サヨコの独り言

興味のあるものを「コンデジ」で撮影しに行ったり、
街で偶然に見かけたものを「スマホ」で撮っています。

《 東国の古墳文化の実像を求めて 》 -大塚初重と明治大学考古学-

2023年07月26日 | 展覧会

この日は東京では35度超の猛暑日でしたが、「明治大学博物館」は駅から近いので思い切って行って来ました。「大塚初重」名誉教授は昨年に95歳で逝去されました。「大塚先生」は「明治大学考古学博物館」の初代館長を務めました。太平洋戦争から復員の後、発掘によって歴史を明らかにする考古学の存在に衝撃を受け、静岡県の「登呂遺跡」の調査への参加を皮切りに、1950年に創設された考古学専攻と歩みをともにする形で日本各地の遺跡の発掘調査とその研究に携わりました。

その中でも、石で古墳の墳丘を築く積石塚が特徴的な長野県の「大室古墳群」未盗掘の状態で壁画が描かれていた横穴式石室が発見された茨城県の「虎塚古墳」をはじめとする東日本の古墳文化を研究の中心に据え、実像を明らかにして来ました。本展では、「大塚先生」が手がけた発掘調査による数々の出土品・調査記録とその関連資料から、その研究と考古学の普及に対する情熱と足跡が伺えました。

「玉里舟塚古墳」の武人の埴輪は上半身と下半身を別々に作り、設置時にはめ込むという特殊な方法で作られています。これは茨城周辺のみで見られる方法だそうです。他に女子・力士・馬を引く人物や円筒埴輪・家形埴輪・馬形埴輪などが出土しました。「箱式石棺」は特殊な二重構造となっています。

「虎塚古墳」の「石室壁画」は「ひたちなか市埋蔵文化財センター」に所蔵されている実物大模型から画像を起こしたものなので、実際の壁画より鮮明に表現されているそうです。凝灰岩の粉末の白土を塗った壁に「赤いベンガラ」で図形を描き、天井石と床石は真っ赤に塗られています。三角文と丸文の他は武器・武具類が描かれているとの事。玄室は全長約3m・天井高1.5m・床面の幅1.5m(いずれも最大値)となっています。

「大塚先生」は現場で「スケッチ」を線描きし、宿舎に戻ってから水彩鉛筆で色付けしていました。何故「スケッチ」をするかというと、「スケッチ」をする為には対象物を確実に見つめないと描けません。観察しながら描くと、不思議と頭の中に特徴がインプットされるそうです。カメラで何枚も撮りまくると、それで安心して観察がおろそかになってしまいます。「スケッチ」は思い出の玉手箱にもなっているとの事。

余談ですが、「大塚先生」は1974年(昭和49年)の48歳頃の時に成田市に転居しました。「成田祇園祭」が大好きで、毎年鰻屋さんの2階を貸し切り、ゼミの学生さんやお弟子さん達と食事をするのを楽しみにしていたそうです。2019年が最後かな、とおっしゃっていたと女将から聞いていました。さっそく、先生が監修した「古代史散策ガイド 巨大古墳の歩き方」の本を持ってサインを戴きに行きました。快く応じていただきました。2020年にコロナ禍で「成田祇園祭」が中止になる前年の事でした。

右上:「三昧塚古墳」の金銅製馬形飾付冠・復元品 / 右下:「大室古墳群」を調査中の大塚氏<1984年>

「玉里舟塚古墳」の人物埴輪  /  「虎塚古墳」の石室壁画   /   「桜井茶臼山古墳」の石室のスケッチ

博物館前の大塚氏<1985年> /  「鳴滝古墳群」にて<2003年> /  「大室古墳」のスケッチ<2003年>

茨城県の「玉里舟塚古墳」  埴輪(上半身) / 埴輪(下半身)  /  箱式石棺

茨城県の「虎塚古墳」の「石室壁画」の実物大模型より  西壁 / 奥壁 / 東壁

スケッチの際に用いた画材(水彩鉛筆と筆で彩色) / 奈良県の「桜井茶臼山古墳」の石室で描く様子

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《 初夏の花便り 》 -5月下旬から6月-

2023年06月27日 | 動植物

暑い日や雨の日が多かったので、あまり外には出掛けませんでした。5月30日から6月に街で見かけた花をまとめました。

「ノアザミ」(野薊)は定点観察をした訳ではないので、全て別の個体です。因みに、「ノアザミ」は食用になるとの事。茎は油炒めや煮物に、葉は天ぷらに、根はきんぴらにすると美味しいそうです。また、生薬としても様々な利用法があります。<5月30日・6月6日・6月18日>

「シロバナシモツケ」(白花下野)の和名は最初に「下野国」(現在の栃木県)で発見されたことに由来。細い「雄しべ」が花びらより長い為、遠くからは霞に包まれた様に見えて素敵でした。遊歩道で偶然に見つけました。<6月6日>

「タチアオイ」(立葵)は梅雨入りの頃に花が咲きはじめ、てっぺんまで花が咲くと梅雨明けの頃といわれています。団地の壁際に咲いていました。<6月18日>

「墨田の花火」は「装飾花」(がく片)が八重咲きの「ガクアジサイ」の一種になります。星形の花が飛び出すような形をしていて、花火が打ち上がって開いたように見えます。マンションの入口の花壇に植えられていました。花殻が殆ど摘み取られていて最後の2輪でした。<6月25日>

