syuの日記・気まま旅

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気ままに記録しています。

観音崎灯台 走水神社

2012-12-31 | 気まま旅
観音埼灯台をとり囲むように、観音崎の台地に砲台の跡が残っている。(観音崎台場跡(砲台跡))。
海防のため、1812年 川越藩主松平肥後守によって造られ、1821年以後は、浦賀奉行所によって管理され、その後、1861年から江川太郎左衛門が引継ぎ、
明治以後は、海軍省から陸軍省へと引継がれ、 昭和20年8月15日の終戦まで管理された。
観音崎一帯は明治14年に要塞となり、一般の人の立入りは禁止になり、 第一、第二、第三、第四、南門、大浦、三軒家各砲台などや、火薬庫の跡など、
今でも石組やレンガ造りの砲台が点在している。



観音崎自然博物館の手前の展望園地、ここは南門第三砲台の跡。本物かどうかわからないが、円形のコンクリートと中心部に砲を取り付けたネジがあった。
観音崎の方向を眺めると海に、陸から数m離れて、円筒状のコンクリート物体が見え、昔、東京湾に入ってくる潜水艦を監視するために、水中聴音所があったという。
これ以外にも走水から富津岬方向に防潜網という海中の網を張ってあったらしい。観音崎自然博物館の辺りが、要塞の南門になる。



猿島航路や軍港めぐりなどを運行する(株)トライアングルでは,期間限定で観音崎航路の運航を行っている。
観音崎航路は2007年に国から横須賀市に譲与された「猿島エコミュージアム」と2007年に開館した「横須賀美術館」,2つのミュージアムを結ぶ航路がある。
船内で、東京湾や観音崎にちなんだ伝説や歴史などの話が聞け、また,通常陸地からはすぐ近くまで行かないと見ることができない「観音埼灯台」を、
船上から眺めることができる。



「県立観音崎公園」は、東京湾に突き出た観音崎のほぼ全域に広がっている。
海上を行き交う船舶を眺めたり、シイやタブを中心とした照葉樹林のなかを散策など。
また周辺には、日本最初の洋式灯台「観音埼灯台」や、東京湾を中心とする森・川・海の自然と人との関わり等を考察し展示した「観音崎自然博物館」。
横須賀市の海を描いた作品、横須賀・三浦半島ゆかりの作家の作品を展示する 「横須賀美術館」 などがあり、環境、歴史、文化に触れられる。




観音埼灯台は、神奈川県横須賀市、三浦半島東端の観音崎に立つ。白色八角形の中型灯台で、日本の灯台50選に選ばれている。

東京湾、浦賀水道を照らし、東京湾海上交通センターとあわせ海上交通が輻輳する浦賀水道航路の安全に寄与している。
建設当初はレンガ造りの四角い洋館建てで、設計はレオンス・ヴェルニー等フランス人技師が担当した。
屋上に灯塔を設けたフランス風白色八角形のレンガ造灯台で、地上から灯火までの高さは 12.12 m 。フランス製の第3等フレネル式レンズ、3重心灯器を使用し
実効光度 1,750 cd 、光達距離は14海里(約 26 km)だった。
また日本初の洋式灯台であり、この灯台の着工日を記念して11月1日が灯台記念日に指定された。 
大正時代の地震により2度再建され、現在の灯台は3代目にあたる。周辺は県立観音崎公園となっており、自然環境が保護されている。



初代 1869年(明治2年)2月11日(旧暦1月1日):完成・初点灯。
2代 1923年(大正12年)3月15日再建。地震で被災した初代に代わりコンクリート造で再建されたが、関東大震災によりわずか半年足らずで崩壊した。
3代 1925年(大正14年)6月1日再建。関東地震の後にコンクリート造で再建され、現在まで使用されている。
1998年(平成10年)11月1日日本の灯台50選に指定。

