syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

中学校の友人たち

2016-11-01 | 思い出
中学二年時、ある朝、私の机の周りで、がやがや騒がしい、私の隣のY君の「ハーモニカ」が無くなり、私の机の中をかき回していた。そのY君とは、小学校の時からの遊び友達であり、彼が私を疑うことに腹が立ち、大喧嘩になった。
他人の物を欲しがる事は死んだ母からうるさく注意されており、盗むなどできない性格である。それだけに無性に腹がたった。

最初は口喧嘩であったが、放課後に屋上でけりをつけようと申し込んできた。売られた喧嘩引くわけにいかず了承したが、彼の方が誰が見ても強そうで腕力もあった。気持では彼から「やめよう」と云う言葉を待ったがとうとうなかった。
貧乏で体力のない自分を皆が馬鹿にして面白がっていた、死んだ母を思いだし何としても悔しかった。
男性のクラスの半数が立ち会った。当然結果は、歯を一本折れる負傷で一方的に負けた。

悔しくて、悔しくて、家の庭に棒を立て荒縄を捲き、空手の練習に入った。いつか仕返しをと思い、続けたが仕返しは忘れていた。Y君の勘違いと謝ってきた、それからも遊び友達でいた。

クラスが違ったが仲良しの親友O君、N中学から難関校を受験した。
成績は常に中の上、なぜか学区外で小学校間借りのN中に入学してきたか理解できなかった。後で解ったがその難関校の中学を受験したが落ちたらしいのだ。
そのO君、遊び好きの我々と行動を共にし、放課後も遊びほうけていた。何回か泊ったこともあり、両親から可愛がられ、自分の部屋と天井裏の部屋も使い贅沢な家庭の子であった。
我々と違ったのは、宿題である、仲間は忘れることが多く廊下に立たされたが、O君は一度もなっかった。
こんなこともあった、遊んでいた時彼のポケットがら英語の単語カードが落ちた。彼慌てて隠した。

また、夜遅く彼の家の近くに用事で出かけたことがあり、夏の窓があいている彼の部屋を見ると、家庭教師と真剣に勉強していた。

当時家庭教師を頼んで勉強するのは珍しい時代である。昼間は、我々と遊びほうけている彼は、その後、猛勉強していたことに、子供心に感心させられた。
その現場を見て自分も、このままではいけないのだとO君から教わった。

ゲーテは、天才と云うものは努力する才能である、と云っている.

「1950年、昭和25年ー結核死亡が第一位」約300万人と云われていた。
結核はあらゆる臓器に感染して障害を与える全身の疾患です。代表的なものは肺結核です。それは、活動性肺結核の患者さんが咳せきをした際、しぶきとなって排出された結核菌が空気中に漂ただよい、その空気を身近な人が吸うことで感染。しぶきは、結核菌と水分の小さな塊ですが、水分が蒸発すると、結核菌の塊は重さが軽くなり、空気中に長い時間漂い、それだけ感染の機会が増える。
菌には乾燥に強く紫外線に弱いという特徴がありますが、結核の感染は空気感染がほとんどと云う。
欧米や以前の日本では不完全な滅菌操作を受けた牛乳から感染(この場合は腸結核などの消化管結核)した牛型うしがた結核感染の例も報告され、牛型結核に感染して発症した牛の母乳を飲んだために発病したもので、これを経口感染という。
他の感染症と結核とで違っている点は、感染してもすぐに全員が発病するのではないという。
感染した人のうち、発病するのは約10~20%です。発病時期は感染後1年以内が約半分、残りは一生の間にですが、発病しない人も80~90%。
これが、結核の不思議な点でもあり、また、なかなか根絶できない理由。



有名私立高校のO君
仲良しのO君、大学直通の有名高校に入学。
2年生までは一緒に遊び成績も中の上、学内外から通学で家までは知らなかったが、借りた本があったので初めて訪問。
彼のお母さんに居間に通され、食事まで用意され大歓迎された。
3年生から彼は、スポーツ・性格も積極的になったと母親から云われた。
彼、3年になるとめきめき実力を付け上位の成績に、我々から抜けていた。

