syuの日記・気まま旅

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気ままに記録しています。

奥多摩 御岳山-多摩川散歩(16)

2016-01-30 | 気まま旅
東京都青梅市の西部の多摩川渓谷。
秩父山地を侵食した渓谷で、御嶽駅前に御嶽橋・玉堂美術館・交流センター・吉野街道・払沢トンネル・御岳トンネル・吊り橋のような御岳小橋
沢井駅南に吊り橋、楓橋があり、この一帯は、「秩父多摩国立公園に属し、「日本名水百選に一つ」文人・文化人にも好まれた地域。
都心から近く、家族・若者には、川辺アウトドア、釣り・カヌー等で遊べる。
御岳山は、日本七大野鳥生息地で、ブッポウソウ・コノハズク等が、又、七代の滝と周囲のハイキングコースも人気に。

御岳山(929m)神社・神代欅・天狗の腰掛杉ー奥の院(1077m)・鍋割山(1084m)・大岳山(1266m)へ
   -ビジネスセンター寄りには、大塚山(920m)・冨士峰園地8カタクリ・レンゲショウマ群生地「春はロウバイ」ー至古里駅。



                 古風なJR青梅線 御嶽駅
    

「御岳橋」
御岳万年橋跡の説明板がある。
それによると御岳万年橋は中里介山の「大菩薩峠」にも登場し、 中里介山の生家、(墓は羽村の禅林寺)

江戸中期、奥多摩町に梅沢橋(下流)・上流御嶽橋と神代橋の3橋が架かり、「投げ渡し」で、工法は、岩盤が突き出し川幅が狭くなった所に
石を積み上げ丸太の端を中央に詰め込み両岸から次々と張り出して木材を結び付けて、上に横桁を組んでいくやり方と云うが、
その昔は、(大柳の渡し)、明治の30年に木橋がかけらたと云う。

    

数多くの風景画を描いた日本画壇の巨匠「川合玉堂」は、
1944年の昭和19年、から亡くなる迄の10余年を、ここ青梅市御岳で過ごしている。
館内には玉堂の作品をはじめ、画室・遺品などが展示。
入館料:¥500、

玉堂美術館前、玉堂の雅友、清水比庵翁の詠歌「山近く水急くして まのあたり玉堂先生描きたまふや」石碑が。
    

「川合玉堂」 1873-1957 (明治~昭和の日本画家)

17歳、「春渓群猿図」「秋渓群鹿図」は第3回内国勧業博覧会に入選・明治29年、(23歳)上京し橋本雅邦に師事する。
岡倉覚三(天心)、雅邦、横山大観らの創立した日本美術院参加。
明治33年、私塾「長流画塾」を主宰、明治40年、第1回文部省美術展覧会(文展)審査員に任命、
大正4年、東京美術学校日本画科教授、大正6年、帝室技芸員に任じられ日本画壇の中心的存在の一人となる。
昭和6年、フランス政府からレジオンドヌール勲章、昭和8年、ドイツ政府から赤十字第一等名誉章を贈られ、
1940年の昭和15年、文化勲章を受章した。

第二次世界大戦中の昭和19年、かねてより頻繁に写生に訪れていた東京都西多摩郡三田村御岳(現・青梅市)に疎開、住居を「偶庵」、画室を「随軒」と称し、第二次世界大戦後にも、同地の自然を愛する玉堂はそのまま定住、昭和32年、没した。没後、勲一等旭日大綬章を賜わり、「玉堂美術館」が。

                    入館有料
    

「渓流釣り」
小谷・源流の釣りは一つ一つのポイントが小さいためかなりの移動が必要で、つるつる滑る石や岩の上を歩き、腰までつかって川を渡ったり、
川を上れないときは脇の山や崖を登ったり、ヤブこぎをしたり移動だけで大変。
また、夏には、蚊やアブに刺されたり、マムシやスズメバチに神経も。
いざ釣りが始まっても、竿を振るとすぐに枝掛かりしたり、根掛かりしたり、やっと魚が釣れたかと思うと沈木にからまって取り込めなかったり、
多くの困難が、釣り時間の半分は、枝や根にひっかかった糸をはずしたり、切れたハリスを交換したりするのに費やし、一日2、3匹釣れたら良し。

川魚は、アマゴ、ヤマメ、イワナ、マス等
    

「渓流の鳥」
ミソサザイ(スズメ目ミソサザイ科・ 全長10cm)・カワガラス(スズメ目カワガラス科・ 全長22cm) カワビタキ (ツグミ科・全長:12~13cm )
カワセミ(ブッポウソウ目カワセミ科・ 全長:17cm )・ ヤマセミ(ブッポウソウ目カワセミ科・ 全長:38cm)等。

御岳渓谷遊歩道の両岸の吊り橋。昭和49年台風で破壊したが、先代を継いで建造された美しい吊り橋である。
渓谷に映えるこの橋も素晴らしいが、橋上から見下ろす渓流も良い。

                御岳橋と面して「御岳小橋」
    

「山の植栽」
植物は生きものー手入れが必要。
山林管理は、剪定と消毒、肥料やりで、とくに剪定は、風通しをよくして病気や害虫から木を守り、成長を助けるが必要になる。
日当たり、通風、枝の伸び方に注意し、常緑樹は4月~10月頃、花の咲く木は、花が終わった後に剪定が。
樹木には、紅葉・落葉するもの、実を付けるものなどがあり、それぞれに季節の風情があるものの、雑草取りや掃きそうじなど手入れを
きちんとできるかどうかを基準に選ばないと、後、負担が。

    

植栽によって再生した森林(人工林)は、
その後も適切な保育、間伐等が必要となる。
我が国は湿潤で温暖な気候にあることから、草本植物等の他の植物が繁茂して植栽木の成長を阻害する場合が多く、これらを除去して
植栽木の健全な生育を図るため、草本植物等の下刈り、ツル植物のつる切り、他の樹木等の除伐といった保育作業が行われる。
これらの作業を適切に行わないと、植栽木が他の植物により被圧され、十分に生育できないことになる。
また、植栽木の成長に伴い植栽木間の競争が生じ始めると、隣接木との間隔を適度に保ち、植栽木の生育範囲を確保してその健全な生育を図るため、
植栽木の一部を伐採する間伐が行われる。
樹木の枝葉(樹冠)は、隣接木と接するようになると、光合成のための空間を確保するためほぼ同じ大きさを保ったまま上方に移動する。
樹冠の大きさが変わらなければ光合成の量も変わらない一方で、樹高は伸長していくので、その結果、幹の直径成長は徐々に小さくなり、もやし状の
森林となって風害や雪害等の被害も受けやすく、間伐を行うことによって、植栽木の成長に合わせて樹冠を大きく保つことができ、
幹の直径成長も促進する。
樹木の根の成長も隣接木の制約を受けることから、間伐を行うことによって、植栽木の成長にあわせて根が広く深く発達することができ、植栽木の
成長に伴い樹冠が閉鎖することにより、林床に植生が見られなくなる場合があるが、間伐により林床の光環境が改善されると下層植生も回復し発達する。

