店主敬白(悪魔の囁き)

栄進大飯店の店主さがみやがおくる日々の悪魔の囁き。競馬予想や文学・音楽・仕事のグチやちくりまでいろいろ。

そして冬といえば

2008-11-30 00:02:48 | 小説・読んだ本
 またもや、ヤンソンのムーミンシリーズだ。
 「ムーミン谷の冬」
 これもノーテンキな昔のアニメのムーミンとはかなり雰囲気が違う。
 子供向けにしておくの、もったいないよ絶対。
 内容は、シリーズ主役のムーミントロールが、本来はぬくぬく冬眠しているはずの冬にひとりぽっちで目覚めてしまい、そこから自立の、大きな成長の一歩を踏み出す話なんだけどね。
 これに出てくる人たちは、「十一月」同様やはりおもしろい。
 子供の話にありがちな「大人の協力者」(もしくはそれに近いよくできた子供)なんてひとりもいないのだ。
 みんな好き勝手に冬を過ごす。
 そのうえ、オトナ(というか、彼より経験も豊富ないろいろな生き物たち)たちが食べ物や、快適な空間を求めてムーミン谷になだれこんでくる。
 こうなると「難民キャンプ」を任されたようなもんだ。 
 誰も、本当にピンチの時以外積極的に世話を焼いて助けてなんかやらない。
 新作アニメに
♪困ったときにはスナフキン♪
 っていうのがあったけど、そのスナフキンもいない。
 そんな中でムーミントロールは、悪戦苦闘しまくるのだ。
 これはやりたくてもできないような、すごい体験だ。

 で、今回気に入ったキャラはあの、「おしゃまさん」だ。
 訳者が変わってから、彼女は本来のトゥティッキという名前になったけど、おいら的にはあの娘は「おしゃまさん」のままだ。
 あの悟りが入ったような口ぶり、そしてどこをどうするのるかわかんないけど、すでにあの若さで自立して、身を立てて・・・。
 幼い頃のおいらは、そんな彼女に憧れに近いものを抱いていた。
 大人の世界とは別に、独自で生きている彼女の姿に。
 それはとてつもなく大変なことだろうけれど、小説の中の彼女は軽々とそれをやってのけとていたのだから。
 これこそ、ありえないファンタジーだ。
 

この輝かしき奇妙な面々

2008-11-27 00:29:16 | 小説・読んだ本
 トーベ・ヤンソンの「ムーミン」シリーズを、子供のときから読んでいる。
 もう何度読み直したかわからないが、これらの作品には、子供の時には子供の時らしい、そして大人になってからもその時々で違った感銘を受けることがある。
 文体は優しいし、特に流行にも左右されてないから、いつ読んでも読みやすいそのなかに、人生の諸問題(っていうほどの大げさな表現ではないが)や、冒険、哲学までいろんなものが詰め込まれている、奥深い作品である。
 まあ、その中でおいらが一番好きなのは、
「ムーミン谷の十一月」
 なのである。
「楽しいムーミン一家」みたいに心温まる家族の物語でも、「彗星」みたいにロマンスあり冒険ありパニックありのスペクタクルでもないし、「ムーミンパパの思い出」みたいに爽快な裸一貫立身物語でもない、ちょっと地味な作品だ。
 しかも、話の中に実際には「ムーミン一家」は登場しない。
 サブキャラたちだけで作られた物語なのだ。
 だからなんとなく、話は淡々としている。
 ちょうど十一月の、華やかな夏も消し飛び、白く厳しい冬の来る前のちょっと微妙な、間のぬけたような季節・・・。
 ムーミン一家にそれぞれの目的があって「会いにきた」人たちの間でくりひろげられる物語は、個性的なキャラどうしがうまくかみあわなくて、なんとなく人と人との結びつきがズレまくっている。
 十一月のさみしく、もの悲しい風景そのままに淡々と話が進んでいくなかで、なかなかそのズレは埋まっていかない。
 (でも最後には・・・とか書くとレビューで結末バラシはいかんと言われるので、それ以上はナイショ)
 でもその奇妙なズレが、「淡白でつまんない物語」にならなくて、おいらがどくんどん惹かれていくあたりが、小説家としてのヤンソンの力量だ。
 オトナ向けにこの本は楽しい。

