世界遺産となった「知床」に旅をすることになった。
千歳空港からバスの旅、道東めぐり、約10回にわたり記録します。まずはスタート。
出発を待つ羽田空港、JAL便
新装なった羽田空港、待合室には旬の食べ物や雑貨が不自由なく揃っている。
千歳空港
「北海道の開拓時代」
明治維新後、旧幕府側に参じた藩の武士たちは、禄をうばわれ窮乏し、生き延びるためには、自ら鍬をもたなければならない。再起を図るために、
新天地である北海道へ移住してきた。伊達藩は現在の伊達市や当別町など、白石藩は現在の札幌市白石区や手稲区、石川藩は室蘭、佐賀藩は釧路などに入植している。
また、没落士族の救済と開拓、さらに北方防備のために「屯田兵」の制度が設けられ、兵士でありながら、日常的には未墾地の開拓にあたるというもので、
1875(明治8)年の琴似屯田を皮切りに、道内37ヵ所に屯田兵とその家族が入植している。
明治20年代になると、会社・結社による移住が増えてきます。帯広の晩成社、札幌・月寒の報国社、浦河の赤心社、岩内の起業社など。
その後は、個人による移住が増え、東北・北陸・四国の各地方から、年間数万人もの移住者が渡航してくるようになった。
屯田兵は、支度料、旅費を支給されたうえに、すでに道路と兵屋が完成し、家具や農具も揃えられていたので、一般の開拓者に比べれば、ずっと有利な条件の移住。
しかし、兵士である以上、厳しい軍律に縛られた生活であったことも事実。日常的には家族とともに開墾作業に取り組むが、いったん事が起これば農事を捨てて
馳せ参じなければならなかった。屯田兵の兵屋は各地に残されているが、ユニークなのは篠津兵村のロシア式耐寒住宅。堅牢な木の角組兵屋で、ペチカもついていた。
帯広の本格的な開拓は、1883(明治16)年5月に依田勉三の率いる「晩成社」一行27人が、下帯広村に入植したことから始まる。
米、麦、粟、豆といった穀類に加え、野菜類を栽培したが、度重なる冷害やバッタ、ノネズミの襲来などにより、その開墾生活は苦難に満ちたもの。
後に晩成社は、牧畜やバター生産まで事業を拡げているが、そのほとんどは失敗に終わっている。
しかし、その試みが無駄ではなく、彼らの失敗の上に、その後の十勝の数多くの産業が育っていったから。
大樹町に依田勉三の住居が復元されているが、そこから彼らの質素な生活ぶりがうかがえる。
最初の休憩地 砂川ハイウエイオアシス
蝦夷地北海道は、1800年に「伊能忠敬」が蝦夷地を測量、1809年に「間宮林蔵」樺太、間宮海峡を発見、1855年箱館開口日露和親条約を結んでいる、1869年蝦夷地を「北海道」と改称された、、、、、、。
伊能忠敬 1745-1818 日本地図を作製した測量家、56歳で蝦夷地測量(一歩65cmの歩測)
間宮林蔵 1775ー1844 探検家で幕府の隠密 筑波郡生まれ、数学才能で幕りに、伊能忠敬に測量を学び、樺太[サハリン)から中国大陸で
樺太は島であると証明し樺太、中国大陸の間の海峡を「間宮海峡」と命名された。
次回は、「富田フアーム」へ。
千歳空港からバスの旅、道東めぐり、約10回にわたり記録します。まずはスタート。
出発を待つ羽田空港、JAL便
新装なった羽田空港、待合室には旬の食べ物や雑貨が不自由なく揃っている。
千歳空港
「北海道の開拓時代」
明治維新後、旧幕府側に参じた藩の武士たちは、禄をうばわれ窮乏し、生き延びるためには、自ら鍬をもたなければならない。再起を図るために、
新天地である北海道へ移住してきた。伊達藩は現在の伊達市や当別町など、白石藩は現在の札幌市白石区や手稲区、石川藩は室蘭、佐賀藩は釧路などに入植している。
また、没落士族の救済と開拓、さらに北方防備のために「屯田兵」の制度が設けられ、兵士でありながら、日常的には未墾地の開拓にあたるというもので、
1875(明治8)年の琴似屯田を皮切りに、道内37ヵ所に屯田兵とその家族が入植している。
明治20年代になると、会社・結社による移住が増えてきます。帯広の晩成社、札幌・月寒の報国社、浦河の赤心社、岩内の起業社など。
その後は、個人による移住が増え、東北・北陸・四国の各地方から、年間数万人もの移住者が渡航してくるようになった。
屯田兵は、支度料、旅費を支給されたうえに、すでに道路と兵屋が完成し、家具や農具も揃えられていたので、一般の開拓者に比べれば、ずっと有利な条件の移住。
しかし、兵士である以上、厳しい軍律に縛られた生活であったことも事実。日常的には家族とともに開墾作業に取り組むが、いったん事が起これば農事を捨てて
馳せ参じなければならなかった。屯田兵の兵屋は各地に残されているが、ユニークなのは篠津兵村のロシア式耐寒住宅。堅牢な木の角組兵屋で、ペチカもついていた。
帯広の本格的な開拓は、1883(明治16)年5月に依田勉三の率いる「晩成社」一行27人が、下帯広村に入植したことから始まる。
米、麦、粟、豆といった穀類に加え、野菜類を栽培したが、度重なる冷害やバッタ、ノネズミの襲来などにより、その開墾生活は苦難に満ちたもの。
後に晩成社は、牧畜やバター生産まで事業を拡げているが、そのほとんどは失敗に終わっている。
しかし、その試みが無駄ではなく、彼らの失敗の上に、その後の十勝の数多くの産業が育っていったから。
大樹町に依田勉三の住居が復元されているが、そこから彼らの質素な生活ぶりがうかがえる。
最初の休憩地 砂川ハイウエイオアシス
蝦夷地北海道は、1800年に「伊能忠敬」が蝦夷地を測量、1809年に「間宮林蔵」樺太、間宮海峡を発見、1855年箱館開口日露和親条約を結んでいる、1869年蝦夷地を「北海道」と改称された、、、、、、。
伊能忠敬 1745-1818 日本地図を作製した測量家、56歳で蝦夷地測量(一歩65cmの歩測)
間宮林蔵 1775ー1844 探検家で幕府の隠密 筑波郡生まれ、数学才能で幕りに、伊能忠敬に測量を学び、樺太[サハリン)から中国大陸で
樺太は島であると証明し樺太、中国大陸の間の海峡を「間宮海峡」と命名された。
次回は、「富田フアーム」へ。