syuの日記・気まま旅

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南紀白浜

2013-03-31 | 気まま旅
日本三古湯のひとつである白浜温泉の玄関口「白浜駅」・JR西日本
特急「くろしお」が停車し、一部 新大阪・京都方面へ折り返す。紀勢本線 キロ程 275.4km(亀山起点)、 新宮から95.2km、乗車人員約850人/日(降車客含まず)、開業 1933年(昭和8年)、「きのくに線」和歌山・天王寺・新大阪・京都方面 と串本・紀伊勝浦・新宮方面。

白浜駅



「白浜町」は、和歌山県南西部に位置、太平洋に面に、富田川下流と田辺湾の南を囲む半島部になる。白良浜が白浜に、海岸は、リアス式
海岸で、三段壁、千畳敷、円月島、白良浜と景勝地、温泉の街でもある。
温泉は、湯崎温泉、牟婁の湯、紀の湯で飛鳥時代から知られていた。万葉集、日本書紀などに出てきている。南端の椿温泉開発が全国的に広がった。平安時代の歌謡に「紀国の 白良の浜に真白の浜、、、、。」白浜のシンボルになっている。

夕日が沈む16時頃の白浜
    

「南紀白浜空港」は、1968年開港。滑走路長は1,200mでプロペラ機のみの就航であったが。
日本国内航空が東京国際空港便を開設(YS-11による運航)されて、 2000年に 滑走路を2,000mに延長し供用開始。羽田便3往復化。
2011年エンブラエル170による羽田便3往復化。と近くなっている。

朝の白浜海岸
    

「 円月島」は和歌山県西牟婁郡白浜町の臨海浦に浮かぶ島で、国の名勝に 指定されている。
正式名称は高嶋。南紀白浜のシンボル。夕景の名所として も知られる。
島の大きさは南北130m、東西35m、高さ25m。

円月島


「白良浜」は、延長640mの遠浅の浜で、90%の珪酸を含む石英砂は、真っ白でサラである。
三段壁(千畳敷の南海岸にそそり立つ高さ50mの断崖)。  三段壁洞窟(平安時代に力を誇った熊野水軍の隠し洞窟だったと伝えられる白浜の古跡)。     平草原(白浜の町並みを一望できる高台にある公園、 緑あふれる園内には桜並木)。
新湯崎、エネルギーランド、 白良浜、グラスボートなどがあげられる。  観光だけで一日かかる街。

波静かな白浜


「南方熊楠記念館」番所崎の山上にある。南方熊楠は、和歌山県出身で、世界的博学者で、白浜を愛しよく滞在していたという。
1965年開設された。南方の遺品や遺稿など750点を展示されている。
 
「南方熊楠」1867-1941 粘菌学者 民俗学者 1886年渡米し1892年ロンドンで植物採集し、執筆、論文で大英博物館の嘱託となる。
1900年帰国、粘菌、変形菌研究した。学校という枠を嫌い独学で2か国語マスターし庶民と共に風習など学んでいる。
論文「東洋の星座」が、ネーチャーに認められる。


  


「番所崎」の海域は、黒潮分枝流の影響を強く受けて温暖であり、表面水温は、年平均で約20℃、冬期でも12℃程度。
「南側にある円月島」が、田辺湾・鉛山湾周辺海岸の地形は複雑で、切立った崖に大小の入江と浜を配し、暗礁や小島が散在し、底質も岩盤・転石・礫・砂・泥と多様。
田辺湾中央部の水深は約30 mで、遠浅の砂浜や干潟は発達していない。
番所崎・塔島・円月島そして番所崎の沖合500 mに浮ぶ四双島は、田辺湾口に位置する岩礁域で、外洋性の動物群集が見られる。
これらの岩礁には大小のタイドプールが多数あり、実験所の北側は禁漁区になっており、砂礫底がひろがる。
田辺湾奥には干潟がいくつかありますが、近年の埋立によって、狭められて来ていると云う。


南方記念館付近
    


「京都大学白浜水族館」南方記念館並びで、理学部付属瀬戸臨海実験所の水族館。1922年創設され、我が国初期に水族館である。
熱帯・亜熱帯産種を主に、サメ、エイ、エビ、カニ、ヒトデなど270種類と云う。


  


これで、伊勢湾・熊野湾・白浜の旅は終わります。次回は京都へ。

日本橋の常盤橋 再び歩けるように

2013-03-30 | syu散歩

渋沢栄一像 1840-1931 実業家・王子製紙など500余りの会社設立
  

「東京駅八重洲口」も、どんどん変わる。鉄鋼ビル方面の表に出ると、もう永代通りの「日本橋本石町の呉服橋」には、びっくりした。
子供の頃、トンボ採りに出掛けていた所。