永井荷風もSも晩年好きな街「江戸川・千葉県市川」
荷風は、戦火に追われ、晩年住んだ千葉県市川市・県境の江戸川が流れる街Sモスクである。
荷風は、昭和20年3月、東京大空襲で被災し、以降、知り合いのつてをたどって全国を転々として、最後に昭和21年、千葉県市川市でした。
荷風は市川の風景について、次のように語っている。
「戦災の後、東京からさして遠くもない市川の町の附近に、むかしの向嶋を思出させるやうな好風景の残つてゐたのを知つたのは、全く思ひ掛けない仕合せであつた。私は、近年市街と化した多摩川沿岸、また荒川沿岸の光景から推察して、江戸川東岸の郊外も、大方樹木は乱伐せられ、草はふみにじられ、田や畠も兵器の製造場になつたものとばかり思込んでゐたのであるが、来て見ると、まだそれ程には荒らされてゐない処が残つてゐた。心して尋ね歩めばむかしのまゝなる日本固有の風景に接して、伝統的なる感興を催すことが出来ないでもない・・・・。」「葛飾土産ー中央公論社」から。
Sは、江戸川をー哲学の川ーと。


ここまで書いてきましたが考えるところあり「思い出」は、中止します。











危ない遊び

2016-10-26 | 思い出
昭和25年7月、朝鮮戦争事実上停止された。
昨年の6月以来の戦乱15か月(死者100万人・避難民550万人)板門店で休戦協定調印。
昭和26年4月ーマッカーサー解任ー老兵は死なず、ただ消え去るのみ」さようなら。

「吉田茂(1878-^1967)」1946年総理大臣に就任し、第5次まで政権担当し、池田勇人・佐藤栄作等の若手を育成に努めている。
サンフランシスコ講和会議全権委員で講和条約・日米安全保障条約締結し経済復興を優先させた。葬儀は国葬。

「片山哲(1887-1978)」弁護士ー1947年衆参両院とも社会党第一党首班指名されたが、9か月で倒閣し退陣している。

「芦田均(1887-1959)」ジャパンタイムスの社長外交通・軍部を批判一時辞任している。敗戦後、鳩山一郎・安藤正純らと日本自由党結成
片山内閣外務大臣、国民協同党と共に中道内閣時代をつくったが、「昭和電工疑獄事件が明るみに出て総辞職、不運の総理。

「鳩山一郎(1883-1959)」1915年初当選、当選15回田中義一書記官長・犬養毅・斉藤実内閣で文部大臣を務めた。
敗戦後自由党結成、後病気でで倒れ、回復後日本民主党を結成、
1955年吉田内閣退陣後首相に就任、日ソ国交回復を実現し我が国国連加盟が実現した。


当時、我々だけで遊んだものに、釘取りがある。10寸釘を倒して取っていくもの、釘の頭にマークを付けて、出来る限り磨き込んで、倒れないように工夫をする。
中には叩いて平らにした釘もあった。
仲間に、その釘取りが特に、強いのがいた。彼の名は「ドスン」と云った。
彼の釘は、「ドスン」と重く土に深く入るので、あだ名が自然に「ドスン」と付いた。

その「ドスン」が、夜八百屋のリヤカーの果物を取りに来ないかと誘われた。
こわごわ、日の落ちるのを待った、そしてそのリヤカーのムシロを剥がすと、トマト、オレンジなどが入った、ザルが出てきた。各自入るだけポッケットに押し込み近くのお寺で食べてしまった。

一度味を占め、また、またと2~3回目、八百屋のご主人が気が付き見張っている所に行くと
急に玄関が開き棒を持って追いかけてきた。慌てて四方に散り逃げた。
翌日、学校で、「ドスン」が、お母さんが八百屋に謝りに行き、お金を払ったといった。
小学校の教室を借りていたN中学校、当時中学には給食が無く弁当持参、冬は、ストーブの周りに弁当箱を置いて温め4時間目あたりから弁当の匂いが
教室に広がる。我々の階の下は区立の小学校で給食で、その匂いも加わり、昼食が気になったのを。
体育の時間、月1回、小学校庭でバレーボ-ルの練習が出来た。狭い屋上が我々の運動場なので、思いっきり動ける地上の校庭が懐かしかった。
コッペパンにキャベツと揚げたてのコロッケととんかつソースのコロッケパンは、口にできなかった。
そのN中学校は、今無い。



