天使のエナジー

「すべてなるものの源」への、愛の告白

メアリー・ポピンズ=ファンタジー界の天使?

2009-06-25 23:27:26 | ロージー・セレクション
好きで好きでたまらないことがあれば、生きていることが
楽しくてやめられません。

そんな、好きなことを見つける力、それが本当の生命力、
なのかもしれませんね。

あなたは何が好きですか?

私は…ワクワクするものなら何でも。

たとえば、イギリスのファンタジー文学。これは私にとって
は宝の山のようなものです。

その中から今日は、ロージー・セレクションと題して、メア
リー・ポピンズのお気に入りの一節をご紹介しましょう。

メアリー・ポピンズはロンドンの桜通り(Cherry Tree Lane)
に暮らすバンクス家の乳母で、彼女の周りでつぎつぎと起
こる不思議な出来事の数々を描いた物語は、美しくて楽し
くて、好奇心が刺激される魅力がいっぱいです。

そのメアリー・ポピンズがお出かけの時に必ず持っている
のが、オウムの柄のついたこうもり傘。それは使わない時
はいつも子ども部屋の暖炉の隅のお決まりの場所に立て
かけてあるのですが、ある夜、バンクス家の子どもたち、ジ
ェーンとマイケルの二人は、こんな光景を目にするのです。
それは…


From the corner by the fireplace came a little glow of
light. And they saw that the folds of the parrot umbrella
were full of coloured stars the kind of stars you expect
to see when a rocket breaks in the sky.
Their eyes grew wide with astonishment as the parrot’s
head bent down. Then, one by one, its beak plucked the
stars from the silken folds and threw them on the floor.
They gleamed for a moment, gold and silver, then faded
and went out. Then the parrot head straightened upon
the handle, and Mary Poppins’ black umbrella stood stiff
and still in its corner.

暖炉の隅から、小さな光がもれています。そして、オウムの
傘のひだに、色とりどりの星がいっぱいちりばめられている
のを二人は見たのです。それはちょうど、ロケットが空で弾
けるときに見える星のようでした。
 オウムの柄がその頭を下に曲げたとき、彼らは驚きで目
を見張りました。すると、一つ一つ、そのくちばしが星をひだ
からつまんでは、床に放っていくではありませんか。それら
は一瞬、金と銀にきらめくと、やがて光を失って消えていき
ました。そして、オウムの頭が柄の上にまっすぐ元通りにな
ると、メアリー・ポピンズの黒い傘は、そのお決まりの場所
にちゃんとおさまったのでした。
P. L. TRAVERS“Mary Poppins Opens the Door Vol I”
(Kenkyusha, 1976, pp.23-24)
(日本語訳はロージーによる。)


バンクス家の子どもたちの毎日は、こんなふうに、メアリー・
ポピンズの不思議な力のおかげで、新鮮な驚きと興奮に満
ちているのです。

こんな乳母が家にいたら、どんなにいいか! そう思うのは
私だけでしょうか。

ただし、原作者トラヴァースが描くメアリー・ポピンズのキャ
ラクターというのは、ディズニー映画でジュリー・アンドリュ
ースが演じたそれとは、全く別物なんですよね。

映画のメアリー・ポピンズのように万人受けする人当たりの
いいキャラクターとは違って、原作のメアリー・ポピンズはド
ライで皮肉屋で、しつけに厳しく、ナルシスト。(決して意地
悪ではありませんが。)

でも、子どもたちが困ったり、しょげていたり、とにかく、ここ
ぞ、という絶妙の場面で不思議な力を発揮して、助けてくれ
るんです。

そのタイミングが完璧で、実にスマート。まるで、天使のサ
ポートのようなのです。

そういう意味では、メアリー・ポピンズはファンタジー界の
天使的存在の一人、といってもいいかもしれません。


*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *


写真は、<メアリー・ポピンズ>シリーズの1作、“Mary
Poppins in Cherry Tree Lane”の原書です。(邦訳本は
『さくら通りのメアリー・ポピンズ』で刊行。)

夏至の日の出来事をファンタジックに描いたもので、ちょ
うど今の季節にぴったりなのですが、邦訳本はすでに品
切れ状態の模様なのが実に残念です。

過去生の夢?