 さておいらが登場人物の中で好きなのは、スクルッタおじさんとホムサかな。
 おじさんの強引なまでの自由人ぶり、(親戚一同に宛てた置き手紙は、特に傑作、いいぞ、じんさん!)ホムサのあの年にしてすでに自分の世界を作っちゃっているわけのわかんないすごさ。
 あれだけ大人に媚びずに自分の世界があると、ホムサは、将来すごいアーティストになってるような気さえする。

このドロドロ感。

2008-08-23 09:42:30 | 小説・読んだ本
 最近何冊か、社会の「いま」を描いた小説読んだ。
 別に厳しい現実を社会派ドキュメントタッチに書いてあるものじゃなく、ありふれた日常がはらむ問題や、ありがちな世界の中からじわじわとはみだしてくる「崩壊」について書かれたものばかりだ。
 どれもこれも女性作家だったので、描写は繊細なほどにていねいで、ありがちなものの中にも、それぞれの作家の視線が生かされ、ハッとすることも、そうだよな・・・と思うこともあった。
 でもなんかもの足りない。
 それは何か・・・なんかドロドロした問題を扱っていても、なんか小説の密度が薄いのだ。氷で薄まったカルピスみたいに、なんか足りないのだ。
 足りないと言うのは贅沢かもしれないけど、なんか小説全体から
「汚いものやイヤなものは薄めてしまえ」
 みたいな何かが感じられた。
 読後感、あと味が悪いとまずい・・・嫌がられるってのもあるだろうな。
 そういうの嫌う人、いるらしいし。

 そんな中でやっぱドロドロを書くと面白い、桐野夏生である。
 今回は「メタボラ」
 「グロテスク」「ママ、アイムソーリー」とかに比べると、南国沖縄が舞台なぶん、一見(あの華やかなカバー装丁に騙されるかも)そんなにドロドロでもなそうなんだけど、出るわ出るわ・・・いろんな問題が。
 記憶を失った主人公のドロドロの過去、主人公の「魂の相棒」ジェイクのどうしようもなさ、沖縄と内地の問題、内地から沖縄に来る人たちのハラの中、悪いコじゃないけどうざい女、沖縄を出ようとする食い詰めた連中。
 まあ、そういうのがバームクーヘンみたいに層になって、一見地上の楽園みたいな沖縄世界を作っているのだ。
 でもこの作品は他の桐野作品よりかは少しは明るい。
 その明るさはジェイクの、育ちのよさからくるあの野放図なまでの楽天性からきているのかもしれない。
 これでくたばらずに生き延びろよジェイク、それがギンちゃんの救いなんだから・・・とおもわずおいらも思ってしまうのだった。

偽書というものは・・・

2008-05-19 23:54:03 | 小説・読んだ本
 今回は読んだ本のレビューとは言えないので、ウェブログ。
 最近、ちょっと考えることがあって(どうせロクでもないことではあるが)、偽書についての本を何冊か読んでいる。
 中には「こんなものが出たら社会は迷惑」なトンデモ本や、利己的な目的で出されたものもあるせいか、学問の世界はおおむね偽書には評価が辛い。
 (そりゃそうだマジメな研究なんだから)
 二次創作に甘いのはコミケの世界だけなのか・・・。
 そんなことを考えながら「源氏物語・雲隠六帖」を読んだ。

 これは想像に過ぎないが、作者はたぶん「源氏フリーク」だったのだと思う。
 好きで好きでたまらない話、好きで好きでたまらないあのキャラ…そんなものへの熱すぎる思いが、贋作を書かせてしまったのではないか、とおいらもつい好意的に見てしまう。
 それは何故か、その結末からだった。
 無常に貫かれた本物と違い、これは「ハッピーエンド症候群」そのものの、みんな幸せ・・・な結末。
 個人的にはおいらはそれは好きではない。そして、本来の源氏物語の世界にも似合わないだろうとは思うが、それはおいらの問題だ。
 (なんだ、現実はヒドイから物語だけは幸福にっていう、ハッピーエンド症候群って昔から日本人にあるものだったんだ。何もトレンディドラマあたりから出た現代の新しい流行ってわけでもないんじゃないか)
 好きなキャラを、悲惨な目にあわせたくない、それはやはり「愛」のなせる業だ。もし、世間を驚かしたり、自分を認めてもらいたかったら「限りなく本物に近い偽者」として、「ハッピーエンド」はとらなかったんじゃないのか。
 よりリアルな偽作にそこ、贋作者のプライドは満たされるのだから。
 これはあくまでもおいらの想像に過ぎないけれど。 

