アイラブ、桐生第4部
(50)第3章 「おちょぼ」と恋の行方(4)

道は、尾根伝いに少し下り勾配に変わりました。
綺麗に整備された登山道には、多くの足で踏み固められた形跡がしっかりと残っています。
このあたりからは、下山先を示す案内標識も数多く出現をして、いくつかの分岐点から、
それぞれの方向へ下山することができるようです。
また、尾根伝いに眺望が開けてきました。
サントリーの山崎工場を見下すことが出来るちょっとした広場で
遅めの昼食をとることにしました。
「おちょぼが、お千代さんが朝早くから用意をしてくれたお弁当をひろげます。
山頂からは、だいぶ歩いてきましたが、ここにもほとんど人目はありません。
「おちょぼ」が、煮ものを箸でつまんでいます。
「お兄ちゃん、お口を開けて、あ~んをしてください。」
含み笑いをして、おちょぼが迫ってきました。
「こら、はしたない。人さまが見たら行儀が悪いと思うだろう」とたしなめると、
おちょぼはまったく涼しい顔をしたまま、ゆったりと周囲を見回します。
「どなたもおりませぬ。心配することなどはあらしません」と、意に介しません。
「格式の煩い祇園のお座敷では、そんな過剰なサービスは絶対しないだろうに、」
と反論をすると、
「ほんに・・・・小春姉さんに知られたら、しこたま叱られますぅ」と、
今度は一転して、コロコロと笑いこけています。
それでも、「今日だけは、特別ですさかい、)と、さらに執拗に
すこぶる嬉しそうな顔で迫ってきます。
結局、根負けをしてしまいました・・・・
稜線からの登山道と別れをつげました。、
ここから麓の小倉神社まで下っていく小路は、そのほとんどが竹林の中です。
竹林の中を辿る小路も、実に良く手入れが行き届いています。
小路の両脇には、どこまでも行っても竹の垣根が続いています。
そこぶる安全な下り道になると思って油断をしていたら、思いがけないところで
本日最大の難所が待っていました。
小路が大きく右に曲がり込みながら、その先に急峻な斜面が現れました。
ちょうど竹林の中を、約半分ほど下ってきた処です。
日陰になっている辺りが雨上がりのように濡れていて、足元が滑りそうな気配がします。
見た目以上に、難所となる急坂でした。
滑らないようにと「おちょぼ」の手を引いてやり、足元を確かめながら
歩幅を狭くして、ゆっくりと下り始めました。
遠くからは、かすかな瀬音も聞こえてきます。
脚を止めて前方を伺がうと、斜面を下りきった先に、小さな橋が見えています。
その橋を渡れば、前方には小倉神社があるはずで、そこが登山道のゴールにもあたります。
境内にある大きな杉の木とモミの巨木は見えましたが、赤い社殿の屋根は、
深い緑に囲まれたままで、ここからは見ることができません。
もうひとつ、竹林越しの茂みの間から、かすかに確認が出来たのはシンボルとされている
境内にそびえた、ペアの御神木のようです。
濡れた斜面ももう少しというところで、「おちょぼ」が、足を滑らせました。
用心をしながら下っていたのですが、思いのほか滑った足元のため、
あっというまに、おちょぼが体勢を崩してしまいました。
足元の支えを失ったおちょぼが、前のめりとなって、私のほうへ崩れて落ちてきます。
あわてて受け止めようとしましたが、こちらの足元も、やはり濡れたままの傾斜地です。
かろうじて踏みとどまりはしましたが、無理な体勢すぎたため、
おちょぼとは、これ以上はないだろうというほどの、密着状態になってしまいました。
小柄な「おちょぼ」が私の胸の中で、すっぽりと収まってしまいました。
両手で、必死になって帽子を押さえている「おちょぼ」の顔は、真っ赤です。
胸の鼓動まで、しっかりと聞こえてきそうなほどの至近距離です。
「こわかったぁ~」
甘えるようにつぶやいてから、おちょぼが、私の胸へ顔を埋めてしまいました。
子供だとばかり思っていた「おちょぼ」が、予想外なほどふくよかで弾力のある胸の
持つ主であることに、たった今、ここで初めて、気がつきました。
ほのかに匂い立つおちょぼの甘い香りまで、ここまで漂ってきます・・・・。
「いやゃわ~、いけず。」
胸と帽子を押さえて、目をまん丸にした「おちょぼ」が、
