小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

無題

2014-09-18 06:31:37 | Weblog
今日は急用ができて、これから外出することになりました。
そういうわけで今日のブログは休ませていただきます。

朝日新聞の誤報とねつ造の検証――既存メディアが怖くてできない検証作業②

2014-09-17 07:34:23 | Weblog
 私はアメリカという国は大好きである。仕事やレジャーでいろいろな国を訪問してきたが、アメリカには数十回といったが、嫌な思いをしたことはほとんどない。ただ観光地のタクシーの運転手の悪質さだけは、後進国(あえて死語化された差別的用語を使う)並みだ。
 ただ絶対に許してはいけないことがある。広島と長崎に落とした原爆である。かつてはさゆリストの一人だった私はいまでも吉永小百合のファンだが、彼女が広島への原爆投下の日に続けている朗読は、もちろん彼女の善意から出ている行為であることは分かっているが、「原爆の悲惨さ」を世界に向けて発信し続ける行為で原爆を世界から廃絶できるのかと考えたら、さゆリストとしては残念ながら「マスターベーションでしかない」と言わざるを得ない。
 原爆を世界から廃絶するために、日本ができる唯一の行動は、核不拡散条約の批准を取り消し、「世界のいかなる国も、他国の核攻撃から自国を防衛する手段として核兵器を限定的に認めるべきだ」と国際社会に向けて訴えることだ。言うまでもなく、核不拡散条約は核兵器5大国(米ロ中英仏)にのみ核兵器保有の権利を認め、それ以外の国には核兵器の開発・製造・保有を認めないという条約である。なぜこんなバカげた条約を、世界で唯一の被害国である日本政府が批准したのか、私にはとうてい理解できない。
 誤解を避けるために言っておくが、私は西村真悟氏のように、日本も中国や北朝鮮の核に対抗して自衛のための核を持つべきだ、などというバカげた主張をしたいのではない。核不拡散条約が持つ意味をよく理解したら、こんな条約に日本が批准できるわけがないことが分かりそうなものだが…。
 核不拡散条約は、核兵器5大国にのみ核兵器の開発・製造・保有の権利を認めている。もちろん国連はこの5大国についてのみ、国際紛争で核兵器を使用してもいい、などと認めているわけではない。また5大国も国際紛争が生じたら核兵器を使う意図など毛頭持っていない。実際アメリカもベトナム戦争で敗北しても核兵器は使用しなかったし、旧ソ連もポーランド動乱やプラハの春を戦車で踏み潰しはしたが、核兵器は使用していない。
 では5大国は、なぜ核兵器を完全廃棄しようとせず、自分たちだけの「権利」を相互に認め合い、5大国以外には「権利」を認めないのか。国連憲章は、自衛の権利を認めており、自衛手段は「竹槍に限る」などとは規定していない。
 論理的に考えるということは、こうした思考方法のことを言う。ヘーゲルの「弁証法」に関する難解な著作を読まなくても、私の論理的説明は中学生でも理解できるはずだ。
 早く朝日新聞事件に戻りたいので、核不拡散条約がかえって5大国の核の脅威を増大させている。日本も含め核を保有していない国は、5大国のいずれかの核の傘のもとで庇護されるか、庇護してくれる国がない場合(核保有国が他国
を核の傘で庇護する場合、当然代償を求める。日本の場合、アメリカの核の傘
で庇護して戴くために、沖縄県民に過大な負担を強いるというのが歴代日本政府の揺るぎない方針である)、あるいは庇護の代償を払いたくないという自尊心の強い国民性の国の場合、自衛のために核を開発・製造・保有する権利を否定する権利は、いかなる国にもないことだけ明確にしておきたい。
 日本が先頭に立って核不拡散条約の無効性を国際社会に訴えれば、間違いなく国連総会決議によって核不拡散条約は破棄される。と同時に人類を滅亡の危険から救うために、国連軍以外に核兵器の保有を禁じることを決めればいい。この国連軍は、新たな核兵器の開発はせず、5大国から必要最小限の核兵器を集め、世界の主要な地域に核基地を設ける。国連軍は、核兵器の開発・製造・所有が確実になった国の核兵器や核基地を破壊する権利を無条件に有し、そのためにのみ機能する。他の国際間の紛争に国連軍が介入するときには安全保障理事会の決議によらねばならないが、核武装国に対する制裁行動は国連軍総司令部に決定権を与える。現実的に世界から核兵器を廃絶するためには、この方法しかない。

 朝日事件の検証に戻る。朝日新聞にとって不幸だったのは、昨日述べたように1億総懺悔時代に吉田清治というへたくそな小説家が真っ赤なウソで塗り固めた「自叙伝」を書き、自ら「済州島で200人もの慰安婦狩りをした」と「告白」をして、当時の社会背景の中でそうしたねつ造作家を「勇気ある内部告発者」と英雄に祭り上げてしまったことによる。
 が、その後、吉田清治の「告白」が真っ赤なウソであることが済州島の地元紙によって暴かれ、日本のメディアも真相の追及を始め、さまざまな疑問点を指摘された吉田清治自身が「あれはフィクションだ」と認めたにもかかわらず、朝日新聞がメディアは絶対ウソは書かないという「神話」を守るために誤報だったことを認めようとしなかった傲慢さが今日の窮地を招いたとも言える。
 ではなぜ、こんにち突然誤報報道をしたのか。その理由を朝日新聞社はまず明らかにする必要がある。今ごろ済州島に取材に行って、吉田の「告白」にある慰安婦狩りのような事件はなかったようだ、などという検証をしたのはなぜか。すでに背景に社内での権力争いがあることまでは私も分かっている。が、どういう権力抗争なのか、それはベールに包まれたままだ。
 私は権力争いが悪いとは思っていない。東京女子医大の権力抗争は理事会側と医療現場の医師側の対立が抜き差しならないところまで行き、立場の弱い医師側が「医療過誤」という重大な告発をするに至った。その告発によって東京女子医大の内部でどういうことが生じているのかが、誰の目にも明らかになってしまった。医療過誤を隠し続けた理事会側は一転窮地に立ったが、理事会の決議で医学部長を解職してしまった。その後、この事件の報道はされていないが、医学部長が「解職無効」と「地位保全」の訴えを起こしていることには疑いを挟む余地がなく(裏で和解してしまった可能性はあるが)、裁判になれば間違いなく医学部長が勝訴する。もっとも、市役所ビルに特別な権利を持てるわけがない市職員労組の事務所占有権を認めるような裁判官もいるから、絶対とは言い切れないが…。
 朝日新聞事件は、ここまで来たら対立している陣営がそれぞれ表に出て、読者の審判を仰ぐべきだ。対立の構造も何もわからないままに、木村社長が引責辞任するという形で幕引きを図ってしまうと、かえって朝日新聞に対する不信感は増幅する。
 また朝日新聞社の混乱に乗じて漁夫の利を得ようとしているメディアもないではないが、それは互いにビジネスとして競争関係にある以上「仁義なき戦い」になったとしても朝日新聞が蒔いた種なので、自ら刈り取るしかない。
 はっきり言って木村社長の引責辞任は慰安婦関連問題ではない。池上氏の論文の掲載を拒否したことが大変な問題になっているが、確かに朝日新聞の行為は大人気ないと言えば大人気ないが、自社を攻撃する論文を掲載する「良心的」なメディアは、日本に一つでも存在するか。
 池上氏も、慰安婦誤報問題が社会的に大きくなりすぎたため、『新聞ナナメ読み』というコラムを連載している以上黙視するわけにもいかず、私が読んだ限りではかなり抑制をきかせた書き方をしている。池上氏の原稿にどういう修正を朝日新聞が要求したかは明らかにされていないが、事実誤認の要素があれば修正を求めるのは編集権の範囲であり、池上氏が応じなかった場合原稿掲載を拒否するのは、やはり編集権の範囲である。が、事実誤認による掲載拒否ではなかったようで、そうなると従来のメディアの基本原則である「批判は許さない」というスタンスを貫いたということにすぎず、そんなことは目くじらを立てるほどのことではない。
 池上氏の原稿拒否が木村社長を引責辞任に追い込んだかのような報道をしているメディアもあるが、そうした「誤報」も朝日新聞が自ら蒔いた種である。木村社長が引責辞任を発表した記者会見で、理由の一つとして池上問題を挙げたことが、その後のメディアの報道スタンスになってしまったからである。ま、確かに分かりやすさということを基準にすれば、辞任理由としてこれほど分か
りやすいことはなく、読者や視聴者も分かりやすいがゆえに簡単に納得してし
まった。
 真相はどうなのか。権力抗争というのは、ある日突然終わりを告げるといったケースはクーデターしかありえず、かつて三越の「天皇」と自他ともに認められていたワンマン経営者の岡田社長が、取締役会で突如解任され「なぜだ」と発したひと言が流行語になったことがあったが、こうしたケースは権力基盤が強いほど対抗する手段としてとられることがままある。
 朝日新聞社の場合は、木村社長がそれほど強固な権力基盤を構築していたとは思えず、取締役会での解任決議によるものではない。だから引責辞任する時期も明確にされていず、「改革と再生に向けた道筋をつけたうえで進退を決める」というあいまいなものだった。しかも辞任発言の中で慰安婦報道についても触れたことが、さらにメディアの混乱を招いた。たとえば産経新聞は13日付の産経抄でこう書いた。

一昨日(11日)の社長会見でも、お詫びの主題は「吉田調書」の方で、「吉田証言」への謝罪は付け足しだった。しかも一連の慰安婦報道が、国際社会に与えた影響などの検証は、社外の第三者委員会に委ねるという。外部の有識者に甘い言葉をかけてもらいたいのだろうが、どうも往生際が悪い。

