実は当然のことだが、メディアも政党も一枚岩ではない。完全に一枚岩に見える日本共産党でも、党員に対しすべて「赤旗」の主張に従え、などとは強要していないし、むしろ独裁権力の長期化を防ぐために宮本独裁体制以降、不破体制を経て現在は志位委員長と山下書記局長の二重権力構造にするなど、権力の長期化による腐敗を防ぐ体制を模索しているくらいだ。
たとえば、11日の午後7時30分から行われた朝日新聞の木村社長の引責辞任表明も、BSフジのプライムニュースでの録画中継を見てすぐ読売新聞読者センター電話をして「これは事実上の引責辞任表明だ。木村社長は理由について慰安婦報道や池上氏の原稿掲載拒否なども含めてごちゃごちゃ言っているが、そんなことで社長が引責辞任するわけがない。引責理由はたった一つ、吉田調書のねつ造記事だ。間違えないように」と申し入れた。
翌12日早朝、私はブログ『朝日新聞の「吉田調書」報道は誤報か? 違うよ、ねつ造だ』を投稿して、事ここにまで至っても、もがき続ける朝日新聞の体質への批判もしたが、当日の朝刊各紙で木村社長の記者会見が「事実上の引責辞任である」こと、さらにその原因が一連の慰安婦報道問題ではなく、吉田調書のねつ造記事にあることを指摘したのは読売新聞だけだった。が、その読売新聞ですら、その後「吉田調書誤報」と見出しで書いたり、メディアもようやく引責辞任表明だということは理解したようだが、依然としてよく理解していないメディアもあるくらいだ。
私は朝日新聞が8月5,6日の両日にわたって慰安婦報道が誤報であったことの検証記事を書いた翌日(7日)のブログでこう書いた。当時私は民主主義をテーマにしたブログを連載中であり、タイトルでは朝日新聞の誤報問題には触れなかったが、当日のブログの最後にこう書いている。
(今ごろになっての誤報検証記事の掲載は)何を意味するのか。朝日新聞内部の権力闘争の結果なのか。よく分からん。
誤報の訂正はいいが、誤報だということはとっくに明らかになっており、当時の記事のどの部分が誤報で、なぜ誤報に至ったのかの検証をする必要が、20数年後の今頃になって、「なぜ突然生じたのか」の説明責任を果たすことのほうがはるかに重要なはずだ。
他紙によれば、この「訂正記事」について、朝日新聞広報部は「特にコメントすることはありません」と取材を拒否したようだ。他紙もだらしがないのは、
朝日新聞広報部の「特にコメントすることはありません」というコメントを紹
介しただけで、それを「取材拒否」と報じなかったことだ。
「言論の自由」は最高に優先度の高い自由だと書いた(※この連載ブログで何回も書いた)。が「最高に優先度が高い自由」だということは、「それに伴う責任も最高に重い」ことを意味している、と考えるのが常識人だと思うのだが、「言論の自由」だけを声高に主張して、それに伴う「責任の重さ」については無自覚なメディアの体質が問われざるを得ない。それは朝日新聞だけのことではないからだ。
はっきり言えば、誤報とねつ造は、「でき心による万引き」と「綿密に計画を立てての強盗」との差ほどに大きいメディアの「犯罪」である。誤報など根掘り葉掘り掘り返したら、どのメディアでも毎日あると言っても差し支えないほどだ。
前にもブログで書いたが、記者も人の子、事実でさえ色眼鏡をかけて見る。極端な例で説明すると分かりやすい。赤信号を真っ赤なレンズの色眼鏡をかけて見たら、赤信号は赤信号として見えなくなる。私自身も人の子だから、独りよがりの非常識な主張をする可能性を否定しない。問題はそうした自覚をどれだけジャーナリストが有しているかによって、おかしな記事が紙面を飾ることになりかねない、という事実にどう正面から向かい合うかだ。
私は原則として土休日を除く平日は、一人でこのブログを投稿している。しばしば独断と偏見でメディア批判をするので、誤報やねつ造にならないよう、可能な限りの事実確認と検証を重ねながら書いている。メディアの方はウィキペディアがしばしば誤った解説をしていることは承知されているが、解説に問題があると編集者が判断した場合は、解説記事の冒頭にその旨が記載されているし、しばしば書き換えられることもある。たとえば集団的自衛権問題など、この1年間でどれだけ書き換えられたり補足されたりしたか、政治部の記者ですらご存じないのではないか。一度目を通したら、それで理解したつもりでいると、すでにその時の理解が色眼鏡になって、自公両党のせめぎあいだけに関心が移ってしまい、政治家が打ち上げるアドバルーンを鵜呑みにして記事にしてしまう。誤報というのは、そうして作られる。
