小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

朝日新聞の「吉田調書」報道は誤報か? 違うよ、ねつ造だ。

2014-09-12 08:18:47 | Weblog
 昨日午後7時30分から朝日新聞の木村伊量(ただかず)社長が謝罪記者会見した。東電福島第1原発事故に関して政府の事故調査・検証委員会が実施した吉田昌郎元所長(故人)に対する聴取記録(吉田調書)についての報道に誤りがあったと認め、引責辞任を表明した。
 どんな「謝った報道」をしたのか。木村社長はこう述べた。
「社内の精査の結果、吉田調書を読み解く過程で評価を誤り、多くの東電社員らがその場から逃げ出したかのような印象を与え、間違った記事だと判断した」
 そんな程度の「誤報」か。そんな程度の誤報なら、どのメディアもしばしばしている。ただ、誤報と分かっても知らんぷりをするのがメディア界の常識であり「モラル」だと、私は理解していた。
 朝日新聞が「誤報」と認めたのは、5月20日付朝刊1面トップに掲載した「福島第1原発にいた東電社員らの9割にあたる約650人が吉田所長の待機命令に違反し、10キロ南の福島第2原発に撤退した」という記事である。
 この記事のどこが社長の引責辞任につながるほどの「誤り」だったのか。木村社長は、その肝心の部分を曖昧にしたまま(「撤退」という文字が問題だったとしたが)記者会見の場から逃げ出した。「自分は辞めるんだからもういいだろう」と言わんばかりの態度だった…というのは私の想像による表現である。さて、この私の記事は「誤報」なのだろうか、「ねつ造」なのだろうか。
 私はテレビのニュースで木村社長が謝罪会見をした一部しか見ていない。が、「許される想像の範囲」と考えれば、あながち「誤報」とも言えない。また事実を捻じ曲げた記事でもないから「ねつ造」にも当たらない。正確には「…と言わんばかりの態度に見えた」と書けば、「私の目にはそう見えた」ということであり、その私の見方に対して「その見方はおかしい」と批判はできても、「誤報」あるいは「ねつ造」と決めつけることはできない。
 禅問答のような書き方をしたのは、木村社長が朝日新聞の解体を身を以って防ぐために、引責辞任という方法で問題点を曖昧なままにして蓋を締めようとしたということを明らかにするためである。
 はっきり書く。慰安婦報道と「吉田調書」報道は全く別次元の問題であり、慰安婦報道での責任は取ろうとしなかったのに、「吉田調書」報道での責任をなぜ取るのか、ということである。
 これは報道の在り方と報道の目的に関する本質的な問題なのだ。
「報道の在り方」という面から考えると、取材や記事は絶対に「色眼鏡」から解放されないという自覚を、ジャーナリストがどの程度自覚するかによって大きく異なってくる。自分は公平(あるいはフェア、公正)であると勝手に思い込んでいるジャーナリストは、すでにその時点でジャーナリスト失格である。私もブログを書く際、自分自身の色眼鏡をかけて書いている。その色眼鏡が曇
っているかいないか、確認するためにメディアの窓口にしばしば電話をして反論があり、かつ合理的なものであればブログで書く内容を変更する。
 次に「報道の目的」である。これはメディアのスタンスや方針に直結する問題だ。社員が自分の属する組織の方針にある程度従わざるを得ないのはやむを得ないと思う。が、組織の方針と多少異なった主張をしても、それなりに論理的合理性がある主張についてまでボツにされることは、そんなにはない。メディアの記者には、それなりの自由度が認められている。そうした自由度が保証されていなければ、メディアは政党の広報紙と変わらない。

