獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

石橋湛山の生涯(その23)

2024-06-24 01:00:18 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
■第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき

 


第3章 プラグマティズム

(つづきです)

明治40年(1907)7月、湛山は卒業した。
「君が文学科哲学科の首席だ。よく頑張ったな」
英語訳読担当の内ヶ崎作三郎教授から、そう告げられた時の湛山の驚きは一様ではなかった。「英文科の首席は君の親友の中村君だ。だが、文学科を包括しての首席は君だから、特待研究生には君が選ばれた」
特待研究生という制度は、早稲田大学の優れた学生を学費付きの研究生にしてさらに研鑽を積ませ、将来早稲田の教授にしようという目論見であった。今日の大学院のようなものである。
湛山は毎月20円を大学から支給されて、あと1年大学に残ることになった。宗教研究科が湛山の専攻した学科である。その年の12月には修身科と教育科の無試験検定に合格して、中等学校教員免許状を与えられた。
しかし、そのまま大学に残ってゆくゆくは教授に、という湛山の理想は破られることになった。特待研究生は、1年間の勉強の成果を論文にまとめて提出することになっていたが、湛山はその論文を出さずに終わるのである。
一説によると、大学の実力者であった坪内逍遥が湛山を評価しなかったために推薦も貰えず、嫌気がさして湛山は論文を書かなかったとも言われるが、それは違う。湛山が、そのような理由だけで学問の成果を放擲するはずはない。また、もし逍遥との確執があったなら、湛山が後年、「維新以後の日本の思想界の四大恩人」とまで言わないであろう。確かに湛山が本科に在学中は「あの芝居がかった講義ぶり」に興味がなかったが、回想では「思えば惜しいことをしたものである」と反省している。
湛山が逍遥には生意気な学生だと映っていたかもしれないが、それが原因で湛山が教授候補として大学に残れなかったわけではない。
実は大学の方針が変わったのが最大の原因であった。将来の教授候補を特待研究生制度によって養成しようという考えを、学校が捨てたのであった。
学校側が論文提出の義務を解除したことが、結果として湛山を大学にとどまらせずに、社会に出すことになった。
「さて、どういう仕事を探したらいいものか」
明治41年(1908)7月、早稲田大学宗教研究科を修了した湛山は、どうやって食っていくかを含めて、これからの人生を否応なく考えなければならなくなった。
その時、社会に出るのに手を差し伸べてくれたのが、島村抱月であった。
「石橋君、いくら中等学校の教員免状があるといっても、東京では中学校の教員にはなれないよ。窓口が狭すぎるんだ。ただ、英語の免状なら効き目があってね、地方に行けば40円くらいの月給で雇ってもらえるだろう。だがね、ここにも問題があるんだよ」
抱月は、自分の教え子たちが地方の教員になって苦労しているのを知っていた。
「地方の学校だってほとんどが公立だろう? すると、帝大と高等師範の出身者が多くて学閥を作ってしまうんだな。私学出の者は何かあると馘の対象にされてしまうのが実情なんだよ」
湛山は甲府に戻って中学校の教員をやろうとは考えていなかったから、抱月がどうしてこんなことを言い出したのか分からなかった。が、抱月の意図を理解し得ないまま、湛山は抱月の話に聞き入った。
「要するに、官界も教育界も、さらには実業界すらも帝大、東京高等師範、東京高等商業などの学閥が牛耳っているのが現状なんだ。……しかし、こうした学閥が牛耳れない場所もある」
「どこですか?」
抱月の話に義憤を感じ始めていた湛山は、思わず聞き返した。
「言論と筆の世界さ。つまり新聞界と文芸界だよ。こればかりは帝大出身であろうが、高等師範であろうが、実力の世界。腕次第というものだ」
「なるほど」
「もっとも官学の出身でこの方面に志す者はいたって少ないというのも確かではあるがね」
湛山にも思いあたるフシはあった。
「君にはその腕がある。新聞界でも文芸界でも君の評論ならきっと通るよ。どうだい? そっちの世界に進んでみては?」
確かに今、何か職業を求めようと思っても、東京で早稲田出身者が容易に求めることの出来る仕事はない。ただ、原稿を書くことにおいては抱月の指摘したとおり、帝大だろうと高等師範だろうと、負ける気はしなかった。
自分のように大学卒業したての駆け出しでも、四百字詰め原稿用紙一枚で2、30銭にはなるだろう。
そんな計算は湛山にも出来た。
「ましてや、この時代だ。辞書を片手でもいいから少し纏まった翻訳でも引き受ければ相当の収入になると思うよ。いや、君に代筆をやれと言うわけではないが、僕の知っているある早稲田の卒業生は、尾崎紅葉や長田秋濤の代筆をしていたよ。有名な『椿姫』や『鐘楼守』なんぞはみんなその男の翻訳なんだよ」
抱月の言葉は、講師室を出た後まで湛山の耳に残った。
その当時の日雇い労働者の1日当たりの日当は50銭前後であった。大学を卒業して銀行に入れば月給35円が貰えた。そこの35円も官学出身者である。
「原稿を書く……」
湛山には文章への自信があった。
「抱月先生の言われるとおりかもしれないな」
湛山はこのまま東京で暮らすつもりであった。それには、自分の一番自信のある世界で生きていくよりほかはなかった。
「よし、文筆で勝負だ」
その決心はすぐに行動になって現われた。親しい向きに声をかけるのと同時に、自分でも先輩や知人に人を紹介してもらうため、あちこちに出かけた。そのうちに、
「石橋君、翻訳の仕事をしてみないかね」
渡りに舟と言えるような仕事の話が舞い込んだ。
「大隈重信先生が総裁をしている大日本文明協会というのがあるんだ。ここで海外の名著を翻訳し国内に紹介しようという企画を立てたんだ。やってみないか?」
「喜んで」
これが石橋湛山にとってジャーナリズム界への第一歩になった。

