北へふたり旅(32)
「ストレスが溜まっているそうですね?」
10時休み。2人だけの時間。
ビニールハウスの中でSさんへ語りかけた。
「女房から聞いたのか。
さいきん何を考えているんだか、自分でもわからないときがある」
「悩みの原因は、3人目に来たトンですか?」
「鋭いな。ド・ストライクだ」
「見ていればわかります。イライラが丸見えですから」
「実はな。困り果てて派遣先に、チェンジしろと申し入れた」
「スナックの指名じゃあるまいし、チェンジなんて有りですか?」
「おまえさんだってわかっているだろう。
トンは大学を出ているくせに、かんじんの日本語がチンプンカンプンだ。
日本語を理解できないんじゃ、こっちの意向はつたわらねぇ。
もうどうにも我慢できないから管理団体へ、変えてくれと言ったのさ」
「可能なんですか。そんなことが?」
「いろいろあるでしょうが、もうすこし時間をくださいと言われた。
だがこっちの神経も限界だ。
いつまでも待っていたら、おれのホントに神経がいかれちまう。
どうにもならないならそのとき、トンを帰国させるという」
「契約半ばの強制帰国ですか。それではトンが可哀想だ」
「おい。おまえさんはトンの味方するのか。
おれの心配はしてくれないのか!」
「人をつかうのは忍耐がいります。
派遣会社が言うよう、長い目で見てトンを育てたらどうですか?」
「トンは先に来た2人と、まるっきり事情が異なる。
ドンもテプも空港からバスでまる1日もかかる、奥地の村の出身だ。
いわゆるハングリーだ。
ところがよ。トンは都会の生まれ。
父親は缶詰工場を経営している富裕層。
大学を出てから、警察官としてはたらいたことがあるという。
オヤジの金で、警察官になったらしいがな」
「トンはエリート層の出身ですか。
借金を背負わず、日本へやってきたわけですね」
「日本へ行ってきたと言えば、箔がつく。
トンはトコロテン式に、オヤジの会社を継ぐ立場にいるからな。
だから、どこかノー天気なんだ。
真剣味が足らねぇ。ハングリー精神ってやつがまったくない」
「それで管理団体の通訳を呼んだのですか」
「トンに、カツを入れてくれって頼んだ。
やって来たのは中国人。
中国人通訳は、ベトナム語を話せねぇという。
トンを派遣している管理団体にまだ、ベトナム語の通訳はいないそうだ」
「どんな風にお互いの言葉を伝えたのですか?」
「俺が中国人に、事情を説明する。
中国人が、中国語が分かるベトナム人へ電話をかける。
俺の言葉をこいつが翻訳する。
トンはベトナム人に自分のいいぶんをつたえる。
ベトナム人が中国語で、トンのいいぶんを中国人につたえる。
それをえんえん繰り返しているうち、カリカリしている俺自身が、
なんだか、滑稽に思えてきた」
「あきらめたのですか・・・」
「あきらめるしかねぇだろう。
何か有るたび、通訳の三角関係を繰り返していたんじゃラチがあかねぇ。
そう思って、あきらめることにした」
「あきらめきれないから、病んでいるんでしょう?」
「そういうなって。
たいへんなんだぞ、国際交流は・・・。
ベトナム人をつかうのは、日本農家の人手不足を解消するためじゃねぇ。
開発途上国の経済発展を担う「人づくり」に、協力するためだ。
受け入れ拡大のための法整備はすすんだ。
だがよ。彼らの受け入れ先には、こんな実情ばかりが広がっている。
コミニュケーションが挫折しているんだ。
そのうちひとづくりの協力が、挫折するかもしれねぇな・・・」
(33)へつづく