アイラブ桐生Ⅲ・「舞台裏の仲間たち」(25)
第五章(4)黒光と碌山
それは明治30年、安曇野の春のはじめのことでした。
彼は畦道に腰をおろしいつものように、常念岳をスケッチしていました。
「こんにちわ」という明るい声に振り向けば、そこには、日傘の下で優しく頬笑みかける美しい人が立っていました。
彼は思わず頬をそめます。
彼の胸の高鳴りはどうにも押さえがたく、
文化と都会の雰囲気を漂わせた、成熟しきった女性に生まれて初めて接しました。
それが、安曇野での黒光と碌山との出会いでした。
萩原碌山に「こんにちは」と声をかけたのは、
安曇野の名門・相馬家に嫁いできていた相馬良(黒光)です。
■常念岳 標高:2,857m.
常念岳は、安曇野の西に連なる常念山脈の盟主です。
安曇野からは全容が望め、きれいなピラミッド型をしているため、
一目でその姿と分かる端正な山容をしています。
山麓では槍ヶ岳・穂高岳よりも知名度が高いといわれるのも
その山容によるところが大きいと言われています。登り下りともに厳しい山ですが、
それだけに展望には、とても素晴らしいものがあります。
まだ仙台で暮らしていたころの黒光には密かに恋心を抱いていた、画家の幼なじみがいました。
彼の存在によって早くから彫刻や洋画に対する鑑賞眼が養われ、これが後に、荻原碌山や他の芸術家たちと
かかわる源泉になったと言われています。
しかし、想いを寄せたその人が、黒光の親友と、ぬけがけのような形で婚約をしてしまいます。
失意のうちに、黒光が結婚を決めたのはまだ20歳になったばかりの時でした。
北アルプスと呼ばれている山々の麓、信州は、安曇野の穂高に、油絵1枚とオルガン、
わずかな着物を持って、黒光が名家の相馬家へと嫁いできました。
上田市から、険しい保福寺峠を越えて穂高へと嫁入りをしましたが、あまりもの荷物の少なさと、その奇抜な内容は
嫁入り道具を吟味することを楽しみにしていた多くの村人たちの度肝を抜いてしまいました。
新たな一歩を踏み出すべく嫁いできた穂高での生活は、
黒光の切なる希望とはうらはらに、まさに「惨め」の一言に尽きました。
水汲みのための天秤棒は、まともに担ぐこともできず、養蚕のための桑の葉つみや畑仕事なども、
他の人の半分の労力にもならず、かえって、いたるところで足手まといになってしまいます。
この安曇野で、のちに碌山を名乗る荻原守衛は、黒光より5歳年下で、農家の六男として生まれています。
彫刻家を志す前は画家をめざしており、農作業の合間などを縫っては
穂高の山々や水車小屋などを描いていました。
本名は守衛ですが、「碌山(ろくざん)」いう名前を使いはじめたのは
明治40年(1907)の夏ころからと言われています
当時、彼は夏目漱石の小説を愛読しており、『二百十日』の主人公・碌さんの物事にとらわれない自由な生き方が気に入り、
碌山を使い始めたといわれています。
また「山」の字は、故郷の常念岳などの山をイメージしたとも言われています。
(これとは別に、彼に多大な影響を与えたフランスの彫刻家ロダンを摸したと言う説もあるようです。)
初めてこの2人が、行き会ったは黒光が松本行きの乗合馬車の停車場へ行くために、矢原耕地を回って、
碌山の家の前を通っていた時だといわれています。
矢原耕地は、今でいう国道147号線の柏矢町の信号機から見た北東側一帯あたりのことで、安曇野では
特に一段と低くなっている地域を指しています。
上高地から流れてきた梓川は、この東方で高瀬川と合わさり、犀川となって北に流れ、さらに
穂高を流れる万水川と穂高川にも此処で出あいます。
また穂高の山々からの地下水も、ここから湧水として地上に湧き出しました。
こうして安曇野の川や水のすべてが、この地域に集まるのです。
それは5月の陽光がまぶしい昼下がりのことでした。、
この矢原の田んぼ道を、黒光が紫色のパラソルをくるくる回しながら歩いていると、守衛少年が
あまりにも熱心に、山々を写生していたので、ついぞのぞいたのが、その始まりになりました。
22歳になったばかりで、都会の雰囲気と秀麗な風貌の黒光に、17歳の碌山は、少々恥ずかしかったのだと思います。
ぶっきらぼうな話し方で、安曇富士と呼ばれている有明山のことや、常念岳の位置、白馬岳の名前の由来などの、
穂高の山々の様子を熱心に説明をしたようです。
安曇野に嫁入りした黒光が、嫁入り道具と共に持参した一枚の絵画が碌山に大きな影響をもたらしました。
「亀戸風景」というその一幅の風景画に、青年荻原碌山は強く魅入られ、やがて芸術への開眼につながりました。
またそれは同時に、黒光への憧憬が思慕にも変わっていく道筋だったとも言われています。
この運命の油絵「亀戸風景」(長尾杢太郎作)は実物大の写真が碌山美術館本館の入口近くに今でも展示をされています。
