小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

朝日新聞の誤報とねつ造の検証――既存メディアが怖くてできない検証作業①

2014-09-16 06:45:42 | Weblog
 この際、徹底的に膿を出し切ってしまおう、というのだろうか。
 それとも紙面を割くほどの問題ではないケースまで洗い出すことによって、過去の過ちを“one of them”にしてしまおうというのか。
 朝日新聞が14日付朝刊で『任天堂と読者の皆様にお詫びします』と題する謝罪記事を載せた。相当のスペースを割いた謝罪記事だったが、全文を転載するほどの中身はない。要約すると、「ソーシャル時代、どう対応?/ゲーム大手4社に聞く」の記事の中で、任天堂の岩田社長へのインタビュー申し込みの「了解が得られなかった」ため、任天堂のホームページ上の動画の発言内容をまとめて記事化したことについて、任天堂からクレームがついて謝罪したことがあるという、愚にもつかない再謝罪の記事である。
 私は必ず転載、引用する場合出典をブログでも明記しているが、朝日新聞に限らず記事の捏造はしばしばある。
 前にもブログで書いたが、記事中に「政府筋」とか「政府高官」などと情報源を特定しないコメント記事は99%、記者のでっち上げと考えて差し支えない。任天堂の場合は、間違いなくホームページでの発言を記事化したわけで、そうした行為は著作権侵害にも当たらなければ、もし問題になるとしたら岩田社長の発言の一部を切り取ることによって、発言全体の趣旨を意図的にゆがめた場合だけである。そうしたケースはねつ造でも誤報でもない。私はそういう方法までして批判対象を貶めるようなことは一切しないが、メディアはそういう卑劣な方法をしばしばする。
 このケースの場合、朝日新聞は「今回新たに外部から指摘があり、事実関係を改めて調査した結果、紙面でお詫びする必要があると判断した」という。こんな些細なケースまで貴重な紙面を割いて記事化するというなら、いっそ臨時増刊で謝罪特集でも出したらどうか。発言者を特定せずに朝日新聞の主張の権威づけのためにやってきた匿名コメントのすべてを洗い出して、いちいち、それらのでっち上げコメントであったとする検証記事を書くべきだ。いかに記事というものが意図的に作られているかを、読者が一目瞭然で分かるようにだ。
 
 あまり嫌味っぽいか書き方を続けると、私のブログ自体が意図的に思われかねないので、他のメディアが一連の朝日新聞の謝罪をどうとらえているか、私の論理基準で検証する。「私の論理基準」とわざわざ断ったのは、さまざまなメディアがこの問題を「敵失によって、わが社に大きなチャンスが転がり込んできた」と喜んでいるだけではなく、「自社の報道体制や記事のチェック機能がきちんと働いているか」「読者の指摘を有害無益として無視してきたこれまでの姿勢の見直しが必要」と、自戒の念を込めて検証作業を始めていると思われることだ。活字メディアだけでなく、テレビ朝日が原子力規制委の田中委員長発言
の一部だけを切り取り、あたかもインタビューに対して問答無用と回答を拒否
したかのような報道をしたことを、規制委側から指摘を受けて検証し、古舘メインキャスターが深々と頭を下げて謝罪したことにも現れている。ただこのケースでいえば、本来古舘氏には何の責任もない。テレビ朝日が謝罪するなら報道局長が出演して、きちんと説明したうえで謝罪し、報道の取り消しを宣言すべきだろう。
 メディアが自分たちの主張を正当化するために、都合のいい情報だけを切り張りし、読者や視聴者をマインド・コントロールしてきた(意図的とまでは言わない)ことへの自戒の念が一時的なものにとどまらず、言論の自由と責任の重大性は1枚の紙の裏表のように、べったりくっついているという自覚をメディアが持ち続けるようになれば、朝日新聞が投じた一石は単なる一時的な「大激震」にとどまらず、噴煙を永遠に吹き出し続ける火山活動の始まりになれば、たとえ朝日新聞が死ぬことになったとしても、朝日新聞が日本のメディア改革に果たした役割は永遠にメディア界の金字塔として残るだろう。

