私はアメリカという国は大好きである。仕事やレジャーでいろいろな国を訪問してきたが、アメリカには数十回といったが、嫌な思いをしたことはほとんどない。ただ観光地のタクシーの運転手の悪質さだけは、後進国(あえて死語化された差別的用語を使う)並みだ。
ただ絶対に許してはいけないことがある。広島と長崎に落とした原爆である。かつてはさゆリストの一人だった私はいまでも吉永小百合のファンだが、彼女が広島への原爆投下の日に続けている朗読は、もちろん彼女の善意から出ている行為であることは分かっているが、「原爆の悲惨さ」を世界に向けて発信し続ける行為で原爆を世界から廃絶できるのかと考えたら、さゆリストとしては残念ながら「マスターベーションでしかない」と言わざるを得ない。
原爆を世界から廃絶するために、日本ができる唯一の行動は、核不拡散条約の批准を取り消し、「世界のいかなる国も、他国の核攻撃から自国を防衛する手段として核兵器を限定的に認めるべきだ」と国際社会に向けて訴えることだ。言うまでもなく、核不拡散条約は核兵器5大国(米ロ中英仏)にのみ核兵器保有の権利を認め、それ以外の国には核兵器の開発・製造・保有を認めないという条約である。なぜこんなバカげた条約を、世界で唯一の被害国である日本政府が批准したのか、私にはとうてい理解できない。
誤解を避けるために言っておくが、私は西村真悟氏のように、日本も中国や北朝鮮の核に対抗して自衛のための核を持つべきだ、などというバカげた主張をしたいのではない。核不拡散条約が持つ意味をよく理解したら、こんな条約に日本が批准できるわけがないことが分かりそうなものだが…。
核不拡散条約は、核兵器5大国にのみ核兵器の開発・製造・保有の権利を認めている。もちろん国連はこの5大国についてのみ、国際紛争で核兵器を使用してもいい、などと認めているわけではない。また5大国も国際紛争が生じたら核兵器を使う意図など毛頭持っていない。実際アメリカもベトナム戦争で敗北しても核兵器は使用しなかったし、旧ソ連もポーランド動乱やプラハの春を戦車で踏み潰しはしたが、核兵器は使用していない。
では5大国は、なぜ核兵器を完全廃棄しようとせず、自分たちだけの「権利」を相互に認め合い、5大国以外には「権利」を認めないのか。国連憲章は、自衛の権利を認めており、自衛手段は「竹槍に限る」などとは規定していない。
論理的に考えるということは、こうした思考方法のことを言う。ヘーゲルの「弁証法」に関する難解な著作を読まなくても、私の論理的説明は中学生でも理解できるはずだ。
早く朝日新聞事件に戻りたいので、核不拡散条約がかえって5大国の核の脅威を増大させている。日本も含め核を保有していない国は、5大国のいずれかの核の傘のもとで庇護されるか、庇護してくれる国がない場合(核保有国が他国
を核の傘で庇護する場合、当然代償を求める。日本の場合、アメリカの核の傘
で庇護して戴くために、沖縄県民に過大な負担を強いるというのが歴代日本政府の揺るぎない方針である)、あるいは庇護の代償を払いたくないという自尊心の強い国民性の国の場合、自衛のために核を開発・製造・保有する権利を否定する権利は、いかなる国にもないことだけ明確にしておきたい。
日本が先頭に立って核不拡散条約の無効性を国際社会に訴えれば、間違いなく国連総会決議によって核不拡散条約は破棄される。と同時に人類を滅亡の危険から救うために、国連軍以外に核兵器の保有を禁じることを決めればいい。この国連軍は、新たな核兵器の開発はせず、5大国から必要最小限の核兵器を集め、世界の主要な地域に核基地を設ける。国連軍は、核兵器の開発・製造・所有が確実になった国の核兵器や核基地を破壊する権利を無条件に有し、そのためにのみ機能する。他の国際間の紛争に国連軍が介入するときには安全保障理事会の決議によらねばならないが、核武装国に対する制裁行動は国連軍総司令部に決定権を与える。現実的に世界から核兵器を廃絶するためには、この方法しかない。