20歳になった荻原碌山は、黒光の紹介のもと、井口喜源治とともに巌本善治を頼って上京し、
明治女学校内に小屋を建て仮寓し、画塾に通います。
井口と共に内村鑑三の講談会に出たり、この頃に洗礼も受けました。
23歳で渡米し、ニューヨークの画学校に入学をします。
25歳の時にフランスへ渡り、ロダンの「考える人」に感銘を受け、彫刻を志向するようになりました。
さらに27歳の時には、高村光太郎の来訪を受け、後々までの深い親交を結んでいます。
憧れのロダンにも師事して、彫刻の腕に磨きをかけ、
「女の胴」、「坑夫」などの秀作を次々に生み出していきました。
「此処から先の、中村堂のサロンのお話はあまりにも
有名ですので、あとで文献などを参考に
ぜひ、研究をしてください。
最後の方をは省略をしてしまいましたが、
私が、あなたにお伝えしたかったのは、純粋に芸術を愛した
黒光とひたむきな碌山の出会いまでです。
どうですか、
あなたの探している何かの手がかりなどは
出てきましたか?。」
「あのう、頭の中を整理しているところです・・・
あまりにも、インパクトが強すぎて。」
「結論を急ぐ必要はありません。
自分の頭で考えて、納得できるものがひとつでもあれば、
私もこうしてお話をした甲斐がありますが、
なにもなくても、それはそれでいいでしょう・・・
遠い明治のお話なのですから。
でも、はっきりしていることは、ただひとつです。
碌山は、安曇野と言う風土があってこそ生まれてきた芸術家です。
黒光と、碌山の出会いも、
アルプス山脈と言う恵まれた絶景が生んだ、浪漫に溢れた奇蹟です。
茜さん、私たちの出会いも、
わさび田湧水群という、雄大な自然の恵みのお陰です。
あなたたちの演劇と同じです。
物語の展開のために、常に必要となるのがそれにふさわしい
舞台装置や風景なのです。
碌山と黒光は、安曇野という自然が産んだ
愛と悲しみの物語です。
「女」と言う作品は、まさにその象徴です・・・
というところで、私の長い黒光のお話は、
ここで終わりです。」
それだけいうと、おばあちゃんは、
注ぎ置かれていたグラスを手に取ると、乾杯とほほ笑んでから美味しそうに呑み干してしまいました。
・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/
第五章(4)黒光と碌山
それは明治30年、安曇野の春のはじめのことでした。
彼は畦道に腰をおろしいつものように、常念岳をスケッチしていました。
「こんにちわ」という明るい声に振り向けば、そこには、日傘の下で優しく頬笑みかける美しい人が立っていました。
彼は思わず頬をそめます。
彼の胸の高鳴りはどうにも押さえがたく、
文化と都会の雰囲気を漂わせた、成熟しきった女性に生まれて初めて接しました。
それが、安曇野での黒光と碌山との出会いでした。
萩原碌山に「こんにちは」と声をかけたのは、
安曇野の名門・相馬家に嫁いできていた相馬良(黒光)です。
■常念岳 標高:2,857m.
常念岳は、安曇野の西に連なる常念山脈の盟主です。
安曇野からは全容が望め、きれいなピラミッド型をしているため、
一目でその姿と分かる端正な山容をしています。
山麓では槍ヶ岳・穂高岳よりも知名度が高いといわれるのも
その山容によるところが大きいと言われています。登り下りともに厳しい山ですが、
それだけに展望には、とても素晴らしいものがあります。
まだ仙台で暮らしていたころの黒光には密かに恋心を抱いていた、画家の幼なじみがいました。
彼の存在によって早くから彫刻や洋画に対する鑑賞眼が養われ、これが後に、荻原碌山や他の芸術家たちと
かかわる源泉になったと言われています。
しかし、想いを寄せたその人が、黒光の親友と、ぬけがけのような形で婚約をしてしまいます。
失意のうちに、黒光が結婚を決めたのはまだ20歳になったばかりの時でした。
北アルプスと呼ばれている山々の麓、信州は、安曇野の穂高に、油絵1枚とオルガン、
わずかな着物を持って、黒光が名家の相馬家へと嫁いできました。
上田市から、険しい保福寺峠を越えて穂高へと嫁入りをしましたが、あまりもの荷物の少なさと、その奇抜な内容は
嫁入り道具を吟味することを楽しみにしていた多くの村人たちの度肝を抜いてしまいました。
新たな一歩を踏み出すべく嫁いできた穂高での生活は、
黒光の切なる希望とはうらはらに、まさに「惨め」の一言に尽きました。
水汲みのための天秤棒は、まともに担ぐこともできず、養蚕のための桑の葉つみや畑仕事なども、
他の人の半分の労力にもならず、かえって、いたるところで足手まといになってしまいます。
この安曇野で、のちに碌山を名乗る荻原守衛は、黒光より5歳年下で、農家の六男として生まれています。
