国内最高峰のステージレース、2018年ツアー・オブ・ジャパンが5月20~27日、大阪から東京までの全8ステージで開催。それぞれの思いを胸に戦ったシマノレーシングの出場6選手に迫る。
■山岳賞を狙う理由 木村圭佑
過去2年連続で全日本選手権ロードレースで3位に入った木村圭佑は、ロードレース界で注目される選手のひとりになった。さらに今年は入部正太朗からシマノレーシングのキャプテンを引き継ぎ、チームの顔としても見られるように。その注目が功を奏したのか、3月の西日本チャレンジサイクルロードレースで優勝するなど、春先から結果も残してきた。
このツアー・オブ・ジャパン(TOJ)でも積極的だった。第1ステージ堺の直前に行われた前哨戦・堺国際クリテリウムではスタートの号砲とともにファーストアタックで飛び出し、チームの地元でいきなり見せ場を作った。その後、8人となった先頭集団の逃げ切りが濃厚となり、その中で木村はなんとか勝利を手繰り寄せようと奮闘したが、最終的には7位。それでも、例年以上に気持ちの入ったTOJの幕開けとなった。
翌日の第2ステージ京都も、再び木村が躍動した。ファーストアタックに反応して4人の逃げを形成すると、最初の山岳ポイント(1位:5pt、2位:3pt、3位1pt)では他の3人を寄せ付けないスプリントを見せてトップ通過する。
今回のTOJで山岳賞を狙うことを、チームも木村も最初からターゲットに掲げていたわけではなかった。この時点では野寺秀徳監督も「チャンスがあるなら狙え」という考えだった。しかし、木村の中にはあるひとつの思いがあった。
このTOJでのシマノレーシングの目標は、ステージ優勝とUCIポイントの獲得。UCIポイントは五輪や世界選手権、その他ビッグレースの選考基準のひとつであり、選手やチームの実績、価値を現す指標にもなる。TOJでは各ステージの上位3位までと最終的な総合25位までの選手に与えられる。
しかし、TOJは第6ステージ富士山でのタイムが総合順位に大きく影響する。富士山は、急勾配の上りが10km以上続く特殊なコースだ。ここを苦手とする木村は、自分が入部や湊のように総合25位以内に入る可能性は低いと見ていた。
ならば、自分に狙えるのは何だ? と考えて出した答えが「山岳賞」だった。
ロードレースやTOJに詳しくない人なら、富士山が苦手なのに山岳賞を狙うのは不思議に聞こえるかもしれない。しかし、各ステージの途中に2度設定されている山岳ポイントを取るには、ヒルクライムの実力よりも積極的にアタックして逃げる走りが必要で、それならば木村も可能性があると考えたのだ。もちろん、逃げることは自らのステージ優勝のチャンスも生むし、集団内に残るチームメイトに有利な展開を作ることにもなる。
続く2回目の山岳ポイントは草場啓吾(日本ナショナルチーム)と2人の争いになり、木村は2位通過となった。その後、この逃げは吸収され、山岳賞は木村と草場が合計8ポイントで並んだが、個人総合順位の差でジャージは草場の手に渡った。
次の日からも木村の挑戦は続いた。山岳賞はUCIポイントの対象ではないものの、チームも木村の山岳賞獲得をアシストすることを決めた。
第3ステージいなべは、序盤に2人の逃げができた。木村も逃げを狙ったが、バーレーン・メリダが集団前方に広がってフタをして抜け出せなかった。残された3位通過1ポイントをかけて、集団内では木村と草場が争う。木村はチームメイトのアシストを受けて1回目の3位通過を勝ち取ったが、2回目は草場が競り勝った。これで2人は9ポイントタイ。しかし、ジャージは逃げて1位通過を2回獲得し、10ポイントを稼いだ小石祐馬(チーム右京)に移った。
ステージレースの山岳賞は、ときに序盤でひとりの選手が頭ひとつポイントで抜け出すと、他の選手は興味を失うという展開になることも少なくない。しかし、今回のTOJは違った。木村、草場、小石、3人の日本人の争いにファンもメディアも注目し、前半戦の目玉のひとつとなった。そして、彼ら3人のバトルが今年のTOJの山岳賞の価値すらも上げていたようだった。