2009-06-19 22:50:44 | Weblog
「自分には、過去生があるのだろうか?」

誰しも1度くらいは、そんな疑問を抱いたことがあるのでは
ないでしょうか。

私もそんなことを、漠然と考えてみたことがありました。

催眠状態へ誘導して、過去生を思い出すことを手伝ってく
れるという専門家のところへ行ってみたい、そんなふうに
思ったこともありました。

でも、いろいろな運命のめぐり合わせからか、まだそういう
縁に辿りついていません。

中には、そういう専門家に頼らずとも、夢の中で自分の過
去生にアクセスする人もいるのでしょうね。

ただ、実際にもしアクセスすることができたとしても、それが
自分の過去生なのだと、どうすればわかるのでしょうか?

日頃こんな思いを抱いていたのですが、数日前にふと、
「もしかして…」と感じる瞬間がありました。

それは、ある日見た夢の途中でのことです。

その夢の中の私は、アメリカ人の女性でした。なぜアメリカ
人であることがわかったのか、理由は説明できません。でも、
不思議なことにそれは、その時の私にとって自明なことに感
じられたのです。

しかも、鏡を見たわけでもないのに、私にはその女性の顔
や髪型もはっきりとわかっていました。

その女性(夢の中の私)は米軍、おそらく海軍のキャンプの
ような施設で何かの仕事をしながら生活しているのですが、
その施設の内部の様子が実にリアルに見えているのです。

そして、その女性はキャンプの中に思いを寄せる男性がい
て、切ない恋をしているのでした。

こんなストーリーが展開される中で私は、この夢には今まで
見たものとは本質的に違う「何か」があると感じたのです。

すなわち、この夢の女性は、私の過去生なのだと。

その感覚は、根拠を提示できない、それでいて、抗うことの
できないほど強い確信を伴っていました。

私が抱いたこの感覚が果たして正しいかどうか、今は確か
めるすべがありません。

真実を知りたい、そういう気持ちは確かにありますが、今
はまだ私にとって、「その時」ではないようです。

いずれ、「その時」はやって来るはずです。そして、その
ときにこそ、私は自分の過去生を知るでしょう。

でも、今はもうしばらく、過去に生きた自分の姿について、
あれこれ想像をふくらませる自由を楽しみたい、そう思っ
ています。


*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *


今日の写真は、家の近所に咲いたアジサイの花です。

おとといの夜は、やはり家の近所の川辺で、ほたるの光を
見ました。

ついこの間、4月の新学期を迎えたと思ったのに、季節は
いつも早足で通り過ぎて行きますね。

そんなに急がなくても、また来年戻って来るというのに。

シンクロ報告~車のナンバー・その2

2009-06-14 00:23:57 | シンクロニシティー
今日も先回(9日付)の、車のぞろ目ナンバー目撃報告の続き
です。

先回、8日の月曜日に、ぞろ目ナンバーを3台連続で見たとい
う話を書きました。

それは、××-11、 ××-22、 ××-33という番号でしたが…

実はこの完結篇みたいなものをまた見てしまったのです。

11日の木曜日のことでした。この日も仕事に行くために、バ
ス停で待っている間に…

今度はナント、××-33、××-22、××-11というナンバーを
つけた車が、この順番で目の前を通過して行ったのです!
(先回と逆の順番ですね。)

しかも、今度も先回同様、3台仲良く並んで。

一瞬、こんなはずが…と思いましたよ。

でも、決して見間違いではありません。

もしかして、この3台のドライバー同士は知り合いで、ウケねら
いでわざとしょっちゅう並んで走ったりしているのでは、と思わ
れた方もいるかもしれませんが…

実は9日の目撃地は仕事先の近くで、自宅とは数十キロ離れ
た場所でしたが、11日のほうは自宅近くのバス停での出来事
だったのです。

この話を母にしてみたところ、普段はシンクロなどといってもあ
まり信じないほうなのですが、結構びっくりしていました。

私自身も、びっくりしてます。

う~ん、やっぱりこれは、天使の仕事なのでしょうか。

シンクロ報告~車のナンバー

2009-06-09 00:55:58 | シンクロニシティー
先週末の土曜日、家庭教師の仕事があったのですが、バスのちょうど
いい時間のがなくて、駅まで歩いて行くことにしました。

私の家の辺りはやや交通が不便で、最寄の駅までのバスの便が2時
間空いてしまう時間帯もあります。(それでもバスが通っているだけ有
難いのですが。)

私は車がないので、月に数回は駅まで徒歩で行くことになるのですが、
4キロほどの距離で、時間にするとだいたい50分くらいで歩くことがで
きます。

50分黙々と歩くというと、退屈そうに思えるかもしれませんが、案外そ
うでもないんですよ。

季節ごとにいろいろな花が咲いているのをながめたり、面白い形の雲
を見つけたり……。

それに、空にはいつも天使のエネルギーの球体があって、どこまでも
付いてきてくれるので、一人で歩いている孤独感がありません。(天
使のエネルギーの球体については、当ブログの「プロローグ~見知ら
ぬ光の訪れ」他で紹介していますので、どうぞご覧くださいね。)