同胞すらも裏切って・・・

2008-05-16 21:09:23 | 小説・読んだ本
 先日、中国の食品事情に関する本を読んだ。
「中国食材調査」陳恵運・著 飛鳥新社・出版
 著者は中国から日本に来ている研究者で、これは彼が里帰りするたびに味わう
「裏切りの記録」である。
 別に著者は食品専門の学者でも、食品業に従事しているわけでもない。
 ただ消費者として、普段本土で食べたり、目にしているものについて書いているのだが、著者が嘆くのも無理ないと思うほどに食品がひどい。

 表紙にあったのは、手のひらの上にのった透明な丸い袋の中に、黄色い物体が入っているいるものだった。
 これは著者の説明によると、「ニセゆで卵」。
 つまりこの透明な袋状のものを加熱する白くなり、外見はゆで卵にそっくりになるのだという、まったくの人造品なのだ。
 そんなものが、堂々と本土でもまかり通る。
 そういう国なのだ。
 日本のかつての「人造イクラ」のようには、ちゃんと公表されない形で。
 
 著者は中国人である。
 そして中国本土に実家があり、今は海外で生活している人である。
 里帰りして、ふるさとの食べ物を・・・とか自分の好きなものを食べたい。
 そう思うたびに、アブナイ食べ物にばんばん裏切られていくのだ。
 親戚にあげる高級贈答品の果物にさえも、着色されているという。
 これを「個人がする自由市場」と「国家の手が管理する市場」では多少違うらしいが、そもそもは中国人のおおざっぱな体質が問題なんじゃないか、と批判を投げかけている。
 同胞による批判を、この書にあるような食べ物を作っている人たちは、どう思うのだろうか。
 その批判さえ無視して、さらなる経済的成長を願ってもそれは、「資本家」のやりかたとまったく同じなのに。
 弁護も隠蔽も、もういいよ。
 

エマニエル夫人

2008-03-14 23:38:56 | 小説・読んだ本
 おいらたちの世代にとって、夫人の映画は
「禁断の作品」だった。
 シルビア・クリステルのショートカットのすっきりとした美貌、そしてやってることの大胆さ。
 でも、おいらたちはこの映画が公開されたとき、まだ未成年だったので、夫人はグラビアでしか拝むことのできない、手に届かない女性だった。
 同性でありながら彼女は、ぶっとんだまったく別の世界にいる人だったのだ。
 (男性なら、彼女に手に届かないからこそ、妄想をかきたてられちゃったヒトもいるかもしれない。)
 あとでビデオになったり、深夜映画になったけれど、なんかテレピの小さい画面で拝むと、オトナの世界をのぞきみしたようなありがたみ(何の)がうすいような気がしていた。
 そんな映画の原作が、今は文庫で読めるのである。
 二見文庫「エマニエル夫人」である。
 読んでみて驚いた。
 あのオトナっぽいシルビア・クリステル演じる夫人が、原作では20才前に結婚して、作品の中でも20代前半だったことだ。
 なんだ…まだコギャルを卒業したばかりじゃん。
 彼女は本当に「若妻」なのだ。
 性に好奇心があるのも当たり前っていうか、やりたい盛りなんだよね。
 日本の「元ヤン若奥さん」との違いは、うまいこと上流生活してるってことか。
 そう思うと、禁断のベールの奥にあったほのかな憧れも、見事にぶっとんでいく。(まあ、セレブに憧れる人は別だろうけど)
 それと小説の中で、出会った男のひとり、マリオ(まあ、先導者ってことか)がえんえん語る「性哲学」がウザい。
 やりたいんだったら、それに理屈なんかつけずにやればいいじゃん、それが若さなんだから・・・とかいうツッコミを入れたくなったのは、果たしておいらだけなんだろうか。
 いるんだよ、こういう・・・
「何かやるときに理屈をつけないと、先に進めないタイプ」のヤツって。
 後づけならぬ先づけの理屈にがんじからめになっても、そんなエッチて楽しいのか?
 っていうか、エッチに理念ってあんまり導入しないほうがいいんじゃ・・・。
 まあフランスは、サドがいる。
 「性哲学」なんてものがあるらしいから、なにかウンチクたれないと、文学としてはまずいのか?
 マリオの理屈って、その程度なんだよね、悪いけど。
 別にその理屈がなくても、エマニエルが奔放に、大胆に楽しんだからこそ、あの映画は魅力的だった気がするんだけど。
 