雨模様の第4ステージ美濃。木村はスタートで最前列近くに並び、アタックする気満々だったが、逃げを決めるのは簡単ではなかった。序盤からアタック合戦が続き、木村が逃げに乗れば日本ナショナルチームが追い、草場が抜け出せばシマノレーシングがつぶすという総力戦が続いた。約1周を走って形成された5人の逃げには、木村、草場、小石も入り、役者がそろった。
しかし、連日動いていた木村の体力もそろそろ限界に近付いていた。1回目の山岳賞は草場、小石に次いで3位通過、2度目の山岳賞は、ポイントに絡むことができなかった。
山岳ポイントを稼ぐチャンスがあったその後の南信州、伊豆のステージも、チャンスがあれば逃げようと狙っていたが、もはや体が言うことはきかなかった。ゴール後にローラー台に乗ってクールダウンするのもつらいほどだった。
「今年のTOJは逃げてるか遅れてるかで、全然集団で走ってないな」と笑いながら話していたが、まさにアタック尽くしの日々だった。
結果、山岳賞は小石でも草場でもなく、後半の南信州と伊豆でポイントを稼いだベテランの鈴木譲(宇都宮ブリッツェン)が逆転で獲得。木村は一度も赤い山岳賞ジャージに袖を通すことはなかったし、こうした争いがあったことを来年まで覚えている人もきっと少ないだろう。
しかし、アタックを続けた経験は、木村の中に確実に何かを残していた。TOJから2週間後、6月10日のJPT那須ロードレースでは、木村がゴール前1㎞でアタックし、念願のJプロツアー初勝利をつかみとった。勢いを取り戻した木村にとって、最大の目標である全日本選手権はもうすぐだ。
■解き放たれたアタッカー 入部正太朗
その木村に、キャプテンの座を譲ったのがチーム最年長の入部正太朗だ。キャプテンではなくなったものの、話し好きで面倒見のいい入部が後輩の選手たちにアドバイスする姿は今でもよく見られる。それでもキャプテンという肩書きを下したことで、文字通り少しは肩の荷が下りたのかもしれない。それ以外の要因、たとえば熱心に取り組んでいるパワーメーターのデータ解析の成果などもあるが、今年の入部は強くなったという声をよく聞く。
キャプテンを務めた過去3年間も毎年のように勝利を挙げていた入部だが、確かに今年は一味違う活躍を見せている。4月のツアー・オブ・タイランドでは第2ステージで逃げ切ってステージ優勝を挙げ、リーダージャージを1日着用。タイから帰国翌日に出場した伊豆でのチャレンジサイクルロードレースでも優勝という離れ業を見せた。
そして、昨年のTOJで総合21位に入った入部は、それ以上の成績を目標に掲げていた。総合15位以内とステージ優勝だ。第1ステージ堺の個人タイムトライアルはチームトップ、日本人4番手の19位とまずまずの出足だ。
第2ステージ京都は約30人のメイン集団でゴールし、総合12位まで上げた。続く第3ステージいなべは、終盤にちょっとしたピンチがあった。平坦の横風区間で集団が2つに割れ、入部たちは後方に取り残された。しかし、湊、横山と協力してなんとか残り5kmで40人前後の集団にまとめあげる。ただ、イナベルフと呼ばれるゴール前の坂で集団はぶつ切りになり、すでに脚を使っていた入部は12秒差の19位でゴール。これで、総合はちょっと下げて14位に。
続く第4ステージ美濃は、雨中のゴールスプリントで一時トップに立つ快走を見せ、ステージ12位。総合争いが本格化する第5ステージ南信州では約30人のメイン集団の中に生き残り、再びステージ12位。終盤のアタック合戦に参加すればステージ優勝のチャンスがあったかもしれないと悔やんでいたが、ここはタイムを失わないことを優先した。この2日間はタイムロスなく総合14位を守った。日本人では中根英登(NIPPO・ヴィーニファンティーニ)に次ぐ2番手の好位置だ。
