今頃になって週刊文春9月4日号(8月28日発売)の新聞広告を朝日新聞が掲載拒否したことがメディア界で話題になっている。発売当日、読売新聞は喜んで全5段のスペースを提供していたが…。
週刊文春のメイン特集記事『朝日新聞 売国のDNA』がいたく朝日新聞広告部の逆鱗に触れたようだ。発売前日、広告掲載拒否の通告を受けた27日、文藝春秋社は朝日新聞社に抗議文を突きつけている。
「当該号には慰安婦問題に関する追及キャンペーン記事が掲載されています。新聞読者が当該記事のみならずその他の記事の広告まで知る機会を一方的に奪うのは、言論の自由を標榜する社会の公器としてあるまじき行為であり、厳重に抗議します」
朝日新聞が掲載を拒否したのは、週刊文春の広告だけではなかったことまで明らかになった。おそらく明日発売の週刊文春で掲載されるであろうが、池上彰氏の原稿掲載も朝日新聞は拒否して、池上氏から朝日新聞の連載中止を宣言されたというのだ。週刊文春が昨夜配信した記事によれば、こういうことだそうだ。
ジャーナリスト・池上彰氏が朝日新聞に対し、連載「新聞ななめ読み」の中止を申し入れたことが明らかになった。
「月に一度の連載『新聞ななめ読み』は、池上氏が一つのニュースについて各紙を読み比べ、その内容を自由に論評するもの。8月末の予定稿では、慰安婦報道検証を取り上げており、『朝日は謝罪すべきだ』という記述があった。朝日幹部が「これでは掲載できない」と通告したところ、池上氏から『では連載を打ち切らせてください』と申し出があり、その予定稿はボツになったのです。これまでも同連載は、『朝日の記事は分かりにくい』、『天声人語は時事ネタへの反応が鈍い』などの批評を掲載しており、今回の反応は異常ですね」
池上氏に確認したところ、事実関係を認めた。(中略)
8月5,6日に朝日新聞が掲載した慰安婦報道検証記事について、謝罪が一言もないことがこれまで問題視されてきた。そんな渦中に、池上氏の「謝罪すべきだ」という論評を封殺していたことが明らかになり、今後、朝日新聞の言論機関としての見識が問われそうだ。
私はこれまでも言論の自由は、あらゆる自由の中で最も守られなければならない最重要な自由であると主張してきた。と同時に「権利」と「責任」はいわば1枚の紙の裏表のような関係にあり、権利が大きくなればなるほど責任も比例して重くなると主張してきた。そして残念ながら、現在のマス・メディアに対するチェック機能がないことをいいことに(テレビ放送にはいちおうBPOと
いうあまり役に立たないチェック機構があるが、新聞にはそうしたものさえない)、「言い放し」「書き放し」がまかり通ってきた。
朝日新聞が慰安婦報道を誤報だったとして記事の取り消しを大々的に公表して以降、日ごろから朝日新聞と対立軸にある読売新聞と産経新聞はこれでもか、これでもか、と朝日新聞バッシングを始めた。読売新聞が朝日新聞の誤報記事についての検証連載記事を掲載し始めた8月28日には、読売新聞の動きを察知したのかどうかは不明だが、朝日新聞はばかげたことに「慰安婦問題についての朝日新聞の記事が河野談話のもとになったわけではない」という弁解検証記事を掲載した。
弁解の概要は、「朝日新聞の記者が河野談話の作成関係者に取材したところ、慰安狩り小説を書いた吉田清治氏に何回か接触はしたが、話につじつまが合わないことが多々あったので談話の根拠としては採用しなかった」というものだ。つまり官僚が何度も吉田氏に話を聞いたうえで「おかしい」と思ったことを、朝日新聞の記者は今日まで一度も「おかしい」と思わずに、検証作業すら放置してきたことを自ら明らかにしたのである。朝日新聞の28日付の再検証記事は、恥の上塗りをしたにすぎなかった。(詳細は私が29日に投稿したブログ『読売新聞が朝日新聞の誤報記事の検証を始めた。醜い朝日の弁解の欺瞞をどこまで突き崩せるか』を参照してください)
朝日新聞が誤報検証記事を発表して以降も韓国の朴大統領は慰安婦問題に根拠を置いての反日発言を続けている。池上氏ではないが、やはり朝日新聞はトップが直接朴大統領に拝謁し(会ってくれるかどうかは保証の限りではないが)、朝日新聞の誤報記事が韓国内の反日感情に火をつけたことをお詫びし、改めて当時の日本軍兵士の性欲処理のための慰安所設置の背景と実態について可能な限りの検証記事を掲載することを伝えるべきであった。
29日投稿のブログでも書いたが、政府がメディアの記事を検証もせずに鵜呑みにして談話の根拠にすることなどありえない。そのことを改めて検証したからといって他紙からの批判をかわしたことになどならない。朝日新聞は、「河野談話の根拠になったという指摘もあるので」と検証記事の目的を書いているが、河野談話と短絡した朝日新聞批判をしたマス・メディアは私が知る限りない。完全に問題のすり替えであり、醜い、としか言いようがない。