朝日事件の検証に戻る。朝日新聞にとって不幸だったのは、昨日述べたように1億総懺悔時代に吉田清治というへたくそな小説家が真っ赤なウソで塗り固めた「自叙伝」を書き、自ら「済州島で200人もの慰安婦狩りをした」と「告白」をして、当時の社会背景の中でそうしたねつ造作家を「勇気ある内部告発者」と英雄に祭り上げてしまったことによる。
が、その後、吉田清治の「告白」が真っ赤なウソであることが済州島の地元紙によって暴かれ、日本のメディアも真相の追及を始め、さまざまな疑問点を指摘された吉田清治自身が「あれはフィクションだ」と認めたにもかかわらず、朝日新聞がメディアは絶対ウソは書かないという「神話」を守るために誤報だったことを認めようとしなかった傲慢さが今日の窮地を招いたとも言える。
ではなぜ、こんにち突然誤報報道をしたのか。その理由を朝日新聞社はまず明らかにする必要がある。今ごろ済州島に取材に行って、吉田の「告白」にある慰安婦狩りのような事件はなかったようだ、などという検証をしたのはなぜか。すでに背景に社内での権力争いがあることまでは私も分かっている。が、どういう権力抗争なのか、それはベールに包まれたままだ。
私は権力争いが悪いとは思っていない。東京女子医大の権力抗争は理事会側と医療現場の医師側の対立が抜き差しならないところまで行き、立場の弱い医師側が「医療過誤」という重大な告発をするに至った。その告発によって東京女子医大の内部でどういうことが生じているのかが、誰の目にも明らかになってしまった。医療過誤を隠し続けた理事会側は一転窮地に立ったが、理事会の決議で医学部長を解職してしまった。その後、この事件の報道はされていないが、医学部長が「解職無効」と「地位保全」の訴えを起こしていることには疑いを挟む余地がなく(裏で和解してしまった可能性はあるが)、裁判になれば間違いなく医学部長が勝訴する。もっとも、市役所ビルに特別な権利を持てるわけがない市職員労組の事務所占有権を認めるような裁判官もいるから、絶対とは言い切れないが…。
朝日新聞事件は、ここまで来たら対立している陣営がそれぞれ表に出て、読者の審判を仰ぐべきだ。対立の構造も何もわからないままに、木村社長が引責辞任するという形で幕引きを図ってしまうと、かえって朝日新聞に対する不信感は増幅する。
また朝日新聞社の混乱に乗じて漁夫の利を得ようとしているメディアもないではないが、それは互いにビジネスとして競争関係にある以上「仁義なき戦い」になったとしても朝日新聞が蒔いた種なので、自ら刈り取るしかない。
はっきり言って木村社長の引責辞任は慰安婦関連問題ではない。池上氏の論文の掲載を拒否したことが大変な問題になっているが、確かに朝日新聞の行為は大人気ないと言えば大人気ないが、自社を攻撃する論文を掲載する「良心的」なメディアは、日本に一つでも存在するか。
池上氏も、慰安婦誤報問題が社会的に大きくなりすぎたため、『新聞ナナメ読み』というコラムを連載している以上黙視するわけにもいかず、私が読んだ限りではかなり抑制をきかせた書き方をしている。池上氏の原稿にどういう修正を朝日新聞が要求したかは明らかにされていないが、事実誤認の要素があれば修正を求めるのは編集権の範囲であり、池上氏が応じなかった場合原稿掲載を拒否するのは、やはり編集権の範囲である。が、事実誤認による掲載拒否ではなかったようで、そうなると従来のメディアの基本原則である「批判は許さない」というスタンスを貫いたということにすぎず、そんなことは目くじらを立てるほどのことではない。
池上氏の原稿拒否が木村社長を引責辞任に追い込んだかのような報道をしているメディアもあるが、そうした「誤報」も朝日新聞が自ら蒔いた種である。木村社長が引責辞任を発表した記者会見で、理由の一つとして池上問題を挙げたことが、その後のメディアの報道スタンスになってしまったからである。ま、確かに分かりやすさということを基準にすれば、辞任理由としてこれほど分か