迎えた第6ステージ富士山は、否が応でもタイム差がつく激坂ヒルクライム。入部は昨年はステージ24位と粘りの走りを見せたし、今年もこのステージのためにしっかりと準備してきた。
しかし、ふたを開けてみれば、思い描いていたのとはまったく違う1日となった。今年は富士スピードウェイスタートとコースが変わったため、単純なヒルクライムのタイムだけでの比較はできないが、入部はマルコス・ガルシア(キナンサイクリングチーム)の優勝タイムから9分20秒遅れの40位に終わった。昨年はトップから7分13秒差だったので、約2分のロスだ。総合も28位とUCIポイント圏外に後退した。パワーも心拍も昨年ほど上がらなかったという入部は「高地が苦手なのかな」と頭をひねっていたが、この日がステージレース中に選手がよく陥るというバッドデーだったのかもしれない。
翌日は、第7ステージ伊豆。再び集団が絞り込まれることが予想され、そこに残れば総合順位を挽回し、再び25位以内に戻れるチャンスはある。しかし、入部はそうは考えなかった。前夜のミーティングで、「ステージ優勝にチャレンジしたい」と宣言。アタックして逃げを決め、最後に小集団スプリントを制するのが入部の勝ちパターンだ。それを狙って、守りの走りよりも、攻めを選んだのだ。
迎えた伊豆で、まさに入部は解き放たれたように攻撃的な走りをした。序盤から激しいアタック合戦が繰り返され、入部もその争いに参加する。しばらくして、ポイント賞ジャージのグレガ・ボレ(バーレーン・メリダ)、山岳ポイントを狙う鈴木譲(宇都宮ブリッツェン)ら強力な5人が抜け出す。これに乗り遅れた入部は、単独で追走に飛び出した。
ところが、すでに30秒ほどタイム差が開いていたため、なかなか前の5人に追いつかない。結局、約1周をかけてようやく合流に成功。この時点でかなり体力を消費していたが、ボレらは入部を休ませてくれた。それでも、逃げ集団のスピードは速く、入部は何度もちぎられそうになった。レース状況を伝えるラジオツールは「121番(入部のゼッケン)、先頭集団から遅れた」「121番、再び先頭に合流」とアナウンスを連呼する。入部は上りで遅れても無理をせず、得意な下りで先頭に追いつくという動きを繰り返し、なんとか逃げに食らいついた。
耐え続けた入部だが、レース後半ついに力尽き、ボレら3人の加速に遅れると、後方のメイン集団にも抜かれて置き去りにされた。しかし、この入部の勇敢な走りには日本サイクルスポーツセンターの観客も惜しみない声援と拍手を送り、集団にいた選手たちもねぎらいのジェスチャーを見せていた。
結局、約15分遅れでゴールした入部は、先頭3人が逃げ切ったことを知ると「勝ち逃げだったか」と悔しがった。あそこに残っていれば、自分にも勝つチャンスがあった、と。「追いつくのに1周かかって、体力を使ったのがよくなかった。早めに逃げに反応するべきだった」と反省を口にしていた。結局、ステージ優勝も手に入らず、総合も30位と目標には届かない結果でTOJを終えた。
しかし、アタッカー入部の真骨頂は翌週のツール・ド・熊野で花開いた。昨年もステージ優勝を挙げているこのレースだが、苦手な第2ステージ・熊野山岳コースで逃げに乗り、一度は遅れながらも最後の峠を越えたところで再び先頭に追いつき、最後は3人の小集団スプリントを制してステージ優勝を飾った。獲得したリーダージャージは、残念ながら最終第3ステージで他チームの総攻撃によって失ってしまったが、再び見るものの印象に残る入部らしい走りを見せてくれた。
■ステージレーサーへのターニングポイント 湊諒
チーム随一の登坂力を持ち、昨年のTOJでは総合25位に入ってUCIポイントを獲得した湊諒。今年、周囲はそれ以上の成績を期待していたが、本人の目標はさらに高く総合トップ10を目指していた。
そのためには1秒とて無駄にしたくなかったが、TOJ前半はなかなか調子が上がらなかった。第1ステージ堺の個人TTは下位に終わり、第2ステージ京都では、終盤、集団後方にいたところで落車が発生。分裂した後ろの集団に取り残され、50秒を失った。