私はブログで何度も書いてきたが、民主主義は「守る」べきものではない。現代の民主主義はまだまだ未熟なのだから「一歩一歩育てていかなければならない」ものだ。メディアが金切声をあげて叫ぶ「言論の自由」は、このブログの冒頭にも述べたように、最も重要で大切にしなければならない自由である。
が、メディアがその「権利」の上にあぐらを書いて、「言い放し」「書き放し」の自由があると思っていたら、とんでもない思い上がりだ。どんな小さなメディアでも、書いたこと、言ったことに対する責任は発生する。私のように趣味で書いているブログでも、誤認に基づく記事を書いたら必ず訂正しているし、出来るだけ読者の疑問にも答えるように心がけている。
朝日新聞は誤報記事の検証結果を発表したにもかかわらず、それが韓国のメディアから無視され、朴大統領がかえって慰安婦問題についての反日発言のボルテージを上げた結果、今度は日本国内で勃発したヘイトスピーチ(憎悪表現)が国際社会の大きな問題として浮上した。
国連人種差別撤廃委員会は8月29日、日本政府に対してヘイトスピーチ問題に「毅然と対処し、法律で規制するよう勧告する」という最終見解を通告したことを明らかにした。これは東京や大阪を中心に在日韓国・朝鮮人を中傷するデモが朝日事件以降活発化していることに懸念を示した国際社会の反応と受け止めるべきである。実際民放テレビの報道によれば、東京・新大久保を中心としたコリアン・タウンはいま閑古鳥が鳴いている状態だという。比較的他国民に対して寛容な日本国民のなかにも、こうした民族間対立感情が芽生えだしたということになると、実は朝日の責任はそこまで及ぶということを意味する。
言論の自由をはき違えると、「自分たちは絶対に正しい」という驕りしか生まれない。実際、先の大戦時の軍部独裁政権はマス・メディアの全面的協力がなければ生まれなかった。確かに当時の政権は共産主義者に対しては厳しい弾圧を加えたが、吉田茂氏のような戦争反対者に対して弾圧を加えるようなことはしていない。「お国のために命をささげること」を美談として賛美して国民をマインド・コントロールしたのは、当時のマス・メディアではなかったか。
「言論の自由」が、そのような形でふるまわれると、民主主義は育つどころか、むしろ後退する。
週刊文春のメイン特集記事『朝日新聞 売国のDNA』がいたく朝日新聞広告部の逆鱗に触れたようだ。発売前日、広告掲載拒否の通告を受けた27日、文藝春秋社は朝日新聞社に抗議文を突きつけている。
「当該号には慰安婦問題に関する追及キャンペーン記事が掲載されています。新聞読者が当該記事のみならずその他の記事の広告まで知る機会を一方的に奪うのは、言論の自由を標榜する社会の公器としてあるまじき行為であり、厳重に抗議します」
朝日新聞が掲載を拒否したのは、週刊文春の広告だけではなかったことまで明らかになった。おそらく明日発売の週刊文春で掲載されるであろうが、池上彰氏の原稿掲載も朝日新聞は拒否して、池上氏から朝日新聞の連載中止を宣言されたというのだ。週刊文春が昨夜配信した記事によれば、こういうことだそうだ。
ジャーナリスト・池上彰氏が朝日新聞に対し、連載「新聞ななめ読み」の中止を申し入れたことが明らかになった。
「月に一度の連載『新聞ななめ読み』は、池上氏が一つのニュースについて各紙を読み比べ、その内容を自由に論評するもの。8月末の予定稿では、慰安婦報道検証を取り上げており、『朝日は謝罪すべきだ』という記述があった。朝日幹部が「これでは掲載できない」と通告したところ、池上氏から『では連載を打ち切らせてください』と申し出があり、その予定稿はボツになったのです。これまでも同連載は、『朝日の記事は分かりにくい』、『天声人語は時事ネタへの反応が鈍い』などの批評を掲載しており、今回の反応は異常ですね」
池上氏に確認したところ、事実関係を認めた。(中略)
8月5,6日に朝日新聞が掲載した慰安婦報道検証記事について、謝罪が一言もないことがこれまで問題視されてきた。そんな渦中に、池上氏の「謝罪すべきだ」という論評を封殺していたことが明らかになり、今後、朝日新聞の言論機関としての見識が問われそうだ。
私はこれまでも言論の自由は、あらゆる自由の中で最も守られなければならない最重要な自由であると主張してきた。と同時に「権利」と「責任」はいわば1枚の紙の裏表のような関係にあり、権利が大きくなればなるほど責任も比例して重くなると主張してきた。そして残念ながら、現在のマス・メディアに対するチェック機能がないことをいいことに(テレビ放送にはいちおうBPOと