アッと声をあげたあと、バネではじかれたように、あわてて後方へ飛びのきました。
今度は、耳まで真っ赤に染めあげています。
3歩か4歩ほど離れたというのに、激しく高鳴る「おちょぼ」の心臓の音が
ここまで確かに、はっきりと聞こえたような、そんな気さえしました。
それはまた、私の心臓にも同じことが言えました。
妖しささえ覚えた私の胸の高鳴りは、実は少女だとばかり思っていたおちょぼの中に
きらめくような女性の雰囲気を見つけてしまい、
ただただ戸惑っているばかりの、私自身が、そこにいました。
豊臣秀吉が、天王山の戦いの前に
戦勝を祈願したという、小倉神社の境内まで、あと少しというところで
「おちょぼ」が突然、何かを見つけて、立ち停まってしまいました。
大きな帽子のつばを思い切り深く傾けて、おちょぼが顔を隠します。
おちょぼが、指をさしたのは、境内へ到着したばかりの
一台の黒塗りのタクシーでした。
丁度、ひと眼でそれとわかる芸妓さんたちが、
艶やかな着物姿を際だたせながら、一斉に、タクシーから降りてきました。
帽子をさらに深く、目深にかぶり直した「おちょぼ」が、くるりと背を向けると、
一瞬のうちに、今来たばかりの道に向かって、駆けだしまいました。
必死で走る「おちょぼ」の後を追い、ようやく追いついたのは、
先ほど足を滑らせたばかりの、竹林の中でした。
やっと立ち止まった「おちょぼ」の息は、これ以上は無いほどに
「どうしたんだい、いったい・・・・藪からぼうに」
「祇園の、おっきいお姉さんがたどした。
小春姐さんと、同期のお姐さんなどもご一緒でした。
幸い、こちらは木蔭でしたので、たぶん、気がつかへんかったと思います。
すんまへん。びっくりさせてしもうて」
知り合いならば挨拶すれば・・・と言いかけたところで、私もはっと気がつきました。
休日とはいえ格式ある祇園の舞子が、人目もはばからないミニスカート姿で山歩きです。
ましてや、どこの男ともしれない二人きりでの道中です。
「そうか、まずいよな。そんな恰好だもの。」
「おちょぼ」が強い目線で振り返ります。
「服装のことでは、決してあらしません。
お稽古どす。
祇園というものは、おなごが芸を磨いて、磨きぬいた芸ではじめて生き残れる街なんどす。
小春お姉さんも、おっきいおねえさんがたも、それぞれみなさんが、
いちように、歯を食いしばって通ってきはった道なんどす。
そのお姉さんがたに、今の春玉の姿を、見せることなど、でけしません。
本来ならば、遊びよりも、お稽古に明け暮れているのが普通です・・・・
ふとそう思った瞬間に、お姐さんがたへご挨拶をするどころか、
思い切り恥ずかしくなってきて、我を忘れ、一目散に逃げ出してしまいました。
おおきにすんまへん。」
「おちょぼ」は私に背中をむけたまま、また大きな帽子を下へ引き下げています。
小さな背中が竹林の真ん中で、さらに深くうつむきはじめました。
「おちょぼ」の肩へそっと手を置いてみした・・・・
ぴくりと小さな反応を見せたおちょぼが、さらにまた、真深く帽子を引き下ろしていきます。
「今朝、出掛ける前に小春姉さんに教わりました。
舞妓も芸妓も、祇園で働いているうちは、
何があっても、祇園の中では、絶対に泣いてはいけないと教わりました。
お客さん方の前ではもちろんのこと、おかあさんや女将さん、
お姉さんがたの前では、いつでも笑顔を忘れぬように、
精一杯に笑顔を見せて、よろしゅうお願いいたしますと
にこやかに笑いなさい。
そうすることで、みなはんに可愛がってもらうんだよって・・・・
そんげなふうに教えていただきました。
それでも、生きていれば涙は生まれてくるそうです。
泣きたくなったら・・・・我慢が出来なくなって、どうしても泣きたくなったら
一人きりで、秘密の場所で泣きなさいと、そうも教えてくれはりました。
小春姉さんは、ここの景色の中で泣きはったそうです。
わざわざここまで来はって、一人っきりになって、泣いていたそうです。
だから、わたしもこの竹林を見ておきたかったんです・・・」
竹林の向こうで気の早いセミが鳴き始めました。
日暮れが近づいていることを告げて始めます。やがてそのセミの声は
大きな共鳴を呼びながら、竹林の中ををさざなみのように広がっていきます。