続く第3ステージいなべは、横風で割れた集団を何とかひとつに戻すことができたが、ゴール前の上り坂で18秒ロス。続く第4ステージ美濃も、最後にメイン集団から離れ、33秒差でゴール。タイムロスを防ぎたかった前半4ステージで、2分15秒差の総合41位。決して大きな遅れではないものの、UCIポイントを目指すには黄色信号が灯ろうとしていた。
しかし、昨年同様、後半戦に向けて調子は上向いてきていた。第5ステージ南信州は約30人のメイン集団に生き残り、総合30位まで持ち直した。
第6ステージ富士山は、クライマーの湊にとってできる限り上位に食い込みたいステージだ。しかし、初出場の2016年はトップから6分34秒遅れの35位、昨2017年は7分32秒差の26位と、あまり目立った成績は残せていない。だが、今年は自らのペースを守って走り切り、4分29秒遅れのステージ18位でゴール。総合でも順位を上げ、20位とUCIポイント圏内に一気に飛び込んだ。日本人の中では中根英登(NIPPO・ヴィーニファンティーニ)、同じ青森出身で同い年のライバル石橋学(ブリヂストンサイクリング)に続く3番手だ。湊自身、「体重が2kg絞れている」と好調の要因を語る。
続く第7ステージ伊豆も、例年通りサバイバルな展開が待っていたが、湊はそれを迎え撃つ力を持っていた。シマノレーシングでは入部が逃げで奮闘する一方、最終局面まで集団に残っていたのは湊と横山の2人だけ。すでに、メイン集団は約20人に絞られている。
さらに入部が逃げから脱落し、横山も最終ラップ半ばで遅れ、メイン集団は約15人に。この時点でまだ3人が逃げていて、リーダーチームのキナンは捕まえなくてもタイム差をコントロールすればいい状況だった。しかし、強力な外国人選手がそろう集団内にはステージ優勝や総合順位アップのために前の3人を捕まえたい選手もいたはずだったが、彼らも疲れているのか、なかなかペースが上がらない。
その中で湊はチームカーにボトルをもらいに下がったり、他の選手の動きに反応したりと冷静さもあったし、余裕もあった。そのまま集団でゴールに向かい、苦手なスプリントでは集団内の8番手、ステージ11位でフィニッシュしたが、堂々たる走りで総合18位に浮上した。
最終的に総合8位の中根に続く、日本人2番手の総合18位でTOJを終えた湊。今の20代以下の日本人選手の中で国際的なステージレースで総合上位を狙える可能性を持つのは、中根と雨澤毅明(宇都宮ブリッツェン)ぐらいだろうか。今回のTOJは、湊が彼らに続く存在として名前が挙がるターニングポイントになるかもしれない。もちろん、中根や雨澤も世界で戦うには越えなければいけない壁はいくつもあるし、湊にいたっては彼ら以上の頑張りが必要だろう。
しかし、「日本人2番手」という成績にも、湊はピクリとも笑顔を見せなかった。「外国人にやられっぱなしなのがおもしろくない」と、その目はさらなる高みを目指している。
■確かな成長の証 横山航太)
昨年、全日本選手権ロードレースU23で優勝した横山航太が、今回のTOJで掲げた目標がUCIポイント獲得だ。シマノレーシングに入って5年目で、今まで多くのUCIレースに出場してきた横山だったが、ポイントにはまだ手が届いていなかった。
それだけに、「全日本までにUCIポイントを獲りたい」との目標で2018年をスタート。今年、UCIレースはツール・ド・とちぎ、ツアー・オブ・タイランドに出場したが、まだポイントは獲得できていない。
それでも、TOJは好調なスタートを切った。第2ステージいなべでは、残り3kmで9人がアタックして抜け出し、横山もその中に入った。そのままこの9人で決まるかと思われたが、後ろから来た集団が吸収。この場面から再度アタックした雨澤毅明(宇都宮ブリッツェン)がステージ優勝を挙げただけに、横山にとっては惜しいステージとなった。
とはいえ、続く第3ステージいなべを終えた時点で、ポイント圏内の総合24位に浮上と順調にステージを消化していた。
