、なんとなく、自信がなくなってきて、往復せんでもいいだけの、準備を整えて出発したものだから、神戸をでたのが1時40分ごろ、老人ホームについたのは、3時10分。もう、きれいにととのえられていて、事前に連絡していた、実家の近くの、じいちゃんの時にもお世話になった、葬儀会社「神戸未来」という会場に「搬送」してもらっているうちに、先ほどの開業医の先生のとこに「診断書」とりにいったあとで、葬儀会場の控室でうちあわせ。
もう、近所の方には極力参列遠慮お願いしたいといってたら、担当のお姉さんも心得たもので、
最近はそんな形が多いですねということで、前にかいた「隣保長」さんとこにいったり、
30件ほどしかない「部落」のなかに、じいちゃんの姉妹が3件あって、
それぞれの関係があまりうまくいっていないのは子供心に感じていたことで、なんとなく察しながら、
その間で「外もの」として苦労してきたばあちゃんの死亡と葬儀への参列依頼に強弱をつけながら、
でも、時は12月22日「冬至」です。田舎の道には明かりがない、、眼の前が「漆黒」です。
スマホの明かりをつけながらそろりそりとすすまないと、
もちろん「ガードレール」ない道の横は用水路だったりするわけで、
「極寒」のこの夜におちてしまったら、通りがかる人もなく、凍え死ぬなあ???
 そんな真っ暗なご近所まわりして、なんとか、最低限の家族葬に近いものをめざしつつ、
お世話になった人には声をかけ、
告別式で、喪主の挨拶はさすがにアルコールははいっていませんでしたが、
「京都から淡路にきて、淡路病院で鍼灸師して、この土地にきて、
あの、とんでもなくめんどくさい父親と、ようやってこれたなあなんて、子供がいうことではないですが、
まあ、今のやすらかな表情をみれば、それでよかったのかも」というような、、、
こんなにスムーズにはいえなかったですが、つたないご挨拶で、
同じようにおやじの評価が厳しく、何かにつけて兄と比べられてしんどかったといつもいっている弟もあとで、
さんざんぼやいていましたな。

こんなめんどくさい家によくぞここまで、、、というしかありません。

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ブリ大根、まいうでしたが ホームページまだみてません

2022-11-01 21:03:21 | 悩み
オリジナル、不細工ホームページはとどめをさされ、おわりました
30周年でしたが、これもひとつのけじめでしょうね

とんでもない毎日作業でおわれています
そんななか、今日はブリダイコンをうまくできました

「筑前煮の具」なるものをみつけて、おもわず買ってしまいました。その袋の裏に、もちろん筑前煮の作り方は書いてあるのですが、ちょっと、となりに、「揚げない酢豚」なるものがあって、あるもので、昨日はこれをつくってみました。揚げないかわりに片栗でしっとりさせるという感じでしたが、また片栗です、、あとは、味付け、酒、しょうゆ、ケチャップ、砂糖そして、酢を多めにいれたら、なんとなく酢豚の味になっていましたが、やはり、見た目はちょっと違うかな 豚肉とベビーホタテの味はバッチリでしたが、、

