ささかのブログ

雑多な思考整理のためにブログを活用中。
自分が生きやすくなればいいと思うけれど、教祖になるつもりはない。

信仰の自由

2020-12-31 10:39:16 | Social
別に他人がどのような宗教を信じていてもいいし、どのような政党を支持していようが、自由経済主義以外の社会主義や共産主義であったとしても、別に構わない。

それをこちらに押し付けてこなければだ。

その人にとって正しい思想はあるのだろうけれど、それが私にとって正しいわけではない。

それを押し付けて拒否されて怒り出すのは、そもそも信仰の自由を理解していない。


厄介なことにそれが自分の母親であるということ。

基本的に現在会うことはほとんどないし、連絡もしない。

それでも母親としては関係だけは維持したいので、こちらの事情は関係なく物だけは送ってくる。

生活必需品であれば喜んで受け取るけれど、その中に彼女の信仰する宗教関連グッズが入っているとうんざりする。

現在余計なものを捨てる荷物整理をしているのに、絶対に使うことのないそれらの宗教グッズは速攻でゴミ箱行きになる。

その事実を伝えると、当然のようにブチ切れるので、一切連絡もしないことにしている。


彼女の精神の拠り所はその宗教にあるわけで、別にそれは一向に構わない。

多少なりともその組織の片鱗は認識しているが、残念なことに残念な人しかいない。

私がそこに入れば大きな力になることは理解できるが、残念な人はその成果を失敗を重ねて浪費するだけで、有効利用できない。

結局のところ徒労になる。


私にとって「頭の悪い人」の定義はそこから始まっている。

世の中には、
「そうはいっても母親なのだから大切にしなさい」
と言う人がいることも理解してはいる。

しかし、私が10歳のときに離婚して父親が死ぬ20歳まで会うことはなく、さらに一切の学費支援がなかった母親にすがられて、老後の面倒を見てほしいといわれても全く道理ではない。

その一切の生活支援を行ったのは父方の親兄弟の親戚であって、それは母親とは対立していた。

父方の親戚からは、
「金を返そうなんて考えるな。それはお前がその能力を還元することで世の中に返せ」
と何度も告げられたが、結局父親が死んだ労働災害保険金がおりて、その負い目もなくなってしまった。
祖父祖母、伯父叔母のほとんどはすでに亡くなってしまった。


祖父からは生前に、
「お前はまだ会社員をやっているのか?」
と会うたびに言われた。

それが自立してしまえということではないかもしれないけれど、私は個人的にそう捉えている。


やるやる詐欺のままで終わらせる気もないので、来年は再度の独立に向けて動き出す予定でいる。

毎日に不満を持って生きるより、忙しくても自分で自分の目標を設定して生きたほうが、明らかに健康になれる。

実際に一昨年の自営独立の際は、経済的な困窮状態になり多忙を極めたが、血液検査結果も正常値になり、体力もついた。

不満を抱えながら生きるより、自分の決めた目標であれば、どんな労苦も気にならない。

他人の目標であれば労苦になるけれど、自分で決めたことは労苦にならないのですよ。


このあたり、完全に他者に依存している信仰者には全くわからない部分なのだろうなぁ。

経営トップや意思決定トップで宗教関連に関わる人もいるけれど、それは宗教組織の上位階層で運営に関わる人たちであって、下位に構成される人ではない。

信じる側ではなく信じられる立場の人になるので、それなりにリーダー資質が求められるようになる。


しかし私はそこにも興味がないのでね。

それは本当の意味での自己実現ではないのですよ。

何を信じるかは人それぞれです。
コメント
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