                   植林に協力しよう
      

多摩川を下って行きます。

奥多摩 御嶽神社 多摩川散歩(15)

2016-01-28 | 気まま旅

「青梅線(奥多摩)」
南武、青梅、五日市の3線は、太平洋戦争に伴う戦時輸送体制強化の一環として、地方鉄道を買収・国有鉄道に編入した歴史を背負う。
南武鉄道が青梅電気鉄道に所属し、「奥多摩電気鉄道」路線は、開業の時点で青梅線に編入された。

石灰石輸送が主目的な「青梅鉄道」
青梅鉄道ー立川-青梅間で、762mm軌間の蒸気鉄道であった。(青梅鉄道は、明治24の1891年)
明治25年、免許状を受けた後、明治27年に工事を始め、立川-青梅間18.2kmが開通。
明治22年、新宿-立川間25.9kmを開業した甲武鉄道と、内藤新宿から羽村に至る馬車鉄道で始まった計画は、別企画によって青梅に延長し、
「青梅地区で産出する石灰石搬出を目的に加えている」
資本調達に参画した予定路線沿いに居住する有力者の意見をいれて、東京-八王子間の路線計画への置き換えと変化し、
さらに曲折の末、明治19年、東京府、神奈川県、埼玉県三知事による新宿-八王子間の馬車鉄道特許が交付されたと云う。
蒸気鉄道に計画変更され、甲武鉄道となって後年は中央本線新宿-八王子間となる路線の開業へと繋がる。
立川-青梅間をまず開業した青梅鉄道は、約1年後の明治28年、青梅-日向和田間2.24kmを開業し、延長区間は当初、貨物輸送に専用。
青梅鉄道の収益を支える石灰石は、その採掘地が日向和田地区に存在したため、輸送の便宜を計っての貨物線延長となる。
日向和田停車場は現位置ではなく、宮ノ平駅の西よりに位置し、石灰石採掘場へはスイッチバックで側線が入る形態に。
宮ノ平は、大正3年、に貨物駅として開業以来の存在で、後に旅客も扱う。
明治31年以降、全線で旅客列車を運転している。

「白丸ダム」
都西多摩郡奥多摩町白丸、多摩川水系多摩川に建設されたダム。
高さ30.3mの重力式コンクリートダムで、都交通局の発電用ダム。水力発電所・多摩川第三発電所および白丸発電所に送水し、
合計最大1万7,500kWの電力を発電。

        白丸・鳩ノ巣エリアは、山里と渓流が楽しめる。


ダムは、昭和38年、都交通局が白丸狭窄地帯と呼ばれる多摩川断崖の谷に建設・貯えた水は下流の御岳の多摩川第三発電所に送水。
平成13年、国土交通省が魚道を新設し、多摩川に生息する魚の往来が出来る。
白丸ダム直下に白丸発電所が建設され、観光のための放流水を利用して1,100kWの電力を発電できると云う。

                     白丸無人駅


鳩ノ巣駅付近には、三面不動尊と熊野神社と多摩川鳩ノ巣渓流・760mの城山・古里附のイヌグス8mの名木(都指定の天然記念物)が



奥多摩には、平将門の子孫と自称する三田氏が奥多摩を治めたこともあり、山側には、「棚沢熊野神社」・「瑞木山正法寺」・「三面不動尊」
「将門神社」が。(神社には、将門の子「良門」が「将門」を偲んで創建したと言われ、後に、子孫だという説)

                     渓流と吊り橋が


「平将門」~940 新皇と称した反逆者にされている武将。
東国の「桓武平民」の一人、京都 藤原忠平に仕えたが無位無官で下総に帰郷し、将門一族は土地争いで名をあげ、武蔵国の官人と豪族争いに
介入し、反乱を起こす。国司を追放して自らを「新皇」と称した。が、一族の「平貞盛・下野押領使 藤原秀郷」に討たれ、将門の首が、京都で晒され
が、その首が現在の大手町に飛んで落ち「首塚」になっている。



「将門伝説」
天慶2年の939年、「平将門」は、
討伐軍の藤原秀郷に追われ、相模方面から大久野に入り勝峰山(武蔵五日市)に立て篭もり、討伐軍3千、将門軍4百。
年が明けた 940年、討伐軍は勝峰山を攻め上がり、が、将門軍が奮戦し、なかなか落ちないのに業を煮やした「藤原秀郷」は、
勝峰山山頂にて騎乗している将門を強弓で射掛けます。矢はぐんぐん伸び、将門の鎧を掠め向こうの谷へ飛んでいき、矢が越えた沢を矢越沢。
後ろの山並みを通矢尾根と呼ぶようになったと云う。
将門は、戦況我に利あらずと判断。勝峰山を下り青梅方面へ逃れ、梅ヶ谷峠を越えて青梅に入った将門は金剛寺に立ち寄り、手に持っていた
梅の枝を突きたて、「我が志成るものならば根付け」と唱えたと云う、すると、梅は立派に根付き花が咲き、実を結ぶまで育つが、その梅の実は
いつまで経っても青いままで熟すことがなく、この地域を「青梅」と呼ぶようになったと云う。
平将門が、奥多摩まで足を踏み入れたという歴史的証拠はないが、将門伝説はー奥多摩各地に多く残っている。
おそらく将門の死後、一族郎党が落人となりこの深山幽谷の地に移りすんだことが、伝説を残す素地となったとも云う。
また中世の頃、奥多摩渓谷を支配した青梅の三田氏は自らを平将門の後胤と称したことも関係してとも云う。
鳩ノ巣城山ー760mも将門の砦・城跡伝説が。

  

「杣保の三田氏」
武蔵国の青梅地方は、鎌倉時代から室町時代へかけての頃、「杣保」とよばれていた。
杣とは「山の方」という意味で、村より大きな地域をいい、荘園制の発達につれてできた言葉。新編武蔵国風土記、には、
「羽村より西はすべて杣保」であったと記し、羽村から上流の多摩川すじが「杣保」で、「武州杣保青梅村」とか「武州杣保長淵郷」とかの地名が
古文書に多く見受けられ、杣保の支配者としてあらわれるのが三田氏。
三田氏が青梅地方に登場してくるのは十四世紀に入ってからで、三田下総守長綱という人物が、1300年、「勝沼の乗安寺」を建てたと寺の縁起に見える。報恩寺の旧鐘銘には、1322年、に三田弾正忠清綱が奉納したとある。
これらのことから、鎌倉時代には三田氏が「杣保」の地にいたことはたしかと云う。
「武蔵名勝図絵」には、
「三田氏は平将門の後裔にして、世々この辺に居住し、勝沼殿と称しけり、往古の事はつまびらかならずといえど、代々鎌倉将軍家に属す」とある。
三田氏が将門の後裔であるということは、1521年、「三田政定」が根か布の「天寧寺」に奉納した鐘銘に「平朝臣将門の後胤三田弾正忠政定」とある。
そこらも、将門の後裔と称していたことがわかる。
しかし、三田氏が将門の後裔だという史料は何もない。おそらく新興の三田氏としては、関東、特に青梅地方に根強い伝説をもち、英雄視・神格化されている将門をその祖に誇示することは、民衆統治に大きなプラスになると考えたからと云われている。
三田氏の家紋は「巴」だが、他に将門にちなむ「繋ぎ駒」「九曜」も用いたという。
三田氏の出自に関して、古代豪族壬生氏の子孫だという説がある。
壬生氏は古代武蔵国で栄えた豪族で、武蔵国分寺の七重の塔を再建したり、御岳蔵王権現の楼門を建てたり、鐘を寄進したりして
「杣保」の地と深いつながりをもっていた。
谷保村の三田家系図には、「三田氏始め壬生吉志の姓たり」とあって、壬生氏の出自であることを記している。
これとてもたしかな根拠があるわけではないが、まったく否定しさることもできないと云う。