 読者はとっくにご存じだと思うが、「吉田調書」というのは福島原発事故について事故調が吉田所長に聞き取り調査をした記録を指す。「吉田証言」とは慰安婦狩りをしたと「告白」したフィクションである。この二つを木村社長がごっちゃにした記者会見をしてしまったために、産経新聞からこのように誤解されてしまった。
 木村社長が引責辞任に追い込まれた理由は、私が12日に投稿したブログで明らかにしたように、朝日新聞が吉田清治と同様のねつ造記事を書いたからだ。私はそのブログのタイトルをこう付けた。
 『朝日新聞の「吉田調書」報道は誤報か? 違うよ、ねつ造だ』
 産経新聞が主張するように、慰安婦報道のほうが国際社会に大きな影響を与えたという意味では、朝日の歴史に消すことができない汚点を残した。が、慰安婦報道はあくまで誤報であり、吉田清治の「告白」を信じ込んだ背景には1億総懺悔の社会風潮があったこと、また戦後の手のひらを返すような朝日の報道スタンスの激変が誤報を生む土壌を作ってきたというケースである。当時の一連の慰安婦報道には、おそらくねつ造記事もあったと思われるが、それもまた当時の社会的風潮と朝日新聞の社内風土によると考えられる。もちろん、だからといって許されることではないが、もう墓場の中に埋葬された話だ。もし掘り返すとしたら、そのやり方は、アメリカや韓国も含めて主要国の主要紙に全面記事広告を出稿して、当時の慰安所の運営状態や、慰安所の設置について大本営や参謀本部が軍各部隊に指令した公式文書を明らかにして、慰安婦募集に関して軍による強制など事実としてなかったこと、また慰安所を設置したのは、戦時下において日本兵士が自分の性欲を満たすために、強姦などの性暴力を行うことを阻止するためだったことを明確にすべきである。
 私は先の大戦における日本政府の植民地政策を全否定してはいるが、それでも日本政府の植民地統治政策は欧米のものとは明らかに違っていた。朝鮮や台湾では帝国大学まで作り、支配下に置いた国民の教育にかなりの力を注ぎ、基本的には日本人と同等の扱いをするよう軍や企業に指示していた。そうした証拠はたくさんある。もちろん政府の指示に違反して朝鮮人や中国人に対してひどい扱いをした企業も少なくなく、官民癒着が今日よりひどかった時代でもあって、官が見て見ぬふりをしてきたことも、事実として多くの事例が確認されている。
 一方欧米の植民地政策はどうだったのか。アヘンの輸入を禁じた清王朝に対して、アヘンの輸出権利を守るために戦争を起こしたイギリスは、いまだに中国だけでなく、国際社会に対しても謝罪していない。
 またノルマンディ作戦で膨大な人的被害を出したアメリカは、あれだけ大きな犠牲を払いながらドイツには原爆を投下せず、最後の上陸戦で日本軍を壊滅した沖縄戦以降は、一切上陸作戦を行っておらず、日本の至る所を空襲して都市機能を壊滅して日本の抵抗力を破壊しておきながら、ただ原爆の効果を実験によって確認するためという目的で、2種類の異なったタイプの原爆を広島と長崎に投下したアメリカは、いまだにその非人道的行為を誤りだったと認めてもいないし、犠牲者への謝罪もしていない。
 なぜか。イギリスもアメリカも、戦争における勝者だったからだ。アメリカがナパーム弾や枯葉剤の問題を追及されたのは、ベトナム戦争だけであり、アメリカが唯一負けた戦争だからである。
 朝日新聞が今日、採りうる、あるいは採るべき方法は、先に述べたように世界の主要国の主要紙に全面記事広告を出稿して戦争の真実を伝え、いつまで人類は「勝てば官軍、負ければ賊軍」の歴史認識基準を正当化するのか、と世界の人たちに向かって問いかけることだ。慰安婦問題での誤報が国際社会に与えた影響の大きさを考えると、社長が責任をとって済むような話ではない。

 木村社長が引責辞任を発表したのは、その当日、菅官房長官が「吉田調書」の全文をネットで公開すると発表したからである。実は朝日新聞は「吉田調書」の全文を入手したうえで、「吉田調書」を根拠として、所員の9割が所長命令に
違反して第1原発を逃げ出して第2原発に避難したという記事を、5月20日の朝刊1面トップで大々的に報じたことによる。
 その後「吉田調書」を入手したメディアが、朝日新聞が報道したような事実は「吉田調書」からは確認できないことを指摘していたが、朝日新聞は無視し続けた。が、9月11日になって突然政府が「吉田調書」の全文をネットで公開すると発表した。しかも、私は夏に入って以降見たことがないネクタイ姿の菅官房長官が行った記者会見でだ。
 政府が、安倍内閣に厳しい報道を続ける朝日新聞にお灸をすえるために行った記者会見なのかどうかは、私には分からない。ただ朝日新聞社の首脳部がこの記者会見で大混乱に陥ったことだけは間違いない。「政府に潰されるかもしれない」という恐怖感を彼らが抱いたとしても不思議ではない。
 なぜなら、5月20日の朝の1面トップ記事は「誤報」ではなく「ねつ造」だったからだ。
 日本社会には、主君の仇を討った『忠臣蔵』をいまでも美談としている価値観が根付いている。つまり、目的さえ正しければ手段は問わない、という価値観である。朝日新聞事件の根幹には、そうした価値観が横たわっている。
 その点、アメリカは不思議な国だな、とたびたび思うが、国外ではめちゃくちゃなことを容認しているが、国内ではルールについて世界一厳しい国だ。たとえばマクドナルドなど、日本では客離れが生じているが、アメリカで同じことをしたら間違いなく潰されている。「目的の正当性」より「目的を達成するための手段」がフェアかどうか、あるいはちゃんとルールを守っているかが厳しく問われる国だからだ。
 アメリカの公務員には「1ドル規制」というのがある。仕事の関係者ではなく、学校時代の友人と飲み食いする場合でも、1ドル以上の接待を受けたら問答無用でクビになるというルールだ。
 私の学生時代の友人でアメリカ国籍を取って政府の職員になった人がいる。かなり前の話だが、その人が日本に帰ってきて、久しぶりだから飯でも食おうということになった。大した金額ではなかったが、支払いのときになって「私が払うよ」と言ったら「だめだ。私はクビになる。割り勘にしてくれ」と譲らない。「ここは日本だぜ」と言っても、「見張られていないから大丈夫」という感覚になることが怖いのだ、と言う。アメリカって、なんて素晴らしい国なんだ、と思う。あとは、読者自身が考えてほしい。


朝日新聞の誤報とねつ造の検証――既存メディアが怖くてできない検証作業①

2014-09-16 06:45:42 | Weblog
 この際、徹底的に膿を出し切ってしまおう、というのだろうか。
 それとも紙面を割くほどの問題ではないケースまで洗い出すことによって、過去の過ちを“one of them”にしてしまおうというのか。
 朝日新聞が14日付朝刊で『任天堂と読者の皆様にお詫びします』と題する謝罪記事を載せた。相当のスペースを割いた謝罪記事だったが、全文を転載するほどの中身はない。要約すると、「ソーシャル時代、どう対応?/ゲーム大手4社に聞く」の記事の中で、任天堂の岩田社長へのインタビュー申し込みの「了解が得られなかった」ため、任天堂のホームページ上の動画の発言内容をまとめて記事化したことについて、任天堂からクレームがついて謝罪したことがあるという、愚にもつかない再謝罪の記事である。
 私は必ず転載、引用する場合出典をブログでも明記しているが、朝日新聞に限らず記事の捏造はしばしばある。
 前にもブログで書いたが、記事中に「政府筋」とか「政府高官」などと情報源を特定しないコメント記事は99%、記者のでっち上げと考えて差し支えない。任天堂の場合は、間違いなくホームページでの発言を記事化したわけで、そうした行為は著作権侵害にも当たらなければ、もし問題になるとしたら岩田社長の発言の一部を切り取ることによって、発言全体の趣旨を意図的にゆがめた場合だけである。そうしたケースはねつ造でも誤報でもない。私はそういう方法までして批判対象を貶めるようなことは一切しないが、メディアはそういう卑劣な方法をしばしばする。
 このケースの場合、朝日新聞は「今回新たに外部から指摘があり、事実関係を改めて調査した結果、紙面でお詫びする必要があると判断した」という。こんな些細なケースまで貴重な紙面を割いて記事化するというなら、いっそ臨時増刊で謝罪特集でも出したらどうか。発言者を特定せずに朝日新聞の主張の権威づけのためにやってきた匿名コメントのすべてを洗い出して、いちいち、それらのでっち上げコメントであったとする検証記事を書くべきだ。いかに記事というものが意図的に作られているかを、読者が一目瞭然で分かるようにだ。
 
 あまり嫌味っぽいか書き方を続けると、私のブログ自体が意図的に思われかねないので、他のメディアが一連の朝日新聞の謝罪をどうとらえているか、私の論理基準で検証する。「私の論理基準」とわざわざ断ったのは、さまざまなメディアがこの問題を「敵失によって、わが社に大きなチャンスが転がり込んできた」と喜んでいるだけではなく、「自社の報道体制や記事のチェック機能がきちんと働いているか」「読者の指摘を有害無益として無視してきたこれまでの姿勢の見直しが必要」と、自戒の念を込めて検証作業を始めていると思われることだ。活字メディアだけでなく、テレビ朝日が原子力規制委の田中委員長発言
の一部だけを切り取り、あたかもインタビューに対して問答無用と回答を拒否
したかのような報道をしたことを、規制委側から指摘を受けて検証し、古舘メインキャスターが深々と頭を下げて謝罪したことにも現れている。ただこのケースでいえば、本来古舘氏には何の責任もない。テレビ朝日が謝罪するなら報道局長が出演して、きちんと説明したうえで謝罪し、報道の取り消しを宣言すべきだろう。
 メディアが自分たちの主張を正当化するために、都合のいい情報だけを切り張りし、読者や視聴者をマインド・コントロールしてきた(意図的とまでは言わない)ことへの自戒の念が一時的なものにとどまらず、言論の自由と責任の重大性は1枚の紙の裏表のように、べったりくっついているという自覚をメディアが持ち続けるようになれば、朝日新聞が投じた一石は単なる一時的な「大激震」にとどまらず、噴煙を永遠に吹き出し続ける火山活動の始まりになれば、たとえ朝日新聞が死ぬことになったとしても、朝日新聞が日本のメディア改革に果たした役割は永遠にメディア界の金字塔として残るだろう。

