小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

朝日新聞の誤報とねつ造の検証――既存メディアが怖くてできない検証作業③

2014-09-19 09:43:52 | Weblog
 朝日新聞事件についてのブログは昨日で終わる予定だったが、急用ができてブログを書けなかった。すでに朝日新聞社木村社長の引責辞任の本当の理由は明らかにした。
 読売新聞読者センターとの争いのようなことは朝日新聞では起きないようなので、朝日新聞お客様オフィスとのやり取りについて、全部ではないが(私は電話でのやり取りは録音していないので、記憶の範囲で)公開する。
 はっきり言えば、いま朝日新聞お客様オフィス体制は臨戦態勢にある。相当なベテラン記者を配属して、「戦うお客様オフィス」を前面に押し出している。朝日新聞は記者にツイッターなどで自由にものが言える社内体制を構築している。いま読売新聞読者センターは、私と極めて有効な関係にあり、読売新聞がとっているスタンスに対して痛烈な批判をしても正面から受け止めてくれる。反発する人がゼロになったとまでは言わないが、大半の方は私の主張に同意してくれる。が、新聞の論調がいぜんとして安倍ベッタリズムなので、読売新聞読者センターとのやり取りは公開できない。また犯人探しをして「言った」「言わない」の対立になり、再び読売新聞読者センターが大混乱に陥るようなことになって、私も自由に話ができなくなることのほうが怖いので、読売新聞読者センターとのやり取りについては一切具体的なことはブログで公開しない。
 ただ朝日新聞お客様オフィスとのやり取りで、私の朝日新聞事件の分析が間違っていないことを確信したので、その範囲で朝日新聞社を信じてお客様オフィスとのやり取りで重要な部分を公開する。読売新聞社の記者も、早く自由にものが言えるような体制に移行してほしいと思う。実は、私とのやり取りでは、私を信じてくださっているようで、本音を話してくださる。読売新聞社も今変わりつつあるのかもしれない。他人様の不幸が引き金であったとしても、メディアの体質が変わることになれば、私のブログ活動はささやかな貢献をしたと、「自分で自分をほめてやりたい」。
 