「ネジバナ」は庭で草むしりをしていた時に見つけました。小さな花が細長い花茎に密着してつき、花茎の周りに螺旋状に並んで咲くのが和名の由来です。小さいのでウッカリ抜きそうになってしまいました。<6月21日>

「ノアザミ」 つぼみ / 開花(白いツブツブが) / もうすぐ種が飛びます / 飛び終わりました

「シロバナシモツケ」 -細くて長い雄しべが可愛いです- / 丸いつぼみも可愛いです

「ウスベニアオイ」(別名:ブルーマロウ)    /    「タチアオイ」

アジサイ 「墨田の花火」 -花火のように見えます-  /  「ガクアジサイ」<6月6日>

「ハルジオン」の蜜を吸いに来た「ベニシジミ」<5月30日>    /    「ネジバナ」

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《 小幡春生の世界展 》 -成田ゆかりの芸術家-

2023年06月13日 | 展覧会

成田市(旧大栄町)生まれの画家、「小幡春生」(おばた しゅんせい 1920-2006)の展覧会が成田の「スカイタウンギャラリー」で開催されていました。「日本画家」でありながら、油絵にも非凡な技量を持ち、仏画・人物画・美人画・風景画・歴史画・民話画など、多彩なジャンルの作品に取り組みました。美術学校に行ったことも無く、技術力は模写で身につけたものです。多くの模写を駆使して「春生」の画法が確立されました。瞬間に見た光景を3ヶ月間忘れないというのも脅威の能力です。「山下清」?

「小幡春生」は少年の頃に出征し、辛酸をなめながら絵を描き続けました。シベリア抑留中にスパイ容疑を掛けられ拷問を受けました。独房へ戻った「春生」は、いつ死ぬかもしれない自らの魂の救いを求め、傷口から噴出す血で牢獄の壁に「不動明王像」を描き始めました。ソ連将校にその才能を驚かれ、看守長や上官・政治家の「肖像画」まで描くようになり、拷問から開放されました。

その後、「レーピン美術館」の作品を模写する任務を与えられました。さらにその功績が認められ、日本人では珍しい「ロシア共和国功労芸術家賞」の受賞という栄誉を得ました。また、「モスクワ大学」で学生に絵を教えることもありました。帰国後、「戦争の真実」というテーマで自らの戦争体験・抑留時代・敗戦により翻弄される人々の姿を何枚も描いていますが、あまりに悲惨なその情景は色などつけられないと、着色せずに描いたそうです。

戦後、「モスクワ展」(正確な名称は不明)が開催された折には、展示された作品の多くは「小幡春生」が模写した作品だったとも言われています。おそらく「ソ連」は原画は持って来ず、「春生」の書いた 「模写作品」 を日本で展示したのかもしれないそうです(真実は不明)。

帰国後は生活の糧として「肖像画家」となり、政治家や著名人からも依頼されました。1976年頃、アメリカの「ボストン美術館」に所蔵されていた【千手観音画像】の修復の依頼が日本政府にあり、「肖像画」を描いたよしみで「坂田文部大臣」から依頼されました。このとき修復と同時に模写もし、絹本に金箔の裏打ちをしたもの(千葉県立美術館所蔵)と、プラチナ箔の裏打ちをしたもの(個人所蔵)の2点を完成させています。そしてこの後、「日本画」へと急速に傾斜していきます。

岩肌の表現は「川合玉堂 」から、ぼかしは「伊東深水」から影響を受けているそうです。1971年頃、住んでいた横浜市の教育委員会の依頼により「横浜の民話画」(水彩画)を描いています。「PTA横浜」という機関誌に47回、およそ8年間にわたり連載したもので、1987年に一冊にまとめたものが【 横浜の民話集 】として発行されています。

1991年には郷土の「香取神宮」から焼失した【 香取神宮年中行事絵巻 】の復元を依頼されました。実際には50号位の大きな額装された作品10点を奉納しました。また、千葉県ゆかりの偉人である「伊能忠敬」の死後、序文や沿海実測録の浄書など「伊能図」の完成に協力した「久保木清淵」。その7代後の末裔で、「春生」の理解者だった「久保木良」氏との交流が【 伊能忠敬 行跡図 】を描く流れになったようです。

【左】紫式部[日本画]  /  【上】大日如来[日本画]  /  【下】横浜の民話より[水彩画]

【上右】騎馬行軍の図[油彩画]  /  【下中】ソビエト抑留中に、血で壁に絵を描く春生[墨彩画]

【仏画】  不動明王(赤不動)[日本画]  /  釈迦修業図[版画]  /  龍上観音[版画]

【歴史画】  天の岩戸[日本画](香取神宮所蔵)   /   白雪に染む桜田門外の変[日本画]

【美人画・動物画】  舞姫[日本画]          /         猫[日本画]

【香取神宮祭典絵図】  大宮司・大禰参拝の図[日本画]   /   神饌調進の図[プリント]

【伊能忠敬 行跡図】  伊豆測量の図    /    測量図を突き合わせている所?