 この問題についての私の論理基準を明確にしておく。
 まず慰安婦報道と吉田調書報道は、まったく次元が違う異質なものである。
 慰安婦報道は、吉田清治の捏造「ノンフィクション」(つまりフィクション)である『私の戦争犯罪』での慰安婦狩りを「勇気ある告白」と称賛し(称賛したのは朝日新聞だけではない)大々的に報じ、それが韓国民の反日感情に火をつけ、日本政府があたかも先の大戦で軍が強制的に慰安婦狩りをしていたかのような誤認識が国際社会に蔓延し、具体的な形としては河野談話作成のスタートラインを事実上引いてしまったこと、また国連人権問題委員会での決議や米下院議員での決議に大きな影響を与えたこと……誤報道による結果責任をメディアはどう取るべきかという「言論・報道の自由と結果責任」の関係を明確にすること。これがまず最大の検証課題であるという視点である。この視点はいま、ほぼ全メディアが共通して持っていると思う。
 この視点で朝日新聞事件を検証した時、なぜ朝日新聞が自紙の報道に疑問が寄せられ始めた時点で検証作業を行わなかったのかという指摘は、多くのメディアによってなされている。それはその通りなのだが、朝日新聞に限らず多くのメディアが誤報の訂正はしないという不文律の世界を「談合」(本当に談合でそうすることに決めたのかどうかは知らない)によって作り上げ、朝日新聞がそのメディア界だけに共有されてきた「コンプライアンス基準」を忠実に守り続けた結果、必然的に生じた問題であるという認識は、まだメディア界に共通の認識になっているとは確認できない。朝日新聞事件を追及する視点は、自らの報道姿勢に対する検証として今後反映されていくのでなければ、朝日新聞の死は(死ぬと限ったわけではないが)は犬死になってしまう。
 次に、誤報事件が生じた時代背景への検証である。これはまだどのメディアもしていない。いくつかのメディアにはその視点を伝えてあるが、メディアに
理解能力がないのか、あるいは怖くて目をそらせることにしたのか、いまのと
ころ、そうした視点で朝日新聞事件の検証スタンスを示したメディアは一つもない。
 この問題についての私の論理的認識基準はこうである。ノンフィクションという世界の草分けでもある大宅壮一氏が遺した名言のひとつに「1億総懺悔」というのがある。大宅流の皮肉っぽい表現なのだが、先の大戦について「1億国民はすべて反省しなければならない」と理解してしまったメディアや国民も少なくなく、日本軍兵士の「悪行」をこれでもかこれでもかと暴き立てることがメディアの使命であるかのような風潮が蔓延していた時代背景は無視できない。そこに朝日新聞の戦後一貫した報道スタンスが重なり合い、しかも当時の朝日新聞は新聞発行部数日本最大を誇るメディア界の王者であり、朝日新聞の報道によって「日本軍兵士が慰安婦狩りをしたことを日本の良心的メディアが認めた」と国際社会から受け止められてしまった。
 振り子の原理というのがある。振り子が頂点に達して反対方向に戻るとき、振り子の重力や戻るときに受ける空気抵抗によって大きく振れ過ぎることはないというのは物理の基礎的知識であるが、人間の頭脳の作用にはこの振り子の原理が働かないケースがしばしばある。たとえば「可愛さあまって、憎さ100倍」という格言があるが、この格言は人間の頭脳の中の振り子は物理原則の壁を大きく超えて振り過ぎてしまうケースがしばしばあることを意味している。
 さらに、メディアといえども、自己保存本能は時によって強烈に働く。「変わり身の早さ」という言葉があるが、メディアは先の大戦終了時に、見事に「変わり身の早さ」を演じて見せた。「鬼畜米英」は一瞬にして「親米英」に代わり、「自分たちが間違ったのは大本営発表を鵜呑みにしてきたため」と、これまた見事な責任転嫁に成功した。この責任転嫁に成功してしまったため、かえってメディアは傲慢になったとも言える。(続く)
 

消費税増税を強調した谷垣氏の目的は何か? それが読めないようではジャーナリズムの資格がない。

2014-09-14 09:42:34 | Weblog
 昨日(13日)のNHKがニュース7で、自民党・谷垣幹事長の「消費税増税発言」を伝えた。今朝の朝日新聞、毎日新聞などがやはり谷垣氏の増税発言を伝えた。一方、読売新聞は麻生副総裁・財務相の増税発言を報じた。
 政治家、とくに政府高官や与党の重要な立場にある人の発言には、それなりの意図が隠されている。メディアは、その裏に隠された政治家の狙いを見抜く力をつけなければいけない。
 この消費税増税は、来年10月に実施が予定されている現行8%から10%への増税を行うかどうかの決断を、安倍内閣は年内に行うことになっており、再増税にメディアや世論がどう反応するか、見極めるためのアドバルーンを打ち上げることを目的とした発言である。
 おそらく安倍総理のこの問題についての腹は決まっているのだろう。そして、年末に「来年10月に予定されている消費税増税は、経済情勢や国民の経済活動の状態から見て困難であり、今回の増税は見送る」という決定を行うためのアリバイ作りが目的と考えられる。
 文字化し、要約された新聞の報道より、谷垣氏の生の声を伝えたNHKの報道から、その意図を分析してみよう。(転載するのはNHKオンラインから)

 (谷垣氏は)「上げなかった場合のリスクを乗り越えるのは、かなり難しいものがあるのではないか」と述べ、予定通り実施するのが望ましいという考えを示しました。
 この中で、谷垣幹事長は、今年4月に消費税が8%に引き上げられたことに関連して、「4月から6月のGDP=国内総生産の数字は、駆け込み需要の反動で相当悪くなっているのは事実だが、いろいろなエコノミストの話を聞くと、7月から9月の数字は緩やかな回復過程になってくるのではないか」と述べました。
 そのうえで、谷垣氏は、来年10月に予定されている10%への引き上げについて、「折り込み済みのことをやらない場合の影響や、リスクを考えないといけない。消費税率を上げることのリスクは乗り越えることは可能だが、上げなかった場合のリスクを乗り越えるのは、かなり厳しいものがあるのではないか。法律に定められたことを、きちんと実施していけるように、いろいろな手を打っていく」と述べ、予定通り実施するのが望ましいという考えを示しました。

 一見、民主党政権時代に3党合意(民自公)に達した、消費税の段階的引き上げを行う安倍内閣の決意を示した発言のように思えるが、実はそうではない。はっきり言って、とりあえず「3党合意で約束したことは実行しますよ」と前向きに誰もがとれるメッセージを、政府や自民党の幹部がメディアや国民にすることで、消費税増税を行うという姿勢をとりあえず見せておいて、メディアやエコノミスト、国民の声(具体的には各メディアが当然行うだろう消費税増税についての賛否を問う世論調査の結果)に耳を傾けた結果、「民意に添って、来年10月に実施する予定だった増税は、経済環境が好転するまで延期する」という結論を正当化するために打った布石である。
 谷垣氏が敢えて事実と異なるエコノミストの分析を述べたのは、今極めて日本経済の先行きが不透明な中で、国民消費生活活動は冷え込んだままであるにもかかわらず、「緩やかな回復過程」と明らかに間違った「エコノミスト」の分析を援用して、消費税増税の環境が整いつつあると前向きな姿勢を強調したことに意味がある。
 実態が違うことはエコノミストの分析を改めて聞くまでもなく消費者自身が、いま財布のひもを緩めているか締めているかによって明らかに分かる。GDPの大きな要素を占める国民消費は7月以降も冷え込んだままだ。日銀黒田総裁は、つい先日そうした消費実態を認めた上で「これは天候不順によるもので一時的な現象」と超楽観的な感想を述べたが、日本経済の実態はそれほど甘くはない。
 安倍総理と黒田総裁はタッグを組んで「デフレ退治のための円安誘導への為替介入や金融政策」を次々に打ってきたが、輸出産業の輸出量(例えば自動車の輸出台数や電気製品の輸出数量)は、円安によってもほとんど増えていないことはすでに明らかにされている。なぜなのか。正直、私にもわからない。円安によって強くなったはずの日本企業の国際競争力を台無しにするほどの海外企業の対策(たとえばアメリカなどの大消費国へのダンピング輸出や、日本製品の海外市場ニーズとのミスマッチなど)によって、思ったほど日本企業の国際競争力が回復しなかったのか……そうした肝心の分析を政府が行っている気配も見えないし、メディアはそうしたことにそもそも関心すら示そうとしない。
 一方景気が回復しているかに思える経済指標も確かにある。株価が一本調子ではないにしても、上昇傾向を示していることは事実だ。
 が、なぜ日経平均が上昇したのかの分析はエコノミストも論理的に行っていない。日経平均とは、日本経済新聞社が選んだ東証上場企業の代表銘柄225社の平均株価を計算したものである。代表銘柄とされる225社はしばしば入れ替えられており、業績が不振な企業は外され、好調な企業が組み込まれるという、日本経済新聞社らしい選択方法をとっている。かつ225社の株価の単純平均のため、少数の値嵩株の値動きによって日経平均が乱高下するという欠陥は、専門家からは何度も指摘されている。
 そしていま、日経平均を押し上げているのは輸出関連企業(メーカーや商社、金融業界など)であり、とくに自動車や電機など輸出産業は、輸出量が増えていないのに、円安誘導のための金融政策の恩恵を受けて史上空前の利益を計上し株価も急上昇した。輸出入は基本的にどの国との貿易であっても米ドル建てで行うことになっている。輸出量が増えていないのに、輸出関連企業が史上空前の利益を上げているのは、ひとえに為替マジックの故である。
 たとえば1個1ドルで輸出している商品があったとする。為替相場が1ドル=90円の円高時代だったら日本での売り上げは90円にしかならない。が、いまの急激な円安によって1ドル=110円時代が目の前に来ている。そうなるとその商品を輸出すれば、日本での売り上げは110円になってしまうのだ。生産コストや輸出コストは変わらないのに、収益は約20%も増大することになる。これが私の言う為替マジックのしからしめる結果なのだ。
 円安によって日本製品の国際競争力が増し、輸出量が増大すれば、メーカーは増産体制に入り、設備投資も活発になり、人材採用ニーズも増える。そういう好循環が生まれたのであれば、アベノミクスは成功したと言えるのだが、現実の日本経済の実態は私が指摘した状態なのだ。これは日銀・黒田総裁も否定できないはずだ。
 一方輸入品は、円安の打撃をもろに受けている。日本人の消費生活は生鮮食品によってのみ支えられているわけではない。消費のどれだけを生鮮食品とくに野菜類が占めているかは私も知らないが、多くても数%だろう。その数%は天候不順の影響をもろに受けたが、消費低迷の理由を天候不順に求めるような日銀総裁では、これからの金融政策のかじ取りをお願いするには心もとないことおびただしい。
 
 はっきり言ってアベノミクスは見直しが必要である。私は安倍政権が誕生した直後の12年12月30日に投稿したブログ『今年最後のブログ……新政権への期待と課題』の中で税制改革について大胆な提言をした。その提言は、相続税と贈与税の考え方の大転換についてのものだった。
 日本の税制が、相続税を有利に、贈与税を不利にしてきたのは、戦後の経済復興とその後の高度経済成長のためには産業育成の資金(設備投資資金など)が必要であり、国民の金融資産を、金融機関を経由して産業界に還流させることに目的があった。
 いま、大企業は金融機関からの間接金融から、証券市場などからの直接金融に転換している。そうして傾向は、株式の時価発行が認められ、また社債発行の条件もかなり緩和された時期から始まっていたにもかかわらず、無能な歴代大蔵大臣(現在は財務大臣)と、やはり無能な官僚が時代に即した税制改革に取り組もうとしてこなかった結果である。
 はっきり言って、GDPの大きな要素を占める国内消費活動を活発化させないことには、デフレ不況は克服できないと私は主張した。そしてそのためには、金融機関に眠っている高齢者の金融資産(死にカネ)を子供や孫など若い世代に移動させ、生きカネにすることによって消費意欲を生み出すしか方法はないと主張した。
 その後、安倍内閣は孫の教育資金に使途を限定して贈与を非課税にする制度を発足させたが、学習塾の経営が潤うことによって日本経済が活性化すると、安倍総理や財務官僚は本気で思っていたのだろうか。そうだとしたら「バカにつける薬はない」としか言いようがない。
 最近、ようやく相続税を高くすることにしたが、行き当たりばったりの政策では死にカネが、本当に日本経済を活性化するための消費活動に結びつく生きカネに変えることはできない。知識と経験だけに頼る官僚の発想を転換しない限り、私は日本の将来に安心感を持って、あの世に行く日を迎えることができない。

NHKの報道姿勢に対する厳しい批判をするたびに嫌がらせとしか思えない非難が投稿される。なぜか?