サンフランシスコ講和・吉田首相演説

2016-10-25 | 思い出
平和条約妥結」-吉田茂全権演説から
第一、領土の処分の問題であります。奄美大島、琉球諸島、小笠原群島その他平和条約第3条によつて国際連合の信託統治制度の下におかるることあるべき北緯29度以南の諸島の主権が日本に残されるというアメリカ合衆国全権及び英国全権の前言を、私は国民の名において多大の喜をもつて諒承するのであります。私は世界、とくにアジアの平和と安定がすみやかに確立され、これらの諸島が1日も早く日本の行政の下に戻ることを期待するものであります。
千島列島及び南樺太の地域は日本が侵略によつて奪取したものだとのソ連全権の主張に対しては抗議いたします。
日本開国の当時、千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることについては、帝政ロシアも何ら異議を挿さまなかつたのであります。ただ得撫以北の北千島諸島と樺太南部は、当時日露両国人の混住の地でありました。1875年5月7日日露両国政府は、平和的な外交交渉を通じて樺太南部は露領とし、その代償として北千島諸島は日本領とすることに話合をつけたのであります。名は代償でありますが、事実は樺太南部を譲渡して交渉の妥結を計つたのであります。その後樺太南部は1905年9月5日ルーズヴェルトアメリカ合衆国大統領の仲介によつて結ばれたポーツマス平和条約で日本領となつたのであります。千島列島及び樺太南部は、日本降伏直後の1945年9月20日一方的にソ連領に収容されたのであります。
また、日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島も終戦当時たまたま日本兵営が存在したためにソ連軍に占領されたままであります。

その2は、経済に関する問題であります。日本はこの条約によって全領土の45パーセントをその資源とともに喪失するのであります。8,400万に及ぶ日本の人口は、残りの地域に閉じ込められしかも、その地域は、戦争のために荒廃し、主要都市は焼失しました。又、この平和条約は、莫大な在外資産を日本から取り去ります。条約第14条によれば戦争のために何の損害も受けなかつた国までが、日本人の個人財産を接収する権利を与えられます。斯くの如くにしてなお他の連合国に負担を生ぜしめないで特定の連合国に賠償を支払うことができるかどうか、甚だ懸念をもつものであります。

しかし、日本は既に条約を受諾した以上は、誠意を以て、これが義務を履行せんとする決意であります。私は、日本の困難な条件の下になお問題の円満な解決のためになさんとする努力に対して、関係諸国が理解と支持を与えられることを要請するものであります。

平和は繁栄を伴うものであります。
しかし、繁栄なくしては、平和はありえないのであります。根底から破壊された日本経済は、合衆国の甚大なる援助をえて救われ、回復の途に進むことができました。日本は、進んで国際通商上の慣行を遵奉しつつ世界経済の繁栄に寄与する覚悟であります。そのために既に国内法制を整備致しましたが、今後もその完成につとめ、且つ、各種関係国際条約にすみやかに加入して、国際貿易の健全なる発展に参与する覚悟であります。

この平和条約は、国際経済の面において、このような日本国民の念願を実現しうべき途を開いてはおります。しかし、この途は、連合国側で一方的に閉ざしうることにもなつています。これは、平和条約の本質上、やむを得ないことかも知れませんが、われわれ日本国民としては、すべての連合国が現実にこの途を最大限に開かれるよう希望してやまないのであります。

私の演説を用意してから、今朝インドネシア外相から私に3つの質問をされたことを承知しました。質問は、他の代表もていきされた疑問を解明しようとするものであります。答は「しかり」であります。けだし、それは条約第14条及び第9条の公正な解釈だと思うからであります。この答がこの条約の下における日本の善意に対する他の国の疑問を解決するにたることを希望します。

その3は、未引揚者の問題であります。この平和条約の締結は、34万に達する未引揚日本人の運命について、日本国民の憂慮を新にするものであります。
私は、すべての連合国が国際連合を介し、または他の方法によつて、これらなお抑留されている日本人のすみやかなる帰還を実現するために、あらゆる援助と協力を与えられるよう、人道のために切望してやまないのであります。引揚に関する規定が特に起草の最終段階において平和条約に挿入されたことは、日本国民の甚しく満足とするところであります。