    

「無人・川井駅」
ホームから見る「奥多摩大橋」-多摩川北岸道路(青梅街道)と、多摩川南岸道路(吉野街道)を結んでいる。

 

「大丹波川」
奥多摩町東部の大丹波地区の中を流れる多摩川の支流。
川井駅・「奥多摩大橋」辺りで、多摩川と合流する。
水が大変澄み、綺麗で、岩魚や山女魚も生息し、山葵が育つ。
大丹波地区を縦断し、大丹波住民の生活を支える川で、「川乗山」への登山コース。
(川井駅から清東橋まで西東京バスで行き、大丹波川沿いに登り、獅子口小屋跡の湧き水を通り、長沢背稜から続く尾根をたどり、
曲ヶ谷北峰経由のコース)

      

「JR青梅線・御嶽駅」
玉堂美術館、せせらぎの里美術館、御岳美術館、御岳渓谷(多摩川と青梅街道にはさまれる形で遊歩道が整備)、御岳登山鉄道(ケーブルカー)
で6分に武蔵御嶽神社。

    

ケーブルカー
滝本駅 - 御岳山駅間の1.107km、標高差423.6m、最大勾配斜度25度の急勾配を6分程度で結んでいる。
御岳山駅にて、リフトの御岳平駅に乗り換えができる。

    

御岳山ー標高:929 m。
武蔵御岳山とも呼ばれる。古くから山岳信仰の対象となっており、山上には「武蔵御嶽神社」が建立。

    

「武蔵御嶽神社」
御岳山の山上に鎮座。
櫛真智命などを祀る。中世以降、山岳信仰の霊場として発展し、武蔵・相模に渡る信仰圏を獲得し、式内大麻止乃豆天神社という説がある。
旧府社、現在は神社本庁に属していない単立神社、犬を祀っている所から、願掛けのため、犬を連れた参拝客が近年増えていると云う。

崇神天皇、紀元前91年、創建とされ、736年、行基が蔵王権現を勧請したといわれる。1234年、に大中臣国兼が荒廃していた社殿を再興し、
以降は修験場として知られ、関東の幕府や武士から多くの武具が奉納。
慶長10年の1605年、大久保長安を普請奉行として本社が、1700年、弊殿と拝殿が建立された。
昭和27年、現在の「武蔵御嶽神社」に改称。

   八柱社・北野社・巨福社・神明社・大口真神社・・・・。奥宮に日本武尊を祀る
    

文化財-国宝
「赤糸威鎧」畠山重忠より建久2年の1191年、に奉納されたと伝える。
様式上、平安時代後期の作と推定、(鎧の正面・左脇・背面を一体、右脇は脇楯で塞ぎ、草摺は脇楯を含め4間の「大鎧」と呼ばれる)
その他、鎌倉時代の鞍・鎧・太刀等が。

本社・本殿・拝殿は五間社入母屋造の大き目の社殿で、朱塗りで鮮やかに彩られており、唐破風の向拝には彫刻がある。
本殿は一間社神明造で明治10年の1877年、に造営された。



「畠山重忠」 1164-1205 鎌倉武士、武蔵国秩父一族の重能の子
源頼朝上洛で、先陣となっている。二度目の妻は、北条時政の娘、その子「重保」。時政の後妻「牧方」の娘婿と口論で、時政夫妻は、
畠山重忠父子を討滅へ、畠山一族は全滅する。

次回は、御嶽駅を青梅駅・多摩川に沿って下流へ。

青梅奥多摩ー多摩川散歩(14)

2016-01-25 | 気まま旅

「昭和12年、 奥多摩電気鉄道株式会社設立」
昭和19年、 御嶽〜氷川(現・奥多摩)間の鉄道敷設免許が国有化し青梅線として開通、その12月に、奥多摩工業株式会社、社名変更。
昭和21年、 石灰石採掘、1978年の昭和53年、 西武鉄道より休止中の小河内線が譲渡され、路線名が「水根貨物線」となる。
平成13年、 中華人民共和国に関連会社を設立。
氷川事業所(2008年3月)鉱業工場 天祖採掘場 - 東京都西多摩郡奥多摩町・青梅工場 - 東京都青梅市
石灰石化工工場 氷川工場 (都西多摩郡奥多摩町)、、、、。

JR青梅線奥多摩駅へ。
都の最西端ー多摩川水系上流域・青梅市とあきる野市の西で、奥は山梨県丹波山、関東山地から見ると東部を構成する山岳地帯である。
大部分が「秩父多摩国立公園」、林業生産地域である。ここに、「小河内ダム」で仕切られた「奥多摩湖」。
東京の水源地域で、良く知られている渓谷の雲取山(2017m)と御嶽山(929m)丹波渓谷・御岳渓谷・鳩ノ巣渓谷、、渓谷美に恵まれた地。
鉄道は、昭和初期に、青梅線と五日市線が延長され、東京から手近な自然行楽地として栄えた。
住所は、東京都西多摩郡奥多摩町(奥多摩町を氷川町と云っていった・古里・小河内合併し奥多摩町に)94%が林野。
石灰石は、京浜地区に供給されている。
都最高地点の埼玉と山梨の県境にある「雲取山に奥多摩湖(小河内ダム)」で、いろいろな登山コースや渓谷がある。

                  JR奥多摩駅


            奥多摩駅前(奥多摩湖は駅前からバスで約30分)


「氷川大橋」
奥多摩駅すぐに、国道411号にある「橋」。(日本百名橋の1つ)
北側には奥多摩町役場、東側には奥氷川神社、南側には吊り橋である氷川小橋、日原川と多摩川の合流点がある。
「新編武蔵風土記稿・武蔵名勝図会」から、刎橋が架けられていたことが分かる古くからあった橋。
現在の橋は、昭和8年、に架けられ、昭和57年、新たにアーチ橋を造って一体化、高欄にデザインパネルに。

