今日のキリスト教、特にプロテスタント内の教派間の溝は、地域性や年代によって、少しずつ変わってきているように感じます。
私は1990年代半ばから10年ちょっと、通っていた自分の教会に留まりつつも、聖霊運動に片足突っ込んでいました。
当時の私の印象として、1990年代ぐらいまでは、聖霊派と非聖霊派間に、はっきりした溝が在りました
聖霊派の人達が「非聖霊派」の事を、「福音派」と呼んでいたほどです。
もちろん非聖霊派=福音派ではないのですが、当時私も知らず知らずにその様な意味合いで使っていた事もないでもないです。
それがリバイバルミッションが全盛期の頃、そして聖霊運動の「第三の波」の存在が目立ってきました。
その後は福音派と聖霊派がお互い接近し合ってますが、それらの教派は「逐語霊感説」という聖書解釈で纏まれるのかもしれませんが、やはり当然リベラル派からしてみれば、逐語霊間説は受け入れがたいので、そこにまた溝が出来てしまっているというのが、私の印象です。
数年前札幌で、フランクリン・グラハムを呼んで、超教派で集会が行われました。
決起集会が行われていた頃、うちの教会に関係者がレーナ・マリアを伴ってアピールに来ましたが、自分としては違和感があったし、うちの教会がその集会に曲がりなりにも関わったのに対して、私はかなりの躓きになってしまいました。
2013年10月6日の記事、コメントも含めて参考にしてください。
http://blog.livedoor.jp/shinqroom/archives/52385006.html
この事で、私は8ヶ月ほど教会に行かなかったほどです。
案の定といいますか、うちの教会員がフランクリン・グラハムがどのような人物なのか知らないでその集会に行き、違和感を感じて帰ってきました。
やはり、リベラルな立場とファンダメンタルな立場では、纏まりようがないというのが、私の率直な感覚です。
とはいえ、纏まる事が出来なくても、お互い足の引っ張り合いはすべきではないでしょうね。
カルト化した教会は、また別な話しですが・・・・。
今では私もそれらの違いをそれなりに理解しているので、ファンダメンタルなクリスチャンの人達と議論するつもりもないし、ネット上においても、わざわざそこに出向いていちゃもんをつける事もしません。
リベラルな人達が集う所に、ファンダメンタルな立場の人が現れて議論をしてきたりすれば、当然激しい言い争いにもなるでしょうし、また逆もありです。
それだけに、たまにありますが、私のこのブログに反論するコメントが書き込まれれば、それを排除はしないものの、それ相応に私の立場は表明します。
相手が何時までも反論してきて終わりが見えないようだと、私のブログでなく他でやるよううながしますし、実際そういうこともありました。
立場の違うクリスチャンに対して、普段真面目そうな、女性であれば、普段優しそうな姉妹が、いきなりヒステリックになるなんて事もしばしば見られます。
はなはだしいものになれば、お互い悪魔・サタン呼ばわりです。
意外とその様な人は、自分の信仰に自信が無い、だから人に指摘されると揺らいでしまうのかもしれません。
ヨハネ 21章
21節: ペテロはこの弟子を見て、イエスに言った、「主よ、この人はどうなのですか」。
22節: イエスは彼に言われた、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。
黒沼一也のTwitter
私は1990年代半ばから10年ちょっと、通っていた自分の教会に留まりつつも、聖霊運動に片足突っ込んでいました。
当時の私の印象として、1990年代ぐらいまでは、聖霊派と非聖霊派間に、はっきりした溝が在りました
聖霊派の人達が「非聖霊派」の事を、「福音派」と呼んでいたほどです。
もちろん非聖霊派=福音派ではないのですが、当時私も知らず知らずにその様な意味合いで使っていた事もないでもないです。
それがリバイバルミッションが全盛期の頃、そして聖霊運動の「第三の波」の存在が目立ってきました。
その後は福音派と聖霊派がお互い接近し合ってますが、それらの教派は「逐語霊感説」という聖書解釈で纏まれるのかもしれませんが、やはり当然リベラル派からしてみれば、逐語霊間説は受け入れがたいので、そこにまた溝が出来てしまっているというのが、私の印象です。
数年前札幌で、フランクリン・グラハムを呼んで、超教派で集会が行われました。
決起集会が行われていた頃、うちの教会に関係者がレーナ・マリアを伴ってアピールに来ましたが、自分としては違和感があったし、うちの教会がその集会に曲がりなりにも関わったのに対して、私はかなりの躓きになってしまいました。
2013年10月6日の記事、コメントも含めて参考にしてください。
http://blog.livedoor.jp/shinqroom/archives/52385006.html
この事で、私は8ヶ月ほど教会に行かなかったほどです。
案の定といいますか、うちの教会員がフランクリン・グラハムがどのような人物なのか知らないでその集会に行き、違和感を感じて帰ってきました。
やはり、リベラルな立場とファンダメンタルな立場では、纏まりようがないというのが、私の率直な感覚です。
とはいえ、纏まる事が出来なくても、お互い足の引っ張り合いはすべきではないでしょうね。
カルト化した教会は、また別な話しですが・・・・。
今では私もそれらの違いをそれなりに理解しているので、ファンダメンタルなクリスチャンの人達と議論するつもりもないし、ネット上においても、わざわざそこに出向いていちゃもんをつける事もしません。
リベラルな人達が集う所に、ファンダメンタルな立場の人が現れて議論をしてきたりすれば、当然激しい言い争いにもなるでしょうし、また逆もありです。
それだけに、たまにありますが、私のこのブログに反論するコメントが書き込まれれば、それを排除はしないものの、それ相応に私の立場は表明します。
相手が何時までも反論してきて終わりが見えないようだと、私のブログでなく他でやるよううながしますし、実際そういうこともありました。
立場の違うクリスチャンに対して、普段真面目そうな、女性であれば、普段優しそうな姉妹が、いきなりヒステリックになるなんて事もしばしば見られます。
はなはだしいものになれば、お互い悪魔・サタン呼ばわりです。
意外とその様な人は、自分の信仰に自信が無い、だから人に指摘されると揺らいでしまうのかもしれません。
ヨハネ 21章
21節: ペテロはこの弟子を見て、イエスに言った、「主よ、この人はどうなのですか」。
22節: イエスは彼に言われた、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。
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