 


解説

「よし、文筆で勝負だ」
その決心はすぐに行動になって現われた。親しい向きに声をかけるのと同時に、自分でも先輩や知人に人を紹介してもらうため、あちこちに出かけた。そのうちに、
「石橋君、翻訳の仕事をしてみないかね」
渡りに舟と言えるような仕事の話が舞い込んだ。
「大隈重信先生が総裁をしている大日本文明協会というのがあるんだ。ここで海外の名著を翻訳し国内に紹介しようという企画を立てたんだ。やってみないか?」
「喜んで」
これが石橋湛山にとってジャーナリズム界への第一歩になった。

こうして、湛山はジャーナリズムの世界に飛び込むことになります。

 

獅子風蓮


石橋湛山の生涯(その22)

2024-06-23 01:54:21 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
■第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき

 


第3章 プラグマティズム

(つづきです)

湛山たちはヨーロッパ帰りの抱月から、美学の講義を受けることになった。そして抱月は休刊していた「早稲田文学」を復刊した。
島村抱月といえば「カチューシャかわいや別れのつらさ せめて淡雪とけぬまに……」で始まる「カチューシャの唄」で、今も知られる。大正3年(1912)に生まれて、その年に大流行したこの歌は、当時芸術座のスターであった松井須磨子がレコードに吹き込んで、売れに売れた。抱月はこの須磨子のために早稲田大学の教授の地位も家庭もすべてを擲ち、恩師の坪内逍遥とも訣別することになる。
抱月は自然主義運動に行き詰まっていた明治43年(1910)に「早稲田文学」にイプセンの「人形の家」を翻訳して発表した。これを契機にして、新劇運動に精魂を傾けることになる。
『人形の家』が翌年、抱月の演出、主演のノラを須磨子が演じて上演され、好評を博した。須磨子との問題や新劇への志向から抱月と逍遥の芸術観は対立して、ついに文芸協会が分裂、解散するのである。
大正2年、抱月が結成する芸術座の結成趣意書には、湛山も正宗白鳥、窪田空穂、金子筑水、相馬御風、中村星湖らとともに評議員として名前を連ねている。
抱月がスペイン風邪をこじらせて急死するのはその5年後の大正7年(1918)である。湛山は『早稲田文学』に追悼文「四恩人の一人」を書き、抱月に最大の敬意を払っている。湛山は抱月を、福沢諭吉、板垣退助、坪内逍遥と並んで〈明治維新以来の我が思想界の四大恩人の一人〉と称賛したのである。
〈福沢諭吉は日本の思想を西洋の実業化したこと、板垣退助は日本に民権自由の思想を鼓吹したこと、坪内逍遥は初めて日本の文芸に正しい位置を与えたことで、それぞれに日本の近代文化史に大きな転機をもたらした。これに対して抱月は、自然主義の唱導と芸術座の仕事を通して、日本の思想を過去の因習から救うための大運動を起こしたことに大きな意義があつた〉と述べている。そして、〈明治維新以後今日迄の我が文化史はあの四人だけの名を挙ぐることによつて書ける。けれども其の一人を欠いては書けぬ〉と言い切っている。
