獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

正木伸城さんの本『宗教2世サバイバルガイド』その8

2024-01-26 01:10:24 | 正木伸城

というわけで、正木伸城『宗教2世サバイバルガイド』(ダイヤモンド社、2023.06)を読んでみました。

本書は、悩める「宗教2世」に対して書かれた本なので、私のようにすでに脱会した者には、必要ない部分が多いです。
そのような部分を省いて、正木伸城氏の内面に迫る部分を選んで、引用してみました。

(もくじ)
はじめに
1 教団の“ロイヤルファミリー”に生まれたぼくの人生遍歴
2 こんなときどうしたら?宗教2世サバイバル
3 自分の人生を歩めるようになるまで
4 それでも、ぼくが創価学会を退会しないわけ
5 対談 ジャーナリスト江川紹子さん 


2 こんなときどうしたら?宗教2世サバイバル

□親子関係編
□恋愛、友人関係編
■進学、就職、転職編
□信仰活動編
□信仰活動離脱後編


2 こんなときどうしたら?宗教2世サバイバル

進学、就職、転職編

 

Q:大学進学について、親から介入を受けて困っています。

A:ぼくは説得に負けたけれど、人生の大切な判断に妥協はいらない。


宗教2世のなかには、「教団がよしとする生きかた」を幼いころから教えこまれたり、折々の進路選択で周囲から介入を受けたりするなど、進学や就職、転職といった人生の大きな決断で制約を受ける人がいます。
ぼくにも、そういった側面がありました。

第1部で、ぼくはもともと創価大学に行く気がなかったことにふれました。そんなぼくが、なぜ創価大学に進んだのか?
創価高校時代、ぼくはいわゆる「受験クラス」にいました。そのクラスには、創価大学以外の大学への進学を目指す生徒が集まります。創価大学への進学を希望する生徒とは、クラスが分けられていたのです。
ぼくは以前から宇宙開発に興味があったので、目指す大学も宇宙関係に強い大学になります。
志望先は、創価大学以外の大学ばかり。創価大学に行こうとは考えていませんでした。
ところが、そんな進路を夢みていたぼくは、父の説得にあいます。
ある日、神妙なおももちで父が「進路について話さないか?」といってきました。寝室によばれ、対話がはじまります。
「お前、創価大学には行く気がないのか?」
ぼくが「ない」と答えると、父は前傾姿勢になって創価大学のすばらしさを語り、たたみかけてきました。
しかし、当時、創価学会を嫌っていたぼくはそれを跳ねのけて、「俺は宇宙に強い大学に行く」と断言し、部屋を出ていこうとします。
すると、父があらたまった表情でこういってきました。
「これまで、お前の人生について『ああしろ』『こうしろ』とは一切いってこなかった。だが、この願いだけは聞いてくれ。創価大学に行ってほしい。頼む」
長い沈黙が部屋をつつみます。その後も、対話はつづきました。
徐々に、ぼくの心が揺れはじめます。
しかも、創価大学には宇宙開発系のゼミが一つだけ存在しました。そこを目指しての進学は、可能性としてゼロではないのです。

長い一日でした。父は根気強く熱弁してきました。
たしかに、父は放任主義でぼくを育ててきた。その父が襟を正して、あらたまって「創価大学に行ってくれ」と熱望している。それはそれは葛藤しました。そしてぼくは父の熱意に根負けして、創価大学に行くことを決めました。いまから思えば、こういうときこそ自分に正直になるべきですよね……。
ぼくは妥協してしまったわけです。


自分の心に嘘をついてはいけない

創価大学への進学は、父以外の人たちからも勧められました。
ぼくは拒否しつづけましたが、周囲の人は、まるでシャワーのように「正木くん、君の進路は創価大学にすべきだよ」という言葉を浴びせてきます。すると、次第に創価大学が脳裏にチラつくようになっていくのです。
おなじことは、就職にも起こりました。
ぼくは自分の進路をNASDA(宇宙開発事業団、現・JAXA〈宇宙航空研究開発機構〉の前身となる一機関)にすると決めていました。
ところが、周囲はおかまいなしに「創価学会本部に進んだほうがいい」「正木くんみたいな人材こそ、本部がもとめる人物像だよ」といってきます。
これにも相当、困惑しました。圧力はかなりのものです。
なかには、「三顧の礼」をもってぼくを「職員になるように」と説得してきた大先輩もいました。
「三顧の礼」とは、名著『三国志』で知られるエピソードで、かの諸葛亮孔明を軍師として自軍に迎えいれるために、武将・劉備玄徳が3度にわたって諸葛亮のもとを訪ねた故事に由来する言葉です。目上の人が目下の人のところに何度も出向いて礼を尽くし、そのうえで物事を頼むことをいいます。

ぼくは、結論的に創価大学に進み、創価学会本部に就職することを選びます。就職時のぼくは、もはや立派な大人。いくらまわりの圧力があったとはいえ、それはぼく自身の選択です。
先にのべた、「自分の本音に耳を澄まして、自分の頭で考え、自分に正直に生きよう」という行動原理に、ぼくは反しました。
これは悔やまれました。
とくにうつ病のとき、ぼくは苦しみのなかで後悔の念を何度も抱きました。本部職員になっていなければ、ぼくはうつ病になっていなかったかもしれない。創価大学に進学していなければ、本部職員になっていなかったかもしれない。いまの苦しみは、まわりの圧力に屈したために起きている。
なにをしてきたんだ、俺よ――。

悔恨を振り払うようにして、やがてぼくは学会本部を退職します。
そのことを思うと、ぼくは複雑な気持ちになります。「すべては自己責任だ」といわれれば、それまでなのですけれど……。
やはり、ぼくは思うわけです。
自分に嘘をつくのはほんとうによくない、と。
一部の宗教2世が教団や親から受けていることの一つに、「信仰を理由にした学業や職業選択の自由の制限」があります。
ぼくの経験は、それとは質も度合いも異なりますが、それでも苦衷は筆舌に尽くしがたいレベルでした。
それを思うと、宗教2世の被害の深刻さに体がふるえます。

 


Q:進学や就職などを理由に、宗教から離れようとすると家族が大反対します。

A:ぼくの場合は転職時、 一歩も引かずに正面から親とむき合いました。 


宗経2世の場合、進学や就職などの理由で信仰する宗教から距離を置きたいと思っても、親をはじめとした周囲の壮絶な反対にあう人が多いようです。
実際、ぼく自身もそのような経験をしています。
ぼくが「学会本部をやめたい」とはじめて口にしたのは、35歳になる年です。最初に気持ちを打ち明けたのは、妻でした。もちろん、速攻で反対されました。
「やめるって、やめてどこに行くのよ!」
学会本部を退職するということは、学会員の間では、とんでもない負の記号になり得ます。
実際、やめたことが周囲に広がると、ぼくは、頭がおかしくなったのではないかと疑われました。「学会本部に反逆するのでは」と警戒され、あらぬ噂も立てられました。村八分の扱いも受けました。ネットでも散々、攻撃されました。要するに、創価学会内での居場所がなくなってしまうのです。
また友人に相談したときには、「やめたら、どうやって食べていくんだよ」といわれました。
つぎにみんなが想像するのは、「転職の困難さ」「生活の維持の困難さ」だったようです。
「やめる」と告白したとき、母は「なんで!? あんた、奥さんも子どももいるのよ。家族の人生を地獄に落としたいの!?」と反応。父も「いますぐ考え直せ」といってきました。
涙を流して反対する人もいました。
ひどいときには、阿鼻叫喚といえるようないい争いにも発展。賛成してくれる人は、一人もいません。
この時期、一気に四面楚歌、孤立状態になったことをよく覚えています。
反対する人のなかでも、もっとも反対したのが父です。
「お前は創価大学30期生の幹事をしている。そんなお前が本部をやめるとなったら、仲間に動揺が広がる。お前に励まされてきた人たちはどう思うのか」
「お前の仏教の知識は、学会本部職員のなかでも比類のないレベルだ。その力は、創価学会に教義面でぞんぶんに貢献できる。俺はお前が学会の教学(教え)をより堅固に構築していくリーダーになると思っている。学会のこれからを考えたら、お前の力が必要だ」
しかしぼくは、やめるという結論を変えるつもりはありませんでした。
学会本部のなかにいると、自分に嘘をつくことになる。今度こそ、それがゆるされないのです。
このとき、すでにぼくの生きかたは変わっていました。少なくとも、自身の本音に耳を澄ませることができていた。転換点は、ここにあります。