「祇園のみなはんは、我慢に我慢を重ねながら芸事に励んでおられます。
自分に打ち勝ったお方だけが、花街では生き残れます。
舞妓は舞いが命です。 舞いには精進が命どす。
たくさんの時間と、たくさんの汗と、
たくさんの涙が、芸を育てるための土壌になると教えていただきました。
精進した者だけが、本当の笑顔と芸を手に入れることができるんどす。
お前にもそのうちに、泣く場所がきっと必要になるからと
こっそりと、小春姉さんが教えてくれたのが、この場所です。」
そういったきり、
「おちょぼ」が、竹林にむかって一層うなだれます。
涙を堪えていた小さな背中が、やがて小さく震え始めました。
私には、どうすることもできません。
大きな帽子に隠れたままのおちょぼは、声も出さずに、静かに涙をこぼし続けています。
祇園と言う花街は、ちっとやそっとの覚悟で生き残れる街では無いのです。
17歳になったばかりのこの少女は、もう自分の運命と、真正面から立ち向かおうとしています。
お千代さんが、出掛けに言っていた、この不思議な帽子の意味がやっとわかりました。
舞妓の日焼けをふせいでくれる他にも、人目を忍ぶという意味もありました。
そしてさらにもうひとつ、涙をかくす意味まで含まれていたことに、
この時に私は、ようやくのことで気がつきました・・・・
祇園の舞妓は、おぼこさ(幼さ)が命です。
かつて舞妓を目指す少女たちは、祇園から中学へ通い、学校を卒業すると同時に
見世出しをして、花街で働くという道をあるきました。
幼すぎる少女の時代が、舞妓にとっての「旬」であり、それが同時に華になりました。
20歳が近づいてくると、少女から大人へと変わります、
その年代にさしかかる頃から少女たちは、襟替えを経て、あどけない舞妓から、
大人の芸妓になるための準備の時期にはいります。
舞妓が芸妓になる儀式のことを「襟替え(えりかえ)」といいます。
この襟替えが近づくと、どこからともなく旦那の話なども持ち上がります。
その気の無い妓にとっては、これはきわめて煩わしい時期にもなります。
襟替えでは、髷のついた髪に、屋形のおかあさんやお姉さんがハサミをいれます。
相撲力士の断髪式のようなものです。
舞妓の髪は地毛で結いますが、芸妓になると初めて鬘(かつら)が許されます。
芸妓になると同時に、今までの長い髪をばっさりと切ってしまう妓が多くなります。
芸妓になって何が嬉しいかというと、日本髪に結った髪の毛を気にしながら
眠らなくてもよくなることが一番のようです。
箱枕から頭が落ちて悲惨な状態になり、髪結いさんへ直行する悲劇からの
脱却が、実は何よりも嬉しいことのようです。
また、今の時代となっては、たいへん少なくなりましたが、
芸妓や舞妓にとっては、旦那(だんな)と呼ばれるスポンサーを持つことが
花街では、ごく普通のこととされてきました。
旦那制度というものは、物心両面にわたって生涯、芸妓の面倒を見るという、
花街の独特の、男と女のシステムのことを意味しています。
「水揚げ」とは、舞妓が初めての旦那を持つときにおこなわれる儀式のことです。
しかし、こうした花街独特のシステムも、時代と共にその意味を失い始め、
いまではほとんど、実在をしなくなってきました。
芸妓たちも自由に恋愛を闊歩して、普通に結婚をして家庭へはいったり、
あるいは公認の上で、芸妓の暮らしを続けるなど、時代と共に変化をしてきました。
その昔、芸妓と舞妓が800人ぐらい居た時期もあった祇園ですが
今はその規模も、10分の1くらいに減少してしまいました。
すくなくなったとはいえ、今でも舞妓の見世出しはポツリポツリと行われています。
細々とですが、『粋と芸』の昔からのしきたりも、その伝統も受けつがれています。
祇園にはいると、実にほっこりとします。
「ほっこり」とは、ほっとする、あるいは落ち着くという意味です。
そう思えるお客さんが居る限り、祇園は伝統を守りつつ、その時代云々に合わせながら
形態を変えつつ、これからも歴史を紡いで繁栄をしていくのだと思います。

■本館の「新田さらだ館」は、こちらです
http://saradakann.xsrv.jp
(50)第3章 「おちょぼ」と恋の行方(4)

