なかなか更新できないでいますが、少しずつ書いていきたいと思います。
最初にクリスチャンとしての私の進行スタイルについて、簡単に触れておきます。
私がクリスチャンになったのは、ちょうど20年前の事です。
当時英会話目的でモルモン教会に行ってました。
しかし、他の教会の事も知っておこうと思い、キリスト教のラジオラジオ番組など聴いてました。
そして、FEBCというキリスト教のラジオ局から近くの教会を紹介していただき、日本バプテスト連盟所属の教会に行くようになりました。
他にも幾つかの教会にも行きましたが、自分にはバプテストがあっていると感じてそこでバプテスマ(洗礼)を受けました。
そして、今にいたってます。
私はバプテストに通ってはいましたが、他の教派の事も関心がありました。
そこでいろいろ本を読んだりしていたのですが、聖書にある「異言」を語る教派に興味を持ちました。
もしかしたら、クリスチャンの中にも「異言」と言う言葉を知らない人がいるかもしれませんね。
簡単に説明しておきますが、「異言」とは自分が知らない外国語を話したり(使徒業伝2章)、また人間には訳の分からない言葉を(1コリント13章14章)を話したりする事で、神から与えられた霊的賜物の一つです。
ただ、これはキリスト教の特権という訳ではなさそうです、
テレビ番組などで、霊能者のような人が祈祷のさい、それこそ訳の分からぬ言葉をべらべら話しているのを見た事があるかとおもいます。
あれも異言だと私は思っています。
そのように、異言を強調する運動が19世紀の終わり頃から20世紀の初めにかけておこり、「ペンテコステ運動」と呼ばれます。
多くはホーリネス派から発生しました。
そのような教派をペンテコステ派と呼ばれています。
また、1960年代に異言を始めとする霊的賜物を強調する運動がおこり、それを「カリスマ運動」と呼ばれます。
このカリスマ運動は「ネオペンテコステ運動」とも呼ばれますが、ペンテコステ運動のように教派を創るのでは無く、様様な教派に広がり、カトリックにもその運動がおこりました。
リベラル(自由主義神学)な背景を持つ教派から発生した教会も存在した事から、この「カリスマ運動」を、しばしば「リベラル派から発生した聖霊運動」とも言われます。
また、80年代になり、「聖霊運動の第3の波」と呼ばれるように福音派のようなそれほど聖霊の賜物を強調しないような境界の中にもそのような運動の影響を受ける人たちが現れるようになりました。
ある意味私のようなものはこの「聖霊運動の第3の波」に入るのだと思います。
と思っていたのですが、私は年々リベラルな聖書解釈をするようになり、また、所属教会がどちらかと言えばリベラル派と見られがちですので、私の立場は微妙な位置にいます。
これら三つの運動は始まった年代は異なるものの、異言を始め病気の癒しなどの奇跡や預言などなど霊的賜物を強調する事が共通していますので、同列に見られる事があります。
しかし、微妙に違いがあります。
ですから、私はそれら三つの運動を総称して「聖霊運動」とか「聖霊派」と呼ぶようにしています。
まぁ、厳密には「ホーリネス運動」も広い意味では聖霊運動に含まれるのでしょうが、ここではホーリネス運動を含みませんので、その点をご理解の上お読みください。
また、聖霊派の人たちが「福音派」と言う時聖霊派では無い教会の事を言いますので、私もその意味で「福音派」と言う言葉を使います。
この「福音派」という言葉の定義も少々曖昧ですが、私はそのようにここで使わせていただきますので、よろしくお願いします。
さて、本論にだんだん近づいてきましたが、この聖霊運動にはしばしば危険が伴う事を私は聞かされていました。
そして、実際に私もその危険な体験をしてしまいました。
その事についてお話する訳なのですが、その前に誤解が無いようにしておかなければなりません。
まず、これから私がお話する事は、特定の教団・教派・教会、そして個人を批判する訳では無い事です。
私も聖霊運動の影響を受けていて、異言も話す立場です。
ですから、聖霊運動に対する私の批判は私自身への批判でもある訳です。
それは、霊的賜物が与えられると、しばしば傲慢になる事があり、私自身もそうなりかねないという事です。
実際私は聖霊派の人たちと接触し始めた頃、聖霊派で無い人たちを見下していた向きもありました。
継ぎに、どんな人でも失敗は付き物です。
霊的な事に踏み出すと、確かに劇的な事も起こるのでしょうが、その分取り返しの付かないような失敗にもなりかねないという事です。
ですから、失敗した時それを隠すのでは無く、そのような失敗をした時などどのように対処すべきなのか、聖霊派の人たちに考えていただきたいのです。
、聖霊派の人たちは自分たちの失敗を認めようとしない事が多く、また私の経験に対してもそのような事には触れたがらないように、私は感じています。
このように、私は彼らを責めるつもりも無いし、恨んでいる訳では無い事をご理解ください。
私がこの体験を公にする意味は、他の人に私と同じような危険な体験をしないようにしてもらいたいという事です。
皆様に警告すると共に、特に教役者の人たちに真剣に考えていただきたいのです。
どうぞ、これらご理解の上、よろしくお願いします。
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です。
