佐藤優氏を知るために、初期の著作を読んでみました。
まずは、この本です。
佐藤優『国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて』
ロシア外交、北方領土をめぐるスキャンダルとして政官界を震撼させた「鈴木宗男事件」。その“断罪”の背後では、国家の大規模な路線転換が絶対矛盾を抱えながら進んでいた―。外務省きっての情報のプロとして対ロ交渉の最前線を支えていた著者が、逮捕後の検察との息詰まる応酬を再現して「国策捜査」の真相を明かす。執筆活動を続けることの新たな決意を記す文庫版あとがきを加え刊行。
国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて
□序 章 「わが家」にて
■第1章 逮捕前夜
□打診
■検察の描く「疑惑」の構図
□「盟友関係」
□張り込み記者との酒盛り
□逮捕の日
□黒い「朱肉」
□第2章 田中眞紀子と鈴木宗男の闘い
□第3章 作られた疑惑
□第4章 「国策捜査」開始
□第5章 「時代のけじめ」としての「国策捜査」
□第6章 獄中から保釈、そして裁判闘争へ
□あとがき
□文庫版あとがき――国内亡命者として
※文中に登場する人物の肩書きは、特に説明のないかぎり当時のものです。
第1章 逮捕前夜
検察の描く「疑惑」の構図
この電話の後、給湯室でインスタントコーヒーをいれて考えた。
挑発はこれで十分だ。大菅首席からどのような反応があるだろうか。斎木昭隆(さいきあきたか)人事課長から説得があるとすれば、おそらく、外務省と検察庁の間でまだ折衝が行われているのだろう。何の反応もなければ……。そのときは逮捕が既定方針になっていると見た方がよい。
結局、その後、人事課からは何の連絡もなかった。
この時点で私がその後の展開に関して、何か明確な見通しをもっていたわけではない。情報は断片的だったし、何しろ、検察という組織のポリシーやそれに基づく取り調べ、立件などに関してこの時はまだ私自身よく分かってはいなかったのだ。
今振り返ってみると、東京地方検察庁特捜部は、この時点ではすでに国際機関である「支援委員会」絡みの背任容疑で私を逮捕し、そこから鈴木宗男氏につなげる事件を“作る”という絵図を描いていたに違いない。
多くの読者は「支援委員会」などといわれても、ピンと来ないに違いない。この支援委員会という組織について簡単に説明しておくことにする。
1991年12月にソ連は崩壊し、旧ソ連邦構成共和国は全て独立した。これら諸国 にとって社会主義的計画経済から市場経済に向けての構造転換が最重要の課題になった。支援委員会は、バルト三国を除く旧ソ連邦構成共和国(独立国家共同体 [CIS] 加盟諸国)12カ国の改革を支援するために93年1月に作られた国際機関である。そして、同委員会は2003年4月18日に廃止されたのだった。
通常、国際機関は各国から拠出金を募り、国際機関が独自の判断で事業を決定するが、支援委員会に関しては、資金を供与するのは日本政府だけで、しかも日本政府が決定した事業を支援委員会が執行するというきわめて変則的な国際機関だった。モスクワの日本大使と外務省のロシア支援室長が日本政府代表だが、その他諸国政府の代表は空席であるという状態が続いていた。
支援委員会の活動で特筆すべきは、北方領土関連の業務である。北方四島は日本領なので、厳密に言えばロシアに対する支援ではないが、四島住民への人道支援も支援委員会の重要な任務のひとつとなっていた。
それでは、この支援委員会の活動の何を検察は問題視してきたのだろうか。
彼らが目をつけたのは、外務省が改革促進事業の一環として、2000年1月にロシ ア問題の国際的権威であるゴロデツキー・テルアビブ大学教授夫妻を訪日招待したことを端緒とした有識者の国際的な学術交流だった。更に同年4月には、テルアビブ大学主催国際学会「東と西の間のロシア」に日本の学者等7名と外務省職員6名を派遣した。これら二つの事業が支援委員会設置協定に違反し、総計3300万円の損害を支援委員会に与えたので、この事業で主導的役割を果たした私を背任罪として刑事責任を追及するというのが検察の論理だった。
大菅首席の言動から判断すると私の持ち時間は少ない。
東郷和彦元大使にも危険が迫っている。奥さんに連絡しておかなければならないと考えた。私は、携帯電話で東郷夫人に連絡をとった。
私は東郷夫人に大菅首席との電話のやりとりを説明し、東郷氏にも危険が迫っているとの見立てを話した。電話の向こうの東郷夫人はかなり動揺しているようだった。私が「東郷大使とは連絡をとられましたか」と尋ねると、夫人は「さっきも電話で話をしたわ。主人はちょっと神経がまいっちゃっているの。私を怒鳴りつけたりするの」と哀しそうに言って、こう続けた。
「主人がきのう(02年5月12日)、電話で竹内(行夫)事務次官と話をしたの。主人が『テルアビブ国際学会への学者派遣について支援委員会設置協定解釈上何の問題もないから、そこははっきりさせてくれ』と言ったら、竹内さんも『外務省もテルアビブ国際学会の件は何の問題もないという立場だ』と断言したのよ。それで、主人が『それを次官の記者会見ではっきり言ってくれ』と言ったら、竹内さんは『そうする』と約束したのよ。だから、佐藤さんも心配しなくていいと思うわ」
この見通しは「甘い」と私は感じた。事態はもっとずっと深刻だった。
「奥様、しかし、これまでに竹内さんはそのような記者会見をしていませんよ。今日発売の『週刊現代』に私が逮捕されるとの前触れ記事も出ています。ラスプーチンつまり私と前島君(前島陽元ロシア支援室総務班長・課長補佐)がテルアビブ国際学会への資金不正支出を巡って背任容疑で逮捕されるとの記事で、検察の目的はこれを東郷さん、鈴木さんにつなげていくというストーリーですが、この記事は検察の思惑を正確に反映していると思います。
僕は入口で、敵のターゲットは東郷さんと鈴木さんなので、とにかく用心することです。東郷さんにこの事件のケリがつかないうちは日本に帰ってきてはならないという私の見立てを伝えてください」
夫人の声が震えてくる。
「逮捕だなんて。そんなおかしな話、ないじゃありませんか。私は東郷が日本に戻ってほんとうのことを話せば検察の人たちもわかってくれると思うのだけど、佐藤さんの言うとおりかもしれない。主人にはきちんと伝えます」
「これは政治事件なので、検察はどんな無理でもします。メディアがこのような状況では、東郷さんがいくらほんとうのことを言っても誰も受け入れないでしょう。国際捜査に踏み切るハラはないでしょうから、海外にいれば安全です。当分の間、日本に戻ってはなりません」と私は強調して電話を切った。
【解説】
東郷和彦元大使にも危険が迫っている。奥さんに連絡しておかなければならないと考えた。私は、携帯電話で東郷夫人に連絡をとった。
私は東郷夫人に大菅首席との電話のやりとりを説明し、東郷氏にも危険が迫っているとの見立てを話した。電話の向こうの東郷夫人はかなり動揺しているようだった。(中略)「……僕は入口で、敵のターゲットは東郷さんと鈴木さんなので、とにかく用心することです。東郷さんにこの事件のケリがつかないうちは日本に帰ってきてはならないという私の見立てを伝えてください」
ここは重要な箇所です。東郷和彦元大使にも逮捕の危険が迫っていると案じて、佐藤氏はこの上司の奥さんに電話をしたのです。東郷さんは、佐藤氏の進言を容れて、帰国しなかったという見方ができます。
獅子風蓮