ここに早稲田卒業後の湛山の文化観と、抱月への敬意が示されていると言えよう。
抱月にはこんなエピソードもある。
早稲田実業時代の早稲田本科に入学した竹久夢二(後に専攻科に進むが中退)が、教室の黒板に落書きをしていたところに抱月が入ってきた。その美人画に目を留めた抱月は、さすがに美学の教授であった。夢二に向かって「君は絵描きになりたまえ。きっと成功する」と勧めた。これが縁で、画家・竹久夢二が誕生することになったという。
「石橋君、後で講師室にちょっと顔を出してください。お願いしたいことがあります」
授業が終わった時に、抱月から声をかけられて湛山は、首を傾げた。抱月にものを頼まれるほど親しくしてもらっているわけではなかったからだ。それでも講師室に行くのは楽しかったから、湛山は抱月の机の前に立った。
「ああ、石橋君。君は文章がしっかりしているらしいね。頼みというのは、そのことなんだ」
「僕が今度『早稲田文学』を復刊したのは知っているね」
「はい。先生のお書きになった『囚われたる文芸』は面白く読ませていただきました」
「そうか、ありがとう。そこでだね、お願いというのは『早稲田文学』の論説欄を君に担当してもらえないだろうか、ということなんだがね」
湛山にとっては、青天の霹靂にも等しい抱月の言葉であった。『早稲田文学』の論説欄を担当しろとは……。
湛山にはさすがにその自信はなかった。
「先生、簡単にお引き受けする代物ではありません。お言葉はありがたいのですが」
「今ここで返事を欲しいとは思っていない。しばらく考えて返事をくれたまえ。あ、そうそう、この間の哲学科の第3回セミナリーの発表聞いたよ。波多野講師も感心しておった。何だっけ、えー と、確か……」
「あれは、ストア学派の人生観とエピクロス学派の人生観との比較研究、です。長ったらしい演題でして」
「いや、よかったよ。……じゃあ、いいね。近いうちに返事を」
「分かりました」
抱月からの依頼を何人かの友人に相談すると、みな一様に、
「面白いじゃあないか。引き受けてみろよ。大丈夫だ、君ならやれるよ」
と口を揃えて賛成した。中村星湖も、
「素晴らしいじゃあありませんか。石橋さん、やってくださいよ。石橋さんの論文は中学校の頃から定評があったじゃあないですか」
「中村君、中学校の頃とは違うんだよ。『早稲田文学』は、校内雑誌ではないんだから」
「だから素晴らしいんですよ。石橋さんの論文が多くの人の目につくってことですよ。僕も小説、随筆では自信があるんですが、論説といったら……」
結果的に湛山は「早稲田文学」の論説欄を担当することになる。
こうして抱月との関係は、学生と教授というよりも、お互いを認め合った人間同士の付き合いになっていった。

(つづく)


解説

湛山は『早稲田文学』に追悼文「四恩人の一人」を書き、抱月に最大の敬意を払っている。湛山は抱月を、福沢諭吉、板垣退助、坪内逍遥と並んで〈明治維新以来の我が思想界の四大恩人の一人〉と称賛したのである。