政治家、とくに閣僚級や党の幹部の発言には、必ず裏がある。そのくらいのことは政治部の記者なら常識として分かっているのだが、色眼鏡の色によって発言の裏を読み間違えることはしばしばある。
いまから書くことは、場合によっては私のブログが非難の対象になりかねない可能性が低くない。それを覚悟の上で、あえて書く。やはりどうしても、この視点だけはないがしろにできないと思うからだ。
朝日新聞の、福島原発事故の際に第1原発の所員の9割が第2原発に避難したことの報道が「ねつ造」になってしまったのかの重要な検証をする。この検証にはいくつかの要素を個別に検証する必要がある。
① 本当に所員の9割が被害の拡大を防ぐ使命を果たさずに、自分の身を守るために第2原発に避難したのかの事実確認。
② 避難したとして、避難するために所員が利用したであろう交通手段についての報道の事実確認。
③ 所員が避難したとして、その避難は所長(吉田氏)の命令(現場にとどまれ?)に違反した行動だったのか。
④ 吉田調書によれば、吉田氏は「現場(第1原発内)での待機」を必ずしも厳密な形では指示していないように思えるが、なぜ吉田調書を読み誤ったのか。読み誤ったことを、朝日新聞はすでに明らかにしているが、なぜ記者が読み誤り、読み誤って書いた記事の検証をだれもしないで紙面に掲載したのか。少なくとも朝日新聞は、実名を出さなくてもいいから、最初に記事を書いた記者がなぜ吉田調書を読み誤ったのか、そして記者が書いた原稿が社内で一切検証されずに1面トップを飾る「スクープ」記事になってしまったのはなぜか。少なくとも朝日新聞自身がねつ造だったと認めている以上(朝日新聞は「ねつ造」という表記はしていない「誤った」としか表記していない)、ねつ造記事が1面トップを飾ったプロセスのすべてを解明して読者に明らかにする必要がある。その検証作業をせずに木村社長を初め報道局や編集局の最高責任者の処分で事を収めるというのは「トカゲの尻尾切り」ならぬ「トカゲの頭切り」で、事態を収拾しようという姑息な方法にほかならない。
⑤ これから書くことが一番自重要な視点だが、はっきり言えばねつ造をしないメディアはない。情報源を特定しない「政府高官」とか「関係者」の発言は99%、ねつ造と考えてよい。ということは、朝日新聞のねつ造問題に関して言えば、朝日新聞は情報源を特定していなければ「ねつ造騒ぎ」を免れることができたのである。この記事で一番重要なことは、「第1原発の所員の9割が現場を放棄して第2原発に避難して、被害の拡大を招いた」ということである。「所長の命令に違反した」と、事の重大性についての認識を、記者の色眼鏡の色によって、問題の重要性への告発がとんでもない方向に向かってしまったという点にある。つまり、朝日新聞は吉田調書を根拠にせず、「関係者の話によれば、第1原発の所員の9割が現場を放棄して第2原発に避難し、第1原発事故の拡大を招いたということだ」という記事にしていれば、逃げた所員が9割ではなく7割であったとしても、ねつ造にはならなかった。そんな程度の誤報をメディアは「誤報」と考えていないから、いちいち記事の取り消しをしたり、訂正記事を出す必要性などなかったということである。
26日、弁護士9人が「命令違反で撤退」という記述と見出しが間違っていたとして朝日新聞が記事の取り消しを報じた件で、朝日新聞社と同社の第三者機関「報道と人権委員会」に対し、「関係者の不当な処分がされてはならない」と申し入れた(他に弁護士191人が同意しているようだ)。
申し入れ書では「命令違反で撤退したかは解釈・評価の問題」「不当な処分がされれば、知る権利や真実の公開のために努力している記者を委縮させ、民主主義を危機にさらす」とし、事実に基づいた検証が行われることを求めたという。