そこへ加えて、最近もう一つ面白い遊びを楽しんでいます。それは、
通り過ぎる車のナンバーのぞろ目を探すこと。

もちろん土曜日もやってみました。探し始めたのは、ちょうど家から駅
までの中間地点を過ぎたあたりで、ナンバーの4けたのうちの、隣り
合わせの2けたが同じ数字の車がどれくらい来るかを見てみたのです。
(例えば、××-00 , 99-××などです。)

すると、なんと、30分足らずの間に、00から99までのぞろ目が全部そ
ろったのです!(これって、結構すごいでしょうか?)

最近、このぞろ目探しをときどきやるようになってから、ぞろ目をやけ
にたくさん見つけるようになった気がするのですが……。

ひょっとしてこれは、私の守護天使のいたずら(天使さん、ごめん!)
かも?

実はきのうの月曜日も、仕事の帰りにバス停でバスを待っている間、
さらにすごいことが……

ナント、××-11、 ××-22、 ××-33というぞろ目ナンバーが3台、
連続して通って行ったのです。しかも同じ方向へ仲良く並んで!

これには思わず笑ってしまいました。

天使がこういうシンクロをアレンジしている場合、それを面白がると、
天使も調子に乗ってエスカレートしてくると聞いたことがありますが、
本当なのかな?

いずれにしても、こうやって楽しみながら、守護天使とのコミュニケー
ションがとれて、天使とのつながりが強くなるなら、それはいいこと
なんじゃないでしょうか。

みなさんも、天使がシンクロをアレンジしていると感じることがありま
せんか?


都市の「精神的空気」

2009-06-04 21:44:17 | ブックレビュー
ブックレビュー:
『東京の地霊(ゲニウス・ロキ)』(鈴木博之著、ちくま学芸文庫)
(カバー写真は東京大学赤門。)

この本のタイトルにある「地霊」という言葉、日本語としては耳
なれない感じですよね。

これはもともと、「ゲニウス・ロキ」というラテン語の訳語で、「土
地に対する守護の霊」(本書、11頁)という意味なのだそうです。

もう少し詳しい言い方をすれば、「ゲニウス・ロキ」とは、「ある土
地から引き出される霊感とか、土地に結びついた連想性、ある
いは土地がもつ可能性といった概念」(同上)ということになりま
す。

本書では、この概念を切り口に、江戸から明治、現代へと変貌
を遂げていく都市「東京」の歴史が描かれています。

それではなぜ著者は、この書き方にこだわったのでしょう?

それは……

一般に、都市の歴史の研究というのは、その大半が、その制度
や都市計画、ヴィジョンの研究であることに、飽き足りなさを感じ
ていたからだといいます。

つまり、それは為政者や権力者たちの視点なのだと。

著者が描きたかったのは、「現実に都市に暮らし、都市の一部分
を所有する人たちが、さまざまな可能性を求めて行動する行為の
集積」(同書、10頁)としての都市、その歴史なのだというのです。

それはまさに、土地そのものの歴史だと言えます。そして、この
視点にこそ「地霊」という言葉がふさわしいでしょう。

さて、著者がこの本の中で取り上げている「東京」の土地は全部
で13箇所あります。その中からいくつか拾ってみると……

第一章   港区六本木の林野庁宿舎跡地(「悲劇の女主人」皇女
       和宮が生涯を閉じた賜邸地)

第二章   千代田区紀尾井町の司法研修所跡地(暗殺された大
       久保利通の怨霊鎮魂のための清水谷公園)

第四章   台東区―上野公園(江戸の鬼門を鎮護する寛永寺:
       江戸における延暦寺)

第八章   文京区―椿山荘(目白の「将軍」山縣有朋の本邸)

第十一章  文京区本郷(東大キャンパスに並存した様々な建築
        様式)

※(     )内はロージーによる補足。


これらの土地はそれぞれ、江戸から明治にかけての時代の変貌
のなかで、濃密な時を経験し、今もなおその跡をとどめている場
所なのです。

例えば、第一章の皇女和宮ゆかりの土地は、江戸時代には武
家屋敷があったのですが、明治維新とともに皇族賜邸地となり、
将軍家茂と死別した和宮が静閑院としてここで余生を過ごすこ
とになりました。