道は、尾根伝いに少し下り勾配に変わりました。
綺麗に整備された登山道には、多くの足で踏み固められた形跡がしっかりと残っています。
このあたりからは、下山先を示す案内標識も数多く出現をして、いくつかの分岐点から、
それぞれの方向へ下山することができるようです。
また、尾根伝いに眺望が開けてきました。
サントリーの山崎工場を見下すことが出来るちょっとした広場で
遅めの昼食をとることにしました。
「おちょぼが、お千代さんが朝早くから用意をしてくれたお弁当をひろげます。
山頂からは、だいぶ歩いてきましたが、ここにもほとんど人目はありません。
「おちょぼ」が、煮ものを箸でつまんでいます。
「お兄ちゃん、お口を開けて、あ~んをしてください。」
含み笑いをして、おちょぼが迫ってきました。
「こら、はしたない。人さまが見たら行儀が悪いと思うだろう」とたしなめると、
おちょぼはまったく涼しい顔をしたまま、ゆったりと周囲を見回します。
「どなたもおりませぬ。心配することなどはあらしません」と、意に介しません。
「格式の煩い祇園のお座敷では、そんな過剰なサービスは絶対しないだろうに、」
と反論をすると、
「ほんに・・・・小春姉さんに知られたら、しこたま叱られますぅ」と、
今度は一転して、コロコロと笑いこけています。
それでも、「今日だけは、特別ですさかい、)と、さらに執拗に
すこぶる嬉しそうな顔で迫ってきます。
結局、根負けをしてしまいました・・・・
稜線からの登山道と別れをつげました。、
ここから麓の小倉神社まで下っていく小路は、そのほとんどが竹林の中です。
竹林の中を辿る小路も、実に良く手入れが行き届いています。
小路の両脇には、どこまでも行っても竹の垣根が続いています。
そこぶる安全な下り道になると思って油断をしていたら、思いがけないところで
本日最大の難所が待っていました。
小路が大きく右に曲がり込みながら、その先に急峻な斜面が現れました。
ちょうど竹林の中を、約半分ほど下ってきた処です。
日陰になっている辺りが雨上がりのように濡れていて、足元が滑りそうな気配がします。
見た目以上に、難所となる急坂でした。
滑らないようにと「おちょぼ」の手を引いてやり、足元を確かめながら
歩幅を狭くして、ゆっくりと下り始めました。
遠くからは、かすかな瀬音も聞こえてきます。
脚を止めて前方を伺がうと、斜面を下りきった先に、小さな橋が見えています。
その橋を渡れば、前方には小倉神社があるはずで、そこが登山道のゴールにもあたります。
境内にある大きな杉の木とモミの巨木は見えましたが、赤い社殿の屋根は、
深い緑に囲まれたままで、ここからは見ることができません。
もうひとつ、竹林越しの茂みの間から、かすかに確認が出来たのはシンボルとされている
境内にそびえた、ペアの御神木のようです。
濡れた斜面ももう少しというところで、「おちょぼ」が、足を滑らせました。
用心をしながら下っていたのですが、思いのほか滑った足元のため、
あっというまに、おちょぼが体勢を崩してしまいました。
足元の支えを失ったおちょぼが、前のめりとなって、私のほうへ崩れて落ちてきます。
あわてて受け止めようとしましたが、こちらの足元も、やはり濡れたままの傾斜地です。
かろうじて踏みとどまりはしましたが、無理な体勢すぎたため、
おちょぼとは、これ以上はないだろうというほどの、密着状態になってしまいました。
小柄な「おちょぼ」が私の胸の中で、すっぽりと収まってしまいました。
両手で、必死になって帽子を押さえている「おちょぼ」の顔は、真っ赤です。
胸の鼓動まで、しっかりと聞こえてきそうなほどの至近距離です。
「こわかったぁ~」
甘えるようにつぶやいてから、おちょぼが、私の胸へ顔を埋めてしまいました。
子供だとばかり思っていた「おちょぼ」が、予想外なほどふくよかで弾力のある胸の
持つ主であることに、たった今、ここで初めて、気がつきました。
ほのかに匂い立つおちょぼの甘い香りまで、ここまで漂ってきます・・・・。
「いやゃわ~、いけず。」
胸と帽子を押さえて、目をまん丸にした「おちょぼ」が、
アッと声をあげたあと、バネではじかれたように、あわてて後方へ飛びのきました。
