今日は1月17日。阪神淡路大震災が発生した日です。そして、僕にとっても、一生忘れないであろう日でもあります。
平成7年1月17日。神戸で大地震が発生したその全く同じ日に、僕は結核で入院したのでした。
社会人になって三年目。僕は滝簾太郎の出身地として知られる竹田市に、一人で住んでいました。
その前の週末から発熱が治まらず、休日明けだったその日の朝、仕事を休んで近所の診療所に行きました。待合室のテレビで、初めて神戸で大地震が発生したことを知り、驚いて見入った画面には、燃え盛る長田区の街並みの映像。「全く消防活動ができません」との現場記者の悲鳴にも似た実況が、耳をつんざきます。
これは、えらいことになった…。
朦朧とした頭でそんなことを考えていると、診察室に呼ばれました。
院長先生が開口一番
「あんた、えらいことになっとるよ」
ああ、地震ですね。本当にえらいことになりましたね…。
先ほど撮影した、レントゲン写真を示されました。
我が目を疑いました。
右の肺が、ほぼ全部、真っ白です。
肥り過ぎると、レントゲンまでこんな風になるんだあ…なんて、おバカなことを考えている僕に、院長が更に説明を続けます。
「詳しい検査をしないと断定できないが、まず、間違いなく結核だ。今すぐ入院の必要がある。」
…えっ?
「独身だから、親元に帰って地元の病院に入ってもいいが、どうするね?」
とりあえず、その日はその診療所に入院し、翌日、駆け付けた両親の手により地元の総合病院へ転院。そこで色々検査をされて、結核性胸膜炎との診断を受けました。
呼気からは結核菌が検出されなかったため、専門病院の隔離病棟行きは免れましたが、その後、手術のために更に転院した大分市内の病院と併せて、一ヶ月半に渡る入院生活を送る羽目になりました。
これまで書いたことはないと思いますが、僕は、大学時代を京都で過ごしています。
だから、自分の身体のことはともかく、震災で被災者となったかもしれない、大学の友人の安否が気にかかりました。とは言え、携帯電話も持っていなかった当時、自分からは全く連絡を取る手段もなく、ただ、やきもきするばかりの日々を送っていました。
ベッド備え付けのテレビから伝えられるのは、想像を遥かに越える惨状と、ひたすら増え続ける被害者の数。熱でうかされた身体を抱えて、何ともいえない毎日を過ごすしか、ありませんでした…。
1月17日。
僕にとっては、一年で最も厳粛な気持ちになる日です。
平成7年1月17日。神戸で大地震が発生したその全く同じ日に、僕は結核で入院したのでした。
社会人になって三年目。僕は滝簾太郎の出身地として知られる竹田市に、一人で住んでいました。
その前の週末から発熱が治まらず、休日明けだったその日の朝、仕事を休んで近所の診療所に行きました。待合室のテレビで、初めて神戸で大地震が発生したことを知り、驚いて見入った画面には、燃え盛る長田区の街並みの映像。「全く消防活動ができません」との現場記者の悲鳴にも似た実況が、耳をつんざきます。
これは、えらいことになった…。
朦朧とした頭でそんなことを考えていると、診察室に呼ばれました。
院長先生が開口一番
「あんた、えらいことになっとるよ」
ああ、地震ですね。本当にえらいことになりましたね…。
先ほど撮影した、レントゲン写真を示されました。
我が目を疑いました。
右の肺が、ほぼ全部、真っ白です。
肥り過ぎると、レントゲンまでこんな風になるんだあ…なんて、おバカなことを考えている僕に、院長が更に説明を続けます。
「詳しい検査をしないと断定できないが、まず、間違いなく結核だ。今すぐ入院の必要がある。」
…えっ?
「独身だから、親元に帰って地元の病院に入ってもいいが、どうするね?」
とりあえず、その日はその診療所に入院し、翌日、駆け付けた両親の手により地元の総合病院へ転院。そこで色々検査をされて、結核性胸膜炎との診断を受けました。
呼気からは結核菌が検出されなかったため、専門病院の隔離病棟行きは免れましたが、その後、手術のために更に転院した大分市内の病院と併せて、一ヶ月半に渡る入院生活を送る羽目になりました。
これまで書いたことはないと思いますが、僕は、大学時代を京都で過ごしています。
だから、自分の身体のことはともかく、震災で被災者となったかもしれない、大学の友人の安否が気にかかりました。とは言え、携帯電話も持っていなかった当時、自分からは全く連絡を取る手段もなく、ただ、やきもきするばかりの日々を送っていました。
ベッド備え付けのテレビから伝えられるのは、想像を遥かに越える惨状と、ひたすら増え続ける被害者の数。熱でうかされた身体を抱えて、何ともいえない毎日を過ごすしか、ありませんでした…。
1月17日。
僕にとっては、一年で最も厳粛な気持ちになる日です。