最後まで退職に反対した父が納得した、ぼくの一言

ケンカが沸騰したある日、父からこんなこともいわれました。
「やめるも地獄、やめないも地獄だぞ」
「俺はお前を支持しない。もしやめるなら、なにも手伝わない。一人で転職ができるのか? 厳しいぞ。無理だ」
脅していますよね。
それでも、ぼくは引きませんでした。
このときに駆使したのが、第1章で紹介した親との和解や互いの理解の懸け橋を生みだす3つのポイント、①「エンパシー」をもって親と接する、 ② 他人ゴトのように自分ゴトを見る、 ③「やられたら受けいれ、認める」コミュニケーションの型を駆使する、という対話の手法です。

それでも、父に納得してもらうまでには1年の時間を要しました。父は最後まで、こういってきました。
「俺は、お前に学会の教学を担ってほしい。お前しかいないんだ。頼む」
ぼくは、静かな口調で返答します。
「オヤジはさ、俺に『オヤジが思うとおりの人生』を歩ませたいの? 俺の人生はオヤジのものなの? それは、オヤジのエゴだよ。俺の人生は俺のもの。俺は『俺が思うとおりの人生』を生きたいんだ。わかっくれ……」
しんと静まり返る家のリビング。
長い、沈黙。
そののち、父がようやく口を開きます。表情は、少し柔和になっていました。
「わかったよ」
そして、「たしかにそれは俺のエゴだ。お前の気持ちと決意はわかった。もうなにもいわない」とつづけました。

創価大学への進学、学会活動への参加、学会本部への就職――。
これまで、親や周囲の説得によって自分の思いに反した決断を下してきたぼくが、このときようやく「自分の本音に耳を澄まして、自分の頭で考え、自分に正直に生きよう」という人生をスタートできた。
この一歩は、現在まで価値を輝かせています。

自分で決めた行動原理に従う。
それは、ぼくにとっては遠く、そして困難な道のりでした。
でも、達成できました。
きっと、あなたにもできると思います。
どうか、希望は捨てないで。

(つづく)

 

 


解説
本部職員を辞めるという息子に対して、父親である正木理事長は激しく反対し、息子を説得します。
この時の正木理事長の気持ちはどうだったのでしょう。
再就職で苦労する息子の幸せを考えてのことだったとは思うのですが、組織の中での自分の立場を守るためということはなかったでしょうか。
理事長の職を解かれるタイミングと正木伸城さんの本部職員退職の時期は、どうだったのでしょう。

 


獅子風蓮


正木伸城さんの本『宗教2世サバイバルガイド』その7

2024-01-25 01:51:51 | 正木伸城

というわけで、正木伸城『宗教2世サバイバルガイド』(ダイヤモンド社、2023.06)を読んでみました。

本書は、悩める「宗教2世」に対して書かれた本なので、私のようにすでに脱会した者には、必要ない部分が多いです。
そのような部分を省いて、正木伸城氏の内面に迫る部分を選んで、引用してみました。

(もくじ)
はじめに
1 教団の“ロイヤルファミリー”に生まれたぼくの人生遍歴
2 こんなときどうしたら?宗教2世サバイバル
3 自分の人生を歩めるようになるまで
4 それでも、ぼくが創価学会を退会しないわけ
5 対談 ジャーナリスト江川紹子さん 


2 こんなときどうしたら?宗教2世サバイバル

□親子関係編
■恋愛、友人関係編
□進学、就職、転職編
□信仰活動編
□信仰活動離脱後編


2 こんなときどうしたら?宗教2世サバイバル

恋愛、友人関係編


(つづきです)

Q:「恋人に布教をしろ」といわれて実践したら、振られてしまいました。

A:振られた悲しみを癒やし、気がまぎれることをして忘れて。


ここまで、友人関係にかんする出来事を扱ってきました。ここからは、恋愛の話に移ります。
恋人ができたら、いつ自分のことをカミングアウトしようかと悩む宗教2世も結構いるのではないでしょうか。
ぼくにも、おなじような経験がありました。人生ではじめて彼女ができたときの話です。
その女性はもともと、当時、ぼくが住んでいた東京・信濃町の地元の仲間でした。 高校生のときから恋愛がはじまり、それ以降もお付き合いを継続。
そして彼女とぼくは、そのうち「結婚しよう」といい合うようになりました。信頼関係が、深く築けていたと思います。
ところが、そんなぼくらの関係に暗雲がたれこめます。
ぼくが創価学会の学生のセクション(学生部)で活動をはじめてしばらくたったころ、先輩に、「その彼女、折伏するんだよな?」といわれたのです。
「折伏」とは、布教のことです。
その先輩は、ぼくの彼女を創価学会に入会させろといってきました。
そのころのぼくは、すでにほかの多くの友だちに折伏をするようになっていたので、折伏をすること自体に抵抗はありませんでした。布教活動にかんしては先陣を切っていると、まわりからもいわれていました。
でも、相手が自分の彼女となると、思わずヒヨってしまいます。
ぼくは躊躇しました。
すると、先輩がこう告げてきました。
「あれ? ビビってんの? 折伏は人を選ばず万人にするものだろ。折伏しやすそうなヤツを選んで折伏するなんて、邪道だぞ」
――で、当日です。いつもどおり彼女とデートしたぼくは、東京・お台場の浜辺で、愛の告白でもするかのようなおももちで、信仰の話を切りだしました。


大好きな彼女に宗教の勧誘をしたら……

「あのさ……君は俺が創価学会員だってことは知ってると思うんだけど、きょうは大切な話があるんだ」
「えー? なに?」
「創価学会のことを君に知ってもらいたくて」
「え? 学会のこと?」
「真剣な話でさ。俺のことを知ってもらうには、どうしても創価学会のことを知ってもらいたいんだ」
「イヤ。聞きたくない。わたし、学会嫌い」
「いや、え?」
「それ、シャクブクでしょ?」

シャクブク。
なぜに、彼女の口からシャクブク?
なぜだろう。なぜ、そのワードを知っているのだろう。なぜ、こうなっちゃったんだろう。
じつは彼女は過去に親が知り合いの学会員から折伏を受けた経験があるそうで、そのことを何度も聞かされてきたため、創価学会に悪い印象を抱いていたのです。しかも、彼女もぼくとおなじ信濃町の住人です(そう、そうなのです)。
信濃町といえば、創価学会本部をはじめ、学会の建物がひしめく土地。地域住民はそこを「創価タウン」とよんだりします。
日常的に学会員や本部職員を目撃してきた彼女は、「創価の女の人って、みんなおなじで、ダサい格好してるじゃん。あれ、不文律でああしてるんでしょ? そういうのが平気な人たちに魅力なんて感じないよ」と、切って捨ててきました。
ショック……。
ぼくの心のダメージは思いのほか深かったため、このとき、ぼくは近場の山に逃走しました。
そして、ある程度高いところから朝日や夕日を眺めました。
それで、心の痛みを忘れようと努めたのです。
悲劇については、なにかで気をまぎらわせて忘れるというのも大事です。


結局、宗教が原因で振られることに

その後も、付き合いのなかで彼女とのやりとりはつづきましたが、雲行きは怪しくなる一方。このときばかりは、ふだん布教で引き下がることのなかったぼくも、心が折れました。
結婚するなら、彼女に折伏を――。
そう考えていましたが、結局、その夢は潰(つい)えることになります。
それ以降も、ぼくは何度も何度も彼女を折伏しようとしました。布教活動を「してしまった」のです。
その結果、彼女との関係はジ・エンド。別れ際、彼女がこういったことを鮮明に覚えています。
「そういうの(折伏)、ほんとうによくないよ!」
当時のぼくは、彼女の怒りに丁寧に応じることができませんでした。しかし、反省はしました。
二度とおなじことをくり返さないように、具体的に反省した内容をメモに書き出して、可視化しました。たとえば、こんな感じです。

・彼女を「人間として」見るのではなく、「折伏の対象として」見てしまった
・俺は「折伏は絶対に正しい実践だ」と思っている
・そのため、彼女がイヤがっていても、折伏をやめなかった
・結果、もともと創価学会に嫌悪感を抱いていた彼女の感情をさかなでした
・それが、俺にたいする嫌悪感につながった
・なにかの正しさを妄信すると、俺は止まれなくなる
・妄信したものを押しつけると、どんな善意でも、相手を傷つけてしまう
・相手を傷つける行為は、いかなる理由があっても正当化されてはならない
・宗教は「絶対に正しいなにか」を信じるけど、その「信」と「理性的な判断」はうまく両立させなければならない。そのためには、どうしたら?