さらに25,6の2日間にわたって松江市で開かれていたマスコミ倫理懇談会で「メディア同士の過剰なバッシングは報道の信頼度を傷つけ、公権力の介入を招く恐れがある」との意見が出たという。つまり「仲良しクラブの村社会」の崩壊は避けようということ。週刊誌は別として、少なくとも新聞、テレビは今後、朝日新聞批判をやめるという宣言に等しい。真実は闇の中に葬ることで、停戦に合意したということだ。
朝日新聞は13日付朝刊で「吉田調書を含め関係者の証言や記録の吟味は、日本の今後の原子力行政に欠かせない作業だとも考えています」と述べた。
だとするならば、小渕優子経産相の就任記者会見での発言「安全が確認され次第、原発の再稼働に取り組んでいきたい」との関連で、御嶽山の噴火を予測できなかった自然災害に対する予知科学の限界をどう考えるのか、朝日新聞としての明快な主張をしてもらいたい。
さらに、これまで私が何度もブログで書いてきた対ロ制裁が、北方領土問題だけでなく、エネルギー安全保障、さらに日本産業界にとってのビッグチャンス、また軍事的安全保障の面においても、日本にとっては「タナボタ」どころか「棚から金塊」のようなチャンスが転がり込んできたのに、その「金塊」を拾おうとしない安倍外交をどう評価するかに、朝日新聞がメディアとして、どう読者の信頼を回復できるかがかかっている。
このブログの原本は、以上までは昨日午後6時ごろには完成していた。推敲したうえで朝日新聞お客様オフィスにFAXし、電話でその旨を伝えてから午後8時30分頃電話した。ブログを投稿する前に、私の指摘についての反論があれば、それを付記するためだった。
が、電話に出た男性は「記事についてのご質問はお伺いします」と言われたので、「吉田調書報道について『誤った』とされているが、その表記は誤報を意味するのか、ねつ造を意味するのか」と聞いたが、「私には分かりません」と答えた。「では、ブログ原本に書いた疑問点についてお聞きしたい」と言い、検証すべき重要な5点について聞き始めた。①と②を読み上げた途端「他のお客様がお待ちですので切らせて頂きます」と一方的に電話を切られた。昨日まではお客様オフィスは臨戦態勢を敷いて相当キャリアのある社員(退職者も含め)
を臨時に配置していたようだったが、他メディアとの停戦が合意に至ったため、もう一般読者からの意見にはまともに対応しなくてもよいと考えたのかもしれない。
お客様オフィスにFAXした時点では、実は昨日の新聞には目を通していなかった。読む時間がなかったからである。その後、改めて読んだが、慰安婦報道についてのバカバカしい検証記事を載せていた。国民の税金を使って無意味なSTAP現象の検証実験を続けている理研と同様の体質としか言いようがない。朝日新聞を読んでいない人は何のことかわからないと思うので、1982年9月2日付大阪本社朝刊の記事を書いた元記者について勘違いをしていたという、メディア史上最大級のバカバカしい検証記事だ。そんな検証を国民(今や社会問題化しているので、関心を持っているのは朝日新聞の読者だけではない)は求めているのではない。
慰安婦報道について国民が一番知りたいことは、吉田清治の『私の戦争犯罪』で「証言」した済州島での200人の慰安婦狩りというフィクションを、なぜ現地でそういう事実があったのかの検証をせず、鵜呑みにして一億総懺悔の社会的風潮の中で朝日新聞だけが突出して国際社会に、旧日本軍がいかに非人道的だったかを広く知らしめることを社の方針にしたのかの検証だ。さらに、吉田清治の「証言」がねつ造であったことが判明した時点で、いったんは一億総懺悔の社会的風潮の中で吉田「証言」を信じて報道した各メディアが一斉に記事を取り消した中で、朝日新聞だけがなぜ今年8月5,6日まで頬被りを続けたのかの検証である。腐った幹の部分を抉り出さずに、枯れた木の葉の1枚1枚を丹念に拾えなどと国民も他メディアも考えていない。