「走水神社」


神奈川県横須賀市走水にある神社。三浦半島の東端近く、東京湾にほど近い場所に位置する、景勝地。

この神社の創建年代等については火災などにより不詳であるが、景行天皇80年(110年)、日本武尊が東征の途上、当地から浦賀水道を渡る際、
自分の冠を村人に与え、村人がこの冠を石櫃へ納め土中に埋めて社を建てたのが始まりと伝えられている古社である。








東征中の日本武尊は、古代東海道をたどって、走水から船で上総へ渡ろうとしたが、暴風雨に阻まれ、立ち往生。
同行していた弟橘媛がみずから入水して海神の怒りを鎮め、後悔の安全を図ったという伝説、創建された古社である。
日本武尊は、航海に先立ち当地を「水走る」と称えられたことから走水の地名が起こったという。

武尊は、わが身を犠牲にして海を鎮めてくれた弟橘媛を偲び、御所ヶ崎に祭る一方、村人の敬慕に謝し冠を下賜されたといわれる。
村人はこの冠を石棺に納め、その上に社殿を建立して尊を祭ったのがはじまりと伝わる。

明治43年、近くの御所ヶ崎に祭られていた弟橘媛は走水神社に合祀され、境内に弟橘媛の顕彰と航海安全の祈願を込めて奉納された舵の碑がある。




横須賀 どぶ板通り

2012-12-29 | 気まま旅

「横須賀」は、三浦半島中央部、中世以来横須賀で、須賀・砂地の浜の横を意味している。北東部と浦賀半島の沿岸にリアス式海岸が発達し内陸部丘陵性台地や
谷やトンネルが多い。縄文遺跡が散在する町で、中世初期から三浦党の拠点。平作川に沿って古東海道が通り、三浦、房総への交通要地であった。

江戸時代は、幕府直轄地で浦賀に番所が置かれた。1809年 観音崎、平根山麓の鶴崎に台場を置き、江戸湾海防の役割を果たしていたs。
幕末のぺりーアメリカ東葉艦隊「黒船」が浦賀に来航し、久里浜で開国を迫った所でもある。

どぶ板通り


「どぶ板通り商店街」は、明治時代から第二次世界大戦終了時までは大日本帝国海軍横須賀鎮守府の門前町として栄え、戦後は進駐軍・在日アメリカ軍横須賀海軍施設の
兵隊向けに土産物店、肖像画店、バーや飲食店、テーラーショップなどが栄えた。

ベトナム戦争の頃と比較すると米兵向けのバーや飲食店は数を減らし、2000年代には日本人若者向けのアパレルショップ・美容院・アクセサリショップなども栄え、
横須賀ならではのスカジャン専門店やミリタリーショップなども観光客に人気がある。

アメリカと日本の文化が融合した独特の雰囲気を持つ商店街で、横須賀に縁がある有名人の手形が通りの路面に埋め込まれたり、週末にはフリーマーケットや
ストリートライブ、パフォーマンスが開催され、年4回開催される「どぶ板バザール」は多くの人で賑わうイベントとなる。

どぶ板通りにある建物に,「本町」とローマ字表示されていることから、米兵の間ではどぶ板通り一帯のことを「ホンチ」「ハンチ」などと呼んでいる。



かつて通りの脇を流れていたドブにたくさんのドブ板が架けてあったことからこの名が付けられたという。
基地の米兵相手ににぎわいを見せていたが、今日では、日本人向けに米軍の放出品を中心にTシャツやジーパン、ワッペン、グッズなどを扱うショップが並び、
発祥の地の「スカジャン」も健在。



横須賀のどぶ板通りといえばスカジャン。スカジャンといえばどぶ板通り。何軒かのスカジャン専門店がある。戦後間もなくから店を構えていると云う。
ジャンパーの背中に派手な刺しゅう。進駐軍が日本駐留のお土産などに買っていった洋服。刺繍店もある。

