小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

緊急告発――朝日新聞がまたしらじらしい弁解記事を書いた。これでは失われた信頼は回復しない。

2014-09-06 06:20:57 | Weblog
 しらじらしい、とはこのことを言う。朝日新聞の6日付朝刊での謝罪記事だ。その記事のタイトルは『池上さんの連載について、お詫びし、説明します』である。
 まずこのタイトルの誤りは「池上さんの連載について」ではなく、「池上さんの原稿をボツにした経緯について」とすべきだろう。すでにタイトルからして、この新聞の編集体質が現れていると言って差し支えない。
 この記事はネットでは読めないかもしれないので、かいつまんで朝日新聞の主張を転載(要約)する。

 池上さんの(原稿)掲載をいったん見合わせた後、4日付で掲載したことについて、読者の皆様から疑問や批判の声が寄せられています。
 8月5,6日付朝刊で慰安婦問題特集(誤報の検証記事)を掲載して以来、朝日新聞には言論による批判や評価が寄せられる一方で、関係者への人権侵害や脅迫的な行為、営業妨害的な行為などが続いていました。こうした動きの激化を懸念するあまり、池上さんの原稿にも過剰に反応してしまいました。
 しかし、9月1日夜、(池上氏の原稿没の件が)外部に伝わったのを機に、「不掲載」「論評を封殺」との批判を受けました。
 私たちは3日、いったん掲載を見合わせた判断は間違いであり、読者の信頼を少しでも取り戻すためには池上さんの原稿を掲載しなければならないと判断し、池上さんの了解を得ました。
 本紙への厳しい批判、注文も何度となくありましたが、すべてを掲載してきました。批判や異論を乗せてこそ読者の信頼を得られると考えたからです。

 本当に厳しい批判、注文をすべて掲載するかどうか、このブログを朝日新聞お客様オフィスにFAXする。私のブログ記事の全文を(全文ではなくても主要な要点だけでも)掲載すれば、朝日新聞の報道スタンスが今後どう変わるかを検証するに足ると信じることにする。
 まず週刊誌などが池上氏の原稿掲載拒否を報じたのは池上氏が著名なジャーナリストであったという点にある。朝日新聞の慰安婦報道はおかしいという指摘は、相当前からメディアだけでなく一般の読者からも寄せられていたし、過去それらの指摘に対して誠実に対応してこなかった事実は動かせない。池上氏の原稿掲載拒否問題は、朝日新聞がスキャンダルにまみれたことによって生じ、失われた信頼をとりあえず繕わねばならないという対症療法的なものにすぎないのではないか。
 本当に朝日新聞が開かれたメディアになるためには、読者の投稿欄である「声」
への投稿の半分は、朝日新聞の主張や記事に対する批判的なものを採用すると決定することだ。もちろん読者の批判に対する朝日新聞としての反論ないし評価も掲載すべきだろう。
 次に朝日新聞はかつて『新聞と戦争』と題する検証記事を連載したことがある。先の大戦時における朝日新聞の記者たちの報道姿勢をしおらしく反省して見せたが、これまたしらじらしいものだった。
 私はかつて朝日新聞の読者広報(現お客様オフィス)に電話で、「もしあの戦争時に言論の自由が失われずに、真実を伝えていたとしたら朝日新聞は読者から支持されていたと思うか」と尋ねてみたことがある。担当者はしばらく考えた末「新聞が売れなくなっていたかもしれませんね」と答えた。おそらく、実際そうなっていたであろう。
 そういう世論の形成にメディアはどう与ってきたのか。先の大戦における報道の在り方への反省の原点は、そこになければならない。「次は靖国で会おう」と最後の杯を交わして帰らぬ戦地に旅立って行った若者たちを英雄視し、美談として大々的に報道してきたのは、どのメディアだったのか。
 もちろん私は朝日新聞だけを問題にしているわけではない。すべてのメディア(と言っても大半は新聞をはじめとする活字メディア)に共通した報道姿勢だった。
 メディアの怖さは、政権と一体になって国民のマインド・コントロールを行うことだ。当時のメディアに最初からそういう意図があったとまでは言わない。だが、世論が軍国主義化していく過程で、「これは危険な兆候だ」と気づいて報道姿勢を転換したメディアが一つもなかったというところに、メディアと国民の悲劇があった。先の大戦で最後には「竹槍で戦え」とまで国民の戦意を鼓舞するに至った経緯についての検証は、『新聞と戦争』にはひとかけらもなかった。
 私はブログで何度も書いてきたが、あらゆる自由の中で最も大切にしなければならないのは「言論の自由」であると主張してきた。が、権利が大きければ大きいほど権利の行使に伴う責任も比例して重くなる。その自覚がなくて権利だけ主張するのは、おもちゃやお菓子をねだって駄々をこねる頑是ない子供と本質において変わらない。
 言論の自由の重みをどれだけ噛みしめたうえで、権利を行使する記者を、これからどう育てていくのかが、慰安婦誤報問題の最大の教訓に、朝日新聞はすべきである。そういうスタンスが、紙面から垣間見えたとき、朝日新聞が選挙の立候補者のように「ただ信ぜよ。私を支持してくれ」などと懇願しなくても、黙っていても朝日新聞への信頼は回復する。