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《 どうする家康 》 -NHK大河ドラマ 特別展-

2023年06月07日 | 展覧会

家で昼食終了後、「三井記念美術館」に行って来ました。初めて行く美術館でしたが、営団地下鉄の「三越前駅」で降りて、A7番出口から出てすぐだったので分かり易かったです。展示期間が前期と後期に分かれていた為、前期のものは観られませんでした。あまり混んでいなかったので、ゆっくり観る事が出来ました。パンフレットに載っているのは主に前期展示と通期展示のものです。

【プロローグ】・・・ 「大日本五道中図屏風」でたどる家康の足跡

この屏風は8曲2双で江戸から長崎までの街道を描いた鳥瞰図的な長い絵図でした。家康没後30年頃の景観が描かれています。岡崎城浜松城駿府城関ヶ原の布陣久能山東照宮甲斐信濃小田原名古屋城などが描かれ、家康の一生をたどることができました。パンフレットには右から岡崎城浜松城駿府城関ヶ原の布陣久能山東照宮が抜粋して載っています。

【第1章】・・・ 家康誕生 -今川からの独立と三河平定-

「今川義元」像「於大の方」(母)像珍しい町人風の「徳川家康」像などが展示してありました。「徳川十六将図」 は江戸時代を通じて写し継がれて数多く伝わっているそうです。私が観たのは18、19世紀頃の刀鍛冶が描いたとされるもので、名前にいくつか誤記があるみたいです。十六という数は「十六羅漢」など宗教的な影響を受けていると思われます。

【第2章】・・・ 戦国乱世の選択 -今川・武田との抗争-

 「長篠合戦図屏風」 も何種類かあるようですが、後期に展示されていたのは 「長篠・長久手合戦図屏風」 (18世紀のもの)でした。これは渡辺家の注文作とされていて、「渡辺守綱」の活躍が強調されています。ご先祖の武勲をたたえる合戦図となっていました。「落合左平治背旗図」もありました。これは「鳥居強右衛門」の最後の磔(はりつけ)姿を描いた「背旗」を写して「掛け軸」にしたもの。下部に由来と経緯が記されていました。

【第3章】・・・ 豊臣大名徳川氏 -豊臣政権下の家康-

後期の「豊臣秀吉」画像は「豊国大明神」として神格化されたもので、垂纓(すいえい)の冠を被り両手で笏(しゃく)を持った姿が特徴のものでした。

【第4章】・・・ 天下人への道 -関ヶ原から江戸開府-

後期の 「関ヶ原合戦図屏風」 は「大阪城天守閣」所蔵のもの。全面に山と金雲が描かれていて豪華でした。家紋の描かれた陣幕で布陣もうかがえ、奮戦の様子が良く分かりました。家康自筆とされる「水艸立鷺図」(みずくさにたつさぎず)は素人ながら味わい深い水墨画でした。

【第5章】・・・ 大御所時代 -駿府での生活と大坂の陣-

後期の「洛中洛外図屏」は、「伏見城」と「二条城」がともに描かれている珍しい屏風でした。「祇園祭」の「山鉾巡行」や「家康参内」の行列も描かれ、賑やかな様子がうかがえました。「びいどろ薬壺」の中には粉末が残っていて、真ん中の壺に「ちんひ」と付箋が付いているので、胃腸の薬の「陳皮」と思われるとの事。「高台院」(ねね)像は凛とした佇まいの老尼として描かれていました。中立を保ち続け、家康も好意を持っていたようです。

【第6章】・・・ 東照大権現 -家康、神となる-

元和2年(1616年)4月17日、家康が「駿府城」内で他界しました。遺言に従いその日の夜、久能山に遺骸が遷されました。社殿の造営が始まり、神としてられました。神号は「天海」の主張する「天台宗系」の「山王一実神道」による大権現号が、「秀忠」によって選ばれました。朝廷の勅許をえて「東照大権現」に決まりました。「東照大権現像」は上部に「天海僧正」の賛写が書かれていました。

【エピロ-グ】・・・ 御神体 家康の刀剣と甲冑

「金陀美具足」と共に「徳川秀忠」所持の「茶糸威具足」も展示してました。「秀忠」の甲冑は殆ど残っていないそうです。    


大河ドラマ「どうする家康」ブースではドラマの相関図が展示されていました。撮影スポットがあり、記念写真を撮れるようになっていました。

「三井記念美術館」の入口は「日本橋三井タワー」の1階アトリウムとなっていました。近代的な超高層ビルの入り口から、昭和初期の洋風建築である「三井本館」(重要文化財)へと進みます。エレベーターで7階に上がると、当時の雰囲気が残る展示室へ導かれるという感じになっていました。「三越前駅」から「三井記念美術館」へ行く途中に「三越日本橋本店」の入口があったので、【おまけの画像】として載せました。

「金陀美具足」と「大日本五道中図屏風」・部分  /  下:長篠合戦図屏風(最古のもの・連合軍側1隻のみ)

中:関ヶ原合戦図屏風(津軽屏風)  /  左下:びいどろ薬壺   /  上:東照大権現像

大河ドラマ「どうする家康」ブースのパンフレット  /  撮影スポット

「三井本館」(三井記念美術館)  / 【おまけの画像】「三越日本橋本店」の地下鉄コンコースからの入口

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《 弘法大師ご誕生1250年記念大祭 》 -成田山新勝寺にて-

