店主敬白(悪魔の囁き)

栄進大飯店の店主さがみやがおくる日々の悪魔の囁き。競馬予想や文学・音楽・仕事のグチやちくりまでいろいろ。

スコットランドのだめんずウォーカー

2007-07-13 22:20:14 | 小説・読んだ本
 先日「「わが終わりにわが始めあり」といしう本を読んだ。
(麗澤大学出版会/エリザベス・バート著・大藏雄之助訳)
この本はいたってまじめな伝記で、スコットランドの悲劇の女王といわれるメリー・スチュアートのことが書かれているのだ。
 彼女の評価は一般に、「悪女」である。
 世界史の悪女伝・有名女王伝にはたいていそう書いてあるし。
 女王でありながら夫を殺したと言われているのでそれはしかたのないことであるが、この本に出て来る彼女は、「一国を棒にふる派手な男性遍歴」と要約してしまうには、どうも悪に徹しきれていない。
 運命のままに、フラフラと流されているのである。
 しかも、
「自分の欲望のために悪事をやった」
 というよりは、切羽詰って悪事に手を染めているのである。
 全体からすると、まあ見事に悪い方のクジばかり引いている。
 選ぶ男もすべて「問題あり」のだめんずぶり。
 そして自分が育った先端文化の地、フランスの足元にも及ばないような環境、文化的に劣悪のスコットランドの地。
 この本の中のスコットランドに関する記述には、魅力的な夢も、憧れを抱かせるような美しさがまったくない。
 読んでいるほうが鬱になりそうなほど、重く暗い。
 同時代の名君と呼ばれるエリザベス一世にくらべると、補佐してくれる家臣の質もお粗末である。
 こんな八方ふさがりの中で
「やってらんねえよ」
 と男に溺れて(ダメな男を頼って)しまったのが、彼女の悲劇だ。
 美しいが、女王としては欠けているものだらけだった彼女。 
「美の悲劇」
 に読者は弱い。
 それは「美の幸福」「美の偉業」なんかより、凡庸な人間を安心させるからだろうか。 
 

ジパング

2007-02-05 23:13:53 | 小説・読んだ本
 このところカゼをひいて寝ているので、寝ながらつい「ジパング」をまとめて買って読んでしまった。
 おいらのお気に入りは菊池である。
 イノシシみたいな角松よりいいじゃん、などと思っていたらだんだん、菊池がやばいほうへそそのかされていくので、おせっかいなばあさんのおいらは、
「そんなんじゃいけねえよ」
 などと気をもみながら読んでいるのである。
 そんなことを言ってると、
「おまえは真剣にこの作品から何かを考えないのか」
 とかマジメな読者に怒られそうだけど、おいらのようにふまじめに邪道な読み方をしてもこの作品はおもしろい。
 それがかわぐち氏の力量だと思うんだけど。

 ちなみにうざいのは滝。
 「いいかげん草加の呪縛から離れろよ、あんた草加よりいいものいっぱい持ってるじゃん、これ以上何が欲しいの?」
 といいたくなってくるのだが。滝、さてどうするか???
まだ途中までしか読んでいないが、しばらくは引越し中というのに読みふけってしまいそうである。
 