上述のような憂慮すべき事由があるにもかかわらず、否、その故にこそ、日本は、いよいよもつて、この平和条約を締結することを希望しているのであります。日本国民は、日本が平等な主権国家として上述のような懸念を除去し、諸国の不満疑惑等を解消するために現在よりも大なる機会をもつことを期待するのであります。
ー吉田茂資料よりー


N君が、自転車屋に行こうと云いだした、なぜと聞くと割りばしで鉄砲をつくるという。
自転車の空気口の金具を貰いに行こうというのだ。
自転車屋へ行くと簡単に5~6個もらえた。私も彼の作るのを見よう見まねで作業した。
作り方は簡単で、割りばしをピストルの形に糸で組み固定させ、その上にゴムで金具を取り付け、ゴムでバネ仕掛けにしたもの。
すぐでき駄菓子屋で火薬(運動会で使うもの)を買って、空気銃の球を歯で噛み、火薬を詰め、板に打ち込んだ。
驚いた、板を貫通していた。
それが、だんだんエスカレートし、彼が、火薬をぎゅうぎゅう詰め込んだ。するとババンと大きな音と同時に彼の手から血が噴き出した。
数人の友達と彼を病院に連れていき、学校で大問題になった。当然この遊びは中止された。


「LPレコード発売」
シンホニー・ローヤル・アメリカン・ユニバーサル・グローブなどのレーベルによる片面盤(SPレコード)が。
大正に入り、片面盤レコードに代わり、両面盤レコードが一般化。
日本蓄音器商会・ビクターのレコードは「ニッポノホン」というレーベル名に統一され、価格は75銭に引き下げられたと云う。
女優・松井須磨子の「カチューシャの唄」が全国に流行しており、これが わが国の流行歌第1号・以後、SPレコードの時代が続くが、SPレコードは回転数が78回転で溝も太かったため、片面に約5分しか収録できなかった。
ビクターは、昭和26年、初のLPレコードを発売。第1号LPのコンテンツは「ブルノー・ワルター指揮=ベートーベン交響曲第9番」で、
価格は2300円の高値でも売れたと云う。ー資料よりー

ハーモニカ
2年生の初めころ、となりのY君のハーモニカが無くなったと大騒ぎに、その犯人にされたのだ。
Y君とは、仲良しであったが、大喧嘩に、彼から前歯1本折れてしまった。見覚えのない犯人にされ前歯まで折られ悔しくて悔しくてたまらない。
早速、仕返しのため、庭に棒を立て荒縄で空手の練習をした。
結果は、Y君の勘違いで謝ってきた。

新聞配達のアルバイト

2016-10-21 | 思い出

「布教伝道」-ラージギール。
釈迦は、35歳で「正覚」を得~80歳入滅・45年間インド各地を遍歴しながら布教に努めている。

全ての物が不足していた。鉄くずは続けていたが落ちてる量も、だんだん少なくなり、錆びた鉄くずは買わなくなってきた。
何かアルバイトは無いか探し始めた。
クラスのB君が新聞配達はどうか、良ければ自分も始めると云いだし、二人で近くの新聞専売店に飛び込んだ。(当時は、全紙扱う)
配達員は、30人いるという。店長は明日からどうかと、積極的であった。
早速、朝3時に出社し、引き継ぎを2日で覚えるように言われ、大福帳の得意先名簿を渡された。約100軒近くの地域あった。
毎日の早朝の3時は、きつかった。
作業は、3時にトラックが到着し、自分の部数を数え、作業する周りに、Y紙,H紙・・・最後にチラシを置き、大福帳の順番に組んで挟み込む。
現在のように新聞ごとの配達ではなく、スポーツ紙、全紙を家の順番に組むのだ、約一時間で済ませ、身長の半分位の高さを肩から紐でぶら下げて、
自分の担当地域まで歩くのである。眠いのと、重いのと、肩が痛いのと、走るので息切れと、暑いのと、(冬は寒いのと)など、
1年以上続け、友達は半年で辞めている。
配達先に肉屋があり、そこで貰う、前日の残ったコロッケがうまかった。
たまに間違いると、投函した新聞を抜いて歩いたこともある。当然、学校は、遅刻。廊下に立たされたこともあった。

