立春も過ぎて、エネルギーの質にもきっと、変化があらわ
れているのでしょうね。
どう変わったのか、言葉で表現するのはなかなか難しい
としても。
実は最近、ある「誓い」を立てたんです。
そして、今、その実践の邪魔をするもろもろのことを手放
していこうとしているのですが……
その過程でハッと気づくことが数多あり、古いけれども新
しい、驚きの波が押し寄せている今日このごろです。
「もろもろのこと」の中には、物理的な「モノ」もあるけれど、
物質化していない「意識」も含まれていて、これを手放す
のは、ときに「至難の業」と言いたくなるほど難しいと感じ
ます。
なかでも、人それぞれが持っている「こだわり」。
その、愛着たっぷりの意識にサヨナラを言おうとすると、
ハートがすかさず抵抗しようとするのです。
例えば、私の場合は……
いわゆる「月謝」というものにお釣りを出す、ということを
したくない、そういう「こだわり」があって……
それがいつ頃、どのように形成されたのかは覚えていま
せんが、子ども時代から、習い事の先生に月謝を納める
時、お釣りをもらうという発想はありませんでした。
必ず、ぴったりの金額で、お札はきちんと向きをそろえて
月謝袋に入れる。
モノを買うときに払うお金とは違って、月謝というのは何
かを教えるなど、相手にしてもらったことに対するお礼な
のだから、お釣りをくださいというのはエチケットに反する。
そんなふうに思っていました。
でも、自分で韓国語の個人授業の仕事をしてみて、そう
は思っていない人もいるのだとわかったのです。
そして、今では、お釣りをもらうことが別に悪いことという
わけではない、気にする必要はないと、頭では思えるよう
になりました。
それでも……
いまだに、そういう生徒さんに月謝をいただく際、お釣り
を求められると、ハートが小さな声で「嫌だ」と訴えている
ように感じるのです。(実際に声が聞こえるわけじゃありま
せんが。)
いったいなぜ、そんなふうに感じるのだろう?
そうハートに問いかけて、浮かんできた答え。
それは、自分が「愛で満たされていない」という思いがある
証なのではないかということです。
本当は、宇宙の愛に満たされていると信じたいし、毎日祈
りを唱えるごとに、そう宣言している自分なのに……。
でも、まだハートの芯から、そう信じることができていない
のかな。
だから、授業のお礼としていただくお金にも、「愛」がこも
っていたら……ついそんなことを求めてしまうのでしょうか。
たとえ金額がぴったりでなかろうと、お札の向きがバラバラ
だろうと、それで「愛」がないなんて言えないのにね。
そんな「こだわり」を手放すことができたら、きっとその分、
ハートを解き放つことができるかもしれない。
だから私は、この「こだわり」にサヨナラを言うときが来ても
いいと、だんだんそう思えるようになってきています。
(「だんだんじゃなく、一気にサヨナラしちまえ!」って、守
護天使さんないしはガイドさんには思われているかもしれ
ませんけど。)
ただ、私としては、お月謝にぴったりの金額をちゃんと用意
しておくこと、お札の向きをそろえること、そういう行いは嫌
いじゃありません……というか、好きです。
自分がそうするときは、そこに必ず「愛」をこめているのだと
思うから。
こんな調子ですから、「こだわり」を手放すなんて言っても、
ことはなかなか進まないわけですねえ。
でも、いいんです。
宇宙は、こんなあれこれ、一切合財を悠然と見守り、どん
な結果であろうと、喜んで引き受けてくれるところなのだ
から!
れているのでしょうね。
どう変わったのか、言葉で表現するのはなかなか難しい
としても。
実は最近、ある「誓い」を立てたんです。
そして、今、その実践の邪魔をするもろもろのことを手放
していこうとしているのですが……
その過程でハッと気づくことが数多あり、古いけれども新
しい、驚きの波が押し寄せている今日このごろです。
「もろもろのこと」の中には、物理的な「モノ」もあるけれど、
物質化していない「意識」も含まれていて、これを手放す
のは、ときに「至難の業」と言いたくなるほど難しいと感じ
ます。
なかでも、人それぞれが持っている「こだわり」。
その、愛着たっぷりの意識にサヨナラを言おうとすると、
ハートがすかさず抵抗しようとするのです。
例えば、私の場合は……
いわゆる「月謝」というものにお釣りを出す、ということを
したくない、そういう「こだわり」があって……
それがいつ頃、どのように形成されたのかは覚えていま
せんが、子ども時代から、習い事の先生に月謝を納める
時、お釣りをもらうという発想はありませんでした。
必ず、ぴったりの金額で、お札はきちんと向きをそろえて
月謝袋に入れる。
モノを買うときに払うお金とは違って、月謝というのは何
かを教えるなど、相手にしてもらったことに対するお礼な
のだから、お釣りをくださいというのはエチケットに反する。
そんなふうに思っていました。
でも、自分で韓国語の個人授業の仕事をしてみて、そう
は思っていない人もいるのだとわかったのです。
そして、今では、お釣りをもらうことが別に悪いことという
わけではない、気にする必要はないと、頭では思えるよう
になりました。
それでも……
いまだに、そういう生徒さんに月謝をいただく際、お釣り
を求められると、ハートが小さな声で「嫌だ」と訴えている
ように感じるのです。(実際に声が聞こえるわけじゃありま
せんが。)
いったいなぜ、そんなふうに感じるのだろう?
そうハートに問いかけて、浮かんできた答え。
それは、自分が「愛で満たされていない」という思いがある
証なのではないかということです。
本当は、宇宙の愛に満たされていると信じたいし、毎日祈
りを唱えるごとに、そう宣言している自分なのに……。
でも、まだハートの芯から、そう信じることができていない
のかな。
だから、授業のお礼としていただくお金にも、「愛」がこも
っていたら……ついそんなことを求めてしまうのでしょうか。
たとえ金額がぴったりでなかろうと、お札の向きがバラバラ
だろうと、それで「愛」がないなんて言えないのにね。
そんな「こだわり」を手放すことができたら、きっとその分、
ハートを解き放つことができるかもしれない。
だから私は、この「こだわり」にサヨナラを言うときが来ても
いいと、だんだんそう思えるようになってきています。
(「だんだんじゃなく、一気にサヨナラしちまえ!」って、守
護天使さんないしはガイドさんには思われているかもしれ
ませんけど。)
ただ、私としては、お月謝にぴったりの金額をちゃんと用意
しておくこと、お札の向きをそろえること、そういう行いは嫌
いじゃありません……というか、好きです。
自分がそうするときは、そこに必ず「愛」をこめているのだと
思うから。
こんな調子ですから、「こだわり」を手放すなんて言っても、
ことはなかなか進まないわけですねえ。
でも、いいんです。
宇宙は、こんなあれこれ、一切合財を悠然と見守り、どん
な結果であろうと、喜んで引き受けてくれるところなのだ
から!