世界地図

2008-01-21 13:21:02 | 小説・読んだ本
 両親がこちらにやってきて、同居をはじめたので県の地図が必要になり、さっそく本屋に行って地図を買ってきた。
 最近は世界地図もずいぶん変わっただろうと思い、ついでに新しく世界地図も購入した。
 それがこの「世界を旅する地図」である。
 ページの半分は世界遺産・美術館・航空路線図など観光に関する資料が多いのだが、それとなく地図のページを読んで見ると・・・
 いや~、おいらの知識って20年前でとまってますね。
 新しい国がばんばんできているのにひたすら驚く。
 最近「キリバス」という国名を耳にしたのだけど、おいらは深く考えずに、
「たぶん旧ソ連とかのほうに新しくできた国なんじゃないのか」
 と思い込んでいたが、この「キリバス」はなんと太平洋上、ニューギニアの隣の隣にある国なのである。(キリバスの皆さん、カンちがいをしていてすいません)
 さらにバカなおいらは、フランスとスペインの間に「アンドラ」という小さな国があることも知らなかったし、ガイアナというのはアフリカにあると思っていた。
(実は南米大陸の、ベネズエラとブラジルの隣にあるんです)
 う~ん、無知だ。世界についてこれほどまでに無知だったとは。
 例として出した上記3国の関係者の方、怒らないでください。
 ちっと反省する。
 反省しながらも地図をめくっていくと、世界のいろんなデータがのっている。
 数字というものはたいへんに露骨に真実を示してしまうものなので、恐ろしく悲惨なことも、これでいいのかと思うようなことも、嘆かわしいと思うようなこともみんな一枚の地図形式の図の上にあらわれているのだ。
 それを見て
「ああそうなの」
 と、単なる知識のひとつとして頭にしまいこみたくなくなりそうな大問題さえ、カラー図版の上に整然と並べられている。
 「知る」ということは・・・
 感動だとか、知識が増えたことに対する満足感とかいうおめでたい気持ちを、どっかに消し飛ばすようなことを、おいらに突きつけているような気がする。
 この世界地図は、ここから何かを知って、お気楽に他人に薀蓄なんかふかせないような別の何かをおいらにくれた気がする、というのはおおげさなんだろうか?

店主には絶対にできないこと

2007-11-13 21:18:01 | 小説・読んだ本
 店主は最近、「ターシャの家」を読んだ。
 アメリカの美しい田園風景の中に佇む古きよき時代のような家に、当時90才近い女性がひとりで住んでいる、その生活の写真集だ。
 写真はプロの人が撮っているので、ながめているだけでも楽しいものだ。
 そこにある植物、ターシャの生活用品。
 ここにはブランドだの美食だの金ぴかなものなんてひとつもない。
 セレブの対極のシンプルで、できるだけ自給自足な、自然と調和する生活。
 自然の厳しさから逃げない、自然を受け入れた生活。
 ターシャはイラストレーターでもあるので、そのイラストも出でくる。
 だけど・・・。

 この生活が美しいと思うのは、
「おいらには絶対にできないから」
 である。雲の上のなんちゃら、である。
 ターシャは服の手作り、庭の手入れ、農作業、料理、イラストの仕事・・・年がいって誰かの手を借りることもあるけれど、ほとんどは自分でこなしているようだ。
 子供や孫と行き来できるほどよい距離に住み、でも基本はひとり。
 少なくとも同居うんぬんとかでもめたりすることなく、対人ストレスがたまらなそうないい生活だ。
 でも、無能なおいらは思う。
「こんなにたくさんなことを、一日にできない」
 そうなのだ、ターシャの多才さがまぶしすぎる。
 

  

うすい膜のかかったような人

2007-10-13 21:47:36 | 小説・読んだ本
 実家の隣のマンションが建ったとき、おいらはぶっとんだ。
 実家とまったく同じような間取りで、数年しか違わないのに値段は3倍。
 横浜の本牧にある、地元の連中だけで細々とやっていた小さな、ロックのかかるバーで飲んでいると、別にロックとは関係なさそうで、やたら金のかかった服をきた「品川ナンバー」の車のやつが、バラバラと店に金を落としていく。
 ライブハウスがばんばん増え、踊りに行く誘いにのると、そこで知り合った知らないオジサンが、どんどんおごってくれる・・・。
 「たかが横浜の片隅で遊んでいただけ」のおいらにもバフルの迷惑と恩恵はちょっとはあったのだろう。
 別にその時代を懐かしいとも思ってないし、(それはやはり、それほどに人生の花盛りがアレ、と思ってないせいかも)一部の小説のようにアレこそが華、アレこそ懐かしい時代とも考えたくない(理由はいろいろあるが、過去ばっか見ててもダメじゃん)しね。
 そんな時代の話が、林真理子の「アッコちゃんの時代」である。
 主人公のアッコは、人も羨む美貌、ついでに適度にいい家柄のお嬢様であの時代を「群がる男たち」によって「楽しく」過ごさせてもらっている。
 ま、本人サイドには不満もあるだろうし、スキャンダルにもなっちゃったので傷ついたりもするので、完全に幸せとは言いがたいようである。

