経緯は不幸なれど「オールスターズメモリーズ」を改めて視聴できて嬉しい。
■感想「映画HUGっと!プリキュア ふたりはプリキュア オールスターズメモリーズ」(1/3)
(「映画HUGっと!プリキュア ふたりはプリキュア オールスターズメモリーズ」より引用)
本作は15周年記念作。「プリキュア」シリーズ(特にメモリアル年)は「初期作を見ていた幼児たちの現在」を意識しているように見えます。
10周年の「ハピネスチャージ」では、プリキュアと同年齢になったかつての幼児たちが、現実の不幸に直面します。テレビの中の「プリキュア」世界とは違い、現実は悪意や不幸や失敗で満ちている。
子供時代の大事な玩具が踏み潰され、「使ったら勝ち」のはずのミラクルライトも不幸の前にはじき返される。所詮はただのオモチャ。ガラクタに過ぎないのだから。
そんな厳しい10周年を経ての15周年です。当時の幼児も成人を迎えたり、社会人になったりした。そしていよいよどうしようもない壁にぶち当たる。
元々プリキュアの世界観は「未来は壊れている」だと思っているのですけど、その壊れた未来がついにやってきてしまった。
頑張ればどうにかなるかもしれない苦労とは違う。部活に打ち込んだり、勉強を頑張ったり、友達と協力したりしてきた子供時代の想いが、「不景気だから就職できない」みたいな身も蓋もない横殴りで吹っ飛ばされる。そんな感じ。
実際に本放送当時は、新社会人をテーマにした実写イメージ映像も作られていました。
幼児化した面々に振り回される野乃さんは、「ワンオペ育児で大変」とは苦しみの質が違うように思います。
そうではなく、今までの努力が否定され、上手くいっていたはずのスキームが機能しなくなるような苦しみ。「夫婦で協力して仕事・家事・育児をやってきたのに、全くの不幸で配偶者が病に倒れた」ようなそんな苦しみです。
これまでのやり方が通じない。フェーズが変わったのに、それに追従する武器がない。
「マシェリにミルクを飲ませようとして跳ねのけられる」シーンは特にきつい。
この時のマシェリは、おそらく2歳~3歳ぐらいです。エトワールらが4歳~5歳ぐらいの言動をしているので年齢差を考えると2歳~3歳。また、いわゆる「魔の2歳児」の如き動きをしています。
2歳~3歳の主食はミルクではない。
野乃さんははぐたんの世話をしていますから、いつもなら気づいたはずです。映画冒頭ではぐたんに離乳食を食べさせているんだから、気づかないはずがない。
でもこの時の野乃さんは気づけなかった。疲弊しきって、いつもならできることすらできなくなっている。
ただでさえ困難な課題を抱えているのに、これでは解決できるわけがない。
外部からの問答無用の危機から派生して、体制が壊れ、できていたはずの日常すら崩壊する。
「プリキュア」コンテンツのメインターゲットの年齢の子の前で、心が折れるプリキュア。この絵は辛い。
プリキュアといってもただの中学生なんです。現実の厳しさの前には通用しない。
でも、それでも立ち上がる。
「ただの中学生だ」と言った張本人たる美墨さんが、子供を守るために無力を承知で立ち向かう。15年前の思い出を守るために。今の子供たちを守るために。
雪城さんにミラクルライトが現れるシーンは、何度見ても涙がこぼれます。
もう本当にどうしようもないその時に、子供時代に無邪気に信じた玩具がもう一度だけ力を貸してくれる。
雪城さん視点でいえば、子供に戻されたからこそ、幼少期に置いてきたあの気持ちが、もう一度後押ししてくれた。
現実でいえば、仕事の辛さに泣きそうなとき、ふと整理した押し入れから大好きだった玩具が転げ落ちてきたような、そんな感覚です。
どうにもならないからこそ、あの時の純粋な気持ちが熱く染み渡る。
そして現れる、幼いころに憧れたヒーロー。
客観的にはガラクタでしかない玩具たちが、過酷な現実に向かい敢然と立ち向かっていく。
今週放送のここまでだと「勝てない」のがまた何とも切なく熱いです。黒白キュアは折れずに戦う。でも彼女たちだけでは勝てない。何といっても、所詮は「子供時代の玩具」なんだから。ここからの野乃さんの奮起は、プリキュア史に残る名シーン。気持ちを高めながら、来週を待ちたい。
【蛇足】
「小さくなったアムールだけは良い子にしていた」のは、「ルールーは幼少期(2030年~)に、野乃はなやはぐたんに会っていて顔を知っていたから」だと主張してみたい。きっとボンヤリと「はな社長が若作りしています」とか思ってたんだ。
最終回のあの子と若干雰囲気が違いますが、作画の範囲と言えなくもないはず。