寛文年間に神田に新石町、(神田三丁目付近)が出来たので本石町と呼ばれ、石町という町名は、古くは米穀商が多く集まっていたことから穀類を数える単位の石に由来するとされる。一丁目から四丁目まであった。
江戸時代には三丁目に市中に時を告げる時の鐘が置かれ、またその近くにあった長崎屋は長崎から将軍謁見のために来る
オランダ商館長カピタンの定宿とされ、二丁目と三丁目のあいだ近くにあった十軒店には、毎年桃の節句や端午の節句になると人形の市が立ち、年の暮れには同所で破魔矢羽子板を売るなどして賑わったという。
1932年、関東大震災後の区画整理により本石町は従来からの町域を変更することになり、この時周辺にあった
金吹町、北鞘町、本革屋町、本銀町、本町、本両替町などの町域全部または一部を合併し、現在の本石町一〜四丁目となっている。なお十軒店は現日本橋室町三丁目の一部に当たる。

幕府御用達の呉服商が住んだという。いっぽう、現在の外堀通りのすぐ西を南北に延びる形で濠(外堀)があり、現在の永代通りは本交差点のすぐ西で濠をまたいでいたが、この橋は町名にちなみ呉服橋と呼ばれた。江戸時代には、橋の西詰に江戸城城門の一つである呉服橋門が設けられていた。明治時代以降は交差点のすぐ南に「呉服橋」電停があった。
戦後、瓦礫処理のために濠は埋め立てられ、その後都電路線も廃止され、交差点にのみ「呉服橋」の名を残すにいたっている。

日本橋川と高速道路と一石橋


日本橋川は、水運の便がよかったことから、江戸から近代に至るまで経済・運輸・文化の中心として栄えた。
周辺には河岸が点在し、全国から江戸・東京にやってくる商品で賑わった。
現在でも周辺に小網町・小舟町・堀留町など当時を思わせる地名が残っている。


常盤橋と並んでいる
「一石橋」は、北橋詰の本両替町に幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰の呉服町に御用呉服商の後藤縫殿助の屋敷があり、当時の橋が破損した際に、これらの両後藤の援助により再建された。そのため後藤の読みから「五斗」、「五斗+五斗で一石」ともじった洒落から一石橋と名付けられたと伝わる。江戸期を通して神田地区と日本橋地区を結ぶ重要な橋であったという。


この辺り常盤橋と云う一番古い橋を工事中



国史跡の「常盤橋」を修復して、再び歩けるように工事が始まった。
工事は、2013年から2年がかりという。西洋式石垣二連アーチ常盤橋は、都内で最古であるが、橋の傷みが激しく通行禁止になっていた。
昔の形を崩佐須の工事と聞いた。2年後が楽しみである。

外堀の石垣が残って居る日本橋川、江戸では一番賑わった。


「日本銀行」
日本が初めて自ら銀行を設立するのは、1872年、「国立銀行条例」によって設立された国立銀行である。
銀行設立にあたっては、1870年に当時大蔵少輔(次官)であった伊藤博文がアメリカの首都ワシントンへ銀行制度を視察した結果が反映されているという。銀行前は桜が満開であった。

古くなってきた日本銀行


小雨と桜満開の「皇居東御苑の大手門」
江戸城の本丸などがあった場所で、明治時代から戦前までは宮内庁や皇室関連の施設であった。
戦後の1960年に閣議決定により一般公開される運びになり、1963年に特別史跡に指定、1968年から一般公開されるようになった。
苑内は庭園のほか、歴史的な史跡も見ることができ、国内のみならず海外からの旅行者も多く訪れるところ。

大手門前の桜


早朝の大手門前


白鳥がのんびり、内堀



GHQ 本部のあった「旧第一生命ビル」を探したが、この地域、あまりの替り用で、後調べると現在農林中央金庫ビル・DNタワーとのこと。
昭和は遠く、寂しい。

次回は南紀白浜に戻ります。

歌舞伎座開場 銀座パレードお練り

2013-03-29 | syu散歩

東京の劇場で、一番古いのが「明治座」、今でも歌舞伎、新派など上演し、下町の雰囲気があり庶民的で親しまれている。
「歌舞伎座」は、明治22年に、日本古典芸能「歌舞伎」の殿堂として初開場している。
関東大震災以降鉄筋コンクリート造になり、戦災でし被害は、内部が焼けた程度であった。
昭和26年復旧している。外国観光客にも人気の劇場となった。

五代目となる新しい「歌舞伎座開場」を記念し、銀座一丁目から三越前の四丁目まで、中雨の中、「銀座・春のパレード、花道」があった。
市川中車、勘九郎、海老蔵、猿之助等人気役者63人が、「お練り」した。


俳優協会の、坂田藤十郎会長は、パレード前の挨拶で「この雨もお客様に降り込んで頂ける縁起のいい雨です」と云い、スタートが大幅に
遅れた。車道、歩道に10列以上の人出であった。人混みの中やっと撮影。

銀座二丁目のビルから手を振る観衆



傘を差しての行進、傘を閉じる観衆


準備中の花道


2013年2月、オフィスビルと併設された歌舞伎座の建て替えが完了。
新しく併設されたオフィスビルは歌舞伎座タワーと名付けられ、昭和通り側に出入り口がある。歌舞伎座は従来通り晴海通り側に出入り口。
歌舞伎座と歌舞伎座タワーを併せて「GINZA KABUKIZA」という名称が定められ、キャッチコピー「イザ、ギンザ、カブキザ。」や、シンボルマークも制定された。