彫刻家を志す前は画家をめざしており、農作業の合間などを縫っては
穂高の山々や水車小屋などを描いていました。
本名は守衛ですが、「碌山(ろくざん)」いう名前を使いはじめたのは
明治40年(1907)の夏ころからと言われています
当時、彼は夏目漱石の小説を愛読しており、『二百十日』の主人公・碌さんの物事にとらわれない自由な生き方が気に入り、
碌山を使い始めたといわれています。
また「山」の字は、故郷の常念岳などの山をイメージしたとも言われています。
(これとは別に、彼に多大な影響を与えたフランスの彫刻家ロダンを摸したと言う説もあるようです。)
初めてこの2人が、行き会ったは黒光が松本行きの乗合馬車の停車場へ行くために、矢原耕地を回って、
碌山の家の前を通っていた時だといわれています。
矢原耕地は、今でいう国道147号線の柏矢町の信号機から見た北東側一帯あたりのことで、安曇野では
特に一段と低くなっている地域を指しています。
上高地から流れてきた梓川は、この東方で高瀬川と合わさり、犀川となって北に流れ、さらに
穂高を流れる万水川と穂高川にも此処で出あいます。
また穂高の山々からの地下水も、ここから湧水として地上に湧き出しました。
こうして安曇野の川や水のすべてが、この地域に集まるのです。
それは5月の陽光がまぶしい昼下がりのことでした。、
この矢原の田んぼ道を、黒光が紫色のパラソルをくるくる回しながら歩いていると、守衛少年が
あまりにも熱心に、山々を写生していたので、ついぞのぞいたのが、その始まりになりました。
22歳になったばかりで、都会の雰囲気と秀麗な風貌の黒光に、17歳の碌山は、少々恥ずかしかったのだと思います。
ぶっきらぼうな話し方で、安曇富士と呼ばれている有明山のことや、常念岳の位置、白馬岳の名前の由来などの、
穂高の山々の様子を熱心に説明をしたようです。
安曇野に嫁入りした黒光が、嫁入り道具と共に持参した一枚の絵画が碌山に大きな影響をもたらしました。
「亀戸風景」というその一幅の風景画に、青年荻原碌山は強く魅入られ、やがて芸術への開眼につながりました。
またそれは同時に、黒光への憧憬が思慕にも変わっていく道筋だったとも言われています。
この運命の油絵「亀戸風景」(長尾杢太郎作)は実物大の写真が碌山美術館本館の入口近くに今でも展示をされています。
20歳になった荻原碌山は、黒光の紹介のもと、井口喜源治とともに巌本善治を頼って上京し、
明治女学校内に小屋を建て仮寓し、画塾に通います。
井口と共に内村鑑三の講談会に出たり、この頃に洗礼も受けました。
23歳で渡米し、ニューヨークの画学校に入学をします。
25歳の時にフランスへ渡り、ロダンの「考える人」に感銘を受け、彫刻を志向するようになりました。
さらに27歳の時には、高村光太郎の来訪を受け、後々までの深い親交を結んでいます。
憧れのロダンにも師事して、彫刻の腕に磨きをかけ、
「女の胴」、「坑夫」などの秀作を次々に生み出していきました。
「此処から先の、中村堂のサロンのお話はあまりにも
有名ですので、あとで文献などを参考に
ぜひ、研究をしてください。
最後の方をは省略をしてしまいましたが、
私が、あなたにお伝えしたかったのは、純粋に芸術を愛した
黒光とひたむきな碌山の出会いまでです。
どうですか、
あなたの探している何かの手がかりなどは
出てきましたか?。」
「あのう、頭の中を整理しているところです・・・
あまりにも、インパクトが強すぎて。」
「結論を急ぐ必要はありません。
自分の頭で考えて、納得できるものがひとつでもあれば、
私もこうしてお話をした甲斐がありますが、
なにもなくても、それはそれでいいでしょう・・・
遠い明治のお話なのですから。
でも、はっきりしていることは、ただひとつです。
碌山は、安曇野と言う風土があってこそ生まれてきた芸術家です。
黒光と、碌山の出会いも、
アルプス山脈と言う恵まれた絶景が生んだ、浪漫に溢れた奇蹟です。
茜さん、私たちの出会いも、
わさび田湧水群という、雄大な自然の恵みのお陰です。
あなたたちの演劇と同じです。
物語の展開のために、常に必要となるのがそれにふさわしい
舞台装置や風景なのです。
碌山と黒光は、安曇野という自然が産んだ
愛と悲しみの物語です。
「女」と言う作品は、まさにその象徴です・・・
というところで、私の長い黒光のお話は、
ここで終わりです。」
それだけいうと、おばあちゃんは、
注ぎ置かれていたグラスを手に取ると、乾杯とほほ笑んでから美味しそうに呑み干してしまいました。
・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/
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