最初にクリスチャンとしての私の進行スタイルについて、簡単に触れておきます。
私がクリスチャンになったのは、ちょうど20年前の事です。
当時英会話目的でモルモン教会に行ってました。
しかし、他の教会の事も知っておこうと思い、キリスト教のラジオラジオ番組など聴いてました。
そして、FEBCというキリスト教のラジオ局から近くの教会を紹介していただき、日本バプテスト連盟所属の教会に行くようになりました。
他にも幾つかの教会にも行きましたが、自分にはバプテストがあっていると感じてそこでバプテスマ(洗礼)を受けました。
そして、今にいたってます。
私はバプテストに通ってはいましたが、他の教派の事も関心がありました。
そこでいろいろ本を読んだりしていたのですが、聖書にある「異言」を語る教派に興味を持ちました。
もしかしたら、クリスチャンの中にも「異言」と言う言葉を知らない人がいるかもしれませんね。
簡単に説明しておきますが、「異言」とは自分が知らない外国語を話したり(使徒業伝2章)、また人間には訳の分からない言葉を(1コリント13章14章)を話したりする事で、神から与えられた霊的賜物の一つです。
ただ、これはキリスト教の特権という訳ではなさそうです、
テレビ番組などで、霊能者のような人が祈祷のさい、それこそ訳の分からぬ言葉をべらべら話しているのを見た事があるかとおもいます。
あれも異言だと私は思っています。
そのように、異言を強調する運動が19世紀の終わり頃から20世紀の初めにかけておこり、「ペンテコステ運動」と呼ばれます。
多くはホーリネス派から発生しました。
そのような教派をペンテコステ派と呼ばれています。
また、1960年代に異言を始めとする霊的賜物を強調する運動がおこり、それを「カリスマ運動」と呼ばれます。
このカリスマ運動は「ネオペンテコステ運動」とも呼ばれますが、ペンテコステ運動のように教派を創るのでは無く、様様な教派に広がり、カトリックにもその運動がおこりました。
リベラル(自由主義神学)な背景を持つ教派から発生した教会も存在した事から、この「カリスマ運動」を、しばしば「リベラル派から発生した聖霊運動」とも言われます。
また、80年代になり、「聖霊運動の第3の波」と呼ばれるように福音派のようなそれほど聖霊の賜物を強調しないような境界の中にもそのような運動の影響を受ける人たちが現れるようになりました。
ある意味私のようなものはこの「聖霊運動の第3の波」に入るのだと思います。
と思っていたのですが、私は年々リベラルな聖書解釈をするようになり、また、所属教会がどちらかと言えばリベラル派と見られがちですので、私の立場は微妙な位置にいます。
これら三つの運動は始まった年代は異なるものの、異言を始め病気の癒しなどの奇跡や預言などなど霊的賜物を強調する事が共通していますので、同列に見られる事があります。
しかし、微妙に違いがあります。
ですから、私はそれら三つの運動を総称して「聖霊運動」とか「聖霊派」と呼ぶようにしています。
まぁ、厳密には「ホーリネス運動」も広い意味では聖霊運動に含まれるのでしょうが、ここではホーリネス運動を含みませんので、その点をご理解の上お読みください。
また、聖霊派の人たちが「福音派」と言う時聖霊派では無い教会の事を言いますので、私もその意味で「福音派」と言う言葉を使います。
この「福音派」という言葉の定義も少々曖昧ですが、私はそのようにここで使わせていただきますので、よろしくお願いします。
さて、本論にだんだん近づいてきましたが、この聖霊運動にはしばしば危険が伴う事を私は聞かされていました。
そして、実際に私もその危険な体験をしてしまいました。
その事についてお話する訳なのですが、その前に誤解が無いようにしておかなければなりません。
まず、これから私がお話する事は、特定の教団・教派・教会、そして個人を批判する訳では無い事です。
私も聖霊運動の影響を受けていて、異言も話す立場です。
ですから、聖霊運動に対する私の批判は私自身への批判でもある訳です。
それは、霊的賜物が与えられると、しばしば傲慢になる事があり、私自身もそうなりかねないという事です。
実際私は聖霊派の人たちと接触し始めた頃、聖霊派で無い人たちを見下していた向きもありました。
継ぎに、どんな人でも失敗は付き物です。
霊的な事に踏み出すと、確かに劇的な事も起こるのでしょうが、その分取り返しの付かないような失敗にもなりかねないという事です。
ですから、失敗した時それを隠すのでは無く、そのような失敗をした時などどのように対処すべきなのか、聖霊派の人たちに考えていただきたいのです。
、聖霊派の人たちは自分たちの失敗を認めようとしない事が多く、また私の経験に対してもそのような事には触れたがらないように、私は感じています。
このように、私は彼らを責めるつもりも無いし、恨んでいる訳では無い事をご理解ください。
私がこの体験を公にする意味は、他の人に私と同じような危険な体験をしないようにしてもらいたいという事です。
皆様に警告すると共に、特に教役者の人たちに真剣に考えていただきたいのです。
どうぞ、これらご理解の上、よろしくお願いします。
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です。