ぼくには、こういった「内省メモ」をとる習慣があります。メモを残す際に工夫すべき点としては、思考のプロセスを、なるべくそのまま記述することです。
この内省メモは、自己分析をするうえで大変に役立ちます。自分を客観視できるようになるのです。内省メモは、反省の足がかりにもなります。内省メモのおかげでぼくは、自分の正しさを押しつけるような、独りよがりの折伏をやめました。だからでしょうか。この事件以降、宗教のことで恋愛が炎上することもなくなりました。
すると、以前ふれた「他人ゴトのように自分ゴトを見る」(6ページ参照)を、より上手に実行できるようにもなります。ぜひ、ためしてみてください。

Q:時々、恋人や友人を布教対象として見てしまうことがあります。

A:「相手を「手段」として見るのはとても失礼です。 やめましょう。


先ほど、アーレントを引き合いに出しつつ少し難解な話をしましたが、本章の最後に、ふたたび、若干難しい話をさせてください。
これは、ぼく自身が、恋人や友人との関係においてもっとも悩んだ点で、どうしても外せないのです。
前節の失恋の場合にかぎらずですが、ぼくは、外部の友人(学会員ではない友人)に折伏や公明党への支援の依頼をたくさんしてきました。
熱心な学会員の多くが、おなじようにしています。
その活動は活発で、たとえば選挙のときに100人以上に投票のお願いをする人もザラです。ぼくも300~400人にアポイントをとってあたってきました。折伏も、同世代のなかでは飛び抜けた成果を出してきました。
それを学会組織に伝えると大変に喜ばれます。
当時はぼくも、それを誇らしく感じていました。

しかし一方で、この活動に悩みもしました。
相手を「友だちとして」ではなく、「折伏の対象として」「公明党支援の依頼先として」見てしまうという悩みです。
しかも、アタックした友人は、組織に「数」として報告されます。すると、気がつかないうちに友人を「数」として見てしまうのです。
これは端的に、相手に失礼です。
ですが、このようなマインドをもつ学会員は、ぼくもふくめ、活動の現場でけっこう見られました。
友だちを広宣流布などの大義を達成するための手段にするような行為は、少し難しい言葉で表現すると、人間の「手段化」といえます。
あたかも、おいしい料理をつくるために包丁を手段として使うように、友人を目的達成のための手段にする。いわば、包丁などのように、相手を集票などの「道具」として使っているわけです。
これが過剰になったとき、人は相手を「道具のように操作してもいいもの」と見なすようになります。
こう書くと、「そんなわけがあるか」と思う人もいるかもしれませんが、人は知らない間にこの罠にハマっていきます。とくに大義や権威の“後ろ盾”があるときは危険です。それらが手段化を正当化してしまうからです。
あらためて、ぼくが失恋したときにつくった「内省メモ」を書きだします。

・俺は「折伏は絶対に正しい実践だ」と思っている
・そのため、彼女がイヤがっていても、折伏をやめなかった

こんな感じになってしまうのです。


絶対に、相手を意のままにあやつろうとしてはいけない

多くの先哲は、古より指摘してきました。
人間がもっとも抵抗すべき欲望の一つは、「相手を意のままにあやつりたい」という欲望なのだと。
相手を自分の意に沿うかたちで説得したい。態度を変えさせたい。意見を変えさせたい。
相手を操作しようとする欲望ほど、恐ろしいものはありません。
これとおなじようなことが、折伏や公明党支援の依頼にも起こるのです。折伏をするときに、学会員は相手の態度をあらためさせ、創価学会に入会させようとします。公明党への支援依頼では、相手を公明党への支持に誘引しようとします。
どんな正当化の理屈をつけても、これらが相手を操作しようとする営みであることに変わりはありません。
じつは、折伏や公明党支援の依頼は、このような危険ととなり合わせにある。そういった危険への抵抗もなしに公明党支援の依頼などを行ったらどうなるか。相手は敏感に、自分が手段化に巻きこまれようとしていることを察知するでしょう。
「いい迷惑だよ!」とか「そういうの(折伏)、ほんとうによくないよ!」(ぼくの元カノ)と怒るかもしれない。もしくは「この人はわたしのことを、友人ではなく票として見ているのでは?」と疑念をもったりもするでしょう。
学会員からすれば、「そんなふうに受け取る相手は、わたしたちを誤解している!」と反論したいところかもしれません。
でも、そこはおのれを見つめ直してほしい。
そこで相手を責めて相手を変えようとすれば、それはふたたびあなたが、相手を意のままにあやつりたい欲に、みずからをさらすことを意味します。

ぼくは、ひんぱんに内省をくり返してきました。前節で紹介したような内省メモをたくさんとりました。

ちなみに、内省にはコツがあります。それは「他人に相談すること」です。
こう書くと、「え? 他人に相談したら、内省にならないのでは?」と思うかもしれません。たしかに、なんらかの答えを他人に出してもらおうという依存心まる出しで相談に行ってしまえば、内省はうまくできません。
しかし、つぎのポイントを意識して相談の場をつくっていくと、相手の言葉が内省に活きるようになります。

・相談に乗ってもらう相手は、なるべく自分から「遠い人」にする
・相談相手の違う考え、価値観、意見を楽しんで聞く

創価学会の悩みについて内省するとき、ぼくは可能なかぎり「創価学会員ではない人」「学会員であっても、その価値観にいい意味で染まっていない人」「広い視野をもっている人」に相談し、その人の言葉を呼び水にして思索を進めていきました。それが、「遠い人」の「遠さ」の意味です。
そうしたほうが、会話が予定調和的にならず、意外な意見や言葉も飛び交うようになるため、それまで知らなかった自分に出会える確率が高まります。

自分のなかの「意外な自分」を、たくさん知ってください。
それができれば、内省メモも充実します。 内省も深まります。
なぜなら、内省とは、自己内の対話だからです。
自分自身と多彩に会話ができれば、内省も彩り豊かになるのです。
ぼくは、この「コツを押さえた内省」によって、先の恋愛の問題点を1行にまとめることができました。

・彼女を「手段として」ではなく、「人間として」見るにはどうしたらいいか


相手を手段として見るのではなく、「ギブ」をしよう

相手を自分の「手段として」ではなく、「人間として」見ること。これは、案外難しいことです。
ですが、これは宗教2世の処世術全般の基盤になるポイントですので、ここで少しくわしく解説します。
ぼくは人間の「手段化」について、さまざまな精神的格闘をかさねてきました。そのうえで心がけるようになったことは、主に4つです。

・自分が、相手を手段として利用していることを自覚する
・相手を手段として利用した場合は、感謝の気持ちを言動でしめす
・相手が「利用されている」と感じるかどうかは、相手と自分の信頼関係の度合いに左右されるため、信頼の構築を欠かさない
・ギブ&テイクのうち、「ギブ」を楽しんで行う

宗教活動にかぎらず、人間の手段化は身近なところに潜んでいます。
たとえば、会社であなたが「あの資料、忘れてきちゃった。わたしのデスクに資料をとりに行ってくれる?」と部下にお願いしたとします。これも、資料を手にするための要員として相手を「利用している」という意味で手段化です。
問題はこれが過剰になったときで、度が過ぎると人にイヤな思いをさせます。
その過剰になる可能性をかぎりなく小さくするために行うべき第一歩の行動が、「自分が相手を手段として利用していることを自覚する」ということです。
自覚があれば、「あ、いまわたし、あの人を使い過ぎてるかも」と気づくことができます。不純なことをしている気持ちにもなります。それが、手段化の過剰に歯止めをかけるのです。

そのうえで、日常から完全に手段化をなくすことはできないことも自覚して、相手を手段化した際には言動で感謝をしめしましょう。
そして、相手との信頼関係を、丁寧にじっくり育てていくのです。
人間関係がしっかりしていると、多少無理なことを依頼しても、「しょうがないなあ」と相手はお願いを聞いてくれます。なぜそうなるかというと、信頼がクッションとなって、お願いされることへの抵抗感などが小さくなるからです。
そこで、最後にギブ&テイクのうち、「ギブ」を楽しんで行ってください。
世のなかには「ギバー(受け取る以上に与える人)」「テイカー(与えるより多く受け取ろうとする人)」「マッチャー(損得のバランスをとる人)」という3種の人がいます。
ひどいテイカーは、「くれ、くれ」といって相手を利用し、手段化しようとする傾向があります。一方のギバーは、損得勘定なしに見返りをもとめず、相手に「ギブする(与える)」人です。
組織心理学者アダム・グラントは『GIVE & TAKE』(三笠書房)のなかで、ギバーは、自分もふくめ、みんなが幸せになることを考えて行動するといいます。「みんなが幸せになる」とは、「だれも犠牲にしない」ということです。本節に引きつけていえば、それは「だれも手段にしない」と換言できるでしょう。

ギバーは基本、相手を信じます。
そこでなにが生じるかというと、相手から信頼されるということが起こる。すると、そうした人間関係のなかで、相手を利用しようという手段化の波が鳴りを潜めるようになります。「ギブ」を起点に、信頼をもとにした人間の手段化への抵抗が生まれるのです。
なぜなら、信頼関係のある相手を手段として使おうとすると、負い目を感じるように人間はできているからです。