いま朝日新聞が慰安婦報道の結果責任をとるべきことは、米韓中を含む日本と関係が深い世界の主要紙に、全面広告を出稿して、「朝日新聞の誤報が国際社会の誤った世論形成にあずかったことへの謝罪」と当時の日本政府の植民地政策の実態(朝鮮や台湾に帝国大学を設立したり、教育制度を日本並みに充実したりしたこと。植民地国の人たちを日本人と同等に扱うよう指示していたこと。日本軍兵士の性犯罪を防止するために慰安所を設け現地の売春婦を中心に募集したこと=募集活動に当たったのは業者)を明らかにすることだ。
もちろん今でも外国人の研修制度を悪用して最悪な作業環境の中で、低賃金でこき使う悪質な業者が後を絶たない現実があり、当時も軍の一部と癒着した業者が売春婦ではない素人の韓国女性を「強制的に慰安婦にして逃げ出せないような環境下に置いた」事実もおそらく相当数あっただろうことは想像に難くない。そうした事実は、確認できないまでもかなりありえたとして、吉田「証言」に類似したケースまでをも全否定するものではないと、国際社会に向かって釈明すべきである。
先の大戦で果たしたメディアの責任を、メディアがどう取ったか。「軍の弾圧に屈した」という責任回避の姿勢が生み出したメディアの腐った体質(それは朝日新聞だけに限ったことではない)が、朝日新聞の場合、慰安婦報道の誤報につながったし、原発についての考え方が社説のスタンスとして根っこにあったために福島原発事故についての「吉田調書」のねつ造解釈を生んだという背景を明らかにすべきだろう。
木村社長が急きょ引責辞任の記者会見を開いたのは、その当日、いつもはノーネクタイの菅官房長官が、ネクタイを締めて記者会見に臨み、吉田調書を首相官邸のホームページで公開すると発表したことが原因である。すでに朝日新聞が5月20日に1面トップで報じた「吉田所長の命令に違反して所員の9割が第2原発に逃げ出した」という記事について「ねつ造ではないか」という指摘は他メディアからされていた。その指摘には頬被りしてきた朝日新聞が菅官房長官の会見によって窮地に陥り、責任をとることにしたのは、まぎれもなく朝日新聞が権力に屈服したことの動かし難い証拠になる。(明日は日本人が集団で国家権力やテロ集団によって人質にされた事件について、改めて考察する。「イスラム国」に対して武力行使に踏み切った米オバマ大統領と、その行為を支持した安倍総理の外交姿勢、それを読売新聞と朝日新聞はどう評価したかの検証にどうしても必要な作業だと考えるからだ)
たとえば、11日の午後7時30分から行われた朝日新聞の木村社長の引責辞任表明も、BSフジのプライムニュースでの録画中継を見てすぐ読売新聞読者センター電話をして「これは事実上の引責辞任表明だ。木村社長は理由について慰安婦報道や池上氏の原稿掲載拒否なども含めてごちゃごちゃ言っているが、そんなことで社長が引責辞任するわけがない。引責理由はたった一つ、吉田調書のねつ造記事だ。間違えないように」と申し入れた。
翌12日早朝、私はブログ『朝日新聞の「吉田調書」報道は誤報か? 違うよ、ねつ造だ』を投稿して、事ここにまで至っても、もがき続ける朝日新聞の体質への批判もしたが、当日の朝刊各紙で木村社長の記者会見が「事実上の引責辞任である」こと、さらにその原因が一連の慰安婦報道問題ではなく、吉田調書のねつ造記事にあることを指摘したのは読売新聞だけだった。が、その読売新聞ですら、その後「吉田調書誤報」と見出しで書いたり、メディアもようやく引責辞任表明だということは理解したようだが、依然としてよく理解していないメディアもあるくらいだ。
私は朝日新聞が8月5,6日の両日にわたって慰安婦報道が誤報であったことの検証記事を書いた翌日(7日)のブログでこう書いた。当時私は民主主義をテーマにしたブログを連載中であり、タイトルでは朝日新聞の誤報問題には触れなかったが、当日のブログの最後にこう書いている。
(今ごろになっての誤報検証記事の掲載は)何を意味するのか。朝日新聞内部の権力闘争の結果なのか。よく分からん。
誤報の訂正はいいが、誤報だということはとっくに明らかになっており、当時の記事のどの部分が誤報で、なぜ誤報に至ったのかの検証をする必要が、20数年後の今頃になって、「なぜ突然生じたのか」の説明責任を果たすことのほうがはるかに重要なはずだ。