花も実もない人生だけど

2006-12-06 13:45:29 | 小説・読んだ本
 おいらがおもろいと思う女性エッセイの双璧は、佐藤愛子と中村うさぎである。
 このふたりには女性エッセイストがやりがちな、瑣末事をねちねちと「感性」とやらでうざいほど掘り返したり、ちょっと他人と違うことを発言してみて
「ほら、私ってこんなに個性的なの」と言わんばかりのいやみな不思議ちゃんぶりっ子なところがなく、己の人生に対してひたすら力技で進んでいくさまを、これでもかとばかりに叩きつけけてくるからだ。
 その何かに立ち向かう姿は、双方とも格闘技ゲームの勇者のようにすがすがしくさえある。
 まあ、ふたりはかなり志向性が違うし、中身も佐藤愛子は柔道の投げ技、中村うさぎはひたすら格闘技、のようなカンジがする。
 そんな浪費界の勇者中村うさきが、この本の中でまたいいことを言っていた。
 「自分の部屋は拡大された自我像である」
 の中に出ていた、このひとことだ。
「私のような人間は、きちんとした自我像を持てず、混沌とした自意識の中で生きているせいで、部屋の中も混沌として荒れ放題なのだ」
 おお、そうか、おいらの部屋の中が汚いのも(時間がないってのもあるけど)混沌のせいなのか・・・じゃなくてその混沌をなんとかしろよって。
 まあおいらは、その混沌の中からときどきいろんなものを取り出して眺めるのが好きなんだけどさ。
 そこがおいらと中村うさぎの違うところだ。
 中村うさぎはその混沌と格闘し続けている。
 矢折れ、弾尽き刀がボロボロになるまで・・・。
 だから勇者なのだ。だからおいらは自分のできないことをする中村うさぎが好きなのだと思う。

結婚詐欺師 クヒオ大佐

2006-07-01 09:43:32 | 小説・読んだ本
 以前からこの「自称米軍パイロット」の詐欺師には興味があったのだが、とうとう彼に取材し、小説化してくれる人があらわれた。
 それがこの本である。
 半ドキュメンタリー+半小説で、まるでクヒオ大佐そのもののように現実とフィクションの境界がごちゃごちゃになっている。
 おもしろいのは被害者がみんな「小金を持った一般庶民」だということである。
 決して「元華族」だの名家の令嬢だのはいないのだ。
 まあバレたらやばいからそんな人は狙わないんだろうけどね。
 好景気時代の豊かな生活で、ある程度の金は手に入ったから、次は名誉・・・クヒオはそんな人たちの無意識の欲望につけこんで金をまきあげた気がする。
 しかし読めば読むほどクヒオという男は堂々めぐりなのだ。
 「退役したことにして内縁の妻の実家で暮らす」と言いながらも、その口が乾かないうちに「手柄話の自伝を書く」・・・もう自分が自身のついたウソから逃げられなくなっているのだ。
 一度自分が壊してしまった現実と妄想の間の壁は、二度ともとに戻らないということだろうか?作者や内縁の妻がその壁を構築しなおそうとあがく傍らでクヒオは平然とまだ「クヒオ大佐」を演じているのだ。
 冷静な他人から見れば簡単に見破れるウソなのに・・・。
 今さらそんな彼を更正なんてとても無理、誰もクヒオの虚構の世界を崩すことはできないのでは・・・そんな徒労感に襲われそうになる。
 

 


図書館の本に落書き

2006-05-20 02:33:36 | 小説・読んだ本
 今週は休みなので、図書館に行った。
 非公開の書庫の中に読みたい本があったのでそれを借り出してきたところ、ごていねいに赤鉛筆と黒鉛筆のダブルでラクガキがしてあった。
 生出寿の「不戦海相 米内光政」である。
 よく推理小説本の登場人物の特定のとこに「犯人はこいつ」とか書いてあるのは見かけるけど、(それもかんべんだが)このラクガキは完全に「感想コメント」の類だった。
 まず赤鉛筆で重要と思われる文章に線を引き、その線が終わったところに黒鉛筆でコメントが書いてあるのだ。たとえば、
「今後さらに・・・(中略)これを特攻として使用すれば決して負けない」
 という文章に赤線が引かれ、そのあとに活字ようりたいぶ大きな字で「迷惑至極」だとよ。
 赤線だけでもジャマなのに。オマエのコメントが読むほうには迷惑だっていうの。
 前に読んだ人もこういうのを不快に思ったのか、コメントをだいぶ消しゴムで消してあったけれど、
「立憲君主制度は国民にとって有難迷惑」
 というコメントなどは、怒りに任せておもいきり筆圧強く書いたのか、消しても跡が残っていて何を書いたかばっちりわかってしまった。
 こいつはやたら本の内容(第二次大戦中の政治情勢)に「迷惑」とツッコミを入れているのだが、おもわず頭にきて、
「おまえのラクガキが一番迷惑」と書き足してしまいたくなってきた。