姉は、よく私を連れてデートし、相手の男性は、邪魔だったろーなと思う。
従兄弟の友達にYさんと云う人がいた。家は網元の息子でいい男、時々姉を誘いデートしていた。
Yさんは、大学でラクビー愛好会のメンバーで、その時の写真を貰ったことがある。
はがき大で、大学のジャージで半ズボン、ベルトには、端切れの紐を捲き両手を腰に乗せ、男らしい、素晴らしい写真であった。
ある時、ケンブリッジ大との試合を秩父の宮ラクビー場に見に行った。
試合は、大人と子供の差で一方的にケンブリッチ。野球以外のスポーツ観戦は、初めてで、それからはラクビーが、大好きになった。
Yさん、観戦後、一緒に食事、(洋食)嬉しいお供だった。
Yさんの次が、Tさん。なぜか緊張して姉の後についていった。
銀座で映画を鑑賞し、ラーメンを御馳走になった。
子供心に姉はこの人と結婚するのかなーと感がしていた。姉は、Tさんと結婚、義兄となった。

「幸田露伴」 1867-1947 第一回文化勲章受賞小説家・下谷生まれ
明治維新で家が没落し中学半ばでやめ、電信技師となり北海道へ。1889年「風流仏」で文壇へ、「五重塔」男性的理想主義の特異な作風で次々と
「頼朝」「運命」「芭蕉七部集」・・・。尾崎紅葉と文壇を二分した。

代表作「五重塔」は、現在無いが、谷中墓地の天王寺桜通りにそびえていた。(露伴の旧宅が天王寺と日暮里駅の間にある)

十兵衛と源太という二人の大工を中心とする人間ドラマ.
二人の妻からの視点で描かれて、文語体で書かれているので一見読みにくい。
会話は、ユーモアたっぷりに書かれていている。
十兵衛が主役で源太が脇役と書かれているが、源太の出番は極めて多く単なる脇役とはいえない重要な人物。
十兵衛は、源太からのさまざまな提案をことごとく断ってしまうのだが、実際には資材の調達や職人の手配といった源太の人脈と経験がなければ
十兵衛の偉業は果たされない。

S達は夏になると、近所の子供同士で、度胸ためしで、約800m近い墓地を二人組で「度胸棒」を置いてくる遊びがあった。
その五重塔が昭和32年心中放火焼身自殺で焼失を知り、残念でならない。






















昭和26年・中学生になる(Sは、14歳に)

2016-10-19 | 思い出


給食は、小学校まで、又弁当持参に。義母は、お金を渡してくれたが僅か、買えたのが「バタピーコッペパン」であった。
(キャベツとコロッケを挟むパンが食いたかった)


仏陀伽耶ーブッダガヤー成道
釈迦が悟りを開いた地ーブッダガヤ大塔に金剛宝座の仏陀像・菩提樹がそびえる。
「私は善なるものを求め、無上の絶妙なる静寂の境地をもとめて、「セーナ村に入った。
ここは愛する地域である。麗しい森林があり、清浄な川があり、豊かな村落があった。
私は、ここに座を占めた。
修行に適した場所だったからである」(中阿含経)

1952~1954 (昭和27~29年)頃は、こんな歌が流行

、「今日も暮れゆく異国の丘に 友よ辛かろ切なかろ 我慢だ待ってろ 嵐がすぎりゃ 帰る日も来る春が来る・・・・・」

ヘルシンキ五輪で期待の古橋選手完敗。白井義男世界フライ級でチャンピオンに。

池田大臣が中小企業の自殺者やむ得ない、貧乏人は、麦を食え、発言。

アインシュタイン日本国民へ釈明(原爆投下)。

28年に吉田茂の「馬鹿やろう解散」。など、全国ストライキで政治不安定時代であった。
「君の名は」佐田啓二と岸恵子の映画が上映し大ヒット。

人生の中で、中学の3年間は、真剣に勉強しなければならない大事な時期と思うが、あそびの範囲も広がり、浅草、上野と繁華街に出て遊びほけていた。

兄も受験勉強とアルバイトで、家にいることが少なく、、私が育ったN町は、正岡子規庵があり、又初代林家三平、漫才師等が住んでいた。
肉屋、八百屋、魚や、パン屋、せんべ屋、風呂屋、駄菓子屋と揃い、近所の友達も商人の子が多く、
可なり自由で遊び好きが多かった。
隣町が荒川、日暮里、そこからリヤカを曳いて鉄くずをかいに来るおじさんが居た。
鉄、銅、古紙、布、鉛、等を集めては、そのおじさんを待って、現金して映画館へ。