他紙によれば、この「訂正記事」について、朝日新聞広報部は「特にコメントすることはありません」と取材を拒否したようだ。他紙もだらしがないのは、
朝日新聞広報部の「特にコメントすることはありません」というコメントを紹
介しただけで、それを「取材拒否」と報じなかったことだ。
「言論の自由」は最高に優先度の高い自由だと書いた(※この連載ブログで何回も書いた)。が「最高に優先度が高い自由」だということは、「それに伴う責任も最高に重い」ことを意味している、と考えるのが常識人だと思うのだが、「言論の自由」だけを声高に主張して、それに伴う「責任の重さ」については無自覚なメディアの体質が問われざるを得ない。それは朝日新聞だけのことではないからだ。
はっきり言えば、誤報とねつ造は、「でき心による万引き」と「綿密に計画を立てての強盗」との差ほどに大きいメディアの「犯罪」である。誤報など根掘り葉掘り掘り返したら、どのメディアでも毎日あると言っても差し支えないほどだ。
前にもブログで書いたが、記者も人の子、事実でさえ色眼鏡をかけて見る。極端な例で説明すると分かりやすい。赤信号を真っ赤なレンズの色眼鏡をかけて見たら、赤信号は赤信号として見えなくなる。私自身も人の子だから、独りよがりの非常識な主張をする可能性を否定しない。問題はそうした自覚をどれだけジャーナリストが有しているかによって、おかしな記事が紙面を飾ることになりかねない、という事実にどう正面から向かい合うかだ。
私は原則として土休日を除く平日は、一人でこのブログを投稿している。しばしば独断と偏見でメディア批判をするので、誤報やねつ造にならないよう、可能な限りの事実確認と検証を重ねながら書いている。メディアの方はウィキペディアがしばしば誤った解説をしていることは承知されているが、解説に問題があると編集者が判断した場合は、解説記事の冒頭にその旨が記載されているし、しばしば書き換えられることもある。たとえば集団的自衛権問題など、この1年間でどれだけ書き換えられたり補足されたりしたか、政治部の記者ですらご存じないのではないか。一度目を通したら、それで理解したつもりでいると、すでにその時の理解が色眼鏡になって、自公両党のせめぎあいだけに関心が移ってしまい、政治家が打ち上げるアドバルーンを鵜呑みにして記事にしてしまう。誤報というのは、そうして作られる。
政治家、とくに閣僚級や党の幹部の発言には、必ず裏がある。そのくらいのことは政治部の記者なら常識として分かっているのだが、色眼鏡の色によって発言の裏を読み間違えることはしばしばある。
いまから書くことは、場合によっては私のブログが非難の対象になりかねない可能性が低くない。それを覚悟の上で、あえて書く。やはりどうしても、この視点だけはないがしろにできないと思うからだ。
朝日新聞の、福島原発事故の際に第1原発の所員の9割が第2原発に避難したことの報道が「ねつ造」になってしまったのかの重要な検証をする。この検証にはいくつかの要素を個別に検証する必要がある。
① 本当に所員の9割が被害の拡大を防ぐ使命を果たさずに、自分の身を守るために第2原発に避難したのかの事実確認。
② 避難したとして、避難するために所員が利用したであろう交通手段についての報道の事実確認。
③ 所員が避難したとして、その避難は所長(吉田氏)の命令(現場にとどまれ?)に違反した行動だったのか。
④ 吉田調書によれば、吉田氏は「現場(第1原発内)での待機」を必ずしも厳密な形では指示していないように思えるが、なぜ吉田調書を読み誤ったのか。読み誤ったことを、朝日新聞はすでに明らかにしているが、なぜ記者が読み誤り、読み誤って書いた記事の検証をだれもしないで紙面に掲載したのか。少なくとも朝日新聞は、実名を出さなくてもいいから、最初に記事を書いた記者がなぜ吉田調書を読み誤ったのか、そして記者が書いた原稿が社内で一切検証されずに1面トップを飾る「スクープ」記事になってしまったのはなぜか。少なくとも朝日新聞自身がねつ造だったと認めている以上(朝日新聞は「ねつ造」という表記はしていない「誤った」としか表記していない)、ねつ造記事が1面トップを飾ったプロセスのすべてを解明して読者に明らかにする必要がある。その検証作業をせずに木村社長を初め報道局や編集局の最高責任者の処分で事を収めるというのは「トカゲの尻尾切り」ならぬ「トカゲの頭切り」で、事態を収拾しようという姑息な方法にほかならない。