今度は、耳まで真っ赤に染めあげています。
3歩か4歩ほど離れたというのに、激しく高鳴る「おちょぼ」の心臓の音が
ここまで確かに、はっきりと聞こえたような、そんな気さえしました。
それはまた、私の心臓にも同じことが言えました。
妖しささえ覚えた私の胸の高鳴りは、実は少女だとばかり思っていたおちょぼの中に
きらめくような女性の雰囲気を見つけてしまい、
ただただ戸惑っているばかりの、私自身が、そこにいました。
豊臣秀吉が、天王山の戦いの前に
戦勝を祈願したという、小倉神社の境内まで、あと少しというところで
「おちょぼ」が突然、何かを見つけて、立ち停まってしまいました。
大きな帽子のつばを思い切り深く傾けて、おちょぼが顔を隠します。
おちょぼが、指をさしたのは、境内へ到着したばかりの
一台の黒塗りのタクシーでした。
丁度、ひと眼でそれとわかる芸妓さんたちが、
艶やかな着物姿を際だたせながら、一斉に、タクシーから降りてきました。
帽子をさらに深く、目深にかぶり直した「おちょぼ」が、くるりと背を向けると、
一瞬のうちに、今来たばかりの道に向かって、駆けだしまいました。
必死で走る「おちょぼ」の後を追い、ようやく追いついたのは、
先ほど足を滑らせたばかりの、竹林の中でした。
やっと立ち止まった「おちょぼ」の息は、これ以上は無いほどに
「どうしたんだい、いったい・・・・藪からぼうに」
「祇園の、おっきいお姉さんがたどした。
小春姐さんと、同期のお姐さんなどもご一緒でした。
幸い、こちらは木蔭でしたので、たぶん、気がつかへんかったと思います。
すんまへん。びっくりさせてしもうて」
知り合いならば挨拶すれば・・・と言いかけたところで、私もはっと気がつきました。
休日とはいえ格式ある祇園の舞子が、人目もはばからないミニスカート姿で山歩きです。
ましてや、どこの男ともしれない二人きりでの道中です。
「そうか、まずいよな。そんな恰好だもの。」
「おちょぼ」が強い目線で振り返ります。
「服装のことでは、決してあらしません。
お稽古どす。
祇園というものは、おなごが芸を磨いて、磨きぬいた芸ではじめて生き残れる街なんどす。
小春お姉さんも、おっきいおねえさんがたも、それぞれみなさんが、
いちように、歯を食いしばって通ってきはった道なんどす。
そのお姉さんがたに、今の春玉の姿を、見せることなど、でけしません。
本来ならば、遊びよりも、お稽古に明け暮れているのが普通です・・・・
ふとそう思った瞬間に、お姐さんがたへご挨拶をするどころか、
思い切り恥ずかしくなってきて、我を忘れ、一目散に逃げ出してしまいました。
おおきにすんまへん。」
「おちょぼ」は私に背中をむけたまま、また大きな帽子を下へ引き下げています。
小さな背中が竹林の真ん中で、さらに深くうつむきはじめました。
「おちょぼ」の肩へそっと手を置いてみした・・・・
ぴくりと小さな反応を見せたおちょぼが、さらにまた、真深く帽子を引き下ろしていきます。
「今朝、出掛ける前に小春姉さんに教わりました。
舞妓も芸妓も、祇園で働いているうちは、
何があっても、祇園の中では、絶対に泣いてはいけないと教わりました。
お客さん方の前ではもちろんのこと、おかあさんや女将さん、
お姉さんがたの前では、いつでも笑顔を忘れぬように、
精一杯に笑顔を見せて、よろしゅうお願いいたしますと
にこやかに笑いなさい。
そうすることで、みなはんに可愛がってもらうんだよって・・・・
そんげなふうに教えていただきました。
それでも、生きていれば涙は生まれてくるそうです。
泣きたくなったら・・・・我慢が出来なくなって、どうしても泣きたくなったら
一人きりで、秘密の場所で泣きなさいと、そうも教えてくれはりました。
小春姉さんは、ここの景色の中で泣きはったそうです。
わざわざここまで来はって、一人っきりになって、泣いていたそうです。
だから、わたしもこの竹林を見ておきたかったんです・・・」
竹林の向こうで気の早いセミが鳴き始めました。
日暮れが近づいていることを告げて始めます。やがてそのセミの声は
大きな共鳴を呼びながら、竹林の中ををさざなみのように広がっていきます。
「祇園のみなはんは、我慢に我慢を重ねながら芸事に励んでおられます。