 まず今回の問題の発端は、8月5,6の両日にわたって朝日新聞が大々的に公表した慰安婦問題についての誤報を明らかにしたことである。
 私も吉田清治の『私の戦争犯罪』はフィクションであることをとっくにブログで明らかにしており、メディア界では常識だった。問題は朝日新聞がなぜ誤報であったことをいままで頬冠りしてきたのか、そして今頃になって済州島まで調査取材に行って吉田証言は虚構だったことを確認したのか、ということにある。
 そもそも、その原因を作ったのは安倍総理が設置した第三者委員会による「河野談話の作成過程の検証作業」にあった。その検証結果を政府が公表したため、メディアも大騒ぎになった。私が慰安婦報道に大きな関心を抱くようになった
のも、正直のところ、この大騒ぎがきっかけであった。
 いま韓国は必死になって安倍総理が設置した第三者委員会による検証結果を覆そうと必死になっており、当時の金政府が探し出し日本側に証人として送り込んだ自称「元慰安婦」の河野プロジェクトによる聞き取り調査の録音の一部の公開に踏み切っている。菅官房長官はきわめて不快の念を記者会見で明らかにした。この問題は、ここまで来ると、今さらなかったことにしようという外交的駆け引きは不可能になった。
 安倍政権は河野談話の作成過程について検証作業を行い、韓国の金政権による要請によって慰安婦問題の調査を始め、韓国側が証人として送り込んだ16人の慰安婦の証言だけを根拠に「軍による強制性」を認めたのが河野談話だった。
 吉田証言の信ぴょう性を確認せずに吉田清治を「自らの戦争犯罪を告白した勇気ある人」と英雄視するがごとき報道を繰り返して国際世論に大きな影響を与えたことと、河野談話の作成とはまったく別の問題であり、吉田清治のフィクションが国際社会で慰安婦問題についての認識として定着した過程で朝日新聞が果たした役割とは、また別の次元で論じなければならない。
 そのあたりの問題をごっちゃにして朝日新聞批判を他メディアがし始めたため、メディアの混乱はより拡大した。
 問題点を論理的に整理しておく。私の指摘は朝日新聞批判を繰り返しているメディアの方の多くも同意されている。どのメディアのどういう立場にある人かは書けない。書くと、また不毛な「言った」「言わない」から「犯人探し」に発展して、私が「ねつ造者」呼ばわりされかねないからだ。
 まず安倍総理が「河野談話」を見直そうと考えたのは第1次内閣のときからだった。すでに多くのメディアから吉田証言に対する疑問が出されており、韓国内でもメディアの一部や学者が自称「元慰安婦」証言についても疑問が出されていた。政府が「河野談話」の見直しをするのは当然であり、その前提として段階を踏んだのが「河野談話の作成過程の検証」であった。
 安倍総理が中途半端なのは、あたかも「信念の政治家」であるかのように装いながら、信念のひとかけらもないタダの権力主義者にすぎないことをメディアがまだ気づいていないことに問題が混乱した最大の原因がある。そもそも「河野談話の作成過程の検証」を行うことにしたのは、「河野談話の見直し」をするための根拠を見つけることにあったはずだ。私も「河野談話の作成過程」の一部が検証されたことで、読売新聞や産経新聞、日本経済新聞などが主張しているように「河野談話」自体の検証と見直しをすべきだと考えている。
 河野談話が作成されることに至った経緯はかなり明らかになってきた。当時慰安婦問題で韓国内で反日感情が高まっていた金政権にとって、日韓関係がこじれたままだと日本企業の韓国進出にも歯止めがかかってしまい、韓国が目指していたエレクトロニクスをベースにした技術立国の先行きに暗雲が垂れ込めかねないという危惧が大きかった。
 そのため金大統領は、国内の反日感情を鎮静化するため「金銭的補償は要求
しないから、慰安婦問題について謝罪だけしてほしい」と頭を下げて日本政府に頼んできた。それがのちに、どう尾を引くか考えなかった当時の宮沢総理の名前が、なぜか「河野談話」問題の議論の中で登場しない。「河野談話」を発表したときの河野洋平氏は、宮沢内閣の官房長官を務めており、その立場で「河野談話」を発表している。
 官房長官は「総理の女房役」とも「政府のスポークススマン」とも言われている。つまり総理の意向に最も忠実な人物であり、総理に何かあった場合、代理を務めるくらいの地位にある(副総理がいる場合は副総理に次ぐ)。当然、総理と一心同体であり、自民党政権では(現自公連立政権も含め)総理派閥内で総理がもっとも信用する人物を総理は選ぶ。つまり「河野談話」は宮沢内閣の意を体したものであり、談話の責任は発表者の河野氏ではなく、宮沢総理にあることを意味する。
 過去、私が知る限り総理の意向に逆らった官房長官は、細川内閣の武村官房長官だけである。このときは、細川総理が唐突に「消費税を廃止して、社会福祉税を導入する」と独断で税制改革構想を発表したのに対して、定例記者会見で真っ向から武村官房長官が批判したという、異例中の異例のケースである。が、細川政権はもともと野合政権にすぎず、細川総理率いる日本新党に官房長官を務められるほどの見識ある国会議員がいなかったため、やむを得ず親友でもあった他党の党首を官房長官に抜擢せざるを得なかったという事情があった。
 が、宮沢内閣時における河野官房長官の地位は、武村氏のような立場にはなく、現在の菅官房長官と同様の立場にあった。河野氏が、宮沢総理の意を受けずに勝手に「自分の私見」を発表できるわけがなく、いま「河野談話」の見直しをするのであれば、当然宮沢内閣の慰安婦問題についてのスタンスが問われなければならない。だから、河野氏だけを血祭りにしようという安倍総理の姿勢もまた問われるべきである。
 いずれにせよ、「河野談話の作成過程の見直し」で、全容ではないにしても日韓での談話作成についてのすり合わせのプロセスの一部が明確になった。当時の日韓両政府による政治的配慮によって作成されたのが「河野談話」であったことが明らかになった以上、「河野談話」を継承するかどうかは別にして「河野談話の見直し作業」は当然行わなければならない。
 そして「河野談話」の根拠とされた自称「元慰安婦」の聞き取りと言ういい加減な「調査」が「慰安所設置と慰安婦募集、さらに慰安所における慰安婦の生活」が軍の強制によるものではないという事実が明らかになったら、国際社会における認識の誤りを正すのが安倍総理の責任になるのは当然だ。
 が、肝心の宮沢内閣や安倍内閣の責任追及を怠ったまま、あたかも朝日新聞の報道だけが日本を貶めてきたかのような、朝日新聞に対する追及の仕方がメディアとしてフェアと言えるのか。
 私の朝日新聞への批判の厳しさは、朝日新聞お客様オフィスが悲鳴を上げるほど手厳しいことは朝日新聞お客様オフィスの多くの方が認めている。「こんな手厳しい批判を受けたことがない」と言いつつ、私の主張に納得される。もっとも、NHKや読売新聞もそうだが、私と話し合った人たちが納得されても、私の意見が紙面やテレビのニュースに反映されるケースはきわめて少ない。
 過去において私の主張が反映されたのは、安保法制懇の位置付けに関して、NHKがアナウンサーの発言だけでなくテロップ(字幕)でも「政府の有識者…」とオーソライズした報道を続けていたのに対して連日上席責任者に抗議を続け、ついにNHKが「安倍総理が設置した有識者…」と位置付けを変更したことくらいである。
 もっと昔には女子フィギュアスケートの国際大会であるNHK杯を録画放送していたのに強烈に抗議し(この抗議は私だけではなかったと思う)、NHKが生放送に変更したことがある。
 いま私はNHKと朝日新聞に対してウクライナ紛争の当事者の一方について「親ロシア派」という位置付け方はおかしいと申し入れている。いまこの記事を書きながら思い出したので、ついでに書いておくが、ポロシェンコ政権が正式に誕生する前の対立構図について、すべてのメディアが「暫定政権vs親ロシア派」と位置付けていた時期がある。当事者の一方を「親ロシア派」と位置付けるなら「暫定政権」は「親欧米派」と位置付けるべきだと主張し、ブログにも散々書いてきた。これは特定のメディアにだけそういう指摘をしてきたわけではないので経緯は不明だが、いつの間にか全メディアがウクライナにおける対立の構図を「親欧米派vs親ロシア派」に変えた。
 いま私はNHKと朝日新聞に「親ロシア派」という位置付けについて、いったん、そういう位置付けをしてしまうと、その位置付け自体が政治的意味合いを持って独り歩きを始めてしまうと指摘している。NHKは「多分報道部門は分かりやすさを重視しているのだと思う」と返答されたので、「分かりやすければいいという話ではない。NHKが何らかの政治的意図をもってそう位置づけているとは私も思っていないが、政治的意味合いを持つ位置付けが正確でなければ、視聴者に対するマインド・コントロールにつながる。報道における表現の厳しさに対する自覚がメディアになさすぎる」と指摘した。
 この指摘にはNHKも朝日新聞も同意してくれたが、どう位置付けを変えるか。NHKには「親ロシア派」という位置付けに変えて「(ウクライナ)東部の分離独立派」という位置付けに変えるべきだと申し入れているが、まだ朝日新聞にはそういう新位置付けの提案はしていない。おそらくNHKはウクライナ東部の反ポロシェンコ勢力について、私の提案を受け入れた位置付けに変えると思う。