 この本は一体どこから来たのだろう?
 かつての持ち主がさんざん読んでブーたれた後図書館に寄贈したとか、もともと中古本を図書館が購入したのなら話はわかるが(でも本の本体にブーたれたところでしょうがないと思う)、もしまっさらの本に借りたヤツがばんばんこんなコメントを書き込んでいるとしたら、薄気味が悪い。
 というか、脳みそが壊れてるのはあんただよ、と言いたくなる。
 まあ、ラクガキウォッチングもいいかもしれないと思い、おもろいのがあれば今後ここに晒してやろうかと思う。
 そういえば図書館のカウンターの上に「(ラクガキもそうだが)みだりに線を引くことは正常な鑑賞の妨げになる」というような内容の、えらい人の言葉を借りた張り紙がしてあったっけ。 

バカは世界を制す?

2006-03-31 01:08:12 | 小説・読んだ本
 最近阿川弘之の「米内光政」「山本五十六」「井上成美」の海軍提督3部作をまとめて読むという暴挙に出たおいらは、内容の重さにちっと疲れてしまった。
 確かにこの3冊は読んでおいて損はない、というか読んでよかったと思う。
 少なくともあの戦争の時代に挙国一致で戦争に突入したのではなく、日独伊三国同盟、米英との戦いに反対していた人は軍の内部にもいて、必死でそれを回避しようと試みていた人がいたということを、よく知ることができてよかったと思う。
 ただ一言言っておく。
 山本五十六のラブレターをマスコミにバラした女、それはマナー違反だぞ。
 おいらはそのラブレターを見て、彼の中にこんなかわいい、純粋な面があったことを知ってそれもよしと思ったが、相手は公人だし、そういう公人の遊びを苦々しく思うヤツやスキャンダル扱いして騒ぐ無粋なヤツも世の中にはいるんだぞ。
 それにつきあった男のことを他人に自慢するのはよせ。
 どんなにその男のことを褒めても、それが自慢に変わったとたんその男まで穢れる。もちろん穢してるのは自慢した女だ。
(あっ、一言じゃねえや7行も言ってる)
 
 そこまではいいのだが、さすがにあの部厚い本を3つとも読むと、食後のおやつのように軽いものが欲しくなってしまったのだ。
 そこで読んだのが「バカ日本地図」「バカ世界地図」だ。
 これはインターネットで読者が参加して作った「バカな人が思い浮かべたときの脳内地図」なのであるが、これがものすごく笑える。
 思わず電車の中で噴出して白い目で見られてしまったほどだ。
 いや~、バカはとっても想像力が豊かだ。
 バカには常識がないので、やり放題に日本が解体されていく。
 奈良の大仏の向きなんて地図上ではどうでもいいじゃねえかと思うのだが、バカにとっては自分の知っている知識はどんな重大な情報や偉人の格言より重要であるらしいので、大仏の向きひとつにもすぐ注文が入って地図が訂正されていく。
 そしてさらに地図はメチャメチャになり、ただ笑うしかなくなっていくのだ。
 とても無知のひとことでは済ませられないバカのとっぴょうしもない想像力で作成された地図を見て、重くなっていたおいらの心には、無駄なほどまぶしくて明るい光が差してきた。
 そしてバカは日本人だけではないのだ。
「ゆとり教育で学力が落ちている」なんて言うけれど、外国にも国名を記入するはずが海の釣り情報を書いてきたり、「自分の国は世界でナンバーワン」とかほざきながらも、自国の位置すらわかっていないバカがいるらしいので、まだ安心していいかもしれない?
 バカは世界中にいる。そしてバカは驚くほど共通している。
 もしかしたら世界平和と友好のためには、こんな形でバカ同士が楽しく交流したほうがいいのかもしれない?
 