よく「友だちを大切に」といわれますよね。
「大切に」の内実とはなにか。
ぼくにとってそれは、ここで紹介した4つのポイントになります。
ぼくは、幸いにも友人にはすごくめぐまれています。感謝しかありません。
そして、ありがたくも「ギブ」の効能がもっともよく表れたのが、ぼくの転職という大逆転劇でした。
ぼくは友人の手助けによって、厳しかった転職を成就することができたのです。
くわしくは次章でふれますが、ギブの具体例としても参考にしてください。


まとめ

宗教的な文化や慣習が日常のふるまいに出て、友だちや恋人に不思議がられたり、周囲からイジメを受けたりすることもあります。かといって、こういった宗教由来の特異なふるまいを隠しきるのは、けっこう大変です。
では、うまく生きていくために、なにをすべきか。本章では、イジメられないために自分の強みを活かしたり、宗教的慣習をネタにして溶けこむといったサバイバル術をしめしました。人間関係で失敗したときの内省のコツも提示しました。
もっと大事なこともあります。ぼくと恋人との話題に象徴されるように、「相手を一人の人間として敬い、丁寧に接する」ということです。
これらを読者のみなさんに納得してもらいたいと思い、本章ではこの実践の意義をしるしました。また、その具体的実践として、「相手を手段にしない」「相手にギブをする」といった例をあげました。参考にしてみてください。


解説
信仰が原因で彼女から拒否されたことは、正木伸城さんにとって強烈な体験だったのでしょう。
対話ブログの管理人であるシニフィエさんも同様の体験をしていますが、その時シニフィエさんは彼女と彼女の両親を見下し、自分から遠ざかっていったといいます。
その後、創価学会の組織から離れ、あるとき別れた彼女から連絡があり、当時の自分が彼女にいかにひどいことをしたかに気づいて苦しんだといいます。

正木伸城さんの場合は彼女から拒否されたあと、自分の行為を深く反省して、相手を手段として見るのではなく、「ギブ」をしようというところに行きつきます。正木さんは他者に対してどこまでも誠実な人なのですね。

ここは、多くの人に学んでもらいたいところです。


獅子風蓮


正木伸城さんの本『宗教2世サバイバルガイド』その6

2024-01-24 01:36:53 | 正木伸城

というわけで、正木伸城『宗教2世サバイバルガイド』(ダイヤモンド社、2023.06)を読んでみました。

本書は、悩める「宗教2世」に対して書かれた本なので、私のようにすでに脱会した者には、必要ない部分が多いです。
そのような部分を省いて、正木伸城氏の内面に迫る部分を選んで、引用してみました。

(もくじ)
はじめに
1 教団の“ロイヤルファミリー”に生まれたぼくの人生遍歴
2 こんなときどうしたら?宗教2世サバイバル
3 自分の人生を歩めるようになるまで
4 それでも、ぼくが創価学会を退会しないわけ
5 対談 ジャーナリスト江川紹子さん 

2 こんなときどうしたら?宗教2世サバイバル

□親子関係編
■恋愛、友人関係編
□進学、就職、転職編
□信仰活動編
□信仰活動離脱後編


2 こんなときどうしたら?宗教2世サバイバル

恋愛、友人関係編

Q:宗教を理由に学校でイジメを受けていて、とても苦しいです。

A:ぼくは、6年間受けつづけたイジメを、「ブランディング」で切り抜けました。


あれは、小学3年生のときのこと。
「お父さんの仕事を作文でまとめて発表しましょう」という宿題が学校で出ました。
ぼくは、戦々恐々です。
あらためて確認しますが、ぼくの父は創価学会の理事長も務めた大幹部。新卒で創価学会本部職員になり、日本や世界各国を飛びまわったツワモノです。その父のことを、教室で周知するというのです。
当時、ぼくがかよっていたのは公立の小学校で、クラスメイトのほぼ全員が創価学会員ではありません。
状況は、危険です。しかもこの危機は深刻さを増していきます。
ぼくが家で作文を書きあげると、それを見ていた母が添削を開始。消しては書き、消しては書き……気がつけば原形をとどめないほど書き換えられていました。

で、発表の日。
みんなが、父親の仕事についての作文を読みはじめます。
「わたしのお父さんは公務員で~」
「消防士で~」
「建設会社で働いていて~」
ほほえましい発表がつづきます。
そして、ぼくの番。
「ぼくのお父さんは世界平和のために、日本中、世界中を飛びまわっています」
瞬間、教室が「え?」という雰囲気になります。ぼくはつづけました。
「お父さんは、偉大な師匠である池田大作先生のもとでたくさん学び、大勢の人を励ましています」
ざわつく教室。ふるえる、ぼく。
うしろの席の子どもが、こういってきました。
「お前の父ちゃんって、ヒーローなの?」
これ以降、ぼくは好奇の目にさらされることになります。
しかもぼくは、当時イジメを受けていて、この作文を機に、イジメが過熱してしまいます。

ぼくは、小さいころはとてもおとなしく、なにごとにも消極的な子どもでした。そんなぼくをイジメっ子が見逃すはずがなく、ぼくは幼稚園時代から小学4年生までの6年間、イジメに遭っていました。
イジメは地獄でした。
子どもにとって、幼稚園や小学校のクラスは生きる世界のすべてといっていいほど大きなものです。そこで攻撃を受けると、逃げ場はありません。
ぼくは、何度も何度も泣かされてきました。


「キャラ変」してイジメられっ子から卒業

しかし――。そこに転機が訪れます。
小学5年生になる直前に、近隣に新しく小学校ができ、ぼくはそちらに移る機会にめぐまれたのです。ぼくにとっては、過去を振り切るチャンス!
大学や高校に入学するときに外見や服装を変え、キャラクターも変えて心機一転をはかる人がよくいます。
ぼくはそれの、小学5年生バージョンを決行。キャラは明るく、人にはやさしく、授業でも積極的に手をあげて意見をいうキャラにチェンジしました。
たとえば、理科の実験がある場合は、多くの児童が「だるい」と思っているときに、「めちゃ楽しそう!」と叫んで、率先して実験を進めていく。テレビでお笑いを勉強して、他人を笑わせるテクニックも自分なりに習得。
こうした立ちふるまいは、まず教師に気に入られました。
ただし、これには懸念もありました。「あいつ、先生に取り入ってるよ」と、ほかの児童から嫉妬を買う可能性があったのです。
長年イジメを受けてきたぼくは、警戒心、全開! 実際、クラスのガキ大将から目をつけられてしまいました。新しい小学校には、前の学校でぼくをイジメていた人も数人、移ってきていました。それも看過できません。
そこでぼくが行ったのが、「ブランディング」です(当時はそんな言葉、知らなかったですけど)。

ぼくには得意なことがありました。絵を描くことです。
漫画っぽい絵から、図解もの、写実的な絵画まで、さまざまなタイプの絵を描きわけることができました。
その能力をまずは強化します。絵を描きまくってうまくなっていくわけです。そのうえで行ったのが、ブランディングです。
ぼくは、あらゆる場面で絵を描きました。図画工作の時間だけではありません。算数や理科のときには図やイラストを。社会の時間には教科書の偉人の顔に落書きなどを。休み時間にも四コマ漫画を。辞書のような分厚い本の端っこにはパラパラ漫画を。 そして、帰宅してからは家で漫画を――。
すると、クラス内に「絵といえば正木」というイメージができあがります。くわえて、暗い顔をしている子がいれば励ますために絵を描いて贈ったり、どうしても理科の授業を受ける気分になれない子がいれば「理科室へ、一緒にGO!」みたいなイラストを見せて笑わせたりというふうに、絵を披露する機会も増やしました。
こうしていくと、なにかにつけてクラスメイトがぼくに「絵、描いて!」と依頼してくるようになります。「絵を描くのがうまい正木」を、みんながひんぱんに思い出してくれるようになるのです。

ブランドを考えるときに、「セイリエンス」という指標を使うことがあります。セイリエンスとは、そのブランドが思いだされる機会の多さと、思いだされたときの度合いの強さをかけ合わせたものです。ぼくは知らない間に、このセイリエンスを強化していったのですね。
その結果、ぼくはクラスで居場所を獲得することができました。ガキ大将は、ぼくの漫画の愛読者に変わりました。