2014-09-13 06:12:39 | Weblog
 なぜか、あるメディアに対する手厳しい批判をすると、途端に嫌がらせとしか思えないコメントが投稿される。11日午後7時にもこういうコメントが寄せられた(既に削除したので、全文をこのブログで転載する)。

あなたがなくした(PASMOカード)のが悪いのに、企業のせいだ、と長々とわめき散らして恥ずかしくないんですか?
ただあなたがなくしてしまった、それだけの事。
人のせいにして、ぎゃあぎゃあおおげさにわめく。
このブログが伸びない理由が、よく分かる記事ですね!

 このコメントは2008年に連続投稿したパスモ社とその母体である私鉄連合に対する批判記事についてのコメントである。
 当時、各私鉄は駅頭で私鉄が発行しているクレジットカードとのセットでオートチャージ式PASMOをキャラバン販売活動していた。私鉄連合がパスモ社を設立してJRが発行していたSuicaと相互利用できるようにするためにPASMOを発行することにした。
 オートチャージ式SuicaにはJRのクレジット機能であるviewが搭載されていた(単独のクレジットカードとしてのviewカードはない)。Suicaは交通系ICカードとしても電子マネーとしても利用できるカードで、紛失した場合、その時点で電子マネーとしてチャージされている金額についての補償はない。ただしJRの駅に届ければ、最長2日程度で電子マネー機能も停止できることになっている。また紛失後、不正にオートチャージされた金額についてはviewのクレジット補償が適用され、損失は発生しない。
 問題はPASMOの発行について私鉄連合でまとまらなかった部分があった。オートチャージ機能にクレジット保証を付けるかどうかで、自社のクレジットカードとのシナジー効果でメリットが期待できる大手私鉄(傘下にスーパーなどの商業部門を擁している私鉄。大手でもメトロは別)と、リスクだけ背負うことになる中小私鉄との話し合いがつかなかったのだ。その結果、オートチャージ式PASMOにはクレジット保証を付けないことになった。中小私鉄が最後まで抵抗したためである。
 が、そうなるとスーパーなどの商業部門を傘下に擁する大手私鉄にとっては、Suicaとの競争に勝てないという大問題が生じた。そこで大手私鉄は詐欺まがいの営業活動をせざるを得なくなった。キャラバン営業を行う営業マンに「オートチャージ式PASMOは私鉄経営のスーパーが発行しているクレジットカードからチャージされるので、そのクレジットカードの補償が適用される」というウソをつかせることにしたのだ。
 私がそのウソに騙されてオートチャージ式PASMOを買ったのが悪いというなら、警察は必要ない。私は当時通っていたフィットネスクラブで、ロッカー荒らしに財布ごと盗まれたのは、私の自己責任であるとは思っている。フィットネスクラブには貴重品ボックスが設置してあり、財布をズボンのポケットに入れたままにしていたのは、私の不用心の結果でもある。
 が、大手私鉄が話し合い「私鉄系スーパーが発行しているクレジットカードの補償が適用される」と、Suicaとの競争に勝つためのウソを私鉄ぐるみでつくことにしたのも事実である。私は訴訟を起こすにあたって、当時まだキャラバン営業をしていた営業マンに「オートチャージ式PASMOを紛失した場合、クレジット保証はあるのか」と意図的に質問した。営業マンは「クレジット保証が付きます」と答えたので、「ではメモ書きでいいから、いま説明した通りを書いてくれ」と頼み、営業マンは何の不審も持たずに私の依頼に応じてメモを書いてくれた。もちろんメモには当人の名前、勤務先、日付も書いてもらった。
 さらに私は私鉄主要駅のバスロータリーで、バス待ちの時間がかなりありそうな方に片っ端から話しかけ、オートチャージ式PASMOを利用している人にのみ、リスクを知っているかどうか聞いた。約70人からアンケートをとったが、リスクを知っていた人はただの一人。「なぜご存じなのか」と聞いたら「私鉄関係者だから」との返事だった。その人のアンケートもちゃんと載せた。他の全員は私と同じ説明を聞いたと答えた。つまり「オートチャージについては私鉄系クレジットカードからされるから、クレジット保証があるとの説明を受けた」ということだった。
 この二つの証拠を武器に、私は裁判に臨んだ。が、裁判官はこれらの証拠を「証拠」として認めなかった。理由は「原告が個人的に集めたものであり、証拠としては採用できない」というものだった。私は、営業マンのメモは私鉄がSuicaとの競争上不利にならないよう、組織的に営業マンに指示していたと考えていたため、その営業マンを証人として喚問するよう申請していたが、なぜか裁判官は理由も説明せずに証人喚問を行わずに、「証拠として採用できない」という判決理由を述べた。
 さらに私にとって不利だったことは、実は私が被った以上の賠償を、私の承諾なしにメガバンクが「自行のミスによって引き落としてしまった」という理由で、引き落とされた金額と同額を私の口座に振り込んでしまったことだ。私鉄系スーパーのクレジット決済には不正にオートチャージされた金額だけでなく、私自身が使った金額も含まれていた。つまり損害額以上の補てんがメガバンクから行われていた。そして被告側弁護士はなぜかその事実をつかんでいて、答弁書で「原告はすでに損害額は銀行から補てんされており、実損はない」と主張したのだ。
 なぜメガバンクから被告にその情報が漏れたのか。結局分からなかったが、知り合いの弁護士から聞いた話によると、そうした損害(私への弁済)は、銀行としては損保会社に請求せざるを得ないのだそうだ。たとえ損害額がたった1円で間尺に合わなくても、損保会社に損害を請求するのがコンプライアンス規定として定められている。損保会社としては弁護士から正式に情報公開を要求されれば、明らかにせざるを得ない。メガバンクから弁済を受けた情報が被告に筒抜けになったのは、おそらく損保会社からだと思う、と。
 これも私には事実、そうなのかは分からない。弁護士の話ではメガバンクのメインコンピュータが侵入されることは、世界中でこれまで聞いたことがない。顧客の金を管理しているコンピュータだから、何重にも保護されている。この程度の損害賠償で被告がメガバンクのメインコンピュータへの侵入を試みるようなリスクは絶対に冒さない。
 と、言うことだそうだ。
 私の訴訟でも明らかだが、被告側は5人もの大弁護団を組んで私に向かってきた。それだけ私鉄連合としては、私の告訴に重大な危機感を持ったのだろう。そういうケースで、裁判官が素人の私に軍配を挙げて、被告を敗訴にするわけにはいかないのが、裁判という世界だとも聞いた。
 そういえば、最近大阪でおかしな判決があった。大阪市職組が起こした訴訟で、橋下大阪市長が8つの職組事務所の明け渡しを命じたことに対して、原告の職組側に軍配を挙げたことだ。要するに裁判官は職組の事務所は既得権益であり、橋下市長の明け渡し要求は「職組に対する弾圧だ」と考えたようだ。裁判官も人の子だから、間違った判断をすることもありうるが、それにしてもこの判決はひどい。
 まず、市役所はだれのものか、という基本的な位置付けを無視した判決としか言いようがない。言うまでもなく、市役所は市民の税金で建てられており、所有者は市民のはずだ。もちろん橋下市長にも所有権はないが、職組にも占有権はない(きちんと賃料を払っていれば別だが、その辺は報道では明らかでないし、判決理由にも述べられていないようだ)。
 市役所が市民のものであれば、その使用方法を決めるのは裁判所ではなく市民だ。市民が、職組に無償で提供しろというなら、橋下市長もそうすべきだが、裁判官が「職組への弾圧だ」と認定するのは、何でもかんでもやみくもに「言論の自由」をタテに、読者や視聴者の声に耳を傾けようとしないメディアと同類、としか言いようがない。
 なお私が訴訟を起こして以来、私鉄各社は私鉄系商業施設が発行するクレジットカードとの抱き合わせでのオートチャージPASMOの営業活動は一切停止した。いまオートチャージPASMOを利用している消費者はほとんどいないと思う。私が起こした訴訟の目的は、十分に達成した。訴訟には負けたが…。
 私が私鉄連合を相手に、詐欺的営業活動を問題にするぞ、とカネ目的にその世界の人を中に入れて脅していたら、かなりの大金を手にしていただろう。私のような仕事(ブログ活動は完全に無償だが)をしていたら、はっきり言って誘惑は様々にある。が、私の誇りは、そうした誘惑には一切乗ったことがないことだ。私が「事業」として文筆活動をしていたころ、しかもまだ駆け出しのころ、今秋東証に上場予定のリクルートから『変貌するか―セールス――トヨタの80年代マーケティング戦略』と題する本を上梓した(1980年7月)。その本で私は排ガス規制に対するトヨタの姿勢を手厳しく批判したことがある。ちょっと長いが、転載する。