どうもなぁ

2005-12-06 22:15:43 | 小説・読んだ本
 はいはい、ほぼ一ヶ月ぶりの更新のついでに今読んでいる本です。
 相変わらず「平家物語」関係の本が多いのですが・・・。
 いや~この一年「便乗義経本」がいっぱい出たせいで、平家物語に関しての本もけっこうありましたな。
 おいらが初めて平家物語を読んだのは小学生のときですが、それから何回か平家物語を読み返したり、現代の作家が平家物語に因んで書いた小説もいくつか読んだりしたのだか・・・。
 読書は読み手の年齢によって受け取り方が違ってくる、ということはよくわかっているんですが、平家物語に関してはおいらの中でほとんど変わっていないひとつの思いがあるのだ。
 それは、
「平時子は好きになれそうにない」
 ということだ。
 これは以前に書いた立原正秋の小説で、おいらがどうしてもふざけたことをする悪役女性に目がいってしまうのと同じなのかもしれない。
 良妻賢母は読んでいて非常に退屈なのだ。
 たとえヒロインのまわりを美しい光景が囲んでいようと、本当に同情したくなるような悲劇的な事件が起きても、最初からそういうキャラの反応はおもしろくないので、美しいものや驚きの事件で良妻賢母型のキャラを飾りたてても、なんとなく魅力がなくて空疎な気がするのだ。
 まあ別においらに愛されなくても、平時子は永井路子先生はじめいろんな方が、時子サイドに立ってすばらしい小説を残してるからさ、いいじゃん、それで。
 じゃ、なんでおいらが平家物語をしょっちゅう読んでいるのかといえば・・・
「平家物語は珍事件の宝庫」だからかもしれない。
 (そもそも平家が政権を握ったことからして、当時の世の中では「珍事件」なのだ。そして長い天皇家の歴史の中で、院政続きというこの時代も珍事件と言えなくもないと思う)
 あの時代は動乱の時代=珍事件の時代なのだ。
 こんな乱暴な考え方をするおいらだが、やはり何度読んでも平家は面白い。
 他にもいろいろ魅力はあるんだけどね。
 
 
 
 

古事談

2005-09-24 22:06:22 | 小説・読んだ本
 今回読んだ古事談は、中世に成立したといわれる説話集のひとつで、有名な「今昔物語」や「宇治拾遺物語」と題材がかぶっている作品もいくつかあるので、読んだことのある話が多いかもしれない。
 天皇・貴族・僧侶などの伝記から、有名な建物の縁起やエそれにまつわる話・芸能スポーツの話まで広くカバーしたこの本は、今昔物語などが「おとぎ話・ファンタジー」と(一部の人に)美化されているのにくらべ、とてもなまなましい。
 だいたい、第一巻の第一話・・・冒頭からいきなり放送禁止話である。
「この人、こんなヘンなことで名前を残して・・・」
 と言いたくなるような話が他にもてんこ盛りなのだ。
 あの「この世をばわが世とぞ思う」の藤原道長に対抗した清廉な政治家といわれる藤原実資でさえ、作品のタイトルにでかでかと「女好き」などと叩かれている。
 そう、これは夢のある説話を並べたキレイな本などではない。
 中世版「噂の真相」なのだ。

 そう思って読んでいるうちに、おいらはふと考えた。
 昔はそれほど印刷技術が発達していなし、多くの人は本を、もとの本から「書写」して読んだのである。
 そうやって本のコピーが生まれ、また書き写されてコピーのコピーが生まれてのくりかえしで古典は世に伝わったのである。
 そして自分が書き写すことを考えると、一話でいきなり下ネタが出てきたら、それを書き写すのって、とても恥ずかしいんじゃないのか?
 おいらは、そんなことをこらえつつ?この本を書き写して後の世にまでつたえた人に、ちょっと脱帽した。 