2023年06月06日 | イベント

「成田山新勝寺」では4月28日から6月18日まで《 弘法大師ご誕生1250年記念大祭 》が行なわれています。「真言宗」の開祖である「弘法大師」は、774年6月15日に誕生しました。今年は生誕から1250年(足掛け1250年?)になります。記念として「成田山書道美術館」で『成田山の美術』が開催していました。1858(安政5)年に建立された重要文化財の「釈迦堂」に施された「狩野一信」の複数の大作、及び「成田山文化財団」の所蔵品を含めた寺宝が展示されていました。因みに、「成田山書道美術館」の階段の吊り下げ灯は「筆」の形を模しているそうです。

余談ですが、「宇多天皇」の孫にあたり11歳の時に出家した「寛朝大僧正」は、『平将門の乱』を鎮める為に、939年に「朱雀天皇」の勅命を受けました。「弘法大師」みずからが敬刻開眼した「不動明王」を捧持して京の都を出発。成田の地にて御護摩祈祷を厳修し、結願の日に『平将門の乱』が終息しました。940年、関東を守る霊場として成田山が開山。【新たに勝つ】という意味の「新勝寺」の寺号を賜りました。この事から、「平将門命」が三の宮の祭神である「神田明神」を崇敬する者は、「成田山新勝寺」を参拝しないという伝説があります。

記念事業として 「仁王門」 の耐震補強・「清瀧権現堂」 の保存修理・「天満宮」 の修復などが行なわれました。「弘法大師」をまつる 「大師堂」 では「大塔婆」が建立されていました。「弘法大師」の御手よりつながる「金剛線」が「大塔婆」に結ばれ、五色の帛で飾られています。これを「御手綱」と称し、御手に直接触れてお参りするのと同じとされています。

話は変わりますが、「成田山新勝寺」の「仁王門」の「提灯」は砲金(銅合金)で出来ている為、折り畳む事は出来ません。東京築地の魚河岸の旦那衆が奉納したものです。因みに 「浅草寺」 の「提灯」は和紙です。途中の 「仁王池」 の前には 「江戸町火消し」 による奉納の「狛犬」がありました。左右で「阿形」・「吽形」になっています。視線を感じて振り返ったら、石段の上の方の左右に「獅子岩」が・・・。「江戸消防記念会」が奉納したものだそうです。

【パンフレット】弘法大師像  /  【ポスター】 釈迦文珠普賢四天王十大弟子図(部分・狩野一信)

「書道美術館」の階段の吊り下げ灯   /   「大師堂」では大塔婆が建立され、「御手綱」が・・・

「大本堂」前の広場の両側に吹き流しと庭旗が・・・ /  「三重塔」には「1250年記念大祭奉修」の木札

保存修理された「清瀧権現堂」        /        修復された「天満宮」     

「仁王門」の階段は全部で53段  /  砲金製の「提灯」   /   「提灯」の下側

「江戸町火消し」による奉納の「狛犬」       /       「獅子岩」も阿形・吽形に・・・

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《 片岡美智子 第8回 絵布・浮世絵展 》 -古布で描く独自の世界-

2023年05月30日 | 展覧会

5月30日(火)、「なごみの米屋」にある「成田生涯学習市民ギャラリー」に行って来ました。《 片岡美智子 第8回 絵布・浮世絵展 》が開催されていました。昨年の展示会で初めて観た時、その緻密な手仕事に感動しました。「絵布」とは、日本の着物の古布で絵を描く独自の世界です。目や眉毛・口なども細く切った布を手縫いで縫い合わせてありました。最近では、古い時代の古布が手に入り難くなり、江戸時代の浮世絵を描く事が難しくなって来たそうです。今回は新感覚の布絵も展示。

今回の展示作品で昨年に掲載したものは省きましたので、2022年5月17日の記事をご覧下さい。尚、「すもう」は2022年・新日美展(10月15日~22日)で奨励賞を受賞しました。展示が終わってから出品したみたいです。

おもてなし

羽子板       /       宝つくし     /      助六 羽子板

立美人       /       秋のいこい(竹久夢二)   /   爪を切る女(竹久夢二)

衣桁かけ       /       納涼美人       /      扇子 

芸奴 2018年・新日美展・佳作 受賞  /  おぐらあん  /  帯を結ぶ女

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《 春の花便り② 》 -春らんまん-

2023年05月23日 | 動植物

桜が咲き終わってから、あちこちで色とりどりの花が咲き始めました。まさに「春らんまん」・「百花繚乱」です。4月から5月に咲いていた花をまとめました(順序不同)。

「日本の植物分類学の父」とされる「牧野富太郎」氏の【 雑草という草はない 】という名言がありますが、道端の草にも注目してみました。因みに、この言葉は「昭和天皇」が雑草を刈ったと伝えた侍従の方をたしなめて言った事でも知られています。これは1948年に皇居に「牧野博士」を招いて植物学の進講を受けた事もあるそうなので、影響を受けたのかもしれません。

また、当時20代で雑誌の編集記者をしていた「山本周五郎」氏が「牧野博士」にインタビューした時、「雑草」という言葉を口にしたしたところ、この様にたしなめられたそうです。この事は2022年8月に、「牧野記念庭園記念館」(練馬区)の「田中純子」学芸員らの調査で判明して名言が確認されたそうです。