 この問題についての私の論理基準を明確にしておく。
 まず慰安婦報道と吉田調書報道は、まったく次元が違う異質なものである。
 慰安婦報道は、吉田清治の捏造「ノンフィクション」(つまりフィクション)である『私の戦争犯罪』での慰安婦狩りを「勇気ある告白」と称賛し(称賛したのは朝日新聞だけではない)大々的に報じ、それが韓国民の反日感情に火をつけ、日本政府があたかも先の大戦で軍が強制的に慰安婦狩りをしていたかのような誤認識が国際社会に蔓延し、具体的な形としては河野談話作成のスタートラインを事実上引いてしまったこと、また国連人権問題委員会での決議や米下院議員での決議に大きな影響を与えたこと……誤報道による結果責任をメディアはどう取るべきかという「言論・報道の自由と結果責任」の関係を明確にすること。これがまず最大の検証課題であるという視点である。この視点はいま、ほぼ全メディアが共通して持っていると思う。
 この視点で朝日新聞事件を検証した時、なぜ朝日新聞が自紙の報道に疑問が寄せられ始めた時点で検証作業を行わなかったのかという指摘は、多くのメディアによってなされている。それはその通りなのだが、朝日新聞に限らず多くのメディアが誤報の訂正はしないという不文律の世界を「談合」(本当に談合でそうすることに決めたのかどうかは知らない)によって作り上げ、朝日新聞がそのメディア界だけに共有されてきた「コンプライアンス基準」を忠実に守り続けた結果、必然的に生じた問題であるという認識は、まだメディア界に共通の認識になっているとは確認できない。朝日新聞事件を追及する視点は、自らの報道姿勢に対する検証として今後反映されていくのでなければ、朝日新聞の死は(死ぬと限ったわけではないが)は犬死になってしまう。
 次に、誤報事件が生じた時代背景への検証である。これはまだどのメディアもしていない。いくつかのメディアにはその視点を伝えてあるが、メディアに
理解能力がないのか、あるいは怖くて目をそらせることにしたのか、いまのと
ころ、そうした視点で朝日新聞事件の検証スタンスを示したメディアは一つもない。
 この問題についての私の論理的認識基準はこうである。ノンフィクションという世界の草分けでもある大宅壮一氏が遺した名言のひとつに「1億総懺悔」というのがある。大宅流の皮肉っぽい表現なのだが、先の大戦について「1億国民はすべて反省しなければならない」と理解してしまったメディアや国民も少なくなく、日本軍兵士の「悪行」をこれでもかこれでもかと暴き立てることがメディアの使命であるかのような風潮が蔓延していた時代背景は無視できない。そこに朝日新聞の戦後一貫した報道スタンスが重なり合い、しかも当時の朝日新聞は新聞発行部数日本最大を誇るメディア界の王者であり、朝日新聞の報道によって「日本軍兵士が慰安婦狩りをしたことを日本の良心的メディアが認めた」と国際社会から受け止められてしまった。
 振り子の原理というのがある。振り子が頂点に達して反対方向に戻るとき、振り子の重力や戻るときに受ける空気抵抗によって大きく振れ過ぎることはないというのは物理の基礎的知識であるが、人間の頭脳の作用にはこの振り子の原理が働かないケースがしばしばある。たとえば「可愛さあまって、憎さ100倍」という格言があるが、この格言は人間の頭脳の中の振り子は物理原則の壁を大きく超えて振り過ぎてしまうケースがしばしばあることを意味している。
 さらに、メディアといえども、自己保存本能は時によって強烈に働く。「変わり身の早さ」という言葉があるが、メディアは先の大戦終了時に、見事に「変わり身の早さ」を演じて見せた。「鬼畜米英」は一瞬にして「親米英」に代わり、「自分たちが間違ったのは大本営発表を鵜呑みにしてきたため」と、これまた見事な責任転嫁に成功した。この責任転嫁に成功してしまったため、かえってメディアは傲慢になったとも言える。(続く)