つらい環境でも、自分の「強み」を発見してみよう

このエピソードには興味深い点があります。最初は「演じて」明るくしていたぼくが、ほんとうに明るい人間へと変わっていったのです。ブランディングも、慣れてしまえば無意識の作業になります。人って、ほんとうに不思議ですよね。これにより、ぼくはイジメから脱することができました。
ただ、こうしたぼくのエピソードを読んでも、「わたしに得意なことなんて、なにもない」と思った人もいるかもしれません。
宗教2世のなかには、たくさん傷つき、涙を流してきたがゆえに自信を失っている人がいます。そういった人は、「わたしに強みなんてあるの?」と疑問をもつかもしれません。
大丈夫です。安心してください。
この世に、強みのない人は一人もいません。
なぜなら、あなたとまったくおなじ個性をもっている人間は、この世に一人もいないからです。
あなたには、ほかのだれもがもっていない「個性」がある。
その個性は、見かたを変えれば強みになります。
いまは、それがただ見えていないだけ。大丈夫です。

たとえば、行動力のある人がいるとします。それが長所だと本人は思っている。ですが、裏を返せばそれは思慮深さが足りないという短所になるかもしれません。反対に、行動力がないという短所は、思慮深いという長所にもなり得ます。
長所・短所といっても、それは相対的な価値であって、見かたを変えれば長所にも短所にもなるわけです。
この性質は、あなたがもっている個性の要素――それこそ無限に分解して、わけてとらえることのできる「あなたらしさ」の要素すべてにいえます。
あなたには、あなたにしかない強みがかならずある。大丈夫。

苦悩のなかにいるとき、人はどうしても視野を狭くしてしまいがちです。そして、自己否定に至ってしまう。
でも、苦悩の渦中だからこそ、「これは自分の強みを見つける機会につながっているかも」と思い直してみてください。
実際ぼくは、子ども時代はイジメのなかで、そして大人になってからはうつ病のなかで、「新たな自分」を発見し、それを強化してきました。
苦しかったからこそ、真剣になって強みを見いだすことができた。
苦悩はときに、「新たな自分」を発見するエンジンになるのです。

(中略)


Q:教団の文化に、違和感を覚えるようになって苦しいです。

A:同調圧力に屈しないために、違和感の根っこを分析しよう。


子どものころの輝かしい時間は、長くはつづきませんでした。小学校を卒業し、創価中学に入学したあと、ぼくは想像もしなかった事態に直面します。
当時は、創価学会の指導者・池田大作氏がひんぱんに創価学園に来て、式典でスピーチをしていました。
そのときに“池田先生”がなにかをよびかけると、学園の生徒たちが「ハイ!」と返事をし、みんなが一斉にピッとひじを伸ばして手をあげるのです。
ぼくは、これに仰天しました。
「このなかで親孝行をしている人!」(池田氏)
「ハイ!」(学園の生徒一同)
ぼくは、気持ちが悪くなります。
まるで「ハイル・ヒトラー(ナチス式敬礼)」じゃないか……。
そのころのぼくは、反抗期に入ったばかり。こういったことに対する忌避感が急速に高まっていました。
学園祭などの前にも、準備活動として、創価学園を創立した“池田先生”について学ぶことがありました(これは学校としての公的な取り組みではなく、生徒同士による活動・研鑽)。
ぼくは、池田氏について学びたいとは思えなかったのですが、周囲はみんな研鑽をしている。だから、ぼくも勉強会に参加せざるを得ません。
そこに、ある種の同調圧力がまったくないかといえば、嘘になるでしょう。たとえば創価学園の生徒は、行事などで池田氏への尊敬を表現する団体演技――みんなで振りつきの歌を合唱し、池田氏にむかって決意を宣誓する――を行います。
その取り組みが全員参加型であることもしばしばで、この演技をボイコットす
ることは容易ではありません。
くのです。
基本的に生徒はみんな、池田氏への尊敬の念を表現していました。

このころにぼくが強烈に意識したのが、「同調圧力」です。
これは生涯にわたってぼくのなかで生きている習慣ですが、ぼくはなにかしらの違和感を抱いた際に、それを放置しないようにしています。
「あれ?」と思ったことは、「そういうものだから」とスルーしない。
ぼくはこれを、「違和感のマーキング」とよんでいます。
で、マーキングをしたら、じっくり時間をかけて違和感の根っこを吟味していくのです。
同調圧力を心にとどめたのは、その端緒といえるでしょう。


自分の本音に耳を澄まして、自分に正直に生きる

創価学園の式典に参加したある日のこと。
ぼくが池田氏のよびかけに無反応でいると、となりにいた同級生から「なんで手をあげないんだよ。お前も先生の弟子だろ」といわれたことがありました。ぼくはムッとします。とはいえ、友だちに反抗するのも面倒なので黙りました。このような経験を積みかさねていくうちに、ぼくはみずからの生きかたについて、ある結論に至ることになります。それは、「自分の本音に耳を澄まして、自分の頭で考え、自分に正直に生きよう」ということです。
しかし、「言うは易く、行うは難し」とはまさにこのこと。ぼくがこの行動原理をほんとうの意味で実践できるようになったのは、30代後半になってからでした。ただ、自分に正直に生きようと決意した原点は、創価学園時代にあります。

ぼくは、創価学園で抱いた違和感を大切にしました。
そして、それをじっくりと分析。これはいわば違和感の根っこ分析ですね。
その折にもっとも参考になったのは、哲学者ハンナ・アーレントの議論です。
アーレントは、ユダヤ人の大量虐殺を行ったナチスの蛮行が「なぜ生じたのか」「なぜだれも止められなかったのか」について探究しました。
そういった体制を生む危険な運動を「全体主義」とよびます。全体主義の社会とは、国家や社会を構成する大多数の人々が一つの思想を強く信奉し、おなじ生活や行動パターンになっているか、少なくともそういう状態を目指した体制づくりが進んでいる社会のことです。そこでは社会全体が均質化し、統制がとれた状況になっています。
しかも、そんなナチス・ドイツの全体主義への流れの加速は、当時としてはわりと平時に、つまり戦争のど真ん中といった異常時ではない時期に生じました。これが、世界を驚かせました。なぜ、そんなときに全体主義が?
ぼくはアーレントの知見を学ぶにつれて、創価学会が全体主義に陥らないともかぎらないという意識をもつようになりました。
全体主義の足音は、「なんで手をあげないんだよ。お前も先生の弟子だろ」といった、ささいで、ほんとうに小さな同調のもとめから響きはじめます。
ぼくには、ひたひた、とその足音が聞こえる気がしたのです。
この直感は、大人になって学会活動をするほど確信に変わっていきました。もちろん、創価学会がそのままナチスのようになるわけではありません。ですが、全体主義的な要素をふくらませていくようにはなると思いました。同時に、アーレントの議論をもとに、学会員の友だちと接するときに配慮すべきポイントを何点かあげ、それを意識してコミュニケーションをとるようになっていきました。
なぜなら、創価学園のなかでお互いが同調圧力を発揮し合うようになれば、全体主義的なものが、一人ひとりがもっている個性や、みんながもっている多様性を圧殺してしまうことがあるかもしれないと思ったからです。
自分の個性をありのままに輝かせたい。あの友にも個性を輝かせてほしい。
その願いがより叶う状況をつくるには、少なからず創価学園に吹く同調圧力の風にさからう必要がありました。

Q:教団仲間の同調圧力に、負けてしまいそうで苦しいです。

A:「ネガティブ・ケイパビリティ」を友だち付き合いのなかで実践しよう。


前節で、個性を圧殺しかねない同調圧力についての話をしました。宗教教団のなかでは友だち付き合いでも強い同調圧力が働くことがあります。たとえば、献金が激しい宗教団体があるとします。その激しさゆえに、その教団の多くの家庭は貧乏です。みんな、貧しい格好をしている。
そんな環境のなかで、オシャレをするとなるとどうなるか。
周囲から「なんであなたは(もっているお金をすべて献金に使って)清貧に生きない の?」といった干渉を受けるかもしれません。
ここではオシャレを例に出しましたが、こういった同調圧力によって、自分らしく、自分の好きなように生きることが困難になることがあります。そのような宗教2世が自分らしく生きるには、生存戦略が必要です。

では、ぼくの生存戦略はどんなものか。
それをかたちづくるうえで重要な話なので、ここでは、まどろっこしいようですが、全体主義が生じた原因をアーレントの洞察から拾いあげてみます。のちの話に結びつく内容ですので、しばらくお付き合いください。
ここでは、国や社会などの構造、また歴史の流れが生んだ全体主義の原因ではなく、個々人のふるまいが生んだ原因をデフォルメして列挙します。

① みんなの同質性を重視し、異分子は同化させるか排除する
② 異なる意見をもつ人が対話し、意見交換し合う領域を減らす
③ 組織が志す理想の実現について深く考えず、思考を停止する
④ 強力なリーダーシップをもった人物をもとめる

(中略)