「チガヤ」(茅萱)はイネ科の植物で道端などで良く見かけますが、近くの公園に群生しているのを初めて見ました。白く光っていて、周りの「ツツジ」とのコントラストが美しかったです。「チガヤ」の茎葉は「茅の輪」や「かやぶき」にも使われるそうです。若い花穂は噛むと甘く、根茎は薬用になるそうです。茎の先に花穂をつけ、実は綿毛がついていて、熟すと風に飛ばされます。

「クリムゾンクローバー」(別名・紅花詰草)は花壇に植えられていました。赤い花色が可愛く、葉は三つ葉になっていました。咲き終わるとモジャモジャして「猫じゃらし」みたいでした。

「マルバシャリンバイ」(丸葉車輪梅)は公園の周りに植えられていました。花が梅に似ていて、葉が枝先に集まって車輪状に見える為この名に。

「西洋シャクナゲ」はツツジ科なので、花の形が「ツツジ」とそっくりでした。でも、花も葉も大きく、華やかで存在感がありました。「成田山公園」に植えられていました。

「ハルジオン」(春紫苑)は道端など何処にでも咲いています。良く似た花で「ヒメジョオン」(姫女苑)がありますが、開花期が違います。「ヒメジョオン」は初夏から晩秋に咲くそうです。「ノアザミ」(野薊)も道端に咲いていました。葉はトゲトゲしていて触ると痛かったです。花はしみじみと見ると可愛いです。一説では触ろうとするとトゲに刺されて「欺かれた」という意味からついた名とも言われているとの事。若い茎や葉・根もそれぞれ食用や薬用になるそうです。「ヒルザキツキミソウ」(昼咲き月見草)は個人宅の石垣の外に咲いていました。

「アイスランドポピー」は「成田山公園」内の「噴水庭園」の花壇で咲いていました。「オルレア」は遊歩道の同じ場所に今年も咲いていました。白いレースで編んだような繊細な感じが好きです。「ペチコートスイセン」は何の手入れもしていませんでしたが、今年も我家の庭で咲いてくれました。

公園に群生するチガヤ(茅萱)  /  近くで見ると・・・ / 段々と開いて綿毛と共に飛んで行きます

クリムゾンクローバー(別名・紅花詰草)    /    咲き終わると「猫じゃらし」みたいに・・・

マルバシャリンバイ(丸葉車輪梅)        /   葉が枝先に集まって車輪状に・・・

ツツジ                    /       西洋シャクナゲ

ハルジオン(春紫苑)      /  ノアザミ(野薊)   /  ヒルザキツキミソウ(昼咲き月見草)

アイスランドポピー      /     オルレア     /   ペチコートスイセン

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《 中国陶磁器展 》 -新石器から清朝まで-

2023年04月11日 | 展覧会

4月11日(火)、「成田スカイタウンギャラリー」で《 中国陶磁器展 》を観て来ました。「おぶせ中国美術館」の元館長、「宋竹仙」氏の指導による「中国陶磁器研究会」である「中和堂会」の主催。その会員の皆様のコレクションの第2回目の展示でした。1回目の時は観てませんでしたが、今回たまたま観る事が出来ました。約60点の珍しいコレクションは見応えがありました。「景徳鎮」窯の陶磁器もたくさん展示されていました。

中国陶磁は紀元前5000年頃の土器の制作から始まり、陶器の発展により青磁・色絵が開発され進化しました。特に唐時代(7世紀~10世紀)以降は、宮廷の必需品として使用されました。宋・元時代(10世紀後半~14世紀)には、交易品として日本やヨーロッパ・中近東・アフリカ北部にまで輸出されました。明・清時代(14世紀~20世紀前半)まで青花(あおばな)・釉裏紅(ゆうりこう)・色絵磁器が進歩発展しました。

【A】左より 黒陶高脚盃 (新石器・紀元前4000~2400年頃) / 彩陶杷手付壷 (新石器・紀元前2600~2300年頃) / 漢緑釉大壷 (前漢・紀元前2~1世紀) / 白磁人物山亭壷 (三国時代・3世紀)  ── 因みに、日本では紀元前3500~2400年頃は「縄文時代」の中期の最盛期でした。「火焔型土器」や「縄文のビーナス」などの「土偶」が製作されました。「吊手土器」や「壺型土器」なども現われ、「縄文」に代わって竹管やヘラで文様をつけた土器が見られるようになったそうです ──

【B】左より 加彩楽人女子座像傭 (北魏・6世紀前半) / 山彩女子傭 (唐・8世紀) / 三彩宝志和尚立像 (唐・8世紀) ─ 顔が3つあります ─ / 三彩猿候と羅漢立像 (唐・8世紀) ─ 猿が頬を噛んで引っ張っています ─

【C】左より 白釉宝相華文水注 (北宋・10世紀) / 銹釉鳳首瓶 (金・12~13世紀) / 白釉鉄絵双魚文壷 (金・12~13世紀) / 殿青釉紅斑文三足香炉  (金・12~13世紀) ─ 内側の青と紫が美しかったです ─

パンフレット【表】 上段左より 加彩女子傭 (前漢) / 黒釉鶏首籠耳瓶 (隋・6~7世紀)