そして、薄幸のイメージがつきまとう和宮の棲家となったことが
影響したのか、この邸地もまた時代の流れに翻弄されることに
なります。

静閑院の死後は東久邇宮家の邸地であったこの土地は、戦後
間もなく国有地化され、林野庁の管理下におかれます。そして、
日本の山林の弱体化の中で林野庁もその力を弱め、中曽根政
権下の民活路線の口火を切る形で民間に払い下げられたので
した。

こうしたことから著者はこの土地を、日本の国土行政の影の側
面、すなわち「地方の過疎化する山林地域の弱体化」と「東京
の地価高騰を生む無策ぶり」(同書、28頁)を象徴するものと捉
えています。

そして筆者は、国有地払い下げの標的になったこの土地の幸
薄さの奥にひそむもの、それを「地霊」(「ゲニウス・ロキ」)と呼
ぶのです。

建築史学者としての著者の議論は以上のように締めくくられて
いますが、さらにここからウィリアム・W・アトキンソン的に話を
展開してみれば、こんなふうになるでしょうか。

すなわち、「薄幸のヒロイン和宮」という存在が、その邸地の行
く末までを幸薄いものにしてしまったのだとすれば……

それは、世の人々が和宮に対してそうしたイメージを抱くことこ
そが、その土地にそのようなイメージの通りのエネルギーを持
つ念の微粒子を引き寄せ、集積させることになった、ということ
です。

これはまさに、アトキンソンのいう、「精神的空気」形成のメカ
ニズムではありませんか。

アトキンソンはこのことに関して、こう述べています。


この念の微粒子は、発した人が死んでも振動し続けます。それ
は太古に死滅した星の光が今も目に見えるのと同じです。臭い
の原因を取り除いても室内に臭いが残るように、ストーブを取り
除いても熱がこもるように、念の微粒子は人の死後も振動し続け、
他人の心に影響を与えるのです。

同じように、家や場所も昔の人の思いで振動し、今生きている人
に多かれ少なかれ影響を与えています。(中略)

このように発せられた念は、振動数の合う他人の念と一つになる
傾向があります。本人の周囲に留まる念もあれば、「引き寄せの
法則」に従って、雲のように流れ、同じ線で思考する人に引き寄
せられる念もあります。

都市の性格はこうして形成されます。住む人の思い全体が、そ
れに合った「精神的空気」を作り出しているのです。(後略)
(ウィリアム・W・アトキンソン『引き寄せの法則 オーラ篇』
徳間書店、20~22頁)

※アトキンソンのこの本に関しては、当ブログの4月5日・8日
付でも紹介しています。


アトキンソンの言っていることが本当だとしたら……

都市にはそれぞれ、その都市ならではの「雰囲気」というものが
ありますが、その正体こそまさに、人の念の微粒子が作り出した
「精神的空気」なのではないでしょうか。

そして、私たちはその「精神的空気」を、その都市の持つ個性とし
て、無意識のうちに感じ取っているのだと思われるのです。

今、この文章を読んでくださっているあなたも、きっと街の醸し出
す独特の空気感というものを感じたことがおありでしょう。

このことに関して、最近、テレビで興味深いものを見ました。5月
30日放映の「オーラの泉」(テレビ朝日系列)の中に「街のオーラ」
というコーナーがあり、その日は東京の神楽坂が取り上げられてい
たのですが、そこにある、一軒の古い旅館は、多くの作家・脚本家
が執筆のために利用してきたそうです。(作家の野坂昭如さん、映
画監督の山田洋次さん、脚本家の早坂暁さんなど。)

出演者の江原啓之さんが実際にその旅館の部屋を見て、こんなこ
とをおっしゃっていました。この部屋からは、神楽坂という街が見え
てくる感じがすると。(表現は一字一句そのままではありませんが、
そんな意味のことだったと思います。)

その部屋は、はっきり言って眺めはよくなく、そういう意味で「見え
る」わけではないのですが、おそらくそこは、気の流れが特別いい
場所なのではないかと思われます。だからこそ、「精神的空気」を
うまくキャッチして、執筆のための着想を得るのにはもってこいなの
でしょう。

よく、作家が新作の執筆のためにホテルに缶詰になったり、お気に
入りの宿に籠もったりするというのを聞いては、「そんな贅沢な。自
宅に書斎があるんでしょ。そこで書けばいいのに」と思ったりしたも
のですが、今回、この本(『東京の地霊』)と江原さんの言葉のおか
げで、「そういうわけがあったのか」と気づいたのでした。

あなたが別段の理由もなく好きな街、なんとなく自然に足が向いて
しまう街があるとしたら……

それはきっとその街の「精神的空気」に引き寄せられているに違い
ありません。