ぼくは、①~④が起こらないように配慮し、まずはぼく自身が思索し、みずからが思考停止をしていないかを自己点検していきました。
そして、学会員の友だちと語らう際は、多彩な考えの可能性に配慮できるよう、話題を盛り込むようにしました。
友人たちからすれば、厄介な態度だったかもしれません。
たとえば学会の組織で、みんなが広宣流布をあたりまえのこととするなかで、「なぜ広宣流布(世界平和)を目指す必要があるの? そもそも広宣流布ってどんな状態を指すの?」などと聞いたことも多々ありました。
こういった、立ち止まって考えるという微々たる抵抗は、少なからずぼくの周囲の人たちに知的感化を与えたと思います。
……一応断っておきますが、つねにこんな問いをぶちこんでいたわけではないですよ。みんなで楽しく、ワイワイやるのは、ぼくも大好きです。基本は、楽し仲良くをベースにはしていました。


集団の暴走を止めるネガティブ・ケイパビリティ

ぼくのこうした対応は、近年話題になることが増えた「ネガティブ・ケイパビリティ」に近い態度かもしれません。
ネガティブ・ケイパビリティとは、物事の判断を宙づりにして、謎を謎のまま抱え、安易に納得したり即断せず、自身のなかで考えを深める力のことです。全体主義にまつわるアーレントの議論に沿っていえば、みんながおなじ方向にどんどん進んでしまっているときに、それとはべつの道を考え、疑問や問いを立て、探索的に思考することです。
もちろん、みんながみんなネガティブ・ケイパビリティを発揮しまくってしまえば、物事は遅々として進まなくなるかもしれません。
ですが、こういった思考の余白が失われる社会は、軋みを生みます。
なにかを決断した瞬間、人はともすると「ほかにあり得た可能性」が見えなくなってしまう傾向にあります。そうして、ほかに可能だったかもしれない選択肢への想像力が失われていくと、社会はやせ細ってしまう。あるいは、多様性を失ってしまう。
その極致が、全体主義です。
そのため、ネガティブ・ケイパビリティはいま、見直されてきています。

ちなみに、このようなアーレントの議論を引き合いに出すと、学会員のなかには「ナチス・ドイツは特殊な事例であって、創価学会ではこんなことはあり得ない」という人も出てくるでしょう。
ですが、そもそも「創価学会は大丈夫」と手放しで考えるその態度こそが、思考停止だといえます。
先哲が教えてくれるのは、「うちは大丈夫」と考えるのではなく、「うちにもそうなる可能性がつねにある」と思ってふるまったほうが組織は永らえ、発展するという卓見です。

(中略)

(つづく)


解説
ネガティブ・ケイパビリティって、皆さん知っていましたか?
私は友岡雅弥さんのSNSでの発言ではじめて知りました。それまで知りませんでした。

友岡雅弥さんの言葉:SNSより(20)(2023-08-01)

本書のこの箇所を読んで、もしかしたら正木伸城さんは友岡雅弥さんの影響を受けているのかもしれないと初めて思いました。
正木伸城さんも友岡雅弥さんも聖教新聞社に勤めていたことがありますから、十分接点はありますね。


獅子風蓮


正木伸城さんの本『宗教2世サバイバルガイド』その5

2024-01-23 01:57:47 | 正木伸城

というわけで、正木伸城『宗教2世サバイバルガイド』(ダイヤモンド社、2023.06)を読んでみました。

本書は、悩める「宗教2世」に対して書かれた本なので、私のようにすでに脱会した者には、必要ない部分が多いです。
そのような部分を省いて、正木伸城氏の内面に迫る部分を選んで、引用してみました。

(もくじ)
はじめに
1 教団の“ロイヤルファミリー”に生まれたぼくの人生遍歴
2 こんなときどうしたら?宗教2世サバイバル
3 自分の人生を歩めるようになるまで
4 それでも、ぼくが創価学会を退会しないわけ
5 対談 ジャーナリスト江川紹子さん 

2 こんなときどうしたら?宗教2世サバイバル


■親子関係編
□恋愛、友人関係編
□進学、就職、転職編
□信仰活動編
□信仰活動離脱後編


2 こんなときどうしたら?宗教2世サバイバル

親子関係編

Q:親に教えこまれてきた宗教儀式の習慣を大人になっても手放せません。

A:「信仰実践の入れ替え」で手放してみましょう。


幼いころから親に教えこまれてきた宗教儀式、ありますよね。
第1部では、「南無妙法蓮華経」のフレーズをくり返し唱える(唱題)という創価学会の宗教実践の話をしました。「唱題」とは、創価学会の修行の基本です。
もう一つの修行の基本に「勤行(ごんぎょう)」があります。これは、朝と晩、一日に2回、仏教経典である「法華経」の一部を読みあげる儀式で、この基本のうえにさまざまな活動が成り立っています。長年つづけてきたこともあってか、大人になっても、これらはぼくの習慣になっていました。
ですが、いま現在、ぼくは勤行も唱題もしていません。
それらを手放した当初は、勤行をしないだけで歯磨きを怠ったような気持ち悪さを感じていました。
悪いことが起こるんじゃないか。罰があたるんじゃないか。そうやってビクビクしていました。
でも、これは慣れの問題。ぼくには罰などあたりません。

子どものころに教えこまれた長年の習慣を手放そうとすると、人は不安になります。とくに勤行や唱題は、「よいこと」で「意義がある」とずっと教わってきたので、しないことが悪いことのように感じられる。
でも、考えてみてほしいのです。世のなかのほとんどの人は勤行をしていません。その人たちは悪い状態にあるのでしょうか?
ない、ですよね。勤行をしなくても、マイナスになることはないのです。
もちろん、勤行や唱題に、宗教的な意義はあるでしょう。信仰をしてきたぼくにも、その一分(いちぶ)はわかります。
でも、その一方で大事にしたい、つぎのような考えもあります。
「すぐれて価値あるもの」は、決して創価学会の“専有物”ではない、ということです。
世のなかには「勤行や唱題が最高に価値ある実践です!」という以外にも、ベつのものに最高の価値を信じる世界があるのです。

宗教よりもぼくがいま大切にしていること

いまのぼくのなかには、宗教ではありませんが、「聖なるもの」をもとめる気持ちがあります。
みなさんには経験があるでしょうか。
星空を見上げていて、ふと自分の存在の不思議さに気づく。寄せては返す波に手を浸したとき、まるで自分の体が地球に通じている気分になる。街に夕日が差しこんだ際に、家々が多彩に赤らんでいくのを見て、畏敬の念を抱く。
そういった宇宙や自然がはらんでいる崇高さに心を奪われたとき、ぼくは「聖なるもの」という言葉を思い浮かべ、手を合わせ、祈りをささげます。
このように人を畏怖・崇敬させるものを「聖なるもの」とよぶなら、ぼくはそれを大切にしています。
勤行や唱題から「『聖なるもの』にたいする祈り」へ、ぼくは宗教的な実践の内容を変更しました。これを「信仰実践の入れ替え」とよんでいます。

食べ物をいただくときの「いただきます」という言葉に、静かに丁寧に念をこめ、自身が生命の流転・連環の一部として「生かされている」と感じて祈るのも、そういった実践といえるかもしれません。
当然ですが、信仰そのものを手放すという選択肢もあり得ます。
やがてはそうなるかも。だけど、現状は「聖なるもの」を感じたときに手を合わせています。もしかしたら、いきなり信仰を手放すより、こうしてワンクッションを挟んだほうが、メンタル的にラクなのかもしれません。
ぼくは、「信仰実践の入れ替え」によって勤行と唱題を手放しました。


Q:宗教がらみの“親の躾”にたいする恨みがいつまでたっても消えません。

A:「復讐目的の再設定」で、親への恨みを手放しましょう。


これは、ぼくが生まれ育った地域の話ですが、たとえば、先にのべた勤行や唱題といった宗教儀式をさぼったり、創価学会の会合で悪ふざけなどをしたせいで、幼少期に厳しい躾を受けた創価学会の子どもが多くいました。
みんな、親に会合に連れていかれるけれど、子どもだからおとなしくしていることができずに騒いでしまう。すると、帰宅後に親から叱られるのです。
「真冬にベランダに2時間も放り出された」
「食事を抜きにされた」
「殴られた」
「定規でひっぱたかれた」
と証言する子もいました。
みんな、それを笑い合っていました。「ひでぇよな」って。ぼくも、母から受けた仕打ちを友だちに伝えて、笑いのネタにしました。