【A】 黒陶高脚盃  /  彩陶杷手付壷   /   漢緑釉大壷   /   白磁人物山亭壷 

【B】 加彩楽人女子座像傭  /  山彩女子傭  /  三彩宝志和尚立像  /  三彩猿候と羅漢立像

【C】 白釉宝相華文水注 / 銹釉鳳首瓶 / 白釉鉄絵双魚文壷 / 殿青釉紅斑文三足香炉

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《 春の花便り⓵ 》 -名残りの桜-

2023年04月03日 | 動植物

今年は桜の満開の時期と天候と私の都合が合わず、電車の窓からの眺めを楽しむだけでした。でも、天気も良く時間が出来たので、「房総のむら」の近くの「坂田ヶ池総合公園」に行って来ました。桜は盛りを過ぎて散り始めていましたが、何とか間に合って春を満喫する事が出来ました。姿は見えませんでしたが、「ウグイス」が競って鳴いていました。

「坂田ヶ池」の桜並木の「ソメイヨシノ」は半分位散っていましたが、まだ「葉桜」にはなっていませんでした。花が散っても「雄しべ」が残っていたので、全体的にピンクが濃い感じに見えました。池の周りに植えられていた「スイセン」も満開を過ぎて萎れかけていました。両方が盛りの時に観たかったです。

「大島桜」は「旧学習院初等科正堂」の駐車場に咲いていました。花と葉が同時に見られるもので、葉は桜餅に使われます。こちらは満開でした。

「坂田ヶ池」に行く途中、道の横の空き地に小さな畑がありました。畝毎に違う作物が植えられていました。「菜の花」の隣の畝の白い花はたぶん「大根の花」だと思います。

「坂田ヶ池」の桜並木  - 池の周りには「スイセン」が植えられていました-

「スイセン」は満開を過ぎ、少し萎れていました  /  「ソメイヨシノ」は半分位散っていました

「旧学習院初等科正堂」の駐車場の「大島桜」は満開でした

畑の「菜の花」   /   隣の畝の白い花は「大根の花」? 

「坂田ヶ池総合公園」 花のテラスの「花時計」 < 12時53分頃 >   /   「ツバキ」の花

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《 絵画展 (千葉県支部展) と写真展 》 -珍しい花との出会い-

2023年03月14日 | 展覧会

3月14日(火)に成田駅周辺で所用があり、ついでに 「スカイタウンギャラリー」 に行って来ました。 《 第18回元陽会・千葉県支部展 》《 野⽼康宏展 》が開催されていました。「元陽会」は1969年に創立の洋画団体です。第54回・全国公募展は12月に「東京都美術館」で行なわれる予定です。

「仏炎花」は10数年に1度開花するという奇跡の花。ロウソクの炎のように、細長い先の尖った円錐状をしている「里芋の花」です。1984年の日照りの年に咲いたそうです。私は、この花を初めて知りました。

「綿スゲ」も珍しい花です。本州中部地方より北の高層湿原で、7月頃に見られるとの事。群生している様子は可愛くて美しいです。絵の中で出会えました。

「野⽼康宏展」の写真は「カンボジア内戦」の時のものです。「野⽼」さんは大学で写真を学んだ後、現地に行ったそうです。戦争で親を失ったり身体に障害を負った子供たちへの支援や地雷撤去活動に携わりながら、写真家としての活動を続けていました。未だにロシアによるウクライナに対する軍事侵攻が続いています。戦争の悲惨さを伝える為に今回の展示に至ったとの事。

「成田山新勝寺」の表参道に新しく出来た「上町 菊屋」の店先に、「鰻」のオブジェがありました。とてもリアルで目を引いたので、思わず足を止めて撮りました。

hope(希望)        /        房総の海

華麗な花「仏炎花」 -10数年に1度開花する奇跡の「里芋の花」-  /  綿スゲ舞う

庭のクリスマスローズ        /        ひまわり

成⽥で⽣まれ育った写真家 「野⽼康宏展」 -戦争と子供たち- 

老舗「菊屋」の新店舗、「上町 菊屋」の店先にあった「お土産メニュー」と「鰻のオブジェ」

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《 浮世絵あらかると展 》 -8つの題材より-

2023年02月21日 | 展覧会

《 第5回  成田写真道場写真展 》のついでに、「スカイタウンギャラリー」で《 浮世絵あらかると展 》を観て来ました。「成田市文化芸術センター」所蔵の浮世絵を、歴史絵・創作絵・死絵・役者演者揃絵・旅風情など、題材を独自に8つに分類して展示していました。約30点の浮世絵は初めて観るものも多く見応えがありました。

①【 歴史絵 】 登場人物や時代背景がほぼ史実に沿った作品

②【 疑似歴史絵 】 登場人物を偽名に変えたり、時代背景を置き換えた作品

③【 創作絵 】 歴史上の登場人物を基に、擬人化や創作を加えた作品

④【 説話絵 】 伝承的な人物・文物が登場する説話的・教訓的な作品

⑤【 人情・忠義絵 】 物語の展開が人情的・忠義心に基づく作品

⑥【 死絵 】 特に七代目・八代目・九代目市川團十郎の死後の功績を称える作品

    八代目市川團十郎は父親の七代目が「天保の改革」で江戸追放になった時、
    父に代わって家を守る親孝行者として「北町奉行所」から表彰されました。
    美貌で絶大な人気を集めましたが、32歳の時に父との大阪での公演初日、
    旅館の一室で突如として自殺しました。動機は諸説あるものの未だに不明。
    展示作品は衝撃的なものでしたが、300種を超える死絵が出版されました。