 それにしても、30周年ご苦労様でした、、まあ、いろいろありながら、なんとかでしたかね
 まあ、外来が30年たって、こんなバタバタとは思いませんでした、というか、ひと昔は、もっと患者数が多かったけど、自分自身のなかに、予約表とにらみあいながらせっぱつまった感を今ほどに感じてなかったような気がします、、
 すべては、発熱外来によるものかもしれません。インフルエンザの時にも、昔から、熱があれば隔離というルールはあって、隔離室に いろは丸ではなく、「い」「ろ」、、、と名前をつけたのは、だいぶ昔、、新型インフルエンザの時期だったのでしょうか?となつかしくおもったりもしますが、そのころでも、移動はしても、着替えはしてなかったよね、、マスクはしてたかなあ?個人防護セットを沢山いただいてたけど、ほとんど使わずに、検査室の吊戸棚に収納していたのが、今回なんとなく役立ったのには不思議な気分ではありますが、
 コロナでの着替えはそれなりにエネルギーを使う、、そのうえ、予約制である、、よかれとおもって作った予約枠も、それがある意味足かせとなっているようで、発熱外来予約枠の診察をみださずに、一般外来をまわすという呪縛にとらわれて、毎日がすぎていく、、、1人の発熱外来がおわれば、次の30分足らずの間に、一般外来をこなして、次の発熱外来までに、きれいに片付けていくサイクルを守っていく、、そのために、「と」の問診もってきて、、なんて要求をそのへんの人に「大声で」いってしまっています。これは、ハラスメントやなあと思いながら、
 こんなことをいつまでつづけるのでしょうか?、、来月の経験交流会?なるものには所長は、実は欠席なので、すみません。
いろいろ試行錯誤のすえに、積み上げてきた業務の数々ですが、それはそれで、いろいろ、不具合も、うまくいかなかったことも経験しながらの、2年間、、いや30年でしたでしょう。
 試行錯誤というからには、、あやまちがあったのですね、、
苦い経験もわすれてしまいたいことのひとつかもしれないし、
「先生とよばないで」とむかしのむかし、、この雨のち晴れでもいったことがありますが、、、
毎日新聞の1面「余禄」に面白いのが書いてありました。2面
 医師患者関係に上下をつけたくないという信念もあり、医師同士でも、「せんせい」とよびあうのはやめませんかというようなことにこだわっていた時期があります。白衣を着なくなったのは、あの卓球場での仮設診療所時代でしたが、ときはうつろい、
慣れというのは恐ろしいものです、、患者さんの前で、看護師が医師のことを「せんせい」というのは言わないようにしてきた時期にいた職員や、そんなことは知らんという新たに入職してきた職員もいるので、ごっちゃになっていますが、まあ、そんなことは結局はどうでもいいことなのか?それとも、ちがうんや、、、上下関係ではないことを、意識する意味で、「せんせい」と呼ばないことにこだわるのか?あまり重要な議論ではないか?
 そんなことにこだわるくらいなら、ハラスメントみたいな行動に注意してくださいともいわれそうですが、、

  面は私の好きな「宇梶」です。「なつぞら」では十勝の農協の組合長役でしたね


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なんとなく お別れ っていうことが あるのかなあ、、、

2022-05-26 21:42:02 | 悩み
その昔、
岡山県東粟倉村というところに、現代玩具博物館というものがあって、今は亡き 館長の西田さんの指導で「からくりおもちゃ教室」というのに参加していました。10数人の受講生が、月に1回土日2日かけて、1つの作品を仕上げるというもの。神戸からは泊まり込みで、隣の西田さん一家が経営しているペンションにとまらせてもらって、、約1年間のコースでした。最後はひとりひとりのオリジナル作品をつくるというのでしめくくりでした。教室の助手みたいなことをしてくれてたのが 橋爪さんという方です。
 平成の大合併?だったかに、東粟倉村は美作市と合併吸収され、現代玩具博物館も、まちの中心地湯の郷温泉郷の中心地に引っ越し、西田さん亡き後の館長を橋爪さんがつとめていました。 毎年米子の研究集会に行く途中で、湯郷の橋爪さんを訪ねるのが恒例となっていました。ついでに、いろいろ買い物して、、でも、お山での木工作業は からくりおもちゃよりは、ほとんど診療所のための工務店の作業場になってしまったこのごろ。おまけに、米子にも オンライン参加で、湯郷にご縁が激減してしまいました。
 そんなおり、毎月「友の会」会員におくられてくる、STORK magazine の編集後記に 訳あって退職することになりました というような 下りがあり、びっくり、、 事情がわからないし、それほど詮索するほどの関係性もないのですが、

 つづいて、診療所にとどくファックスのなかに、
流谷せんせいからのが、、、ファックスでというのがなんとも、、なんですが、4月いっぱいで、診療所を閉鎖するという内容。
 もうずいぶんになりますね、
 六甲道がプライマリケア関連で、診療所実習を受け入れるネットワークに手上げしていて、ごくまれに、学生さんとか研修医などもきてくれたことがありますが、実際の開業医さん(流谷先生はどなたかの医院の継承開業だったおもいますが)がたずねてこられたのは初めてで、 その当時、水曜日の午後診察は、神戸大学の健康管理センターで仕事してた先生のアルバイト先として、外来をお願いしてた時期で、 中田先生(今は京都に)や浦浜せんせい(住まいは篠原北町)といった先生に水曜日の午後の外来をお願いしていましたが、その裏で、流谷先生と検査したり、往診したりという、最近志谷せんせいのときのような気分でお付き合いしていました 何度か、薬屋の招待?で蘇州園や芦屋の店でふたりで飲み食いしたことがありますが、それはオフレコ その後は毎年盆暮の挨拶と年賀状だけになってしまいました、、
 縁とは不思議なものですが、疎遠になってはいけないというおもう人とは ご無沙汰してしまい、、そうではない〇〇とは しがらみからぬけだせない、、というようなものでしょうか?


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