      長さ83.5m・巾12.4m・高さ30mのコンクリートアーチ型(1933年)
  

          氷川橋から30m下の渓谷を(吊橋も見える)
      

「秩父多摩国立公園」の埼玉県境は、山梨県側にかけては「花崗岩類」が分布し、最高峰の「北奥千丈岳(2601m)・甲武信ヶ岳(2475m)
木賊山(2469m)・唐松尾山(2109m)・雲取山・・で笛吹川の源流が発している。

    

登山者に人気、
金峰山・三国山・両神山等が連なり「雁坂峠・十文字峠・中津峡・昇仙峡・秩父鉄道三峰口から奥秩父縦走・・」
秩父地方には、古くから鉱泉が多いのも楽しめる。

「奥氷川神社と中氷川神社」ー氷川橋横にあるー
「武蔵三氷川」と呼ばれ、一直線に並んで本社・中社・奥社の関係になってい割れる。

祭神ー素戔嗚尊、奇稲田姫命・創建ー伝1世紀・本殿ー神明造・神事ー流鏑馬神事 。
    

日本武尊が東征の折に祀った社を起源とし、860年、无邪志国造の出雲族が「奥氷川大明神」として再興したと伝えられ、明治2年、奥氷川神社
改称し、昭和19年、に開通した青梅線の現奥多摩駅は、「氷川駅」と命名されたと云う。

「都指定天然記念物、氷川三本スギ」
氷川三本杉ー根元近くから三本に分岐している珍しい杉で、鎌倉時代に植えられたという伝説がある神木。
都内最大の杉で2011年現在、樹高約43メートル。(都天然記念物指定)。


縄文時代の遺跡は多く見つかっていると云う。
後期頃の遺跡は一つ、以降の弥生時代には、稲作を中心とした生活文化になり、気候などから、地から離れたと云われている。
その後の奈良時代中期になり、この奥多摩へも人が戻り、生活し始めたとされている。

                  郷土資料館から
    

奥多摩は、渓流と橋の町
多摩川上流方面からー 麦山橋. 峰谷橋. 浮 橋. 道所橋(吊橋). しだくら橋(吊橋). 境橋. 桧 村橋. 琴浦橋. 笹平橋. 愛宕大橋. 弁天橋.
南氷川橋. 登計橋(吊橋). 昭和橋. もえぎ橋( 吊橋)等。

    

「奥多摩湖」
多摩川上流・小河内ダムに堰止められてできた人造湖。
都の上水道用と発電用として造られた世界有数の規模を誇っている。

                    湖面積ー4.4km2


小河内ダム、有効貯水量ー1億8540万m3(多摩川流域の約21%)
      旧小河内村・山梨県丹波山村・小菅村一部ー945戸が移転している。
      

「日陰の村」-石川達三ー
昭和6年、東京市は、水道貯水池を造るため小河内村を水底に沈める計画を発表する。
村長は反対する村議を諭するが、工事認可がなかなかおりないため保障をあてにする村民の生活は疲弊していき、
彼等は蓆旗をたてて集団陳情に出かける。
漸く12年に起工式が行われるが土地買収価格は余りにも安かった。
都会文明に敗北していく一村落の哀史を、様々な人物像を織りなして力強く描かれている。
 


代替地は、福生市に集中していると云う。
                  春の桜並木が見事という。(一万本)


毎年、冬開催されるー奥多摩渓谷駅伝競走大会ー
昭和11年に第1回開催、東京箱根間往復大学駅伝競走大会(箱根駅伝)に次ぐ「歴史と伝統のある大会」。
第77回大会・平成27年12月6日(日曜日)。
                    小河内ダム


作詞、鈴木紀代さんの「ああ奥多摩」の三番に
鳩ノ巣小橋の吊橋を  一人渡れば遊歩道 せせらぎつたいに 秋のいろ 紅葉りんどう彼岸花 人の情けに夢が咲く
ああ奥多摩 奥多摩はぬくもりの町。

                今日は強風の小河内ダム


              奥多摩湖・南岸「都奥多摩湖畔公園(1990年)」
    

次回は、奥多摩郷土資料館・山村生活を。

奥多摩湖ふるさと館ー多摩川散歩(13)

2016-01-22 | 気まま旅
「奥多摩の鶴の湯」
戦国時代・「武田信玄」の隠し湯の一つ。
水道局の計画の調査は山梨県北都留郡丹波山村から始めて下流青梅町あたりまで行われ、結局第1候補地に決まったのは青梅鉄道の終点御岳駅から少し遡った古里村一帯だったと云う。
古里村は、青梅町も巻き込んで全村をあげて反対し、第2案の小河内村案を進めるられていく。

小河内村は、武蔵の豪族で甲斐の武田の家臣であった小沢一族の流れで、原島氏は、天正年間に鶴の湯温泉を開いた家筋で元は氷川村の
奥の鍾乳洞で名高い日原川の岸を根拠地とした豪士であり昔は丹治氏を名乗った平家の末流と云う。
奥多摩湖の総貯水量は「1億8540万T]世界でも最大級の水道専用貯水池。
小河内ダム。ダムの運用は、35K下流にある羽村取水堰と連携しながら行われたと云う。
多摩川の水を、いったん小河内ダムに蓄え、水量調節しながら放流、羽村で取水し、玉川上水を経由して東京都の浄水場へ送る仕組み。
小河内ダムの最大の成果は、利水できない「ムダな水」を減らしたことだ。1993年に規則が
改められるまでの間、原則として小河内ダムから放流した水は、すべて羽村堰で取水された。
羽村から下流へ水を流すのは、川崎市の二ヶ領用水で灌漑用水が必要となる5月~9月の期間だけで、残りの半年以上は、奥多摩の山々から流れ出した
水が下流へ流れなかったと云う。
近くにある「日原鍾乳洞」は、関東随一の規模を誇る「日原鍾乳洞」は奥多摩町の北西部にあり洞内は全長800m、年間を通じて気温が11℃。
鍾乳洞の中にこんな空間があったのか!と思うスケールが魅力の鍾乳洞で、奥多摩駅から、日原鍾乳洞や本仁田山、川苔山などへハイキングコース。
日原川に架かる巨大なコンクリートアーチ橋が、橋の上には雑草が生い茂り、使われている様子はない。
JRの奥多摩駅と小河内ダム直下の水根積卸場を結ぶ、全長ー6.7kmのダム建設で大活躍した「奥多摩工業専用鉄道」の橋梁である。