             今日は年末大売出しのちんどん屋さん
             


諏訪大神社
かつての三浦四十八郷の総鎮守として、その由緒とたたずまいを今日に伝える諏訪大神社の創建は足利義満の頃の康暦2年(1380)で、
三浦氏の三浦貞宗が古谷山横須賀城(長峰城)の城口に当るこの地に、信州の諏訪大社より上下の両諏訪明神を勧請したことに始まる。

江戸時代の初期に、三浦一円の農政を管掌した代官、長谷川三郎兵衛により、農漁業の守護神を祀る神社にふさわしく大改修された。
現在の社殿は、明治24年(1891)に建て替えたもので、第二次世界大戦で社殿も傷み、昭和55年(1980)の創立600年に併せて改修し今日に至る。

諏訪大神社 





「龍谷山良長院 」
元は米軍基地内の泊浦にあり、本尊は釈迦三尊像、開山堂にあります。横須賀市内唯一の鉄製の鉄仏です。
瀬尾重兵衛良長が創建したことにより、その名前から良長院となりました。
瀬尾重兵衛良長は、泊町の長峯城城主。どの戦で亡くなったのかわかっていませんが、没年は1253年と記されている。





本堂の脇に小さくたっているのが、出世閻魔堂。中には閻魔様が鎮座ましましている。脇には石塔が所狭しと並べられている。
その後、寺は次第に荒れ果てていき、徳川家康の信認の厚かった長谷川七左衛門長綱が三浦郡の総代官となり、前任地だった駿河の之原臨乎僧正を開山として、現在地に良長院を再建した。

  




横須賀港  みかさ

2012-12-27 | 気まま旅
所用あり三浦半島を一回りした。5回に分けて取り上げます。まずは横須賀港から・・。

「東郷平八郎」 1847-1934 ロシアバルチック艦隊を全滅させた海軍軍人元帥、薩摩藩、戊辰戦争で軍艦春日に乗り組んで参加している。
イギリス留学、海軍中尉に、日清戦争浪速館長に、1903年世界最強ロシア海軍バルチック艦隊を対馬で捕え、T字戦法で殲滅し世界を驚かした


「下瀬火薬」は、大日本帝国海軍技師「下瀬雅允」が実用化したピクリン酸を 成分とする爆薬(炸薬)である。
日露戦争当時の日本海軍によって採用され、日露戦争 における大戦果の一因とされた。
大日本帝国陸軍では黄色薬と呼ばれていた。

「戦艦三笠」は、1898年 ヴィッカース社(イギリス)、起工1899年 バロー・イン・ファーネス造船所、進水1900年、日本連合艦隊旗艦、
最後の軍役 1921年、排水量 15,140トン、全長 131.7m、全幅 23.2m、吃水 8.3m、機関 15,000馬力、最大速度 18ノット、
航続距離 10ノットで7,000海里(約13,000km)、乗員 860名、装甲 KC(クルップ)鋼、 舷側:9インチ(229mm)、 甲板:3インチ(76mm)
兵装ー主砲 40口径30.5センチ連装砲2基4門、 副砲 40口径15.2センチ単装砲14門、 対水雷艇砲 40口径7.6センチ単装砲20門 47ミリ単装砲16基、 魚雷発射管 45センチ発射管4門。

敵砲に受けた跡も生々しく残っている。模型で「T字戦法」が解りやすく説明されている。入艦料有料。


横須賀港


自衛艦



「海軍の碑」は、帝国海軍の横須賀における70有余年にわたるその栄光の歴史を何らかの形で残したいということから横須賀軍港逸見上陸場の跡地
(現ヴェルニー公園)に全国の海軍関係者および有志からの浄財を以って建立されたもので、帝国海軍終焉50周年に当たる平成7年11月に竣工、除幕式が行われた。
以後平成13年までは横須賀海友会主催で記念祭執行、平成14年以降は横須賀水交会が海軍記念日に記念行事を主催実施している。