(環境庁が実施する)排ガス規制は50年、51年、53年(すべて昭和)と段階的に行われることになった。トヨタのディーラーがユーザーとの間の板挟みになった、と言うのはそのころのトヨタの姿勢が際立って世論に歯向かうものだったからである。
 トヨタは一貫して「排ガス問題を解決することは技術的に困難」と主張し、“反公害ムード”の高まりに背を向けた。
「トップメーカーにあるまじきこと」と、トヨタに対する非難の声が渦を巻いた。
 50年規制は新型車(モデルチェンジを含む)については4月1日からとされたが、従来の業種については12月1日から規制されることになっていた。トヨタはこの猶予期間に未対策車をフル生産した。このことが、のちに「トヨタの駆け込み生産」と問題視されるに至る。
 当然、ユーザーからの風当たりは強くなった。しかもユーザーは、メーカーに対する反発の矛先をディーラーに向けるしかない。トヨタのセールスマンは苦境に立った。
 ただでさえ「技術の日産、販売のトヨタ」という風評が強いのだ。
 他メーカー系セールスマンは、このときとばかりユーザーを説いて回った。
「トヨタは売るためにデザインの格好いい車は作るけど、技術的には日本のメーカーで一番遅れていますよ。それが証拠に、公害対策車だって自力では作れないじゃないですか」
 トヨタのセールスマンは、一言の弁解もできなかったに違いない。
 実際には、この時期、トヨタはおそらく公害対策技術のめどをつけていたのではないか。50年規制、51年規制には渋々応じた格好のトヨタだったが、一転、53年規制に対しては52年6月、規制の実施より10か月も前にチェイサー、ク
ラウン、マークⅡ(いずれも一部車種)の3車種を適合させてしまったのであ
る。その時点で先行していたのは富士重工のレオーネ、三菱のランサーの二車種だけであったから、トヨタのこの「豹変」ぶりに他メーカーや環境庁、通産省などの関係官庁はあっけにとられたという。53年規制は昨日今日の駆け込み開発ではどうにもなるといった程度のなまやさしい規制ではなかっただけに、トヨタの排ガス対策技術は潜行してではあったが、かなり以前から他メーカーの先を行っていたことはほぼ間違いないであろう。
 さらに想像を逞しくすれば、50年後半の“駆け込み生産”は、公害対策車の生産ラインを整備するため、つなぎとしてできるだけ多くの在庫を持ちたかったのかもしれない。年間の生産台数が200万台を超えるマンモスメーカーだけに、生産ラインの変更などはそう簡単に小回りがきかなくなっている。その点、トヨタ、日産が少車種のホンダ、三菱に比し公害対策で大きなハンデを背負ったことは否めないであろう。トヨタの「公害対策の消極性」はこんなところに原因があったのではないか。
 だが、トヨタの「豹変」には再び非難の声が殺到した。
「あまりフェアなやり方ではない」
「トヨタは排ガスを商戦に利用した」
 という他メーカーの非難に、マスコミもある程度同調した。一方トヨタ側は、「豊田英二社長は技術者出身だから、100%でないかぎり99%まで完成していてもできたと言わない。結局は技術者の良心が裏目に出てしまった」と弁解した。
 また排ガス規制に一貫して反対し続けたことについては「トップメーカーとして、また自動車工業会の会長企業として、業界全体の利害を真っ先に考えなければならなかった」と主張した。
 それはその通りかもしれない。だが、結果として、トヨタのセールスマンが他社の攻撃にさらされ、苦境に立ったことも事実である。
 トヨタは「偉大な田舎者」であることを自負してきた。いいものを作る――そのことだけに全力を傾けてきた。50年間、その姿勢を変えなかった。
 そのことはいい。
 だが、いつまでも「田舎者」のままでいることは世間が許さない。日本の経済を左右するまでになった自動車産業のトップメーカーに対する風当たりは、それが正当なものであるかどうかは別にして強まるのは当然である。とくに、日本人は判官贔屓の感情が強い。強きを挫き弱きを助け、というのは論理の次元で云々されることではなく、日本人にとっては倫理の問題なのである。排ガスの科学的解明は本来、論理のレベルで行わなければならないが、その世界まで倫理が支配しているのが現状なのだ。そのことの是非はともあれ、そうした現状に対する鋭敏な感覚を、もっとトヨタは持たねばならないであろう。そうでないと、「トップ企業の驕り」といった非論理的反発はますます強まるに違いない。
 そう考えていくと、トップ企業の座も楽なものではない。数の子の「買占め」で叩かれた三菱商事もその悲哀を味わったはずだ。実際には買占めといえるほどの規模ではなく、買いあさったにすぎないのだが、大企業の行為として非難の対象になると「買占め」になってしまう。「大企業にあるまじきこと」という倫理感が反映されるから、そうなってしまうのだが、それに論理で歯向かったところでまず勝ち目はない。だから三菱商事は、責任者を処分し、「数の子から手を引く」ことをいち早く宣言することによってケリをつけた。世論に対して敏感なのだ。そうした商社の鋭敏さを、トヨタも身に付けていく必要があるかもしれない。

 長い転載で申し訳なかった。この本は別に私の代表作といえるようなものではなく、格別自慢するほどのことでもないが、リクルートという「広告代理業者」(江副元代表)を自負していたリクルートから、大クライアントのトヨタに対してこれだけ手厳しい本を上梓したことは、リクルートにとって空前絶後の大事件になったようだ。あとから小耳にはさんだ話では、編集長は左遷され、やがて退職したという。編集長には申し訳ないことをしたと思うが、リクルートがこの本のゲラをトヨタに見せていたことはおそらく疑う余地がなく、黙って出版させたトヨタにも、私は感謝している。ブログで批判をするたびに、論理的に反論するならいざ知らず、胡散臭いサクラを使って嫌がらせのコメントを投稿させ、私のブログを卑しめようとする大メディアがあるらしいのだ。

 さて冒頭に紹介した2008年での訴訟で、いまだにおかしな非難をする輩はだれか。
 実は、私がNHKに対する批判のブログを投稿したとたんにパスモ事件がぶり
返される。フィギュアスケートの国際大会の報道姿勢について批判したときもそうだった。今回のテニス全米オープン決勝戦では、NHKは文字だけだったが、試合中ずっとスコアを報道していたようだ(私はWOWOWで中継を見ていたから友人から聞いた情報)。映像はWOWOWが独占放映権を持っていたため、試合終了後でないと放映できないという話はNHKふれあいセンターから試合前日に聞いており、そのことはブログでも書いた。
 では、海外でとっくに競技が終わっているフィギュアの競技に関して、なぜNHKは映像抜きで文字だけでもニュースで報道しないのか、という疑問を呈した時も、二人から悪意に満ちた投稿があった。
 とりあえず、その投稿を紹介する。
「PASMOあんだけ得意げに講釈垂れといて負けましたって。ただの迷惑老人じゃねーか」
「やってんだ。、この老害ブログ。あんたみたいな人が日本をダメにしたんじゃない?」
 私はわいせつな書き込み以外は削除しないと書いてきたが、NHK批判をするたびにこうした意味不明な、ただひたすら悪意をぶつけることしか目的としていない類のコメントは、今後すべて問答無用で削除することにした。もちろん、私のNHK批判とは別の意見を述べられるコメントは従来通り削除はしない。
 ま、高校生のレスリング選手をカネでニュース番組に登場させるNHKのことだから、私への悪意に満ちたコメント投稿者にも、それなりのことはしているのかな…?
 げすの勘繰りかもしれないが、偶然にしては出来過ぎているので…。

朝日新聞の「吉田調書」報道は誤報か? 違うよ、ねつ造だ。

2014-09-12 08:18:47 | Weblog
 昨日午後7時30分から朝日新聞の木村伊量(ただかず)社長が謝罪記者会見した。東電福島第1原発事故に関して政府の事故調査・検証委員会が実施した吉田昌郎元所長(故人)に対する聴取記録(吉田調書)についての報道に誤りがあったと認め、引責辞任を表明した。
 どんな「謝った報道」をしたのか。木村社長はこう述べた。
「社内の精査の結果、吉田調書を読み解く過程で評価を誤り、多くの東電社員らがその場から逃げ出したかのような印象を与え、間違った記事だと判断した」
 そんな程度の「誤報」か。そんな程度の誤報なら、どのメディアもしばしばしている。ただ、誤報と分かっても知らんぷりをするのがメディア界の常識であり「モラル」だと、私は理解していた。
 朝日新聞が「誤報」と認めたのは、5月20日付朝刊1面トップに掲載した「福島第1原発にいた東電社員らの9割にあたる約650人が吉田所長の待機命令に違反し、10キロ南の福島第2原発に撤退した」という記事である。
 この記事のどこが社長の引責辞任につながるほどの「誤り」だったのか。木村社長は、その肝心の部分を曖昧にしたまま(「撤退」という文字が問題だったとしたが)記者会見の場から逃げ出した。「自分は辞めるんだからもういいだろう」と言わんばかりの態度だった…というのは私の想像による表現である。さて、この私の記事は「誤報」なのだろうか、「ねつ造」なのだろうか。
 私はテレビのニュースで木村社長が謝罪会見をした一部しか見ていない。が、「許される想像の範囲」と考えれば、あながち「誤報」とも言えない。また事実を捻じ曲げた記事でもないから「ねつ造」にも当たらない。正確には「…と言わんばかりの態度に見えた」と書けば、「私の目にはそう見えた」ということであり、その私の見方に対して「その見方はおかしい」と批判はできても、「誤報」あるいは「ねつ造」と決めつけることはできない。
 禅問答のような書き方をしたのは、木村社長が朝日新聞の解体を身を以って防ぐために、引責辞任という方法で問題点を曖昧なままにして蓋を締めようとしたということを明らかにするためである。
 はっきり書く。慰安婦報道と「吉田調書」報道は全く別次元の問題であり、慰安婦報道での責任は取ろうとしなかったのに、「吉田調書」報道での責任をなぜ取るのか、ということである。
 これは報道の在り方と報道の目的に関する本質的な問題なのだ。
「報道の在り方」という面から考えると、取材や記事は絶対に「色眼鏡」から解放されないという自覚を、ジャーナリストがどの程度自覚するかによって大きく異なってくる。自分は公平(あるいはフェア、公正)であると勝手に思い込んでいるジャーナリストは、すでにその時点でジャーナリスト失格である。私もブログを書く際、自分自身の色眼鏡をかけて書いている。その色眼鏡が曇
っているかいないか、確認するためにメディアの窓口にしばしば電話をして反論があり、かつ合理的なものであればブログで書く内容を変更する。
 次に「報道の目的」である。これはメディアのスタンスや方針に直結する問題だ。社員が自分の属する組織の方針にある程度従わざるを得ないのはやむを得ないと思う。が、組織の方針と多少異なった主張をしても、それなりに論理的合理性がある主張についてまでボツにされることは、そんなにはない。メディアの記者には、それなりの自由度が認められている。そうした自由度が保証されていなければ、メディアは政党の広報紙と変わらない。

 実は昨日、メディアに片っ端から電話した。異例だったのはNHKと朝日新聞。
NHKはふれあいセンターのコミュニケーターが最初に電話に出る。NHKふれあいセンターは電話番号と話した内容を記録している(録音)。NHKふれあいセンターに電話をして「上席責任者に代わってほしい」と頼んだが、コミュニケーターは「私がご意見を受けます」と、頑として電話を責任者につなごうとしない。やむを得ずコミュニケーターに意見を言ったが、すべて「おっしゃる通りです」といった肯定的な返事しか返ってこない。
 通常のコミュニケーター以上にいろいろなことを知っており、たとえば川内原発再稼働について、小渕優子経産相が「安全が確認され次第、順次原発を再稼働していきたい」と記者会見で述べたことも承知していた。私が「原発に限らず100%ということはありえない」といった途端「その通りでございます」。「自然災害にしても、これ以上の自然災害はありえないといった限界基準などない」と言いつのっても「その通りでございます」。「安全性というのは安全確率のことであり、こういう条件下では99.999…%安全といえるが、こういうケースが生じると安全確率は50%に下がるという正確な情報を地元住民にきちんと公開しないとフェアとは言えない」とまで言っても、「その通りでございます」。
 まさに「暖簾に腕押し」とはこのことだ。そもそもコミュニケーターは「人間録音機」で、自分の意見は言ってはいけないことになっている。そういう意味では昨日、私の電話に対応したコミュニケーターは完全にコンプライアンス違反の対応をしたのだが、そういう自覚もないようだ。
 これは私の想像だが、昨日のブログを見てふれあいセンターが、私専用の、相当力量のある人材をコミュニケーターとして配属したのではないかと思う。電話でのやり取りに私が不快感を覚えたことはまったくなかった。受け答えはしっかりしており、私からの電話には何でもかんでも「その通りでございます」と答えろという指示など受けていないはずだ。私がおかしなことを言っても「その通りでございます」などと肯定して、それをブログで書かれたら大変な問題になりかねないからだ。ま、あまり勝手な想像で書くのはよくないので、この
問題はこの辺でやめておく。
 もう一人は朝日新聞お客様オフィスの方である。お客様オフィスには電話が殺到したようで、なかなかつながらず、9時直前になってようやくつながった。が、こちらもいつものようなフランクな対応はしてもらえなかった。「読者によってはひそかに録音されていて、ネットで書かれてしまうことがあるので、私の意見は申し上げられない」とつれない。「私は録音などしていないよ」と言っても、私の質問には全く答えない。確かに微妙な問題ではあるが、いま朝日新聞のすべての読者と接する(記者のような間接的に接する方も含めて)社員は、メディアに属する人間としての良心が問われているときである。自分の素直な考えを述べられないようなら、そのポジションにいるべきではない。総務部か庶務課にでも転属していただくしかない。
 読売新聞読者センターには二度電話したが(対応していただいた方は別人)、最初の方への私の説明が不十分だったのか、ちゃんと理解していただけたか不安に思ったので再度電話した。二度目の方には私も筋道立てて説明できたと思うし、ご理解いただけたようだった。
 