                   奥多摩ふれあい館


「二本百名山・雲取山」
東京最高峰と都民の水源と登山者憧れの2000m級の山「雲取山」は、山頂から都内・関東平野・富士山・南アルプス等眺望抜群である。
「日原鍾乳洞」付近からのコースがおすすめ(歩行時間約5時間強)
「奥多摩昔道」ー奥多摩駅から奥多摩湖を歩こうー
小河内ダム建設で資材運搬専用鉄道として造られ、昭和30年頃まで使われていた。今でも所々にレール・トンネル跡が。
都水道局小河内線は、昭和28年頃煙をはいて走っている。
「日原鍾乳洞」
奥多摩駅から日原街道へ、バス停倉沢から谷に「倉沢のヒノキ」、トンネルを潜りバス停東日原に森林館・稲村岩・ふるさと美術館
バス停鍾乳洞に石山神社・小川大滝・梵天岩・鍾乳洞がある。(都指定天然記念物)

  

「水と緑のふれあい館」(入場無料)
写真 館内1階エントランスホール・館周辺施設や水道局事業の取組などを映像と音響で楽しめる。

    

「川野車人形」
天保時代の1830~44年、武州加冶村阿須(現・埼玉県飯能市)の西川古柳(本名:山岸柳吉)により考案された箱車(内部に車輪が3つ組み込まれている)をつかう一人遣いの人形です。
この箱車に座り、ずれないように腰に縛り付け、自分の足で人形の足をつかみ動かす。
左手で人形の頭を操作し、右手で人形の右手を操作する、内部に仕掛けがあり、人形の右手を動かしながら人形の左手も動かすことが出来るようになっていると云う。江戸時代末期に考案された車人形が、明治18年、小宮村(現:あきる野市小宮)の説教節の太夫、岸野清兵衛により川野地区にもたらされ
川野地区には車人形が入る前に、二人遣いの人形芝居が伝承されていたらしい。
現在でも宝暦2年から天明・文政年間にかけて作られた人形の頭部であるカシラが31個残っておりそのうち3個は「金平頭」で文化財としても
貴重なカシラと云う。
車人形が導入される以前の人形は二人遣いで、人形のカシラは小ぶりで動かず、手足もなく、主遣いが頭と人形の右手、もう一人が人形の胴体部をもち、人形の左手を担当していたらしい。
川野には浄瑠璃本が百段ほどありましたが、火災で焼失し現在は約三十段位に、川野に入った車人形は村人の娯楽として
「3月5日箭弓神社の祭礼」に民家で上演され、昭和6年ダム計画が発表されると、人々が昭島や羽村へ移住しはじめ、昭和13年から
ダム工事が着工すると多くの人たちがダム計画地から離れ、川野は過疎化し、昭和27年川野車人形は、都無形民俗文化財に指定されましたが、
昭和32年、ダムが完成以後は人手が少なくなり、上演されなくなってしまう。昭和45年、文化財を見直す機運が盛り上がり、
都と奥多摩町の補助金で人形と衣装の修理が行われ、保存会を結成して、復活のための練習が始まり、地元を離れた人たちが組織し。
「川野会」の援助もあり、現在では3月5日に地元の箭弓神社の祭礼に川野会の人たちも川野生活館に集まり年1回の定期公演がある。
伝承演目ー三番叟・東山朝倉草紙(渡し場・住家:子別れ)・出世景清一代記(「日向」とも)(阿古屋自害の場・獄舎破りの場・人丸姫道行の場)
     東海道中膝栗毛(赤坂並木の段)・小栗判官一代記(七色の場)等が上演されると云う。
定期公演ー3月5日午後1時頃~3時頃 奥多摩町川野生活館。

  

「奥多摩水源と森林」
手入れ不足の森は暗い森に・手入れされた森は明るい森。
森を健康にするためには、
「間伐」生育の悪い木などを抜き切り作業を、間伐を行うと森の中に光が入るため、草や低い木が成長します。
これ等の草木などは雨が地面にぶつかる力を和らげ、土が川へ流れ出るのを防いでくれ、残った木は太く育ち健康な森に。

「道づくり」
間伐した木材を横木と杭で道を作り、歩道を。

「枝打ち」
余分な木の枝を切り落とし、節の無い良質な木材にします。(木を切り倒すのには・手オノとノコギリ)

  

              森づくりは、豊かな水を生む
  

「ダム造りの資材を運ぶ鉄道から」
氷川駅(奥多摩駅)ー 第一氷川橋梁ー 第一氷川トンネルー 日原川橋梁ー 第二氷川トンネルー 第二氷川橋梁ー 氷川疎水トンネル
ー 第三氷川トンネルー 第一弁天橋梁ー 第二弁天橋梁ー 第三氷川橋梁ー 第四氷川トンネルー 第一小留浦橋梁ー 第一小留浦トンネル
ー 第二小留浦橋梁ー 第二小留浦トンネルー第三小留浦橋梁ー 第三小留浦トンネルー 第四小留浦橋梁ー 第四小留浦トンネル
ー 第五小留浦橋梁ー 第五小留浦トンネルー 第一境橋梁 ー 桧村トンネルー 第一境トンネルー 第二境橋梁ー 第二境トンネルー 第三境橋梁
ー 第三境トンネルー 第四境橋梁ー白髭トンネルー 橋詰橋梁ー 栃寄橋梁ー 白髭橋梁ー 梅久保トンネルー 梅久保橋梁ー 惣獄橋梁
ー 第一板小屋トンネルー 第二板小屋トンネルー清水疎水トンネルー 清水トンネルー 第一桃ヶ沢トンネルー 桃ヶ沢橋梁ー 第二桃ヶ沢トンネル
ー 中山トンネルー第一水根橋梁ー 水根トンネルー第二水根橋梁ー 水根駅 。

線路延長ー6.7km・最急勾配ー30パーミル・1日最大輸送量:1,500T・橋梁ー23箇所、延長1,121m・トンネルー23箇所、延長2,285m。
(難工事であったであろう)

  

「完成までに長い道のり」
小河内ダムの築造計画は古く大正15年に遡り、当時の東京市会が将来の大東京実現を予想して水道事業上の百年の長計を樹てるべきだとしたことから、調査が開始され、昭和7年、東京市会で小河内ダム築造計画が決定された。
その後、多摩川下流、神奈川県側の二ヶ領用水との間で水利権を巡る調整に時間がかかったこともあって、総合起工式が行われたのは昭和13年。
用地買収が進んだが、戦争中に一時中断、昭和23年再開。
工事は、昭和13年に付け替え道路工事が始まり、順次進み、しかしこれも戦争で18年に中断、23年に再開。
28年に本体の定礎式があり、竣工式は32年11月。
完成に長期を要したが、今都民の水瓶として大きな役割を果たし、大正にはじまる計画の先見性は、現在賞賛されると云う。

  

水を育む豊かな森を
森林を適切に管理して、水道の水源を守る。

    

「湖低に沈んだ旧小河内村伝統文化・鹿島踊り」
小河内の鹿島踊りは、旧小河内村で伝わっていた民族芸能。ダム建設により、移転をした村の住民たちが、散り散りになった人々のつながりを
踊りで残したいと、昭和45年に踊りの保存会を設立。現在も大切に受け継がれていると云う。
美しい着物と豪華な装飾品を身につけた女装姿の青年たちが、風雅に舞う小河内独特の踊り、昭和55年に、国の重要無形文化財に指定。