⑤ これから書くことが一番自重要な視点だが、はっきり言えばねつ造をしないメディアはない。情報源を特定しない「政府高官」とか「関係者」の発言は99%、ねつ造と考えてよい。ということは、朝日新聞のねつ造問題に関して言えば、朝日新聞は情報源を特定していなければ「ねつ造騒ぎ」を免れることができたのである。この記事で一番重要なことは、「第1原発の所員の9割が現場を放棄して第2原発に避難して、被害の拡大を招いた」ということである。「所長の命令に違反した」と、事の重大性についての認識を、記者の色眼鏡の色によって、問題の重要性への告発がとんでもない方向に向かってしまったという点にある。つまり、朝日新聞は吉田調書を根拠にせず、「関係者の話によれば、第1原発の所員の9割が現場を放棄して第2原発に避難し、第1原発事故の拡大を招いたということだ」という記事にしていれば、逃げた所員が9割ではなく7割であったとしても、ねつ造にはならなかった。そんな程度の誤報をメディアは「誤報」と考えていないから、いちいち記事の取り消しをしたり、訂正記事を出す必要性などなかったということである。
26日、弁護士9人が「命令違反で撤退」という記述と見出しが間違っていたとして朝日新聞が記事の取り消しを報じた件で、朝日新聞社と同社の第三者機関「報道と人権委員会」に対し、「関係者の不当な処分がされてはならない」と申し入れた(他に弁護士191人が同意しているようだ)。
申し入れ書では「命令違反で撤退したかは解釈・評価の問題」「不当な処分がされれば、知る権利や真実の公開のために努力している記者を委縮させ、民主主義を危機にさらす」とし、事実に基づいた検証が行われることを求めたという。
さらに25,6の2日間にわたって松江市で開かれていたマスコミ倫理懇談会で「メディア同士の過剰なバッシングは報道の信頼度を傷つけ、公権力の介入を招く恐れがある」との意見が出たという。つまり「仲良しクラブの村社会」の崩壊は避けようということ。週刊誌は別として、少なくとも新聞、テレビは今後、朝日新聞批判をやめるという宣言に等しい。真実は闇の中に葬ることで、停戦に合意したということだ。
朝日新聞は13日付朝刊で「吉田調書を含め関係者の証言や記録の吟味は、日本の今後の原子力行政に欠かせない作業だとも考えています」と述べた。
だとするならば、小渕優子経産相の就任記者会見での発言「安全が確認され次第、原発の再稼働に取り組んでいきたい」との関連で、御嶽山の噴火を予測できなかった自然災害に対する予知科学の限界をどう考えるのか、朝日新聞としての明快な主張をしてもらいたい。
さらに、これまで私が何度もブログで書いてきた対ロ制裁が、北方領土問題だけでなく、エネルギー安全保障、さらに日本産業界にとってのビッグチャンス、また軍事的安全保障の面においても、日本にとっては「タナボタ」どころか「棚から金塊」のようなチャンスが転がり込んできたのに、その「金塊」を拾おうとしない安倍外交をどう評価するかに、朝日新聞がメディアとして、どう読者の信頼を回復できるかがかかっている。
このブログの原本は、以上までは昨日午後6時ごろには完成していた。推敲したうえで朝日新聞お客様オフィスにFAXし、電話でその旨を伝えてから午後8時30分頃電話した。ブログを投稿する前に、私の指摘についての反論があれば、それを付記するためだった。
が、電話に出た男性は「記事についてのご質問はお伺いします」と言われたので、「吉田調書報道について『誤った』とされているが、その表記は誤報を意味するのか、ねつ造を意味するのか」と聞いたが、「私には分かりません」と答えた。「では、ブログ原本に書いた疑問点についてお聞きしたい」と言い、検証すべき重要な5点について聞き始めた。①と②を読み上げた途端「他のお客様がお待ちですので切らせて頂きます」と一方的に電話を切られた。昨日まではお客様オフィスは臨戦態勢を敷いて相当キャリアのある社員(退職者も含め)