 木村社長の謝罪会見については全国紙各紙が大きく報道したが、社説で取り上げたのは読売新聞と毎日新聞だけだった。読売新聞は社説欄全面を使ってこの問題について書いたが、肝心の朝日新聞の社説は法務大学院問題とイラク空爆問題の二つで、1面トップ記事では大きく報じたが、社説での掲載は見送った。慰安婦誤報問題を朝日新聞が報じたときには、お客様オフィスの方からきわめてフェアに対応していただいた記憶がある。その方の私の電話への対応が社内で問題になるとご迷惑をかけると思って、あえて私は書かなかったが、私の主張にすべてご同意いただいた。いま書いても社内で問題化するとは思えないので、私の記憶に基づいて確かなことだけ書く。

① 吉田清治のねつ造「小説」『私の戦争犯罪』が出版された時の社会状況と、朝日新聞のスタンスから、このフィクションを鵜呑みにしてしまったことはやむを得ない、と私は思っている。が、吉田が「あれはフィクションだ」と証言した時点で、誤報であることがはっきりしたのに、なぜ誤報であったことを明らかにできなかったのかの(しなかったのではなくて「できなかった」ことの)検証記事を書くべきだ。
② 私はあらゆる自由の中で「言論の自由」は、民主主義を「育てる」ために最も重要視されるべき自由だと思っている。が、自由の権利が大きければ大きいほど、その自由には同等の重さの責任が、1枚の紙の裏表のようにべったりくっついている。朝日新聞に限らずメディアに携わる記者たちが、報道や言論の自由と、それに伴う責任の重さに対する自覚を、この誤報問題を契機にどう大きな教訓として生かしていくのか、このことは社説で明確に書くべきだ。

 他にもいろいろ話したかもしれないが、この二つは慰安婦誤報問題に関して一貫して私が書いてきていることであり、「あとから主張」ではない。そしてこの意見に対してお客様オフィスの方は実に誠実に対応してくれた。が、残念ながら朝日新聞の紙面に私の意見が反映されることはなかった。それが今回の「吉田調書」報道の検証作業の遅れにつながってしまった。
 朝日新聞は「吉田調書」の全文を入手して分析した結果として5月20日の記事を掲載した。そして「調書」には書かれていなかった「東電社員らの9割に当たる約650人が吉田所長の待機命令に違反し、10キロ南の福島第2原発に撤退した」と報じた。これは、慰安婦問題誤報とは異質なケースである。慰安婦問題は明らかに誤報である。誤報であることが判明したのちも頬冠りし続けた朝日新聞の体質は問題があるとしても、吉田清治のようなねつ造小説を書いたわけではない。検証せずに鵜呑みにしてしまった結果である。
 が、「吉田調書」報道問題は、「吉田調書」を情報源と特定しながら、調書には書かれていなかったことを、あたかも調書に書かれていたかのように書いた。この行為は、吉田清治と本質において変わらない。もはやメディアとしては自殺行為だ。
 
 今日は体力の限界もあり、ここでキータッチを止める。今日の朝日新聞の「弁解記事」と読売新聞と毎日新聞の社説の検証作業は連休明けに続ける。
 ただ多少危惧していることがある。朝日新聞が「吉田証言」報道について社長が引責辞任を表明したタイミングである。実は、この報道は「でっち上げではないか」という疑問をすでに産経新聞(だったと思う)が指摘していた。そのときは例によって頬冠りしていた朝日新聞が、急きょ記者会見で「誤り」であったことを認めたタイミングである。
 昨日、菅官房長官が急きょ記者会見で「吉田調書」を官邸のホームページで公表すると発表したことだ。しかもいつもはノーネクタイの菅氏が、昨日に限ってネクタイをきちんと締めて記者会見を開いたことだ。独裁政権を築きつつある安倍総理が、安倍政策に批判的な朝日新聞を、この際徹底的に叩いておこうという意図が、垣間見えるような気がしてならない。私の「読み過ぎ」ですめばいいのだが…。

 なお、錦織選手の活躍で後回しにしてきた「親ロシア派」問題について、1点だけ指摘しておく。ウクライナ情勢が沈静化しつつあるので、書くチャンスがなくなってしまう可能性が強くなったためだ。
「◌◌派」という表現は一つのまとまった集団あるいは組織を意味する言葉だ。が、ウクライナのポロシェンコ政権に対する武力抵抗グループは一つではない。こういう場合は、「◌◌勢力」とするのが正しい表現である。私は「反政府武装勢力」とするのが一番正確な表現だと思うが、どうしても「親ロシア」という政治的意図を含めた表現にしたいのであれば「親ロシア派」ではなく「親ロシア勢力」とすべきであろう。
 現に日本の与野党対立についてメディアはどう表記しているか。「与党派」とか「野党派」などとは書かないだろう。そういう書き方は明らかに間違いだからだ。が、「与党勢力」とか「野党勢力」といった表記は日本語として間違った表記ではないし、現にしばしば使用されている。「過ちては即ち改むるに憚ること勿れ」という格言は、こうしたケースのためにある。

NHKが報道番組をカネで売った。言い逃れは絶対に出来ない。朝日新聞以上のスキャンダルだ。

2014-09-11 07:26:42 | Weblog
 呆れた。そうとしか言いようがないことが生じた。絶対にあってはならないことだ。それも、組織ぐるみでないとできない行為だ。
 昨日(10日)午後6時30分過ぎ(35分前後だったと思う)のNHKの首都圏ニュースでの出来事だ。8月27日に行われた第2回ユースオリンピック(中国・南京)の男子フリースタイル・レスリング76キロ級で優勝した山崎弥十朗君(埼玉栄高2年生)17歳に、NHKの女性アナウンサーが単独インタビューした。
 すでに試合が終わってから2週間は経っている。しかもユースオリンピックなどという競技会があったことさえ私は知らなかったし、ほとんどの国民は知らなかっただろう。
 が、NHKのアナウンサーによれば重量級のレスリングで日本選手が優勝したことは過去にはないという。山崎君は将来の日本重量級レスリングを背負って立つエースと期待されているらしい。が、なぜ優勝してから2週間も経ってからのインタビューなのか。
 インタビューは机も挟まず、二人が椅子に座って向かい合う形で行われた。これも異常である。ふつうなら「礼を失した」やり方と見られても仕方ない。さらに異常だったのはカメラアングルだった。
 山崎君はスポンサーにミズノのロゴとマークがプリントされたウィンド・ブレーカーを着てインタビューに応じた。通常なら、カメラにミズノのロゴやマークが映ってしまうから脱いでもらう。ミズノ周辺からカネが出ていなければの話だが…(直接ミズノからカネが出ているとは言っていない)。
「ブレーカーの下は下着です」と山崎君から言われたら、NHKが上着などを貸すのが当然だ。
 山崎君が来ていたブレーカーには胸の部分の両側にマークがプリントされていた。左側にはユースオリンピックのマーク、問題の右側にはミズノのロゴとマーク。どうしてもブレーカーを脱げない状態だったら、せめて映像にミズノのロゴやマークが映らないよう、カメラアングルは山崎君に向かって左側から撮るというのも常識だ。
 今日か明日にでも錦織選手が帰国する。すでに成田か羽田かは知らないが、空港内で共同インタビューの会場の設営の準備は行われていると思う。錦織選手がユニクロのロゴやマークが入ったブレザー(だと思う)を着て登場するのは当然だ。NHKもすでに取材態勢を整えているだろう。その場合、NHKのカメラマンがどういうアングルで撮影できるかは、私も分からない。もし全米オープンをNHKが独占中継していれば、おそらくNHKのカメラマンに場所取りの優先権が与えられるだろうが、今回はそういうわけにはいかないと思う。
 テニスの場合、私が見たのは今回が初めてだったので、錦織選手が負けた瞬
間にテレビのチャンネルをWOWOWから切り替えてしまったため、表彰シーンは見ていない。おそらくゴルフと同様、優勝者にはカップ、準優勝者にはタテか紙切れ(表彰状)ではないかと思う。
 いずれにせよ、記者会見ではカメラマンの要請に応じる形で(これも一つの儀式的な行為)錦織選手は授与されたタテか表彰状を高々と掲げる。その際、錦織選手が来たブレザーに刺繍された(ブレザーにはプリントしない)ユニクロのロゴやマークがNHKのカメラに映っても仕方ない。だいいち競技の中継をする際、フェンスに書かれた宣伝文字をすべて幕で覆ってくれなどとは、いくら公共放送でも主張できない。中継映像にいろいろな企業名や商品名が映っても、公共放送の在り方として逸脱しているとは、いくらなんでも私も言わない。
 が、今回の山崎君のインタビュー映像は明らかの公共放送としての在り方を逸脱していた。まずありえないことに、単独インタビュー(しかも生ではない。事前にカメラアングルなどのテストをしてのインタビューだ)でありながら、意図的にミズノのロゴやマークがつねに映像に映りこむような撮影をしていたからだ。このことは昨日3回NHKのふれあいセンターに電話をして伝えた。
 最初に電話したときは放映中だったので、電話に出たコミュニケーターの女性にインタビュー映像をリアルタイムで確認してもらった。コミュニケーターは「担当部門に伝えます」といい、私は食事中だったのでいったん電話を切ったが、食後再び電話をして今度は上席責任者に代わってもらい、再度確認してもらった。上席責任者は「報道部門に伝えます」といったが、私は「それではだめだ。今後気を付けますで終わってしまう。コンプライアンス委員会に報告してくれ。このインタビューには絶対に裏でカネが動いている。エンターテイメントならいざ知らず、報道がカネで左右されたということになるとNHKの公共放送としての存在が問われる問題だ」と伝え、責任者は「分かりました。そうします」と答えた。
 このインタビューをNHKがオンラインでどう伝えているか確認しようと思ったが、少なくとも午後8時の時点では一切確認が取れなかった。午後8時の時点でオンラインによる確認ができたニュースは、総合で15件、スポーツニュースで10件、首都圏ニュースでは60件あったが、そのどれにも山崎君インタビューの件は確認できない。制作担当者が「このインタビューをオンラインに残すと証拠になるからまずい」と判断したのではないか。
 そこからが大変だった。アジア大会の話はちらっと小耳に挟んでいたので、アジア大会での競技かと思って調べたが、開催はこれからのようだ。次にレスリングで検索したが、いまレスリングは世界選手権が開催されていて日本選手も活躍しているようだが、ここでも山崎選手の名前は出てこない。
 途方に暮れたが、やみくもに検索をかけて、ようやく山崎選手が金メダルを
とった大会が南京ユースオリンピック大会であること、また優勝したのは2週間も前の8月27日であることが分かった。
 そこで再びNHKふれあいセンターに電話をして、上席責任者(2度目に電話した人とは別人、NHKは指名電話はできない)に私が苦労して調べたことをすべて伝え、「こういうおかしな報道はカメラマンや記者の個人的行為ではできない。組織的行為と考えざるを得ない」と申し上げた。責任者も「組織的でないと不可能である」ことを認めた。私は「明日、BPOにこの件は通告する。コンプライアンス委員会で対応策を考えておくように」と伝えた。実際、このブログ原稿を投稿後にBPOにFAXするつもりだ。
 ただBPOは受け付けた意見や番組への個別の回答はしていないようなので(官公庁も同じ)、この件についてどう扱うかはわからない。ただ、山崎君インタビューには裏でカネが動いたこと、おそらく裏でNHKの報道局を動かしたのは大手広告代理店であることも疑う余地がない。
 私のブログはメディアもかなり関心を持ってくれているから(私のブログは閲覧者が訪問者の4~5倍であり、個人の閲覧者より組織内の閲覧者が圧倒的に多い)、今回はBPOもこの問題を無視できないと思う。  
 