いうあまり役に立たないチェック機構があるが、新聞にはそうしたものさえない)、「言い放し」「書き放し」がまかり通ってきた。
朝日新聞が慰安婦報道を誤報だったとして記事の取り消しを大々的に公表して以降、日ごろから朝日新聞と対立軸にある読売新聞と産経新聞はこれでもか、これでもか、と朝日新聞バッシングを始めた。読売新聞が朝日新聞の誤報記事についての検証連載記事を掲載し始めた8月28日には、読売新聞の動きを察知したのかどうかは不明だが、朝日新聞はばかげたことに「慰安婦問題についての朝日新聞の記事が河野談話のもとになったわけではない」という弁解検証記事を掲載した。
弁解の概要は、「朝日新聞の記者が河野談話の作成関係者に取材したところ、慰安狩り小説を書いた吉田清治氏に何回か接触はしたが、話につじつまが合わないことが多々あったので談話の根拠としては採用しなかった」というものだ。つまり官僚が何度も吉田氏に話を聞いたうえで「おかしい」と思ったことを、朝日新聞の記者は今日まで一度も「おかしい」と思わずに、検証作業すら放置してきたことを自ら明らかにしたのである。朝日新聞の28日付の再検証記事は、恥の上塗りをしたにすぎなかった。(詳細は私が29日に投稿したブログ『読売新聞が朝日新聞の誤報記事の検証を始めた。醜い朝日の弁解の欺瞞をどこまで突き崩せるか』を参照してください)
朝日新聞が誤報検証記事を発表して以降も韓国の朴大統領は慰安婦問題に根拠を置いての反日発言を続けている。池上氏ではないが、やはり朝日新聞はトップが直接朴大統領に拝謁し(会ってくれるかどうかは保証の限りではないが)、朝日新聞の誤報記事が韓国内の反日感情に火をつけたことをお詫びし、改めて当時の日本軍兵士の性欲処理のための慰安所設置の背景と実態について可能な限りの検証記事を掲載することを伝えるべきであった。
29日投稿のブログでも書いたが、政府がメディアの記事を検証もせずに鵜呑みにして談話の根拠にすることなどありえない。そのことを改めて検証したからといって他紙からの批判をかわしたことになどならない。朝日新聞は、「河野談話の根拠になったという指摘もあるので」と検証記事の目的を書いているが、河野談話と短絡した朝日新聞批判をしたマス・メディアは私が知る限りない。完全に問題のすり替えであり、醜い、としか言いようがない。
私はブログで何度も書いてきたが、民主主義は「守る」べきものではない。現代の民主主義はまだまだ未熟なのだから「一歩一歩育てていかなければならない」ものだ。メディアが金切声をあげて叫ぶ「言論の自由」は、このブログの冒頭にも述べたように、最も重要で大切にしなければならない自由である。
が、メディアがその「権利」の上にあぐらを書いて、「言い放し」「書き放し」の自由があると思っていたら、とんでもない思い上がりだ。どんな小さなメディアでも、書いたこと、言ったことに対する責任は発生する。私のように趣味で書いているブログでも、誤認に基づく記事を書いたら必ず訂正しているし、出来るだけ読者の疑問にも答えるように心がけている。
朝日新聞は誤報記事の検証結果を発表したにもかかわらず、それが韓国のメディアから無視され、朴大統領がかえって慰安婦問題についての反日発言のボルテージを上げた結果、今度は日本国内で勃発したヘイトスピーチ(憎悪表現)が国際社会の大きな問題として浮上した。
国連人種差別撤廃委員会は8月29日、日本政府に対してヘイトスピーチ問題に「毅然と対処し、法律で規制するよう勧告する」という最終見解を通告したことを明らかにした。これは東京や大阪を中心に在日韓国・朝鮮人を中傷するデモが朝日事件以降活発化していることに懸念を示した国際社会の反応と受け止めるべきである。実際民放テレビの報道によれば、東京・新大久保を中心としたコリアン・タウンはいま閑古鳥が鳴いている状態だという。比較的他国民に対して寛容な日本国民のなかにも、こうした民族間対立感情が芽生えだしたということになると、実は朝日の責任はそこまで及ぶということを意味する。
言論の自由をはき違えると、「自分たちは絶対に正しい」という驕りしか生まれない。実際、先の大戦時の軍部独裁政権はマス・メディアの全面的協力がなければ生まれなかった。確かに当時の政権は共産主義者に対しては厳しい弾圧を加えたが、吉田茂氏のような戦争反対者に対して弾圧を加えるようなことはしていない。「お国のために命をささげること」を美談として賛美して国民をマインド・コントロールしたのは、当時のマス・メディアではなかったか。
「言論の自由」が、そのような形でふるまわれると、民主主義は育つどころか、むしろ後退する。