この痛ましき女性

2005-07-13 22:23:47 | 小説・読んだ本
 「花衣ぬぐやまつわる・・・」
 という田辺聖子氏の本を読んだ。
 昭和初期の女流俳人、杉田久女の評伝で、以前にここに書いたシルヴィア・プラスのときと同じように非常に痛ましい生涯を送り、不遇のまま世を去った様子をていねいに書いてある。
 また、今までの伝記が、師匠である高浜虚子サイドから流れ出た話をもとにしてあるので、ずいぶん誤解されてストーカー扱いされたりしていたり、師匠サイドの圧力で句集もなかなか満足に出せなかったらしい。
「自分は何故認められないのだろう」
 才能ある女性なら、この苦しみは重い。
 しかもこの女性の夫も浮気したヒューズほどではないが、この作品の中では、精神的に落ち込んでいる彼女をさらに追い詰めるような言動をじゃんやじゃん吐き、やたら外ヅラだけはいい。
 今度は夫側の関係者から抗議がくるんじゃないかと思うほど「女性の才能に理解のない加害者」として描かれている。
 だがここで問題になるのは「折り合い」だ。
 アホ夫(ときとして利用価値はあったみたいだが)をどうにかして、師匠に頼りきらずになんとかする道・・・それが「折り合い」だと思うのだが、この女性はシルヴィア以上に依存心が強かった。
 自我も強かったが、師匠・カタチを変えた家族への依存をぬけ切れなかったので最後まで夢を見続けたところが、戦い続けて自爆したシルヴィアとの違いかもしれない。
 読んでいくうちに、あまりの痛ましさ、不器用さに悲しくなってきた。
  でもその痛ましさの中から、清冽な数々の俳句ができてきたのかと思うと、
「忍耐は創作に必ずしもマイナスでもない、でも決してプラスでもない」
 そんなふうに考えてしまった。
 師匠の側も師匠の側だ・・・。
 迷惑な手紙をさんざん寄こされて彼女を切り捨てのはしかたないけれど、何かうす暗い。
あわてて死後にいろいろしてやったみたいだが、もう少し生きているうちになんとか彼女をいい方向へ導いてやれなかったものか?
 このあたりに師匠の傲慢さがちらちらするのだが。
   

悲しい家族探し

2005-06-16 00:53:43 | 小説・読んだ本
 「男女7人ネット心中」という本を読んだ。
 今もなお次々と起こるネット心中を扱った本で、この中の主人公ともいうべき「マリア」という女性がたどる道を追いかけていくと、愕然とする。
 かつては有名ミュージシャンの妻で、自身も才能あるミュージシャンであったにもかかわらず、彼女はどんどん追い詰められていく。
 悲惨な家庭環境を脱出したかと思うと、結婚して作った家庭が破綻し、自分の病気のせいにされて子供をとりあげられる。
 そのうちに知り合った少年、女性とそれぞれ擬似家庭のような同居生活に入るが、それも相手の思わぬ自殺やトラブルで破綻し、また彼女はひとりで取り残される。
 いくら音楽の中で悲痛な「魂の叫び」をはじきだしてみたところで、「そうだそうだ」と共感してくれるファンはできても、彼女自身にさしのべられる「家族」の手はないし見つからなかった・・・。
 誰かを癒し、慰めることはできても自分のことはどうしようもないのだ。
 「芸術家の孤独」なんていうありきたりのものではない。
 生きれば生きるほど絶望が深まっていく。
 あまりに痛ましい人生だ。

 彼女は最後まで「家族」が欲しかったのだ。
 血縁で結ばれてなくてもいい、ただ自分を愛してくれる人が欲しかったのに。
 そして「心中」すら彼女にとっては「家族探し」であったことが、この本を読むとわかってくる。
 仕事がうまくいかないとか破産とか、何かを壊したから死ぬのではなく、彼女は仲間と死ぬことによって「自分が作った家庭の絵」を完成させようとしたのかもしれない。
 何かを探し続け、すくい取ったかと思うとすぐこぼれていく砂のように、さまざまな人が彼女と関わり、彼女のもとを去っていく。
 そしてその砂に似たものをすくい取るたびに確実に彼女は傷ついていったのだろうと思う。
 それを思うと悲しい。合掌。