 私がこの連載ブログで書きたかったこと。
 その最大のポイントは、「あらゆる自由の中で、言論・報道の自由は民主主義社会を一歩前進させるために(民主主義を守るためではない。民主主義にはゴールはない)、最も大切な自由だ。が、自由の権利だけを主張する一方、権利の大きさには権利の行使に伴う責任の重さが、べったりへばりついているという自覚をメディアが失っているのではないか」という一点である。
 先の大戦においてメディアが報道の自由を軍部によって制限されていた事情は、私も認めるにやぶさかではない。が、メディアが報じた様々な「美談」や「竹槍で戦え」と国民の戦意を高揚してマインド・コントロールしろとまでは、いくら軍部もメディアに命じていないはずだ。先の大戦におけるメディアは、軍部の言いなりになったと、しおらしく反省はして見せているが、本当の責任は軍部に逆らわなかったことではなく、軍部に自ら媚を売って若い人たちの命を犬のように扱ってきたことだ。
 安倍総理が、「今日の日本があるのは、先の大戦で尊い命を捧げてくれた方たちのおかげだ。感謝の念を表すために靖国神社に参拝する」と言うなら、メディアの代表者たちは、「私たちのせいで、あたら招来ある青年たちを犬死に追いやったことに対して、謝罪の念を表すために靖国神社に参拝」すべきではないか。メディアが取るべき責任の在り方について、とりあえず、この連載ブログを終える。

 なお今日午後にはイギリス・スコットランドの住民投票の結果が判明する。すでに開票作業に入っていると思うが、状況はまだ不明だ。独立派と半独立派が拮抗しており、イギリスは現在の国家になって以来最大の危機を迎えている。今朝の新聞報道によれば僅差で独立反対派がリードしているようだが、世論調査のアナウンス効果がどう出るか。
 もちろん大差がついていると雪崩現象が生じるのがアナウンス効果でもあるが、僅差の場合は逆効果になるケースが少なくない。ただ今回の場合、また態度不明としている人たちが4%前後の少数なので、果たしてアナウンス効果が生じる余地があるかどうか、私はアナウンス効果による逆転の可能性は少ないと見ているが…。