 実は昨日、メディアに片っ端から電話した。異例だったのはNHKと朝日新聞。
NHKはふれあいセンターのコミュニケーターが最初に電話に出る。NHKふれあいセンターは電話番号と話した内容を記録している(録音)。NHKふれあいセンターに電話をして「上席責任者に代わってほしい」と頼んだが、コミュニケーターは「私がご意見を受けます」と、頑として電話を責任者につなごうとしない。やむを得ずコミュニケーターに意見を言ったが、すべて「おっしゃる通りです」といった肯定的な返事しか返ってこない。
 通常のコミュニケーター以上にいろいろなことを知っており、たとえば川内原発再稼働について、小渕優子経産相が「安全が確認され次第、順次原発を再稼働していきたい」と記者会見で述べたことも承知していた。私が「原発に限らず100%ということはありえない」といった途端「その通りでございます」。「自然災害にしても、これ以上の自然災害はありえないといった限界基準などない」と言いつのっても「その通りでございます」。「安全性というのは安全確率のことであり、こういう条件下では99.999…%安全といえるが、こういうケースが生じると安全確率は50%に下がるという正確な情報を地元住民にきちんと公開しないとフェアとは言えない」とまで言っても、「その通りでございます」。
 まさに「暖簾に腕押し」とはこのことだ。そもそもコミュニケーターは「人間録音機」で、自分の意見は言ってはいけないことになっている。そういう意味では昨日、私の電話に対応したコミュニケーターは完全にコンプライアンス違反の対応をしたのだが、そういう自覚もないようだ。
 これは私の想像だが、昨日のブログを見てふれあいセンターが、私専用の、相当力量のある人材をコミュニケーターとして配属したのではないかと思う。電話でのやり取りに私が不快感を覚えたことはまったくなかった。受け答えはしっかりしており、私からの電話には何でもかんでも「その通りでございます」と答えろという指示など受けていないはずだ。私がおかしなことを言っても「その通りでございます」などと肯定して、それをブログで書かれたら大変な問題になりかねないからだ。ま、あまり勝手な想像で書くのはよくないので、この
問題はこの辺でやめておく。
 もう一人は朝日新聞お客様オフィスの方である。お客様オフィスには電話が殺到したようで、なかなかつながらず、9時直前になってようやくつながった。が、こちらもいつものようなフランクな対応はしてもらえなかった。「読者によってはひそかに録音されていて、ネットで書かれてしまうことがあるので、私の意見は申し上げられない」とつれない。「私は録音などしていないよ」と言っても、私の質問には全く答えない。確かに微妙な問題ではあるが、いま朝日新聞のすべての読者と接する(記者のような間接的に接する方も含めて)社員は、メディアに属する人間としての良心が問われているときである。自分の素直な考えを述べられないようなら、そのポジションにいるべきではない。総務部か庶務課にでも転属していただくしかない。
 読売新聞読者センターには二度電話したが(対応していただいた方は別人)、最初の方への私の説明が不十分だったのか、ちゃんと理解していただけたか不安に思ったので再度電話した。二度目の方には私も筋道立てて説明できたと思うし、ご理解いただけたようだった。
 
 木村社長の謝罪会見については全国紙各紙が大きく報道したが、社説で取り上げたのは読売新聞と毎日新聞だけだった。読売新聞は社説欄全面を使ってこの問題について書いたが、肝心の朝日新聞の社説は法務大学院問題とイラク空爆問題の二つで、1面トップ記事では大きく報じたが、社説での掲載は見送った。慰安婦誤報問題を朝日新聞が報じたときには、お客様オフィスの方からきわめてフェアに対応していただいた記憶がある。その方の私の電話への対応が社内で問題になるとご迷惑をかけると思って、あえて私は書かなかったが、私の主張にすべてご同意いただいた。いま書いても社内で問題化するとは思えないので、私の記憶に基づいて確かなことだけ書く。