自分に打ち勝ったお方だけが、花街では生き残れます。
舞妓は舞いが命です。 舞いには精進が命どす。
たくさんの時間と、たくさんの汗と、
たくさんの涙が、芸を育てるための土壌になると教えていただきました。
精進した者だけが、本当の笑顔と芸を手に入れることができるんどす。
お前にもそのうちに、泣く場所がきっと必要になるからと
こっそりと、小春姉さんが教えてくれたのが、この場所です。」
そういったきり、
「おちょぼ」が、竹林にむかって一層うなだれます。
涙を堪えていた小さな背中が、やがて小さく震え始めました。
私には、どうすることもできません。
大きな帽子に隠れたままのおちょぼは、声も出さずに、静かに涙をこぼし続けています。
祇園と言う花街は、ちっとやそっとの覚悟で生き残れる街では無いのです。
17歳になったばかりのこの少女は、もう自分の運命と、真正面から立ち向かおうとしています。
お千代さんが、出掛けに言っていた、この不思議な帽子の意味がやっとわかりました。
舞妓の日焼けをふせいでくれる他にも、人目を忍ぶという意味もありました。
そしてさらにもうひとつ、涙をかくす意味まで含まれていたことに、
この時に私は、ようやくのことで気がつきました・・・・
祇園の舞妓は、おぼこさ(幼さ)が命です。
かつて舞妓を目指す少女たちは、祇園から中学へ通い、学校を卒業すると同時に
見世出しをして、花街で働くという道をあるきました。
幼すぎる少女の時代が、舞妓にとっての「旬」であり、それが同時に華になりました。
20歳が近づいてくると、少女から大人へと変わります、
その年代にさしかかる頃から少女たちは、襟替えを経て、あどけない舞妓から、
大人の芸妓になるための準備の時期にはいります。
舞妓が芸妓になる儀式のことを「襟替え(えりかえ)」といいます。
この襟替えが近づくと、どこからともなく旦那の話なども持ち上がります。
その気の無い妓にとっては、これはきわめて煩わしい時期にもなります。
襟替えでは、髷のついた髪に、屋形のおかあさんやお姉さんがハサミをいれます。
相撲力士の断髪式のようなものです。
舞妓の髪は地毛で結いますが、芸妓になると初めて鬘(かつら)が許されます。
芸妓になると同時に、今までの長い髪をばっさりと切ってしまう妓が多くなります。
芸妓になって何が嬉しいかというと、日本髪に結った髪の毛を気にしながら
眠らなくてもよくなることが一番のようです。
箱枕から頭が落ちて悲惨な状態になり、髪結いさんへ直行する悲劇からの
脱却が、実は何よりも嬉しいことのようです。
また、今の時代となっては、たいへん少なくなりましたが、
芸妓や舞妓にとっては、旦那(だんな)と呼ばれるスポンサーを持つことが
花街では、ごく普通のこととされてきました。
旦那制度というものは、物心両面にわたって生涯、芸妓の面倒を見るという、
花街の独特の、男と女のシステムのことを意味しています。
「水揚げ」とは、舞妓が初めての旦那を持つときにおこなわれる儀式のことです。
しかし、こうした花街独特のシステムも、時代と共にその意味を失い始め、
いまではほとんど、実在をしなくなってきました。
芸妓たちも自由に恋愛を闊歩して、普通に結婚をして家庭へはいったり、
あるいは公認の上で、芸妓の暮らしを続けるなど、時代と共に変化をしてきました。
その昔、芸妓と舞妓が800人ぐらい居た時期もあった祇園ですが
今はその規模も、10分の1くらいに減少してしまいました。
すくなくなったとはいえ、今でも舞妓の見世出しはポツリポツリと行われています。
細々とですが、『粋と芸』の昔からのしきたりも、その伝統も受けつがれています。
祇園にはいると、実にほっこりとします。
「ほっこり」とは、ほっとする、あるいは落ち着くという意味です。
そう思えるお客さんが居る限り、祇園は伝統を守りつつ、その時代云々に合わせながら
形態を変えつつ、これからも歴史を紡いで繁栄をしていくのだと思います。

■本館の「新田さらだ館」は、こちらです
http://saradakann.xsrv.jp
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