 でも、ここからが問題だ。
 本のコシマキにあるように、
「男を奪ったことなど一度もない。男が私を求めただけ」
 というのは、確かにそうなのだ。
 その点彼女はすがすがしくさえ思える。
 恋に対して、すがりつかない、潔い…そこはステキだ。
 スキャンダルをかぶってさえ、優しさがほのみえる。
 だけど・・・
 同女史の「花探し」の主人公にしても、このアッコちゃんにしても、決して
「狂おしいほど誰かを恋する」
 ことがないのだ。
 おいらがこのブログのタイトルのように思い、イマイチこのふたりに違和感を覚えるのもここなのだ。
 男とはつきあう、フラれたらすぐ次の恋人を探す。
「男がいないとミジメだから」
 誰かとつきあっても、情熱がない。情念がない。
 オシャレだけど、スパイスがきいてない恋しかできない人。
 だからこの小説も、斉藤美奈子が言うところの「援交物語」なのである。
 

地雷女バンザイ

2007-10-02 17:51:47 | 小説・読んだ本
 はい、ひさしぶりに更新してます。
 最近は面白いマンガがなかなか見つからないので、もっぱら古い少女マンガを読み返しています。
 手始めに萩尾望都あたりからはじめてみましたが、こっちは素直に感動。
 いつ見てもネームのひとつひとつさえ新鮮で斬新に思える。
 「ひとつのものをきわめて繊細にていねいに、これでもかと積み上げていく才能」は、この人と竹宮恵子が双璧だと思う。今でも。
特に「ポーの一族」の独特の、ちょっと混乱するような流れのネームを読んでいると、あの世代の複雑でごちゃついた心理をよくあらわしているようで、本当に、「イイなぁ、こういうこと思いついて」
 と素直に感動してしまうのだ。
 で、前置きが長くなったけど、読み返してみておもしろかったのは、しらいしあいの「ばあじん♪(♪はこれじゃないけどさ)おんど」なのだ。
 等身大のオンナのコ、を描かせるとこの人はやっぱりうまい。
 二股かけちゃうような、
「いつかどこかで誰がしちゃうかもしれない罪」をさらりと、カルーく描いてくれるのだ。
 主人公はフツーの家庭にフツーに育ち、年頃になれば誰でものぞいてしまう男と女の世界を、好奇心たっぷりにつき進んでいく。
 ドライだけど単純、醒めてるフリしてぐらぐら揺れる心。
 でもって主人公は、その旺盛なる好奇心と、追求好きな性格のせいか、ばんばん地雷を踏むのだ。
 地雷とは恋人の複雑な家庭環境だったり、恋人の、人には見せたくない心だったり、二股体験だったりする。
 あまりにも地雷を踏むので、
「たいがいにしろよ」
 と言いたくなるのだが、それは「オトナのおせっかい」というものだと思う。
 おかしい、わかんないと思ったことを無理して抑えてゆがんだ方向へいっちゃう
(そういったキャラも、ここには出てくる)よりも、いっそ何度でも体当たりして、そこから新しい道をみつければいい。
 それが若さなのだ、迷いながらも道を行き続ける。
 だから若いってことはステキなのだ。
 だから主人公はさみは、「私たちのはさみ」であるのだ。
 そう思った。

 今は「トラウマ」なんて便利な言葉があって、何でもそのせいにして、何でもそれで解決したことにする。
 だけどはさみは、ごくフツーの家庭で育ち、ごくフツーすぎるぐらいだ。
 そんなトラウマの入る余地はないし、トラウマがらみの恋愛話に疲れてくると、いっそはさみは、すがすがしくさえ思える。
「好きなんだからいいじゃん」
 恋愛の基本は結局コレなのだ。