⑦【 役者演者揃絵 】 役者や演者を客側から桜観するように多数描写した作品   

⑧【 旅風情 】 特に成田山への旅風情を描写した作品

      ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

【 歴史絵 】 信州川中島合戦   -右:武田信玄(中村芝翫) 左:上杉謙信(市川團十郎)-

【 歴史絵 】 新柱建 曽我復讐場   -3大仇討ちの1つ「曽我物語」-

【 疑似歴史絵 】 佐倉宗吾直訴の場   -佐倉義民伝-

【 創作絵 】 根元草摺引   -「曽我物語」の創作舞踊-

【 死絵 】 「此村大炊之助」に扮する七代目市川團十郎  /  八代目市川團十郎自決の場

【 死絵 】 九代目市川團十郎(実名:堀越秀)の死絵   -3枚目には辞世の句が載っています-

【 役者演者揃絵 】 千歳座新舞台仕初図   -睨みを演じているのは九代目市川團十郎-

【 役者演者揃絵 】 俳優新年宴会   -宴会に興じる明治時代中頃の俳優陣-

【 旅風情 】 御禮参り贔屓船の図  隅田川⇒中川⇒江戸川⇒利根川を通って船で成田詣(山は筑波山)

【 旅風情 】 成田山大護摩修業之図   -珍しい堂内の大護摩修業の浮世絵-

団扇

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《 第5回 成田写真道場写真展 》 -鏡面反転の世界-

2023年02月21日 | 展覧会

2月21日(火)、「なごみの米屋・成田生涯学習市民ギャラリー」で《 第5回  成田写真道場写真展 》を観て来ました。『 鏡面反転 』という新しい試みの作品でした。色々な水面に映ったものを撮った画像を反転した作品です。左側が展示作品で、右側が元の画像(注:比較の為に私が作品を反転したもの)です。全部で34作品(12名)ありました。

【 星空 】:ちょうど作品を撮った本人に会えたので、色々と話を聴く事が出来ました。波があると歪んで綺麗に映らないので風が止むのを待ち、鯉の数が少なくなる頃合いを見計らって撮ったそうです。湧水池の対岸の人物が良い位置に来るのを待ったり、タイミングが難しかったとの事。水が澄んでいた為に底の石が透けて見え、反転した時に星空の様な幻想的な雰囲気になりました。鯉が空中を泳いでいて不思議な感じです。

【 トワイライト 】:「逆さ富士」で有名な「田貫湖」で撮ったものです。反転した作品も違和感がありませんでした。

【 早春の旋律 】:夕日に染まった水田を反転した作品で、不思議な世界が広がっていました。

【 並走列車 】:反転した作品の画像が実際の風景と勘違いしてしまいそうでした。

JR成田駅参道口前に成田市観光キャラクター「うなりくん」を描いた郵便ポストが設置されていました。2022年11月30日、クラウドファンディングで集めた116万円を充てて常設の「ラッピングポスト」を設置したそうです。絵は一つに繫がっていました。尚、2021年7月から2022年の3月まで、郵政150周年を記念して作成された「ラッピングポスト」が期間限定で設置されていました。

【 星空 】  撮影場所:山梨県忍野八海

【 トワイライト 】  撮影場所:山梨県田貫湖

【 早春の旋律 】  撮影場所:千葉県神崎町

【 並走列車 】  撮影場所:千葉県神崎町

「うなりくん」のラッピングポスト  -後ろはガードレールに接しています-

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《 収蔵庫のとっておき 》 -明治大学博物館にて-

2023年02月14日 | 展覧会

2月14日(火)、御茶ノ水の病院に行ったついでに、「明治大学博物館」に寄ってみました。企画展《 収蔵庫のとっておき 》が開催されていました。

「明治大学博物館」は、商品・考古・刑事の3部門からなり、1929年の「刑事博物館」の発足から、90年以上の長きにわたって収集を行なって来ました。その総数は45万点にも及ぶそうです。常設展示室で公開されているのは、その内のわずか2000点。広報誌『ミュージアム・アイズ』で連載の【収蔵室から】では、こうした知られざる資料を1998年から紹介して来ました。今回は同コーナーに掲載された逸品の数々から約60点が展示されていました。

【商品部門】瀬戸市は近代以降は第一次世界大戦で壊滅した「マイセン」に代わり、陶磁器人形の「瀬戸ノベルティ」も製造するようになりました。北海道の「二風谷アットゥシ」は「オヒョウ」などの樹皮を割いた繊維で編まれた織物で、国の伝統的工芸品に指定されています。「赤ベコ」などの「赤物玩具」は疱瘡などの病気よけの「まじない」として子どもに買い与えられました。

【考古部門】「杉田遺跡の縄文土器」は縄文時代晩期後半のものです。縄文が無く太い線で文様を描くA類、縄文をすり消し雲形文が単純化したC類などがあります。「亀ヶ岡式土器」は縄文時代晩期のもので、赤や黒の漆を塗ったものもありました。「蓮華文軒丸瓦」は飛鳥時代のものです。「五三桐文軒丸瓦」は豊臣秀吉の時代の大阪城のもので、金箔が貼られた跡がありました。「雨滝遺跡のミニチュア土器」は「土偶」に混ざって発見されたもので、祭祀の場で使われたと思われるそうです。「ままごと」の様な感じで可愛かったです。千葉県で出土した「シャチ」の歯もありました。