湛山は、抱月に推薦されて、「早稲田文学」の論説欄を担当することになりました。

 

獅子風蓮


石橋湛山の生涯(その21)

2024-06-22 01:47:56 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
■第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき

 


第3章 プラグマティズム

(つづきです)

湛山は日蓮宗の寄宿舎・茗荷学園を出て、本郷の西片町に住み、次いで下谷の谷中に移った。引っ越しはいつも、友人の家にある荷車を借りた。夜具と生活道具一式が入った行李とを積んで、荷車を引く。友人が後を押してくれる。
絣の着物と羽織、よれよれの袴に朴歯の下駄を履き、荷車を引く湛山の腰には手拭いとインキ壜がぶら下がっている。荷車を引く左手には石油ランプを持っている。
インキ壜は湛山ら学生には必需品であった。まだ万年筆も鉛筆もなかった頃である。インキとペンは学校に常に携帯して行った。
石油ランプは、明かりである。日本に電気が急速に普及していくのは、明治40年代以後である。湛山が早稲田に通った頃は、全国で36万個ほどしか電灯は取り付けられていなかった。
午後からの引っ越しは、夕暮れにかかった。蝙蝠が低く飛ぶ時間になると、街路の瓦斯灯に火が入る。
人夫が長い竿を持って瓦斯灯に点火するのである。湛山はその光景を眺めるのが好きだった。瓦斯がやがて青白い光を放ち、瓦斯灯はゆっくりと、見た目の暖かさを増す。瓦斯灯の周りがぼんやりと明るくなり、闇の訪れとともに周囲を照らすのである。
「僕は、瓦斯灯が夜になって周囲を明るくするのを見ていると、ほっとするんだ」
湛山は、明治39年(1906)に3年生になると同時に、今度は早稲田鶴巻町の早稲田館に下宿することになった。大学の近くに下宿を移して通学時間を短縮し、その分学問に集中しようと思ったからである。王堂から「デューイの孫弟子」を認可されたことでますます学問の深さに興味が湧いていた。遅蒔きながら湛山の意識の中に、何かのためにではなく、純粋に学問をやる面白さという意味が加わったのであった。
同じ年の夏、母親のきんが隠居して、自分自身が石橋家から相続してあった家督を湛山に相続させた。湛山は、これで父親の「杉田」姓でなく、一生母方の「石橋」姓を名乗っていくことになった。

湛山が早稲田で出会った教授はこのほかにも数多くいて、それぞれに湛山の人生に影響を与えているが、島村抱月もその一人であった。
抱月は坪内逍遥の勧めで早稲田の教壇に立ったが、明治35年に『新美辞学』という大著を刊行し、3年間のイギリス、ドイツ留学に発った。ヨーロッパで美学のほか、世紀末の芸術、文学、思想を広く吸収し、明治38年の秋、日露戦争の勝利に沸く日本に戻ってきた。

(つづく)


解説

湛山が早稲田で出会った教授はこのほかにも数多くいて、それぞれに湛山の人生に影響を与えているが、島村抱月もその一人であった。

湛山と島村抱月との出会いです。

 

 


獅子風蓮


石橋湛山の生涯(その20)

2024-06-21 01:39:44 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
■第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき

 


第3章 プラグマティズム

(つづきです)