しかし、第4ステージ美濃では不運に襲われた。最終ラップ、シマノレーシングはスプリンター黒枝のためトレインを組んでメイン集団をけん引。ところが、この大事な局面で横山にメカトラが発生し、集団から遅れてしまう。バイク交換して必死に追いかけたものの、失ったタイムは1分31秒。総合も40位まで後退した。
次は第5ステージ南信州。長野県出身の横山だが、地元の長野市と南信州の飯田市は、かなり離れている。それでも毎年、父親や多くの知人が応援に駆けつけるホームステージだ。
厳しい山岳を含む南信州のコースは、最終的に集団が2~30人まで絞り込まれる。つまり、それ以外の選手は遅れてしまうということだ。過去4年間、横山は精いっぱいの走りをしてきたが、その遅れる側の選手だった。
しかし今年の横山は、昨年までとは違う成長した姿を見せた。序盤で他車と接触するトラブルがあったものの、激しいアップダウンを繰り返すコースでも遅れることなく、集団にくらいついた。
この日は終盤に飛び出した3人が逃げ切ったが、横山は後続のメイン集団の中でスプリントに挑み、TOJでは自己ベストのステージ8位に入り、地元の応援にこたえた。総合も29位まで戻し、再びUCIポイント圏内を射程にとらえた。
難関の第6ステージ富士山はステージ36位でゴールし、総合は29位をキープ。あと総合順位を上げるチャンスは、第7ステージ伊豆のみだ。
伊豆も、南信州と同じく昨年まで横山がメイン集団に残れなかったコースだ。しかし、この日は終盤まで湊とともに集団に生き残った。最後は残り半周で遅れたものの、そこからもタイム差をとられないように必死に走り、メイン集団から50秒差のステージ21位でゴールした。
ゴール直後は総合順位がすぐにわからないため、横山も不安そうな顔で遅れた選手をチェックしていたが、結果は総合23位。目標であったUCIポイント獲得を達成し、自らに掲げた目標をクリアした。
今年から、いよいよ全日本選手権もエリートカテゴリーでの出走だ。横山と同じ1995年生まれは、タイプはそれぞれ違えど、雨澤毅明、岡篤志、小野寺玲(以上、宇都宮ブリッツェン)、新城雄大(キナンサイクリングチーム)、岡本隼(愛三工業レーシングチーム)、そしてチームメイトでもある黒枝咲哉とすでに国内外のレースで活躍している選手がそろう当たり年とも言える。選手としてさらに成長するには、彼らと切磋琢磨し、そこから抜け出して、さらなる高いレベルを目指す戦いが待っている。
■最後のピースを埋めるため 黒枝咲哉
今年からシマノレーシングに加入したプロ1年目の黒枝咲哉だが、日本のロードレース界ではすでによく知られた存在だ。兄の黒枝士揮(愛三工業レーシングチーム)とともに軽量級スプリンターとして名をはせてきた。昨年までは強豪・鹿屋体育大学で走り、TOJにも日本ナショナルチームの選抜メンバーとして過去4年連続出場し、2015年の東京ステージでは5位に入っている。他にもロードレースやトラックで数々の好成績を残している鳴り物入りのルーキーだ。
また、ピアノが特技という意外な一面も持つが、カメラも趣味でTOJにも私物の一眼レフを持参するなど芸術家チックな一面も持つ。
ちなみに黒枝兄弟の地元は大分県で、今年10月に「おおいたアーバンクラシック」というUCIのワンデーレースが初開催される。このTOJ期間中も大会をPRするブースが帯同していた。昨年まで大分で行われていたJプロツアーをベースにしたレースだが、この大会の立ち上げたのが2人の父である。身内がかかわっているレースとはいえ、コースはスプリンターの黒枝兄弟向きというわけにはいかず、咲哉自身は「前日にクリテリウムがあるので、そっちを狙いますよ」と話していた。
その黒枝にTOJで課せられたミッションは、もちろんゴールスプリントでのステージ優勝だ。シマノレーシングに加入して以降、ツール・ド・とちぎ第3ステージでの3位を始め、表彰台を量産してきた。しかし、ツアー・オブ・タイランドでは自転車が壊れるほどの大落車に巻き込まれるなど不運も多く、まだ今シーズンの勝利はない。
