石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。
湛山の人物に迫ってみたいと思います。
そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。
江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)
□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
■第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき
第6章 父と子
(つづきです)
『東洋経済新報』はその後も婉曲な表現を用いながらも言論の自由、戦争の早期終決、自由貿易の必要性を説き続けた。
昭和18年(1943)1月29日夜、海軍主計中尉であった次男・和彦の送別の宴が、 西久保町の自宅で開かれた。すでに中国から戻っていた長男の湛一、梅子、湛山の弟で野沢家に養子にいった義朗、後に東洋経済新報社の会長になる宮川三郎らが集った。
「和彦は昨年9月に築地の海軍主計学校に入校し、明日1月30日に卒業する。時期はいつになるか不明だが、南方戦線に出征することになっている。そこで、今夜は皆さんに集まっていただいて、和彦の前途を祝し、無事を願って送別の宴とします」
湛山がまず、挨拶をした。そんなことはないのだが、湛山には、和彦の出征は自分への軍部の報復のように思われてならなかった。
「こんな時期に南方とは……」
思わず呟きが洩れた。
すでに太平洋戦争が始まって2年、連戦連勝の勢いは初めの半年ほどで、後は昨年のミッドウェー海戦を皮切りに日米間の兵力格差が現実のものとなって現われていた。
12月にはガダルカナル島からの撤退を決定していたし、戦況は明らかに日本軍に不利に働いていた。
湛山の中には、和彦が戦死するかもしれないという覚悟は出来上がっていた。
送別会が終わった後、湛山は和彦と二人きりになった。下弦の月が、研ぎ澄ました鎌のように細い光で照らしている。その端正な顔立ちの和彦に、湛山はぽつりと言った。
「和彦、死ぬなよ。こんな情けない戦争で死んではいけない」
「お父さん、生きるために行くんですよ。結果として死ぬことはあるかもしれませんが、精一杯生きることに専心します。僕もこんな戦争には反対ですから……」
「日本は戦争に負けるよ。ミッドウェー以降、連戦連敗だ。軍だって本気で勝てるとは思っていないだろう。ドイツも勝利することはなかろう」
「そうでしょうね」
「もう戦争を遂行することを考えるよりも、戦後の日本のことを真剣に考えておくべきなんだ。戦後の日本はおまえたちのような若者がつくり直さなきゃあならん」
「分かっています」
「必ず終戦後には平和運動が起こり、何らかの平和体制がつくられるだろう。それに、植民地問題も解決する……」
「日本は中国とどう手を結んで生きるか、ですね? 石橋湛山流の言い方をすれば」
「分かっているじゃあないか、和彦」
「はい」
「この本を持って行け」
「……『法華経』……。日蓮ですね」
「そうだ、父の愛読書だ。表紙は擦り切れているが、常に側に置いておくがいい。父はいつでもおまえの隣にいるから」
「ありがとうございます。お父さん」
「何だ?」
「もしも僕が戦死するようなことがあったとしても、その時にはお父さんと一緒に戦後を生きさせてもらいますが……」
「うん。……死んでも死なない、ということだな?」
「はい。お父さんの人生とともに生き延びさせてください」
「分かった。その時は、そうしよう。おまえの分まで生きて、おまえの分まで日本のために仕事をしよう。それでいい」
「はい。これで安心して行けます」
『法華経』を小脇に抱えて敬礼をする和彦が、湛山には眩しかった。月光が最後の輝きを残して、雲の間に消えた。
(つづく)
【解説】
「和彦、死ぬなよ。こんな情けない戦争で死んではいけない」
「お父さん、生きるために行くんですよ。結果として死ぬことはあるかもしれませんが、精一杯生きることに専心します。僕もこんな戦争には反対ですから……」
敗戦の色が濃くなる南方戦線に次男を送らなければならない湛山の心の内はどんなものだったでしょうか。
獅子風蓮