獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

石橋湛山の生涯(その52)

2024-08-18 01:02:27 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
■第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき


第6章 父と子

(つづきです)

ガダルカナルからの撤退を、新聞は「転進」と報道した。
「どうしてこんな姑息な表現をするのだろう。これ以上の犠牲者が出たとしたら、その責任の一端は新聞にもある、と指摘されても仕方がないだろうな」
湛山は溜め息をついた。
5月のアッツ島守備兵の全滅は「玉砕」という美化する言葉で報道された。
9月には、それまで徴兵が猶予されていた20歳以上の学生も、理工系・医学部などの学生を除き、ほとんどが兵役を義務づけられた。学徒出陣である。これによって戦場に赴いた学徒は13万人以上にのぼった。
「何ということだ。これからの日本を背負っていかなければならない有能な学生たちを……。若い人たちの将来を、東条という男は何と考えているのだろう?」
湛山は、開戦直前の昭和16年から19年のサイパン島陥落直後まで首相を務めた東条英機に、激しい怒りと憎しみを感じた。これまでの人生で、湛山が腹の底から抱いた初めての他人への憎悪であった。
涙が流れてならなかった。この有為な学生たちの一体何人が生きて、この日本の地を踏むことが出来るのだろうか。そして、何人が敗戦後の日本を建て直すのに力を尽くすことが出来るのであろうか。湛山は、涙を固い拳で拭いながら暗澹たる気持ちになった。

昭和19年2月6日の明け方、湛山は血まみれの和彦を夢に見た。和彦は、それでも律儀に敬礼をしながら、左手には湛山から渡されていた『法華経』を持っている。笑顔は「お父さん、合体だよ」と言っているように湛山には思えた。
「もっと生きていろいろしたかったけれど、今度はお父さんと一緒に生きるよ」
そう言って微笑む和彦の手を握ろうとして、湛山は目覚めた。
「和彦、戦死したな……」
明け方の光が、障子を通して湛山の書斎にも柔らかく射してきた。湛山は、読書をしながら寝入ってしまったらしい。
和彦が出征した内南洋のケゼリン島に、連合軍艦隊が上陸したという知らせが前日あった。湛山はそれを知りながら、梅子にも誰にも黙って、自分の胸にだけしまいこんでいたのだった。
「清沢君、敵艦がね、ケゼリン島の真ん中に来たというんだ。これはもう全滅を疑うしかないだろう? ともかく今は、どうやって家内を狂乱に陥らせないでいられるかが問題なんだよ」
清沢には、愛児の戦死をこうも淡々と口に出来る湛山が信じられなかった。
「石橋さん、あなた……。どうしてそんなに強いのです? 和彦君が亡くなったんでしょう?」
「……。嘆いても、騒いでも始まらないよ。それが運命なんだよ。これからあいつは僕とともに生きていくんだ……。そういうことなんだよ」

(つづく)


解説

悲しみを内に秘め、次男の戦死を確信し受け入れる湛山でした。

 

獅子風蓮



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