錦織選手の敗因はどこにあったのか? 決勝戦が錦織選手には不利なことがなぜ分からなかったのか。

2014-09-10 08:08:50 | Weblog
 錦織選手はなぜ格下のチリッチ選手に敗れたのか。
 その敗因は、私が試合開始直前にブログで危惧した通りだった。私はブログでこう書いた。

 昨日のブログでも書いたが、錦織選手の最大の敵は自分自身だ。プレッシャーをどう撥ね付けるかに勝敗の行方はかかっている。
 これまでの試合はすべて格上の選手との戦いだった。世界ランク6位、4位、そして最後は1位の選手を撃破して決勝戦に進出した。ある意味では「攻め」の試合ができる相手だった。
 が、決勝で当たるチリッチ選手は錦織選手にとっては初めての格下選手だ。「負けられない」という気持ちが前面に出てしまうと「攻め」の試合ができず、「守り」の試合になってしまう可能性もある。格下というだけでなく、対戦成績も5勝2敗で、3連勝中ということも、プレッシャーがかからない試合だと有利に働く条件だが、グランドスラムという大きな大会の決勝戦ではかえって不利な条件になりかねない。戦前の二人のインタビュー映像を見ていても(※インタビュー映像は8日のテレビ各局ニュース番組による)、チリッチ選手のほうに余裕すら感じた。悪い予感が当たらなければいいのだが…。

 このブログの投稿日時は、gooサーバーの記録によれば「2014-09-09 05:23:33」となっている。つまり昨日午前5時23分33秒に投稿が完了したということだ。私のブログにアクセスすれば、だれにでも確認できる、ねつ造のしようがない記録だ。
 一方やはり昨日試合終了後のyahoo¡ニュース、スポニチアネックス10時0分配信の記事『錦織、会見で敗因分析…初の重圧「試合に入り込めなかった」』によれば、錦織選手はこう敗因を自己分析しているらしい。「らしい」としたのはテレビでの錦織選手のインタビュー映像にはこの発言部分がカットされたようで、映像での確認はできなかったからだ。が、スポニチアネックスが配信した記事にねつ造の可能性はきわめて少ない。まずねつ造だったとしても、ねつ造する目的が考えられないからだ。朝日新聞の誤報記事事件もそうだが、朝日新聞の場合はねつ造ではなく、とにかく先の大戦における日本軍の非人道ぶりをこれでもかこれでもかと暴くことがメディアの使命だという価値観に、記者がマインド・コントロールされていたために生じた意図せざる誤報だった。誤報が明らかになっても訂正記事を出せなかったのは、そうした価値観、歴史認識方法が社内で音を立てて崩れることを恐れたからだ。
 いま朝日新聞の中で間違いなく地殻変動が生じつつある。朝日新聞が大々的に誤報記事の取り消しを発表したとき、私はとりあえず「権力闘争の表れか」
とブログで書いた。その日、朝日新聞お客様オフィスに電話したとき、朝日新聞お客様オフィスはすごい体制をとっていた。人間録音機ではない女性担当者が電話に出て、とうとうと自説を述べた。私が「民主的な組織には必ず権力闘争がある。それは悪いことでは必ずしもない。かつて村山家が支配していた時代があったが…」と言い出すと、「村山・上野です」と即座に反応したくらいだった。そして「権力闘争が生じない新聞社もありますから」とまで言った。ナベツネという老いぼれがいまだ院政を敷いている読売新聞を指していることは歴然だった。
 朝日新聞の地殻変動は、どのあたりまで進んでいるのか、外部の私には皆目分からない。明治維新に例えれば、まだ「桜田門外の変」あたりの序曲なのか、「鳥羽伏見の戦い(蛤御門の変)」あたりまで来ているのか、それとも「薩長連合成立」まで来てクーデターがほぼ成功したと言えるのか、これからもしばらくは混乱が続くと思う。池上氏の原稿掲載拒否問題の発覚と、その後の対応も、旧勢力と新勢力のせめぎあいが未だ決着していないことを証明していると言えなくもない。
 それは余談だが、スポニチアネックスの配信によれば、錦織選手はこう敗因を自己分析している。

 過去の対戦成績は5勝2敗。チリッチに対して自信を持っていたのが、逆にあだとなった。「勝てるというのが少し見えたのがよくなかった。勝たなきゃいけないというプレッシャーがあった」と錦織。「(試合中)ずっと迷走している感じだった。まったく先が見えなかった。正直、フェデラーの方がやりやすかったかもしれない」と、最後までペースがつかめないまま終わったことを悔やんだ。
 体調面でも万全ではなく「決勝まで胸が苦しく、寝つけなかった。これが当然、としていかないといけない」と、初の決勝進出の重圧がいかに大変なものかを身を持って知ったようだった。

 どう考えてもスポニチアネックスに錦織選手のコメントをねつ造せざるを得ない、何らかの目的があるとは考えにくい。また錦織選手が私の試合直前に投稿したブログを読んでコメントを考えたなどということは、もっとありえない。ということは、私の戦前の分析と戦後の錦織選手の自己分析が偶然一致したとしか考えられない。なぜメディアは、私のように論理的に物事を分析できないのか、間違いなく認知症世代に入っている私より、論理的思考力に劣るのはなぜか。
 昨夜、BSフジの「プライム・ニュース」が『昭和天皇実録』の検証番組を報
道した。メインキャスターの反町氏だけでなく、サブの島田氏も一人で番組を
背負えるほどの実力キャスターだ。この『実録』について私が知る限りメディアはあまり評価していない。「新事実」が明らかにされていず、すでに報道で明らかになっていることばかり、というのがその理由だ。
 が、メディアは大変な勘違いをしている。私は初めて知ったが、昭和天皇が靖国参拝をお止めになった理由について「A級戦犯が合祀されたことを不快に思われた。A級戦犯を強引に合祀した松平宮司について『親の心、子知らず』とまで述べられた」という富田メモについて、日本経済新聞がスクープしたことを『実録』は記載していながら、いまだ疑問が寄せられている富田メモの真否については何も『実録』には記載されていないことをBSフジは明らかにした。
 私は時の軍事政権と一体になって「今度会うときは靖国で」と杯をかわして二度と帰ることができない戦場に旅立った若い兵士を美談として報道し、さらには「竹槍で戦え」とまで国民の戦意を鼓舞したメディアの責任は、反戦意識が強い朝日新聞でさえいまだに明確にしていない。戦時下で報道の自由が奪われていたことは事実だろうが、そこまで書けと軍部がメディアに命じていたのか。そんなことはありえない。もしあったとしたら、それは事実としてとっくに検証されているはずだからだ。
 論理ではなく、思い込みの価値観や知識だけを頼りに報道すると、メディアは再び過ちを犯さないという保証はない。錦織選手が不利な条件でチリッチ選手と王座をかけて戦わざるを得なかったことは、論理的に考えればメディアには当然理解できることだった。いや、理解しなければならないことだった。錦織選手に不利なことを報道すると読者や視聴者から反発を食うと考えて論理的思考力にストップをかけたのだとしたら、メディアの体質は戦時中と全く変わっていないことを意味する。