最初のチャンスは、初日の堺国際クリテリウムだ。TOJのステージには組み込まれていない前哨戦だが、シマノレーシングにとっては地元・堺で負けられないレースだ。
しかし、レースは木村を含む8人の逃げができ、集団が見送る展開に。ここで入部がチームメイトに声をかけ、黒枝のスプリントで集団のトップをとる作戦がとられた。レース後半、シマノレーシングが集団をコントロールし、黒枝は狙い通り集団トップの9位でゴール。スプリンターとしてまずますのスタートだった。
翌日の第2ステージ京都も、スプリントで終わる可能性のあるレイアウトだったが、昨年はこのステージでリタイアに終わっていた黒枝にとっては相性の悪いコース。この日も、後半の上りで遅れ、スプリントには絡めなかった(もっとも、この日は純粋なゴールスプリントにはならなかったのだが)。
次のスプリントチャンスは第4ステージ美濃。ここでは黒枝は、過去に8位に2回、9位に1回に入っている。レースも半ば過ぎまでは木村らの山岳賞争いにフォーカスが当てられたが、終盤はゴールスプリントに向けて集団の緊張感も増していった。その中でシマノレーシングはトレインを組んで集団前方に完璧な布陣をしいた。
しかし、ここでいくつかの不運があった。スプリントの発射台となるはずだった横山がメカトラブルで遅れた。さらに、美濃のコースは最後のストレートに入るまでは、下りといくつかのコーナーが待ち受けるが、この日の路面はウェットでコーナーでふくらむ選手も多かった。だが、シマノレーシングはウェットでも抜群のグリップ力を誇るヴィットリアのタイヤを履いている。長年このタイヤを使いこなす入部は、集団先頭まで位置を上げた。しかし、まだチームに加入して半年足らずの黒枝は十分にそのアドバンテージを活かせず、入部とはぐれて集団内に埋もれてしまった。
ゴール後、入部は「自分がちゃんと声をかけてサヤを引き上げればよかった」と悔やんだが、結局、2人は別々にスプリントを切り、入部が12位、黒枝が14位と上位には食い込めなかった。
「この悔しさは東京で返す」とリベンジを誓った黒枝は、南信州、富士山、伊豆と苦手な山岳系のステージを耐え忍び、最後日の東京にたどり着いた。
その第8ステージ東京は、シマノレーシングのシナリオ通りの展開に進んでいった。序盤で中田拓也が逃げ、他のメンバーは集団内でトレインを作り黒枝を守った。レースが進むにつれて集団内での位置を上げ、逃げから下がってきた中田もトレインに加わった。
ラスト1周は他チームの選手数人を前に置いて、シマノレーシングのトレインが並ぶという完璧な位置取りを見せた。あとは黒枝が全力でもがききるだけだったが、ラスト300mで他の選手と接触し、チェーンが外れてしまった。結局、黒枝は本来のスプリント力を見せることなく、今年のTOJを終えてしまった。
今回のTOJでシマノレーシングはスプリントに向けての位置取りでは、海外チームすら退けるほどの動きをしていたし、それは選手たちにも次につながる自信となった。
しかし、結果に結びつけることはできなかった。足りないのは運なのか、経験なのか、それとも力なのか。その最後のひとつのピースが埋まれば、黒枝が拳を天に突き上げてゴールする日もすぐにやってくるだろう。それまでは自分を信じてペダルを回し続けるしかない。
■自ら切り開いた道で 中田拓也
TOJに出場した全選手の中で、期間中に最もファンを増やした選手のひとりが、シマノレーシングの中田拓也だろう。それまでは「シマノの中田って誰だ?」というほど無名選手だったが、初日の堺でのチームプレゼンテーションで「ナカータです! 覚えて帰ってください!」と挨拶し、会場にいたファンの心をつかんだ。「あの後、サインもらいに来る人も増えました」と中田本人もご満悦だった。