湛山は後年、王堂との出会いを回想して次のように語っている。
「私は先生によって、初めて人生を見る目を開かれた。先生の思想は深かったが、学問も広かった」
甲府中学校で大島正健から「私の一生を支配する影響を受けたのである」と述べた湛山は、早稲田大学で田中王堂によって「人生を見る目を開かれた」というのである。
それも甲府中学校での2回の落第、第一高等学校の2回の受験失敗が、もたらしてくれたものだった。
「合わせて4年の失敗がなかったなら、私はどちらの師にも会うことは出来なかった」
それが湛山の実感であった。
卒業した後も、湛山は大学時代の友人である関与三郎、杉森孝次郎、大杉潤作らとともに王堂に私淑した。学問のうえの付き合いだけでなく、借金に悩まされ続けた王堂の生活にまで立ち入ったほどである。
王堂は、明治40年代から大正にかけて思想評論壇で活躍する。個人主義、自由主義に立脚したその独創的で雄渾な文明批評は時代を風靡した。明治44年(1911)に出版された『二宮尊徳の新研究』は、プラグマティズムの神髄を語るものとして評価が高い。しかし、王堂はそれでも不遇な生涯に変わりはなかった。王堂は昭和32年(1932)に病死するが、その死後、『王堂全集』の出版に湛山は友人たちと奔走する。湛山と王堂の出会いは、湛山だけに有用であったのでなく、王堂にとっても意義のあるものになったのだ。
湛山は中学時代に、暇を見つけては大島正健を校長室に訪ねたように、早稲田では王堂を講師室に訪ねた。講師室は赤煉瓦で覆われた二階建て大講堂の一階にあった。今のように専用の講師部屋がそれぞれにあるのではなく、教授や講師がみんなで一室を使っていたのだった。
「先生、ここに来ると面白いですね。いろいろな先生の本当の姿が分かります」
「石橋君、覗き見はいかんよ」
そう言いながら王堂も面白がっている様子が湛山には分かった。この講師室で湛山は王堂とよく語った。
「先生、私も中学で2回、高校受験に2回失敗して、合わせて4年を無駄にしました」
「ほう、僕と同じような学生がいたんだねえ」
王堂は、湛山の話に興味を持った。そして湛山自身にも興味を持った。
「私は、日蓮宗の僧侶の家に生まれました。私自身も得度しております」
「じゃあ、将来はお坊さんになるのかい?」
「何とも言えません。ただ、以前は医者と宗教家を兼ねたような仕事を考えていたのですが……。今はまた別のことを考えています」
「君、哲学者になるなんて言い出すなよ。食えないよ。もっとも大学に残って教授になるというのは、手でもあるがね」
「……」
湛山は、王堂にプラグマティズムを教わって、自分の皮膚感覚に合った哲学にやっと出会えた、という意味のことを述べた。
「ですから私の基本には、日蓮宗の教えがあります。日蓮上人という人は、偉大な宗教家であり、哲学者だと思っています。加えて、私は中学校の恩師・大島正健先生によって教えられたクラーク博士のアメリカ的民主主義思想とキリスト教的博愛主義を身につけたと自負しています」
「ほう、あのクラーク博士の……。大島正健という人のことは知らないが、クラーク博士の札幌農学校での教え方については聞き知っている」
「はい、大島先生は札幌農学校の第一期生でクラーク博士の愛弟子でした」
「あのキリスト教思想家の内村鑑三先生や今の第一高等学校校長の新渡戸稲造先生などの先輩にあたる人なんだね」
「はい、そう聞いております」
「なるほど、君は中学校時代に素晴らしい先生に巡り合ったんだねえ」
「大島先生から私はクラーク博士の『ビー・アンビシャス』、『ビー・ジェントルマン』という自主自立・自己責任の精神を教えられました。私は、クラーク博士の孫弟子を自認しています」
「ははは、孫弟子はいいねえ。うん、とてもいい考えだ。すると今度は……」
「田中王堂先生からジョン・デューイ教授のプラグマティズム哲学を伝授されましたから、私はデューイ教授の孫弟子でもあります」
「君はいくつになった?」
「はい。21歳になります」
「若いねえ。若い人はいい。……よろしい。私が認めよう。君はジョン・デューイ教授の孫弟子で、 日本におけるプラグマティズム哲学の具現者の一人だ」
「ありがとうございます」
「石橋君、ひとつだけ忠告しておこう。多分君なら大丈夫だろうが。熱くなるな、ということだ。ジョン・デューイ教授のプラグマティズムには、一方で、物事を冷徹に見て客観視せよ、という面もある。それは自分自身についてもだ。先ほど君が話してくれた大島先生から受けた教え、それに日蓮宗徒としての規範。これらに客観視が加わればそれはもう、日本における新しい哲学の実践と言ってもおかしくはないよ。頑張りなさい」
湛山自身の思想は、ここで確立されたと言っても過言ではない。
湛山が確立した思想とは、「一切の行為の規準を自主に求める個人主義。この個人主義を、他人や社会に迷惑をかけない限り認めようとする自由主義。そして、個人個人が持ついろいろな欲望を、悪いものでなくむしろ社会が発展していくうえで大事な力であると捉え、それを積極的に肯定しようという実利主義、功利主義を融合させた考え方」であった。これは、「個人を尊重」しながら一方で「欲望を抑える」という、いわば「新自由主義」とも言えた。そして、以後の湛山の歩む道は、この考え方に貫かれていく。