全米オープンの試合結果はもう分かっているだろうが…。試合開始直前に何となく気になったこと。

2014-09-09 05:23:33 | Weblog
 まだ外は真っ暗だ。2か月前ならほの明るくなっているころだが、異常天候が続いていても日の出、日の入りだけは不変である。秋の夜はつるべ落としというが、日の沈みが早いだけでなく、日が昇るのも毎日少しずつ遅くなる。
 今日は、昨日書く予定だったウクライナ紛争についての報道問題を改めて書くつもりでいたが、気分的にそんな気になれない。全米オープンの試合開始にはまだ2時間近くあるのだが、おそらく読者の方たちと同じく気もそぞろでブログに集中できる状態ではない。
 昨日は日中、フィットネスクラブの友人たちとどうするか、そんな話で持ちきりだった。ユーチューブで見ることができるという話を聞いた、という友人もいたが、ネットで調べた限り確証がない。「視聴は自己責任で」と言う闇ライブ予告もネット上にはあったが、犯罪行為に加担はしたくない。
 NHKふれあいセンターに電話したが、「担当者が対策に追われています。まだ何も決定していないので、現時点ではどういう放送体制をとるかお話しできませんが、視聴者からの問い合わせも殺到していますので、何らかの対応はする予定です」という返事しか返ってこない。
「例えばWOWOWのライブ中継と30分ずらして録画放送できないか」と聞いたが、「放送権は試合終了まであるようです」とつれない返事。とにかく緊急体制はとるつもりで交渉中だという。「どこと交渉しているのか。WOWOWか。それとも国際テニス連盟か」とも聞いたが「詳しいことはうかがっていません」と、やはりつれない。
 やむを得ずWOWOWに契約申し込みの電話をしたが、電話が殺到していてつながらない。ネットもなかなかつながらず、先ほどネットで契約を申し込んだところだ。これで一応錦織選手の決勝戦をライブで見ることができるようになった。ついでにNHKの報道体制を調べたら、午後1時5分から録画中継するらしいが、錦織選手が勝てば、感動をもう一度と視聴する人も少なくないと思うが、万一負けたら、おそらく誰も見ない。
 決勝戦に先立って急きょ二人の世界ランクがアップした。錦織選手のランクは11位から8位に、相手のミロシュ・チリッチ選手(カナダ)も15位から11位に躍進した。運営サイドとしても格落ち決勝戦のイメージだけは残したくないのだろう。テニスの世界ランキングはどの組織がいつ、どうやって決めるのかはわからないが、大会途中での変更はおそらく異例中の異例だと思う。
 おそらく国際テニス連盟内部にそういう組織が作られているのだろうと思ってネットで調べたら違った。男子と女子では別の組織が決定しており、男子はプロテニス・ツアーを運営するATP(プロテニス協会)という、プロ選手が加盟する団体が決定しているようだ。ということはオープン競技(アマチュアも参加できる競技をオープン競技という。ゴルフも同じ)でアマチュア選手が優
勝してもランキングには入らないということらしい。
 そういえばゴルフでも女子の宮里藍選手がアマチュア優勝してプロテスト免除でプロ入りして以来、日本でもアマチュア優勝が続出するようになったが、ランキング入りはプロになってからの成績で決まる。ただゴルフの場合は賞金ランキングとポイント制による世界ランキングの2種類があり、ポイントランキング(これが世界ランキングを意味する)を調べてみたら、まったく無名の(私が知らないだけかも…)ロリー・マキロイが1位、世界最強と目されているタイガー・ウッズは14位だ。日本選手では松山英樹が最高位の19位で、次が小田孔明の63位、一時は人気が沸騰した石川遼は81位にとどまっていた。テニスの世界ランキングもポイント制で決めているようだ。でも今大会中でポイントも決まっていないのになぜランクアップしたのか…。錦織選手が8位にランクアップしたと聞かされても、なんとなく素直に喜べない。
 ネットで人名を検索していて面白いな、とときどき思うことがあるが、この3人は一発で正確な人名変換ができたが、小田選手の場合は「こうめい」という名前が一発では正確な変換ができなかった。「にしこり」選手の場合もそうで、どうやっても当初は正確な変換ができず、「にしきおり」と入力してやっと「錦織」に変換できた。いまは多分誰でも「にしこり」で一発変換できると思う。
 そんな戯言を書いているうちにWOWOWの放送開始時間が迫ってきた。読者がこのブログを読まれる頃には、もう試合の結果が分かっているだろう。昨日のブログでも書いたが、錦織選手の最大の敵は自分自身だ。プレッシャーをどう撥ね付けるかに勝敗の行方はかかっている。
 これまでの試合はすべて格上の選手との戦いだった。世界ランク6位、4位、そして最後は1位の選手を撃破して決勝戦に進出した。ある意味では「攻め」の試合ができる相手だった。
 が、決勝で当たるチリッチ選手は錦織選手にとっては初めての格下選手だ。「負けられない」という気持ちが前面に出てしまうと「攻め」の試合ができず、「守り」の試合になってしまう可能性もある。格下というだけでなく、対戦成績も5勝2敗で、3連勝中ということも、プレッシャーがかからない試合だと有利に働く条件だが、グランドスラムという大きな大会の決勝戦ではかえって不利な条件になりかねない。戦前の二人のインタビュー映像を見ていても、チリッチ選手のほうに余裕すら感じた。悪い予感が当たらなければいいのだが…。

明朝、錦織選手が大きな夢に挑む――もう一度、メディアの報道の在り方について考えてみた。

2014-09-08 07:00:50 | Weblog
 今日、書く予定にしていたのはウクライナ紛争についての報道についての疑問だったが、急きょ予定を変更する。錦織圭選手が日本人初のグランドスラム制覇の夢が明朝実現する可能性が高まったからだ。
 その事実は皆さんとっくにご存じだろうから、錦織選手の活躍について、テニスに関しては土素人の私が云々する必要はない。5日(金)に投稿したブログ『今日は雑感――錦織選手の活躍に思う。安倍改造内閣の意味を問う。消費低迷の原因は円安誘導だ』の中で、錦織選手の活躍についてこう書いた。

 錦織圭選手が全米オープンで世界ランキング4位の全豪覇者スタニスラス・ワウリンカ(29=スイス)を4時間15分の激戦を制して破り、4強入りを果たした。そのビッグニュースを昨日、ブログを投稿した後テレビで見て、すごいことをやったなと私も喜んだ。
 が、解せないことがある。つい先日8強入りを果たし、「92年ぶりの快挙」とテレビは大騒ぎをしたばかりだ。4強入りしたら、今度は「96年ぶりの快挙」になった。「ぶり」ということは先人の記録に並んだということを意味し、先人がいなければ「日本人初」という冠表現が就くのが常識だ。
 そう考えると8強入りしたときは、実は「先人の記録に並んだ」ということは意味していなかったということだ。すでに8強入り(準々決勝進出)した先人の4年前に、4強入り(準決勝進出)していた日本選手がいたことを意味するからだ。
 私は錦織選手の快挙にケチをつけるつもりはさらさらない。「…年ぶりの快挙」がそれほど大安売りされたのでは、錦織選手自身がたまったものではないと思っているのではないかと、他人事ながらちょっと気になったからだ。実際今度は世界ランキング1位のノバク・ジョコビッチ(27=セルビア)との対戦になる。もしジョコビッチに勝って決勝に進出したら、今度は「99年ぶり(?)の快挙」ということになるのだろうか、という疑問すら生じた。
 92年ぶりも、96年ぶりも、それぞれ間違いではないのかもしれないが、その根拠をきちんと説明してもらわないと、私のような門外漢にはさっぱりわからない。(中略)
(錦織の名前の読み方が局のアナウンサーによってちょっと聞き取りにくいケースがあったので、逆引き漢和辞典で調べてみたが分からなかったことを書いた後)この問題はネットでサンケイスポーツが今朝の5時0分に配信した記事でようやく解決した。同記事で「NISHIKORI」と表記されたからだ。同記事によれば、錦織選手がジョコビッチ選手を破って決勝に進出すれば「男女を通じて日本選手初の決勝進出」とあるが、実際に決勝に進出したらメディアによっては位置付けがまた変わるかもしれない。
 錦織選手のジョコビッチとの対戦成績は1勝1敗で、過去は五分の成績を残している。錦織選手が勝った試合はジョコビッチ選手が肩を痛めていた時というハンデ戦ではあったが、今度は錦織選手が右足親指のけがの回復がまだ万全ではない状態で世界ランキング6位、4位の選手を次々に撃破して勝ち進んできた。相手が世界1位であっても、臆することなく戦って勝利を収めてほしい。「…年ぶりの快挙」ということになったとしてもだ。

 いま私はブログを朝、目がさめてから書くことにしている。以前体調が万全で毎日7~8000字(実数)のブログを書いていたころは、前日の夜に5000字分くらいは書いておき、疲れたら中止して翌朝書き終えて投稿するという習慣だったが、いまは昼間のエクササイズで疲れてしまい、だいたい午後8時からのBSフジのプライムニュースを見て寝てしまう。時には10時からのテレ朝の報道ステーションも見るが、そんなわけで前日には一切書いていない。
 今日も5時ころ目が覚めてざっと新聞の見出しに目を通して、今日はやはり明朝の全米オープンについて書くことにした。明日はおそらく錦織選手が日本人初のグランドスラム制覇に挑む直前に書きだすと思う。結果が分かるころにはフィットネスクラブに出かけているので、結果は外出先で知ることになる。
 実は5日フィットネスクラブで同じプログラムに参加している友人たちと昼食を食べながら、やはり錦織選手の活躍が話題の中心になった。友人たちはメディア出身ではないので、「96年ぶりの快挙」とか「92年ぶりの快挙」とかにはあまりこだわっていなかったが、私が疑問をぶつけると皆頭をかしげた。なかには「別の4大大会で4強に進出した選手がいるのでは…」と善意の解釈をする方もいたが、違う大会での成績とごちゃ混ぜにするようなことはいくらなんでもメディアはしない。「96年ぶりが全米オープン」で「92年ぶりが、たとえばウィンブルドン(全英オープン)」だったとしたら、ちゃんとそう表現する。
 その疑問はその日の夜のNHKニュース7で氷解した。4大大会での準決勝進出(4強入り)は81年ぶりだったということだった。で、急きょネットで全米オープンの成績について調べてみた。96年前も92年前も、日本人男子選手が8強入りしたのも4強入りしたのも、同じく全米オープンだったことがはっきりした。過去の全米オープンでの最高位は4強であることも分かった。つまり準決勝で勝利を収めた選手は過去一人もいなかったのである。
 ここまで書いてふと疑問に思ったのが、準決勝で敗れた選手同士による3位決定戦はないのかということである。この時間ではメディアに電話しても聞けないのでネットで検索してみたが、8月25日から錦織選手の試合だけでなく連日男女1回戦から生中継していたWOWOWの放送予定を見ても3位決定戦の
放送予定はない。ということは、4強がこれまでの最高位ということであり、な
らどうして民放は錦織選手が準々決勝に勝ち進んだ時点で「92年ぶりの快挙」
と大騒ぎしたのかという疑問が生じた。
 これは私のあくまで推測だが、民放の記者は新聞社の記者よりはるかに少ない。映像も放映権を獲得した放送局から買うケースが大半で、独自にカメラマンを送って録画放映するための映像を撮ったりすることは、NHKを除いたまずしない。ということは、民放のアナウンサーが読む原稿も、同系列か契約先のスポーツ紙の配信記事を鵜呑みにして作られているのではないか、という結論に達せざるを得ない。
 スポーツ紙を定期購読している人は少ないようだから、コンビニで買うにせよ駅の売店で買うにせよ、1面トップ記事の見出しが売れ行きを大きく左右する。スポーツ紙は、錦織選手が世界4位の強豪スタニクラス・ワウリンカ選手(29=スイス)を破って準決勝に進出するとは考えなかったのだろう。そのため8強入りを果たした時点で「96年ぶりの快挙」と大々的に報じ、民放のスポーツ担当記者もスポーツ紙の売らんがためにつけた虚偽見出しを鵜呑みにして、一緒に大騒ぎをしてしまったのではないか、というのが私の論理的結論である。
 たかがテニスのこと、と言うなかれ。政治を担当しようが、経済を担当しようが、社会問題を担当しようが、文化問題を担当しようが、スポーツを担当しようが、メディアが検証せずに何らかの「真実だと信ずるに足る」と勝手に思い込んだ情報を鵜呑みにして報道してしまい、「誤報を明らかにするとメディアに対する信用を失う」とこれまた勝手に決めつけて誤報を訂正しない体質がメディア界を覆ってきた結果が、朝日新聞の大スキャンダル問題に発展したことをすべてのメディアは心の底から噛みしめて報道姿勢を検証し直すべきである。
 私が2回にもわたり錦織選手の快挙の位置付けについてブログでこだわったのは、メディアの体質がそういうことにも現れているということを、この際証明しておくべきだと考えたからだ。
 そんなことは錦織選手にとってはどうでもいいことなので、明日の今頃は試合が始まっているはずなので、何とか私たちの夢をかなえてもらいたいということだけだ。とくに今までの相手と違ってランキング下位で、対戦成績も3連勝中だけに、「どうしても勝たねば」というプレッシャーが錦織選手を襲う。そのプレッシャーを撥ね付けてこそ、真の王者になれる。錦織、がんばれ !!