「歴史は変わっていない」説の、ちょっとした傍証に使えると思う。
■感想「映画HUGっと!プリキュア ふたりはプリキュア オールスターズメモリーズ」(1/3)
(「映画HUGっと!プリキュア ふたりはプリキュア オールスターズメモリーズ」より引用)
本作は15周年記念作。「プリキュア」シリーズ(特にメモリアル年)は「初期作を見ていた幼児たちの現在」を意識しているように見えます。
10周年の「ハピネスチャージ」では、プリキュアと同年齢になったかつての幼児たちが、現実の不幸に直面します。テレビの中の「プリキュア」世界とは違い、現実は悪意や不幸や失敗で満ちている。
子供時代の大事な玩具が踏み潰され、「使ったら勝ち」のはずのミラクルライトも不幸の前にはじき返される。所詮はただのオモチャ。ガラクタに過ぎないのだから。
そんな厳しい10周年を経ての15周年です。当時の幼児も成人を迎えたり、社会人になったりした。そしていよいよどうしようもない壁にぶち当たる。
元々プリキュアの世界観は「未来は壊れている」だと思っているのですけど、その壊れた未来がついにやってきてしまった。
頑張ればどうにかなるかもしれない苦労とは違う。部活に打ち込んだり、勉強を頑張ったり、友達と協力したりしてきた子供時代の想いが、「不景気だから就職できない」みたいな身も蓋もない横殴りで吹っ飛ばされる。そんな感じ。
実際に本放送当時は、新社会人をテーマにした実写イメージ映像も作られていました。
幼児化した面々に振り回される野乃さんは、「ワンオペ育児で大変」とは苦しみの質が違うように思います。
そうではなく、今までの努力が否定され、上手くいっていたはずのスキームが機能しなくなるような苦しみ。「夫婦で協力して仕事・家事・育児をやってきたのに、全くの不幸で配偶者が病に倒れた」ようなそんな苦しみです。
これまでのやり方が通じない。フェーズが変わったのに、それに追従する武器がない。
「マシェリにミルクを飲ませようとして跳ねのけられる」シーンは特にきつい。
この時のマシェリは、おそらく2歳~3歳ぐらいです。エトワールらが4歳~5歳ぐらいの言動をしているので年齢差を考えると2歳~3歳。また、いわゆる「魔の2歳児」の如き動きをしています。
2歳~3歳の主食はミルクではない。
野乃さんははぐたんの世話をしていますから、いつもなら気づいたはずです。映画冒頭ではぐたんに離乳食を食べさせているんだから、気づかないはずがない。
でもこの時の野乃さんは気づけなかった。疲弊しきって、いつもならできることすらできなくなっている。
ただでさえ困難な課題を抱えているのに、これでは解決できるわけがない。
外部からの問答無用の危機から派生して、体制が壊れ、できていたはずの日常すら崩壊する。
「プリキュア」コンテンツのメインターゲットの年齢の子の前で、心が折れるプリキュア。この絵は辛い。
プリキュアといってもただの中学生なんです。現実の厳しさの前には通用しない。
でも、それでも立ち上がる。
「ただの中学生だ」と言った張本人たる美墨さんが、子供を守るために無力を承知で立ち向かう。15年前の思い出を守るために。今の子供たちを守るために。
雪城さんにミラクルライトが現れるシーンは、何度見ても涙がこぼれます。
もう本当にどうしようもないその時に、子供時代に無邪気に信じた玩具がもう一度だけ力を貸してくれる。
雪城さん視点でいえば、子供に戻されたからこそ、幼少期に置いてきたあの気持ちが、もう一度後押ししてくれた。
現実でいえば、仕事の辛さに泣きそうなとき、ふと整理した押し入れから大好きだった玩具が転げ落ちてきたような、そんな感覚です。
どうにもならないからこそ、あの時の純粋な気持ちが熱く染み渡る。
そして現れる、幼いころに憧れたヒーロー。
客観的にはガラクタでしかない玩具たちが、過酷な現実に向かい敢然と立ち向かっていく。
今週放送のここまでだと「勝てない」のがまた何とも切なく熱いです。黒白キュアは折れずに戦う。でも彼女たちだけでは勝てない。何といっても、所詮は「子供時代の玩具」なんだから。ここからの野乃さんの奮起は、プリキュア史に残る名シーン。気持ちを高めながら、来週を待ちたい。
【蛇足】
「小さくなったアムールだけは良い子にしていた」のは、「ルールーは幼少期(2030年~)に、野乃はなやはぐたんに会っていて顔を知っていたから」だと主張してみたい。きっとボンヤリと「はな社長が若作りしています」とか思ってたんだ。
最終回のあの子と若干雰囲気が違いますが、作画の範囲と言えなくもないはず。
「歴史は変わっていない」説の、ちょっとした傍証に使えると思う。