【刑事部門】東叡山文珠桜焼討之図」は、「戊辰戦争」の際に新政府軍と「彰義隊」が上野の「寛永寺」で戦った「上野戦争」を描いた錦絵です。「里見八犬伝之内芳流閣之図」は、「南総里見八犬伝」のワンシーンで、「捕者道具」の使用イメージをうかがう事が出来ます。他に治安や裁判・もめ事に関する古文書なども展示されていました。

パンフレット(右は雨滝遺跡のミニチュア土器)  /  「明治大学」公式キャラクターの「めいじろう」

瀬戸ノベルティ「農夫」 / 二風谷アットゥシのテーブルセンター(絵入り) / 赤津焼「織部茶碗」

三春張子「達磨」  /  中野土人形「鯛乗り恵比寿」  /  鹿児島神宮信仰玩具「鯛車」

杉田遺跡の縄文土器A類  /  杉田遺跡の縄文土器C類  /  亀ヶ岡式土器

単弁蓮華文軒丸瓦  /  複弁蓮華文軒丸瓦  /  五三桐文軒丸瓦(大阪城の金箔瓦)

東叡山文珠桜焼討之図

里見八犬伝之内芳流閣之図

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《 雪が降った次の日の富士山 》 -都内某所にて-

2023年02月11日 | その他

発達した低気圧の影響で、前日の10日(金)は日本の各地で雪が降りました。関東地方でも雪が積もりました。でも、次の日の朝には東京都区内では殆ど解けてしまい良かったです。雲一つ無い素晴らしい天気だったので、「富士山」 が綺麗に見えました。周りの山並みもクッキリと見えています。こんなにも立体的に見えたのは初めてです。右に見えるのは「大室山」でしょうか。左に「蛭ヶ岳」も見えるような気がします。右の空には月齢20.3の月が出ていました。(8時40分頃に撮影)

昼から雲が増えて来たので、日没後の 「富士山」 は見えませんでした。18時15分からは「東京スカイツリー」で特別ライティング「My  gift  to  you」が点灯されました(20時30分頃に撮影)。大きなギフトボックスに、赤いリボンが掛かっている様子をイメージしているそうです。近くで見たら、もっと綺麗だった事でしょう。14日の「バレンタインデー」までの点灯。

周りの山並みがクッキリと  /  月齢20.3の月  /  特別ライティング

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《 成田屋 市川團十郎の書と絵画 》 -成田山書道美術館にて-

2023年02月07日 | 展覧会

2月7日(火)、成田山新勝寺に行って来ました。「十三代目市川團十郎白猿」襲名記念として《 成田屋 市川團十郎の書と絵画 》が開催されていました。今回の展示では、成田山に関係する歴代の「市川團十郎」の直筆資料が観られました。歌舞伎の大名跡である「市川團十郎」は代々、同時代の狂歌師や絵師・書家と交流する文化人でした。才能は多岐にわたり、たくさんの筆跡が残されています。会期は1月1日~2月12日。撮影不可だったのでパンフレットのものだけ載せました。

七代目市川團十郎による書です。<福も寿もひとつにあそべ玉の春>と書かれています。上の「壽」の字が蝙蝠(コウモリ)になぞられています。蝙蝠は富貴の象徴でした。尚、「三升」(みます)の模様はパンフレットのものです。

②七代目市川團十郎は成田山に千両の大金を奉納して「額堂」を寄進しました。正面に「せったい所」という自筆の看板を掲げ、参詣者に茶菓子を接待したそうです。

③五代目市川三升(いちかわさんしょう)による「矢の根」の隈取です。九代目市川海老蔵(後の十一代目市川團十郎)によって、死後に十代目市川團十郎を追贈されました。

④九代目市川團十郎によって描かれた「暫」の図です。「目」の一文字は團十郎を特徴づけるギョロリとした目玉の絵文字になっています。

⑤七代目市川團十郎によって描かれたものです。木の枝にぶらさがった猿が水面に映った月を取ろうとしています。<身の程をわきまえないと失敗する>とする故事に由来する画題です。「白猿」という俳号に掛けていて、謙虚さが感じられます。

⑥七代目市川團十郎は子宝に恵まれず、成田山に祈願して男子(のちの八代目)が誕生しました。成田山の御利益であると感謝して奉納したものです。「三組大杯」の三方には定紋である「三升」(みます)が記されています。

⑧八代目市川団十郎によって描かれた「扇面」です。江戸時代に誕生した最後の團十郎になります。

⑩五代目市川團十郎によって書かれた「老人の寝言」は随筆集・狂歌集です。

 

【表】①七代目市川團十郎による書 / ②「せったい所」の招牌 / ③「矢の根」隈取 / ④「暫」の図

⑤七代目市川團十郎画賛幅  /  ⑥七代目市川團十郎による奉納の三組大杯

 

【裏】⑦初代歌川国貞による歌舞伎十八番の「勧進帳」と「景清」 / ⑧八代目市川團十郎による扇面

   ⑨初代歌川国貞による「成田山繁栄の図」 / ⑩五代目市川團十郎による「老人の寝言」

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