予科練への入隊年齢は15・16歳だった。横須賀での少年航空兵の養成は、昭和14年に霞ヶ浦航空隊に予科練が移るまでの9年間。
連日の猛訓練の末、飛行兵として各航空基地や前線に送られていき、戦況が不利になると、爆弾を積んだ飛行機もろとも敵艦船に体当たりする「神風特攻隊」
改造した魚雷を操縦して突っ込む人間魚雷「回天」、舳先に爆薬を装填したベニヤ板製の爆装モーターボート「震洋」など、生きては帰れない「必死」の自爆戦術が採用されていく。
終戦までの予科練生の戦死者は1万9098人を数える。



子規の碑







三笠公園内 「みかさ」と「猿島」が、、、。

 


三笠公園 噴水広場



浅草 羽子板市

2012-12-25 | syu散歩
 
「浅草寺・羽子板市」へ。 12月17日~19日

羽根つきは、古く室町時代から行われた遊びで、500年ほど前の永享年間には、初春を寿ぐ遊びとして、宮中で男組女組に分かれて競技をしている記録が残されている。
その頃にも羽子板には松竹梅や花鳥の図を描いたものが多く、江戸時代に入ると押絵細工を応用する様になり、浮世絵画家も応援して、図柄の構成や色彩も華麗になっていく、更に江戸末期、当時流行の歌舞伎役者の舞台姿の似顔絵を貼り付ける様になってからは、江戸の女性の爆発的な人気を集め、
殊にその年の当り狂言の人気役者の羽子板がずらりと並んだ。「浅草観音の羽子板市」には、江戸中の女性が胸をときめかせて出かけたと云われている。
又、羽根は生まれた児が邪気をはねのけ、すこやかに育つ事に通じると云われ、昔から女児の出産には必ず羽子板を贈る習わしがあった。


大型羽子板  年の人気スター似顔羽子板も


毎月18日は観音さまの「ご縁日」で、年末12月の「納めの観音」は一年の締めくくりとして、より多くの参拝者が訪れる。
江戸時代、毎年12月17・18日に正月用品や縁起物を売る店が境内に集まり「歳の市」と呼ばれ、それらを毎年この市で求めることを吉例とした人々で賑わう
江戸随一の市としてその名が知れ渡っていた。

「歳の市」は、「羽子板市」としてその形をとどめ、羽子板でつく「おい羽根」が害虫を食べる「トンボ」に似ているため、悪い虫がつかないとか、
またそのかたい「豆」の部分から「魔滅」にあてられ魔除けになる、あるいは「マメに暮らせる」などの縁起を担ぎ、江戸後期のころから女子の誕生した家に
羽子板を贈る風習ができた。羽子板を正月の縁起物として「歳の市」で扱う店が増え、「納めの観音ご縁日」の前後も含め、12月17~19日に「羽子板市」として
現在でも境内に数十軒の羽子板の露店が軒を連ね賑わいを見せている。

市のポスター                              三社神輿模型
  

JR上野駅、東北、信越、上越、常磐、高崎、新幹線、地下鉄と東北の玄関「上野駅」マンモス駅である。
上野駅は、明治16年に開業され、山手線(品川ー赤羽)が開通される2年前である。JRの中央であったが現在は、池袋、新宿、渋谷に次ぎ7~8位であるが、
年末やお盆の帰郷客で混雑する。
子供の頃のイメージは、人さらい、浮浪児、乞食、引揚者の屯する駅、闇市、集団就職駅、スキー客、テント村、夜行列車と暗いイメージになる。
上野駅周辺は戦災で一面の焼け野が原と化し、当時は、かろうじて雨露を凌げる場所は上野駅しかなく、大勢の被災者浮浪者がここに殺到し住み着き、
無法地帯の場として続いいたところである。不忍口、と地下鉄・銀座線駅を結ぶ地下道は、赤ちゃんから高齢者、引揚者など、そういった家なき人々で埋まったのである。