りやすいことはなく、読者や視聴者も分かりやすいがゆえに簡単に納得してし
まった。
真相はどうなのか。権力抗争というのは、ある日突然終わりを告げるといったケースはクーデターしかありえず、かつて三越の「天皇」と自他ともに認められていたワンマン経営者の岡田社長が、取締役会で突如解任され「なぜだ」と発したひと言が流行語になったことがあったが、こうしたケースは権力基盤が強いほど対抗する手段としてとられることがままある。
朝日新聞社の場合は、木村社長がそれほど強固な権力基盤を構築していたとは思えず、取締役会での解任決議によるものではない。だから引責辞任する時期も明確にされていず、「改革と再生に向けた道筋をつけたうえで進退を決める」というあいまいなものだった。しかも辞任発言の中で慰安婦報道についても触れたことが、さらにメディアの混乱を招いた。たとえば産経新聞は13日付の産経抄でこう書いた。
一昨日(11日)の社長会見でも、お詫びの主題は「吉田調書」の方で、「吉田証言」への謝罪は付け足しだった。しかも一連の慰安婦報道が、国際社会に与えた影響などの検証は、社外の第三者委員会に委ねるという。外部の有識者に甘い言葉をかけてもらいたいのだろうが、どうも往生際が悪い。
読者はとっくにご存じだと思うが、「吉田調書」というのは福島原発事故について事故調が吉田所長に聞き取り調査をした記録を指す。「吉田証言」とは慰安婦狩りをしたと「告白」したフィクションである。この二つを木村社長がごっちゃにした記者会見をしてしまったために、産経新聞からこのように誤解されてしまった。
木村社長が引責辞任に追い込まれた理由は、私が12日に投稿したブログで明らかにしたように、朝日新聞が吉田清治と同様のねつ造記事を書いたからだ。私はそのブログのタイトルをこう付けた。
『朝日新聞の「吉田調書」報道は誤報か? 違うよ、ねつ造だ』
産経新聞が主張するように、慰安婦報道のほうが国際社会に大きな影響を与えたという意味では、朝日の歴史に消すことができない汚点を残した。が、慰安婦報道はあくまで誤報であり、吉田清治の「告白」を信じ込んだ背景には1億総懺悔の社会風潮があったこと、また戦後の手のひらを返すような朝日の報道スタンスの激変が誤報を生む土壌を作ってきたというケースである。当時の一連の慰安婦報道には、おそらくねつ造記事もあったと思われるが、それもまた当時の社会的風潮と朝日新聞の社内風土によると考えられる。もちろん、だからといって許されることではないが、もう墓場の中に埋葬された話だ。もし掘り返すとしたら、そのやり方は、アメリカや韓国も含めて主要国の主要紙に全面記事広告を出稿して、当時の慰安所の運営状態や、慰安所の設置について大本営や参謀本部が軍各部隊に指令した公式文書を明らかにして、慰安婦募集に関して軍による強制など事実としてなかったこと、また慰安所を設置したのは、戦時下において日本兵士が自分の性欲を満たすために、強姦などの性暴力を行うことを阻止するためだったことを明確にすべきである。
私は先の大戦における日本政府の植民地政策を全否定してはいるが、それでも日本政府の植民地統治政策は欧米のものとは明らかに違っていた。朝鮮や台湾では帝国大学まで作り、支配下に置いた国民の教育にかなりの力を注ぎ、基本的には日本人と同等の扱いをするよう軍や企業に指示していた。そうした証拠はたくさんある。もちろん政府の指示に違反して朝鮮人や中国人に対してひどい扱いをした企業も少なくなく、官民癒着が今日よりひどかった時代でもあって、官が見て見ぬふりをしてきたことも、事実として多くの事例が確認されている。