「小河内神社」は、湖にある小さな神社で、湖に飛び出した半島のような場所にある。
四方を湖に取り囲まれて浮かんでいるよう。
神社は小河内ダムが建設された時に水没した旧小河内村から移された小河内地区の総鎮守で、今は水の護り神として祀られている。

鹿島踊りー原の獅子舞・坂本の獅子舞・川野の獅子舞・峰の獅子舞は9月



次回から多摩川を下って行きます。鳩ノ巣方面へ。

福生市・熊川ー多摩川散歩(11)

2016-01-21 | syu散歩
東京都福生市は、都中西部、多摩川の北東側に位置し、3段川岸段丘からなる市、フサは麻のことで麻の原で福生と云う由来など諸説あり。
元は、神奈川県多摩市福生村で、1893年の明治東京府に編入、昭和15年町が成立している。
奥多摩湖埋め立ての代替地に選ばれた所でもある。1653年玉川上水が開削されている。
台地は、養蚕畑地・水田農村で、多摩川では、筏流し漁労が行われている。
昭和15年設置「陸軍航空審査部と整備学校」大戦後「米軍横田基地」で基地の町に。
鉄道は、JR青梅線・牛浜・福生駅ー八高線東福生駅・五日市熊川駅で国道16号線が。

            福生市熊川の古式の門構えの家


多摩川合流地点(東京都福生市・あきる野市・八王子市・昭島市境)ー 武蔵五日市駅(東京都あきる野市)
秋川、この美しい名前を持つ川は多摩川最大の支流、多摩川に合流するが、支流と言っても37.6kmもある。
位置的には、北に多摩川、南に相模川と2つの大きな川に上下を挟まれる。
拝島駅ー多摩川と秋川の合流地点。

「多摩川緑地福生南公園」
多摩川沿いにある河川敷公園。
一日中遊べる公園。 野球場、テニスコート、アスレチック遊具、ジョギングコース など。

                 福生南公園と睦橋。


「多摩川暴れ川」
堤防が、洪水から暮らしを守るために、昔の人々が努力して造り上げ続けてきた多摩川。大雨のたびに氾らんを繰り返し、あばれ川・多摩川、
堤防の決壊で、先住民が立ち上がって現在に、今の多摩川は、あばれ川のおもかげも薄れ、めったなことでは大きな洪水は起こりません。
それは、現在の私達に残してくれた遺産です。明治40年の大水害で水びたしになった川崎町・明治43年の大水害で破損した六郷大橋、 道路となった
有吉堤のなごり・昭和49年の狛江水害で濁流に飲み込まれる家 、、、。記録をたどると。
1550年ー 大洪水、伊豆美神神社流失・1590年ー 大洪水で多摩川の流路変わる・1600年ー 六郷大橋、架橋。以後洪水のため度々流失・再架橋
1627年ー 羽田、川崎水害 ・1644年ー 大洪水で六郷水害 ・1650年ー 羽田・野毛周辺水害 ・1688年ー 大洪水で六郷大橋流失、架橋をやめて渡船に。
1694年ー 川崎水害・1699年ー 川崎水害・1723年ー 六郷水害(以後、度々水害起こる)・1781年ー 享保以来の大洪水・1790年ー 矢口・菅村堤防決壊
1803年ー 川崎堤決壊・1816年ー 川崎、八王子など水害・1868年ー 六郷用水取入口壊滅・1875年の明治8年、 洪水で六郷橋、弁天橋流失、堤防決壊
1878年ー 数ヶ村で堤防決壊・25ヶ村で水害、横浜~東京間鉄道不通 ・1889年ー 各地で堤防決壊 ・1894年ー 各地で堤防決壊 日清戦争開始
1896年ー 河川法公布・1898年ー 布田で堤防決壊、二ヶ領用水締切元付近決壊。高津村、久地村で堤防決壊、 二ヶ領用水宿河原取入口大破損
1904年ー 日露戦争開始 ・1907年ー 大洪水、各地で堤防決壊、横浜~東京間鉄道不通  被災市町村数は50、川崎町は全町浸水
1910年ー 下流部、未曾有の大水害。被災市町村数55 ・1911年ー 洪水で六郷大橋流失
1914年の大正3年、 早期築堤を求めたアミガサ事件 ・1916年ー 代用堤防の有吉堤完成・1917年ー 洪水。高潮と重なり被害甚大
1918年ー 多摩川下流改修工事開始(1934年に完成)
1945年昭和20年ー 太平洋戦争終結 ・1974年ー 狛江水害・1997年ー 河川法改正した。

                熊川付近の多摩川と川岸


秋川・平井川・多摩川・湧水の名水、その周囲の田園、夏のとうもろこし、秋のお祭り、、、。

                   分水路


名水地域には「美味い酒がある」。
清酒「多摩自慢」と東京地ビール「多摩の恵」の製造元「石川酒造」
多摩の恵を醸造する石川酒造は、1863年(文久3年)創業の長い歴史を持つ老舗の造り酒屋で、
地元の水と空気から生まれた銘酒「多満自慢」(たまじまん)の蔵元です。
1880年(明治13年)にここ熊川の地に酒蔵を建造以来、造り酒屋としての歴史を積み上げて来て、
1997年に、地ビール「多摩の恵」の製造を開始しました。

                 石川酒造工場ー1880年・明治13年
    

石川酒造の入口を入ると正面に、本蔵が。
創建から100年以上が経つ酒蔵、近代酒造工場と昔ながらの蔵と日本建築のすばらしさを調和。
石川酒造を代表する清酒「多満自慢」の「たま」の字が、地元「多摩」ではなく「多満」としているのは、広くみなさんに満足してもらえるお酒に、、。
という思いが込められて「多くの満足」から「多満」となったと云う。
石川酒造では、酒蔵の見学も、事前予約すればよいと云う。
酒蔵をはじめビールの醸造所や100年以上前に使用したと言るビールの醸造釜など見どころ多い。

                石川酒造工場内・本蔵(1890年玉川上水ー熊川分水)
    

「日本酒のきき酒」いろいろの酒を口にしましょう。
1)瓶・容器に張られたラベルをよく読みましょう。
2)人に聞いてよい物を知って下さい。
3)先ずは欠点から、減点。
4)きき酒の言葉を知りましょう。
5)自分のものさしを作りましょう。
6)長所・欠点を書き留めておきましょう。
7)酒の温度はs、20℃位(ビールは10℃)
8)きき酒の直後に甘辛・刺激の強い物は口にしないでおきましょう。
9)先入観・話をしながらのきき酒は避けましょう。
10)着色グラスなどを使いましょう。(色が濃い・濃厚・番茶色・黄色・赤・・・薄い・水のよう・雑味。酒の特徴があり、気を付ける事)

