本を読んで賢くなろう。
読むだけじゃだめで、考えて実践する。
そんなわけで、「アサーティブ」から。
家族や友達というのは、自分と一緒にいる時間が長いので、
「言わないでも自分の気持ちや考えをわかるはず」
「自分が何を言っても許してくれるはず」
といった期待値が大きい。
子どもが親に対して、甘えてもよいと考え、かなり理不尽なことを平気で言うように、親もまた子どもに何をしてもいいといった価値観を持って接する。
これもまたその家庭環境にもよるけれど。
本当は反抗期などの自立過程でその環境を変える必要があるけれど、それを経てないと(それを経ても)、それぞれの相手に対してのモラルや立場を尊重せずに、思考的にも生活的にも干渉してしまう。
自分がクライアントで、相手がカウンセラーのように、どんなに理不尽でも、何を言っても良い相手だと考えてしまう。
ま、実際はそんなことはない。
それは友人関係や職場関係でも起こる。
自分は付き合いが長いからとか、上司だから部下にどのような指示をしても拒否されないとか、結構なムチャが言える。
これもまた、実際はそんなことはない。
いじめはこんなところからも生まれるのだろう。
それぞれ個別に生きていて、意思を持っていて、それぞれの立場や生活があるので、すべての言動を許せるほどの許容力はない。
期待値のズレですね。
得てしてこれが人間関係の深刻なトラブルを起こす。
相手の無茶な要求に、感情的な拒否反応を示すと、それを受け入れる期待を持っていた相手がさらにヒートアップし、感情的に返す。
それが溜まり溜まって、さらなる問題を起こす。
どうすればいいか?
別に真剣に返す必要はないのですよ。
駅で絡んでくる酔っぱらいに、わざわざ本気で意見したり、怒ったりしても、状況は良くなるどころか悪くなる。
放っておいて関わらない
残念ながら、対応としてはこれとそんなに変わらない。
相手を変えようとしない。
聞いているふりをして受け流す。
特に反応しない。
とりあえず、逃げる、立ち去る。
「ちょっと他の用事があるので」などと中座する。
「うわ、びっくりした」と自分の感情を素直に表し、困っていることを伝える。
そんな対応方法はいくらでもある。
最悪な結果をもたらすよりも、そこで失礼とか思わずに、最善の対応をすると考える。
それは失礼ではないし、自分の決めたことには自分で責任を持つしかないし、他人は干渉できない。
「空気を読む」より上の、「大局と先を読む」。
究極の自己主張(アサーティブコミュニケーション)となる。
そんな認識。