でも、こうした躾は、人によってはトラウマになります。それで、大人になってからも恨みから解放されず、苦しんでいる人もいる。
ぼくがうつ病になった原因の一つに、「創価学会をよくしようという強烈な責任感と、それが思うようにならない自責の念」があったのですが、そこに「躾の影響が見てとれる」と担当医はのべていました。ぼくは胸がうずきました。一部の親たちはおそらく、宗教活動で多忙で、気持ちに余裕がなくて、そうした行為に走ったのだと思います。ある意味、親も悲劇のなかにいる。
でも同情の余地があるからといって、手放しで親をゆるすわけにもいきません。ぼくは、過度な躾をした母と、そんな躾をせざるを得なくなるまで母を追いこんだ創価学会と、そこで幹部をしている父を恨みました。恨みまくりました。とくにうつ病の期間は何年も、何万回も、恨み節をくり返しました(だからこそ、学会をよく変えようと思いました。そこには恨みの感情とともに、愛着と愛情もあったのです)。
でも、恨んだところで、なにかが進むことはありません。
いまから考えれば、ぼくは気持ちの整理がうまくできなかったのだと思います。いまは、両親と仲良くしています。なぜそうなれたかといえば、時間がかかったとはいえ、やはり気持ちの整理ができたから。
この整理の仕方はおそらく、みなさんの役に立つでしょう。


親をゆるせるようになる気持ちの整理の方法

なにをしたかというと、「復讐目標の再設定」です。
精神科医のジュディス・ハーマンは、『心的外傷と回復』(みすず書房)のなかで、
心に傷を受けた人は、しばしば加害者に「復讐幻想」を抱くとのべています。「復讐幻想」とは、加害者に報復をすれば、自分の心の傷を厄介払いできると想像することです。ぼくの恨み節もそれに近いかもしれません。
そこでハーマンは、こう指摘しています。

「復讐幻想をいくらくり返しても、自身の苦悩は増すばかりで、しかも復讐は基本的に達成できないため、不満足感がきわめて強くなる。だから、復讐は負わされた傷のつぐないには決してならないし、傷を変えもしないのだ――。」

この言葉にふれて、ぼくは恨むことを手放しました。
長く、長く恨んできて、恨み疲れたということもあります。
くわえて、恨みが無意味だと悟ったのです。そして、つぎの考えに到達します。みなさんは「最高の復讐とは、幸せな人生を送ることである」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。
仮に、あなたに加害してきた人がいるとします。その人は、あなたを傷つけたくて、そうした。そんな加害者がいちばん悔しがる復讐とは?
それは、あなたが幸せになることだ、という話です。
愛憎相半ばするとはいえ、創価学会・父・母という三者を恨んでいたぼくにも、おなじようなことがいえます。
もしぼくが三者を恨みつづけたとして、その恨みの果てになし得る最高の復讐とは? 「ぼくがめいっぱい幸せになること」でしょう。
こうして、ぼくは恨みを手放しました。


「幸せになる」という復讐で、恨みを手放す

すると、「幸せになる」という復讐がさらに価値を光らせます。
父も母も、そして創価学会も、ぼくに幸せになってほしいという点でおなじはずだからです(他人の不幸を願う信仰者なんていないですよね……)。
みんなが大賛成の結論、それが「ぼくがめいっぱい幸せになること」なのです。恨みから解放されたぼくは、それを素直に信じることができた。
これが、復讐目標の再設定になります。
もちろん、恨みを手放した時点で、ぼくは復讐も手放すことになるので、厳密にいえば「復讐目標」そのものがなくなったと考えるべきかもしれません。その意味でいえば、これは「復讐を捨て去って目標を再設定する」という表現にあらためてもよさそうです。

ただ、ぼくは、創価学会や両親ではなく、じつは「恨みにとらわれていた過去の自分」に復讐するというマインドを継続してもっています。
過去の自分がうらやむくらい幸せになって、過去の自分に復讐をしたい。この目標があるため、ぼくはあえて「復讐目標」という単語を使っています。
先に引用したハーマンは、復讐幻想から解放され、治癒が進んだ人は、自分を傷つけた相手をむしろ気の毒に思い、相手に同情するようになると語っています。
仮に加害者が創価学会であるなら、そもそも創価学会に関心をなくしていくといった状況にもなっていくかもしれない。ぼくはいま、創価学会から、また信仰活動から放たれ、まさにそんな気持ちでいます。
そして、無事に恨みを手放すことができました。
復讐目標の再設定は、おそらく宗教2世以外の、親子関係に悩む一般の人にも活きるメソッドだと思います。

(中略)

まとめ

宗教2世にかぎらず、親子関係に悩んでいる人はたくさんいます。
とくに被害を受けてきた宗教2世のなかには、「信仰をもつ親のもとに生まれてしまったがために人生を狂わされた」と感じている人もいます。その感情を解消することは、相当に困難です。
ぼくは長年、親や創価学会に愛情や憎しみ、復讐心を抱きつづけました。でも、いくら恨んでも過去は戻りません。恨み節にも疲れて、気がつけば「自分が幸せになることが最高の復讐だ」と思うようになり、気もちがラクになりました。理想をいえば、親と対話して、わかり合いたい。ですが、それが難しいことも多々あります。正直、絶縁したほうがいい場合だってある。
決して無理はせず、あなたには「教団や親がしめす人生」ではなく、「あなたの人生」を生きてほしいと願っています。


解説
正木伸城さんは、自身の体験を踏まえつつ、悩める「宗教2世」のために、実践的なアドバイスをしています。

私は、「宗教2世」が、宗教組織から離れたとしても、信仰そのものを捨てる必要はないのではないかという立場です。(カルトの場合は別です。さっさとやめましょう)

立場の違いこそありますが、正木伸城さんの体験と悩める「宗教2世」への優しさには共感を覚えます。


獅子風蓮


藤圭子へのインタビュー その7

2024-01-22 01:40:03 | 藤圭子

というわけで、沢木耕太郎『流星ひとつ』(新潮社、2013年)を読んでみました。

(目次)
□一杯目の火酒
■二杯目の火酒
□三杯目の火酒
□四杯目の火酒
□五杯目の火酒
□六杯目の火酒
□七杯目の火酒
□最後の火酒
□後記


二杯目の火酒

   4

__経済的には、かなり困ってたのかな、いつも。

「困ってた」

__どのくらい困ってた?

「どのくらい、って?」

__そうだなあ……たとえば、学校でも、いろんな費用を払わなければいけなかったでしょ。PTA会費とか、給食費とか。そんなのくらいは払えるようだった?

「どうだったろう……はっきり覚えていないんだけど……免除されていたのかな、生活保護を受けていたから」

__そうか、生活保護を受けている、ってほどだったのか。

「うん。たとえば、お姉ちゃんもお兄ちゃんも修学旅行に行けなかったし、あたしも行けないはずだったんだ、ほんとは。でも、なんでだったのかな、先生がポケット・マネーを出してくれたのかな、国が出してくれたのかわかんないんだけど、阿部を連れて行かないのは可哀そうだということになって、当日、急に行けることになったの。行かなくても平気だよ、なんてお母さんには言ってたんだ。心配させるの悪いから。その日は、いいよ、いいんだ、なんて言って蒲団にもぐっていたら、連れて行ってもらえることになって……ほんとに嬉しかった。別にあたし行きたくもないんだなんてお母さんには言っていて、ほんとに行かなくてもいいの、平気なのなんて訊かれて、行きたくないんだよって、前の晩まで答えてたのに……嬉しかったなあ、あれは」

__行けて、よかったね。

「うん、よかった」

__どこへ行ったの?

「函館」

__どうだった?

「旅館のお風呂が混浴で、とっても恥ずかしかったことを覚えてる」

__そのわりには、くだらないことしか覚えてないね。

「フフフッ、ほんと」

__クラスの友達なんかは、あなたがいろんなところで歌っているというのを知ってたのかな。

「知ってた」

__学芸会とか、そういったものに駆り出されなかった?

「ほとんど出なかった。そういうのとは違っていたから。一度、クラス対抗しりとり歌合戦みたいのに出されたことがあっただけ」

__なるほど、歌を知っているから、かな。

「そうなんだろうね」

__お父さんお母さんの興行に出るようになって、学校の方はどうだったの? たいていは土曜と日曜だったというけど、中学なんかで休んだことはあまりない?

「ないなあ、それは。でも、二度くらい、まとめて休んだことはあったけどね」

__まとめて、と言うと……。

「2、3週間」

__仕事で?

「そう。山の奥の飯場とか、海岸の漁師町に行く仕事が入ったわけ」

__山の奥、か。

「ほんとに、山の奥に、バラックの飯場小屋を建てて、トンカン、トンカンって、工事をやっているようなところなんだ。寂しかった。前にチョロチョロと小さい川が流れているだけで、あとは木ばっかり。飯場で寝泊りして……夜、寝るとき、さみしくて、さみしくて……」

__学校を休んで仕事に行くんだと言われて、いやとは言わないわけか。

「そうだね。頼まれると、いやとはいえない性分だし、それに困るわけじゃない、あたしが行かないと。それをわかっているから、山の奥でも、漁師町でも、どこでも黙ってついていった」