(つづく)


解説

「石橋君、ひとつだけ忠告しておこう。多分君なら大丈夫だろうが。熱くなるな、ということだ。ジョン・デューイ教授のプラグマティズムには、一方で、物事を冷徹に見て客観視せよ、という面もある。それは自分自身についてもだ。先ほど君が話してくれた大島先生から受けた教え、それに日蓮宗徒としての規範。これらに客観視が加わればそれはもう、日本における新しい哲学の実践と言ってもおかしくはないよ。頑張りなさい」
湛山自身の思想は、ここで確立されたと言っても過言ではない。

湛山の思想はこのようにして形成されていったのですね。

 

湛山が確立した思想とは、「一切の行為の規準を自主に求める個人主義。この個人主義を、他人や社会に迷惑をかけない限り認めようとする自由主義。そして、個人個人が持ついろいろな欲望を、悪いものでなくむしろ社会が発展していくうえで大事な力であると捉え、それを積極的に肯定しようという実利主義、功利主義を融合させた考え方」であった。これは、「個人を尊重」しながら一方で「欲望を抑える」という、いわば「新自由主義」とも言えた。そして、以後の湛山の歩む道は、この考え方に貫かれていく。

「個人を尊重」しながら一方で「欲望を抑える」生き方というのは、私も共感します。

 

獅子風蓮


石橋湛山の生涯(その19)

2024-06-20 01:56:22 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
■第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき

 


第3章 プラグマティズム

(つづきです)