を臨時に配置していたようだったが、他メディアとの停戦が合意に至ったため、もう一般読者からの意見にはまともに対応しなくてもよいと考えたのかもしれない。
お客様オフィスにFAXした時点では、実は昨日の新聞には目を通していなかった。読む時間がなかったからである。その後、改めて読んだが、慰安婦報道についてのバカバカしい検証記事を載せていた。国民の税金を使って無意味なSTAP現象の検証実験を続けている理研と同様の体質としか言いようがない。朝日新聞を読んでいない人は何のことかわからないと思うので、1982年9月2日付大阪本社朝刊の記事を書いた元記者について勘違いをしていたという、メディア史上最大級のバカバカしい検証記事だ。そんな検証を国民(今や社会問題化しているので、関心を持っているのは朝日新聞の読者だけではない)は求めているのではない。
慰安婦報道について国民が一番知りたいことは、吉田清治の『私の戦争犯罪』で「証言」した済州島での200人の慰安婦狩りというフィクションを、なぜ現地でそういう事実があったのかの検証をせず、鵜呑みにして一億総懺悔の社会的風潮の中で朝日新聞だけが突出して国際社会に、旧日本軍がいかに非人道的だったかを広く知らしめることを社の方針にしたのかの検証だ。さらに、吉田清治の「証言」がねつ造であったことが判明した時点で、いったんは一億総懺悔の社会的風潮の中で吉田「証言」を信じて報道した各メディアが一斉に記事を取り消した中で、朝日新聞だけがなぜ今年8月5,6日まで頬被りを続けたのかの検証である。腐った幹の部分を抉り出さずに、枯れた木の葉の1枚1枚を丹念に拾えなどと国民も他メディアも考えていない。
いま朝日新聞が慰安婦報道の結果責任をとるべきことは、米韓中を含む日本と関係が深い世界の主要紙に、全面広告を出稿して、「朝日新聞の誤報が国際社会の誤った世論形成にあずかったことへの謝罪」と当時の日本政府の植民地政策の実態(朝鮮や台湾に帝国大学を設立したり、教育制度を日本並みに充実したりしたこと。植民地国の人たちを日本人と同等に扱うよう指示していたこと。日本軍兵士の性犯罪を防止するために慰安所を設け現地の売春婦を中心に募集したこと=募集活動に当たったのは業者)を明らかにすることだ。
もちろん今でも外国人の研修制度を悪用して最悪な作業環境の中で、低賃金でこき使う悪質な業者が後を絶たない現実があり、当時も軍の一部と癒着した業者が売春婦ではない素人の韓国女性を「強制的に慰安婦にして逃げ出せないような環境下に置いた」事実もおそらく相当数あっただろうことは想像に難くない。そうした事実は、確認できないまでもかなりありえたとして、吉田「証言」に類似したケースまでをも全否定するものではないと、国際社会に向かって釈明すべきである。
先の大戦で果たしたメディアの責任を、メディアがどう取ったか。「軍の弾圧に屈した」という責任回避の姿勢が生み出したメディアの腐った体質(それは朝日新聞だけに限ったことではない)が、朝日新聞の場合、慰安婦報道の誤報につながったし、原発についての考え方が社説のスタンスとして根っこにあったために福島原発事故についての「吉田調書」のねつ造解釈を生んだという背景を明らかにすべきだろう。
木村社長が急きょ引責辞任の記者会見を開いたのは、その当日、いつもはノーネクタイの菅官房長官が、ネクタイを締めて記者会見に臨み、吉田調書を首相官邸のホームページで公開すると発表したことが原因である。すでに朝日新聞が5月20日に1面トップで報じた「吉田所長の命令に違反して所員の9割が第2原発に逃げ出した」という記事について「ねつ造ではないか」という指摘は他メディアからされていた。その指摘には頬被りしてきた朝日新聞が菅官房長官の会見によって窮地に陥り、責任をとることにしたのは、まぎれもなく朝日新聞が権力に屈服したことの動かし難い証拠になる。(明日は日本人が集団で国家権力やテロ集団によって人質にされた事件について、改めて考察する。「イスラム国」に対して武力行使に踏み切った米オバマ大統領と、その行為を支持した安倍総理の外交姿勢、それを読売新聞と朝日新聞はどう評価したかの検証にどうしても必要な作業だと考えるからだ)