                     熊川分水
  

「香」
1)新酒ばな・こうじばなー生・活性・おり酒を好む人もいます。
2)吟醸香ー高度に精白(精米歩合50%以下)作り手の技術を要求されます。
3)老ね香・熟し香ー古酒で特有の香り・ひねすぎ・熟し過ぎ。
4)びん香ーガラスの匂い。逆で2~3年貯蔵し適度の老ね香を付ける酒もある。
5)つわり香ーチーズ・バターなどの香りは、発酵不完全の場合な。
6)火落香ー貯蔵中・びん詰品に細菌が繁殖して生じる香
その他ー酸臭・木香・炭香・油・ゴム・袋・濾過・・・・・。

   仕込み水(地下約150m)                雑蔵・資料館
    

「味」
濃い・薄い・雑味・ごくみ・ガラが悪い・きたない・後味・後味が悪い・ハリがある・甘みが残る・苦みが残る
若い・未熟・荒い・過熟・甘い・すっぱい・しぶい・苦い・ぼけ
香と味の調和・香りと味の不調和・調和取れている・香味良好・・・・・。

お酒・かまぼこ・スープ・清涼飲料、、・口にするもの全て、品質の判定に化学分析を導入研究に時間費用を費しますが、如何しても人間の
「官能」に優る方法は発見されておりませんし永久にないでしょう。
我が国では、大昔から先人達が残してくれました。また、これは「日本の文化」です。

            麦酒釜              麦酒工房
    

「順序」
1)色沢とサエ(透明度)
2)鉄分・過熱・貯蔵・精米歩合・アミノ酸・・・・不調和は、色が濃くなる。
3)青ザエした澄明な酒ー育ちが良い、貯蔵管理が上手い(薄くてうま味が無いのも)
4)サエが悪いーなんとなくスカッとしていない・照りが悪い(精製濾過が不十分な場合・瓶底にオリが生じる場合が)
5)白く濁っている酒は、火落ち(酸敗)の可能性が
味は、口に含んで、多からず少なからずで、試験官は、5mL程度と云う。
人間の舌の部位と味覚は、舌先から甘味・辛味・奥に行って酸味・奥の中央で苦味。
後口さっぱりがー普通は口から吐き出すのですが、喉越しを見るのには飲み込む場合も。

           工場内                古井戸(酒は水が命)
    

「熊川神社」
神社は、福生市熊川にある。創建年代は不詳ながら、礼拝明神社と号し、生石命を神体としていたという歴史あり。
明治3年「熊川神社」と改めている。祭神ー大国主命 ー境内社・琴平神社、稲荷神社、山神社、天神社、八雲神社

祭日ー例祭日9月1日 、社伝によると、夜ごと多摩川に雷光を放ち、のち一老翁が現われ、この付近に守護神ありといって姿を消し、
そこに一個の御神像をみつけ、これを生石命と尊称し、大国主命を祭神として一社を創設したという。
日本古来の漂着神、寄り神信仰の姿を伝えている。
もと礼拝大明神と称していた。都神社名鑑より

                    熊川神社 
    

「奥多摩街道」
奥多摩を走る道筋と勘違いされるが、立川の 日野橋交差点で甲州街道から分岐し、昭島、福生、羽村を経て青梅に至る道筋。
大正 時代の終わり頃からそう呼ばれるようになったと云う。

JR五日市線、拝島駅ー「熊川」ー東秋留ー秋川ー武蔵引田ー武蔵増戸ー武蔵五日市駅

拝島の次の駅であるが無人駅
    

JR青梅線、「牛浜」ー福生ー羽村ー小作ー河辺ー東青梅ー青梅ー奥多摩方面へ

              福生・牛浜駅と米軍横田基地


             国道16号線沿いに米軍横田基地が
   

横田基地の前身は、旧日本陸軍によって建設された航空審査部と航空整備学校などが所在した陸軍多摩飛行場。
1940年、立川基地の陸軍航空技術研究所から独立した飛行実験部が移転し、1942年、飛行実験部は航空審査部となり、全長1,200mの滑走路。
米軍は、1944年後半に始まった航空機による日本本土偵察によって飛行場と1,200mの滑走路の存在を初めて知り、発見の後、アメリカ軍は
その飛行場を「横田」と呼ぶようになったと云う。

   JR牛浜駅前飲食街寿司・天ぷらの「若みや」で。鰻は、目前で調理ー料金は良心的


  

  

前回の滝山城に続き、掲載済みの「八王子城」を。
1575年頃から陸奥守を称し、北条支城のみならず、小田原城の総奉行として働いている。
1576年から「陸奥守」を称するようになる。これは鎌倉幕府において、相模守、武蔵守に継ぐ重要な地位が陸奥守であったことを意識した名乗りと考えられる。1578年、上杉氏の家督争い御館の乱が起こると実弟・上杉景虎の援軍要請に応じた兄・北条氏政の名代として、氏邦と共に越後に出陣。
北条勢は三国峠を越えて坂戸城を指呼の間に望む樺沢城を奪取し、坂戸城攻略に着手した。
しかし上杉景勝方はよく守り、また冬が近づいてきたこともあって、北条勢は樺沢城に氏邦・北条高広らを置き、北条景広を遊軍として残置しての撤退を強いられた。景虎は翌年滅亡という悲運を辿った。
織田政権期には織田信長との同盟強化を望んだが、家中の反対意見と信長の横死によって充分に機能しなかった。
1582年6月、の本能寺の変で信長が死去すると、織田領の混乱を見て甥の北条氏直らと共に織田領の上野に侵攻し、信長の家臣滝川一益を破って
北条領を拡大した(神流川の戦い)。
信長死後を継いだ豊臣政権からは離れ、甲斐や信濃に侵攻した(天正壬午の乱)。
1590年、、豊臣秀吉の小田原征伐の際には徹底抗戦を主張し、居城である八王子城には重臣を置いて守らせ、自身は小田原城に籠もっているが、八王子城は上杉景勝、前田利家に攻略され、小田原開城後、秀吉から主戦派と見なされ、7月11日に兄・氏政と共に切腹を命じられ、死去した。享年51。

辞世の句は、
「吹くと吹く 風な恨みそ 花の春 もみじの残る 秋あればこそ」
「天地(あまつち)の 清き中より 生まれきて もとのすみかに 帰るべらなり」

没後、家臣中山家範の子孫である中山信治が供養塔を建造。(元八王子町3丁目に)八王子市滝山町にある少林寺は、氏照ゆかりの寺として伝わっている
1546年北条氏照が大石定久氏の養子に