__漁師町へも行ったわけだ。

「帰りに、持ち切れないほどスジコをもらってね。それがなくなるまで、学校のお弁当のおかず、毎日スジコだった」

__そいつはちょっと。

「参りましたね」

__そうだろうね。……あなた、歌は好きだった?

「別に」

__好きになったことは?

「ない、な」

__いつも、いやだったの? 歌うのが。

「うーん、と。そうか、そうでもないんだな。あたし、小学校5年から舞台に上がるようになったでしょ。たとえば、風邪なんかひくと、声が出なくなるわけ。そうすると、しばらく、じっと、おとなしくしていなくちゃならないの。歌っちゃいけないわけだから、しばらく歌わないでしょ。そうすると、歌いたくて歌いたくてたまらないわけ。そういうことはあったな、確かに。そう言えば、歌手になってからも、やっぱり、少し長く休むと歌いたかったね」

__そうすると、やっぱり、好きと言っていいのかな。

「そうかもしれないね。だから、休んだあと、ショーかなんかで一曲目を歌うとき、とても嬉しくて、気持がいいわけ。毎日、歌ってばかりだと、自分でもわからなくなるんだけどね」

__中学3年のときだっけ、岩見沢に引っ越したんだったよね、旭川から。

「うん」

__それはどうしてなの?

「岩見沢にね、きらく園というヘルス・センターがあって、そこに仕事があったの。住み込みで」

__芸人さんとして?

「そう、3人、芸人として」

__3人と言うと、お父さんとお母さんとあなた?

「そう」

__お姉さんとお兄さんは?

「もうバス会社で働いていたから、旭川に残ったの」

__あなたが一緒に行くことも、条件のひとつだったのかな。

「そうなんだって。北海道といっても、結構狭いから、どこにどんな芸人がいるとか、あそこに子供で歌うのがいるといったことは、すぐわかるんだね」

__転校するの、いやじゃなかった?

「しばらく、岩見沢に来てからも、泣いてたな。毎日、クラスの友達に手紙を書いてた。でも、卒業まで、あと半年くらいだったから我慢できそうだったし……」

__いや、さ。半年くらいなんだから、転校を待ってもらえばよかったのに。

「でも、仕方ないもん。テレビやなんかが発達して、仕事がなくなっていたし、お父さんお母さんが安定した仕事につけるわけだから仕方ない、と思ってた」

__そうか。あなたが中学3年ということは1960年代も半ばだもんな。テレビが入ってきて、そういう芸人さんたちの生活も厳しくなっていただろうからね。で、そのヘルス・センター、きらく園だっけ、それはかなり大きかったの?

「大きくはないんだけど、岩見沢の町から30分くらいのところだったから、みんなちょっとした骨休めには来るんだよね」

__岩見沢といえば、炭鉱があったよね。そこで、どんなことをやってたの?

「そうだねぇ……」

__ショーみたいなやつ?

「とんでもない。ショーなんていうもんじゃなくて、5人とか10人とかの団体さんが来ると、そこの座敷へ行くわけ、その人たちが希望すれば、ね」

__舞台でやるわけじゃないのか。

「うん。そこには、あたしたちのような芸人がいることになっているから、いくらかのお金でお客さんは呼ぶわけよ」

__そのお金は、流しみたいに、直接あなたたちに渡してくれるの?

「月給制だから……ただし、その人たちがお花をくれる場合はもらえるんだ」

__お花って、チップみたいなものですね。

「うん、お花、って言うんだけどね。あれ、どういうのか、だいたい百円札なんだよね」

__田舎だから、まだ百円札が残っているわけだ。

「それをチリ紙にくるんだりして、渡してくれるの。それを受け取ると、お母さんが座布団の下に突っ込むわけ。やっぱり、嬉しかったみたいだよ」

__そりゃあ、そうだろうな。しかし、もう少し詳しく説明すると、どんなふうに歌ってたの?

「6畳から20畳くらいまで、お客さんの部屋があって、呼ばれるとそこへ行って、その入口のところに立って歌うんだ。お座敷が何十とあるの。その日ごとに、今日はどことどこへ行ってください、って言われるわけ」

__それを聞きながら、客は呑むわけだ。 休日は?

「なかったと思うよ。 ただ、忙しい日とそうじゃない日はあったけど」

__あなたたちの住まいは、ヘルス・センターの中にあったの?

「従業員用の部屋をもらって……二部屋だったかな」

__その、きらく園っていうヘルス・センターは、いまもあるの?

「一度、火事になったことがあって、建て直したんだって……あたし、デビューしてから行って みたことがあるんだ」

__歌いに?

「そうじゃなくて、岩見沢に仕事で行ったついでに、挨拶をしにいったの。そして、泊ったんだけど……ほんとに、ああいうところへは行きたくないね」

__どうして?

「夢でよく見てたんだ。夢には当時のままの風景や人が出てくるの。でも、現実に一度見ちゃうと、もう夢に見なくなっちゃうんだよね。なつかしい人とか、なつかしい場所とか、現実に見たり会ったりすると、それがもうなくなってしまうんだよ」

__そういうことは確かにあるね。

「悲しいけどね」

__岩見沢に引っ越したのが、中学3年の後半の時期。あなたは、中学を卒業したら、どうしようと思っていたの?

「別に……」

__ああ、また、得意の、別に、ですね。

「ほんとなんだから、しょうがないよ」

__就職するつもりだったの?

「何も考えていなかった。進学は絶対に無理でしょ。先生は、もったいないから、ぜひ進学させろと言ってくれたんだけど……そんなことできないし。きっと、勤めればいいじゃない、と思ってたんだろうね。勤めるといったって、あたしたちだったら、どこかの商店の店員とか、工員とかそんなんだったろうけど。中学を出てすぐ勤めるといったら、だいたいそういうことだったろ うけど、ね」

__そうしようと思ってた?

「ほんとに、そんな先のことまで、考えていなかった」

__先といったって、すぐのことで、しかも一生のことじゃない。

「でも……」

__何も考えず、毎日、毎日、きらく園で、ただ歌っていたというわけなのかな。

「うん、何も。何も考えないで生きていた。人生について考えるのなんて、25過ぎてからだっていいじゃない」

__そりゃあ、ちっとも悪くはないけど。しかし、不思議な子だったんですね。

「そうかなあ。でも、考えるようになると、人生って、つまらなるんだよね」

__そうかな。

「そうだよ。考えないにこしたことはないんだよ」

__何か、そのあたりに、あなたの考え方の特徴があるようだってことだけはわかるんだけど……。

「わかっていたことは、食べて、寝て、生きていくってことだけ」

__そのとき、あなたは15歳の少女だったはずなのに……。

「……」

__毎日、毎日、その日、その日を送っていたのかな、ほんとうに。

「その中で、ただ喜んだり、悲しんだりしていただけ」

__それじゃあ、何が嬉しかった、あなたには。

「おいしい物を食べられたら嬉しいし……見る物すべて食べたかった」

__いまと違って健康だったんだ。いまのあなたには、とうていそんな食欲はなさそうだもんな。

「でも、それは、いつでも食べられるからなんだよね。ひもじい思いをする前に食べられるから。ひもじければ……本当にひもじければ、何でも食べたいし、何でもおいしいよね。本当にひもじかったときの感じが、あたしの体の中にもはっきり残っているみたい。ひもじくて、ひもじくて、あれが食べたい、これが食べたいと思うことがほんとに何度もあった。でも……それは、ちっとも、不幸なことじゃなかった」

__それじゃあ、何が悲しかった?

「お父さんに怒られれば悲しいし……お母さんに怒られたことは一度もないんだよね」

__どんなことで、お父さんに怒られるの?

「うーん。その話はしたくない、あんまり」

__そうか。問題は、いつも悲しいことは、お父さんなんだね。

「……」

__お母さん子だったと言ってたね。

「うん、そうだったから、実際に。お母さんがお姉ちゃんと一緒に買物に出たりすると、心配でたまらないの。自動車やなんかにぶつからないかな、お姉ちゃんじゃなくて、あたしがついていってあげればよかったって、帰ってくるまで心配なんだ」

__大きくなったら、お母さんにこうしてやろう、ああしてやろうなんて、小さい頃から思ってたのかな?

「それはね、思ってたみたい。よく、お母さんには言ってたらしいよ。大きくなったら、あたし、金持の社長さんのお嫁さんになって、きっと楽をさせてあげる、って」

__金持の社長さんのお嫁さん、か。いじらしい子ですね。

「うん、なんか、そう言ってたらしいよ」


解説
あれほど父親に関することに触れるのを嫌がっていた藤圭子さんですが、思わず、「お父さんに怒られれば悲しいし」と漏らしてしまいます。

沢木耕太郎さんのインタビュアーとしての技は、私も見習いたいです。
不登校や被虐待児の子どものカウンセリングで役立ちそうですね。


獅子風蓮