① 吉田清治のねつ造「小説」『私の戦争犯罪』が出版された時の社会状況と、朝日新聞のスタンスから、このフィクションを鵜呑みにしてしまったことはやむを得ない、と私は思っている。が、吉田が「あれはフィクションだ」と証言した時点で、誤報であることがはっきりしたのに、なぜ誤報であったことを明らかにできなかったのかの(しなかったのではなくて「できなかった」ことの)検証記事を書くべきだ。
② 私はあらゆる自由の中で「言論の自由」は、民主主義を「育てる」ために最も重要視されるべき自由だと思っている。が、自由の権利が大きければ大きいほど、その自由には同等の重さの責任が、1枚の紙の裏表のようにべったりくっついている。朝日新聞に限らずメディアに携わる記者たちが、報道や言論の自由と、それに伴う責任の重さに対する自覚を、この誤報問題を契機にどう大きな教訓として生かしていくのか、このことは社説で明確に書くべきだ。

 他にもいろいろ話したかもしれないが、この二つは慰安婦誤報問題に関して一貫して私が書いてきていることであり、「あとから主張」ではない。そしてこの意見に対してお客様オフィスの方は実に誠実に対応してくれた。が、残念ながら朝日新聞の紙面に私の意見が反映されることはなかった。それが今回の「吉田調書」報道の検証作業の遅れにつながってしまった。
 朝日新聞は「吉田調書」の全文を入手して分析した結果として5月20日の記事を掲載した。そして「調書」には書かれていなかった「東電社員らの9割に当たる約650人が吉田所長の待機命令に違反し、10キロ南の福島第2原発に撤退した」と報じた。これは、慰安婦問題誤報とは異質なケースである。慰安婦問題は明らかに誤報である。誤報であることが判明したのちも頬冠りし続けた朝日新聞の体質は問題があるとしても、吉田清治のようなねつ造小説を書いたわけではない。検証せずに鵜呑みにしてしまった結果である。
 が、「吉田調書」報道問題は、「吉田調書」を情報源と特定しながら、調書には書かれていなかったことを、あたかも調書に書かれていたかのように書いた。この行為は、吉田清治と本質において変わらない。もはやメディアとしては自殺行為だ。
 
 今日は体力の限界もあり、ここでキータッチを止める。今日の朝日新聞の「弁解記事」と読売新聞と毎日新聞の社説の検証作業は連休明けに続ける。
 ただ多少危惧していることがある。朝日新聞が「吉田証言」報道について社長が引責辞任を表明したタイミングである。実は、この報道は「でっち上げではないか」という疑問をすでに産経新聞(だったと思う)が指摘していた。そのときは例によって頬冠りしていた朝日新聞が、急きょ記者会見で「誤り」であったことを認めたタイミングである。
 昨日、菅官房長官が急きょ記者会見で「吉田調書」を官邸のホームページで公表すると発表したことだ。しかもいつもはノーネクタイの菅氏が、昨日に限ってネクタイをきちんと締めて記者会見を開いたことだ。独裁政権を築きつつある安倍総理が、安倍政策に批判的な朝日新聞を、この際徹底的に叩いておこうという意図が、垣間見えるような気がしてならない。私の「読み過ぎ」ですめばいいのだが…。

 なお、錦織選手の活躍で後回しにしてきた「親ロシア派」問題について、1点だけ指摘しておく。ウクライナ情勢が沈静化しつつあるので、書くチャンスがなくなってしまう可能性が強くなったためだ。
「◌◌派」という表現は一つのまとまった集団あるいは組織を意味する言葉だ。が、ウクライナのポロシェンコ政権に対する武力抵抗グループは一つではない。こういう場合は、「◌◌勢力」とするのが正しい表現である。私は「反政府武装勢力」とするのが一番正確な表現だと思うが、どうしても「親ロシア」という政治的意図を含めた表現にしたいのであれば「親ロシア派」ではなく「親ロシア勢力」とすべきであろう。
 現に日本の与野党対立についてメディアはどう表記しているか。「与党派」とか「野党派」などとは書かないだろう。そういう書き方は明らかに間違いだからだ。が、「与党勢力」とか「野党勢力」といった表記は日本語として間違った表記ではないし、現にしばしば使用されている。「過ちては即ち改むるに憚ること勿れ」という格言は、こうしたケースのためにある。