一方欧米の植民地政策はどうだったのか。アヘンの輸入を禁じた清王朝に対して、アヘンの輸出権利を守るために戦争を起こしたイギリスは、いまだに中国だけでなく、国際社会に対しても謝罪していない。
またノルマンディ作戦で膨大な人的被害を出したアメリカは、あれだけ大きな犠牲を払いながらドイツには原爆を投下せず、最後の上陸戦で日本軍を壊滅した沖縄戦以降は、一切上陸作戦を行っておらず、日本の至る所を空襲して都市機能を壊滅して日本の抵抗力を破壊しておきながら、ただ原爆の効果を実験によって確認するためという目的で、2種類の異なったタイプの原爆を広島と長崎に投下したアメリカは、いまだにその非人道的行為を誤りだったと認めてもいないし、犠牲者への謝罪もしていない。
なぜか。イギリスもアメリカも、戦争における勝者だったからだ。アメリカがナパーム弾や枯葉剤の問題を追及されたのは、ベトナム戦争だけであり、アメリカが唯一負けた戦争だからである。
朝日新聞が今日、採りうる、あるいは採るべき方法は、先に述べたように世界の主要国の主要紙に全面記事広告を出稿して戦争の真実を伝え、いつまで人類は「勝てば官軍、負ければ賊軍」の歴史認識基準を正当化するのか、と世界の人たちに向かって問いかけることだ。慰安婦問題での誤報が国際社会に与えた影響の大きさを考えると、社長が責任をとって済むような話ではない。
木村社長が引責辞任を発表したのは、その当日、菅官房長官が「吉田調書」の全文をネットで公開すると発表したからである。実は朝日新聞は「吉田調書」の全文を入手したうえで、「吉田調書」を根拠として、所員の9割が所長命令に
違反して第1原発を逃げ出して第2原発に避難したという記事を、5月20日の朝刊1面トップで大々的に報じたことによる。
その後「吉田調書」を入手したメディアが、朝日新聞が報道したような事実は「吉田調書」からは確認できないことを指摘していたが、朝日新聞は無視し続けた。が、9月11日になって突然政府が「吉田調書」の全文をネットで公開すると発表した。しかも、私は夏に入って以降見たことがないネクタイ姿の菅官房長官が行った記者会見でだ。
政府が、安倍内閣に厳しい報道を続ける朝日新聞にお灸をすえるために行った記者会見なのかどうかは、私には分からない。ただ朝日新聞社の首脳部がこの記者会見で大混乱に陥ったことだけは間違いない。「政府に潰されるかもしれない」という恐怖感を彼らが抱いたとしても不思議ではない。
なぜなら、5月20日の朝の1面トップ記事は「誤報」ではなく「ねつ造」だったからだ。
日本社会には、主君の仇を討った『忠臣蔵』をいまでも美談としている価値観が根付いている。つまり、目的さえ正しければ手段は問わない、という価値観である。朝日新聞事件の根幹には、そうした価値観が横たわっている。
その点、アメリカは不思議な国だな、とたびたび思うが、国外ではめちゃくちゃなことを容認しているが、国内ではルールについて世界一厳しい国だ。たとえばマクドナルドなど、日本では客離れが生じているが、アメリカで同じことをしたら間違いなく潰されている。「目的の正当性」より「目的を達成するための手段」がフェアかどうか、あるいはちゃんとルールを守っているかが厳しく問われる国だからだ。
アメリカの公務員には「1ドル規制」というのがある。仕事の関係者ではなく、学校時代の友人と飲み食いする場合でも、1ドル以上の接待を受けたら問答無用でクビになるというルールだ。
私の学生時代の友人でアメリカ国籍を取って政府の職員になった人がいる。かなり前の話だが、その人が日本に帰ってきて、久しぶりだから飯でも食おうということになった。大した金額ではなかったが、支払いのときになって「私が払うよ」と言ったら「だめだ。私はクビになる。割り勘にしてくれ」と譲らない。「ここは日本だぜ」と言っても、「見張られていないから大丈夫」という感覚になることが怖いのだ、と言う。アメリカって、なんて素晴らしい国なんだ、と思う。あとは、読者自身が考えてほしい。