ブリキ、墓地の壊れた垣根古鉄、電線工事の銅線の端、家の古紙、布などを探し、売っては映画館へ。
片岡千恵蔵、市川歌右衛門、坂東妻三郎、の時代劇が多かった。好きな女優に高峰秀子、高峰三枝子、笠置静子等、当時は3本立で、映画館を出ずに
同じ映画を2度見たことも。

手続きが遅く、ぎりぎりで区立のN中学校に入学できた。そこは、区立のS小学校間借りし、運動場は狭い屋上。
クラスは学年2クラスあった。
中学校生活は(昭和26年)ランドセルから高下駄(旧制高等学校のバンカラ学生が履いた朴歯下駄)と肩から下げた肩掛けカバンと先輩の汚れて磨かれた古い学帽で、多少大人に近づいている気分であった。
高下駄のカラン・カランと音が嬉しかった。
初めてのクラスで、Sと同席したのが、髪の毛をポニーテールにした、かわいい女の子が座った。
その子は、病院の一人娘で裕福な家庭の子であった(弁当の生身を見てわかる)
運動も活発で少々おてんば娘、勉強道具の貸し借りも出来て、ウキウキして学校に。
彼女も私との同席に抵抗がなっかったようだ、彼女のお父さんは、又、校医で、健康診断に年一回学校に来ていた。
ある日、教室の掃除当番の時である、話ばかりしている彼女に注意した。
すると急に泣き出してしまい、ヒステリック気味な女性で、担任に,苛められたと云いい、一方的に職員室によばれ立たされた事が。
それからと云うもの何一つ、貸してもらえず、口も聞いてくれず、残念ながら席替えさせられた。
それでも嫌いになれずに気が合った。
Sの60才の時、クラス会で、彼女といろいろ話が出来た。
Sは、綺麗な彼女を見て、胸が熱くなていた。
それ以降、彼女は、会っていない。
良く聞くと、音大を卒業して、小学校の先生をし、定年、夫は死別し子供は大学生男の子とか、その息子で悩んでいたようであった。

「戦後大人気のラジオドラマ・君の名は」(菊田一夫代表作)
真知子と春樹との恋愛ストーリ。
戦後、はじめて人気番組となった「番組が始まる時間になると、銭湯の女湯から人が消える」といわれるほど。
ラジオドラマの人気を受けて松竹で映画化されると、それも、大ヒットを記録、氏家真知子のストールの巻き方が「真知子巻き」と呼ばれて女性の間で流行し、主演の岸惠子が北海道での撮影の合間に、現地のあまりの寒さに神奈川県横浜市中区の馬車道界隈の店で購入して持参していた私物のストールを肩からぐるりと一周させて耳や頭をくるんでいたことによるとされる。
「真知子巻き」が誕生した。真知子と春樹が出会い、再会した数寄屋橋のシーンで・・・・。
会えそうで会えないという事態が何度も繰り返され、恋愛ものの典型にして古典となっていると云う。
Sの中学校3年間は、担任に本気で殴られていた。

池田勇人 1899-1965 広島、政治家、大蔵省主税局長、吉田学校の優等生と云われた。岸信介首相の後、
総理に「所得倍増計画」実行経済大国日本の基盤を作った。

「池田勇人の貧乏人は麦を食え」発言。
吉田内閣で、大蔵・通産大臣時代の1950年の昭和25年。
「中小企業の一部倒産もやむを得ない」・さらに12月、「貧乏人は麦を食え」と発言していずれも問題となる。
占領軍の権威を傘に着る吉田の、池田はその代弁者ということで攻撃を浴び、1年生で蔵相に起用されたことで、与党内はもちろん、野党議員まで反発し、国会でいろいろと意地悪されたと云う。
池田自身も吉田に目を懸けられ得意気になっており、衆院本会議で質問に答弁しようとする閣僚を制して
「これらが、いずれも予算に関係がありますから、私から代わってお答えします」と勝手に答弁をするなど、一人で内閣を背負っているような気持になっていたとも云う。