落合順平 作品集

現代小説の部屋。

農協おくりびと (92)ひとり旅の、奈良 

2016-01-08 11:39:36 | 現代小説
農協おくりびと (92)ひとり旅の、奈良 




 前夜の22時30分に群馬を出た高速バスは、午前8時。
奈良ロイヤルホテルの前に着く。
乗車時間は、9時間半。
3列の独立シートに揺られてきたバスの運賃は、6800円。
「ありがとうございました」と運転手に一礼してから、ちひろがヒョイと
奈良のアスファルト路面に飛び降りる。



 「へとへとになるかと思ったけど、夜行バスの乗り心地も捨てたもんじゃありません。
 新幹線と特急、在来線を乗り継げば、群馬から奈良まで4時間10分。
 さすがに時間は速いけど、料金は片道だけでも、18000円。
 帰りも高速バスを利用すれば、15000円でもお釣りがきます。
 光悦が帰省のたびに、バスを利用する意味がようやくわかりました」



 路線バスに乗り、10分ほどで近鉄の奈良駅に着く。
光悦のいる長谷寺までバスも電車も、直通便はない。
最低2回の乗り換えが必要になる。
「バスの乗り換えは、初めての人間には難しい。ホームで確認しながら、
電車を乗り継いだ方が、お前さんには無難だ」と光悦は笑った。



 乗り換えの手順は夜行バスに乗る前から、何度も確認している。
旅慣れた女を気取り、よどみなく、長谷寺駅までたどり着けるはずだったが、
やはり途中で何度も苦戦した。
特急と準急を上手に乗り継げば、50分ほどで長谷寺駅に到着するが、
普通電車ばかりを乗り継いでいくと、倍の1時間30分もかかる。



 長谷寺駅は傾斜面に建っている。
そのため、北側にある駅舎は、ホームよりほぼ1階分ほど下になる。
ホームは階段で連絡しているが、改札は1ヶ所のみだ。
ようやくの思いで到着した改札口で、ちひろがほっと安堵の溜息を吐く。



 胸のポケットから、もう1枚のメモを取り出す。
「迎えに行くから、駅に着いたら電話しろ」と言っていた光悦を制して、
メモを取るからと大丈夫と言い切った、長谷寺までの道順のメモだ。



 ① 近鉄大阪線長谷寺駅で下車。

 ② 駅から近道と書かれた坂道、階段を300mほど下る。

 ③ 国道165号、初瀬の信号を横断。

 ④ 県道38号に入り、橋を渡る。

 ⑤ 県道38号に沿って右折。前方に初瀬の街並みが広がる。

 ⑥ 初瀬の街並みを見ながら、1kmほど直進。

 ⑦ 橋が見えたら左折。

 ⑧ 正面が長谷寺。




 歩いておよそ、15分~20分と書いてある。
長谷寺は季節の花が美しい、花の寺として知られている。
歴史は古く、万葉集にも詠われている。
まじかに見える初瀬の山並みは、四季を通じて素晴らしい。


(はるばる遠くへ来たもんだ・・・さて。
さんざん乗り物に揺られてきたんだもの。気分転換に少し歩くのもいいでしょう)



 ちひろが旅行用に買い込んだ、ピンク色のミニリュックを背中へ回す。
中身はほとんど入っていないから、ふわりと軽い。
3日間の有休をもらってきたが、用事が済めば、今夜のバスでトンボ返りをする予定だ。
駅前の空気を胸いっぱいに吸い込んだちひろが、「さて、行くぞ」とこぶしを握る。
目の前にひろがる初瀬の町並みにむかって、元気いっぱい、
下りの道を歩き出す。


(93)へつづく

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