この物怖じしない、人懐っこいキャラクターが、21歳の中田のまだ短い自転車人生を切り開いてきた。高校時代は、野球部でピッチャーとファースト。その後は看護学校に進学し、一社会人として働く未来が待っていた。しかし、このころ自転車とロードレースの楽しさに出会い、親の反対を押し切って学校をやめ、ロードレースの世界に飛び込んだ。その後は、レースで何度か光る走りを見せてきたが、決してトップチームから声がかかるほどの華々しい実績を残したわけではなかった。
しかし、中田はシマノレーシングの野寺秀徳監督に何度も電話をかけ、チームに入りたいと直談判。ついに野寺監督も合宿の参加を許可した。その合宿での走りを認められ、2018年からのチーム入りを果たしたのだ。
エリート街道とは程遠い、雑草魂の塊といった中田だが、実は日本の自転車界には彼のような選手は少なくない。チーム関係者を待ち伏せして直談判したり、自分ひとりのために学校に自転車部を作ったり、ツテもないのに海外に飛び出したり、といったエピソードを持つ選手は、数十年前からもそして今も少なからず存在している。そして、そうしたひとつ飛び抜けた行動力も持つ者が、のちに名選手となる例も多いのだ。中田がその足跡をたどれるかどうかは、もちろん彼のこれからの頑張り次第だ。
そんな中田にとっては、これが初めてのTOJで、ほとんどのコースが初めて走ることになるが、「逃げて、アピールしたい」と目標を話していた。
しかし、中田に第3ステージいなべでちょっと不吉な出来事が起こってしまう。ジャージのリアポケットに入れていたお守りをレース中に落としてしまったのだ。
ひどく落ち込んでいた中田だったが、嫌な予感は2日後の第5ステージ南信州で現実となる。南信州の飯田市は、中田が昨年所属していたインタープロサイクリングアカデミーの拠点で、中田自身も飯田で1年間暮らしていたいわば第2の故郷だ。
しかしレース序盤、下りのコーナーで目の前にいた海外選手の落車に巻き込まれて中田も落車。ガードレールにぶつかり、体中傷だらけになった。この海外選手はコースに不慣れで走りが安定せず、他の選手はなるべく近づかないようにしていたという。中田がその直後にいたのは、運もあるが、周りの選手を観察できるかどうかという経験の差もあったのだろう。
しかし、満身創痍傷になりながらも中田は再び自転車にまたがり、ステージを完走した。ゴール後、レースドクターにアゴを一針縫ってもらったが、本人は「このぐらいのケガで済んでよかった」とケロリとしていた。
傷ついた体でも、続く富士山、伊豆と厳しいステージを乗り切った中田だが、ここまではTOJのレベルの高さに驚かされるばかり。何度かアタックにチャレンジしていたが、狙っていた逃げはなかなか決められない。残されたチャンスは、もう最終日の東京しかない。日比谷公園でアゴの傷の抜糸をした中田はスタートで集団最前列に並び、逃げる気合十分だった。
スタート直後からアタック合戦に参加した中田は、大井ふ頭に入ったところで草場啓吾(日本ナショナルチーム)、チェン・キンロ(HKSIプロ・サイクリング・チーム)とともに3人での抜け出しに成功する。この1週間ですっかり名前を売った「ナカータ! ナカータ!」の声援を浴びながら、最大2分50秒までタイム差を広げた。
過去2年、ここでは入部を含む先頭集団が逃げ切ったが、この日はわずか3人の逃げをメイン集団のスプリンターチームが許すわけがなく、レース後半に入ると少しずつタイム差を削り取っていく。
残り4周、逃げ集団から元アジア王者のチェン・キンロが加速して単独になると、中田は集団に戻ってシマノレーシングのトレインに入り、ラスト数kmまでスプリンターの黒枝のために位置取りの仕事をした。最後は集団から少し遅れてゴールラインを越えたが、観客からは暖かい声援と拍手が中田に送られた。
目立たないがこのTOJではアシストの仕事もしっかりこなし、チームメイトの信頼も積み上げてきた。まだまだ学ぶことが多い中田のロードレース人生だが、この先どう自らの道を切り開くのか楽しみだ。