北条三代氏康の子ー氏政(四代目)・八王子城主氏照・鉢形城主氏邦・韮崎城主氏規・上杉謙信養子に景虎、、、、、。

「鉢形城主北条氏邦」は、
1590年、豊臣秀吉の小田原征伐の際には小田原城に籠もることに反対して大規模な野戦を主張し、居城の「鉢形城」に籠もって抗戦する。
しかし前田利家等の率いる大軍に攻められて降伏する。
戦後は利家の助命嘆願で剃髪することで一命を許され、能登津向(今の七尾)に知行1000石を得た。
慶長2年の1597年、加賀金沢にて57歳で病没したいる。
金沢で荼毘に付された後に、遺骸は武蔵正龍寺に移された。その時の大法要に集まった参列者はひと山を越える長さに及んだといわれ、かつての威勢と人望を偲ばせたと云う。
妻の大福御前は鉢形に残ったものの1593年、に病死したとも、自害したとも言われる。

1569年氏康、上杉謙信と和議ー氏照。大石から北条姓に復す


3代目北条氏康の長男が、4代目氏政、小田原城主
下総国府台で里見・太田連合軍を破っている。豊臣秀吉の上洛要請答えず征伐された。
父氏康は、氏政を「汁加減も判らぬ様では、北条家も終わりだ」山積の麦を見て「すぐ、麦飯を作れ、、」家臣から「ムギは、こき・こなし・ほし・
つきて飯にするもの、すぐには食べられない、、、」世間知らずを笑われている。氏政の首は、京一条戻橋にさらされたと云う。

1574年氏政(兄)・氏照が「関宿城(掲載していなす)」攻略
    

北条氏照は当初、大石氏の滝山城に拠っていたが、小田原攻撃に向かう甲斐国(現在の山梨県)・武田信玄軍に攻められ、その際に滝山城の防衛の限界を感じ、織田信長の築城した安土城を参考に石垣で固めた山城構築を行い、本拠を滝山城から移した。

1576年北条氏照「陸奥守」を名乗る。
    

滝山城は広大かつ多くの角馬出や内枡形を備えた近世的な平山城であったが、山城である八王子城に移ったことで氏照は、時代に逆行したとも言われている。しかし、八王子城は一般的な山城のような尾根と堀切を利用した縦深防御に加えて、侵入してくる敵に対しいたる所から側射をかける仕組みになっている。織豊系城郭と比較するとかなり独特ではあるが、より近世的な戦術を志向しているとも云う。

1582年氏照甲斐に出兵ー北条軍と徳川軍甲斐で対陣「若神子の戦い」
    

「八王子城合戦」
小田原征伐の一環として1590年の天正18年、7月24日(旧暦6月23日)、八王子城は、
天下統一を進める豊臣秀吉の軍勢に加わった上杉景勝・前田利家・真田昌幸らの部隊1万5千人に攻められた。
当時、城主の氏照以下家臣は小田原本城に駆けつけており、八王子城内には、城代の横地監物吉信、家臣の狩野主善一庵、中山勘解由家範、近藤出羽守綱秀らわずかの将兵の他、領内から動員した農民・婦女子を主とする領民を加えた約3000人が立て籠ったに過ぎなかったと云う。

諸説では、1582年頃八王子城築城?
  

豊臣側は前夜のうち霧をぬって主力が東正面の大手口(元八王子町)・北側の絡め手(下恩方町)の2方向より侵攻し、力攻めにより早朝には要害地区まで守備隊を追いやった。
その後は激戦となり1000人以上の死傷者を出し、一時攻撃の足が止まった。その後、絡め手側別働隊の奇襲が成功し、その日のうちに城を落とした。
氏照正室・比佐を初めとする城内の婦女子は自刃、あるいは御主殿の滝に身を投げ、滝は三日三晩、血に染まったと言い伝えられている。
城代の横地監物は落城前に檜原村に脱出したが、小河内村付近にて切腹している。
八王子城攻防戦を含む、この小田原征伐において北条氏は敗北し、城主の北条氏照は当主・北条氏政とともに切腹した。
その後新領主となった徳川家康によって八王子城は廃城となった。

小田原城・韮山城の普請-1585年
    

発掘調査の結果、礎石を沢山つかった建物の跡や水路の跡、多数の遺物が出土。
礎石は土砂で被われ表面は芝生となっているが、今でも当時のまま、庭園部にある石の1つのみは戦国時代当時のもの。
虎口・石垣や石畳は当時のものをそのまま利用し、できるだけ忠実に復元されていると云う。
御主殿入口の冠木門は、当時の門をイメージし復元。
曳橋は、古道から御主殿へわたるために城山川に架けられた橋で、現在の橋は、当時の道筋を再現するために現在の建築技術で当時の雰囲気を考えて架けられたもので、実際の構造は、敵の侵入時に板を外したり、橋桁ごとスライドする大がかりなものであったと云う。
橋台の西側の石垣は、林道整備のため削られ移築。

1587年豊臣秀吉の侵攻に備える
    

「御主殿の滝」
落城時に御主殿にいた北条方の婦女子や武将らが滝の上流で自刃し、次々と身を投じたと言われている。
戦によって城山川の水が三日三晩血に染まり、麓の村では、この城山川の水で米を炊けば赤く米が染まるほどであったと伝えられる。
先祖供養にあずきの汁で米を炊いた「あかまんま・赤飯」を炊いて供養をする風習が現在でも続いていると云う。
赤飯供養はそれほど珍しいものではなく、北条氏の拠点である神奈川県の石上神社例祭では供物に赤飯を用いたり、他にも静岡県の蓮華寺など赤飯供養の風習は日本各地で続いている。
御主殿の滝の林道側には、高さ3m、幅10m程の小山が残っているが、元々は御主殿方向に繋がった土塁、現在は林道整備により半分以上が削られている。

1590年小田原開城・八王子城落城。
    

5男氏規(韮崎城主)は、徳川家康の竹馬の友・秀吉は、兄の氏政・氏照の介錯を氏規に命じている。

    

「朝遊山ー宗関寺」 曹洞宗の寺。
本尊 釋迦如来、 梵鐘(市指定有形文化財)、延喜年間開創
天慶二年朱雀天皇から領地を賜り勅願所として牛頭山神護寺とした。
北條氏照が八王子城を築き、永禄7年牛頭山を復興。天正18年落城翌年再興し朝遊山宗関寺に。現在地に明治25五年に移築している。

寺より西500m先に北條氏照墓地
    
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 。御主殿の滝
落城時に御主殿にいた北条方の婦女子や武将らが滝の上流で自刃し、次々と身を投じたと言われている。また戦によって城山川の水が三日三晩血に染まり、麓の村では、この城山川の水で米を炊けば赤く米が染まるほどであったと伝えられる。これが起因して先祖供養にあずきの汁で米を炊いた「あかまんま」(即ち赤飯)を炊いて供養をする風習が現在でも続いている[1]。尚、赤飯供養はそれほど珍しいものではなく、北条氏の拠点である神奈川県の石上神社例祭では供物に赤飯を用いたり、他にも静岡県の蓮華寺など赤飯供養の風習は日本各地で続いている。御主殿の滝の林道側には、高さ3m、幅10m程の小山が残っているが、元々は御主殿方向に繋がった土塁であった。現在は林道整備により半分以上が削られている。この土塁をダムにして

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