明るくなった上野駅改札広場
    

農家の次男以降の子等が、中学校や高校を卒業した直後に、都市の工場や商店などに就職するために、臨時列車に乗って旅立つ集団就職列車が上野駅に、
集団就職列車は1954年、昭和29年、青森発上野行き臨時夜行列車から運行開始され、1975年、昭和50年に運行終了されるまでの21年間に渡って就職者を送り続けた。
就職先は東京が最も多く、中でも上野駅のホームに降りる場合が多かったため、当時よく歌われた井沢八郎の『あゝ上野駅』という歌がその情景を表しているとして
有名で、駅構内に碑が立っている。

昭和通り上野駅正面玄関           昔はここにテントを張った、テント村
  

浅草通りの「下谷神社」は、祭 神、大年神、 配 祀、日本武尊。稲荷町の郷社、 旧 称、下谷稲荷神社。
千年以上の歴史をもつ下谷神社大祭は、知られ、千貫神輿と称する本社神輿の渡御が行われる。社殿の天井画は横山大観の作。
また、1798年に初代・三笑亭可楽によって当社境内で初めて寄席が開かれた。本神社には「寄席発祥の地」の石碑がある。

ここで朝の参拝を。


大鳥居                             本殿
    

上野駅から下谷神社を参拝し浅草雷門に向かう。
浅草通りは、中央通りと昭和通りと交わる上野駅交差点から、明治通りと交差する江東区福神橋交差点にわたる道路の通称をいう。
都道463号上野月島線と都道453号本郷亀戸線の一部に属する。昭和通りから江戸通りの間は浅草通りの下を東京地下鉄銀座線が地下の最も浅いところを走っている。
銀座線上野ー稲荷町ー田原町ー浅草となる。日本で最初の地下鉄は、この通りの下を通って完成されたものである。

浅草通り                        東京スカイスリー              駒形橋
    

浅草といえば、雷門。門前の広い通りと観音堂を結ぶ仲見世の入口にでんと立つ、戦災で破壊され戦後しばらくは影も形もなかったものを昭和37年に復興され、
外見からは木造のように見えるが、コンクリートづくりである。
雷門をくぐると仲見世通りに、宝蔵門までわずか200メートルの距離、小さな店が90店も並ぶ。歴史のある古い店ばかりで、下町らしい風情で人気ある門前町。

雷門             仲見世通り                 浅草寺五重塔
    


「東都金龍山浅草寺」は、「浅草寺縁起」等にみえる伝承によると、浅草寺の草創の由来は、推古天皇628年に、宮戸川(現・隅田川)で漁をしていた
檜前浜成・竹成兄弟の網にかかった仏像があった。これが浅草寺本尊の聖観音像であるという。1
寸8分(約5.5cm)の金色の像であると言われるが公開されることのない秘仏のため、その実体は不明。
645年、勝海上人という僧が寺を整備し観音の夢告により本尊を秘仏と定めたという。
 
鎌倉時代の『吾妻鏡』で、1181年、鎌倉の鶴岡八幡宮造営に際し、浅草から宮大工を呼び寄せている。
1192年、鎌倉の勝長寿院で後白河法皇の四十九日法要が営まれた際、浅草寺の僧が参加もしている。
 
1590年、江戸に入府した徳川家康は浅草寺を祈願所と定め、寺領五百石を与えた。
1685年には、表参道に「仲見世」の前身である商店が設けられ、これは、寺が近隣住民に境内の清掃を役務として課す見返りに開業を許可したものであるという。

宝蔵門                                  本殿
  

新年に、「谷中七福神」を取り上げの予定にしております。
谷中七福神は、 寛永寺(不忍池弁天堂) - 弁才天、 護国院 - 大黒天、 天王寺 - 毘沙門天、 長安寺 - 寿老人、 修性院 - 布袋
        青雲寺 - 恵比須、 東覚寺 - 福禄寿

境内に20~30店舗が、                        七福神       
  

次回は、横須賀へ。