王堂が「チカゴ大学」で学んだ哲学は、プラグマティズムであった。これは、イギリスの近代的経験論の伝統を継承し、進化論の影響も加えて19世紀末のアメリカという自由な世界で発達した哲学であった。「実用主義」、「功利主義」とも訳される。思想や知識を生活や実践と切り離しては考えない、という哲学である。
「何か、陽明学に似ているような」
誰かが机の後ろで呟いた。陽明学は儒学のひとつだが、「理一元論」を基礎としている。
「こうして私はチカゴ大学で5年間を学びました。このプラグマティズム哲学を知ったことは、学んだことは、私にとって最大の収穫でした。いや人生の収穫と言っても過言ではありません。私のアメリカ留学は8年間に及びました。当初、私が驚いたのは、一般のアメリカ人は日本をイギリスか中国の属領だと思い込んでいたことです。もっとも私のように無一文で渡米する人間を見たら、少なくともイギリスの属領と思われても仕方ありませんな……」
王堂の苦笑に、学生たちも和した。王堂の話には微笑ましい雰囲気がいつも漂っていたのである。そこまで語って王堂の回想は終わった。
それから後のことは、湛山たち学生にはこんなふうに伝えられた。
帰国した王堂先生は、ドイツ観念論哲学に支配された日本の哲学・学問界によって冷遇された。王堂に日本国内での学歴も実績もなかったことも災いした。王堂は、一時は英語しか教えることの出来ない教壇に立たされた。それが東京高等工業学校であった。そして、 藤井教授の代わりに非常勤講師として早稲田大学にやって来たのだった。
分かりにくかった王堂の授業が、次第に分かりやすいものになったのは、湛山が「プラグマティズム」の本質を理解した時からであった。本質を理解してみると、この哲学は湛山が幼い頃から「経験こそ一番大切ではないか」としてきた体験・経験主義という自分の体質に最も適している哲学のように思えた。
「これだ、これだ。すっきり胸落ちのする哲学だ。合理的で、本当はとても分かりやすい」
そう感じたのは湛山ばかりではなかった。授業に出席していた学生の半数以上が、湛山と同じ気持ちであった。
「そうだよ。ドイツの観念論哲学に疑問を持てば、王堂哲学がよく分かるんだ」
湛山は、もうひとつ首を傾げる同級生に、プラグマティズムを「王堂哲学」と呼んで説明した。
「いいかい? ドイツ観念論は、人間が持っている思想だとか知識を、そのものだけで考察する。つまり哲学を考えるだけのこととして、実践だとか技術の上に置く考え方なんだよ。でも、実はそれは変なことなんだ。哲学といえども人間の生活に即して考えたり、生活に密接なものとして実践していかなければ、それは虚学になる。そこへいくと王堂先生の哲学は、言い換えればプラグマティズムは、作用主義、実用主義。哲学というものの基準を人間の生活そのものに置く。もっと柔らかく言えば、実際の人間生活にどう役立てるか。それがなければ哲学は学問ではない。王堂先生の言わんとすることは、そういうことなんだよ」
湛山は、この「王堂哲学」こそ自分が大学で出会うべき哲学、求めていた哲学であると悟った。湛山にとって望月日謙、大島正健との出会いに続く第三の「人生の師」との邂逅であった。悟ってしまうと「王堂哲学」は、面白くて仕方ないものに変わった。
王堂の哲学とその人間性が、1年間でいかに学生たちの心を掴んでしまったかを示すエピソードがある。英会話の担当講師であった高杉滝蔵が、授業の最中に質問した。
「今の日本で一番の哲学者は一体誰だと思うかな?」
もちろん、英語での質問である。高杉は、学生たちが答えやすいように当時有名だった哲学者の名前を挙げた。
「元良勇次郎先生かね、桑木厳翼先生かね?」
するとその名前には、学生たちは一斉に「ノー」の返事で対応した。一斉に「ノー」であったことに、高杉は怪訝な表情をした。
「じゃあ、一体誰なんだ? 君たちが認める日本一の哲学者は?」
「アイ・シンク・プロフェッサー・キイチ・タナカ(私は田中喜一先生だと思います)」
指名された学生は中村星湖であった。星湖は立ち上がってはっきりと王堂の本名を口にした。湛山は、星湖を見て微笑んだ。
「キイチ・タナカ?」
高杉は再び怪訝な顔をして、首を傾げた。
「知らない名前だなあ」
日本語で言ってから、ほい、しまった、日本語を使ってしまった、という顔をして、別の学生に答えさせた。するとまた、「プロフェッサー・キイチ・タナカ・イズ・ベスト・フィロソフィスト・イン・ジャパン(田中喜一先生が日本一の哲学者です)」
次の学生も立ち上がって、
「アイ・シンク・ソウ(私もそう思います)」
高杉は、怪訝な表情のまま尋ねた。
「フウ・イズ・ヒー(そりゃあ、誰かね)?」
そこからが大変だった。王堂を説明するのに、学生たちはあれこれその特徴や、自分たちの西洋倫理学史の講師であることを、貧困なボキャブラリーの中から探し出して答えた。 高杉にもやっと「キイチ・タナカ」が誰か理解できた。
「オオ! ザッツ・プロフェッサー・レッド・オブ・ネックタイ(赤いネクタイの先生のことだね)」
その後、教室中が大爆笑になった。

(つづく)


解説

湛山は、この「王堂哲学」こそ自分が大学で出会うべき哲学、求めていた哲学であると悟った。湛山にとって望月日謙、大島正健との出会いに続く第三の「人生の師」との邂逅であった。悟ってしまうと「王堂哲学」は、面白くて仕方ないものに変わった。

湛山には、3人の得難い師匠がいたのですね。

 


獅子風蓮