2013年(平成25年)4月2日 、開場予定。













 


熊野古道を歩く

2013-03-27 | 気まま旅

「宝泉寺の大銀杏の木」

国道311号線に、緑の木々の中で、一本の大銀杏の木の姿を目にすることができる。
中辺路町福定地区にある。「宝泉寺にある大イチョウの木」である。
周囲約6m、高さ約22m、樹齢推定400年以上という大樹で中辺路町の天然記念物に指定。
根本から4mの所で幹が数本分かれ、さらに数十本の支幹となって林立していることより「千本銀杏」とも呼ばれている。
黄色の落ち葉で敷き詰められた境内に身を寄せ、大イチョウを見上げると、言葉に表現できないほど見事な風景という。
11月下旬、紅葉の最盛期になると夜間照明でライトアップされ、漆黒の闇に幻想的に光を放つ姿は見事という。
2、3年は木に与える影響を考慮し、中止とか。
太陽の光によるライトアップは実施中している。

あまりの大木銀杏で驚いた
    

「熊野古道中辺路」は、 牛馬童子像箸折峠、 近露王子跡、 野長瀬一族の墓地、 比曾原王子跡、野中伝馬所跡、 継桜王子跡野中の一方杉
野中の清水、秀衛桜、 中川王子跡、 小広王子跡、、、、。

国道311号線は、白浜、南紀田辺に向かっている。

熊野九十九王子あるが、五体王子の一つ発心門王子から熊野の神の聖域に入るとされ、ここから本宮大社に至る古道は、平たんで人気になっている。コースを簡単に示すと、発心門から水呑王子1.7k伏拝王子1.9k九鬼口関所三軒茶屋1.9k熊野本宮大社2k。
大斎原は、大社0.5k日本一の大鳥居が立つ、江戸時代は、音無川で徒歩で体を清めて大社へお詣りしていた。

    

「熊野古道中辺路、和歌山県の王子社、稲葉根王子と春日神社」は、 八上王子社から岡川を越えて川沿いの道を東南方面へ行く。
深見集落に入り、竹林の中をのぼって新しい道路を潜って小さい峠を越えて、国道311号の上岩田に出る。富田川沿いに上ると
側に赤い小橋が見える。ここが、 稲葉根王子跡の岩田神社である。

稲葉根王子の石碑と鳥居をくぐり境内に。

    

稲葉根王子の建つ富田川流域は熊野詣での水垢離場として「平家物語」などに記述されているとのこと。「御幸記」では、「この王子、五体の王子に準ず。御幸の儀、五体の王子と同じ。」と記され、近くには石田御所があり、上皇や女院方の宿泊や昼養の所であった。
稲葉根王子の鎮座するこの土地は、水田地帯であり、稲荷神が鎮座していたと伝わる。稲持王子の別名を持つ。
小山に鎮座、社殿は大きくはないが威厳をたたえて鎮座している。社殿の前には岩田神社跡の碑も立っていた。

    

岩田川は現在の富田川。信仰の川としての岩田川は歌に詠まれ、「続拾遺和歌集」熊野にまゐらせ給ひける時、いはた河にてよませ給ひける 花山院 、 岩田川わたる心のふかければ神も哀とおもはざらめや。
「玉葉和歌集」夏、熊野へまゐりけるに、岩田と申す所に涼みて下向しける人に付けて京へ、西住上人の許へ遣はしける。
西行、 松がねの岩田の岸の夕涼み君があれなとおもほゆる哉、「続千載和歌集」 為家、 五月雨は行さき深し岩田川渡る瀬ごとに水まさりつつ、 「田辺町大帳」江戸後期の遊行上人、 岩田川こころもそそと夏衣すずしくわたる瀬々の白波、
「続紀伊風土記」 加納諸平  いたづらに月日流るる岩田川たえし御幸や待ちわたるらん、、、。

山道を黙々と歩く
     

「旧岩田川・富田川」
稲葉根王子前の岩田川(富田川)付近は、熊野の霊域に入る前の重要な水垢離場とされ、この王子から川で水垢離を取り対岸の一ノ瀬王子へ渡ったと伝えられている。 清流・富田川沿いの道をたどる爽やかなコースで、滝尻王子までは約12kmの距離がある。

川を見てほっとした。
 


次回の南紀白浜で終了します。 

早すぎた 桜満開

2013-03-26 | syu散歩
syu散歩Bコースの桜もついに満開です。また少し寒さもぶり返して変化の激しい春です。
今年は桜が咲きそうでどこへお花見行こうかなど、考える暇がなかったですね。心の準備が出来て居ないのです。
近所の桜で楽しんで終了です。



善福寺川の鳥達も、動きが活発に。




桜達も、少々早すぎたと、戸惑っているようです。




ここにも倒れそうな桜があります。




今回の世界遺産「熊野古道」は、白浜で終了します。(串本、那智方面は時間の関係で回れませんでした)




次回は、千年の都「京都」を旅します。お楽しみに。



また熊野湾に戻ります。